はてなキーワード: 一人ぼっちとは
大学生のころ自分の固定概念が強すぎて周りの人間や環境を馬鹿にしていた。
心の中でおかしいだろと毎日思っていたがおかしいのは自分だったことが、卒業してから誰一人の連絡先も知らない一人ぼっちになってから気づいた。
心の中で思っていたものがまわりに駄々洩れで、隠しているはずが隠しきれていなくて、それでも普通に接せられていると勘違いしていた。
なんであんな変なことが正しいと思えてたのか不思議でならないし、今思うと恥ずかしいことだらけで本当に馬鹿だった。
SNSやまとめサイトを鵜吞みにして、現実をよく見ていなかったため人を馬鹿にしてしまったことがたくさんあった。
自覚してからことあるごとにフラッシュバックするのが一番の戒めだと思っている。
茨木のり子の「自分の感受性ぐらい」を自己解釈しすぎて、自分の好きなことや行動が他人に理解できないなら、自分だけはそれを信じないといけないと思っていて
小5から中3まで、学校に友達は一人もいなかった。家庭もメチャクチャで、父親に骨を折られたりしていた。インターネットも使わせてもらえなかったから「本当の意味でひとりぼっち」だった。この、「本当の意味で一人ぼっち」ってのは凄まじい体験で、ものすごい絶望感なんだよ。小5から中3の5年間は本当に、とてつもなく長い時間で、体験しないと絶対に分からない。猛烈な絶望だった。ずっと死にたかった。
15歳のとき本当に死のうと思って、塾をサボって夜9時から何時間か、公園でボーッとしてた。ロープ持って、死ぬかどうか迷っていた。でも心のどこかで、誰かがふっと現れて、僕と話をしてくれるかもしれないって心のどこかで期待してた。頭がおかしいよね。この世に一人も会話できる人がいないのに、それでも誰かを待ってた。結局死ねもせず、誰も来なくて、帰宅したけど。そのとき梶井基次郎の「檸檬」をBOOK OFFで買った。意味分かんないけど、今でも持ってる。
15歳の自分は、26歳になった今でも俺の中にいる。「死ね!死ね!」とがなり立ててくる。「お前みたいな26歳になるために生きてきたんじゃねえ」と泣き叫ぶ。「今からお前を殺してやる」と言う。26歳の俺は「許してくれ、お前はあと半年でうつ病になる。そして10年経っても治らない。その成れの果てが俺だ。でも俺は懸命に生きてきた。褒めくれよ、人生を投げなかった。自殺しなかった。死なないだけで精一杯だったんだ」と土下座して、泣きながら詫びる。でも15歳の俺は、「お前が死なねえなら俺が死ぬ!」って言うんだ。15歳の僕よ、お前はもう、生きることも、死ぬこともできないんだ、ごめん、ごめん、ごめん、…………
時は流れて僕は大学院生になった。あまりにも辛いときは、親しくしてくれていた大学院の同期に、どう考えても迷惑な鬼電を繰り返したり、延々と迷惑なLINEを送ったりした。僕には相変わらず友達がいないから、孤独がつらいとも言った。そしたら「私達は友達じゃん!」と言われて、ハッとした。僕にも友達がいたんだと思った。次の日、突然その子の最寄り駅まで行って、来てくれるように頼んだ。「来てくれなければ死ぬ」とも言った。
4時間待った。彼女は当然来なかったけど、代わりに警察が来た。当然の結末だった。パトカーで家まで送られた。パトカーの中で、「ああ、僕は15歳のあの夜を再演していたんだ」って気付いた。スーパーヒーローやヒロインでも何いいけど、誰かが僕を救ってくれると信じたかった。誰かが僕を理解してくれるはずだと信じたかった。15歳の僕を救いたかった。僕を見つけてほしかった。つらかったこと、つらいこと、色んな話をしたかった。でも結局、15歳の、誰にも助けてもらえなかった夜を26歳になった今、再演してみたら、「誰か」は来たけどそれは警察だった、という気の利いたオチだったわけだ。
うつ病の診断が下ってから、ちょうど10年経つ。結局、誰とも繋がれなかった。誰にも分かってもらえなかった。何もできなくて、15歳の僕は26歳の僕を永遠に責め続けている。「殺してやる、お前が死なないなら俺が死ぬ」と、泣き喚いている。ごめんね、お前はもう生きることも、死ぬこともできないんだよ、ごめんね、ごめん……
たぶん幼稚園の年長か小一くらいの時のこと。
ある日の夕方、母が弟妹を連れてちょっと本家に行ってくると私に言ったのだが、私はテレビで『天才バカボン』を観るのに夢中になっていて、「わかった」と生返事をした。母はそんな態度の私に腹を立てていたようだ、というのは覚えている。
荒々しく玄関の引き戸を閉める音がして、家の中が急にしんとした。それでも私はバカボンを観続けていたのだけど、番組が終わるや、急に寂しくなった。私はそのとき、母が「本家に行く」と言ったことを忘れて、母を探したがおらず、弟妹も誰もいない。小さい頃ずっと私の面倒を見てくれた祖母は、長期入院中で家にいない。今思えばそんなに長い時間ではないのだが、家に一人ぼっちで置き去りにされたのは初めてで、私はパニックになった。
私は大声で泣きながら家の外へ走り出た。庭にも誰もいないのを見て、駐車場から敷地外へ抜け出して農道に出た。門扉を開ければ庭から直接公道に出られるのだけど、それはしなかった。「勝手に門を開けて道路に出ると車に轢かれておっ死ぬぞ」と、小さい頃から祖母に脅かされていたためだ。
畑にも誰もいないことを見てとると、私は泣きながら農道を歩いた。農道の、畑から公道までの間の距離は短い。たぶん20メートルもなかったと思う。私はその短い距離を行ったり来たりした。
母は本家に行くと言っていた。本家までは数百メートルくらいだっただろうか。私の家と本家までの間には、屠殺場と二つの工場があった。そのせいで、うちの目の前の道路は二台の車がすれ違う程度の幅しかないのに、日中は沢山の配送トラックが行き交うし、通勤の乗用車やバイクもよく通った。幼い子供が一人で通るには危険な道だったから、「一人で道路へ出ない」と厳しく言い付けられていた。だから、母はきっと本家にいる、と知っていても、砂利道の農道からアスファルトで舗装された公道に出る勇気が私にはなくて、ずっと農道の、家の垣根に沿った部分を私は往復し続けていたのだ。
