はてなキーワード: 日の丸とは
これがウヨを恐れたんじゃなくて韓国差別だと取られることを危惧して変えたとかだとは死後の外されっぷりがすごくて面白いのでそういうオチを期待したいな。
まあこの手の話で怒る方々がヒカルの碁で「え?ただのローカライズだよねえ?」という反応で終わってたのが未だに腹が立ってるので
「え?ただの時勢を配慮した変更だろう?これぞポリティカルコレクトネス」とか返し対という思いはある
韓国の方々へではなく韓国に肩入れして日本は糞!日本は糞!日本は糞!といい続けた、というか実際に日の丸にウンコを書くことすらした人たちへの意趣返しで
もちろんこういうの良くないなあと思うしサムゲタンのときはあの作品は韓国でも配信していたわけであくまでもユーザーへのサービスだと俺は当時から言い続けてるが
行楽シーズン到来で、これから旅行に行こうなんて人は沢山いるのではないでしょうか。
さて、勢いに任せてカメラを買ってみたけど実はあまり写真に自信がないという人も多いかもしれません。
そんなあなたに、即効性のある今すぐにでも写真が上手になるポイントを3つご用意いたしました。
1.大胆にアイレベルを変えてみる
3.日の丸を捨てる
ピンボケや手ブレ写真はだいぶ減ったのに、なんとなく自分の写真がつまらないというレベルの方が対象です。
1.大胆にアイレベルを変えてみる
写真が単調だと思う人はいつも自分の目線で写真を撮っているのではないでしょうか。
被写体によって適切なアイレベルがありますが、もっとも簡単に意識できる方法は、一体その写真は誰の目線で撮らているかということを考えることです。
例えば子供の写真を撮るとき、親目線で撮ると見下ろす形になります。そうなると、子供の背景には地面の要素が多く写ってしまい何だか面白みのない写真が出来上がります。
そこで立ったままではなくしゃがんでみることで、子供の視点から撮ることを意識してみてましょう。
子供の背景には空や景色が入り込みます。子供がどんな場所で遊んでいるかという情報が写真内に流れ込んできます。
さらに親を見るときの見慣れた見上げるような表情も、真正面から捉えることで意外な表情を映し出すことができます。
花を撮る時は土の上にいる虫の目線になって見上げてみたり、蝶の視線になって真上から見下ろしてみたりと様々な表現のヒントになるはずです。
写真をある程度撮り慣れてくると、失敗を避けるために強い光を求めるようになるはずです。
そうなってくると、十分な光量を確保するために知らずと順光=正面から光が当たった写真ばかりを撮ってしまっていることも少なくありません。
様々な角度から当たる光と、それによって作られる陰の妙を楽しみましょう。
例えば逆光で撮影をする時、スマートフォンなどのカメラだと被写体が黒く潰れてしまうことがあります。
しかし、測光をしっかりと陰側で行なうことで、被写体の周りを優しく光が包むような幻想的な写真を撮ることができます。
例えば花を撮るときも、順光ではのっぺりとした面白みのない写真になりやすくなりますが、逆光で撮影することで透明感のある写真に仕上げることができます。
これは、透過光という光が被写体を透ける効果を利用したテクニックで、写真の世界では当たり前のように活用されているテクニックといえます。
横からの光は、光の当たる側と陰の強い側とが同時に存在するドラマティックな写真を撮ることができます。
窓際に食べ物を置いて撮るときも、窓と直角の位置から撮影してみるといつもと違う写真が撮れるかもしれません。
真上からの光源は意味ありげな陰を落とし、下すぎる光源は被写体に非現実的な雰囲気を生み出します。
風景など自らが光源をコントロールできない状況では、今度は完全に受け身になり、仕上がりを意識しながらシャッターを切るようにしましょう。
光源によって作られる雰囲気をレタッチで変えることは困難です。それならば、光源の持つ雰囲気を活かすことのできるレタッチを行うことができれば、写真はより完成に近づくというわけです。
斜め方向からの光や、ストロボなどの補助光を使ってみるなど、光源に関する知識はとても奥の深い世界です。
まずは自然光とどのように向き合うことができるかチャレンジしてみましょう。
3.日の丸を捨てる
被写体を中心において、何も考えずにシャッターを押すと出来上がるのが日の丸写真です。
日の丸写真自体が悪いわけではありませんが、全てにおいて通用する万能な構図でもありません。
最近のカメラでは簡単にグリッドなどを表示させる機能が備わっています。
縦横それぞれに均等に三分割する位置に線を引き、その線上、もしくは線同士が重なる交点に被写体を持ってくるというテクニックです。
例えば左向きの人物を撮影する時、縦三分割の左に配置すれば、被写体の背中にドラマが生まれます。
逆に右側に被写体を配置すれば、被写体の前にドラマが作られるわけです。
例えば背中には過去や後悔、おってくるものなどが表現され、前側には未来や希望、目指していくものが表現されます。
被写体が真ん中のままでは、見る側がストーリーを描きづらくなってしまう。それが日の丸構図の難しさといえるわけです。
ある程度三分割法に慣れてきたら、開いている空間の別のラインや交点にストーリーを表現するものを配置してみましょう。
それによってその写真が持つメッセージ性は、無限の広がり持つことになります。
しっかりと身に付けておきましょう。
わかったらさっさとカメラ持って外に出やがれ!
