はてなキーワード: 時代錯誤とは
私はもうメーラーを開いてはいられなかった。私は電話の電源を切らざるを得なかった。
私は割と優秀な人間だった。
しかし私はしばしば人間として扱われなかった。汐留とか赤坂の会社の人間に、そのクライアントに、その下請けに。
私に会った時、彼らは侮蔑語をさも素晴らしい冗談かのように、場を和ませるアイスブレイクかのように私に浴びせた。私は都議会で産めないのかとの罵声を浴びた女性議員のように苦笑いした。私は彼らのあまりの時代錯誤な態度に、もはやなにも言えなかった。汐留の社員は未だに、営業での心労を武勇伝として語ってくる。それが偉いことのように。彼らはそれがもはや昭和の汚物だと言うことを知らない。
別のある時、私は彼らの要求にしたがって仕事を進めた。私は彼らからの連絡を四六時中受け取ることになった。彼らは深夜に労働することがさも偉いかのように深夜にメールを、メッセージを五月雨式に投げてきた。私は枕元のスマートフォンでそれを見た。私は疲れ果てた。
真鍋大度も今の若者はメディアアーティストにはならず、スタートアップに行くと言っていた((http://togetter.com/li/812920))。私はそこまで若者ではないが、私もまたそれに同意する。私は、スタートアップで人間扱いされたことがある。
私の理性は、広告の人間すべてが上記のような人間ではないと言ってくる。そのような判断は私が感情に負け、理性を諦める証拠になると理性が囁く。私はまともな広告の人間を知っている。私はメーラーのフィルタの設定方法を知っている。私の心は昨日壊れた。私はもう広告を信じない。
視聴者には「*この男性*が嫌な人である」というようには受け取られなかった。
リアリティのために組み込んだ「やや誇張された一般的な日常」であるはずの表現が「通常の業務ではありえないセクハラ」として受け取られることになった。
視聴者はこの男性は嫌な人として、シチュエーションはリアリティのある一般的な日常として受け取りましたよ。
今の女性の正しい反応は「余計なお世話じゃ、お前にも需要ねーわ、ほっとけタコ」です。
興味もない、ただの嫌な上司に容姿をバカにされたからって変わらなきゃなんて発想はあまり出てこないんです。
PGは、まず見積もりを依頼されます。この時ほとんどの場合、要求仕様書が無いか、あっても伝聞で情報が欠落もしくはエラーを起こしています。残念ながらエラー訂正機構は装備されていません。CRC、せめてパリティでも入っていればちょっとは違うかもしれません。期待出来ませんが。
ここでプロジェクトマネージャー(又は管理者・経営者等。以後PMと称する)から「最速でやった場合」「割り込みが入らない場合」「君がやった場合」or「部署内で最高ランクのPGがやった場合」「仕様変更が無い場合」という条件が付きます。
底辺PG諸君。ここでこの言葉を額面通りに受け取ってはいけません。
「【最速で】3ヶ月かかります」
と答えたらPMは【普通に】3ヶ月の工程を工程表に書き、見積書に3人月分の金額を書きます。そしてこれは後述する危険と隣り合わせとなります。
この危険を経験したPGは大抵リスクを込みで【黙って】見積もりを伝えます。
しかしPMはお見通しです。「高い」「そんなに時間がかかるわけが無い」と言い、受け付けません。何故なら実はPMの頭の中では既に「3ヶ月」なのです。PMは追い込むために見積もりの詳細を聞いてきます。
ここで素直に「リスク込み」と答えてはいけません。既にPMは前述の前提条件を述べているからです。無下に却下されます。
戦いたいPGかつPMが同じ会社であれば「後学のためにPMの詳細見積もりをお聞かせ下さい」と聞いてみるのも良いでしょう。ただし確実に印象悪化は避けられません。PMが発注元の場合は禁句です。まずキレます。そのまま発注されない事もあるでしょう。発注されなかった事を喜びましょう。
なぜキレるか。それは簡単です。「明確で論理的な理由が無いから」です。理由が無い上に実は既に予算が決まっており、それを超える事は許されません。予算を超えた見積もりはPMがさらに上層部・経営陣から怒られる事を意味するからです。理由が無いから理由をPGに考えさせているのです。PMが仕事をした気にさせるのも底辺PGの役目です。
予算を超えた見積もりはあり得ませんので、答えは「がんばります」しか残りません。しかしPMはそれすらもPGの口から言わせたいのです。でもよく考えて下さい。あなたの脳はオーバークロック出来ますか?
