はてなキーワード: 高橋さんとは
俺の姓は微妙にレアで、生まれてから今まで自分と同じ名字のキャラクターというものを一度も見たことがない。
現実でも、血縁者以外で同じ名字の人間に遭遇したのは今まで二人だけだ。
暇潰しにネットで検索する事もあるのだが、実在する芸能人、俳優、その他著名人にも同じ名字の人間は見つからなかった。
だから「自分と同じ名字のキャラクターが創作物に登場する」という現象を体験したことがなく、その時どんな感情が自分の中からわき出てくるのか、実は全く分からない。
「佐藤さん」「田中さん」「鈴木さん」「高橋さん」あたりのようなありふれた名字の人が今まで何度も経ている体験を、俺は一度も出来ていないのだ。
至極くだらないことなのは理解はしているのだが、望んでも得られないと意識すればするほど気になってしまう。
どうすればいいんだろうな。
被爆の実態を国内外に伝え続けた半生だった。元原爆資料館長の高橋昭博さんが2日、亡くなった。「原爆犠牲者の声なき声を後世に伝えるのが生き残った者の責務」。最後に取材した3月、言葉は途切れ途切れながら強い意志を感じさせた。病が進み証言活動が困難になっても、核兵器廃絶への執念が衰えることはなかった。
あの日、爆心地から1.4キロで被爆し、生死をさまよった。戦後、広島市役所に勤めながら被爆者運動に心血を注いだ。
原爆被害の非道を訴える一方、対話を重んじた。1980年、原爆投下機エノラ・ゲイの元機長ポール・チベッツ氏に米国で面会。「いまさら恨みつらみを言うつもりはない」と握手を求め、文通につなげた。「核兵器なき世界」を唱え就任したオバマ米大統領には広島訪問を要請する書簡を何度も送った。
オバマ大統領が被爆地を訪問する際に謝罪するべきかと問うたことがある。高橋さんは「謝罪というハードルを突き付けるばかりでは廃絶へ進まない。ずっと同じ場所にとどまるのは未来志向ではない」と答えた。
だが、別れ際に「昔は謝罪するべきだと思った。本当は今でも原爆を落としたアメリカが憎いですよ」と苦渋の表情も浮かべた。長年、核兵器廃絶を訴えた理想と非人道兵器による惨劇を忘れられない内面との葛藤を垣間見た思いがした。
長年苦しんだ末にたどり着いた「和解」の訴えは重く、高橋さんが目指したゴールははるか遠い。その遺志をどう引き継ぐのか、被爆地に問われている。(金崎由美)
(2011年11月3日朝刊掲載)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20111104131802632_ja
まあ複雑ってことで
はてブホットエントリーの30選(http://gathery.recruit-lifestyle.co.jp/article/1141321068543131601)がイマイチ感性に響かなかった(普段読書しない人向けか?)ので、俺選してみる。
【反省会】
お仕事は?
どんな技術があるの?
→高専までで使ったことのある言語はC/android/C#/C++/javaなどなど
→業務経験では、node.js/JavaScript/PHP/chefなどなど
どこが嫌か?
