はてなキーワード: スケールメリットとは
まず、1000万円/年の家事がどういうものかを一緒に考えなよ。
1日あたり27,000円に見合う仕事だ。それなりの旅館で生活しているのと同程度のサービスだと思えばいい。
チリ一つ無い部屋と豪勢な食事だ(もっとも食事に関しては旅館のスケールメリットが大きすぎるが)。
で、それと比較して奥さんの家事は年額いくらに相当するかを考える。
おそらく、500万円いけば良いほうだろうが、仮に500万円とする。
その家事サービスは奥さんも恩恵を受けているのだから、半分は奥さんが負担するべき。
増田は奥さんに 250万円 支払う。奥さんも自分自身に250万円払う。
その250万円の中から、生活費や貯蓄も折半する(奥さんにも家事の収入があるのだから当然でしょう)。
経済面で考えるとそうかも知れないけど、家にいる時間が長い人のストレスの大きさを基準に考えるべき。とくに食事に関して好みや食べる時間が違うとスケールメリットが生まれない。
うちの祖母はあまり料理が得意じゃなかったから母任せだったけど、同じ家に主婦が二人いるとろくなことがない。二世帯住宅で台所が別ならともかく、二人で張り合って家族の食事を作ろうとしたら家庭内バトルが頻発すると思う。
元増田が男性で、「嫁は自分の両親と同居して当然」みたいな考えを持っているなら妻の気持ちを考えない最低男だと思う。たとえ婚約者と会わせてみて、うまくやって行けそうでも、完全同居じゃなくてスープの冷めない距離に住むぐらいが無難だと思う。
90年代前半に、日本の会社の主力事業が軒並み苦戦に陥った。そこで、会社の主力事業を畳んで新しい主力商品を作る必要があった。
90年代後半になると、「選択と集中」という言葉が流行しだす。どこの会社も、役人も、主力も含めた全ての部署から少しずつお金と人を削り、新しい事業にドカンと投資した。これが選択と集中だった。
しかし選択と集中はうまく行っていないようにみえる。その理由を私なりに考えてみた。
選択と集中のイメージは、痛みを伴って不採算部門を大胆に潰し、今後成長の可能性が高い、新たな事業に集中的に投資する、というものだ。
そのため、上司も部下も苦しいけれど、ここで頑張ればきっと将来はもっと儲かるはずだ、というイメージを持たれている。
しかし実際は全く違う。
実際に行われた「選択と集中」では、「選択されていない」部署からリソースを集め、「選択された」部署につぎ込む。
「選択されていない部署」の余裕を剥ぎ、みんなが少しずつ今より無理をすること、
そして新しい部署を作ってリーダーを増やすことが特徴のシステムだった。
これはみんなが上司になることを目指す日本型経営にとても合っていた。
「選択と集中」のポイントは、儲からない仕事をたたむ必要が無いことだ。
会社の調子が悪いからみんなが苦労する。そして新しい部署を立ち上げた人は功績を得る。
誰も責任を取る必要がない。しかも誰かが新しい功労者になることができる。
それが「選択と集中」だった。
問題は「畳むべき不採算事業」に責めを負わせない以上、「畳むべき事業」「芽が出始めた事業」「好調な事業」の全てからリソースを少しずつ取り上げることだ。
すると「畳むべき事業」だけでなく、「芽が出始めた事業」「好調な事業」にも余裕がなくなる。好調な事業が伸びなくなる。
これが今の日本社会だ。
みんなが遅くまで働いてる。上司も部下の面倒を見ながら細かい書類を作成し、会議も出るわ営業もするわ、もうなんでもやる。でもそんなんで本当に大切な仕事に集中できるのだろうか。
エースと呼ばれる人たちが、会社で言えばウェークマンやiPhone級、研究者で言えばノーベル賞級の仕事に集中できないのは「選択と集中」という危険なイデオロギーが原因なのだ。
またスケールメリットだけで勝負するために集中投資してもダメだ。
選択と集中は、みんなからちょっとずつ集めてドカン、というやり方だ。これはダメなんだ。
それではどうすればよかったのだろう。
事業を畳む必要はなかったのだろうか。もちろんそうではない。逆だ。儲からない事業を潰すんだ。万難を排して潰すんだ。それができないなら改革なんて何の意味もない。