こんな文章いくら読み込んだって実践がなきゃうまくなるわけねーだろ!
1日100レリーズ!シーンに合わせたモード切り替え素振り1000!写真1枚に付きレタッチパターン最低5!
悩んだ数だけ答えが用意されてるのがこの世界だ!カメラ任せでボケボケ写真とってうまくなった気でいるんじゃねぇ!
https://www.youtube.com/watch?v=sk6uU8gb8PA&feature=player_embedded
ダサい。
センスの欠片も感じられない。これが評判良いってマジかよ。
批判は大袈裟であり、大勢のアスリートが出てくる中に制服姿の女子高生もいるだけなのかな?と思っていたけれど
女子高生が思いっきり最初に出てきて一人だけフューチャーされてるのね…。
特に性的な目で見ようとしなくてもパンチラするんじゃないですか?
それを避けたのかもしれないが小さすぎてよく見えないし。
しかも女子高生だけじゃなくアーチェリー選手と思しき女性も顔が前面に出ていますね(もしかして椎名林檎本人だったり?)。
男性選手は後ろ姿だったり逆光だったりして顔は目立っていないのに。
胸に日の丸をつけて踊ってる女二人とか、敢えて狙ってやってるのかもしれないがやっぱりダサい。
新幹線とか橋とかが映ってるパートはまあまともかも?と思ったけど
どうせなら東京と言っても都会だけじゃなく下町の人情的な部分もあるんだと見せた方がよかったんじゃないか(スカイツリーや雷門だけでなく墨田区のうんこビルまで出てくるのに)
ただのよくある都会っぽくて、東京ならではって感じが全然しないんだよなあ。
首都としての東京の歴史が始まったのは江戸時代からなんだから浮世絵とかアピールすればいいのに、どうもこの動画は明治維新以降しか描く気が無いようだ。
一方ロンドンオリンピックのプロモはその街らしいしかっこいい。
日の丸の赤というのはまさに暖色の中心の赤。
それを中心に据えながらCool Japanを表現する難しさはデザインを心がけた人間ならすぐに分かることだ。
セレモニー中に使われている暖色は赤のみ。しかも、FF0000と表記したくなるくらい原色の赤。
それに対して、ショーのメインとして使われているのは白黒のモノトーンと、赤の補色に当たるシアンとそれより寒色側に位置する青系のみ。
基本となるモノトーンは、潔さや清潔感を想像させる白、礼儀や誠実さを感じさせる黒という日本の代表的なカラーと言える。
そこにただ寒色系を織り交ぜだだけでは無機質で寒々しいショーになってしまっただろう。
しかし、日本の象徴であり暖色の代表格と言える赤を、さらにテーマカラーではなくアクセントとして時に大胆に用いたことで、内に秘める情熱やたぎるような生命力が見事に表現されていたのだ。
恒星は青くなるほど温度が高くなる。そんなことをも思い出させてくれるような、火傷では済まない熱さが伝わったはずだ。
そのために黄色や緑などの生命感溢れるカラーを徹底的に排除し、それが生命力溢れる原色を前面に押し出すリオのショーに対して真っ向から挑むことになったのは単なる偶然ではないのかもしれない。
リオが押し出したのが生命や自然だったのに対し、マリオやドラえもんなどの非実在キャラクターや都市やテクノロジーなどが存分に登場するムービーがそれを物語っていると言っていいだろう。
多くの観衆や視聴者はこのたった10分間だけのショーを見ただけで、リオオリンピックは過去のものになってしまったと感じたはずだ。
その証拠に、東京五輪セレモニーを挟んだ前と後のショーとでは全く違うものに見えたのはわたしだけではないはずだからだ。
一見挑発ともとれるこの行為は、まさに地球の裏側であり全く文化の異なる国にバトンが渡されたことを意味するには効果が絶大であり、オリンピックが終わった直後であるにも関わらずすでに4年後を期待させるにはこの上ない演出となったと言っていいだろう。
居合わせた観衆や視聴者の誰もが東京五輪に少なかぬ期待を抱いたはずだ。
ここまで大したデザインも勉強したこともなく、ホームページの配色くらいしか担当したことのない人間の妄想だったがいかがだったろうか。
しかしそれよりも何よりも、自らの人生40年を振り返って、まるでその集大成を走馬灯のように見させられたかのようであまりにも感慨深かった。
本当に近頃の商用文化だけでお茶を濁すようなものにならなくてほっとしている。この時代に生まれてよかった。
ただこの考えで行くと、小池百合子氏が選んだ高価なお着物の配色は東京五輪のテーマとはそぐわなくなってしまうのだがこれは何かの暗示だろうか。
結論から先にいうと、あんたたちが山田太郎議員を推しているのは、表現規制問題以外の部分も都合がいいからだけだろう
逆の言い方をすれば、いくら表現規制問題に本気で取り組んでいたとしても、民進党や共産党を支持するつもりなんてさらさらないでしょ
いや、ときどき見るんだよ。オタクは表現規制反対で一枚岩だとか、最優先事項だとか。何を綺麗事を言ってるんだと思うけどね。表現規制以外が気に食わなければ、支持するつもりなんて全然ない癖に。
オタクは表現規制なんてどーでもいいでしょ。二の次三の次でしょう。
あの人たちはいうんだよ。党派性を無視して、今こそとか。自分たちに都合がいい人が出てきたからって、都合のいいことをいってんじゃないよ。
昔の話ですよ。確か非実在青少年規制が通ろうとしていたときですよ。
自民党が条例を通そうとして、民主党とかの野党が阻止しようとしてたわけ。表現規制条例が通るかどうかの真っ最中。
そんな中でtwitterを眺めてると、流れてくるわけさ。民主党は中国と仲がいいから表現規制賛成派だー。民主党は表現規制では役に立つけどそれ以外はダメだ。一回や二回じゃないの、何回もつぶやきやRTで流れてた。
