はてなキーワード: ウエイトとは
(エヴァのネタバレを含むし曖昧な記憶を頼りにしているクソ文章です)
「僕はここにいてもいいの」はTV版、旧劇場版で大きなウエイトを占めていた問いだ。
しかし新劇場版であまり出てこない。というか、出てきた記憶がない。
Qのヴンダーにおいてシンジは「エヴァにだけは乗らんといてください」だし「何もしないで」、だが保護されるという「ただここにいろ」という扱いを受ける。ネルフに行ってからは連れてきたけどとりあえず待機で放置という扱いを経て、カオルに連弾を誘われる。「ここにいて、これをしよう」という提案に対し何か知らんけど超絶スピードでピアノを上達させる。承認を受け花開いてるともいえる。
それで結局なんやかんやでカオル殺してしまう。そこにあるのは行為に対する後悔であり、「何もしなければよかった」だ。その延長には「存在しなければよかった」があるけど、直接的ではない。
んでシン・、第3村でトウジ、ケンスケに「いつまでもここにいていい」と受け入れられる。これまでにないほど優しさを供給され、何もしたくなかったシンジが優しさを返済し始める。「ここにいていい」の究極形である好意を与える綾波(黒)の死を経て、いてもよい場所である第3村から、いても何もしてはならないヴンダーに自らの意志で向かう。
「ここにいてもいいの」という承認欲求から、求められていない場所での自己実現に向かう、ということかと思う。
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メタ的に、観客に突きつけられていた問いとしての「ここにいてもいいの」は、結局この約20年をなんだかんだ生き続けてきた現実が回答になっていると思う。生き続けてきたこの現実を肯定しよう、スゲーな生き延びたぞお前、という話をされたように感じた。
勝手に更に補足。
書体には同じデザイン「ファミリ」という概念(この場合の「游ゴシック体」)があって、同じファミリの中で太さ違いや斜体などのバリエーションがある。
で、コンピュータフォントもそういう設計にしているのだけど、Windowsの多くのソフトは同じファミリの中から「標準」「太字」「斜体」「太字斜体」の4つしか選べない(大昔から引きずっている仕様)。
よって、それ以上のバリエーションを作りたい場合は、ファミリ名自体を「游ゴシック体 Light」「游ゴシック体 Regular」「游ゴシック体 Medium」みたいにして使えるようにするしかない。
のだけど、それだと不便(本来使えるはずの太字ボタンとかの意味が無くなる)なので、一番普通な標準と太字のペアであるRegularとBold(同語反復的だけど)を特別に「「游ゴシック体」というファミリにして、そこだけは太字ボタンで切り替えられるようにしてある。
游ゴシックRegularが普段使いには細いというのは同感だけれど、印刷の本文を組む前提の太さ表記(本来游ゴシックは印刷向け)なので仕方ないかなと思う。
(でもパワポでいつもMediumとBoldの組を使ってるのでほんとめんどい……)
なお、同じフォントファミリでも、多ウェイトが扱えるソフト(Adobe製品とか)では全ての太さが一つのファミリとして見えたりする(小塚フォントとか。游ゴシックもたぶんそうだけど確かめていない)。
「フォントの関係性はそんなのだったの!?」リアルに9割の人が気づいていない「游ゴシック」の話
https://togetter.com/li/1662198
のブクマ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1662198
わかりづらいとかキョトーンな人が散見されたので、蛇足とは思うけど解説をこころみる。
正直なところ説明として元ツイがいちばんシンプルだと私は思うので、この解説は元ツイが言ってることを別の言い回しで回りくどく言い換えるだけになる。つまり逆にわかりにくいかもしれない。
なお私は発端のツイートのひとではない。善意のいちハテナーである。
さらに言えば私は組版の専門家でもない。仕事で多少フォントを扱う機会がある程度の素人+毛である。
まず、コンピューターの画面に映し出される「太字」には2種類ある。
ひとつは、最初から太字としてデザインされた書体。いわばネイティブ太字。
フォントの名前のお尻にBold とかBlackとか、BとかEBとかDBとかくっついてるのがそれ。
ここではこれを便宜的に「真Bold」と呼ぶ。
もうひとつは、もともと太字ではないフォントをワードやパワポが表示上の工夫で太く見せているだけの太字。
同じ字を少しずらして重ねたり、輪郭を太らせたりして、その場で機械的に修飾して太く見せている。
これが元ツイの言う「偽Bold」。
真Boldと偽Boldを比較すると、これはもう圧倒的に真Boldのほうが美しい。
真Boldは人間がバランス良く調整してデザインしているので、議とか鬱みたいに字画が混み合う字でも線が重なったり窓がつぶれたりしない。
同じ名前でウエイト(=太さ)の異なる書体を比べてみると、パッと見は太さが違うだけのようだけれど、よく見ると実は線の通り道が少しずつ変えてあって、太さが違っても同じスペースの中にぴっちり収まっている。スペースが同じなのだから、線が太くなればなるほど、線の「芯」は全体として少し内側を通らなければいけない、という理屈はわかってもらえると思う。
https://k-tai.watch.impress.co.jp/img/ktw/list/1227/592/000.jpg
いっぽう偽Boldは、もともと第三者の手で機械的に太らされることを考慮していないので、強引に太らせると線が重なったり窓が埋まったりして潰れる。つまり見栄えが悪い。
偽Boldを使わないこと、これに尽きる。
元ツイは游ゴシックで偽Boldが使われてしまう条件を例示している。