そして、その空いたリソースを分散するんだ。儲けゼロの新事業に集中投資したらダメだ。
だから選択と集中に代わる正しいやり方は、バサッと切ってパッパッ、だ。
選択と集中に成功したすべての企業は、何らかの事業をバサッと切っている。そして失敗した会社は、集中した事業はわかりやすいものの、切り捨てた事業がわからない。
日本企業の幾つかは、「これから投資する部門」を「選択」した。そしてそれは何の意味もなかった。
別の企業の幾つかは(日本企業も含まれる)、「切り捨てる部門」を「選択」した。それはとても意味があった。
こうして考えると、「選択と集中」が経営者の甘えであったことがよく分かる。
つまり、不採算部門をバサッと切り捨てることこそが重要で、何らかの事業に集中することは、じつはどうでも良かった。
なのに、不採算部門を切り捨てることが出来ない経営者が、リソースを削ぐため「こっちに集中するから、少しだけ我慢して」と言った。
数十食なら出来栄えの確認はかんたんだし料理人一人とその家族でできる分量だから徹底管理できそうだけど
数百用意しろとなったら労働者10人ぐらい要るだろうから信頼関係ある身内だけでは回せず他人の雇用で逆にコストが増える気がする
生鮮食品は安定して一定量を入手が難しそうだしかと言ってその都度に客に材料を用意されると料理係が慣れ親しんだ調理法が通じない
生産者との連携を蜜にしたりその学校に特化した給食工場をそのために立てても10年後も注文がきてる保証はない
毎日1000食とか行くとライバルが居なくなって独占できそうだけどそういう軍事基地みたいな頭数要る場所はコネで何十年と同じ会社なんだろう
当たり前の事でも実際にやってみないとわからないとはよく言ったものだ。
百聞より一見、プティングは食ってみりゃいい、そういうことだ。
とにかく田舎は酷い。
まとめ終わり。
以下は駄文。
田舎と行ってもサマーウォーズや八つ墓村レベルのド田舎ではない。
関東の中にだって人口密度だけを考えればここよりもっと酷い田舎はあるのだが、それでも「東京から離れていて、人口密度がだいぶ低くて、ベッドタウンや都会と比べれば緑が恐ろしく多い」場所に行くことになった。
「行き先が田舎である」という一点を除けば条件は別に悪くなかった。
いきなり田舎に飛ばされるという時点でこんな会社信用できねえだろ辞めちまえ、そう心の中で警告を出す自分も居た。
今思えばソイツの言葉を受け入れるのも有りだったのかも知れない。
だけど、住んでいる場所が田舎で、田舎という環境がクソであるという事以外は本当に特に悪いといえる程の待遇ではないのだ。
世の中には都会にいると物価が高いから都会手当(?)を出すという会社があるらしいが、むしろ田舎の方が生活苦に耐えるための田舎手当を暮れてもいいように思う。
自分も実際に田舎に来るまでは田舎の物価は安いと思ってたけどそうでもない。
企業努力を必要とするほどライバルがいないとか、単純に人口の少なさでスケールメリットの逆版が起きまくっているとか、そういった諸々の積み重ねなのか物価はむしろ高い。
アマゾンで買ってしまう方が安いものだらけなので、急ぎでなければアマゾンに頼ってしまう。
人手不足なのか宅急便の人がいつも同じ人で、時折「またおまえか」という目で見られるからなるたけ愛想はよくしている。
都会にいた頃から郵便屋には愛想が良いほうだったが、こちらではあるときから全力のセールススマイルをプレゼントするようになった。
実際、本当に感謝している。
田舎の物価は別に安くないというより、都会が都会のくせに物が安いという現象が起きているのが今の時代なのだろうか。
そう自分が問われたならばこう言いたい。
ではどんなデメリットがあるか。
住みにくさだ。
生活するのに車が必須だとか、ゴミの分別がやたら細かい上にゴミを出せる頻度が少ないとか、そういった物の積み重ねだ。
都会の人間が想像しうる田舎の駄目な所はだいたい田舎に全部ある。
とはいえ重さは若干軽い。