あくまで、生きるための手段であって、生きる目的ではない。
だが、社長は仕事が生きる目的であって、それを僕にも矯正してくる。
2,同僚が嫌
考えなしに、酷い事(嫌味)を自分はオモシロイと思って、言いまくる素敵な社員
3,クソPMがいる事
そのPMは、今仕事が無いので、社内では、もっぱら艦こればかりやってる。
しかも、PMの経験が豊かか?というと、アジャイル開発やスクラム開発、ウォーターフォール開発等の言葉も知らないらしい。
しかし、ヤバイのは、そんな僕でも出来ちゃうような状態の酷さのくせに、我が物顔で、僕に説教をしてくる。
正直、キレそうになる。
あのな、お前そんなんじゃ、少なくとも俺は、お前の指示聞きたくないぞ。
つうか、お前、俺より無能のくせに、俺のことを、お前っていうな。名前で呼べ、アタリマエのことだろ。
4,クライアントが嫌
クライアントが日本語が不自由な人で、質問をすると、キレてくる。(日本人です。)
お前の社内チャットの文面、いつも体言止めで終わってて、本当に意味不明なんだよ。
例
高橋さん DシステムのXX機能
(このあと、返信するまで、何もなし)
XX機能がどうしたよ!何が言いてえんだよ!!!1111意味がわからないんだよ。
頼むよ。続きの文面書いてよ・・・。エスパーじゃないからわからないんだよ。
はぁ、転職したい。
年明け出社したくないよ・・・。
http://anond.hatelabo.jp/20130529230131 の続きです。長くて途中で途切れるため分けました。このエントリで紹介するのは以下の本です。
影響を受けたブログは20冊の本を取り上げていた訳だが、自分で真似をしてまとめていく内に20冊よりもずいぶん多くなってしまった。なので、上記4冊は似たテーマなのでまとめて紹介することにする。この節は日本人の自伝だ。
「名人に香車を引いた男」は昭和の将棋指し(棋士)の升田幸三名人の自伝。羽生善治さんがもし生きていたら是非将棋を指してみたい棋士の方だと聞いたことがある。
生き方はなんとも痛快。昔の人のバンカラな感じというか、そういう感じが良く出ている。この人のように、どんな人にも自分の本音を話せる人は今日本の中にいるだろうか。そして、名人になった時の一言が心に残る。
「八十歳のアリア―四十五年かけてつくったバイオリン物語」は糸川英夫さんの自伝だ。この方はロケットが専門の研究者で、戦時中は戦闘機の設計に関わっていたり、戦後もロケット開発に関わっていたりする方だ。戦後間もない時期は失意に沈んだ時期で自殺も考えるほどの状況だったが、バイオリン製作がきっかけで少しずつだが自分を取り戻していく。そのバイオリン製作には完成までに40年以上もかかった。そのバイオリンとは――。
升田幸三名人、糸川英夫さんの両氏とも戦争の影響が人生に大きくのしかかる。その点でまとめさせてもらった。それと、両氏の著作とも読んでもらえばわかるが、自由だ。それ以外はあまり共通項はないけれど、読んで楽しい本だ。重い話はないし、読みやすい本なので手に取ってみてほしい。
「記憶の切繪図」は「フェルマーの最終定理」の中で登場する志村五郎博士の自伝。「フェルマーの最終定理」の中でサイモン・シンさんは志村さんにいろいろインタビューしている。その中で数学における「良さ」とは何なのか、それに答えるシーンがある。その答えが簡潔なのだけれど、それ以上無いくらい志村さんの数学のとらえ方を表しているように思え、興味があって読んだ。
この方も上記二人に劣らないくらい自由だ。Amazonのレビューには高木貞治さんを愚弄しているという指摘がある。しかし、だからといって謙遜して書いてもらっても一読者としてはおもしろくも何ともない。むしろそのまま出版してもらって良かった。
こう書くと志村博士はずいぶん口の悪い人で、ある種の暴露本に思えるかもしれないが、そうではなくて、要所要所に意図して書かないことがあったり、感情を押し殺した表現がちらちらあるのだ。それがあるから、志村さんの人となりがわかった。良い自伝だ。
「弁護士、闘う―宇都宮健児の事件帖」は少し前に東京都知事選に立候補されたり、弁護士会の会長をされていた宇都宮健児さんの自伝だ。まだ自伝を出すには早いと思うので、半生を綴った本としておいた方がよいか。
決して飾らないその人柄は文章にもそのまま表れている。豊田商事事件、オウム真理教の一連の事件、カード破産の話など、弁護士として関わった事件の数々。それらを振り返りながら、今されている仕事にも言及している。自分は法律のことは全くわからないが、こんなに多様な類型、しかもその事件が発生した時点では立法そのものが不整備だったり、法解釈が分かれていたりといった、未開拓の問題に対処するのは並大抵の法律家にはできないように思える。それをまるで飄々とこなしているような姿は、武道の達人のようだ。