「游ゴシック Light」と「游ゴシック Medium」、このふたつは文字列を選択して Ctrl+B などで太字化すると偽Boldになる。
無印の「游ゴシック」(実体は游ゴシック Regular)は、 Ctrl+B などで太字化するとそこだけ「游ゴシック Bold」(つまり真Bold)に切り替わる。太字のところだけ違う書体が使われるのである。
ワードやパワポで真Boldと対になっている普通の太さの字は無印游ゴシック(=游ゴシック Regular)なのだけれど、この書体、本文(太くない普通の字)として使うにはいささかウエイトが軽すぎて読みにくいのである。Webページで使うとカスレたりして嫌われている。
元ツイの言うように「游ゴシック Medium」と「游ゴシック Bold」の組み合わせがもっとも体裁がいい。と思う。
ワードやパワポは書式の定義で見出しに「游ゴシック Bold」、本文に「游ゴシック Medium」を指定しておくことができる。
でも、たとえばこのように文中に太字強調を混ぜたい時がめんどくさい。Mediumを Ctrl + B で太字にすると偽Boldになってしまうからだ。太字にしたいところだけいちいち「游ゴシック Bold」を選んだり、無印游ゴシックを選んで Ctrl + B する必要がある。どうにかならんもんか。
游ゴシック Bold は、90%の平体をかけると俺たち昭和のおっさんが慣れ親しんだ写研の石井太ゴシックそっくりになる。
同人誌の表紙などで昭和テイストを出したい時に試してみるといいよ。字詰めは広め、カタカナの字詰めは一文字ずつしっかり整えると石井感が出ます。
あとごめん、これ読んだ人は誰かこの増田のURLを上のブクマに貼ってください。俺が貼るとanonymousじゃなくなってしまう
パワポに長々した文章を書くことはあまりないと思うけど、それでも2~3行以上の文を載せる時は「行間隔」にちょっとこだわるだけで飛躍的に見栄えが良くなります。
ツールバーで選べる行間隔には「1.0」、「1.5」、「2.0」、「2.5」…と誰が使うんだバカというようなプリセット値が並んでいるけれどこいつらは無視して、「行間隔のオプション」から「1.25」や「1.33」といった日本語を割り付けるのにイイ感じの固定値を入力しましょう。
※追記。すみません。ここがそんなに注目されると思ってなくて雑に書きましたが、1.25とか1.33とかは、私が行間隔を設定するときによく使う数字の例で、特に根拠はありません(それぞれ1/4行、1/3行)。
同じ1.25でもフォントによって空き具合の印象が異なるので(フォントの背の高さは様々だから)、一概に「和文フォントならズバリこの数値がよい」というのは決められないのです。文章量やレイアウトにもよりますし。
要は、具合を見ながら行間隔を任意に手入力することもできるよ、というアドバイスです。
ミリシタに関して何か起きると賛否両論起こるのが毎度のことで、今回も容認派否定派がいるいつも通りの感じ
私自身は結構中立的な立場ではあるが、いままでの不祥事と比べるとかなりの出来事だったので記しておこうと思う
こういうのは、えてして後日談になるとなにかがねじ曲がって肯定的に伝わることが多いので
まず何が今回起きたのか、一通り振り返っていく
1月19日14:00 イベント開始1時間前に中止が発表される、補填は無料十連
1月20日14:50 運営から今後の対応について協議中であると発表
1月21日10:30 他者権利曲と楽曲が類似しているため中止したと発表
以上が大まかな流れである
まず、アイマスの楽曲はラジオ等から少なくとも半年以上前には収録が完了していることが判明しているといって差し支えないだろう
ここから言えることはチェック体制に不備があるのではないかということだ
だが、こればかりはしょうがないだろう
というのも世の中に無限にある楽曲を全て把握している人はいないし、チェック人数がいくら多くてもその楽曲を知らなければどうしようもない
有名曲だから必ず知っているわけではないし、事実私も件の楽曲については知らなかった
ジャニーズくらい知っとけというのは二次元に置き換えた場合それこそアイマスくらい知っとけくらい傲慢な発言だ
そして世にこの楽曲が公開されることになった
そして、「この曲と似ているのではないか」というお問い合わせが来たのだ(これはお知らせに明記されている内容なので疑いようがない)
そのお問い合わせは恐らくかなり早い段階に来たと思う
新曲が出てすぐ聞かない人は、イベント開始後にゲーム内で聞くときまで聞かない人が大半だろうという推測のもとでの話だが
仮に翌日の12日にそのお問い合わせが来たと推測しよう
複数の問い合わせがあってから動くかもしれない運営体制を想定して13日までに多数問い合わせがあってから動いたと仮定しても構わない
ならば遅くとも14日には協議が始まるのではないだろうか
ここは憶測の域を出ないが、このような権利侵害に値するかもしれない事態に対して土日に休日だったからといって協議がされなかったとするのは考えにくい(16日17日は土日である)
そして協議の結果中止が決まったわけだ
もしここまで協議に時間がかかったとしたならばこの対応は問題しかない
もし仮に協議が開始直前まで長引くだろうと想定されたならば「中止乃至は延期」というどちらの可能性もある対応を早期に行えばよかっただけだからだ
そしてもう一つ重要なのは、1時間前に突如として連絡されることがあるということが今回の事件で判明してしまったという点だ
これはイベント中止に限らず、「ガシャの開催期間が明日までだったのがあと1時間で終わります」や「ミリコレの交換期間は明日までだったのがあと1時間で終わります」となることがあることを示唆しているわけだ
極端な話、「1時間後からジュエルの価格を10倍にします」となることもありえてしまうというわけだ