時刻は午後6時を少し回ったところだったと思う。確か『天才バカボン』は6時ごろに終わったからだ。外は夕暮れどきで、東の空が薄いピンクと紫のグラデーションで、少し霞がかっていたと思う。近所の屠殺場も工場もとっくに終業していて、車通りの少ない時間帯だったはずだ。でも「一人で道路には出ない」という約束だったから、私は他にどうすることも出来ずに、大泣きしながら同じ所をぐるぐる歩き回っていた。
そんな時に、本家の伯母がやってきた。
「おっかさんがお喋りに夢中になってっから、ちょっと心配で見に来たのよ」
と言って、伯母は私をおんぶした。私は伯母の背中でわあわあ泣いていた。伯母は私を背負ったまま、公道と農道の接する所に立って、母が弟妹を連れて帰ってくるのを待った。伯母が来てくれてから、母が戻ってくるまでにはそんなに時間はかからなかったと思う。
泣いている所へ伯母がふらりと現れたことは、当時の私にとっても不思議なことだった。我が家には、よく祖父母と伯父が遊びに来たものだが、伯母が来ることはなかった。伯母はいつも本家の台所か、近くの畑にいた。寡黙で余計な口を利かず、そして何故か家族親戚から疎まれている人だった。家族からちょっといじめられていて、それに黙々と耐えている姿が近寄り難くて、私は本家の人達の中で伯母にだけはなついていなかった。伯母も私には数多くいる親戚の子の一人であるという認識しか持っていなかったのではないか。赤ちゃんの頃から知っているにしても。
なのに、そんな伯母が、
「あぁよかったよぉ」
と、真底安堵した様子で私をあやした。伯母が素の笑顔を見せること自体がとても珍しいことだったように思う。
だから、伯母に助けられたことが私の記憶には鮮明に残っているのだけど、そんなことがあったのを綺麗さっぱり忘れた母は、「まさかあの人がそんなことを?」という。
それから30年くらい経った時、父と話ていてひょんなことから伯母が何故本家であんなに疎まれていたのか、その理由を知った。
伯母はまだ若い頃は身体が弱くて、たびたび実家に帰っていた。そのことを元から「言い訳だ」と家族には思われていたようであるのだが、長男を出産した後に決定的な事故を起こしてしまう。伯母は不注意から自分の長男を死なせてしまったのだ。
当時、伯母の長男はまだ一歳半だった。全く分別がないのに活発過ぎるほど活発なお年頃だ。伯母は出産後の里帰りから本家に帰らず、長男息子と一緒に実家にいて、その日はどうやら床に伏せっていたようだ。それで長男は母親が寝ている隙に家から出てしまい、用水路に転落して溺死した。そのために、祖母をはじめとする身内から責められ疎まれたのだ。
私の母が幼い私を一人きりで家に残して来たのを知った時、伯母は「ちょっと心配」どころか、かなりの危機感を持って私を探しに駆けつけたのかもしれない。私の両親は「あの人にそんなことが出来るわけがない、いつもボーッとしてるんだから」と言うけれど。
ひょんなことから、中学高校をノーブルな学校で過ごした。インターとか、学習院とか、慶応とか、桜蔭とか、シュタイナーとか、まあそういう知力財力保護者力の高い生徒ばかりいる学校だと思ってくれて構わない。きっと読んでくれる人の中にも同じような学校出身者がいると思う。
ノーブル中高は、認知できる範囲ではいじめがなかった。そりゃ、周囲から浮き上がるような子はいたんだけど、ああそういう子だよねって感じで避けられもせず疎まれもせずって具合だった。大人の社会でちょっと合わない人に出くわすとそういう対応するじゃん。当たり障りないってやつ。そのうち変わった子もそれなりに同士を見つけて学生生活をやっているようだった。
ヒエラルキーを見せつけるためのいじめみたいなのもなかった。どっちかっていうと、一人ぼっちの子を仲間に誘うようなタイプがかっこいいとされる雰囲気で、学年で一番目立つ生徒が仲良くしていたのは病気で留年して学年が一つ落ちてきた生徒だった。仲良しグループはあったけど、流動的に形を変えていて、派閥争いみたいなものもなかった。縦の圧力もなかった。何を着て登校しても先輩は何も言わなかったし、後輩はバスの後ろ座席を朗らかに占領して賑やかに喋っていた。不登校の同級生もいなかった。
つまり、中高通していじめを感じたことがなかった。翻って地元の友人から聞く中学の様子は地獄のようだった。呼び出し、暴力、告げ口、万引き強制、度胸試し、無視、写真回覧。
大人になるとみんな当然のように中高時代の理不尽ないじめの話をする。いじめられたとか、いじめたとか当事者の話題はあまり聞かないけど(言えないもんね)、学校でこういうことがあって〜なんて話題は事欠かない。でも、自分にはよくわからない。だって、いじめ、なかったんだもん。
本当にいじめはなかったんだろうか。自分の知らないところで狡猾に行われてたのだろうか。この話をすると、たいてい、いいとこの学校だもんね〜と流されてしまう。一見いじめは存在していなかったけど、本当はあったこと知っている人は、どこかにいませんか。もしくは、本当にいじめが存在しない中高を過ごした人はいませんか。世間と自分の経験をすり合わせたとき、過去が道徳の創作物の中にあるような不穏な気がしてしまう。
最後に。
今回これを書こうと思ったのは、冒頭の話が関係している。
昨年末に約十年ぶりに京都に行ったのだが、知っている店はほとんど潰れていた。バーも、キャバクラも、スナックも、マクドナルド河原町三条店も、もちろん――S店も跡形もなくなっていた。
年末にしては暖かい夜だった。寂しい気分で歓楽街をうろついていると、学生時代によく行っていた老舗のバーを発見した。店員もお客さんもコロナ禍の中でしんみりとした雰囲気かと思いきや、意外と賑やかだった。
「ソーシャルディスタンスなんて関係ないぜ!」みたいな連中がわいわいと騒いでいる中、私は2つほどバーをハシゴした。その後、さめざめとした心持ちで先斗町の狭い街並みをうろつき始める。
すると、心の内にあることが想起された……そうだ、私は一度、S店で接客を受けてみたかったのだ。それを夢見ていた。だから京都に来たのだ!