本当にもっと酷い田舎に行けば、想像通りの絶望が待っているのかも知れない。
それを要求されたらいよいよ断ろうと思う。
むしろ、何かチャンスがあったら都会に戻してくれと頼みたいぐらいだ。
そもそも田舎が田舎になってしまったのは、だいたいが気候のせいだと思う。
平地が多いほうが開発しやすいとか、交通の便とかそういう理由もあるのだろうが、それでも気候がクソであるかどうかはかなり重要なファクターとなっているはずだ。
都会に人が集まるのは人が沢山いるからだ。
それは正しい。
たとえば今は夏だが、自分は週に3回は思う「なんだこの夏は、都会に帰りたい」、と。
関東はヒートアイランド現象によって嫌な暑苦しさがあると言うが、あんなのただ物凄く暑いだけだ。
都会の蒸し暑さの3倍ぐらい蒸し蒸しする。
言ってしまえば、都会から見れば田舎は蒸し蒸し蒸し暑いであり、田舎から見れば都会は蒸し暑い暑いとなる感じだ。
この蒸し暑さは辛い。
都会では自分の部屋で過ごす分なら服を極限まで脱いでしまえば扇風機だけで生き残れる。
だが田舎は強烈な蒸し暑さが纏わりつくので、半裸に扇風機では不快感によって参ってしまう。
これは実際に住むまで理解できなかった。
肌感覚という言葉があるが、まさに肌によってその感覚を理解した。
田舎も一枚岩ではないので田舎によっては違うのだろうが、自分の住んでる田舎はそういう田舎だった。
そして不快感は蒸し暑さだけではない。
エアコンを使っていてもどこからか湧き出した湿気によってカビやダニが暴れまわる。
それらが生み出す毒が時折喉を焼く。
空気清浄機が是非とも欲しくなる。
車の排ガスが吹き荒れる都会は空気清浄機が必須だと言う人もいるだろうが、それならば、湿気によって繁殖した小さな生物が生み出すハウスダストが飛び交う田舎でも空気清浄機はだ。
身体を労る気がないなら別に無くても暮らせるけれど有ったほうが絶対良い。
田舎で湿気と戦う方法を先祖代々受け継いできたプロ田舎者なら不要かも知れない。
だが、都会から田舎に来たアマチュアの田舎暮らしならば持っておいて損はないだろう。
もしも何かの間違いで田舎に来て「湿気に気をつけろ」と聞いたら、エアコンと空気清浄機を用意しよう。
一度辛みを味わってから文明の利器で逆転するほうが楽しいと考えるならば縛りプレイも有りだけど、そういうマゾヒズムや好奇心がないならさっさと買ってしまうべきだ。
田舎は辛い。
都会に戻りたい。
東京は忙しない、ベッドタウンは味気ない、そうは言うが、それでも田舎よりはマシだと思う。
心の目線を少し逸らせば逃れられるような辛さだらけだ。
乗り越えるしかない。
みんな当たり前のようにするんだけど、
それっておかしいと思うんだよね。
今は絶滅危惧種でしょ。
寄り添って群れを作っていたわけだし、
お金が無い人たちは寄り添った方が楽になると思う。
(想像すれば解ると思うけど高収入の独身キモいおっさんも、お金目当てで来るような変わった女性以外は捕まえられ無い)
パートナーを見つけられ無い人は、自分の力で努力するしかない。
社会が自分にパートナーあてがってくれる時代はずっと前に終わったよ。
<補足>
周りのおっさんやおばさん見てても、
なんでも生まれ持った顔のせいにして
「ただしイケメンに限る」みたいな言説自体が
大変にキモいんだと思うよ。
でも、多くの人にとっては、二人で暮らす楽しさはあると思う。
子供を持つ、持たない抜きにして。
すごく広まったから、意識的に家事をしようとする男性も増えてるみたい。
無計画に何人も産んで育てられず虐待しましたってのは駄目だけど、
夫婦で前向きに取り組めばちゃんと育てられるよ。
与党への支持・不支持といった政治的背景にかかわらず、野党の主張に嫌悪感を覚える方は多いのではないでしょうか? 私はこの嫌悪感の正体を野党の振る舞いが、普通の社会人が身に着けているべき、多国籍文化に対応した振る舞いとなっていないことだと分析しました。 NGとされるポイントとして以下の様な特徴があります。
これらの特徴を一般企業の新人教育にそって深掘りしていこうと思います。
