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【スクリーン雑記帖】今の日本映画にもの申す…「レベルが本当に低い!」 英映画配給会社代表が苦言(1/5ページ) - 産経ニュース
俺は普段映画を見ないのね。で、話題になった次の増田を読んだ。
挙げられている映画は10本。ブコメを見る限りでは、いいリストであるらしい。しかし、うち7本はまったく聞いたこともなかった。『野火』と『花とアリス殺人事件』はかろうじてタイトルを聞いたなあという程度。『海街 diary』はむしろ評判悪いと勘違いしていた。もちろん俺の情報感度が鈍いというのは認める。ただし、そんな俺の目にも触れる程度の大きな話題にはならなかったというのは事実だ。
一方で、こういうのはホッテントリ入りして目にするんだよな。
2015年 この映画はいったい誰が観に行くんだ!?大賞 結果発表 - 破壊屋ブログ
つまらない、またはつまらなそうな映画をいかに面白おかしく茶化すかという大喜利企画。洋邦問わずだけど、標的にされるのは邦画が多い。
あと、こういうのとかさ。
超映画批評「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」40点(100点満点中)
超映画批評「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド」30点(100点満点中)
今はこれ。
映画ファンは、とくに邦画に関して、いかに貶すかバカにするかという点で芸を磨きすぎている感じがするんだよ。読んでみればわかるけど、上の記事はすこぶる面白いんだよな。他にも挙げれば宇多丸の罵倒芸とかさ。面白い。面白すぎるんだ。結果として、どうにも邦画の悪いイメージばかりが先行してしまっている。
一般論として、褒めたりお勧めしたりするよりも、批判したり貶したり茶化したりするほうが拡散伝播しやすいというのがあると思う。その上、映画ファンは邦画に関しては後者に力が入っているのよね。結果、邦画がつまらないという話ばかりが蔓延して、良作が話題にならず埋もれてしまっている。素晴らしい作品だよという話を、いろいろな人から様々な形で目にし耳にすれば、1度劇場に足を運んでみようかと思うだろうけど、邦画に関して言えば、つまらない下らないバカバカしいと駄作の評判ばかり聞いて、良作を知る機会が少なくなってしまっているんだよね。俺が増田の紹介する10本の殆どを聞いたことすらないというのもこれが原因だろう。『海街 diary』を評判悪いと勘違いしていたのも、有名女優(タレント)を揃えた邦画というだけで駄作なんだろうなという先入観をもち、認知を歪めたのだと思う。
じゃあ映画ファンはどうすればいいかというと、駄作の罵倒の蔓延に負けないくらい大きな声で繰り返し繰り返し、自分の好きな映画・評価できる作品を勧め褒めちぎるってことなんじゃないかな。参考になるのは『ガールズアンドパンツァー』というアニメ映画。「ガルパンはいいぞ」という言葉は目障りで気持ち悪いくらいに広がり、結果として多くの人に知られ、興行的に大成功を収めた。もちろんもともと良作なんだろうけど、それだけではこの興行収入は達成不可能だった。ファンがしつこいくらいに宣伝しまくって(自分も何度も足を運んでってのもあるようだが)、あの数字を叩きだしたわけだ。実写ファンもこういうことをやるべきなんだよ。くだらない映画を茶化すことに頭をひねるのではなくて、見るべきだと思う映画をしつこいくらいに宣伝し、褒めちぎり、身近な人を半ば無理やり連れて行き、その作品の数字を残す。映画の話題で駄作の割合を減らし良作の割合を増やすように努力をする。そうすることで、邦画を取り巻く現状は大きく変わるのではないかと思う。傑作に心打たれるよりも、駄作をバカにしている方が楽しいんだったら、そりゃ日本映画のレベルが低いのはお前らが望んだことじゃねえかとしか思わんよね。
いつもは本ブログで映画批評はしているのだが、今回は匿名ダイアリーにした。本ブログをリア友に教えるのは絶対に嫌だし。
<以下ネタバレを含みます。本作視聴済み以外の方は戻ってください>
映画館にぎりぎりで到着。実は女の子を1人誘ったんだけど体よく断られたので泣く泣く1人で来た。
さて今回の映画だが、結論から言ってまったく駄作である。もう見終わってびっくらこいた。ここまでつまらなく作れるのは逆に才能だと感じる。
まずコナンファンとしていわせてもらうと、映画の冒頭カーチェイスは紺碧の棺で、記憶喪失ネタは瞳の中の暗殺者で既にやっているではないか!!もうこの時点で興ざめである。