私の中では、京都旅行の動機の端っこにあった感情だったけど、大きい部分を占めていたことに気が付いた。
通りを一本挟んだ木屋町に戻った私は、S店がなくなったのであれば、別のキャバクラに行ってみようと思った。深夜2時になっていた。
※ここまで読んでいる諸兄はおわかりだろうが、法律上は深夜1時までの営業になっていても、実際には朝5時まで営業できる。警察があえて取り締まっていないのだ。たまに見せしめで捕まる店がある。
そのRというお店は、私が大学生をしていた頃は新進気鋭のルーキー的な立ち位置だった。今では木屋町で一番の老舗になっている(堅気の店だとは思うが、そうじゃなかったらまずいので名前は伏せさせてもらう)。
最初に19才の可愛い子が隣についた。その、あまりの顔つきの美しさ、手足の細さにびっくりした。まるでアイドルみたいだった。※私はアイドルを見たことはない。
ちょっと後になって、チーママが真正面の席についた。30代後半くらいで、落ち着いた雰囲気があって、笑顔が素敵な人だった。談笑は続いて、残り時間があと40分ほどというところで、R店のメニュー表を持ってきてもらった。人生で一度、キャバクラでシャンパンを飲んでみたかったのだ。
せっかくの機会なので、5万円のやつにしようと思って――考え直した。ここはあえて、1万円のものを頼むのが正義であると気が付いた。そうだ、これは最初の体験なのだ。5万円のやつを堪能してしまったら、1万円では楽しめなくなる。
こうして1万円の一番安いシャンパンを注文し、私の席に嬢があと2人増え、付け回しをしている人が私の席に挨拶に来た。やがて細長いグラスとクラッシュアイス入りのアイスペールがやってきて、カフェドシャンドンみたいな名前のシャンパンが細長いグラスに注がれた。
午前3時半に店を出た。
楽しい夜だった。でも、満足はできなかった。あの日々、私が青春を過ごしたS店はもうないのだ。もう二度と行くことはできない。
お酒を飲んだのに――辛い気分だった。寂しい気分だった。やるせなかった。
そういうわけで、この私こそが世界に産み落とされた最初の人間なんだと自分に言い聞かせ、木屋町を流れる高瀬川沿いの歩道をほっついて回り、いまだに夜の店を求める者たちがはかなげな声で囀りまわる四条大橋の袂へとぴょんと躍り出るやいなや、私は考え始める。
これからどうしよう、まだ眠気はないのだ! どこに行こう……そうだ、まだ祇園では飲んだことがない。でも、木屋町にもまだ懐かしい店があるかもしれないなぁ。
私はまた考え始める。そしてそれが楽しいのだ。私は夢見心地で祇園の四条通りの石畳を踏みつけて、曲がっていることもわからないまま小道や細道の角を折れ曲がり、川があることもしらずに祇園の中を通る小橋を走って飛び越え、姿形も見えない、これから行くであろう店でどんな話をしようか思案をはじめる。
……でも、今の私はこの街で一人だった。もう仲間はいない。知り合いもいない。一緒にお酒を楽しめる人はいない。今更気が付いたのだ。
こうして、一人ぼっちになった私は、「お酒も十分に飲んだし、暗い気分を晴らしにデリヘルでも呼ぼうか」と考えた。おっとり刀でホテルに帰り、スマホの遅い読込速度にイライラしながらも、どうにかデリヘルを呼ぼうとする。
私はあるお店の、いろんな女の子が並んだパネルを見ていた。風俗店では、口よりも目を隠している子を指名するのが基本だ。そちらの方が統計的にアタリ率が高い。
ある女の子を見つけた。右手で目元を覆っている。慎ましい乳房だ。身長は低い――これは加点要素だ。でも、よく見ると髪型で顔の長さをごまかしている。肩幅を見るに、ガタイの大きさをフォトショで修正している感がある。これは勝てん要素だ。場合によってはチェンジ宣言もやむを得まい。鱗滝さんに「判断が早い!」と怒られる可能性がある。
彼女を指名した。待つこと約30分、真っ白のマスクを着けた女の子がやってきた。予想通り、背が小さくてかわいい。マスク美人かなと思ったが、はずしてもかわいい。
「コロナで大変じゃない?」と聞くと、「お客さんは減ってる。でもお兄さんみたいな人が指名してくれるから嬉しい」とのこと。
早速シャワーを浴びて、時間はあまりなかったけど、ベッドで少しばかりの睦言を楽しんで、それからプレイが始まった。肌が触れ合う感じがいい。吸い付くようだった。有意義なプレイだった。
最後に、お互いの相性がよかったからか、それとも彼女の温情によるものか、サービスにはないが、『合体』をしてもいいという。コンドームも用意してあるらしい。お金のことを聞いたが、お兄さんの気持ちでいいとのこと。ふと、さっきのシャンパンが頭をよぎる。
だが、挿入の前に問題が起きた。私のやつに適合するサイズのコンドームがなかったのだ……私は、彼女が持っていた何種類もの中から、一番マシな物を選ぶ必要があった。サイズが小さすぎると途中で抜けてしまう。彼女の中で抜けるわけにはいかない。
残り時間が限られる中、高速でコンドームを試着し続ける私に、彼女は不安そうに言う。
「そんなに急いで大丈夫?」
私は笑いながら答えた。
「付け回しは得意だからね」
私はその子を知った。
しっとりとした肌の感触だった。心地よかった。心までひとつになったみたいだった。私はいま一人ではない。
特別サービスで、5分だけ無料で延長してくれるという。お言葉に甘えることにする。
行為が終わった後、その頬にそっとくちづけをした。
「気持ちよかった。でも、お金は具体的な額を求めないとだめだよ。仕事なんだから」
「これはお店のメニューじゃないからいいの。お客さんに気持ちよくなってほしくて」
彼女は笑いながら答える。つぶらな瞳で私を見上げてくる。が、視線を逸らすことはなかった――鋭い、理性的な、豹のような瞳をぶつけてくる。
私の心は最初から決まっていた。さっき節約したばかりの4万円を財布から取り出して、「ありがとう」とその柔らかい手のひらに渡した。猫が喉を鳴らすようにして彼女は、嬉しそうに受け取るのだった。仕事ができる子だった。
私が大学を卒業した年にTちゃんからもらったメールによると、イケメン先輩は100万円を払い終えたらしい。
その後は、M主任の後釜に収まった。イケメン先輩のS店への貢献という「状況」が、1年以上も前に下された免職処分を打ち消したのだ。
みんな、人には言えない複雑なストーリーを抱えて生きている。
あなたの隣にいる、幸せそうなあの子にだって別の顔があるかも!?
