はてなキーワード: キャッチーとは
最初に思ったのが、キャラがオーバーに表現されてるけどキャッチーで面白いというタイプの女芸人がいないこと。
一番しっくりくる例だとぺこぱの時を戻そうの人は明らかに「馬鹿にしてくれ」的キャラ付けなのに何故か自信満々というスタンスのギャップが面白い。で、ひな壇とかでもちゃんとそのキャラを一貫していて変にかっこよくみられたいという欲求がない。最近人気の粗品もダメ男感のあるイジられキャラ的親しみやすさで人気がある。
たぶんお笑いの本質の中に、観客から演者への見下しっていうのはあると思うんだよな。
常識の範疇で理解できないことを可笑しいと思うわけで、それをやりすぎて不快にならないラインをうまく模索している芸人が露出増えてるなと感じる。
逆に銀シャリみたいな漫才タイプは完全に理論で詰めてるから自虐的に売る必要はない。ただキャッチーさがなくなるから芸人としてのキャラは薄くなる。
同じく漫才やコントを詰めてて、でも自虐的なキャッチーさもあるサンドウィッチマンの方が伊達と富澤という人間の記憶が残りやすい。
表題の話に戻ってきて、女芸人でぺこぱっぽいキャラで思いつくのがアンゴラ村長だけど、あれは「笑いとして」自分を下げることがない。
「美人がなんか変なことをしている」というキャラで売っていて、自分が女芸人の中ではそれなりに美人であることを捨てていない。ひな壇とかバラエティを見てても笑いとして自分を下げる器用さがなかったのかなと感じる。
他にも女芸人でよくあるのが「男女ネタ」だと思う。女同士のいがみあいをネタにしたり、彼氏と彼女のすれ違いを表現したり。こ
これっていうのは結局あるあるネタを脚色しているだけであって、それを演じてる芸人本体にキャラがない。ちょっとお高いところから世の中をこういう風にみてるんですよーという評論家感が嫌味。
長くひな壇とかバラエティに出て来れた女芸人ってやっぱり安心してイジれるキャラがある気がする。
大久保さんは一時期エロいおばさんというキャラをブラさなかったのでどこでも使いやすかったし、今は病んじゃったけどハリセンボンは真っ当に男の漫才をしていて露出機会が多かったし、芸人として好感を持てた。
ある種の地獄になってるはずなんだけど
現実は「男女の別なく救われない」のだよね
それで自己満足以外の何が得られたんですかね?
実際にはほぼ影響ないんですよ
設置数は爆増してるんですけどね
AEDが使われるためにはとして
・設置場所の目印の紹介や
・利用手順の実演
まだまだそういう段階だったのに
いまじゃもう、「法的な救護義務はない」とかそういう話がされちゃってる
敵味方に分けて切断することに何の意味があるんだよ
本当に無能な働き者だよ
後ろ弾にも程があるだろ
本当に醜悪なのはしたり顔で正義ぶってる糞共も見殺し組だって事だ
そうでもなければ「目撃後」の使用率が4%の訳ないだろ?