また驚いたのがキャラクターの薄っぺらさだ。黒の組織、FBI、公安の三すくみが今回のテーマだったようだが、FBIは冒頭にコナンにタクシー代わりに使われたのち出てこないし、公安の観覧車に同乗していたモブはキュラソーの太ももプレスで簡単にイってしまうような腰抜けである。赤井は赤井でブンブン回るオスプレイを前に「難しい…」とつぶやくばかりでなかなかライフルを撃とうとしないし、安室に至ってはいきなりキレはじめてストリートファイトをおっぱじめたのである。この安っぽい韓国映画のような作風はどうにかならないのだろうか。
つまり1人として魅力的なキャラクターが描けていないのである。これで喜んでいるのは格好良ければ何でもいいような脳みそ高野豆腐の女子だけであろう。
キャラクターといえば新キャラ「キュラソー」にも触れなければならないだろうが、こいつは一体何だったのであろうか。せっかくの美貌とオッドアイという個性を持ち合わせているのに、さっさと記憶を消され、満足に活躍する間もないままダンプの中でプチッである。まあ生かしておくと赤井を超えるチートキャラになるので死亡フラグは登場時点でビンビンに張っていたわけだが、それにしても作中ずっと「わからない…」を繰り返すだけの痴呆女に成り果ててしまった…これには俺もベルモットもがっかりである。
ベルモットで思い出したが、黒の組織もあほすぎる。ヘリやオスプレイをぶんぶん飛ばしまくっているようだが、あれは暗殺と言えるのだろうか。ちなみにオスプレイは上空200mを飛行していても90デシベルの騒音が響く。彼らは水族館の照明を落としただけでご満足のようだが、地上の人間には丸わかりである(はずである)。あとちょっと笑ったのが、オスプレイに乗りながらズラかるとき、ジンが「空自が来る前にずらかるぞ」と言っていたが、あまりに航空自衛隊を舐めた発言である。国籍不明の未確認機をレーダーが捉えていないとでも思っているのだろうか、それとも首都高大爆破事件をもみ消した「大きな力」とやらがここでも働いているのだろうか。謎は深まるばかりである。
ジンの話をもう少しさせてもらうと、驚いたのは以前より精細さを欠いた哀れなジンの姿である。爆弾を仕掛けたはいいもののあえなく解除され、空しく起爆スイッチを連打する姿は面白すぎるし、いきなりオスプレイからガトリング砲をぶちまける姿はまるでクールとは正反対だ。実はこいつは非常にアホなのでは?そもそも組織内にFBIだのCIAだのがガバガバに潜入しているのもこいつの責任なのかもしれない。しかも倉庫でバーボンとキールを追い詰めたのにも関わらず、メール一本で「まあいい…」って、あなたあの残酷なまでのポリシーはどこに行ったのでしょうか。
と、ここまで残念続きのキャラクターたちであるが、キャラクターを作ったのは主に青山剛昌である、しかし今回の駄作映画の戦犯はやはりお涙ちょうだいの情けないB級ストーリーであろう。これは原作者ではなく映画制作班の責任も大きいと思う。
まず全体としてロジックの筋道が立っていないのは本当にやめて頂きたい。ゆっくり視聴しているのに、いちいち思考する必要が出てきて非常にしんどいのである。映画は時間に厳しく制限をつけることで視聴者に解釈の余地を与えないことが利点であるのに、僕が映画中に女の子のことを考えているようでは失格である。
特に頭をひねるのが、映画終盤、ベルモットが「あのメールを送ったのはあなた?」とキュラソーに電話で聞いたのに対し、キュラソーが一瞬の躊躇のあと「えぇ、そうよ…」と答える場面。
コナンによってメールが送信されたのはキュラソーが記憶喪失中で、その後もメールの送信に関してキュラソーが何らかの情報を得た、ような描写は存在していない、つまりこの電話の時点でキュラソーはメールのことなどまったく知らないのである。ではキュラソーはなぜこのような返答をしたのであろうか。考えられる説としては、
1.キュラソーが送ったと答えたのはカーチェイス中に送ったメールのことだった
1の場合ならば返答の説明はつくが、一瞬の躊躇の説明がつかない。あれは別に思い出すのに時間がかかったのではないだろう。
2の場合もどうであろうか。彼女が少年探偵団を頭が切れる集団だと捉えていたとは到底思えないし、クールキッドとは特に絡みもなかったのでこれもあり得ないだろう。
どちらにせよ心理描写が描けない監督なのは間違いがないようである。
さて、数々の爆破と死傷者を出し、屍を踏み越えてきた黒の組織。さらにNo.2であるRUMの存在も示唆され、物語は紛糾を極めている。作者は「原作100巻までに物語を完結させる」と息巻いているが、果たしてこのペースで間に合うのであろうか。物語は始まったばかりである。
後は文芸評とか映画批評とか? んで面白さは人それぞれなんで、つまんないのが持ち上がってると納得行かない。
対策は簡単なんだよ。もっと面白い物があると思ったらそれを拾ってきて拡める。
こいつツマラン、って思ったら似たような面白いサイトをそれこそ持ち上げればいんじゃね?
一番難しいのはその行為に見返りを求めず続けられるか。
取り敢えずはてな以外のランキング貼るからそこからピックアップしてブクマしてみたら?