File1:東京が生んだモンスター
―2年前ー
ザ・リッツ・カールトン東京の45階にある『ザ・ロビーラウンジ』。
死ぬ気で仕事を頑張り続け、気づけば39歳。経営者として成功した今の僕は、ラグジュアリーなこの空間が似合う男と言えるだろう。
だが、僕の目の前にいる女性は、洗練されたこの場所には不釣り合いで、彼女の存在だけが浮いて見える。
「ここのアフタヌーンティー来たかったんです。でも、1万円もするからなかなか来れなくて…。インスタに載せたいから写真撮ってくれますか?」
キラキラした目をして手渡されたスマホの画面は、派手にひび割れていた。
カメラに向かって微笑むその女性は、小皺が寄ったブラウスにミニスカートを合わせ、膝の上に合皮のバッグをちょこんと乗せている。
「家賃3万円の東陽町にある社宅に住んでます。配属は、虎ノ門支店なので、本当はもっと都心に住みたいんですけどね…」
たった1万円のアフタヌーンティーに目を輝かせ、屈託のない笑顔を見せてくれた優里香(23)を愛おしく感じた。
一体なぜ!?39歳男が、純粋なOLを地獄に突き落とす…男の闇深い本音とは
地獄へのカウントダウン
「僕、優里香ちゃんのこと、すごく気に入っちゃったから、特別に3万円あげるよ」
「え?お茶だけで、3万円もくれるんですか?そんな…いいんですか?小日向さん優しすぎます…」
メガバンクに勤めていて手取り16万円程度の彼女は、戸惑いつつも目を輝かせた。
「いいよいいよ。優里香ちゃんは、それだけ価値のある女性なんだから。自分を安く見積もっちゃだめだよ。これで表参道のサロン行って髪のトリートメントでもしてきなよ。もっと、自分にお金をかけなさい」
「そうだ、東陽町からはるばる六本木まで来てくれたことだし、せっかくだからミッドタウンでお買い物もしよう」
ワンピースはストラスブルゴで、靴はマノロ ブラニクで、鞄はヴァレクストラ……。
「わぁ、こんなにいいんですか?なんだかシンデレラになった気分!会社の同僚は、お洒落な子ばかりだから…これでやっとお食事会に誘ってもらえるかも…!」
僕は、キラキラと目を輝かせて心の底から感謝してくれた彼女のこの日の笑顔を、一生忘れることはないだろう。
「いいかい優里香ちゃん、縫製の粗い服、合皮のバッグ、ビニールの靴なんかを買うのは金輪際やめなさい。安い女に見えるよ。僕がサポートしてあげるから質の良いものを身につけなさい」
「手取り16万円じゃ東京で暮らしていけないでしょう。月30万円はどうかな?
でも、それを貯金するような貧乏くさい真似はしちゃだめだよ。洋服や化粧品や友達との遊びで使い切って、若い時間を楽しんでね」
それにもかかわらず、この程度の小娘に、お茶だけで3万円を渡し、会ったその日に50万円相当のプレゼントをし、新宿にある家賃30万円のマンションと月30万円の生活費をあげる男は、この世に僕しかいないだろう。
もちろん、下心なしに、女に金品を与える男はいない。
大抵の男は、若い女の体が目当てだが、僕にはもっと“壮大な目的”があるのだ。
『東麻布 天本』、『長谷川 稔』、『薫 HIROO』、『三谷』、『カンテサンス』…
会うたびに、客単価5万円ほどの一流店に連れて行き、彼女の舌は順調に肥えていった。
お世辞にも美人とは言えない彼女をおだて続け、分不相応な要求にも笑顔で応え続けた。
東京に染まりきっていない純朴な女は、真っ白なキャンバスのようなもの。彼女の思考や価値観を変えることは、赤子の手を捻るほどたやすかった。
彼女のプライドと欲望はみるみるうちに膨れ上がり、たった1年で傲慢なモンスターへと成長した。
『この間同僚に誘われたんですけど、場所が居酒屋だったんで速攻断りました。居酒屋とかありえないですよね〜。同世代の男とは、価値観が合わないわ』
『ヒールが擦り切れてる女性って下品。ピンヒールでコンクリートの上なんて歩くもんじゃないですよね。タクシー乗ればいいのに』
『パスタランチが全然美味しいと思えなくて…友達とのランチは、ダイエット中って嘘ついて最近パスしてます。あ、今度『エクアトゥール』いきた〜い!予約できます?』
『若い時間って有限なのに、手取り16万って割に合わないですよね?だって私の1ヶ月って16万以上の価値ありますもん』
『金融機関に勤めているから、高価なブランド品を持ってると怪しまれて色々詮索されるんです。妬みですかね?小日向さんのサポートがあるから、もう会社辞めようかな』
『お食事会で出会ったお友達がローズサクラのバーキン持ってて、すごく可愛かったの。お誕生日プレゼントに欲しいなぁ♡』
遂に、闇深き39歳男が、純粋だったOLを地獄に突き落とす…
フィナーレ
「優里香ちゃん、24歳のお誕生日おめでとう。バーキンが似合う女性になってね」
しかし、彼女はもう、“ありがとう”さえ言わない女に成長していた。
機は熟した――。
「優里香ちゃんごめん……。実は会社の資金繰りが苦しくなって、もう君のサポートはできなくなったんだ。マンションも既に解約したから、今月末には出ていってもらうことになる」
「え、ちょっと待って…いきなりすぎる。手切れ金として、引越し費用くらいはちょうだいよ」
彼女の顔が、一瞬にして青冷める。この時の哀れで惨めな女の顔は、一生忘れることはないだろう。
「ごめん…本当に苦しくて。一銭も余裕がないんだ。君への最後のプレゼントはバーキンだよ。でも君みたいな“素敵な”女性なら、サポートしてくれる男性はすぐに見つかるよ!」
「小日向さんみたいな男性は、他にいないよ…。小日向さんがいないと私、生きていけない…」
ラ・トゥール新宿の26階から見える煌びやかな東京の夜景を背景にして、涙ながらに僕にすがりつく彼女の姿は非常に趣深かった。
「なにそれ、どういう意味…?ねぇ、小日向さん…待って、行かないで…」
◆
あれから数ヶ月が経ったが、彼女からは毎週のように連絡が入る。
『小日向さん、お元気ですか?久しぶりに会いたいです』
『私どうやって生きていけば良いの?小日向さんに見捨てられたら、私死ぬしかないよ』
Bang & Olufsenのスピーカーでモーツァルトのレクイエムを流し、彼女の変わりゆく表情を思い出しながら飲む酒は、格別な味がした。
彼女はもう二度と、家賃3万円の社宅に戻ることはできないだろう――。
彼女はもう二度と、手取り16万円の仕事だけで生きていくこともできないだろう――。
消費性向は、絶対所得水準だけでなく、過去の最高所得に依存するという説もある。
人間という生き物は、生活習慣を急に変えたり、生活水準を簡単に下げたりすることができないのだ。
僕が与えたブランド品を売ったって、靴や洋服のリセールバリューは恐ろしく低いので、端金にしかならない。
唯一換金性があるのはバーキンだが、せっかく手に入れた富の証をあっさり手放すとは思えない。