糞共はよぉ
実際にそこらでAED使って助けてやれよ
ぐうの音も出ないほど数字で示して見せろや
俺から見れば、「やらねぇ」って宣言してるウジ虫の方がよほど好感持てる
AEDを使わないような輩は軽蔑されるべきなんだと言ってるのもいたが
「自分は違う」とそう思える性根がどういうもんなのか見てみてぇよ
でなければ目撃後使用率が4%になったりしねぇんだよ
ほとんどがな
他人を嗤う前に
てめぇが出来る事をやれや
「縦スクロール漫画が世界標準だ」とか「日本は世界の潮流に乗り遅れている」とか、ワーワー言ってる奴がいるけど、一言いいたいことがあるんだよね。
それは……
「まんがタイムきららでも読みな。飛ぶぞ。」
きららには、紙の本もあるし、電子で読めるサイトはいくらでもあるけど、ニコニコ漫画の『きららベース』だと4コマを1列で縦読みができるから一番おすすめできる。
まんがタイムきららに限らず、4コマ漫画専門誌の掲載漫画は縦読みである。扉絵以外のページでは2列の4コマが縦に並ぶ。これは基礎知識だ。
今季で話題になっているアニメといえば『まちカドまぞく』を思い浮かべる人がたくさんいると思う。
あの作品は濃厚な設定と印象深いキャッチーな台詞が多いだけでなく、伏線の管理もしっかりしている。まさに4コマの限界に挑んだ意欲作と言える。
それに対して、ここ3、4年のきららは4コマ漫画の限界を認めているような作品が見られる。
というのも、タテに4コマ並ぶ4コマ漫画の体裁をあえて破っているのだ。4コマの枠から飛び出しているのはもちろん、ストーリー漫画のコマ割りのようになっているものもある。
これからアニメが放送される『ぼっち・ざ・ろっく』がいちばん有名な該当作品だ。
他にも『しあわせ鳥見んぐ』『妖こそ怪異戸籍課へ』『それでは、ステキなセッションを。』が挙げられるけど、個人的に最もおすすめできる漫画は『星屑テレパス』だ。
『星屑テレパス』はまんがタイムきらら(本誌)で掲載されている4コマ漫画だ。
簡単なあらすじを言うと、極度のあがり症で地球で友達をつくることを諦めた女の子の海果が、自称宇宙人の少女・ユウに出会う話。
ユウはおでこをくっつけてテレパシーが意思疎通をする「おでこぱしー」という能力がある。
きららといえば、ほのぼのとした日常系を思い浮かべるが、この作品はそうではない。
基本的にかわいくてほのぼのしているけど、シリアスな一面も強い作風だ。
そんな『星屑テレパス』は、将来的にあらゆる縦読み漫画の基礎になりうる存在だと思う。
なぜなら、縦読みから逃げてないからだ。横に広げたり、ストーリー漫画のコマ割りに変わったりするものがあるが、この作品にはそれがない。
この作品を丁寧に読んで、コマ割りを考察していけば、縦読み漫画や縦スクロール漫画の作り方が分かるはずだ。
実際にコマ割りについて語る記事もあるぐらいだし。「星屑テレパス コマ割り」とGoogle検索すれば1番目に出てくる。
個人的に感想を端的言うと、「まんがタイムきららにシリアスは邪道」と思っていた自分を変えてくれた作品。
単行本2巻の中盤で深刻なシリアスがあるけど、それをどうやって解決するのかが気になった。それぐらい海果たちに対する信頼があった。
3巻が発売される頃にはどうなるか楽しみだ。
今のまんがタイムきららは4コマ漫画の限界を認めた上で何かを模索しようと感じている。
それに対する答えは、ウェブトゥーンのような縦スクロール漫画ではないかと思う。
しかも、ウェブトゥーンや『タテの国』は単行本化でマネタイズが困難だと言われているが、まんがタイムきららは縦読み漫画のままで単行本化されている。そもそも、きららの漫画は雑誌で掲載されることが前提条件だ。
ただ、これよりもものすごい化け物みたいな漫画家が現代にはいるので、目の肥えた視点だといくらでもイチャモンはつけられるかなぁってところですかね。
基本的に発端の増田(anond:20220603170344)の文章を最初に読んだのでその影響はあるものとする。
なんか勇者が魔王を好きになる過程が雑というか、腹落ちしない話の流れだったな。
声が綺麗って言われたから?好きになったんだけど。普通の人間てそんな事ある?