ブログ村 http://www.blogmura.com/ranking.html
goo http://blog.goo.ne.jp/portal/access_ranking/
yahoo http://blogs.yahoo.co.jp/THBLOG/top.html?dt=w
楽天 http://plaza.rakuten.co.jp/acc/g600/
excite http://www.exblog.jp/ranking/
こういうのいいのか知らんし、多過ぎてよく分からんけどな(笑)
こんなんもあるのか。
ランク対策 http://ebloger.net/ranking-comparison/
三人いればいいんでしょ? 呼び掛けはマズイらしいから主観で紹介すればいいじゃん。
暇な時に俺もやってみるよ。誰かの目につくかどうかは知らんけどね。
今はもうなくなったけど、サイト名忘れたがなんかいっぱい映画評論やってたサイトがあってそこのほうが好きだったな。
亡くなった親父が黒澤明の大ファンで、黒澤明全集みたいなの持ってたな、ぼくは読んだ事ないけど。
ちっちゃい頃から「七人の侍」は凄いとか、「生きる」を見ろ、とか「乱」は流石黒澤だ、とかよく聞かされたもんだ。
スターウォーズをテレビで一緒に見たときは散々、この映画は「隠し砦の三悪人」の真似だ、とか言ってたっけ。
なので一発目はこれ。
マニアックな事はおらっちにはわかんねーけど、めっちゃ面白いよね、これ。
三船敏郎演じる素浪人の「桑畑三十郎」がかっこいいし、仲代達也演じるやくざもかっこいい。
また殺陣が素晴らしいし、オイラは素人だから専門的なことはよく分からんけど構図とか色々めっちゃ凝ってる。
七人の侍同様凄すぎて、アメリカ映画とかに真似されまくったらしいけど。
パート2に当たる「椿三十郎」も同じくらい名作だよ。最後の血飛沫が出すぎだけどw
でもオイラは最初の方にある馬の首のシーンが恐すぎて、ちっちゃい頃はそれ以上見る事が出来なかった。
マーロン・ブランド以上に凄みのある人なんて入るのかなぁ?と思ってしまうくらい。どう見ても明らかにほっぺた脱脂綿含んでるけどw
とにかく、マフィアこええええええええって映画ですけど、人間愛・親子愛・兄弟愛みたいなのが実に濃く描かれてます。
なお親父に言わせれば、コッポラもこの映画で黒澤の真似してるんだってさ。
「悪い奴ほど良く眠る」だったっけかな、なんか真似されてるらしい。
いやこれは正確には親父のおすすめではないんだけどね。
たまたま親父がテレビつけたまま寝てて、そこに映ってた映画がこれだったってこと。
なぜか親父がイビキするその部屋でじっと見てたわけ。
かなり昔の話なので、内容はあんまりはっきりとは覚えてないが、とにかくぼろぼろ大泣きした映画。
わけも分からずに見ててこんなに大泣きした映画はこれしかないw
最後のシーンと言うか景色がめっくちゃ素晴らしいと言うのは強烈に記憶に残ってます。
偉い古い映画ばっかりの紹介だけどこれは最近。つっても公開は多分10年前かな。
ぼくは前評判も聞かず大した情報もないまま映画見て感動するのが好きで、なので10見たら9は失敗なんだけど、そんな中で当たった映画の1つ。
脚本が物凄く良く出来てて、調べるとボール・ハギスは同じくアカデミー賞取ったクリント・イーストウッド監督の「ミリオンダラーベイビー」の脚本書いた人って言うじゃないか。
とにかくすんばらしい!手放しで絶賛。・・・親父は何の関係もないがw
親父は生前、繰り返し「砂の器」がいいって何度も言ってたんだけど、オイラはあんまりそうは思わんかった。
ハンセン病? これがよく分からんかったからかも知れんけど、何せ起きた犯罪が殺人一件としょぼくて・・・ごめん。
ただ、親父も言ってたけど、ゴッドファーザーの曲を真似したとしか思えんテーマ曲はなかなかいいとは思った。
とりあえずこんな感じで。
はっきり言ってしまえば、虐殺器官のトリックもハーモニーのアイディアも、SF的観点からするとさして目新しいものではない凡庸なものだ。
にも関わらず、「夭逝の天才作家」として祭り上げられる以前から○○おじさんを含むめんどくさい連中に評価されている理由は何かと考えると、ディティールの積み上げる圧倒的なリアリティにあるのだと思う。
虐殺器官に出てくる心理的マスキング処理、ハーモニーに出てくるアマゾンめいた個人評価のスター、これらは今現在からの延長線上の未来として演算される現実的なもので、一部の組織や企業内では既に現実のものとして実装されているものであろう。
彼の死から早6年、彼の最後の作品である屍者の帝国が、Project itohの最初の映像作品として公開される、それも彼が最も愛した映画という形をとってだ。
6年間、それはあまりにも長い時間でした。僕らの好きだった計劃さんは、どうしようもなくめんどくさい(そして愛すべき)はてダの映画おじさんという存在から、いつの間にかに「夭逝の天才作家」という世間を騒がすアイドルになっていてProject itohなるものが始動してしまう始末。
それでも、それでも、Projectに苦虫を噛み潰したような表情で立ちすくむ○○おじさんたちも、御大の小説が映像化されることには公開される前は素直に喜んで胸のときめきを抑えきれなかったはず、そう公開される前は。なんなんですか、いざ公開されたとなればハダリーたんのおっぱいとか階差機関に対する言及はあれども映画そのものに対しては皆口をつぐみ、挙句の果てに「地獄はここにあるんですよ」と指差す始末。