もちろん上記のような行為自体は利用規約上は問題ある行為ではない
あくまで運営とユーザー間の信頼の問題だが、信頼関係からユーザーは財を購入するわけだからこれは非常に重要なことである
権利問題に関わる今回の出来事において、いまだ協議中ならばこれは運営体制としてかなりまずいのではないだろうか
少なくとも最初の問い合わせがあったであろう日時から1週間は経過していることになるわけだからだ
この説明は明らかに中止が決定した時点で報告可能であった内容である
ここまではほぼ明らかな点についての話だ
善処はした方だと思うが、詰めが甘いのではというのが個人的な印象だ
「中止か延期かは分からないけれど一旦無しになるよ」という報告を早期にししてくれてさえいれば問題なかったと思っている
どう考えても直前まで発表がなかったその点だけが私個人として否めなかった点だ
さて、多くのユーザーは知らないかもしれないが、このゲームのイベントで上位を取るには結構な課金が必要になる
2500位で約1万円分、100位で5~10万円分、一桁に至っては15~20万円分必要なのだ
もちろんイベント中に追加購入することも可能だが、ある程度自分の目標を持っている人はそれに合わせて先に用意しておくのが一般的である
周年イベントでは全体100位でも20万円分近いジュエルが必要となる
もちろん無償石の分もあるだろうから、100位まで1人15万課金したと仮定しよう
全体2500位ですら10万円分近いジュエルが必要になるので、2500位までの人が平均8万課金と想定する
想定額が少し大きいのは、100位付近の人は15万ほど課金しているという想定で、雑な平均化をしているに過ぎない
以上の想定から周年イベントのみで6億近い売上が出ているわけだ
これを2000万程度とすると年間売上のうち3分の1近くはイベントの売上ということになる
想定は周年イベントやフェスなど売り上げが一時的に上がりそうな部分を除いての想定をだが、月の売上の1割を1つのイベントが占めているわけだ
このゲームはイベントの売上のウエイトが大きいことが分かったと思う
今回の直前の発表について、直前の発表にすることで集金を終えてしまおうという魂胆があったのではないかという点だ
イベントに課金する人たちから巻き上げられる分だけ巻き上げた後に中止を発表することで月の売上額は大きく減らずに済む
これは私の意見ではないし、あくまで1つの憶測ではあるが、これが事実であった場合相当にひどい運営である
ドコモショップとか雇用の受け皿としてはある程度意味があったんだろうけど
やってる事は理解力の低い老人や知能ボーダーみたいのに何回も同じこと説明し
「これ読んでOKならサインしろ」でいいはずのことに人件費割いて読み聞かせ。
で、これらをマンツーマンで行うっていう生産性が著しく低い仕事で
公立義務教育で教育者の業務コストが問題児と落ちこぼれにウエイトが置かれてしまっていて
まともな生徒は問題無いからと適当に流されて、勉強も学主塾主体ってのに憤りを感じてきた人たちのような
レベル要素のあるゲームは推奨レベルを5くらい上回るまでひたすらレベリングするタイプのオタクなので、地道に敵を殴りつつレベリングをしておりました。
前回 https://anond.hatelabo.jp/20201116185603
前々回https://anond.hatelabo.jp/haoiro/20201116
といっても私は持久力がないので、上半身をメインでやると1回30分くらいしかできないのだけど、前よりはあごが上がらなくなってきたし、二の腕の振袖が筋肉に変わってきた実感がある。
右腕にしかなかった力こぶが左でも出来、右の力こぶはさらに膨らんで、バイオの敵キャラみたいになってきた。ボタン連打で避けてほしい。
握力はそんなに変化せず。やっぱりグリッパーとか使ったほうがいいのかな。握力は右27左25と、成人女性の平均と大差ないレベルだ。
どうせ鍛えるんなら花山薫ちゃんレベルは無理でも、空き缶素手で潰せるくらいは欲しい。現時点で、足で挟めば潰せるから、頑張れば手でもいけるはず。
体重の変化はあまりなかった。まあもともと、下半身だけならレスラー並みに鍛えているからだと思うが。2、300gの変動は誤差なのであまり気にしない。
体脂肪率は若干下がった。腕に蓄えられてたらしい1%が消えたので、その分胸に回したいものだ。まな板はつらい。
あと、ジョイコンの充電がマッハでなくなるので充電器を探したんだけども、近所の電気屋には純正品がなかった。背に腹は代えられないので購入。
たぶん大丈夫だとは思うけど、やっぱ公式以外のとこからかうのはちょっと怖い小心者である。
腕に筋肉がついてきたおかげか、腕立て伏せもこれまでは20回1セットだったのが、3セットまでできるようになった。
コロナのせいでジムから足が遠のいちゃってるけども、落ち着いたら力試しにベンチプレスに挑みたいものである。
それと、前回、前々回にコメントをくださった人たち、ありがとうございます。
・なんでそんな足ばっか鍛えてんの
元々は自転車以外は全然運動しないインドア派だったんだけど、ダンベル何キロ持てる?にハマって筋トレに目覚める。
そのうち家トレだけじゃ物足りなくなって市営ジムに行ったところ、レッグプレス(足の力だけでウエイトを持ち上げるやつ)だけがたまたま空いてたので、やってみる。
その時の記録は130キロくらいだったと思う。20回持ち上げ終わって次に行こうと立ち上がったところ、順番待ちしていたらしい人に普段から鍛えてるんですかと聞かれて、初めてですと言うと、初心者で100キロ超えるのはやべぇよと褒められる。
自分に足筋の才能があると知った私は、それから足をメインに鍛え始める。今は体重の3倍、160までいけるようになった。
・何言ってるかわからんけど楽しそう、私も遊んだら用語とかわかるかな?