気負いのなさと実直さ、そして執念を感じる本だ。宇都宮健児さんへのインタビューが下のURLにある。興味のある方は見てほしい。
この本は学生時代に講義で先生がおすすめされていて読んだ本だ。著者は高橋秀実さん。
高橋秀実さんはルポライターで、自分の体験を元に本を書く方だ。ただ、ルポライターではあるけど、少しほかのルポライターと毛色が違う。本来ルポライターは事件や事故が起きたら素早く現場に赴き、当事者にインタビューをして、それらを記事や本にする。高橋さんはそれらの事件や事故が起こって、ほとぼりが冷めたあたりでインタビューに出向く。時期がかなり遅いのだ。
元のブログでは物事には多様な見方や解釈があって、一元的に判断することは危険なことを理解するための本として「バカの壁」を挙げていた。その点では、この本も内容は似ている。面白いのは、この本ではそれが「実例」でいくつも挙げてある所だ。
ニュース番組や新聞では、大きく取り上げられていた事件・事故が、実際に現場に行ってみると「あれ?」と思えるくらい当事者たちは冷めていたり、むしろその状況が続くことを望んでいたり――。読み進めていくうちに、不謹慎かもしれないが笑ってしまうような話になっていったりするのだ。某映画の台詞の反対で、むしろ事件は会議室でしか起きていないんじゃないか?、という気持ちにもなる。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。解説を村上春樹さんが書かれていた。(はずだ。確か)
堅苦しい話ではないので、気楽に読んで、何度かたまに読み返すとその度に不思議な気持ちになる本だ。
著者は西前四郎さん。半分が小説で半分がノンフィクションといった感じの本だ。
デナリというのはアラスカにある山の名前で、日本では「マッキンリー山」と言った方が通りがよいと思う。この山を登る登山家チームの話だ。ちなみに、植村直己さんはこの山で行方不明になった。(この本のチームとは無関係だろう)
厳寒期の冬山を登る人の気持ちは自分には想像もつかない。だけれども、そんな自分にも山を登るチームワークの大切さと難しさ、軽く見積もった事象が後にやっかいな出来事にふくらんでいくその状況判断の危うさや過酷さ、そして生きることへの執念といったもろもろが、響いてくるような本だ。
今の登山の装備と比べると、重かったりかさばったりしてその面でも大変だったはずだ。写真のページを見ると、そんなところも気にかかった。
この本のあと、山登りの本は植村さんの本(「青春を山に賭けて」)も読んだけれど、こちらの方が山について全く知らない自分には印象に残った。所々で登山の道具の名前(ハーケンとかザイルとか)が出てきて、イメージができない自分のような人は、出てきたところで、ググったり辞書で調べて簡単な絵を紙に描いておいて、再度出たときにその絵を眺めたりしながら読むとより読みやすいと思う。
この本は椎名誠さんが著者だ。椎名誠さんは今はエッセイや世界各地を回った紀行文を書いたり、写真家であったりとマルチ作家だけれど、この本が出たのはそうなり始めてすこし経った頃だ。
冒頭から危機的な状況である。にもかかわらず出発するのだ。この判断は本当だとしたらすごいことだ。何が危機的なのかはここでは言わないけれど、読めばすぐわかる。
全体として、椎名さんが書く紀行文は自分で感じたことをズバズバわかりやすく書いていく方法なのだが、この本はそこまでズバズバ書くと言うよりも、なんとなく「岳物語」につながるような、私小説風の書き方をしている。その書き方もあるし、パタゴニアという場所のせいもあるからか、行き止まりに向かって進んでいくようなやり場のの無さを感じる。それが途中ですっと消えて静かな感じで終わるのだ。自分はそこがとても好きだ。精神的な閉塞感がふと消えて、やさしさが残る本だ。
冬から春にかけて寝る前に少し読むのが似合う本だろう。この本は文庫版もあるけれど、ハードカバーの装幀が自分にはしっくりくる。
カヌー犬・ガクというのは、前に挙げた椎名誠さんの飼っている犬の名前だ。その犬は手こぎボートの船頭に座って川下りをするのが得意という、ちょっと変わった特技を持つ。
その犬と椎名誠さんの友人の野田知佑さんが、日本や世界の各地を巡ったときの話をまとめたのがこの本だ。著者は野田知佑さんご自身。
カナダのユーコン川を下ったり、北極(か、南極か忘れてしまったけれど)に行ったり、といろんな所に行って危険な目に遭ったり……、南国に行ってのんびり過ごしたり。少し羨ましいけれど、いざ自分が行くとなるとそんなところはとても怖くていけないようなところに行く。