美人でもない彼女が、僕が与えたような生活を維持するためには、マトモな仕事だけでは難しいだろう。
とにかく、身も心もすり減らして堕ちていく未来が待っているはずだ。
大金を稼ぐ辛さ…
社会の厳しさ…
東京を生き抜く大変さ…
それらを身を持って知って欲しいと思う。
そして、彼女はもう二度と、同世代の男と純粋な恋を楽しむことはできないだろう――。
同世代の男が必死に仕事をして買ったプレゼントにも、頑張って連れて行ってくれたレストランにも、ワンルームマンションのシングルベッドでの行為にも…、喜ぶことも満足することもできない。
価値観が合わないと言って切り捨てた同世代の男たちの年収は、あと数年もすれば、右肩上がりに増えていくというのに……。
彼らの価値に気づく頃には、マトモな男たちは、マトモな女とゴールインしている。
分不相応なブランド品を身にまとい、分不相応な高級レストランに通い慣れている女を、マトモな男は選ばない。
僕以外の金持ちを漁ったとしても、ここまで傲慢なモンスターに仕上がってしまった彼女を選ぶ男はどこにもいない。
僕が、手に入れることができなかった同世代同士の健全な恋愛を…、幸せな結婚を…、女から奪ってやりたかった。
学生時代から付き合って結婚を考えていたのに、価値観が合わなくなったと言って、年上の金持ちに乗り換えた初恋の女…。
純粋だったのに、東京に染まって変わってしまった同郷の女たち…。
お金がないからと、学生時代の僕に見向きもしなかった同世代の女たち…。
すべての女が憎くて堪らない。
僕はずっと苦しんできたのに、努力して金を手に入れたのに、女はいつだって虫が良すぎる。
https://tokyo-calendar.jp/article/21326?ref=new
2021/06/10 05:05
自分は23歳独身彼女いない歴年齢、友達ゼロの実家暮らしの会社員。
ここの所家族以外と録に会話をしていない。
職場では業務上の会話以外一言も話さないし自分が同僚や後輩に勇気を出して話しかけた途端空気が凍るから話しかけられない。
高校生の頃は友人どころか女の子とも普通に会話できたのに今では何故か同僚にまともに声をかけることすら出来なくなっている。
もう23歳なのに恋愛はおろか録に女の子と話をしたこともないしする気力も起きない。
若さしか無い自分が若さすら失って中年独身子供部屋おじさんになって親が死んで社会から孤立するのが怖くて定期的に突発的に怖くなっては何も手に付かなくなる。
町中やテレビで幸せそうな家族や子供を見ると不愉快になってテレビを消したりその場を離れたりすることが増えた。
23歳でこれなんだから30過ぎたらきっと子供への不愉快な感情は憎悪や怒りに変わるだろう。
親が死んで孤立して、友達も家族もなくただ世間の結婚している人間や子供を憎む人生は送りたくないが自分にはどうすることも出来ない。
社会人2年目。
GW中は程々に遊んで、なとなく今日はゆっくりしようかなぁ~という気分の中、
普段はなかなか行けないコメダ珈琲で、普段は買うだけでなかなか読めない本を消化することに。
10時ごろにお店についていい気分だったけれども、お昼時にもなるとお店が混んできた。
店員さんの良く通る声で、番号札をとって案内待ちのお客さんがいることに気づいた。
気を利かせたつもりになって、そそくさとお店を出る準備をしてお会計に向かう。
案内待ちのお客さんへ目が行き、気が付く。
座って順番を待っているのはことごとくおじいさん,おばあさんだった。
よくよく店内を見回すとみんな中年からおじいちゃんおばあちゃんと呼ぶのが適当な方々。
心の中で悪態をつく。
「こいつらはいつでも来れるじゃん、どうしてたまにしか来れない俺が気を利かせて出ていかなきゃならんのだ」
「これが愛想のいいご夫婦や、素敵なお姉さんだったら...」なんて考えるとまた気が付く。
見返りを求めて行動していたこと。見返りがなく腹を立ててしまったこと。自分自身が思っていたよりも攻撃的だったこと。
本当は向かいのおばさんみたいにずっと居座て夕方まで本を読んでいたかった。
他人の見よう見まねで勝手に精一杯になって、それが自分の思い通りの結果にならなくて...。
自分のやりたいこともできない上に、こんな惨めな思いをするなんて。
はじめこそ腹が立ってどこかに老人の悪口を拡散して、このもやもやを発散しようかと考えていた。
だけれど悪口を考えている間に、自分のことでしか自分を語れない自分があほらしくなってしまった。
「自分はこれだけした、だからお前らもこれくらいするのは当然」
今回の件もまた別の機会にコメダ行けばいいだけだしね。なんら大したことはないんだよね。
ただこうした気づきをもたらしてくれたのはGWと休暇のおかげ。
以前からこうした自己中心的な気質はあったのだけれど、一時期はずいぶんマシになっていた。
ただ今回は4月から一気に仕事が増えてパンクしかけていたし、相当余裕がなかったんだと思う。
何よりきつかったのは もの凄く良いことがあってもすぐに悪いが起こるので、結局毎日ストレスと不安にさらされていたこと。
次点で会社都合で見知らぬ田舎に飛ばされて一人ぼっちなこととか。
余裕をください。
わたし:
相手:
3年前に付き合ってた元彼の知り合い
男にふられて自暴自棄になったタイミングと相手が恋人にふられたタイミングがちょうど同じだった。
一晩通話して、お互い一人ぼっちだからとりあえず孤独をごまかすために一緒にいてみようか(≠付き合う)という話になった。
その後ほぼほぼ毎晩寝落ち通話をして、1週間くらい過ぎたときに会うことになった。
ご飯を食べたあと相手の家に直行して、私から求めてセックスをした。
相手から私さえ気持ちよければいいという気持ちが伝わってきて、ああ私は相手から求められていないんだなと悲しくなった。
会ってもう数日したら相手が好きになってしまっていて、付き合ってほしいと伝えたら今のところ恋愛対象として見ていないと言われてしまった。
寝落ち通話をしては翌朝のんびり話したりして、相手が生活の一部になってしまっていて、この生活が相手の未来の恋人に奪われるのが怖くなってしまった。
それからも何度か好きだ、どうか私のことも好きになってほしいと伝えたけれども
恋人としてじゃないけれども好きではある、恋愛対象として見るには私のことを知ることが必要だとか
一緒に何らかの困難を乗り越える必要があるだとかでほんのり期待を持たされる断り方をされている。
先日相手が家に来たときスキンシップをとっても嫌がられないどころか頭をなでてもらったりした。幸せだった。
どうしてこれだけ近いところにいるのに付き合ってもらえないんだろう。
相手がつらいときは私に声をかけてくれるし、私も彼がつらいときは優先して話を聞いている。
正直付き合ったところで今の関係とどう変わるのかという思いもあるんだけれど、