お値段も手ごろで、設備もよく、サウナまである初心者向けのジムです。
どんな人達か説明した後に、これに対する自分のモヤモヤを書きます。
「そっちのジムはそんなポケモン出るんだー」ぐらいに思ってもらえれば幸いです。
ちなみに、よく聞く「鏡前でボクシング」は私自身は見たことないです。
女「えーコレどうやって使うのお?」
男「ほら、やってみて」
女「んんん~~~~~」
女「ぅん、んんん~~~~~♥」
男「……さーん、しーい、……もぅ全然できてないじゃん(クスッ」
ドS彼氏に開発されちゃう系同人音声。ベッドでイヤホンして聴くやつ。
これ、もう、弱セックスじゃないですか?
広背筋だけでなく二人の関係に新しい刺激を~ってか、やかましいわ。
実際、補助とかで必要だったりするけど、5人は多いよ。
サッカーって高校の部活でも「ゴール前、塊になるな!」とか言われてるイメージあるけど、
サッカーする人ってそもそも群がる習性あるのかも、と思いました。
誰一人マシントレーニングのところに行こうとしないのも、なんか変なプライドを感じました。
しこってんじゃねえ!!
ここでの”しこ”とは四股踏みであり、その後、「はっけよい」の構えのまま動かないことを指します。
バーベルスクワット中、3セット目に入ろうと顔あげたら遭遇しました。
鏡越しに目が合う。合い続ける。
中年太りしたおじさんは気合の入った顔したまま、ずっと立会の構えで動かない。
営業部部長みたいな迫力の中年が不慣れな蛍光カラーのウェアを着て、四股しながら、ずっとこちらを見ている。
どういうこと?
え?え?しこられてる?なんで私でしこってるの?
新しいセクハラ?
休憩エリアで倒立すな。
以前通っていたジムにはお風呂の神様がいましたが、それは少し前の話。
昨今は筋トレ系やフィットネス系Youtuberがいて、トレーニングのみならず
それこそジムの使い方やマナー、あるある動画があふれてるはずなのに、
実際にはそんな環境お構いなしに、変わった人達がジムには生息しています。
そして、そういった人たちは筋力が上がったり体型が変わったりもせず、
同じことを繰り返していく。そう思うと少し愛おしい人達ですね。
「こっちのジムにはこんな人が」みたいな反応いただいて嬉しい?です。
初めて書いた拙い日記にありがとうございます。
でも、皆最低限のルールは守ってる。
もし「家でやれ!」という言葉を投げるなら、
それは他人に対して狭量な私にでしょう。
皆、だれも傷つけていないのだから。
モヤモヤが限界だけどせめて明るい感じ表現しようとしたのがこの日記です。
しかし、冷静になって読み返せば、
地方公務員になって13年が経った。
元は民間企業の営業をしていて、諸事情があって公務員に転職した。
面接官ではないが、補佐役として面接中の受験者の斜め後ろに座って、喋り方やその他の挙動をチェックする仕事をしている。
自分のことを思い出すに、採用試験の面接では筋違いなことをして相当に苦労した。
できた!と思った面接でも、今になって思い返すと不採用にしてくれと言っているような、そんな内容だった。
受験1年目は公務員になれなかった。苦節の末、2年目でなんとか第一志望に合格できたけど、もっと早く知っておけばよかったという観点がいくつもある。
今回は、先達の1人として、地方公務員を目指す人のために面接試験で大事なことを話してみたいと思う。3点に絞って説明する。
というのも、一般人の平均を超える知能がなくては務まらないタイプの仕事が多いので、地方公務員に比べると筆記試験のウエイトが重くなる。
地方公務員にそこまでの知能レベルは求められない。ほとんどの業務は、中学校までに習うレベルの知識があれば十分に務まる。
※地域を盛り上げるためのイベントの企画・運営や、組織全体の予算を管理する業務などはもちろん除いている。
地方公務員の場合は、一にも二にも人柄や気質、人格などの人間性が重視される。理由は後述する。これが備わっているかどうかを面接で確かめることになるので、必然的に面接試験のウエイトが高い。
5段階評価で4以上の人を採用する。採用したい人の数と同じくらいしか4以上はつけないし、つかない。3を取った人は当落線上にあり、最終調整で選ばれるか、あるいは補欠合格になる。2の場合は自動的に不合格だ。少なくとも、うちの自治体で合格する可能性はない。
「筆記試験で満点近く取れたぞ!」とガッツポーズを決めることができたとしても、そんなに意味はない。仮に満点を取ったとして、面接官に「こいつ頭いいな」と思われるくらいだ。
2.どんな人が高い評価を受けるのか?