多くの企業では国際的な取引、国外を含めたマーケットを対象にビジネスを展開しています。 スケールメリットの問題で、国内のみのビジネス展開ではコスト面で国際的な企業と競争出来ないことが主な理由です 必然的に、外国籍スタッフ・外国籍の取引先と取引する機会が増え 多国籍チームの運営、グローバル・ビジネスに対応するため、新人研修にハラスメント防止研修、ファシリテーション研修が取り入れられています。
「Aさんの発言だから無視する、Bさんの発言こそ全てだ!」 単一国籍、民族の間では問題として表出しにくいですが、多国籍チームでこんな振る舞いをすればAさんの何らかの特徴に対する差別と捉えられかねません。 発言は常に「誰が発言したか?」ではなく「何を発言したか?」で平等に評価しなければいけないのです、これは発言に限らず行動も同じです。 コレは人格否定というNG行為ですが、野党のある振る舞いはこの人格否定のパターンそのものです。
そもそも何故、「安倍政治を許さない」なのかというと民進党の政策と自民党の政策には実はあまり差がありません。 民進党が実行する政策は同じ政策でもOK、自民党が実行すれば同じ政策でもNG、これを正当化するスローガンが「安倍政治を許さない」なのです。 わかりやすく人格否定で、ステレオタイプ的な差別的行動ですね。
キチンと各党の主張、公約を見た人は気がついたと思いますが、民進党は改憲することを主張しています。 自民党の改憲に反対なのは草案の内容が原因のようで、民進党は国民と議論を重ねて草案を作成するらしいです。 支持率的にどちらの草案が国民の意見を反映しているといえるのか?は明らかですね。 共産党については彼らの目標、共産主義社会の実現のために改憲が必要です、以上
ざっくり言うと人格否定の人格を国籍・人種のくくりにしたものが、人種差別です。 どうも野党の方々は特定の国籍にしか興味が無いようですが、一般企業には東アジア以外にもインドや南米、欧米各国のスタッフが多く参加しています。 同等に取り扱わなければ、うまくいくはずもありません。
正確には野党の振る舞いではなく、野党が支持する活動ですが、野党の方々はどうも米軍基地を追い出す活動に熱心です。 時に道路にブロックを積んで、行動の自由を抑制したり、柵にガラスを巻きつけて取り除く人に対するトラップ型の傷害に及んでいます。 人種差別が傷害という犯罪行為にまで至っている、ヘイトクライムですね、ヘイトスピーチより深刻な問題ですので早めに取り締まってほしいものです。
多国籍な環境の企業は同時に多文化であるため、特定文化の「あたりまえ」を基準に出来ません。 多分化チームで意思決定を誰もが納得する形で行うためには、論理的に筋の通った理由、材料を集めたうえで意思決定を行う必要があります。 逆に、ロジカルシンキングを無視した意思決定は、文化の押し付け、その考え方を肯定できない文化への弾圧、人種差別などに繋がることがあります。
キチンと各党の公約、主張を精査すると野党の主張には「アンケート」をベースにした主張が多いことに気がつくと思います。 統計にすることで一見客観的データに見えますが、そもそも主観をベースにしているもので客観的なデータと言いがたいものです。 検証可能なデータでもなく、極端な話支持者のみにアンケートを取ることも、不都合なアンケートを無視することも、設問によって誘導をすることも可能です。 さらに実際問題として、各種客観的経済指標を見る限り景気は良くなっているので「不安」など主観的な項目に視線をずらしているようです。 これは「アベノミクスで景気は良くなると思う」という不安を問う質問はあっても「ここ4年で景気が上向いた」という実感を問う質問がないことに見ることが出来ます
男女参画社会が進んだことで、共働きが増え主婦層もかつてより、社会人教育を充分に受けている。 差別的振る舞いをせず、平等に取り扱い、取り扱われることに慣れた一般社会人にとって、アンチパターンの振る舞いを取る人は、自分が差別の対象でなくても関係を遠ざける対象となる。 活動をすればするほど、支持率が下がる理由はこの辺りにあるのではないだろうか?