やはり今の関係を相手の未来の恋人に奪われてしまうのが怖くて仕方がない。
すっぱり諦めさせてもらえるのならそれがいいとすら思う。
親が亡くなって一人ぼっちになったので、周りから早く結婚しろと言われることが増えた。
でも自分に何かあればペットが心配だし、同居人はほしいかな〜って願望は少し湧いてきて、友情結婚とかも調べた。
でも色々考えてたら他人をそこまで信じられるか?ってところに落ち着いてしまった。
そもそも結婚願望がない理由のひとつが親戚とのトラブルで、血縁関係を作りたくないって気持ちがずっとある。
同居人ができたとして色々なものが共用物になることに耐えられるか、うまく行かず解消することになったらどんなトラブルになるか。
とか考えてたら無理だなってなった。
ゲーム実況YouTuberは、多くの広告収入を得るが、生殺与奪の権はYouTubeに握られている、
芸能人のような、はたまた不安定なギャンブラーのような、別世界の人間たち。
そんな不安定な世界にに身を置く人々を遠い目で見ながら過ごしていた。
スマホには知らんYouTuberが売春で逮捕されたとニュースが流れていく。
それなりに忙しく中間管理職をしている、安定した会社員である自分とは、縁のない生き方だと画面越しに楽しんでいた。
しかし、ある日突然その心は打ち砕かれた。
とあるタイトルの実況を見てるうちに、フルコンというゲーム実況者を見つけた。
操作がうまく、落ち着いたトークが心地よい。登録者15万人くらいの中堅クラスの配信者ところだろうか。
いい実況者を見つけたな、とテキトーに動画を再生しているうちに偶然知ってしまった。
彼は、SEだったのだ。
フリーランスのSEで、仕事をしながらYouTuberをやっていたのだ。
自分が「配信者は収入も生活も不安定だからな、スキルを身に着けて会社員やってる自分のほうが安牌だ」なんて浸ってたら
安定もスキルも武器にしたまま、YouTuberで活躍している存在を発見してしまった。
たとえ今後ゲーム実況がうまくいかなくなっても、彼はきっと普通に生活していくのだろう、
安定を手にしたまま、ゲーム実況者という不安定の海をぐんぐん泳いでいたのだ。
急に喉の奥が詰まる感覚がした。知るのが怖いのに、彼について知りたくなった。検索が止まらない。
彼には、嫁さんと子供がいた。とても仲良さそうな家族の動画がリストの下に並んでいた。
自分が「仕事が忙しいから」と言い訳しながら遠ざけていた、恋愛や家族すらも手に入れていた。
彼は、バンドもやっていた。そこそこ人気らしく、アニメの主題歌も手掛けたり、全国ツアーを回ったりしていた。
ギターやボーカルみたいな目立つポジションじゃない、堅実な屋台骨であるドラム担当。
自分も学生時代にベースをやっていたのに、結局うまく声をかけられなくてバンドも組めず、ひとり延々と練習していた。
彼は、友達もたくさんいて、いつも楽しそうにみんなでゲームしていて、ゲームがうまいから芸能人ともコラボしていた。
楽しそうに、いろんなものを手に入れていた。
泣いてしまった。一人の部屋で声を上げながら泣いた。
自分が誇示していた「安定」とはいったい何だったんだろう、何のために生きていたんだろう。
本当は、何かになりたかったのではないのか。ゲーム実況だって、本当は自分がやりたかったんだろ?
そんな生き方が、実はうらやましかったんだろ?「不安定」というレッテルを貼って、見て見ぬ振りしてただけだろ?
いつも「忙しいから」で言い訳して、いつも何も挑戦しなかった。失敗するのが怖かった。ゲーム実況も、恋愛も、友人関係を広げることも、何もかも。
新卒で入った会社でSEとして偶然そこそこ認められただけで、それだけに必死につかまってプライドを守っていた。
すべてを、自分のほしかったすべてを持った存在を見つけてしまった。
もう少し落ち込んだら、次こそは、次こそは行動に移したい。安定にしがみつきながら、不安定に挑戦したい。
当時私は二十五歳の青年で、丸まるの内うちのあるビルディングにオフィスを持つ貿易商、合資会社S・K商会のクラークを勤めていた。実際は、僅わずかばかりの月給なぞ殆ほとんど私自身のお小遣こづかいになってしまうのだが、と云ってW実業学校を出た私を、それ以上の学校へ上げてくれる程、私の家は豊ゆたかではなかったのだ。
二十一歳から勤め出して、私はその春で丸四年勤続した訳であった。受持ちの仕事は会計の帳簿の一部分で、朝から夕方まで、パチパチ算盤玉そろばんだまをはじいていればよいのであったが、実業学校なんかやった癖に、小説や絵や芝居や活動写真がひどく好きで、一いっぱし芸術が分る積つもりでいた私は、機械みたいなこの勤務を、外ほかの店員達よりも一層いやに思っていたことは事実であった。同僚達は、夜よな夜なカフェ廻りをやったり、ダンス場へ通かよったり、そうでないのは暇ひまさえあればスポーツの話ばかりしていると云った派手はでで勇敢で現実的な人々が大部分であったから、空想好きで内気者うちきものの私には、四年もいたのだけれど、本当の友達は一人もないと云ってよかった。それが一際ひときわ私のオフィス勤めを味気あじきないものにしたのだった。
ところが、その半年ばかり前からというものは、私は朝々の出勤を、今迄いままで程はいやに思わぬ様になっていた。と云うのは、その頃十八歳の木崎初代が初めて、見習みならいタイピストとしてS・K商会の人となったからである。木崎初代は、私が生れるときから胸に描いていた様な女であった。色は憂鬱ゆううつな白さで、と云って不健康な感じではなく、身体からだは鯨骨くじらぼねの様にしなやかで弾力に富み、と云ってアラビヤ馬みたいに勇壮ゆうそうなのではなく、女にしては高く白い額に左右不揃いな眉まゆが不可思議な魅力をたたえ、切れの長い一ひとかわ目に微妙な謎を宿し、高からぬ鼻と薄過ぎぬ唇が、小さい顎あごを持った、しまった頬ほおの上に浮彫うきぼりされ、鼻と上唇の間が人並ひとなみよりは狭くて、その上唇が上方にややめくれ上った形をしていると、細かに書いてしまうと、一向初代らしい感じがしないのだが、彼女は大体その様に、一般の美人の標準にはずれた、その代りには私丈けには此上このうえもない魅力を感じさせる種類の女性であった。
内気者の私は、ふと機会を失って、半年もの間、彼女と言葉も交わさず、朝顔を見合わせても目礼さえしない間柄であった。(社員の多いこのオフィスでは、仕事の共通なものや、特別に親しい者の外は、朝の挨拶などもしない様な習わしであった)それが、どういう魔(?)がさしたものか、ある日、私はふと彼女に声をかけたのである。後になって考えて見ると、この事が、いや私の勤めているオフィスに彼女が入社して来たことすらが、誠に不思議なめぐり合せであった。彼女と私との間に醸かもされた恋のことを云うのではない。それよりも、その時彼女に声をかけたばっかりに、後に私を、この物語に記しるす様な、世にも恐ろしい出来事に導いた運命について云うのである。