その前に、国家公務員と地方公務員の仕事の傾向の違いを述べる。ここでいう地方公務員は市の職員を、国家公務員は一般職を想定している。
・地方公務員の方が地域住民との折衝が多い。国家公務員の折衝先は法人が多くなる。ここでいう地域住民には、市会議員や工事業者なども含まれる。子ども時代に知り合った人が窓口にお客さんとして来ることは実際にある(小中学校の元担任や、高校で同じ部活だった先輩や後輩など)。
・地方公務員の方が業務の幅が広い。例えば、国土交通省だと、どこの部署に行っても、河川や道路の管理をする可能性が高いが、地方公務員の場合は、全ての中央省庁の仕事がひとつの組織内にまとまって存在する。よって、専門的な知識や技能を広く薄く身に着けることになる。
・地方公務員の方が同質性が強い。多くの自治体の場合、在籍している職員の卒業した学校(特に小中高)が被ることが多い。そのうえ、同期の1割~2割しか途中で辞めないので、どの部署にも同じような文化が定着する。例えるなら学校だ。卒業まで40年近くかかる学校といってもいい。それが市役所だ。年齢がいくつになっても「あの代は優れている。あの代は谷間の世代だ」といった話題が交わされる。
こんな世界で心も体も健康に生きていけるのは、誰とでも仲良くなれる人間であることは論を待たない。
特定の者としか仲良くなれない職員は必然的に孤立する。年を経るごとに、周りとの協調が必要になる仕事がやりにくくなり、頼られることが少なくなっていき、多くの場合は定年前に早期退職制度に応募することになる。
面接に臨む際に意識すべきは人柄だ。面接が始まれば終始スマイルを保ち、質問にはゆっくりと落ち着いた口調で最大限のわかりやすさで回答し、不明な点があればわかりませんと言い、回答に詰まったら、そのことを素直に認める。
私は凄い!とアピールしてはならない。本当に凄かったとしても駄目だ。そういうのは黙っていても伝わるものだし、面接官はエントリーシートをすでに読んでいる。
むしろ、アピールが過ぎると自意識過剰であると判断される危険がある。聞かれたこと以外は実績のアピールをすべきではない。どうしてもやりたいなら、数字で表現可能なものに限定する。
しつこくなるが、地方公務員の場合は能力よりも人柄重視で採用を行う。今では絶滅危惧種だが、かつては素行不良の公務員が多かった。市民にため口をきいたり、空残業をしたり、自宅のごみを市役所のごみ置き場に捨てたり、公用車に乗って家に帰ったり、自分は昇進できなかったので市に尽くす義務はないと宣ったり、逆に、俺は労働組合に言われて無理やり昇進させられたと言って部下にすべての仕事を投げたりといった具合に、やりたい放題の連中がたくさんいた。
それでもクビにはできない。処分できるかも怪しい。素行不良の公務員を守っている解雇規制は、同時に市民や仲間のことを思いやれる優れた職員も同時に守っているからだ。評価が低い職員がポンポン免職処分になっている官公庁があったとすれば、おそらくは政治的理由により、評価が高い職員もそれなりの頻度で免職や降格になっている。
今の40代・50代の職員は、こういう市役所の悪いOBをたくさん見ているので、同じ失敗を犯さないよう最大限に気を払っている。その対応のひとつとして、受験者の人柄を見ている。
面接に合格する可能性を高める情報しか集めてはならないし、触れてもいけない。
私の経験で有益だったのは、予備校の一室に置いてあった受験者の面接体験談だ。
この時ばかりは、高いお金を払って受講生になってよかったと思えた(社会人向けのコースを受けていた)。
今思えば、予備校講師による模擬面接もためになった。当時は、公務員ではない人間が面接指導などできるのか?と半信半疑だったが、彼らは受かる人間と受からない人間をごまんと見ている。
そんなキャラではだめだよ、と直観力をもって指摘することができる。予備校で面接指導をする講師の中には、傲慢だったり不遜だったりする人はもちろんいるが、それでも多くの講師から訓練を受けるべきだったと今では思う。
逆に、無益どころか害悪になる情報源もある。現役あるいは元公務員が書いたブログだ。
いったいどこがクソなのかと言うと――ブログ記事を読んでいてわかる。どんなに偉そうなことを言っていても、この人達は職場で高い評価を受けていない。むしろ低い評価を受けていて、その恨みつらみをブログという手段で発散している。
もしあなたが、面接対策として現役公務員や元公務員のブログを読むとしたら、この点に気を付けてほしい。そういう記述を見つけたら、すぐにタブを閉じて別のサイトに行こう。
以下に記事内容を例示する。
・残業時間が少ないと高い評価を得られない、飲み会を断れないなど職場への不満を多数漏らしている
・能力が低い職員を馬鹿にする発言(こういう人間は市民も馬鹿にする)
・副業を推奨している(アフィリエイトは100%懲戒処分案件なので特に注意する)
・給与や休暇などの福利厚生の話題や、得をする働き方など、金銭的な内容を扱った記事が多い
具体的には、これらのブログが該当する。
http://ps-kimotaku.officeblog.jp/
https://www.lifehacking360.com/
[番外にして論外]
公務員として、どんな人間が高い評価を受けるのか調べたい場合は、上に挙げたブログを読むべきではない。まして面接対策など論外だ。
逆に、これから面接対策をするにあたって効果的であると思われるブログもある。これらを挙げて結びとする。
(簡素な見た目で読みやすい。扱う内容も具体的で生々しい。下にある無料レポートは受け取らなくていい。オンライン講座への勧誘を受けることになる)
https://katigumikoumuin.com/siyakusyo-mennsetu/
(業務を進める中で起こった問題を赤裸々に表現している。後学として参考になる)
官公庁への営業活動を担当するあなたへ~元地方自治体の契約担当者による随意契約のコツ~
(元公務員のサラリーマンが書いている。実務を行う公務員の思考回路をリアルに描いている。有料(250円)だがそれ以上の価値はある)
https://note.com/innocence1/n/ne81f2831a9ae
画一的なマニュアルに沿って実施されるからだ。マニュアルがなければ、個人の経験や勘で採用活動をしてしまうことになる。だから、相性のいい面接官に出会って、個性が評価されて~というパターンは少ない。正しい受け答えの姿勢を身に着ける必要がある。
自重トレーニング信者だから余計にそう思うんだけど、ウエイトトレーニングやってる姿ってめっちゃダサい!