底辺PGが出来る事は、PMやユーザーが分からないように期間と予算を加算するくらいです。
一応、市場原理が働くため、安い方がいいに決まっています。金払いのいいユーザーや元請けってのはあんまり無いです。そして金払いの悪い所ほど後々してやられますので、最初の予算の付け方でどういう所かが大体予測出来ます。
そんなわけで、予算と期間に品質と内容は関わりがありません。もちろん企業の使命として、安くて良い品を、安くても利益を、は追求してしかるべきなのですが、日本の場合質と金額が比例するのは極一部。IT業では基本的に、安くて良い品を出来るだけ高速に、がモットーです。受注しなければ会社がやっていけないのは分かりますが、「安さ」だけしか売り物に出来ない会社は、IT会社として失格でしょう。
かくして、短納期低予算のプロジェクトが組まれるわけです。そのPMの理論からすると、高速バスで東京から新大阪へ行く方が、新幹線のぞみの指定席グリーン車で行くより高く、書留速達の郵便より普通郵便の方が値段が高い、という事になりますが。質、時間、価格の何がIT業と違うんでしょうか。
実のところ発注や作業開始は遅れている事が多く、納期に間に合わせるには発注前に作業を開始せざるを得ない場合が8割ほどです。実はここにも罠が仕掛けられています。
作業に取りかかろうとようやく出てきた仕様書を見ると、見積もり時の時と変わっていたり、追加されていたり、未だに仕様が無い場合がほとんどです。
「こんなものをこんな期間で出来やしない!」と憤慨してはいけません。なぜなら
という答えが返ってくるだけです。PMが見積もらない理由がここです。PMに見積もりを聞いてはいけない理由がここです。これは後々まで効いてきますので注意が必要です。「前提条件と違う」と反論するのは無駄です。PMはそれは忘れています。そもそも考えて発言していないので口が勝手に脊髄反射で言った事であり脳は関知していないのかもしれません。PMにとって最重要な事は「PG自身が言った事」です。そう、工程表にも議事録にも「3ヶ月」という数字のみが記載され、いわゆる「リスク」は何処にも書かれて残っていません。
PMやユーザーは絶対にリスクや前提条件を書き残しません。それがこの業界の伝統ある慣習だからです。
ここで言った言わないの不毛な戦いをしてもいいのですが、確実に査定は最低です。もしプロジェクトから外されたらそれは喜びましょう。
管理者や経営陣等からは「やる前に出来ない言うな。やってから言え」と怒られます。残念ながらこれも真に受けてはいけません。
設計、構築など作業をしている間もどんどん仕様変更・追加は流れ込みます。
PMは工程進捗を把握しているのでは無く、PGが【自ら】工程表や報告書に纏めます。遅延していれば遅延の理由も書き、挽回策があればそれも書きます。しかしPG個人が取れる挽回策などたかがしれています。と言うよりそれが分かっていれば遅延などしません。他の策は既に実行済みなので、挽回策には「残業・休日出勤」くらいしか書く事が残りません。しかしこれは現実にこれしか書く必要がありません。なぜならPMはこれ以外の挽回策は理解不能だからです。
仮に報告をしても「早すぎる。もっとやってみてから」「がんばれ」という答えが返ってくる事でしょう。
遅れを放置するPMもいますが、許容範囲はPMにもよりますがある程度遅れが見えてくるとPMから追求がやってくるようになります。
「なぜこんなになるまで報告しなかった」
そう、報告出来る時期というのは非常に限られています。多分プロジェクト工程(今の例なら3ヶ月)の中の30分くらいです。それより早いと相手にされず、それよりも遅いと怒られます。報告時期を見誤らないのもPG業の技です。
実装が難しかったり、無理難題は多々あり、その上工程が遅延しているので、相談をしに行きます。しかし、それは無駄です。
「自分で考えろ」
「やってから言ってるんじゃねぇ。やる前に言え」
他似たような答えしか返ってきません。非常に非生産的です。理不尽です。時間の無駄と考え報告・相談に行かないPGも多いとか。非生産的ですが、一応相談はしておきましょう。ただし時間は取られないように。
同僚やチーム員に相談してもいいのですが、昨今のプロジェクトは人員がスタンドアロンで動いています。したがって、隣の人やチーム員がが何をやっているのか知らない事が非常に多く、相談出来ない事も多いのです。PGにメンタル病が多いのは実は理由がここにあると自分は思っています。孤立感が半端無いのです。まぁ、元を追えば、そいういうチームを組む事、教育訓練しない事など、実は管理者・経営者が「カイゼン」や「効率向上」を題目に目の前の超短期的コスト削減だけを考えている結果なので、PGとしては何も出来る事はありません。管理者・経営者は中長期について考える必要が無いからです。なぜなら「その頃には自分は満額の退職金を貰って定年退職済み」だから。
実のところ単独の仕事をしていればいい、と言う事はあり得ません。同じプロジェクトの中からも割り込みや、他のプロジェクト・部からも割り込みは多々入ります。
始めに言ったじゃん。どうにかして。というのは無駄です。覚えてないし、「会社員なら当たり前だ」という答えが返ってくるだけです。「15分だけ」「ちょっとだけ」が頻発しますが、塵も積もればなんとやら、です。ちなみにこの件は査定・人事評価には全く影響がありません。
相談すれば「午前中はこの仕事、午後はこの仕事、定時後はこの仕事をすれば並列同時が可能だ」とあたかも新発見超名案を出したかのように返されるのが落ちです。そう、1日が24時間しかない事は忘れ去られ、PGが人間である事は忘れ去られ、思考の分断は効率を激しく低下させる事を知らないのです。
ここで断る勇気を持つのが大事ですが、職場内の雰囲気は格段に悪化します。評価は「人でなし」「自分勝手」「自分本位」「冷たい」。これらの視線に耐えられるのなら断りましょう。こちらからすれば「自分の時間を奪う方がよっぽど人でなしだ」と言い返したい気分です。
テスト工程も始まり、遅延が激しくなる上に、バグが発見されさらに遅延という状況が始まります。
ソフトウェアである以上、バグが無いプログラムなんてのはあり得ないのでバグを出す事自体は不可避です。
ところがPMは激しく怒り出します。バグの発見はPMに一報が行きPMが怒られるからです。
底辺PGはバグを出す毎にこっぴどく怒られます。中には仕様変更の事実がPGまで伝わっていないのにバグ扱いされる事も多々あります。