はっきり言おう、○○おじさんたちは生前の計劃さんから何も学んでいないと。
映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブに溢れる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。
批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「〜が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。
だから、こいつは映画批評じゃない。まさに印象批評的で、規範批評的で、それはすべて、ぼくが紹介する映画を魅力的に見せるためにとった戦略だ。
このページでいろいろ書いていることは、結局そういうことだ。
「おかえり、フライデー」
人間は死亡すると、生前に比べて21g体重が減少することが確認されている。それが霊素の重さ、いわば魂の重さだ。我々は魂が抜けた肉体に擬似霊素をインストールすることによって死者を蘇らせる。
原作は我らが伊藤計劃、そして円城塔。といってもたった30枚の遺稿は映画化にあたってオミットされている。メディアミックスなるものは今日当たり前のものになりつつあるのに、なぜかこと映画化に関しては地雷であるという評価が当然のものになりつつある、特にマンガやアニメの原作付きのものに関しては顕著だ。本作もその類に漏れず、○○おじさん達から大変な不評を買ってしまっているが、伊藤作品の映像化という観点からすれば私は十二分に楽しむことができる傑作だと思った。
原作付き映画に何を期待するかは人によってそれぞれ違うが、原作のストーリー通りに話が展開するだとか、セリフを忠実に再現するだとか、冒頭の30枚を残すだとか、少なくとも私はそういったことには重みを置かない。小説には文字の、映画には映像の文法がそれぞれあるのだから、単に忠実に再現するだけでは翻訳として成り立たないし、少なくともメディアミックスとしての価値はない。それは原作ファンを称するクラスタに向けた言い訳に過ぎず、怠惰な姿勢だと思う。
文字とはすなわち情報であり、映像もすなわち情報である。その違いがどこにあるかというとtxtファイルとwmvファイルの容量を比べるまでもなく、圧倒的な情報量にある。つまり同じシーンを描写するにあっても、映像化のためには不足する情報を画面に徹底的に描き込まなければならない。では不足する情報をどこから補ってくるかといえばやはり原作であるのだが、単に帰納的演算に基づいて情報を付加すると、あたかもjpeg画像を拡大したように荒く違和感を感じるものになってしまう。そこで映像化にあたっては、原作を入念に読み込み世界観を理解したうえで、原作に存在しなかった情報を加えることでディティールを明確にする。一方でその情報量が過剰であるが故に、人は文字を3時間追うことができても、映像を3時間観ることは困難なのもまた事実(現実的には予算だとか尺の問題だが)。そこで行われるのは物語の圧縮である。先に述べた情報の付加と異なり、如何に情報量を減らさずに短い時間に収めるか、如何にディティールを残したまま圧縮できるかが肝になる。
こうして完成した映像作品は、個々人の頭の中に存在する「原作」とは違ったものとなっているので、ほぼ確実に違和感を与えることになる、場合によってはそれが不評の原因になるかもしれない。だが、ここであえて言わせてもらえば、その違和感こそがメディアミックスとしての醍醐味であって、映画を見る楽しみの観点であろうと。
私はかつて植民地だった地域によくある上海の租界のような場所が好きだ。それは現実の宗主国の建築物を現地にある材料で模したまがい物に過ぎないのだけれども、望郷の念からか過剰に演出されたそれらの建物は本物のフランスやイギリスの建物より本物らしく見える。例えるなら歌舞伎の女形が女性より女らしいようなものだ。
映像化された屍者の帝国に、私は原作より原作らしいもの、あるいは書かれることがなかった、この世界線には存在しない真の原作の面影を感じることができたと思う。
ボンベイにたむろする屍者の労働者、○○おじさんにも大好評だった圧倒的なディティールの階差機関、白く荒涼としたカザフスタン、目黒雅叙園に相撲の浮世絵ジャパン、映像化に際して付加された情報量についてだけでも映画として申し分ない。かつて彼が愛していた世界観型の映画のように、産業革命の時代に屍者技術なるものが存在した場合どんな世の中になるかというSF的観点なif、たったひとつの嘘による世界構築がなされている。
「あなたにもう一度逢いたかった、聞かせて欲しかった、あなたの言葉の続きを。」
原作ではフライデーが円城塔で、ワトソンが伊藤計劃にあたる。彼が残したテキストを読み足りない情報を補って、作家伊藤計劃を脳内にエミュレートして続編を書くという行為を考えれば当然の配役である。小説のエピローグで、彼岸に渡ったワトソンを思ってフライデーは自らの意思を持ち動き出す。一方、映画ではその立場が逆転して、ワトソンが円城塔でフライデーが伊藤計劃にあたり、旅の目的は伊藤計劃の復活である。映画の文法としては旅の目的の明確化だが、○○おじさんにとっての不評の元凶となる改変だ。BLだノイタミナだとdisる気持ちもわからなくはないけど、ヴィクターの書記を手に入れて伊藤計劃を復活させるという話が映像化第一弾として公開されることに意味を感じる。