人間にとって不自然な動きを一生懸命して、重たいダンベルやらバーベルやら果てはマシン笑まで使ってしこしこ筋トレって本当にダサすぎてうまく言葉にできない。
人間の体ってそんなピンポイントに鍛えてうまく動くものなんですかね?
人間だって動物なんだから自然に動いてれば勝手に筋肉つくのに、不自然な筋肉をつけて悦に入って何が楽しいんだろう?
ウエイトトレーニングやってる人って筋トレが生活の中心でほかに楽しいことあんまり知らないのかなって人ばっかりなのも馬鹿馬鹿しくて笑っちゃう。
とにかく不自然な筋肉つけて何が楽しいんだろうかなと疑問しかない!
筋肉脳な人はスポーツやってる人でもウエイトしてるし!っていう反論がいつものお決まりなんだけど、そういう人たちは補助としてウエイト取り入れてるのになぜウエイトだけで一生懸命使えない不自然な筋肉作ってる人と同じにされなくてはいけないのかww
そりゃ一流スポーツ選手みたいに時間を割けない人が見せかけの筋肉を手っ取り早くつけるならウエイトトレーニング一択なんだろうけど、その結果ダンベルへこへこww
片足スクワットができるようになるための時間も労力も勿体ないのかな?
サプリメント頑張って飲んで不自然なトレーニングして出来上がるのはまともに動けない体。さすがにダサすぎるんだけど、なぜかみんな気づかない・・・
格闘技とかパルクールとかストリートワークアウトは筋トレと違って自分の体を思い通りに動かせるようになって、自然に使える筋肉がつくのになぜかみんなやらない
ジムにわざわざ時間かけて行かないと筋肉がつかないと思いこんでるから。かわいそう、気の毒すぎる・・・
わざわざ不自然な筋肉つけるためにお金を払って時間をかけて着替えてジムに通って、狭い家に不自然な筋肉をつけるための器具を所せましと置く・・・ダサすぎる
ウエイトトレーニングって本気でダサすぎて、かわいそう。
SNS上で二次創作するうえで他者からの評価とか需要の有無が気になるのは当然のことですよね。むしろ評価されたいからSNSにアップしているという人もいると思います。
でも気にし過ぎるとドツボに嵌まるというか...急に無になるというか...
万人受けするようなシチュエーション×好きなキャラクター=超好きってなりそうなのに急に何していいか分からなくなる瞬間
勝手に二次創作のパラドクスって呼んでるんですけど、経験ありませんか?