バグを出すと修正、テスト、再発防止策の考案などの厄介事が増えます。
再発防止策は通常「どうやったら自動的にそうならないか」を考えますが、あまりに根幹すぎるので、底辺PGの身分では権限が無く、出来る事が限られます。そしてPMが理解出来る策を考えねばなりません。結果「テストを増やす」「チェックシートを作る」とかになりがちです。しまいには「チェックシートのチェックシートを作る」などという意味不明の現象に陥ったプロジェクトを何度も見ています。
厳しく、それは厳しく怒られる上に、チームの前でさらし者にされる事、人格を否定される事も多々あるので、PGはバグを出さないように、見つけても出来るだけ極秘裏に解決しようとします。
「恐怖駆動型開発」
というもので、日本の場合ほとんどがこの開発手法をとられていると聞きます。この開発手法は書籍になっておらず、書籍としてよく売られているのはアジャイルな開発手法の本が多いです。知識として持っているのはいいと思いますが、役に立たないと思いますねぇ、恐怖駆動型開発の前には。まわりの人間も恐怖に巻き込まれないようにするため、どんどんスタンドアロン化が加速します。
その上、バグを隠すようになり、バグが出るようなテストを避けるようになるため、短期的に収束しているようにみえます。だから効果絶大と見るようです。リリースしてからが楽しみですね。
PMが空想から覚め、もう救いようが無くなった事が事実と認識出来るようになった時、ようやく、2度目の相談・報告時期が訪れます。ただし、PMの第1声は「どうしたらいい?」です。そんな事が分かっているのなら実行済みなので、黙っているしかありません。
するとPMは「何人入れれば良い?」と聞いてきます。意味が分かりません。IT業を労働集約型産業と勘違いしているのが未だに存在している事に驚きです。頭脳集約型の形態に人を入れて解決しようとはどういう脳をしているのか。一度解剖してみたいものです。多分、高校を受験する中学3年生の受験者が100人集まれば旧帝大の入試に合格すると考えているのでしょう。もしくは1Km走というのは1000人が一斉に1m踏み出せば1Km走った事と同じ記録である、と考えているのでしょう。
脳を電通で直結出来れば若干違うかもしれませんが、IT業の1+1は2では無く、良くて1.5。ましてやこれで増えていくのは3~4人までが限界でそれ以上は人を入れても上がらないどころか、マイナスになる事が常。
PGなら他のプロジェクト、他の部、他の会社に信頼出来るエース級のPGを何人か知っているかと思います。なのでついPMに「エース級を3人」等と提案しがちです。しかしこれは叶わぬ望みです。その提案に対する答えは「そんな事出来るわけないだろ」です。そりゃそうです。予算が無いのだから。
自分の仕事があるのに、何故かこの後から来た人員を纏めるようPMから指示が出ます。PMが指示出来ないからです。破綻は間近です。いや、既に破綻しています。
プログラムが出来上がっていく以上、バグをつぶす速度以上の割合でバグを注入していく事になります。
「混乱しているプロジェクトに人を入れれば、なお混乱するだけ」
という有名な文を実感する事でしょう。なお、実感するのはPGだけであり、PMは実感出来ません。
この辺で思わぬ事態が発覚します。実は発注が遅れていた事です。
発注日以前にドキュメントがあっては監査にひっかかるため、今まで作ったドキュメントを作り直しをしなければならないという、まさに想定外の事態です。ほとんどのドキュメントには作った日付や判子が押されているはずです。それを全部作り直しするのです。納期は間際です。これも納期までに間に合わさねばなりません。
PM(重ねて書くが、プロジェクトマネージャだけでなく管理者や経営者も含む)が発狂し始めます。宛先は底辺PGです。
中には「お前を精神的に追い詰めるしか手がねーんだよ」とストレートに言ってくれるPMもいたりしますが、あまり出会った事は無いですね。
あの手この手で精神的圧迫を始めます。圧迫すれば脳がオーバークロックして作業が進むと考えているからです。残念な事に、脳の別の部位がオーバークロックしてショートしてしまいます。
こういうプロジェクトを経験し、運がいいのか実力なのか、生き残った人達がSEとなり、いずれPMとなっていきます。
不思議な事に日本では、PGが成長してSEに、SEが成長してPMに、とクラスチェンジするものだと考えられている会社が多のですが。
自分としては、座標軸のX,Y,Z軸の様にPG軸とSE軸とPM軸と全く異なるベクトルだと考えています。X軸の先にY軸Z軸があるわけでは無い、と。もちろん、軸に沿っているだけでは無く、他の軸のベクトルも併せ持つのもよいエンジニアでしょうし、ベクトルの方向を伸ばし続けるのもよいエンジニアでしょう。
ところが、クラスチェンジするものだと管理者・経営者は思っているから、給与体系もPG<SE<PMとなっていたりします。この時代錯誤的階級社会はどうにかならないものでしょうか。
自分はPMを否定しているわけではありません。いいPMの元でいい仕事をしたい、と思っているだけです。今までに何度かそういう良い経験をした事はあります。それは成功経験としてモチベーションを保つために必要な事なのです。
PG至上主義でもありません。分業形態として、SEやPMは必要不可欠だと思っています。ただ、PGを粗末に扱っておきながら高品質の製品を要求する風習・慣習が納得出来ないだけなのです。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20150125-00042523/
「同胞意識が無くなったのは嘆かわしい」っていう内容で最後には「涙が出るほど、情けない」と締めくくられてる。
細かい内容は実際に読んだほうがわかるはず。
こういう時代錯誤の考え方から脱することができない人達を見ると中国、韓国、北朝鮮が思い浮かぶ。
同胞というだけで責任感を無視した仲間意識を持つことは裏を返せば同胞でなければ仲間意識を持たないということになる。
人質となった2人の根っこの部分は第三者にわかるわけがないのにジャーナリストの必要性を訴えたり
的外れな記事やコメントを書き殴っている、所謂知識人と呼ばれる人達が多い。
同胞って何?この人達はテロリストが日本人なら同胞ということで支持するのか?