17年も生きてて声が良いって言われたこと今まで一度も言われなかったのか。魔王でさえ初手で褒めてくるくらいには声きれいだったら、どこかで誰かに言われてるだろう。まあ描写がないのでなんとも言えませんが、描写がないので腑に落ちないよね〜
なんで好きなん?みたいなのが最後まであとを引いているので、後半の話の流れが心に全然響かない感じで、むーん。って感じ
自分で好きでもなく勇者ヤッてるって言ってるけど、勇者のモノローグでしかなくて、実際に勇者としての不満のある生活とか、人として扱われない悲哀みたいなシーンがないので、口だけで言われてもという納得感のなさがつきまとってくる
もと増田の言ってたとおり、なんか無駄にトカゲを殺すのが取ってつけたような流れで、はぁ君そういうことしちゃうやつなんだね。そりゃ人間から嫌われたり信用されないだろうなっていう感想になるかなぁ
なのに、そのトカゲ殺しちゃう魔王に対して勇者が好意持つのも、作者に感情を操られてる感じがして気持ち悪い、腹落ちしない。
17歳だから、未熟だからそうやって年配の人に対して一過性の恋心をいだいてしまった、みたいな一時の感情のゆらぎとも取れそうだったけど、その後に22歳のシーンがきて
えぇ、トカゲ殺すようなやつのこと、声が綺麗だって言われただけでずっと好きなん
勇者は人間社会でどんだけ貧しい人間関係のなか生きてるんだよ。みたいな感じになる。
その人間社会での勇者の扱いが描写されないので、気持ち悪さがつきまとう。
人間社会でのパートを削ぎ落としてるというよりは、描写不足としか見えないかな……。作者が人間社会での勇者がどういうふうに誰と生活しているのか考えてないだけっていう感じが臭ってくる。
もちろんプロット上不要だと判断したからわざわざそのへんの設定を深堀りして考えていないってのは戦略としてあるだろうけど、だとしたら作品設定の要不要の判断がまだ甘かったな〜といった雰囲気。
魔王と勇者は敵対関係なんだから、その圧倒的な障壁を超えさせるだけの強烈な説得力は欲しかったなぁ。勇者なんで顔赤いの?とか勇者なんでこいつのこと好きなの?みたいなのがあんまり入ってこないまま(いわゆる読者が置いていかれる)話が流れていく感じですね。
魔王、勇者の腕を傷つけたあとショックを受けてる(というふうに勇者が認識してる)んだけど、話のまえでもずっと魔王は「防御魔法でどうにかなるものじゃない」ってさんざん忠告してるし、やっぱりな、的な反応になると思うんだけど、なんでショック受けてるんですかねぇ
どう見ても、勇者ちゃんにとって魔王がそうやって勇者を傷つけてしまったことでショックを受けて欲しい!っていう話の展開ありきでの描写になってるんだよなぁ。
まあこのくらいのガバ別にどうってことないといえばどうってこと無いけども、多少は鼻につくよなぁ。
ドラゴン殺すイキリ描写もきついものがあるなぁ。いる?要らないよなぁ
強くなったって言いたいだろうけど、別に魔王の呪い解くのに、ドラゴン殺すことで勇者の強さを表現する必要ないだろう。漫画としてのキャッチーさはあるけど、物語上は不要だよなぁ
むしろなんで殺してたの?みたいな思考が入ってきて、魔王の呪いを解くっていう趣旨がブレる。
ただガバがあるし、構成有線でキャラの人格を捻じ曲げてる部分も散見されるので、Web上での祭り上げられ方によっては、なんでそんなに素晴らしい作品だと持ち上げられてるんだプンプン!ってなる人が出るかもねぇ
https://anond.hatelabo.jp/20220517213328
三番煎じです
中学生くらいから2chに入り浸って、高校の時はVIPのアニソン配信スレで音楽を聴き続けていた。もちろんニコ厨だった。
大学ではバンド部にはいってギター弾いて遊んでいた。大学に出会った好きな曲も多いけど、それらはあまり入れていない。
当時はせっちゃんと知らなかった。いまはせっちゃんが普通に好き。ポンキッキーズでかかってた。
Butterflyも入れたいけどアニメ最終回の進化の時に本楽曲が挿入された時の演出の神がかり感は今思い出しても鳥肌ものなのでこちらを採用
近所のゲーム屋でプロモーションビデオがかかっていて、映像の美しさと楽曲のすばらしさに小学校高学年のおれはとりこになった。
どこで聴いたかまったく覚えてないけど心に残る曲
小学6年生のころに友達のお兄ちゃんのMDを借りて聞いて衝撃が走りギターを弾くルートの人生フラグがたった。
はーてーしーなーい
日曜朝プリキュア枠は夢のクレヨン王国から見ていた覚えがある。仮面ライダーはあんまりハマらなかったな。
今はイントロのギター理解できるけど、当時は何の音か意味不明だった。
ドラゴンボールは見てたでしょ?