ツイッターだとフォロワーが増えてくると不安になるタイプや、いろんな方と話すのが好きなタイプに多い傾向にあるかなと私の経験談ですがそう感じました。
もう削除した垢での話なのですが同人誌を作っている方がいつも「原稿いやだ、しんどい」という旨のツイートをしていて本が完成した瞬間にジャンル移行してしまいました。
本を作るということが日常生活の中でのウエイトを占め過ぎて疲れてしまったのだと思います。
そもそも私にとって二次創作は忙しい日々の間隙を縫って自分の為にチマチマやるようなことなので当然他人の求めるスピードに応えようとしたり、締切があると疲れるのは当たり前です。
でも二次創作って楽しくてやり始めることなので疲れ切ってしまってからやっと気付くんですよね。好きと嫌いは紙一重とはよくいったもので、好きだった作品が急に苦手になったり、そういうこともあると思います。
当たり前のことですけど結論を述べると(自分自身への注意でもある)本当にかきたいと思ったもの以外はかかなくてもいいんですよ、ということです。仕事じゃないんですからね。『◯◯の日』だからといって惰性的にかいたり、間に合わせなきゃと焦ってしまうことって意外とあると思います。でも大体のフォロワーさんは気にしていないはずです。
むしろそれで苦言を呈する方はSNSなんですからバッサリ切り捨てるのも有りだと思います。
せっかく自由な人間関係が築けるツールなのですから躊躇せず人選びはした方がいいです。
いつだって自分の最大の味方で理解者は自分で在るということが一番難しいのですが大切です。
何年か創作自体から離れていたのですが今では忙しくても絵を描いているときや他人の創作を読んでいるときに「私これをするために生きてるんだ!」って思えるようになれました。
元
https://anond.hatelabo.jp/20200703193938
https://anond.hatelabo.jp/20200704211736
https://anond.hatelabo.jp/20200705112649
これを読んでいつも思っている話が何となくよぎったので少し書いてみる
上のブログでは、「対価システムにとらわれるコミュ障」の話がメインで語られている。非常に面白い考察なので是非とも全編読んで欲しいのだが、簡潔に言うと「自分に自信のないオタクはもともと自己評価が低いために、相手に対価のあるものを提供しようとしてなんとかコミュニケーションをとろうとするが、特に相手はそんなものに興味はなく普通に人間として交流できる人が欲しいため、コミュニケーションをとれずに終わりがち(最悪の場合は相手に対価を求めてすらしまう)」みたいな話である。
自分もこの「対価システムにとらわれるコミュ障」側の人間なので「わかる」という気持ちなのだが、これに加えてこういうタイプの人間には「人間性への興味の欠落」が発生しているのではないかという思いがある。わかりやすく言うと、七瀬は綾瀬の作った作品にしか興味がなく(本人が自覚しているかどうかはともかく)大して綾瀬という人間には興味がもててないのではないか、という話である。
「いや、七瀬は綾瀬のことをかっこいいとか言ってるし、ツイッターでの日常ツイートとか見てるかもしれないだろ」という意見もあるかもしれないが、結局は綾城を「神作品を作ることができるマシーン」としか捉えていない。「神作品を作ることができるマシーン」がどういう日常を送っているかには興味があっても「自分なりの人生を送って、こういう性格をしていてこういうものが好きで、創作をしながらも日常を送っている綾城」に一切の興味がないのである。なんならさらにいえば「自ジャンルの神創作をする綾城」にしか興味がない。いっぽうの中島は、きっかけは綾城が神作品を作ることかもしれないが、きちんと綾城という人間に興味を持っているように見える。だからこそ中島は綾城に一人の創作を楽しむ人間として色々なジャンルをお勧めできてともに楽しむことができるし、友川は綾城を自ジャンルにどうにかして引きずり戻そうとするのである。
自分の観測範囲では、こういう創作者を「創作者」としてとらえて人間性への興味をなかなか持てないタイプの人を特に創作界隈でよく見かける気がしている。(そして私もそうである。)
こういう場合、コミュニケーションが創作を通じてのみになりがちである。具体的に言えば推しの話や創作をする際の悩みの話、そして自分の作品のみでコミュニケーションをとるのである。
もちろん、それが悪いとは言わない。なんなら創作界隈なんぞ「推しの話をせずになんの話するんだ」「ごたごた言わずに作品で語れ」みたいな界隈なのでどこもかしこも大なり小なり上で書いたような空気はあると思う。が、上で言うような人間性への興味がかなり欠落している人は、「それでしか」コミュニケーションをとらないということになってしまいがちなのである。そしてそうなると往々にして息苦しくなることが多い。なぜなら、その界隈での自分の存在意義を「どれだけ良い作品を作れるか」「推しへの熱量」のみによって測るようになってしまうからである。
誰もが常に創作を続けられるわけではない。日常が忙しくなったり、色々なジャンルに興味が出ることもあるだろう。そもそもとして人によって使える時間、お金は違うし、ジャンルにかけることができる熱量も違う。一つのものに熱を注ぐ人もいれば色々なジャンルをくまなく漁る人もいる。にもかかわらず、創作の質や量、そしてジャンルへの熱量のみで自分の存在意義を測るのならば、ちょっと忙しい時期が続いたりスランプに陥ったりするだけであっという間に居づらさを感じることになってしまう。
普段から創作の話やジャンルの話しかせず、リプライも推しの話か創作の悩みの話のみしか交し合わない。それでいて自分がジャンルに時間や熱量を(やむを得ない事情で)あまりかけられなくなると、「自分は界隈での存在意義がない・・・」とか一人で勝手に病みだすのである。傍から見てると自業自得のただの面倒くさいやつである。