大人が責任を放棄するのなら法律なんて守られるわけがない。各々の裁量で行動するのが大人だろう。
危険な目に合うことは簡単に想像できただろう。人質に取られることは想像できただろう。
もっと言うなら、ただただ拷問を受けて殺されることだって想像できただろう。
それでも、わざわざチケットを買って危険地域に入っていった彼らの責任はどこにあるのか?
安易に「同胞だから助けなきゃ!」という発想は子供じみているということに何故気づかないのか?
仮に大金を払って彼らを助けたとしよう。
その金はどこから出るのか?その金は何に使われるのか?彼らは助けられたあと日本で大人しくするのか?
また危険地域に入り人質に取られたらどうするのか?同胞だと騒いでる人達は金を出すのか?行動するのか?
同胞論で騒いでる人達は「同胞」という狭い言葉で日本人だけ仲好ししてれば良い時代じゃないということに気づけ。
そして今回の騒動は平和な土地で暮らす日本人が危険な地域に足を踏み入れることの危険性を知り
同時に、そこには責任を背負って行かなければならないということを深く理解してほしい。
Kinzaと名乗るブラウザが今年の中ぐらいに出てきて、(恐らく、金を出して)各種インターネットメディアに取り上げてもらって多少は有名になったらしい。
昨日、窓の杜で窓の杜大賞にノミネートされててびっくりした。あんな程度のブラウザがノミネートされるとは思っていなかったから。
さて、このブラウザがどうして「あんな程度」なのかを、いくつか理由をつけてこき下ろしたいと思う。
もともとはメジャーバージョンにはついてくるとか言っていたのに、「著名サイト閲覧時にクラッシュする動作がある」とかいう理由だけで、最新のバージョンに上げようとしない。
ほかの派生ブラウザも落ちるとか言ってるのだが、具体的なサイト名を列挙しようとしない。
Chromiumが原因だって言うならChromiumのIssuesに上げろよ。オープンソースをタダで利用してんだからそれぐらいの貢献しろよ。
まさか、ありもしないことをでっち上げてバージョン上げるのを渋ってんじゃねーだろーな。
→一応、最新バージョンで追いついた模様。
スマートフォンがそれほど流行っていなかった5年前ならまだしも、今頃になってこんな機能を標準搭載するとは時代錯誤もいいところ。
けど、消してくれ要望は見当たらない。まあ、あっても害はないからそんな要望は来ないんだろうな。もし消してほしいって要望出したらなんて回答する気かな。
最近のバージョンではいろいろ要望を聞いた結果、新しいタブのカスタマイズができるようになった模様。
ところが、このせいで表示が重くなった。重くなってもユーザーの意見が大事なのですかそうですか。
こういうことが、バージョンアップを重ねるごとに増えていくのかと思うとな。
これは、ChromeのUIに一生縛られ続けるということ。ChromeがUIを変えたら基本的には従うしかない。なぜなら、ChromeのUIに逆らうということはオリジナルからの修正差分が増えてしまうから。Chromium派生になったOperaが限界ではいかと(独自機能もいくつか消えた)。
よって、UIの抜本的改善は絶望的。ChromeのUIが嫌いな人には見向きもされないだろう。
また、「Google Chrome と同等の機能を実現」とか謳ってる癖にH.264、MP3、AACな動画・音声が再生できない(flashを使った場合を除く)しPDFの内蔵ビューアーもない。できないことがあるのに謳うなよ。正しくはオープンソースの「Chromium」である。半年たっても直ってないのだが、気づいていないのかわざと直していないのか。
「エターナル青春系ブラウザ」というふざけたネーミングはセンスを疑うほどダサい。誰だよダサいキャッチつけたのは。
それと、あのマスコットはなんだ。萌えに走らなかっただけまだマシだがゆるすぎてひどい。
その3と少しかぶるが、あえて分ける。
ユーザーフォーラムを作り、ユーザーの要望を聞いて新機能開発やるとか言ってるけど、それって「(自分にとっては)いらない機能もつけます」ってことだよな。それとも、「自分はこれから何をやったらいいかわからないので教えてください」か?自主性のかけらもない。
しかも、Chromeにない機能をつけるほどメジャーバージョンアップ作業が大変になるので、自分で自分の首を絞めることになりかねない。
約10年前がピークだったとある超ゴテゴテな国産ブラウザと同じ路線に行く気か。こんなので迷走しないわけがない。
言いがかりになってきたのでここまでにしておく。
だが正直、たかが国産という理由だけで何であんなに「いい」と思ってるのか、理解に苦しむ。
このままだと、Coolnovoと同じ末路だ。大丈夫かなこれ。
2015/1/13
懲りずに宣伝してやがる。
http://www.forest.impress.co.jp/docs/serial/moritalk/20150113_683480.html
もうそろそろ、破たんしそうだけど、どこまで持つかな。
こういうユーザーの意見をうんぬんとか言うのって、特定の人間にしか受けないソフトにしかならないのだが。
まあ、どうなるかある意味楽しみだ。
○政府委員(広瀬勝貞君) 先生御指摘のとおり、この情報処理技術者試験は、情報処理分野の人材の育成あるいは技術者のレベルの向上にとって非常に重要なものでございまして、私ども常にこれの見直しをしながらやっていかなきゃいかぬというふうに考えております。