いや、別にオタクがどこを支持しようとしったことじゃないよ。確かに民主党はダメだ。ただ、条例がいま通ろうとするときにつぶやくことかね、RTすることかね。そんなん選挙の前にでもすればいいでしょ。ダメなことはみんなわかってんだから。
そもそも民主党や共産党は何もやってくれなかったみたいなことを山田太郎議員の支持者の方はいうけどさ。何度も条例に反対したのは功績じゃないのかな。そこはまったく認めないんだっていう。
山田太郎議員の功績みたいなのを出したりもしてるけどさ。同じことを民進党の議員がやっても名前を出して別に褒め称えないんでしょ。二次創作が守られたよかったよかっただけで、"なんとか議員の功績で""共産党のお陰で"二次創作が守られましたとはならない。わかってんだよ、あんたらのやり方は。
こんなことは昔からオタクをしてる人なら麻生さん支持の看板が秋葉原にできたときからわかってることだろうけどね。表現規制賛成派の麻生太郎さんの看板が。
前に秋葉原で在特会がデモをするといったときに、秋葉原は政治的に中立だから来るなとかいってた人がいたけど、麻生さんの看板を設置しててよういうよ。
いまは撤去されたから違うって? 毎度毎度の選挙後に自民党の宣伝カーが秋葉原駅前に集まって、日の丸を振った人が囲む光景をみて、秋葉原は中立なんていう人はいないと思うけどね。秋葉原は十分政治的な街ですよ。あそこまで都合よく自民党に使われてて、そうは問屋が卸さないでしょう。
とかいうと、自民党が勝手に来ているだけというだろうけどな。自民党も自分たちを強烈に支持してくれる土壌がないと、選挙戦最後の場所には選ばないでしょう。
こんなことをいってもね、冷笑混じりにこれだから左翼はwとか、リベラルはwとかで済ませられるんだろうけどね。オタクなんてそんなもんなんだよ。わかってんだよ。理屈はなくてもそうやって馬鹿にすれば勝ち誇れるんだから、楽でいいよね。
彼らからは綺麗事しか出てこない。信用できない。これが10年以上オタクをやってきて表現規制問題を眺めてきた自分の結論。以上。
そんじゃーねー‼︎
エンブレム問題のとき有志があげてた自分ならこう作るみたいなやつと今回の候補案発表に、一部のデザイナーとその発言を笠に着たデザインちょっとわかりますくらいの他業種の人が口々に印刷したときに~だの縮小したときに~だの言ってるけど、別によその歴代エンブレムもわりと縮小したらなにかわかんなくなりそうなのとかテクスチャとかグラデ使われてるのあるんだけどな
そもそも亀倉エンブレム(省略してごめんなさいね)の日の丸だってグラデかかってるし
ていうかそれは印刷所他ががんばるところであってそのデザインがいいか悪いかの判断基準にはならないと思うんだよな
再現性の高さみたいな視点がやたら強調されるけど、そもそもオリンピックなんて大規模な国際行事の関連印刷物やらなにやらを適当な印刷所に頼むわけないじゃん、そんなこと気にすることか?と思うんだけど、これは自分の感覚がおかしいのか?むしろそんなお祭りの時こそガンガン金かけて再現性低いものでも再現してやればいいじゃんと思うんだけど
そして公式に作られる資料や印刷物以外での使われ方で醜く見えようともそれはもう委員会やエンブレム作者の責任ではないのでは?
自分も一応デザイナーやってるけど、エンブレム問題で目に付くデザイナーサイドの人の意見はほとんど同意できずずっともやもやしている
自分で描くのは良い。原作と画風が違うから別のキャラとして認識できる。
だが原作からの切り抜いてきた場合はもう最悪である。特にアニメアイコン、君たちはその罪の重さについてもっと考えた方が良い。
アニメを見た時にかわいいキャラクターが出てきてもそれをアイコンにしていた人の薄汚れた発言が次々にフラッシュバックするのだ。地獄である。
◆第4位:被る可能性の高いアイコン
アイコンを見て、誰なのかを認識したあとにツイートを見る。これがTwitterにおける一般的なツイートの読み方である。
なのでアイコンが同じな別の人のツイートを見ると「あれ?この人こんなこと言う人だっけ……?」と不安になり、
その後名前などを見て別人だと確認して胸を撫で下ろす、というプロセスが加わるのである。
要するに、ストレスが掛かるのだ。常にストレスに晒される現代、こんな所でストレスを感じたくはない。
「日本人としての誇りを」「世界に向けたアピール」みたいな狙いがあるのかもしれないが、そういう意識の高さをアピールしてくる時点でもう色々と厳しい。
意識の低い俺にとって、インターネットとは意識の低い俺の為の娯楽でしかないのだ。意識の高いものを見せるな。
◆第2位:ウケ狙いのアイコン
アイコンでウケを狙うようなやつは基本的に面白くない人間なので、アイコンは十中八九滑ったものになる。
一回滑るだけならそれほど気にしないが、アイコンは本人が変えない限りいつまでも残る。つまらない一発ギャグを何度も何度も見せられる人の気持ちを考えてくれ。
そりゃ俺だってエロいものは好きだよ。でもわざわざアイコンに設定する必要はないじゃん。
エロって稀少なものだから良いわけでさ、いつもいつでもそこにあったら「なんでこいつずっとエロくしてるの?」って思っちゃうわけじゃん。
エロいものに疑問を持ったらもうおしまいなんだよ。その瞬間に性欲は失い、エロの持っている下品という性質だけが残る。エロをもう愛せない、そんなの残酷すぎるだろ。
息子の通う中学校の年間予定表で近隣の小学校と合同で行うクリスマス会と節分のイベントが復活していました。
「復活していた」とは、前年度の2年間行われなかったからです。
行われなかった理由は、その2年間在任していた校長先生が「クリスマスも節分も宗教行事だから、公立校で行うのは望ましくない」とおっしゃったのが理由。