犬を人間と同じように扱うという著者なので、犬が好きな人はより楽しめるだろう。元のブログとの対応としては「深夜特急」にあたるかな?(やや無理矢理だけど)
著者はM.B. ゴフスタインさん。翻訳は末盛千枝子さん。絵本だ。(やや字が多いけれど)
小さな女の子が主人公。おじいさんがピアノの調律を仕事にしていて、おじいさんとしては女の子にピアニストになってもらいたいのだけれど、女の子はおじいさんのようにピアノの調律をしたくてたまらない。そんなときに、ピアノの調律を頼まれるのだ。
あらすじで書くとそんなに心惹かれる感じは無いかもしれないが、絵の良さ、そして言葉の良さ。二人を取り巻く登場人物の面々もすばらしい。
「謎のギャラリー」のところで言及した「私のノアの箱舟」も同じゴフスタインさんの絵本だ。こちらもすばらしい。ゴフスタインさんの本はほかにも何冊か読んだけれど、この本が一番絵本らしい絵本だと思う。絵の良さはいくら文章にしたところで伝わるものではないので、図書館で借りたりして手に取ってみてほしい。もちろんM.B. ゴフスタインさんのほかの本を読むのも楽しい。
中学校で習う数学を、苦手な人も得意な人もできるかぎり楽しく考えていこう。それがこの本のテーマだ。中学生向けの数学の月刊誌で連載していた読み物をまとめた本で、著者は小島寛之さん。はてなダイアリーを利用されている( http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/ さん)ようだ。
数学は、学習が進むにつれてどんどん(指数関数的に?)難しくなっていき、小学校や中学校では好きだった人もだんだんと距離を置いて離れて行ってしまう……、そんな科目だ。なかなかずーっと数学が好きで好きで……、という方はいないのではないかと思う。おそらく数学のプロの方(数学者のような)でも、そのキャリアのところどころで難問にぶち当たり、歯がゆい思いをするのだろう。(そういう話は前に挙げた「フェルマーの最終定理」にちらっと出てくる)
そんな風にだんだんと一般人は数学から身を引いていきがちになるわけだけれど、この本は、わりと数学や算数を学び始めた頃に不思議に思えたことを延長して話をすすめようとしていく。こういう書き方はやろうと思ってもとても難しいはずだ。著者は数学が好きな気持ちと、一方で嫌いな気持ちの両方を持ち続けているような、そんな状態になるだろうから。嫌いな人の気持ちになって、そしてそのどこが嫌いなのかを共感した上で話を進めつつ、好きな人も読めるようにする配慮を怠らない。そんな書き方がされている。
この本が持つ数学へのアンビバレントな思いは、いわゆる数学(の歴史を中心とした)解説本でもなく、かといってとっても難しい数学のドリルみたいな本でもなく、わかりそうでわからない絶妙な問題の難しさと相まってなかなか類書がないと思う。くわえて、ところどころに経済学の話とかもでてきたりする。好きな人もそうでない人も読んでみてほしい。なんとなくわかりそうで手が出ないあの「数学の感じ」を思い出すはずだ。
同じ著者の「解法のスーパーテクニック」も良い本だ。ただ、一冊にしろと言われたら「数学ワンダーランド」かな。ほかにも小島寛之さんの著作はいくつかあるのだけれど、自分が読んだのはこの2冊だ。なのでほかにも良い本はあるだろう。
元のブログとの対応としては細野さんの数学の本としておく。(その本を読んでないのでどこが?といわれると、単に数学つながりなだけだ)
この本は幻想小説というのだろうか。ファンタジーだ。著者はピーター・S・ビーグルさん。翻訳は山崎淳さん。
この本はとても雰囲気がよい。あらすじはそんなにたいしたものは無いんだけど、夏の早朝のような爽快な感じがある一方で、なんか少しじめっとした感じもするのだ。
Amazonのレビューがこの文章を書いている段階で4つある。で、そのどれもが作品の魅力を的確に紹介しているのだけれど、なんだかそれらのレビューだけではこの本の良さを伝えきれない感じが残る。言葉を連ねてもなかなか伝わらない感じがする本だ。
この本を自分は夏の終わりの頃に読んだのだが、その頃の陽気にとてもよく合う本だった。光の強さと日の入りの早さがこの本の主題に合ったものだからだろうか。「リプレイ」が動くSF小説に対して、この「心地よく秘密めいたところ」は静かにじっとしている感じだ。でも、どちらを読んでも同じ思いに至るはず。不思議だけれど。
著者は伊勢崎賢治さん。この方は日本の大学を卒業されたあとにインドで民衆のグループのリーダーをされて、その実績を買われ、国連の要請で東ティモールに赴任する。(下のURLに伊勢崎賢治さんへのインタビューがあるので詳しいことを知りたい人は読んでみてほしい。)