VIPでめちゃ流行っていた。サビのキャッチーさと大さび前の静けさからの最後サビが最高の編曲。
中学生のとき定期テストがおわり、開放感で徹夜して2chをしていた明け方に聴いたこの曲の爽やかさ壮大さはいい思い出。いまはそんなこと感じなくなって感性がおとろえていっているんだなぁ。
VIPでめちゃくちゃ流行っていた気がする。あと組曲「ニコニコ動画」
ぎりぎり平成リリース。ギターをやめて10年のぼくが久しぶりに弾き語りしたくなった曲。この間あいみょんコンサート行ったけど30分くらいMCしてて歌えと思った。
ポップで邦楽感が強い。大学の軽音楽部に入ったら先輩にシステムオブアダウンのパクリといわれて切なくなった。
ようこそジャパリパークもいい曲だけど個人的にはこっちの曲もすき。切なさがあるよね。
エルレ版の方がいい。the pillowsはエイリアンズのキリンジみたいにミュージシャンズミュージシャンって感じで一般ユーザーからするとそんなか?っておもう。
ナカタヤスタカとの出会い。その後Perfume、きゃりーぱみゅぱみゅと続くが原点はこれですね。
あと恋愛レボリューション21とか同年代カラオケで歌うとくそ盛り上がるからランキングにはいる。
リアルタイムではよく知らんけど大学の時にイエモンも勉強しなきゃと思って知った。乗客に日本人はいませんでしたってやつ。
でも本音を言うとブランキーの方が好きで、この系統のテーマの曲だったら悪い人たちが最高なんだよ。
洋楽まで広げるならローリングストーンズのSympathy For The Devil を大学の友人の家でレコードで聴いたときに音が脳内を侵食する感覚を覚えて名曲とアナログレコードの組み合わせやべぇって思った。レコード初体験であった。
SoundHorizonのキャッチーさだけを詰め込んだ曲なのでお勧めしやすい。revo君はリンホラばっかりやってないでサンホラ動かしなさい。
その勢いは止まることを知らず、地上波にまで到達し、俺は嬉しい。もっと認知されてくれ。
にじさんじという箱の中でも極めておもしれー女だが、あの凄まじいトークに惹かれた人間向けに「これだけ押さえとけ周央サンゴ切り抜き5選」のURL置いとくわ。
志摩スペイン村に対するあの熱いトークから分かるように、周央サンゴは、好きなものについて語り出すと止まらない女であり、この配信時では、かつて孤独に沼っていた岩波少年文庫について語った。
もう中古しか流通してない、児童文庫の名を冠したレディコミ並みのドロドロラブロマンスマイナー小説をここまで語れるのはお前しかいないよ……。
スーパーソングでこんなに深い考察することあるんだ……と認識を改めることになった動画。
曲調は勿論、歌詞やムービー、曲の展開についてあの巧みなトーク力で語る様は必見である。ラ・ムーの曲は確かにいい曲だった。
周央サンゴは定期的にバズる女だ。記念すべき1回目のバズ、周央サンゴというキャラが箱内外で認知されたきっかけになった切り抜きがこれ。
定型文化した挨拶のキャッチーさ以上に、野球ミリしらの人間がやる野球ゲーの実況としてエンタメ力が高い。ンゴのトークとシンクロ率200%のアニメと共に見てほしい。
あの切り抜きを見たらわかると思うが、この女、滑舌SSRである。
だが、単に滑舌が良いだけでなく、Siriのような自動音声ボイスを口から発声することが可能という特殊スキル持ちだ。
“陽“で“動”なウェカピポの歌詞を“無”で“静”な声で読み上げる様子は一種の洗脳動画であり、先輩ライバーの1人は「もう少し聴いていたら脳が破壊されるところだった」と評した。
TRPG好きで憑依型演技が可能な人間に優れた七色の声帯を与えるとこうなるという見本。
萌え声、イケボ、地声、Adoボイス等を駆使し、人格を乱立させながら理不尽なテトリミノに立ち向かう。これコラボじゃなくてソロ枠ってマジ?