道徳、モラル、監視機構、マスコミ、市民感情なんかあるからさ。
たとえば独裁に近いほどに権力が集中した国では、もう不正を隠すこともない。
一方的に権力者の都合がいいようにルールが書き換えられ、文句を言えば射殺とか投獄は普通にある。
先進国でもマフィアから警察が買収されて賄賂を受け取っている事が当たり前になりすぎて今更突っ込みもしない国もある。
件数が増えると、いまさら珍しくもないのでマスコミも市民も興味を持たない。
でも、ほら日本は少なくともそういうの隠すでしょ。
もしバレたら、総理だろうが都知事だろうが、警官だろうがそりゃ公職にいるやつは失職して権力をなくしちゃうのがこの国だよ。
国家元首のころころ変わりすぎるこの国は、それだけ独裁度合いが低いと言える。
おれら(日本の国民)がいまなんだかもやもやと息苦しさを感じるのは、ある種の自意識ギャップなんじゃねーかと思ったんだよ。
思うに俺らは俺らが思うほど、経済的な価値が、無い。例えば、いま、年収700万円もらってる奴は、ホントのところの人材価値は年収500くらいで、400のやつは250とか、そんなものがせいぜいなんじゃないかな。
じゃあ、なんでいま+αで700とかもらえてるその差額は何なのかと言えば、それは、景気とか、為替をはじめとした国際的な需給の関係とかの、ブースト効果だ。要するに補助魔法であって実力じゃない。しかし、その+αが例えば国債発行を原資として政府の借金をもとに発注された公的事業にまでさかのぼるのであれば、まさにブースであって「国民の給与を上げるために上昇」でしかないんじゃないかな。
もちろん、経済のセオリーとして、人材も市場で取引される商材のひとつなので「正しい価格」なんてものがないのはわかってる。買い手と売り手の交渉によって売買価格が、売買の瞬間幻想のように発生するだけだ。しかし、その原理原則通りにやると、グローバリゼーションの中で、日本の労働市場が国際的な労働市場に連結してしまう。いやもう一部はしてるよな。電話オペとか、海外と仕事の取り合いなわけで駆逐されかけなんだし。
まあ、とにかく、「日本人の実力本位で評価した時の経済的な人材価値」と「今日本人が実際にもらってる給与」の間に、ギャップがあると思うんだよ。そのギャップの原資は、日本が世界有数の経済的大国だってあるマネーのスケールメリットであるとか、信用という形で貯金された日本のブランドイメージだとか、一族経営を続けてきた企業の内部留保であるとか、政府の海外資産や国債発行だ。
そしてさらに言及すると「今日本人が実際にもらってる給与」と「日本人がもらいたい額」にもギャップがある。
さらにさらに「日本人が、自分たちが享受出来て当然だと思う生活レベル」と「今手持ちの現金で遅れる生活レベル」にもギャップがある。
おれら(日本の国民)がいまなんだかもやもやと息苦しさを感じるのは、つまり、これらのギャップが原因じゃねえかなあ。
つまりさ、たとえばの話でしたは一例なんだけど
Aさんの場合
国際的に見た時Aさんのやっている労働の価値を円で表した場合:年収250万円相当
Aさんが「俺はこれくらいもらえるべきだ」と内心思ってる金額:500万円欲しい
Aさんが「年収400万円の生活ってこれくらいあって当然だろ」と思ってるライフスタイル:実際には600万円必要
――つまり、こういう状況があってさ、そういう色んな脳内と現実のギャップが「俺は苦しい」っていう感覚に結実してるんじゃねえかなあ。