この試験の分野でただいま使わせていただいております言語は、COBOL、FORTRANそれからアセンブラ言語、それにC言語でございますが、こういう言語を選択していただけるというふうにしております。
○加藤修一君 今開発言語の話がございましたが、COBOLとかFORTRAN、アセンブラ、確かに一部では使われているわけでございますけれども、これはほとんど使われなくなってい
る傾向に私はあると思うんです。使用しているメーカーはありますけれども、私から言わせれば、時代錯誤的な言語についでまだ試験の中で取り上げてやっているということ自体について、これは非常に大変なことではないかと思うんです。
今はC言語、C++あるいはPASCAL等々が主に使われているということを私は聞いております。そもそも言語自体が飛躍的に今進歩しているわけでありまして、御存じのように現在ではオブジェクト指向言語、こういったものが主流になっているわけであります。こうした新しい言語の新しい概念について試験をすべきであって、着流のCOBOLとかFORTRANといったものをいつまでも試験の中に入れておくことは、今後の情報処理産業を含めて、非常に大きな足かせになっていく可能性があるのではないかと私は思いますけれども、その辺についてはどうでしょうか。
○政府委員(広瀬勝貞君) 御指摘の点はよく私どもも勉強してみなきゃいかぬと思っておりますし、またこれまでもいろいろ議論をしてまいりましたけれども、言語をCOBOLやFORTRANに限って試験の対象にしているわけではございませんで、お話のありましたC言語なんかも含めてこれを選択していただくということにしておりまして、できるだけ言語の面でも技術の進歩に即応できるような、対応できるような制度にしてまいっているつもりでございます。
○加藤修一君 アメリカの現実を考えていきますと、アメリカの大学のカリキュラムを見ていきますと、もうCOBOLとかFORTRANとか、そんなのは全然やっていないんです。大体C言語なんですよ。もうこれは五年前の話ですよ。五年前の話でC言語が入ってきている、C++とか。実際問題、今の世界的な動向を考えていきますと、そういう開発言語というのはもうC++それからJavaに移行しつつあるわけでして、それに対応した試験内容になっていないと、受験者はやっぱりそれは選択とはいいながらもそれを勉強せざるを得ないというところがあるわけなんです。エネルギーをそこに注ぎ込まなければいけない。場合によっては、今使っていない言語それ自体をコンピューターにインストールしてその勉強をしているということも聞いているわけでして、本当にそういった意味では試験の内容について更新をしなければいけない。
これだけ変化の激しい業界にあって、試験がそれに対応したものになっていないということは非常に大きな問題だと私は思いますけれども、そもそもこの試験が何年に一回更新をされているのかどうか、その辺を押さえていらっしゃいますでしょうか。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/142/1240/14204091240008c.html
はっきり言って「萌え」はもう古い。
使い古されてしまった。
損耗してしまった。
枯渇してしまった。
10年ほど前、はっきりと私たちの前に概念として現れた「萌え」。
(「萌え」の淵源はここでは措く。そうだな、翠星石がツンデレオブザイヤーを連覇したあたりの時期をここでは俎上としたい。)
「ツンデレ」と「メイド」とを引き連れて我々の前に現れた言語「萌え」。
これらはもう古い観念だ。
これらはもう、おじさん、おばさんと言ってしまって差し支えない。
たとえるなら家庭用ゲーム機のことを総じてファミコンと言ってしまうような古臭さ、時代錯誤に等しい。
勿論「萌え」を考えるなというのではない。柔軟性なく、「萌え」でしか考えられない人が多いのが問題だ。
おじさん、おばさんは自分がそうした事態にあるのに気付かず無自覚である。
おじさん、おばさんと表現したが年は問わない。
若くして「萌え」に硬直・拘泥している人間も多い。「萌え~」とか未だに言ってる。
古くせえんだよ、おじさん、おばさん。そこに留まるなよ。
■国会ではよく、
「(国民の)信を問う」
とよく言うが、
まったく言葉に見合うことが出来ていないことについて、異議を唱える。
自分一人が言ったところで変わるはずもない・
昔からこういうもの・やり方がお粗末なのは最初から」といった、
あきらめの境地に至ってしまっている。
高い金を払ってうぐいす嬢を雇い、
「(誰々)をお願いします」と言うだけの選挙カーを走らせるのは勝手だが、
それと「信を問う」ことに、一体何の関係があるのであろうか。
それと「信を問う」ことに、一体何の関係があるのであろうか。
「~党からの推薦(~党所属)です」、という、組織的な裏付けを
集団になると、集団心理が入り込む余地が出てきて、急に思考力が落ちる。
立候補した人間個人の影は薄れ、「党」単位の戦いに完全にすり替えられてしまう。
時代錯誤も甚だしい。
正直言って、「信を問う」のであれば、
担保金や、上記のような馬鹿げた方法に大金をかけるのではなく、、
有権者にマニフェストをきちんと配布し、判断してもらうべきである。
(街頭演説や政権放送は良いが、タイミングが合わず見られない有権者もいる為)
基本的には、確実に有権者が受け取れるような、事前の情報提供が一切無い。