他にもインターネット桃太郎や環境保全大臣ンゴ、無免許医師などンゴの優れた切り抜きは沢山あるのでちょっとでも興味を持ったら見てほしい。
に触発されて作ってみたら全然30曲じゃ足りなかったので50曲になりました。
H2Oじゃない方。夏休みの朝、ラジオ体操から帰ってきて視聴する「らんま1/2熱闘編」。
亀田誠治が偉大すぎる。
RIP SLYMEはメンバー間で色々あったようで空中分解してしまって悲しい。
唯一無二のシンガーソングライターだと思う。
タワレコで何の気なしに視聴したら好みにドンピシャでハマった。
Aメロを家で口ずさんでいたら夫に「こわい」って言われた。
ヘッドフォンで聴いているとハヤシのHey!が右からやってくる。
コーラスワークが綺麗で清涼感がある。
盆踊りに流したい。
色気のあるベースから始まり更に色気のあるヴォーカルが乗っかる。
こういうかっこいいアニソンが量産されてほしい。
FM802のヘビーローテーションになっていたのをよく覚えている。
準新作だと気づかずに7泊8日レンタルして返却時涙目になった。
シンセサイザーの響きには近未来感を感じるけど同時に哀愁も漂っていてすごいと思う。
高校生の時付き合っていた彼氏に「この曲を歌えるようになってほしい」と言われ「無茶な」と思った。
今聴いてもサウンドのすべてがおしゃれ。
夏の終わりに聴きたい。
Salyuも唯一無二の歌声だな。サビのハモりが気持ちよすぎる。
甘酸っぱさ満点。
確か、歌詞の視点が独特なのをROCKIN' ON JAPAN誌上でツッコまれてた。
2006年のRUSH BALLのオープニングアクトで一目惚れした。
私のBUMP OF CHICKENはここから。
多幸感あふれるメロディーとストリングスと大サビの歌詞の対比が好き。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
Apple Musicで検索しながら作ったので、サブスクに入ってなくて漏れた曲がいくつかあります。
そういえば、ももいろクローバーZというグループは、名前は知っていたが1曲も聴いたことがなかった。
まあ、興味のないグループなどそんなものだろう。NiziUだって名前しか知らない。
で、つい先日、デレステでコラボがあった。3曲実装されたのだが、いずれも合わぬ。
変な曲だ。サビのメロディーとか、キャッチーでいいなぁと思う部分もあるが、全体的に合わぬ。
カバーが合わないだけの可能性もある。『brave heart』とか、原曲はすごく良かった。
ということで、YouTubeで3曲ともMVを見てみたが、やはり合わぬ。
『サラバ、愛しき悲しみたちよ』のMVは気持ち悪いまであった。踊りも合わぬ。
まあ、こうして知らない人が聴くきっかけのためのコラボだし、好き嫌いがはっきりしている曲の方がいいのも間違いない。
「変」の方向性かなぁ。
例えば『エキストラレボリューション』なんかは平気だったし、『全力☆Summer』もコラボで初めて知ったが、悪くなかった。
後から原曲も聴いて、『全力☆Shangri-La!』とか知って面白いなぁと思ったし。
ももいろクローバーZは合わなかった。しかし、痛烈に印象に残った。昔のPUFFYやaikoのように。
昨年辺りからバッターランナーの【二塁進塁意思判定】というのが厳しく取られるようになった気がする。
一塁を駆け抜けた後、暴投などを見て二塁方向にビクッと動いたら進塁意思ありと判断してタッチアウト可能になるようになるケースを見かけるようになった。
なので、それを利用してこんなのはどうだろうか?