冒頭にも書いたが伊藤計劃の小説は言ってしまえばそんなでもないし、同じようなものを書ける人は出てくる。けど、彼の映画批評のような愛と薀蓄に溢れた文書を書ける人はもう出てこないような気がする。それでも彼がもし生きていればこの映画をどう評論しただろうか、死んだ彼がこの映画を見たらどう評論しただろうか。
最近、マングローブが潰れたことで虐殺器官の話がよく出てくるから伊藤計劃についてのウィキを見た。この人32歳で作家デビューの29歳ではてなダイアリー開設って…。なんだこのざわざわするような経歴。しかも、34で亡くなってて、2作しか出してないけど伝説的という判断の難しい経歴してる.それまで興味のなかった作家の名前から唐突にはてなダイアリーの名前が出てきて、作家デビューも比較的遅咲きで、もっと言うとブログは創作ではなく評論系だと知ってなんとなく気になり始めてる…ぼんやりと.まぁ、前から「有名になる前ははてなダイアリー使ってました」とか「作家デビューする前はブログをガンガン書いてた」的な人の存在は聞くから今更驚くことはないけど、ちょうど僕がはてなに入るのと入れ替わりに亡くなってた人だったから全然存在を知らない・聞かない・興味ないで寝耳に水だった。最後の日記が(亡くなる2ヶ月前で)酷い病状を綴った生存報告で、プロフが典型的なはてな民みたく非モテがうんぬんとか書いてる…。なんだこの異質な空間。
ああ…あと3年早く伊藤計劃さんの映画批評の記事は見たかった。自分がしたい方向性に対するものは多分こういうことなんだということがガッツリ書かれてた。これは読んで良かった。今の僕には葛藤がないけど、ないことを再確認させてくれた。さっきの映画評とは反対に「これ、文章力が桁違いに高いけど、中身は(古参の)はてなのおっさんが考えそうなことそのものだよなぁ」ということに驚いてる。そして、少しはわかる分だけ胸打たれる自分がいる。
芸術系の就職率というか進路の不安定さって薄い奴と濃ゆい奴の不協和音の産物なんだと伊藤計劃さんのブログを見て気づいた。薄い人は「なんで来たの」という程度でしかなく、濃ゆい人はその人らに時間を潰されたり、自分達を批評しうる相手に出会えず煮詰まったりしていくんだろうなぁ…。と思った。
僕は中学生からオタしてた人に比べるとオタになった年齢も歳行ってからだし、もっと言うとそれ以前も特に文学少年だったわけでもないから趣向として深いところに行きたいと思ってても、結局薄いものの中にしか選択肢がないと頭の中で思う程度の世界観しか長らくなかった人間ゆえ、どちらでもあり、ない。そこが難しくて、ぬるオタならヌルオタ、濃いオタクなら濃いオタクになれると幾分か幸せになれる気はするが、あいにくどっちにもついていけないんだよなぁ…。それで「自分ルールにオタクしよう。他人を必要としないマニアが多いモノをつまみ食いしていこう」という不思議なオタクをしてるわけだ。高校生まで4大週刊誌+モーニングぐらいしか読んでなかった人間が中学から同人誌読んでたオタクにオタク力で勝てるわけ無いじゃん!エドワードゴーリー読んだら家族会議が始める母親のもとで母親がすすめるカラマゾフの兄弟をきっちり読める息子が育つと思う?…という家庭環境でした。「濃いオタクをやりたいんだったら、発達がある程度完了した中学生・高校生の段階でキッチリと文学読んだほうがいいよ」と僕は言っておく。大学生になってから読むのは結構しんどい。大学生になると何にも縛られないから辛いことをやりたくなくなるんだよ。
だから、グリザリアの果実みたいな話になっちゃうんだけど、高校生までにすべきことは読書と同年代とのセックスなんだよ。その2つができてれば人生は結構豊かだが、私の人生はその2つをしそこねたからモテとしてもオタクとしても中途半端で、独自路線を模索せざるを得ない状況になってしまった。電波教師じゃないけど、高校生は勉強してる場合じゃないんだよ。旧帝大か早慶に行ける自信がないなら、1文学読むこと、2同級生とセックスすること、3部活かなんかで体力をつけることの3つにリソース傾けたほうがいいよ。パワーもないやつはホームラン狙うより打ち分けやミート、守備の練習すべき。身もふたもない話、高校卒業した後ならいつだって大学なんていけるけど、モテることで救われたり、文学知識・読む体力が要求される(映画からゲームまで様々な)娯楽に没頭できる年齢は若いうちしかなく、またその時鍛えてからじゃ遅い!若さの使い方を学校にまるなげするな!自分のために若さを使え
前に、貧乳向け下着を作った二十歳の女から「アートニートはクズしかいない」みたいな書き込みを見て「いや、20で道が決まってるほどキッチリと道を見つけてたか、環境があったか、レールを敷いてもらったかしたあなたが幸せなんだよ」と言いたくなったことがあるけど、今の気分そんな感じ
何か他人のフォーマットに当てはまらない事に気づいても、それで悲観するのはやめよう。他人のフォーマットしかない人生でもなきゃ、自分でフォーマットを作っちゃいけないわけでもない。他人に当てはめるばかりじゃ自分の持ってるパーツをよく吟味しなくなってますます自分が作れなくなっていくからね。そりゃ、高校生だったら適合してるかもしくは今からでもできるという指針としてこうすべきということはあるが、それは自分ではもうできない。今の自分にできるのはフォーマットの中に入れたなら入り続けることで、入れなかったのなら作ること。過去にどうすべきだったはさほど意味は無い。0ではないが