有権者が積極的に動き、新聞から出身大学がどうだとか、僅かな情報を得たり、
それでどうやって信任すればよいのか。
「(国民の)信を問う」という言葉を、軽々しく言って欲しくない。
意味のない旧態依然な方法や卑劣な方法を止めて、情報弱者の高齢者でも受け取れる、
日本人は馬鹿ではない。確実な情報提供があり、集団心理や利害関係を排除すれば、
高い思考力を発揮できるのだから。
※とりあえず、ぐちゃぐちゃ書いたけど、あんまり分かりやすくないし多分元増田以外にはあんまり伝わらないと思うんで、おおむねこれは私信みたいなものです。ごめんなさい。
さて、増田の言うような無知無教養の輩が多いのは否定しないけど、「歴史の(それほど悲惨とも言えないような)一コマを現代の意識で断罪するのはいかがなものか」という認識だって、立派な「教養」ではあるよ。その言葉の響きだけから想像して、歴史の一コマを現代の意識で断罪するのは、やってる側は気持ちいいかもしれないがあまりフェアな行為ではないと思う。
たとえば、時代劇を見ながら「主君のために命をかけるって時代錯誤な封建主義wwww」って笑うとしたら、そりゃバカだ。(そしてまた、そういう配慮から、当時としてはちょっと変わり者の主人公を立てて「実はこの人こそが現代的な感覚をもった人だったのです!」ってやる時代劇は実にクソだよね。大河ですらそういうのがあって、実にウンザリするんだけど。)フィクションの楽しみの一つは、「異文化」を体験できるという点にあるのであって、フィクションすら常に自分たちの文化の教養範囲内でしか理解できないし楽しめないとしたら、それはとてもそんな話だし、「異文化」に対するその余りに閉じた接し方というのは、現実において考えてみるとかなり危険なことではないかと思うんだけどね。
まあ、「おーい、お茶」に関しては、「そういう時代があったんだなあ」という時代劇/フィクションとしてそれを享受してる人間(都会育ち・40代以下)と、増田の言うリアルに体験した人間の間で感想が変わるのは仕方ないとも思うんだけど、後者にしたって、やり玉にあげるならもう少し違う対象でしょ、とも思うわけだよ。そんな、歴史の中に消え行く何かよりは、むしろ「今に生きている人間や制度の中に歴然とある差別」を対象にしろよ、と。そっちに目をつぶって(目を向けずに)「おーい、お茶」のことを得意げにあげつらうのは、どうも違うよな、と感じるんですよ。
まあ、フェミニズム分析の手法が、こんな社会の些末な部分にまで「常識的な教養」として浸透してきている現状については、それなりの感慨はあるのだけど。そこは、元増田と意見が共有できるんではないかと思うけど、どうだろう。
時代錯誤ながら、僕には許嫁がいる。地方の特に名士でもない家の生まれだが、祖父が「いろいろ」と懇意にしていた友人との間に結んだ約束らしい。小学1年生のころに説明されたのだが、判る筈もない。その場で紹介された女の子は、僕より4つ年上だった。彼女は礼をした。僕もあわてて礼を返したのを覚えている。この関係を聞かされた彼女がどうやって理解し、同意したのかは未だに聞いていない。
それから彼女とはよく遊ぶ仲になり、自然と恋をした。許嫁、といわれなくても僕たちは出会っていれば恋に落ちたのだろう。許嫁、という関係について理解したのは小5のころ。もう彼女は中学生だ。そう判ると彼女に比べて僕は幼く、魅力がなく、また彼女の周りには相応の男の子が大勢いることにも気づき、まだ子供の自分を恨めしく思ったものだ。それから僕はとにかく魅力的であろうといろんなことを頑張った。できることは全部十全にやりきろうと全力だった。何かを達成すると、彼女は一緒に喜んでくれた。その瞬間のためだけにがんばっていたと思う。
やっと中学生になったころ。当然彼女は高校生だった。もう大人だ。僕はまだまだこどもだった。毎日、いつ彼女が許嫁なんてばかばかしい、と言い出すのかと気が気じゃなかった。でも、高校生になり、僕よりずっとお奈々の彼女のは、いつだってそばにいてくれたし、ちょっとは僕たちの仲も進んでいた。まだまだ彼女のほうが背が高くてちょっと悔しかった。中学生だった。
僕が高校生になるころ。当然彼女は大学生だった。ますます彼女は大人になり、周りは(男は!)大人ばかりになっていく。でも、ついに、そんな不安を掻き消すことがあった、とだけ書き記す。とはいえ、合う回数は減っていった。でも、濃かった。僕のほうが濃くしようとしたのは正直なところだ。
そうやって今にいたる。この春から地元の名の通った大学に通っている。彼女は働き始めた。不思議なことに、今年の春からまた会える時間が増えた。働きだしてからのほうが時間が多いらしい。僕は彼女のことが好きだ。もう何度も言っている。そのたびに彼女も同じ言葉を返してくれる。言葉以上に事だってある。誰にも内緒だけど。
最近始めた遊びがある。2人でゼクシィを読む遊びだ。まだそれ以上のことはないけれど。やっと彼女と並んだような気分だ。会ったところで、映画を見たり、遊園地に行ったり、食事をするわけでもない。うちの台所でご飯を作ってくれて、それを家族で食べる。そのあとは応接間でたわいもない話をする。昔は彼女が話題を選んでいたように感じたけど、今は話したいことを聞いているように思っている。明日はめずらしく外で会う約束をした。彼女のあたらしいめがねを選びに行くのだ。そうと決めてから今週はネットで、実店舗でいろいろ見て回った。いつも僕を見上げる彼女に似合うめがねを探すのはとても楽しい経験だった。
先日も書いたけど 再編集
匿名じやなきや やばすぎる!