その時木崎初代は、自分で結ゆったらしい、オールバックまがいの、恰好かっこうのいい頭を、タイプライターの上にうつむけて、藤色セルの仕事着の背中を、やや猫背にして、何か熱心にキイを叩たたいていた。
HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI ……
見ると、レタペーパの上には、樋口ひぐちと読むのであろう、誰かの姓らしいものが、模様みたいにベッタリと並んでいた。
私は「木崎さん、御熱心ですね」とか何とか云うつもりであったのだ。それが、内気者の常として、私はうろたえてしまって、愚かにも可成かなり頓狂とんきょうな声で、
「樋口さん」
と呼んでしまった。すると、響ひびきに応じる様に、木崎初代は私の方をふり向いて、
「なあに?」
と至極しごく落ちついて、だが、まるで小学生みたいなあどけない調子で答えたのである。彼女は樋口と呼ばれて少しも疑う所がないのだ。私は再びうろたえてしまった。木崎というのは私の飛とんでもない思違おもいちがいだったのかしら。彼女は彼女自身の姓を叩いていたに過ぎないのかしら。この疑問は少しの間私に羞恥しゅうちを忘れさせ私は思わず長い言葉を喋しゃべった。
「あなた、樋口さんて云うの? 僕は木崎さんだとばかり思っていた」
すると、彼女も亦またハッとした様に、目のふちを薄赤くして、云うのである。
「マア、あたしうっかりして。……木崎ですのよ」
「じゃあ、樋口っていうのは?」
「何なんでもないのよ。……」
そして木崎初代は慌あわてて、レタペーパを器械からとりはずし、片手で、もみくちゃにするのであった。
私はなぜこんなつまらない会話を記したかというに、それには理由があるのだ。この会話が私達の間にもっと深い関係を作るきっかけを為なしたという意味ばかりではない。彼女が叩いていた「樋口」という姓には、又彼女が樋口と呼ばれて何の躊躇ちゅうちょもなく返事をした事実には、実はこの物語の根本こんぽんに関する大きな意味が含まれていたからである。
この書物かきものは、恋物語を書くのが主眼でもなく、そんなことで暇どるには、余りに書くべき事柄が多いので、それからの、私と木崎初代との恋愛の進行については、ごくかいつまんで記すに止とどめるが、この偶然の会話を取交とりかわして以来、どちらが待ち合わせるともなく、私達はちょくちょく帰りが一緒になる様になった。そして、エレベーターの中と、ビルディングから電車の停留所までと、電車にのってから、彼女は巣鴨すがもの方へ、私は早稲田わせだの方へ、その乗換場所までの、僅わずかの間を、私達は一日中の最も楽しい時間とする様になった。間もなく、私達は段々大胆になって行った。帰宅を少しおくらせて、事務所に近い日比谷ひびや公園に立寄り片隅かたすみのベンチに、短い語らいの時間を作ることもあった。又、小川町おがわまちの乗換場で降りて、その辺のみすぼらしいカフェに這入はいり、一杯ずつお茶を命じる様なこともあった。だが、うぶな私達は、非常な勇気を出して、ある場末ばすえのホテルへ這入って行くまでには、殆ど半年もかかった程であった。
私が淋さびしがっていた様に、木崎初代も淋しがっていたのだ。お互たがいに勇敢なる現代人ではなかったのだ。そして、彼女の容姿が私の生れた時から胸に描いていたものであった様に、嬉しいことには、私の容姿も亦また彼女が生れた時から恋する所のものであったのだ。変なことを云う様だけれど、容貌については、私は以前からややたのむ所があった。諸戸道雄もろとみちおというのは矢張やはりこの物語に重要な役目を演ずる一人物であって、彼は医科大学を卒業して、そこの研究室である奇妙な実験に従事している男であったが、その諸戸道雄が、彼は医学生であり、私は実業学校の生徒であった頃から、この私に対して、可成かなり真剣な同性の恋愛を感じているらしいのである。
彼は私の知る限りに於おいて、肉体的にも精神的にも、最も高貴ノーブルな感じの美青年であり、私の方では決して彼に妙な愛着を感じている訳ではないけれど、彼の気難しい撰択に適かなったかと思うと、少くとも私は私の外形について聊いささかの自信を持ち得うる様に感じることもあったのである。だが、私と諸戸との関係については、後に屡々しばしば述べる機会があるであろう。
それは兎とも角かく、木崎初代との、あの場末のホテルに於おいての最初の夜は、今も猶なお私の忘れ兼かねる所のものであった。それはどこかのカフェで、その時私達はかけおち者の様な、いやに涙っぽく、やけな気持ちになっていたのだが、私は口馴れぬウィスキイをグラスに三つも重ねるし、初代も甘いカクテルを二杯ばかりもやって、二人共真赤まっかになって、やや正気を失った形で、それ故ゆえ、大した羞恥を感じることもなく、そのホテルのカウンタアの前に立つことが出来たのであった。私達は巾はばの広いベッドを置いた、壁紙にしみのある様な、いやに陰気な部屋に通された。ボーイが一隅の卓テーブルの上に、ドアの鍵と渋茶しぶちゃとを置いて、黙って出て行った時、私達は突然非常な驚きの目を見交わした。初代は見かけの弱々しい割には、心しんにしっかりした所のある娘であったが、それでも、酔よいのさめた様な青ざめた顔をして、ワナワナと唇の色をなくしていた。
「君、怖いの?」
私は私自身の恐怖をまぎらす為に、そんなことを囁ささやいた。彼女は黙って、目をつぶる様にして、見えぬ程に首を左右に動かした。だが云うまでもなく、彼女も怖がっているのだった。
それは誠に変てこな、気拙きまずい場合であった。二人とも、まさかこんな風になろうとは予期していなかった。もっとさりげなく、世の大人達の様に、最初の夜を楽しむことが出来るものと信じていた。それが、その時の私達には、ベッドの上に横になる勇気さえなかったのだ。着物を脱いで、肌を露あらわすことなど思いも及ばなかった。一口に言えば、私達は非常な焦慮しょうりょを感じながら、已すでに度々たびたび交わしていた唇をさえ交わすことなく、無論その外の何事をもしないで、ベッドの上に並んで腰をかけて、気拙さをごまかす為に、ぎこちなく両足をブラブラさせながら、殆ど一時間もの間、黙っていたのである。
「ね、話しましょうよ。私何だか小さかった時分のことが話して見たくなったのよ」
彼女が低い透き通った声でこんなことを云った時、私は已すでに肉体的な激しい焦慮を通り越して、却かえって、妙にすがすがしい気持になっていた。
「アア、それがいい」私はよい所へ気がついたと云う意味で答えた。
「話して下さい。君の身の上話を」
彼女は身体を楽な姿勢しせいにして、すみ切った細い声で、彼女の幼少の頃からの、不思議な思出おもいでを物語るのであった。私はじっと耳をすまして、長い間、殆ど身動きもせずそれに聞き入っていた。彼女の声は半なかばは子守歌の様に、私の耳を楽しませたのである。