僕はあなたじゃないけど、あなたじゃないといけないってことでもない。畏怖や憧れは相手への経緯を超えて自分と比較したらタダの嫉妬か、むしろマイナスの後悔にしかならない。あなたにも、またお前にもなれず、組み込まれることもないと気づいた時点ですべきことはもっとあるだろうからそれをしようか
“「自分が読めていないだけなのじゃないだろか」”/これ、逆も怖いんだよなぁ…しんかいさんみたく「自分だけが読めているから10年前の作品を自分だけは批評できる」みたいなスタンス。そんなわけないのにね♪あと、「誰も信じるな」という大きなタイトルが批評の話の前についているのも個人的には好き。引用ゲームで評論をするアニメやオタク系の評論の人を知ってるがアレはいわゆる権威主義的でしかなく考えてさえない
danose Zガンダムとグリザイアの果実や電波教師でモテを語るオタク。ついでに殴られるしんかい。やはりしんかいは許されなかった。
前田有一の「超映画批評」で、進撃の巨人(後編)が俎上に上がっている。
やたらと監督批判が厳しくて、話題になっているが、私としては監督は悪くないと思う。
水原希子はミカサにはまったく合わないキャラという評判だ。また、演技も不評だ。
http://laughy.jp/1438845157277107155
石原さとみも、かわいいことはかわいいが、恋愛ドラマには向いているとしても、凄惨な作品には合わない。
俳優だけでなく、脚本家もひどい。脚本は、プロではなくて、ただの評論家である町山智浩なんていう人物が書いている。(もう一人との共同脚本だが。)こんなアマチュアに脚本を任せるということ自体が間違っている。
こういう観点から見ると、監督もまた人選ミスだとわかる。樋口真嗣は、特撮監督ではあるが、監督としての実績は乏しい。日本沈没では成功したが、隠し砦の三悪人では大失敗し、のぼうの城では成功した、というくらい。系統的に見て、特撮を生かす系統の監督であり、映画そのものの演出能力は低いと見るしかない。他の大監督に付き添う特撮監督ぐらいの位置が適しているように見える。
結局、俳優も脚本家も監督も、すべて人選ミスだと言える.その責任はすべてプロデューサーにある。人選するのはプロデューサーの仕事だからだ。
今回の樋口真嗣監督は、この人が悪いというより、もともと能力を超えた仕事を割り振ったことに問題がある。樋口真嗣監督ばかりを責めるのでは可哀想だ。この監督は、何か悪いというよりは、単に監督としての能力が低いだけだ。悪いのは、そういう人に監督を任せたプロデューサーだ。責めるなら、プロデューサーを責めるべきだ。
前作の 成功・不成功は、商業的に製作費を回収できたかどうかを基準に見ています。作品の出来映えではなくて。
・映画批評サイト「Rotten Tomato」からまとめてみました。
観客支持率 :90%
批評家まとめ:ポール・ラッドのチャーミングな演技のおかげで、『アントマン』はその小さなスケールにふさわしい形でマーベル的スリルを観客に与えてくれる。もっとも、マーベルとしては最高クラスの傑作というわけではないが。
褒「『アントマン』は面白い。なぜなら、大作映画的なトリックを大作映画的な誇張表現なしに実現しているからだ」――メル・キャンベル(「ジャンキー」)
貶「害虫ってスタート地点がスーパーヒーローとしてキワモノだな、って以外になにかあるの?」――リチャード・ローパー(「シカゴ・サン-タイムズ」)
観客支持率 :85%
批評家まとめ:スタイリッシュで、ロックで、なにより楽しい。マシュー・ヴォーン監督ははしゃぎまくりの放埒さでもってスパイ映画の打ち上げに成功した。
褒「『キングスマン』は紳士にはオススメできない。この作品は、お下劣で血に飢えている俺らのための映画だ。遺漏なく完璧に練られた技巧で、邪悪なオタクたちを爆笑させてくれる」――ビルゲ・エビリ(「ニューヨーク・マガジン/ヴァルチャ」)
貶「ヴォーン御大の問題は、映画的技術としてのバイオレンス描写に一切興味を持っていないところだ。彼はバイオレンス描写を使っているのではなく、浪費している」――マノーラ・ダージス(「ニューヨーク・タイムズ」)
観客支持率 : 45%
批評まとめ: 面白みのないタイトルが中身の独創性のなさをよく表している。『ラスト・ナイツ』は手垢のついたファンタジーによる比喩表現の寄せ集めだ。ジャンル的な目新しさ、面白みもない。
褒「往時の作り手たちはラグジュアリーな息吹をジャンル映画に吹き込むすべを心得ていたものだ。もはやそんな大作はあまり観られなくなってしまったがね。私はこの作品が大好きだよ……欠点も含めて」――ジョン・ダーニエル(「スレート」)
貶「『ラスト・ナイツ』はこの上ないほど完全な駄作だ。とにかくダルくてからっぽで、disる気力さえ沸かない」――クリスティ・ラミーア(「ロジャー・イーバート・ドット・コム」)
観客支持率:55%
批評まとめ: 懐かしのクソゲーのようだ。『ピクセルズ』は「やりなおし」のコインを追加する価値もないし、そもそも25セントに値するかも疑わしい。
褒「まあ、80年代ネタてんこもりの内容は子どもにはウケないだろうけれど、それなりに面白いよ」――レイファー・グズマン(「ニュースデイ」)
