おれら(日本の国民)がいまなんだかもやもやと息苦しさを感じるのは、ある種の自意識ギャップなんじゃねーかと思ったんだよ。
思うに俺らは俺らが思うほど、経済的な価値が、無い。例えば、いま、年収700万円もらってる奴は、ホントのところの人材価値は年収500くらいで、400のやつは250とか、そんなものがせいぜいなんじゃないかな。
じゃあ、なんでいま+αで700とかもらえてるその差額は何なのかと言えば、それは、景気とか、為替をはじめとした国際的な需給の関係とかの、ブースト効果だ。要するに補助魔法であって実力じゃない。しかし、その+αが例えば国債発行を原資として政府の借金をもとに発注された公的事業にまでさかのぼるのであれば、まさにブースであって「国民の給与を上げるために上昇」でしかないんじゃないかな。
もちろん、経済のセオリーとして、人材も市場で取引される商材のひとつなので「正しい価格」なんてものがないのはわかってる。買い手と売り手の交渉によって売買価格が、売買の瞬間幻想のように発生するだけだ。しかし、その原理原則通りにやると、グローバリゼーションの中で、日本の労働市場が国際的な労働市場に連結してしまう。いやもう一部はしてるよな。電話オペとか、海外と仕事の取り合いなわけで駆逐されかけなんだし。
まあ、とにかく、「日本人の実力本位で評価した時の経済的な人材価値」と「今日本人が実際にもらってる給与」の間に、ギャップがあると思うんだよ。そのギャップの原資は、日本が世界有数の経済的大国だってあるマネーのスケールメリットであるとか、信用という形で貯金された日本のブランドイメージだとか、一族経営を続けてきた企業の内部留保であるとか、政府の海外資産や国債発行だ。
そしてさらに言及すると「今日本人が実際にもらってる給与」と「日本人がもらいたい額」にもギャップがある。
さらにさらに「日本人が、自分たちが享受出来て当然だと思う生活レベル」と「今手持ちの現金で遅れる生活レベル」にもギャップがある。
おれら(日本の国民)がいまなんだかもやもやと息苦しさを感じるのは、つまり、これらのギャップが原因じゃねえかなあ。
つまりさ、たとえばの話でしたは一例なんだけど
Aさんの場合
国際的に見た時Aさんのやっている労働の価値を円で表した場合:年収250万円相当
Aさんが「俺はこれくらいもらえるべきだ」と内心思ってる金額:500万円欲しい
Aさんが「年収400万円の生活ってこれくらいあって当然だろ」と思ってるライフスタイル:実際には600万円必要
――つまり、こういう状況があってさ、そういう色んな脳内と現実のギャップが「俺は苦しい」っていう感覚に結実してるんじゃねえかなあ。
それは例えば政府ががんばって、Aさんの年収を500万にしたとことで、解決しないし、そも現実としては、Aさんの給与は250万円に向かって落下していくだろう。この落下は、どちらかといえば正常化に近いとすら、言える。
日本人の言う「貧乏だから結婚できない」も、上のような生活感覚を基盤にしてると思うんだよ。「結婚するためにはこういう経済状況じゃないとダメだ」みたいなさ。現実には、そんなことはあり得ない。貧乏人だって結婚してる人はいるし、貧困国だって子供は膿まれてる。それに対して「子供の教育には金がかかるだろ」って反論がまさに上のギャップに根差してて、「日本の格や全体状況を考えれば、子ども全部を大学に行かせるなんてのが、自意識過剰で身の程を越えてる」んじゃないかなと思うんだよ。
この問題は、経済そのものというよりも、文化とか風潮とか、もっと露骨に言っちゃうと、マスコミの維持しようとしている「普通の日本人の生活」みたいな消費社会像にかかわる問題なんじゃないのかなあ。
考えていることはわからなくもない。 ただ、他の先進国と比較したらわかるけど、一人当たりの賃金は日本は別に高くないよ。 増田の言っていることは日本じゃなく、先進国の人件費と...
ああ、うん、そうです。発展途上国との比較っていうよりも「発展途上国も先進国も含んだ世界平均との比較」ね。 「先進国の中では日本はさほど賃金高くない」っていうのも、先進国...