こういうことは人間性によってコミュニケーションをとり、関係性を築いてる要素が多少にでもあれば起きづらい。普段から「△△な作品を作る○○さん」ではなく、「○○さん」という形で多少なりとも人とコミュニケーションを取るようにしていれば、創作に多少熱量が避けなくなっても「自分の居場所を失ったように感じる」ことは少ないだろう。なぜなら自分自身の存在が存在価値になっているからである。(もちろん完全に不可分というわけにはいかないと思う。でも、創作をしている自分100:自分自身0という状況に比べれば、90:10とかにしておくだけでもだいぶ変わるだろうという話である)
だが、人間性に興味を持てないオタクはこうすることができない。上で述べたように創作を通じたコミュニケーションしか取れない。そうするとやはり熱量のみでしか存在価値を確保できないし、それが少し減るだけでとあっという間に居場所を失ったように感じるのである。
補足だが、これはすべて自分から見た視点での話である。界隈の他の人が自分を自分自身としてみてくれていてもあまり関係ないのである。大事なのは自分自身が他の人とどういう風にコミュニケーションをとろうとするかである。「創作を通じてのみでコミュニケーションをとろうとしている人間」は「創作ができない自分自身はコミュニケーションをとることができない」と「勝手に自分で感じて」、「勝手に居づらさを感じている」のである。ただただ面倒くさい。
この話は「自分自身という人間に価値を感じることができないので、代わりになんとかして対価を出す」という話と外からは同じように見える。なんとかして対価を出すことによって存在価値のない自分が相手とコミュニケーションをとろうとしているとみることもできれば、相手という人間に興味を持つことができないので、コミュニケーションをとる方法が創作しかない、とみることもできる。おそらく多くのこのタイプの人は両方の側面があって個人個人によってそのウエイトが変わるだけだと思う。あるいは、例えば自分という人間に価値を感じないので、相手という人間に対してどういう風に興味を持てばいいのかわからないのかもしれない(たぶん自分はこれ)。
どうするべきかわかっていれば正直自分もそんなに困っていないので、個人的には結構難しいイメージがある。特に、相手という人間に対して興味がないならば興味を持てるようにすればいいじゃないか、とぃう話にも見えるが人に対して興味が持てるならこんなにこじらせてないし、もっと人生楽に生きることができると思う。相手という人間への興味を持てないからこんなに面倒くさいことになっているし、自分自身の存在を承認してもらい、社会や界隈とどうにかしてコミュニケーションをとるために手を動かし続けているのである。
その中で個人的に大事だと思っているのは、「自分を自分として見てくれる人からの言葉を否定しない」である。創作でしかコミュニケーションをとれず、創作が進まないために人とやり取りできなくなっている時に「あなたはあなたのままでいい」と言ってくれる人がいたら、そこで「いや、自分なんてなんにも出せてないし語れないし・・・」と卑屈になるのをぐっとこらえて素直に受け取るようにするのだ。そういうやり取りを少しづつ積み重ねていくと、そのうち「相手が自分のどういう人間であるところに興味を持ってくれているか」がわかるようになってくる。そうすると、今度は自分という人間への興味の持ち方が少しづつわかるようになってくる。そうすると、そのうち相手の人間性に対して興味を持つことが少しづつできるようになると思う。
おけけパワー中島のムーブをぐっとこらえて素直に受け取っておくようにすれば、そのうちおけけパワー中島が自分を救ってくれるかもしれない。
甲子園やインターハイといった全国大会の中止は、残念ながら、勉強そっちのけで部活動しかしない学生が抱えるリスクを表す一例になってしまったと思う。
つまり、いくら運動能力を高めたところで、大会自体が開催されないことがあるので、それが何の役にもたたずに将来を棒に振るかもしれないということだ。
だから今後、各競技団体は、そういったリスクがあることを学生に伝え、部活動しかせずに路頭に迷う学生を増やさないように心掛けるべきだと思う。
またお役所も、特に将来選択の場になる高校では、必須となる履修科目を増やし、部活動しかしない学生がこれ以上増えることを予防すべきである。
というか、勉強せずに部活動しかしない学生が進学すべきなのは、そもそも高校や大学ではないはずだ。
本来は、競馬や競輪のように、各競技団体がその興行収入を使って育成学校を運営し、そこに進学させるべき(そして、団体は学生の将来まで面倒を見るべき)であるはずだ。
競技団体の構成員を育成する手間を、上記のような形で受益者が負担すべきなのに、学校に「部活動」という名目で押し付けるのは本当に良くないことだと思う。
例えば、教員志望者減少の一端は、部活動による時間外労働の多さが原因なのであり、教員という貴重なリソースを特定団体の利益のために奪わないでいただきたい。
その上で、甲子園やインターハイについても、その育成学校同士の対決とし、一般学校は参加させないようにすることで、部活動による一般学校の負担は大幅に減るだろう。
部活動における全国大会の廃止を唱える研究者が居るが、上記のイメージはそれに近い。その競技に特化した学生だけで、その覇を競うようにすれば良い。
その際は、一般学校での部活動の目的が、大会での勝利から学生生活の充実に重きが置かれることになり、部活動はサークル化することだって可能になるだろう。
ちなみに、育成学校単位に学生を集約することで、その競技レベルは向上するはずである。それは学生自身のためにもなるし、甲子園やインターハイのレベルが上がるのは、観客としても喜ぶべきことである。
あと、育成学校の設立は、引退選手の雇用先が生まれることもメリットである。現役選手にも朗報だろう。つまり、誰も損をしない。
以上のとおり、学生が部活動しかしないことのリスク、そして、教員が特定団体の受益のために働いていることの不適切さから、甲子園やインターハイの中止を機に、「部活動」という古い体制に対する見直し(競技育成学校の設立、全国大会での参加制約、部活動のサークル化など)が進むことに強く期待する。
部活動が、一部の学生の人生と学校の業務の両方で、異常なウエイトを占めている現状を考え直すべきである。そして、競技団体は、その競技に尽くす学生の人生に責任を持ち、学校にその負担を押し付けるのを辞めるべきである。