貶「『ピクセル』にはウィットもなければジョークもない。よって言うべきことも何もない。ゲロだけはたっぷりあるけどな」――ジョン・セムレイ(「グローブ・アンド・メール」)
『ファンタスティック・フォー』(ジョシュ・トランク監督、10月公開)
観客支持率:21%
批評家まとめ:かったるい上にテンションも低い。『ファンタスティック・フォー』は必要なユーモアや喜びや色とりどりのスリルを欠いた状態で古典コミックを現代的に翻訳するという、あまりに痛々しい過ちを犯している。
褒「主演の四人――マイルズ・テラー、ケイト・マーラ、マイケル・B・ジョーダン、ジェイミー・ベル――は良いキャスティングだ。彼らのギークな理想主義はジョシュ・トランク監督の広い視野によく合っている」――ベン・サックス(「シカゴ・リーダー」)
貶「笑えるほどチープ。頭の悪さでは『未来惑星ザルドス』に迫るレベル」――クリスティ・ラミーア(「クリスティ・ラミーア・ドット・コム」)
『ジョン・ウィック』(チャド・スタエルスキ+デヴィッド・リーチ監督、10月公開)
観客支持率 :80%
批評家まとめ:スタイリッシュ、スリリング、めまぐるしいアクション。『ジョン・ウィック』はキアヌ・リーブスのアクション映画へのカムバック作として満足な出来だ。今後のシリーズ展開が期待される。
褒「完璧とはいえない。だが、(特にハリウッド製中規模アクションドラマとして)際立っている。先週の金曜のレイトショーを観てからずっと私の心に固く刺さりつづけている作品だ」――デヴィッド・シムズ(「ジ・アトランティック」)
貶「スタイリッシュな暴力映画、ってだけ」――ブルース・ディオンズ(「ニューヨーカー」)
『コードネーム U.N.C.L.E.』(ガイ・リッチー監督、11月公開)
観客支持率 :80%
批評家まとめ:『コードネーム U.N.C.L.E.』は面白げな仕掛けとスター俳優でなんとか平凡なストーリーをごまかそうとがんばった結果、全体としては本質のなさをギリギリ露呈せずにすんだデコボコアクションスリラー、といった趣に仕上がっている。
褒「ここまで誰得?って作品もそうそうないと思うけど、だからこそ、この映画が上手にリンボーダンス踊れていることにビックリした」――ウェズリー・モリス(「グラントランド」)
貶「見た目はいい(ガイ・リッチーはいつだって巧妙な映像作家だ)ものの、古いドラマのリメイクとしては圧倒的に受け身すぎ」――アダム・グラハム(「デトロイト・ニュース」)
・60点。(ただし70点満点)
・(70点満点の映画の例:「ドゥームズデイ」「トロールハンター」「戦慄怪奇ファイル コワすぎ!史上最恐の劇場版」など)
・とても面白かったです。
・「劇場版あまちゃん」を観に行ったら「橋本愛が福士蒼汰のセフレになっていた」という超展開。
・全国のあまちゃんファン激おこプンプン丸だが、能年玲奈ファンの私は、めっちゃかわいい能年ちゃんが観れたので大満足、といった塩梅。
・けれん味のあるゴアシーン。
・いまいちだと言われるシナリオも、ホラー映画と思えば十分すぎるぐらい。
・超映画批評、「リアル鬼ごっこ」75点、「進撃の巨人」40点
・「リアル鬼ごっこ」は、トリンドル玲奈の下着姿と、斎藤工の白ブリーフ姿が観られた。
・たぶんそれが原因で35点差。
・石原さとみがおっぱいを出してくれてさえいたら、本当に言うことがなかった。
・後編には期待しています。
・原作で唯一の東洋人ハーフのミカサ役の水原希子が、映画版では唯一のアメリカ人とのハーフ
・冒頭シーンに出てくる爆弾に金髪の白人女性が描かれているので、作中に「西洋」は存在するはず
ということで後編は「巨人は放射能大怪獣! 全部アメリカが悪いんや!」オチと予想します。
どうなる後編。出るのかおっぱい。
望むと望まざると関わらず、権威を持つということは、そういうことだ。
今回は映画関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
「誰がどう見ても駄作」の批評への信頼度は高いが、そうじゃないときは個人の限界をモロに露呈させているからさ。
例えば、調子に乗って無意味な続編を作った映画として、私は「トワイライト・サーガ」系列をよく挙げるのだが……。
おっと、勘違いするなよ。メインターゲット層にのみ視点を絞っていえば、「トワイライト」はその役目を間違いなく果たしている。
ただ、分不相応に流行り、調子に乗って無駄な続編を作ったのがダメというだけさ。
特に、そのシリーズの中でも「エクリプス」は、蛇足と駄作の境界で反復横とびしているような出来でね。
シリーズも板についてきただろうに未だ大根役者、デフォルト顔がお口ポカーンヒロインのベラ。
少年雑誌のラブコメ漫画も失笑するレベルの、「ニュームーン」での不自然な三角関係を無理やり継続。
明らかに吸血鬼エドワードのほうになびいているのに、ベラが狼男ジェイコブにキスを要求したときは、新喜劇ばりのズッコケをしてしまったよ。
シナリオも、シリーズ全体から考えて不必要だと断言していい内容の薄さ。
唯一褒めたいアクションシーンすら、カップラーメンができるのすら待ってくれない。
75点だ。
「トワイライト」、「ニュームーン」よりも高い点数をつけてしまったんだ。
しかも、あのサイトではかなりいい方だということも、信頼を損なうには十分な理由だね。
最終作で、無駄にパート1、2に引き伸ばした「ブレイキング・ドーン」の批評?