私は、それまでにも又それから以後にも、彼女の身の上話は、切れ切れに、度々たびたび耳にしたのであったが、この時程感銘かんめい深くそれを聞いたことはない。今でも、その折の彼女の一語一語を、まざまざと思い浮うかべることが出来る程である。だが、ここには、この物語の為には、彼女の身の上話を悉ことごとくは記す必要がない。私はその内から、後にこの話に関係を生じるであろう部分丈けを極ごく簡単に書きとめて置けばよい訳である。
「いつかもお話した様に、私はどこで生れた誰の子なのかも分らないのよ。今のお母さん――あなたはまだ逢わないけれど、私はそのお母さんと二人暮ぐらしで、お母さんの為にこうして働いている訳なの――その私のお母さんが云うのです。初代や、お前は私達夫婦が若かった時分、大阪の川口かわぐちという船着場ふなつきばで、拾って来て、たんせいをして育て上げた子なのだよ。お前は汽船待合所の、薄暗い片隅に、手に小さな風呂敷包ふろしきづつみを持って、めそめそと泣いていたっけ。あとで、風呂敷包みを開けて見ると、中から多分お前の先祖のであろう、一冊の系図書けいずがきと、一枚の書かきつけとが出て来て、その書きつけで初代というお前の名も、その時丁度ちょうどお前が三つであったことも分ったのだよ。でもね、私達には子供がなかったので、神様から授さずかった本当の娘だと思って、警察の手続てつづきもすませ、立派にお前を貰もらって来て、私達はたんせいをこらしたのさ。だからね、お前も水臭い考えを起したりなんぞしないで、私を――お父さんも死んでしまって、一人ぼっちなんだから――本当のお母さんだと思っていておくれよ。とね。でも、私それを聞いても、何だかお伽噺とぎばなしでも聞かせて貰っている様で、夢の様で、本当は悲しくもなんともなかったのですけれど、それが、妙なのよ。涙が止めどもなく流れて仕様がなかったの」
彼女の育ての父親が在世ざいせいの頃、その系図書きを色々調べて、随分本当の親達を尋たずね出そうと骨折ったのだ。けれど系図書きに破けた所があって、ただ先祖の名前や号やおくり名が羅列られつしてあるばかりで、そんなものが残っている所を見れば相当の武士さむらいの家柄には相違ないのだが、その人達の属した藩はんなり、住居なりの記載が一つもないので、どうすることも出来なかったのである。
「三つにもなっていて、私馬鹿ですわねえ。両親の顔をまるで覚えていないのよ。そして、人混みの中で置き去りにされてしまうなんて。でもね。二つ丈け、私、今でもこう目をつむると、闇の中へ綺麗きれいに浮き出して見える程、ハッキリ覚えていることがありますわ。その一つは、私がどこかの浜辺の芝生の様な所で、暖かい日に照らされて、可愛い赤あかさんと遊んでいる景色なの。それは可愛い赤さんで、私は姉ねえさまぶって、その子のお守もりをしていたのかもしれませんわ。下の方には海の色が真青に見えていて、そのずっと向うに、紫色に煙けむって、丁度牛の臥ねた形で、どこかの陸おかが見えるのです。私、時々思うことがありますわ。この赤さんは、私の実の弟か妹で、その子は私みたいに置去りにされないで、今でもどこかに両親と一緒に仕合せに暮しているのではないかと。そんなことを考えると、私何だか胸をしめつけられる様に、懐しい悲しい気持になって来ますのよ」
彼女は遠い所を見つめて、独言ひとりごとの様に云うのである。そして、もう一つの彼女の幼い時の記憶と云うのは、
「岩ばかりで出来た様な、小山があって、その中腹から眺めた景色なのよ。少し隔へだたった所に、誰かの大きなお邸やしきがあって、万里ばんりの長城ちょうじょうみたいにいかめしい土塀どべいや、母屋おもやの大鳥おおとりの羽根を拡ひろげた様に見える立派な屋根や、その横手にある白い大きな土蔵なんかが、日に照てらされて、クッキリと見えているの。そして、それっ切りで、外ほかに家らしいものは一軒もなく、そのお邸の向うの方には、やっぱり青々とした海が見えているし、その又向うには、やっぱり牛の臥た様な陸地がもやにかすんで、横よこたわっているのよ。きっと何ですわ。私が赤さんと遊んでいた所と、同じ土地の景色なのね。私、幾度その同じ場所を夢に見たでしょう。夢の中で、アア又あすこへ行くんだなと思って、歩いていると、きっとその岩山の所へ出るに極きまっていますわ。私、日本中を隅々まで残らず歩き廻って見たら、きっとこの夢の中の景色と寸分違わぬ土地があるに違いないと思いますわ。そしてその土地こそ私の懐しい生れ故郷なのよ」
「ちょっと、ちょっと」私はその時、初代の話をとめて云った。「僕、まずいけれど、そこの君の夢に出て来る景色は、何だか絵になり相そうだな。書いて見ようか」
そこで、私は机の上の籠かごに入れてあったホテルの用箋ようせんを取出して、備そなえつけのペンで、彼女が岩山から見たという海岸の景色を描いた。その絵が丁度手元に残っていたので、版にしてここに掲かかげて置くが、この即席そくせきのいたずら書きが、後に私にとって甚だ重要な役目をつとめてくれ様などとは、無論その時には想像もしていなかったのである。
「マア、不思議ねえ。その通りですのよ。その通りですのよ」
初代は出来上った私の絵を見て、喜ばしげに叫んだ。
「これ、僕貰もらって置いてもいいでしょう」
私は、恋人の夢を抱いだく気持で、その紙を小さく畳たたみ、上衣うわぎの内ポケットにしまいながら云った。
初代は、それから又、彼女が物心ついてからの、様々の悲しみ喜びについて、尽きぬ思出を語ったのである。が、それはここに記す要はない。兎とも角かくも、私達はそうして、私達の最初の夜を、美しい夢の様に過すごしてしまったのである。無論私達はホテルに泊りはしないで、夜更よふけに、銘々めいめいの家に帰った。
誰でも付き合う人間を選ぶ権利があると思うのよ。ナンパされたら別に無視してもいいし、一緒に草野球をやるメンバーは気の合う人だけで構成していいはずだ。気に入らんやつが混ぜて〜と言ってきてもお断りしていいはずだし、それを咎めるやつはおらんだろう。
そこで思うのが学校において「口を聞かない」「仲間はずれ」がイジメとしてカウントされる件である。事務的なやり取りを除けば、気の合う人だけと絡むことが許されるべきだ。「仲間はずれ」をイジメとして加害扱いするのは、「全員と仲良く」あることを強制しているようで、間違っている気しかしない
「仲間はずれ」がイジメとしてカウントされうのは、仲間がいないと学校で教育を受けることが難しくなるという「クラス制」のせいではなかろうか。これが大学のように毎度教室を移動し、生徒メンバーが固定されていなければ、別に一人ぼっちであることは教育を受け続けることの支障にはならない(寂しい思いはするかもしれんが、加害行為の被害者であるという意識はないだろう)