毎年かなり盛大にやっていたので、卒業してしまった上の娘はかなり残念がっていました。
今日の教員発表で、その校長先生の教育委員会への栄転と、クリスマス会、節分のイベントの復活が突然発表されました。
校長先生の退任は昨年度の間、まったく聞かれることがなく、いきなりだったので生徒も父兄も驚いていました。
教育委員会に大きな影響力を持つ組織が望むことをやってれば出世できるんですね。とか、教育委員会入りを約束されたエリートさんの箔付けのための勤務だったんだろう。なんて噂も飛び交っていました。
この増田がとんでもなく自分にとって都合のいいように解釈していると簡単に理解できる。
まず、大きく3つの種類があると言っているが
増田の理論を紹介する最後の文章が、彼にとって都合のいい記述になっているのが分かる。
ラディカル・フェミニズム なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノを諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。
ポルノを諸悪の根源とはせず、とはポルノ大好きなキモオタにとってはプラスである。
リベラル・フェミニズム なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性の創造",1965)が示すように、フェミニズムを男性と女性の権力闘争化することに否定的立場をとる。
男性を敵視しない憎まない、というのは男性と女性が権力闘争しないということではないはずだ
そもそもフェミニズムを男性と女性の権力闘争に使わないなら、一体何から権利を取得するのだろうか
マルクス主義フェミニズム 日本ではさらにそこに独自の思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別と男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。
なぜ、紹介した?
フェミニストからキモオタは死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミは死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。
フェミニズムとは何だろうか。
私はフェミニズムを名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタらしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミに死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。
しかしフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。
そこで手当たり次第に適当にフェミニズムの書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズムの理解の取っ掛かりになれば幸いである。
フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラル・フェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。
現在のラディフェミの理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズムと表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者の社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源はポルノであるという揺るぎない確信から、ポルノの法規制を推進する。
ポルノが性犯罪を誘発するという統計的な証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィと性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者が告発することも認められない。
ポルノには、ホモもレズも二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすいゲームやマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノンである。
なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノを諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。
J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義・ジェンダー・家族",1989,*3)であり、「女性と男性の重要な差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。
夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児が押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。
このように家庭内の賃金、労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミは女性の社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性の育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育の重要性を訴える。
なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性の創造",1965)が示すように、フェミニズムを男性と女性の権力闘争化することに否定的立場をとる。
出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである。女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統的フェミニズムである。
女性の社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。
日本ではさらにそこに独自の思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別と男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。
レズビアン・フェミニズム、ブラック・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグ・フェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアル・フェミニズムとか。
同性愛者とフェミニストの関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイ/レズビアンの視点と、ポスト構造主義の理論を、政治的にひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線を理論的に張ることが出来るようになった。
リベフェミは広範な男性差別は否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別は肯定する。ラディフェミは男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性だけが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別は肯定されるのかもしれない。
セクハラ、家庭内暴力、中絶、女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタクと関係の深い「性の商品化」について取り上げる。
マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化」であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。
リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待、強姦、日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全な思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府の検閲に利用されると強く批判する。
一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示の権利の行使」であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本のフェミニズム6,2009)」とする。
ここから見えてくる点として、女性が「不愉快」であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから、表現の自由は全く関係のない話である。
リベフェミであるマーサ・ヌスバウムは嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニングの妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳派フェミニスト宣言",1997)としてゾーニングは効果がないと批判する。
ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。
そのような不快感を根拠とした規制は恣意的な運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているからである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである。
なお、福島瑞穂は非実在児童のポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田の見解がマルフェミの共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノの法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫・昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定数存在する見解であるように思われる。
初期の日本のフェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学の担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロとアマの距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。
こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。
「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。
「理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。
これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。
このようにフェミニズムは一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本のフェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸」フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニストの愛国心に苦言を呈している)。
最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場で上司が女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力は夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正にフェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。
私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。
いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。
増田はなぜ「演歌を守る会」から「日の丸に忠誠を誓う」なんてものを発想したんだろう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%94%E6%AD%8C
演歌の起源を調べてみると「藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段 つまり、政治を風刺する歌」とか書かれていて日の丸への忠誠なんかとは真逆のものだし
今の演歌はだいぶ変質してるとしても基本は恋愛それもドロドロした悲恋の歌ばっかりで、むしろこれこそ平安時代の和歌に通じる日本の伝統かと思われる
今日もはてブのホッテントリーに「伝統文化の演歌を守れ」みたいな頭がパヤパヤしている人たちの話があがっているが、
どうして、ああいう人たちは、2600年以上(主催者側発表)の歴史を誇る我が国の伝統の、最期のほうに
自分は歌舞伎と歌舞伎が好きなんだけど、当然のことながら、古典の歌舞伎や落語には、
日の丸あげて君が代うたって天皇陛下万歳を叫ぶような人間は、一人としてでてこない。
当然だ。すべて、明治になって西洋文明の真似をして作り出したものに過ぎないからだ。
デザインとしての日の丸とか、和歌としての君が代とか、言葉としての万歳はたしかにあっただろうが、
あれを、ああいう形に整えたのは、「日本の伝統文化」とはあまり関係がない。
万歳は、たしかイギリスで王様にむかって「フレー」と叫ぶやり方の猿まねのはず。
基本的には、国旗とか国歌というのも西洋人が作り出した「近代国家」とやらが国民をまとめるために作り出したもんだろう。
もちろん、現代の日本も「近代国家」として運営して、それなりに回っているわけだし、海の向こうから持ってきたものを
巧いこと取り入れていくのもまた日本の伝統だから、声高に日の丸君が代反対とか叫ぶつもりもないが、
例えばアメリカ人がバカみたいに星条旗に忠誠誓わせたりするのに違和感を感じるのが、日本人の正しい姿だろうと思う。
あれば、200年ちょっとの歴史しかない薄っぺらな移民国家が国民をまとめるためにやっていることで、
シャープがFoxconnに買収される方向になることが決まりつつある。
現時点では両社の交渉は延期だが、
最終的にはFoxconnに買収されることを私は支持している。
日本の社会全体で見ると、産業革新機構がシャープを買収して欲しいという論調だ。
エルピーダーメモリーの時、産業革新機構が出資したが、破綻した。
そもそも、コモディティ化が著しいメモリーに、日の丸だからというだけで
コモディティ化した製品なので、為替による影響が大きい製品なのに。
私も愛国者であるので、日の丸企業にシャープを買収して欲しいと思う。
だが、産業革新機構だったら、Foxconnのテリー・ゴウ氏に買収してもらう方がいい。
または、日の丸企業だったら日本電産のCEOなどハングリー精神を持っているところがよい。
日本電産のCEOもFoxconnのCEOも一代で大企業を作り上げたたたき上げだ。
一方シャープや産業革新機構のCEOは社内政治でCEOになったのだろう。
たしか、2000年前半あたりだろうか、シャープとサムスンが訴訟合戦となった。
シャープにとって不条理な訴訟にも関わらず勝ちに拘らないで、和解した。
これを見て、この会社先がないと感じた。
私は、数年前台湾にある、とあるグローバル企業の日本法人とプロジェクトを一緒に行った。
グローバルで活躍する台湾企業には、今の日本企業にはないコスト感覚がある。
なぜこのコストなのか細かくリーズニングが徹底的に要求される。
ただ、グローバルでみるとどうだ。
正当な主張をしない株主は正しいのか?
シャープを見ればなにか見えてこないだろうか。
「これからはすべての入口となるテレビが重要なのでテレビに力をいれる」
といっていたが、この昭和時代のパラダイム・先見性のなさをみて
株主は黙っていたのだろうか。
みなさんはどう感じられたか。