私は、有る村の部落の区長、自治会長 30代後半なのだが 田舎で
おじいちゃん、おばあちゃんの部落なので仕方なく、仕事は、集金、回覧配り、草刈り要員
平和に過ごしていたのだが 村が誘致企業をいきなり作ると、何をするのか書くとばれるので企業ね、
地元の方々が 誘致で 雇用がと、沸いている。運送系15人、工場運転15人 300日24時間操業
のだが調べるだけで環境もよくならないような感じで 近隣の市で誘致した他企業はネットで調べると
有用な情報がわかるのだが、ここはなにもかも隠して、他地区の企業は、事故もあったの隠しているし
家の区に住宅にも近く、自分でもこんな近くに無いなあと、思っていたらあれよあれよで
土地の取得まで これが企業がきてやればいいものの、 地元の方aとbが担当して、
aは、こわもて顔 売りたく無いと言う地主には、かなりきつい事をして、
この時代錯誤の この地区は、いくらでも不正がまかり通ると、 bも そんなに言うな
というぐらい酷いと、毎日、家に来たり、電話で 役所に苦情を言ってもとりあわず
しまいには、村の課長、課長もbの息のかかった人で 課長も同行、村の長の要請で動いたと
言いながら圧力かけて、、家業のことも、お前のとこも うるさいじゃないか
メール写し
今回の立地における土地取得に関しては、基本的には村からの誘致事業と言う形でのスタートであります。まずは、会社として直接、地権者の皆様へ事業の説明、第三者機関による不動産評価に基ずく金額をご提示の上、ご了解を頂いたのちに契約書の取交しをさせて頂くような手順で進めさせております。ご質問の件ですが、一部計画地交渉に関しては地域の調整を含む場所の為、部外者である弊社が調整を行う事は難しく、当初より町、地区のとりまとめの皆様と協議の上、調整をお願いしております。弊社がご質問にある罵倒、脅しての交渉などをお願いする訳もなく、交渉における内容も一切関知しておりません。交渉に行かれたメンバー、人数も把握しておりません。
弊社としては、地権者の皆様へは、事業のご理解、ご賛同を頂いた上での契約の取交しで進める事で今後も対処させて頂ければと考えております。
今回の常会開催の問い合わせは、公民館で開催された第2回地元説明会の折に、私さん自身から年配者が説明会に出ることができないため、新道区でも事業の説明会を開催してもらいたいとの要望を受け、事業者側からは地元であるからしっかり説明していきたいとの質疑応答を踏まえたものです。
・今回反対ということになりましたとのメールを5/1にいただきましたが、事業を実施する方からの説明を聞かないうちに地区の意見がまとまったのでしょうか?意見をまとめるうえではお互いの意見を聞いてから判断していただけたらと思います。区長名での意見書は町にとっては重みのあるものです。
・新道地区内では建設に賛成しているという方もおられるとの話も伺っています。より慎重な対応をお願いします。
結局、この方は、土地を売ったそうで、、、結局は、この地区は、お金が動かないと動かないらしい
メールや何かしても、ご自身で確かめて、確かめてみたけどどうすりゃいいの
黙って我慢しか無いのか!
県の方にうっつたえても、管轄外
bは役場出なの村の長ともなあ、なあ、、bの方がちょつとまとも?
村の長もグル aは、選挙の幹部をしていたと、 aは、事業に失敗して トラブルメーカー
他人の家に上がり込み、警察沙汰になった方
誰もがトラブルあいたくないので、適当にあしらってる 賛否なしに
喧嘩するのは損と高見の見物、、どうせaのやること失敗する。
村の長に質問の機会があり、
喜んで 賛成しようと、、人間の優しさすら無い 首長なら優秀なアホ
また、、aがうちの区を工場の賛成の署名ととっていて、反対に賛成連中も書いたらしい!
可決は無かった、私も引きずり落とす作戦のようで、、そのほうが楽でいいのですが 笑
環境影響調査出て 村は動くと言っているのだが
それからが勝負でしょう、、工場が建つにしても 条件で うるさかったら 操業停止とか
東京マガジン、これくらいやらないと、わからんのかなぁ。。出たらよろしく
嫌なとこ見たので、、、気苦労多そうなんで これから先 ここには、、、
死ぬまで 住みたくないm、
匿名じやなきや
私は、有る村の部落の区長、自治会長 30代後半なのだが 田舎で
おじいちゃん、おばあちゃんの部落なので仕方なく、仕事は、集金、回覧配り、草刈り要員
平和に過ごしていたのだが 村が誘致企業をいきなり作ると、何をするのか書くとばれるので企業ね、
地元の方々が 誘致で 雇用がと、沸いているのだが調べるだけで環境もよくならないような感じで
家の区に住宅にも近く、自分でもこんな近くに無いなあと、思っていたらあれよあれよで
土地の取得まで これが企業がきてやればいいものの、 地元の方aとbが担当して、
aは、こわもて顔 売りたく無いと言う地主には、かなりきつい事をして、
この時代錯誤の この地区は、いくらでも不正がまかり通ると、 bも そんなに言うな
というぐらい酷いと、毎日、家に来たり、電話で 役所に苦情を言ってもとりあわず
黙って我慢しか無いのか!
県の方にうっつたえても、管轄外
村の長もグル aは、選挙の幹部をしていたと、 aは、事業に失敗でトラブルメーカー
喧嘩するのは損と
喜んで 賛成しようと、、アホ
東京マガジン、これくらいやらないと、わからんのかなぁ。。出たらよろしく
嫌なとこ見たので、、、気苦労多そうなんで これから先 ここには、、、
死ぬまで 住みたくないm、
営業と運送土方以外いらんだろ
営業じゃないのかそれ。
公共交通機関を利用するのが嫌なのか?