ないんだな、これが。
あと、これは私にとっての例で、他にも明らかに変な点数をつけて批評をしているから、試しに探ってみるといい。
とはいえ、これは超映画批評に権威なんてないという話なだけで、そもそも個人の感想なんてアテにならないものさ。
もちろん誰にだっていえるが、大事なのは君が実際に観て感じた体験、それこそが真実なんだ。故に、己自身という「個」に勝る評論家は存在しない。
批評がなければ映画が観れない、或いは批評を読んだだけで映画を観た気になるような輩でなければの話だが。
まあ、色々けなしたが、酷い低得点のときは割と信頼できると思うので、あのサイトは話半分で読むことをオススメするよ。
その二択だけ?……じゃあ、スーパーマンで。
バットマンはカッコイイかもしれないが、私からすればあれはコウモリのコスプレしたおっさんなので。申し訳ないが。
私がそう思うのは、やはり数十年前のTVドラマの影響が強いね(OPでひたすらバッマーンっていうやつだ)。
ファンにとっても、バットマンを世間に知らしめたという意味で功績は評価するが、いかんせんコメディ色の強さが今のダークな世界観を好む層には合わない。
映画でバットマンが、ボンバーマンのように爆弾を持って走るシーンや、サメを撃退するシーンはいま見ても面白いが、滑稽すぎるともいえる。
残念だが、いまのバットマンに望まれていないんだ、そういうのは。
私だって、好きなバットマンの映画を挙げるなら「マスク・オブ・ファンタズム」を挙げるしな。
とはいえ、アニメイテッドシリーズのとあるエピソードで、TVドラマ版バットマンの俳優が声優で参加したこともあるし、やはりTVドラマ版を無下に扱っちゃダメだとも思うんだ。
くれぐれも、リスペクトを忘れないことだよ。
「ダークナイト」の吹き替えを観た時、声優がちゃんとクリスチャン・ベイルのバットマン喋りをマネしていて吹き出しそうになったんだが、つまりそういうことだ。
超映画批評に限らんけど。女二人が「めっちゃ泣きましたー!」言ってるCMとか、ロッキンオンの長文の方のディスクレビューとか、風俗の無料紹介所くらい胡散臭い
批評とか感想なら(中身のない罵倒や絶賛を除いて)それが曲解や電波でも、映画を読んだ一人一人の自由な考えだから間違いじゃないいつも答えはひとつじゃない「愛してる」と君が言う口先だけだとしてもたまらなく嬉しくなるから。それに色々な評論を読んでいろんな角度から君を見てきたその全てが愛しくて作品理解を深めたり、「違う違う、そうじゃ、そうじゃない」とツッコミ入れるのも楽しみ方の一つ。
ただ、点数低い(評判悪い)から見ないとか、点数高い!見にいく!とかはよくない。スマステやネガキャンに流されてるだけかも。面白い映画が見たいならチャップリンとかエドウッドとか、評価が定まった古典作品を見ればいい。
週ファミのクロスレビューでも、点数より採点者一人一人のコメントや点数を付けた理由とかが大事だったはず。
だから絶賛されてたり好評価でも、お仕事でやってるだけかもよ?と疑ってかかるべき。でも胡散臭い採点ならそのうち誰も相手にしなくなるから別にいいか。
本を読んだり映画を観賞したりした後、日記がわりにちょっとした感想や批評を書きたくなることってあると思う。そしてときには、それを公開して作品について他の人と話し合ったりしたくなることもあると思う。
でも自分のブログ等でそれをする場合、自分がどんな本や映画を見るのかといった情報が読者に知られることとなってしまう。そんなの気にしないという人ももちろんいるだろうが、それは嫌だという人もそれなりにいるだろう。またそうしたやり方をする場合、どうしても自分が発信者で他の人は情報の受け手という関係になりやすく、対等な立場で忌憚のない意見交換をするということは難しいんじゃないかとも思う。
こうした難点を考えるとき、増田は誰が書いたかわからず、またトラバによって気軽に対等な意見交換をすることも可能であり、感想・批評の投下にきわめて適した場所ではないかと思うのだけど、そういうのはほとんど見ない。なぜ?何か理由があるのだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20130320200411
「本当は誰も作画を語れないのに、あえて語らないのだというポーズをする優越感ゲーム」気持ち悪いです。
ま、でも、難しいですよね作画語り。
演出語りをそこそこ「それっぽく」する人は多いですけど、その語彙は基本、映画批評からの輸入ですし。
アニメしか見ずに、アニメの演出を語れるようになった人っていないんじゃないですかね。
作画語りの語彙不足についても、結局は実写作品(映画や演劇)の批評から「役者の演技を語る語彙」を引っ張ってくるのが一番手っ取り早い気がします。
「そんなお勉強したくねーよ」「映画だの演劇だの、お高くとまりやがって」
と言いたくもなるでしょうが。
しかし、昔の作画オタクって、その辺の教養を身につけてる人が多かったような気もするのですが(特撮オタクは間違いなく多かった)。
今はそうでもないのかな。
ヒドかった。
手元に紙面がない(間違って捨ててしまった)ので引用できないのが残念だが、
はてなで問題視されている「自然分娩至上主義の問題点」とか「吉村医院のカルト性」に
ついては、一切言及されていない批評になっている。
「いい映画なんだろうなあ」、吉村医院も「いいお医者さんなんだろうなあ」という
5段階評価で「星4つ」の評価がされている。
この評価は
http://garth.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/2010-0999.html
や
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20101109/p1
のような
「吉村医院のカルト性が露呈されているので、カギカッコ付きの『いい映画』」
という皮肉的評価ではない。
単純に、「出産や女体の神秘を描いた、いい映画」として星4つ評価なのである。
なんか
無邪気な「ノリ」で星4つ付けているのである。
そもそも、日経は、意外なことに、こういう「ナチュラル原理主義」に対して、
ワキが甘い。
ホメオパシーが問題になる前の今年の7月頃とかに、これも日経夕刊だったが、
ホメオパシーを好意的に取り上げていた。
朝日によるホメオパシーバッシングが始まってからも、日経のホメオパシー批判は
やけに遅く、全然力が入っていなかった。
日経の男性読者というのは、こういうナチュラル原理主義に対して
懐疑的な人が多いからあまり実害ないのかもしれないが、
その奥さんは、ナチュラル原理主義に対抗できる「リテラシー」を
ちゃんと持ち合わせているのか?