それは例えば政府ががんばって、Aさんの年収を500万にしたとことで、解決しないし、そも現実としては、Aさんの給与は250万円に向かって落下していくだろう。この落下は、どちらかといえば正常化に近いとすら、言える。
日本人の言う「貧乏だから結婚できない」も、上のような生活感覚を基盤にしてると思うんだよ。「結婚するためにはこういう経済状況じゃないとダメだ」みたいなさ。現実には、そんなことはあり得ない。貧乏人だって結婚してる人はいるし、貧困国だって子供は膿まれてる。それに対して「子供の教育には金がかかるだろ」って反論がまさに上のギャップに根差してて、「日本の格や全体状況を考えれば、子ども全部を大学に行かせるなんてのが、自意識過剰で身の程を越えてる」んじゃないかなと思うんだよ。
この問題は、経済そのものというよりも、文化とか風潮とか、もっと露骨に言っちゃうと、マスコミの維持しようとしている「普通の日本人の生活」みたいな消費社会像にかかわる問題なんじゃないのかなあ。
40にもなって久しぶり(10年ぶり2回目)に彼女が出来たので、クリスマスに少し奮発していいホテルに泊まってきた。
別に滅茶苦茶高いわけでもなく、二人で3万ちょっとぐらいの安いツインの部屋。
それでも専用の足湯コーナーがついていたり、部屋がやたらと凝っていたりして、館内に居るだけで十分楽しめる。
食事はバイキング式。和洋中どれも美味しい。
食べているとカメラマンがやってきて写真を撮らないかと言われてちょっと驚いたが、周りを見ると結構撮ってもらっているようだった。
よく見ているとどうやら中国・台湾・韓国から来たお客さんが多いらしく、この空間自体がある意味一大イベントなのだろう。
私達は流石に恥ずかしいのでパスさせてもらった。
クリスマス専用のカクテルが美味しかったのでおかわり。普段はお酒は飲まないけど、泊まりだし。
彼女はウイスキーを頼んだのだが、案の定私にウイスキー・彼女にカクテルを渡されてちょっとおもしろかった。
結構な歳の差カップル(15歳差)なので、そりゃあ見た目で判断すればこっちにウイスキーを置くよな。うん。
実は温泉に向かう道中のかなり早い段階で、生理になってしまったとやんわり匂わされた。
まあ、こればっかりは仕方がない。むしろ温泉に入れなくてかわいそうだ。
正直に書くと童貞&処女なので肩透かし感はかなりあったけど、大事なところはそれだけじゃないしね。
一人で温泉に入って部屋に戻ると、館内着に着替えためんこい彼女が待っていた。
ホテルでもらった二千円分のクーポンを使い、おみやげ屋で土産を買う。
嵐のように仕事の電話が来て辟易しつつも、一日一杯デートして帰る。
最近カリブのクルーズ船が、ファミリー向けの贅沢なのに安いクルーズを用意しているみたいだけど、たぶんここも同じような路線なのだろう。
料金はほどほど程度に高いが、スケールメリットを活かして価格以上のサービス(に思えるもの)を用意する。
定年リタイア後の夫婦が使うようないかにもな高級路線(一流旅館とか)ではなく、「ちょっと贅沢」ぐらいのこの感覚は全年齢にウケるだろうなあ、と思った。
普段一人旅で「寝られればそれでいい」という感じで宿を決めているので、かなり新鮮な体験だった。
彼女が出来ると、そういう自分では行かない場所とか発想に行き着いてハッとさせられたりするので、良いかも。
デイリーポータルZの林さんがリア充話を読みたいと書いていたのを思い出し、こっちとしても公開する場所がないので増田に投下。