最近久しぶりにスピッツを聞いてたら、幻のドラゴンのサビが急に胸に来た。
「君に夢中で泣きたい」ってキャッチーなのにわざとらしくなくて良いなーとなんか改めて思った。
スピッツを聞いてるとたまにそういうことがある。
今まで特に刺さらずに聞き流していた曲の歌詞が急に刺さったりすることが結構あって面白い。
ルキンフォーの「ひとりで起き上がる」とか
最初は特に好きではなかった曲の歌詞ににハッとする瞬間がある。
スピッツは人生で一番しんどい時期に聞いてたから多分一生好きなんだけど、
聞きすぎた故に、曲によっては辛いことを思い出してしまうのが唯一の難点だなー。
本当に心がしんどいときはもう聞けなくなってしまっているのがちょっと悲しい。
いつか、どの曲を聴いてもしんどくならなくなると良いなー。
4/19、16時少し前、Chim↑PomのTwitter(https://twitter.com/chimpomworks/status/1516309905828810753/photo/1)で改名のお知らせが出ていた。
まず、内容をざっとまとめよう。
・Chim↑Pomは”際どい社会人”である“間違ってもただの「健全」なグループだと勘違い”してはいけないグループだと自称している現代アーティスト
・Chim↑Pomは現在森美術館で個展を2月から5月末まで開催中(開催真っ只中!)
・会場準備の設営費の一部に協賛金が必要になっていた(1000万円ほど)
・そんな協賛金のうち、Smappa!Group(接客を伴う水商売(ホストなど)の会社であり、Chim↑Pomと数々の協働もしてきている会社。Chim↑Pomの一人である「エリイ」の夫が会長を務める会社でもある。)の金額のみ森美術館が受理していない
・受理していない理由は「六本木ヒルズという『まちづくり』における『ブランディング』」「森美術館はヒルズという『文化都市』の顔である」と森美術館は言っている
これに対してChim↑Pomは、
・受理しないことは、”アートによる「多様性」と取るか「『多様性』の搾取」と取るかは、議論が必要”である
・受理しないことは、クリエイティブ産業が街から「猥雑」なものを十把一絡げに職業や属性により排除する「旧来のジェントリフィケーション」の典型だとも捉えている
・社会全体、そして、特に多様性をうたう森美術館が”実態としては公共性よりもブランディングを優先し、いざ自身の問題として直面すると排除する、という常套手段がまかり通ることに対しての違和感をここに強く示す”
・そもそも、「スーパーラット(ポケモンのピカチュウを模して渋谷の街で捕まえたネズミを黄色く、頬は赤くしたもの)」の美術館内での展示ができず、美術館内ではなく共同プロジェクトスペース内での展示という落としどころになっていたことも”「表現の自由」に議論の余地ができた”ことだったから、水面下の交渉に限界を感じ、発表した
でもって、森美術館は
・全媒体&広告物の「Chim↑Pom」の名前を「Chim↑Pom from Smappa!Group」に変更して今後は使用する(使用開始の期限はGW明け5/15)
・Smappa!Groupの協賛金受け取りとロゴの掲載の検討
という感じだろうか。
改名、いいじゃないの、したらいい。意志表示、どんどんしたらいい。
でも、いくつかの点で、この声明文に物申したい。
おっと、その前に。まず、増田は当事者でもないし森美術館および森ビルの関係者でもChim↑Pomファンでもない。
そのため、すべてのことは想像でしかなく、中には事実と反することもあるだろう。
それを踏まえて、聞いてもらいたい。
①”多様性””公共””ブランディングを優先””ジェントリフィケーション”
⇒キャッチーで、そうそう、そうなんだよ、反体制のスピリット!と、どこかアナーキーなアーティスト性に酔いしれたいファンが応援したくなる巧みな言葉遣い。うまい、うますぎる。
⇒だけど、待って。多様性って「いつでも全てを無条件ですべてを認める」ということなのだろうか。幼稚園にロリコンの成人が混ざりたいといっても、幼稚園には幼稚園の対象があり断られるように、NHKで企業名を出さないように、R18のゾーニングをすることのように、男湯と女湯を分けることのように、さまざまな無条件ではない場合にも、そこに多様性がないわけではない。多様性とは、で調べると、「幅広く性質の異なる群が存在すること。」とある。そうだと思う。『群』だと思う。その『群』を否定してはいけないが、その『群』が完全に混ざり合う必要はないのでは。だから、多様性の一つの解釈に「いたずらに何かを排除してはいけない」があるといえるだろう。今回は「排除」しているのかもしれないが「いたずらに」ではない。そもそも、”公共”の要素を持っているからといって、森美術館は『株式会社』だ。”ブランディングを優先”そりゃそうだ。株式会社だ。権威であろうと、体制であろうと、そこには日々の生活と日々の業務があり、誰かにとっての、そして企業にとっての小さな信頼と伝統を積み重ねてきた「商いの形」がある。そんな「商い」の中で、交渉をし、契約を結び、落としどころを見つけながら話していることは、「いたずらに」ではないのではないか。そこには企業としての意思がある。