コストカットを目的にしてるんなら、社用車使ってもガソリン代で結局コスト掛かってんじゃん
MT使うの何か知らねえよ
要するにアレだ。
稲荷神社で狐の好物がいなり寿司っていうけど、あれは豆腐屋と寿司屋の陰謀で何の根拠もねえんだ。
もっとも狐の好物はネズミの衣揚げだとよ。(ソースは平凡社百科事典)
それがどんな仕事であれ必要なんだって、最初にキャリコンが言うべき事なのに
そういう差別はいけませんって会社にいちゃもん付けるもんだから、会社も委縮して免許の有無を不問にしてる所が多い。
でもホントに欲しいんなら免許の有無は書いとこうよ、足切り出来るしさ。
世の中は免許持ってない奴は仕事できない奴とかシューカツする意味ないって批判的だけど、
それは世の中を包み込む閉鎖的な社会でだけであって、ホントはそんな社会すら通用しない程、
若い人ってのは免許の所持そのものに疑問を抱いてるかもしれないし、会社だって今じゃ営業とか専門職以外はホントにいらないと思ってるかもしれないぞ。
昔作られた歌に時代錯誤って言うのは…
なぜならば、戒律や教義が明確かつ厳密には存在せず、その代わりに、“広義における社会正義”を標榜する宗教法人群というものも存在するのであって、またそれらは、滅多にお目にかかれない珍しい存在という訳でもない。(定義が広いためにかなり曖昧な表現だが)
そういった団体が何を追求するのかというと、ある種の“健全さ”、“清浄さ”を追求する。
あえて言うが、そこに所属する聖職者達はつねに不健全さというものを決して容認する事なく、そして健全さをこそ理想形・到達形として求める。例を挙げれば、それぞれの家庭における子への教育も厳しい。時代錯誤ささえ覚える程だ。
だから、「自分の足で立たねばならない」「自ら歩き出さねばならない」という、何よりも自然さを追求する姿勢は、ごく個人的かつ私的な信仰であると定義できるものではない。そもそもこちらに信仰心などない。一番最初に書いた事だ。
ときに、弱っている人にとって、宗教という存在は特に優しく見えるものだ。神という存在に縋り救いを求める気持ちもわかる。しかし神に癒され、信仰に癒されて、元気を取り戻した後もなお宗教にべったりと寄り添ったままでいるのは、不自然なことでしかない。
それは、信仰の有無に関わらず理解できる論理的帰結であって、そしてここで今一度前述の夫婦の話に立ち返るならば、数年もの長きに渡り定期的にお参りに来る彼らに対しては、職場の聖職者達全員が「いつか神恩感謝の祈願に来るといいね(※願い事が叶った御礼を申し上げる祈願のこと)」と共通した感想を抱いている。
しかし、その聖職者達はあくまでも、意思決定の結果として提示された「祈願依頼」を忠実に誠実に遂行するのみであり、意思決定に至るまでの相談を受ける事はない。そもそも相談される事もない。
それはなぜかと言えば。宗教が迷える人の道標になる事はあっても、聖職者が迷える人の手を取り導いて都合のいい未来へと連れていく事はできないからだ。
そこに自らの意思が介在しない決定は、ただの他人任せの結末にしか辿り着かない。
だからこそ、一番最後は自分の判断で方角を決めて、自分の足で歩いていって貰う為にこそ、良く考えてから職場へ来てもらい、祈願を受けるか否かを自分の手で決めてもらうのだ。
一見、どうでもいい手順に思えるかも知れないが、これはとても重要な事だ。
一番最初の選択を自らの手で行ったかどうかは、後々尾を引いてのしかかってくる。
弱っている人は迷いやすい。頼りやすい。自らの意志を投げ出しやすい。
祈願依頼者の意志を左右する事は分を超えた行為であるために、カウンセラーの真似事は誰もやらない。
物語の最後に舞台の上からゴンドラに乗って降りてきて、登場人物達の結末を一人で決めてくれる、デウス・エクス・マキナの様な存在が実在したら楽だろう。心が弱ってる時、苦難に直面した時、そんなものを夢想するのもやむを得ない事だ。
だが現実にそんな都合のいい存在はなく、仮に自分の選ぶべき道を他者が全部決めてくれた事があったとしても、それはもはや自分の人生とは言えないのではないだろうか。
自らの事は自らで決める事に意味があり、それが自然である。そういった社会正義全般を尊ぶような信仰を持つ人々が、世の中には大勢いる。
左翼とか、朝日毎日フジとかのマスコミとか、中国政府とか朝鮮が言う軍国主義ってのは、分かりやすく言うと
これなんだよね。日本の外務省が仕事しないし、中国政府と韓国政府がギャーギャー騒いでロビー活動してるうちに、ヨーロッパとかアメリカのマスコミまで「日本の軍国主義が復活した」とか言い出してきてるんだけども。
憲法9条とやらを叫んでいれば弾丸も核ミサイルも効かない無敵人間になれるんならいいけど、中国はチベット人ウイグル人を虐殺して、インドの国境を超えてきて、最近だとマレーシアでここは俺の海だと攻めこんでいるんだっけ。で、日本にも船にレーザー照準を当ててきたりしてるんだよね。
で、そんな状況で「中国様が尖閣諸島付近で日本の船にぶつかってきたけど、中国様の印象が悪くなるから映像は出さないし中国様の言う通りにしておこう」という民主党には任せられないよね?福島みずほは、中国に攻められたとしても攻められてから考えればいいとか言ってるんだよ。キチガイなのか中国様万歳なのか知らないけど。
ああ、別に中国を攻撃したいとか戦争したいとかじゃないんだ。じゃなくて、歴史から見ても私達は平和です!だから攻撃しないでね!みたいのは有り得ないし、相手はちょっと頭のなか時代錯誤な中国だしな。こっちも武装しないと死ぬって話。あっちが国民のガス抜きのために攻めてくる可能性があるから、こっちも武装して平和を保とうねってこと。正直この時代に戦争しても旨味ないしな。
だから、正直自民党しかないんだよね。自民党以外の党のやつらは消え去ってもらって、自民党Aと自民党Bみたいに政策で別れて政治をやって欲しい感じ。
だから、首相はインドだったりロシアだったりと親密にやってるわけ。オーストラリアもか。あと東南アジア全般な。インドに軍用の何かを売るらしいしな。で、マスコミは中国と韓国と仲が悪くていいのか!ご機嫌とらなくていいのか!とか言ってるわけ。北海道新聞とか沖縄の琉球新報とか中日新聞とかも酷いよー。
アメリカに関しては、アメリカの民主党はいつも酷いというか、今のオバマが外交が下手すぎるのが大変だよね。シリアの件でもロシア主導になってアメリカの権威失墜したし。
長々と書いてきたけど、言いたいことはタイトルで書き終わってるんでね。ばいばい。