⇒ジェントリフィケーション、その通り。『都市開発』では『都市』を『開発』するのだから、そりゃあジェントリフィケーションが起きる。でも、それとこれとは別の話ではないか。接客を伴う水商売を悪いものとしているわけでも否定しているわけでもなく、ただ「うちとは合わないよね」といっている話に、たいそうにジェントリフィケーションを持ち出されても、森美術館の言う通り「ブランディング」の内側の話を拡大解釈しすぎではないだろうか。
改めて、会期中、しかも会期残り2週間のためにすべてを修正しろっていうのは担当者のことを考えると辛すぎる
⇒アートと商いは相性が悪いという話は、アートと商いがとっても相性がいいという話と同じくらいよく見受けられる。アートの中で、資本主義は時に否定され、時に資本主義と共に大きく幅を利かせている。
⇒会期残り2週間のために用意しているあらゆる媒体資料・広報資料の名前を『物理的に(印刷など)』修正し、デジタルであっても『修正依頼を(人力で)』ひとつずつかけて、すでに用意していた様々な資料もすべてをやりなおす。だれがその資金を工面するのだろうか。森美術館がするのか?商いを馬鹿にしすぎている。契約という約束事が軽すぎないか?
⇒人気も出てきた、会期も真ん中、なぜいま発表をする?別で準備しているイベントがまとまったからか?なんなんだ?Chim↑PomもChim↑Pomで契約に同意し、うまみがあったり意義があったり面白味があったりいろいろな理由を超えて「森美術館でやりたい」と同意したから、会期が始まっているのに、なぜ、今なのだ?そんなに不快なら仕事を受けなければよかったのかもしれない。始まる前に話し合ったり声明文を出すのも手だったかもしれない。でも、今、すでに始まった中で後から手を翻し、ずっと怒っていたと一方的にきざな言葉で並べ立てるのは、いささか「商いを馬鹿にしすぎている」としか思えない。ひとりひとりのお客さまからお金をいただいて、ひとつひとつの企業さまからお金をいただいて、誰かのお金になるように、経済を回すこと、生活すること、権力だろうと権威だろうと体制だろうと、そこには人がいるし、そこには道理があるのではないだろうか。強者に対してなら何をしてもいいとでも思っているのだろうか?
⇒会場に行った方なら体感できるだろうし、行っていなくても写真を見たらわかるだろうが、今回の展示、かなりアグレッシブな展示方法も展示手法も含まれている。これは予算が…これは消防法…設営の順番大変そう…いろいろな制約を乗り越えられるよう、ひとつひとつアーティストと館の間を取り持ち、掛け合いながら進んだのではないか、と感じさせる会場だ。
⇒1000万円、通常の展示ではないことをたくさんする(=森美術館としては、新しさのあることにしたい&今までのChim↑Pomの活動をそのまま紹介できるようにしたい)という意志もあって、「会社的にはこれ以上の設営費の負担ができないので、その形での展示は出来ないのですが、設営費をいただけたら、なんとか…」という落としどころをもって話した結果だったりはしないのだろうか。
⇒そのうえで、「受理していない」場合は、その「不足額」は誰が払っているのだろうか、「その協賛金を受け取れないのは森美術館側の話だから、その不足分は森美術館で持ちます、だから、すみません」そんなやりとりがあったのではないだろうか。スーパーラットの展示を美術館内で出来ないと判断されても、展示の流れに組み込みたいという思いで共同プロジェクトスペースに設置しているのを思うと、ついついそんなことを想像してしまう。
物事は多面的で、憶測でモノを申している立場で本当に申し訳ないが、
やっぱりこの声明文でChim↑Pomが評価されていることに納得がいかない。
きざな言葉を並べて、弱いふりをすれば、もしくは本当に弱者の立場であるからといって「弱さを盾にすれば、権威のことを後ろから殴ってもいい」そんなわけがないと自分は思う。