こういう日本人って(自分が不勉強なせいかもしれないが)あまりいないと思うのだ。杢尾雪絵さんくらいしか自分はほかに知らない。
ずいぶん前に読んだので細かい記述は忘れてしまったけれど、この本の良さは著者が見たこと、感じたこと、やったことが率直に書かれたところ。そして日本に住んでいる限り想像できない「危険」な東ティモールでも、危険な所もある一方で、そうでないところがあるといったような、現実の姿が伝わってくるところだ。
外見はなんかどこにでもいそうな感じのおじさん(もし本人や関係者がこの文を読んでいたら失礼で申し訳ない。すみません。)だ。だが、インフォーマルな組織における統率の方法や、戦争犯罪者をどのレベルまで処罰するのか、など、繊細な問題への対処。こういうのは前者は経営学とかで少し研究されているようだけれど、じゃあそれが実地で適用すれば問題は解決するのかというと、そうでも無いと思う。そういった「答えが見えない問題」へどうやって取り組むのか――。しかも異国の地で。
そういうことを知りたいときに読むとよいかもしれない。自分も詳細を忘れていることに気がついたのでもう一度読むことにする。それにしても久しぶりに上のインタビュー記事を読んだけれど、タフな人だ。
著者は藤本研さん。この本は、藤本研さんがおよそ半年をかけて日本を歩いて一周をした旅行記。旅行記というよりも生活記録といった方が良いかもしれない。
生活記録なので、朝は何時に起きたとか、午前中はどうしていた、お昼は何を食べた、などなどそっけない記述が中心だ。でも、そのそっけなく感じる記述が妙なリアルさを出していて、読んでいると日本ってこんなに広いんだと思わせてくれる。それと歩いてたどり着いた各地の景勝地を見るとか、そういうことも無くて、そこもこの本の特徴だ。タイトルに「大貧乏」と付くのは、宿泊をほとんどを野宿やお寺の本堂の隅を借りたりして無料でまかなうことによる。食事もとても簡素なものだ。
本のはじめに藤本研さんの歩行ルートが日本地図と一緒に図示されていて、その後にスケジュール表があって、それをみるのも楽しい。たんたんと書いてある中の楽しさ、と言って伝わるだろうか。
たまにアクシデントに見舞われるのだが、そのアクシデントがなんとなくユーモアがあるというか、おだやかな感じだ。日本一周するからと言って、気張らず、藤本研さんはたんたんと歩いて行く。歩いている途中で同士がいたりする。そういう記述もなんだか一緒に日本一周しているような気持ちにさせてくれる要因だろうか。
自分は今まで挙げた本はだいたいは図書館で借りて読んでいる。この本もそうだ。再度読みたいのだが、図書館で借りようとしたらいつの間にか消えてしまっていた。残念だ。
(まだつづく、かも。)
シロクマ批判はどうでもいいから実証データを提出して欲しかったんですが
答えられなくなって話をそらしているようですね
https://twitter.com/NaokiTakahashi
Naoki Takahashi @NaokiTakahashi
それはデータに基づかず言ってたり、データに基づかなくていいように反証不可能な主張を構成してたりする
結局これはホラ吹きだったわけですか…
シロクマ本人から「陵辱マンガを消費するオタク男性心理」なんて分析されたら
(主旨は http://anond.hatelabo.jp/20130504192147 とそっくり同じでも)、転げ回って発狂するんだろうけどネッwww
ですよねーw
「社会論的に述べれば、オタクはオタク蔑視され続けて歪んだからレイプマンガでオナニーするようになった」
というエントリをageた時、どういう反応をするか目に見えるようだ
これからさき、シロクマやはてサやフェミがそういう記事を書いても
こちらに書くのが流行りのようなので、こちらに書く。単に外向けのブログがないだけなので、他意はない。
RubyKaigi 2011が終わった。まずはRubyのパパを始めとするRuby開発者のみなさん、そして参加者のみなさんに御礼を言いたい。何はともあれRubyKaigiは、Ruby開発者同士、Ruby開発者と利用者、Ruby利用者同士のコミュニケーションの場所であった。RubyKaigiは、主催者が企画した講演を参加者に聞かせるだけという、一方向な関係の場ではない。会期中に開かれる講演は撒き餌とか出しみたいなもので、それだけが主眼ではない。それよりも、そこで交わされる会話や議論が貴重で、それこそ、場を提供するスタッフたちが目指していたものなのだ。
そういった意味でも、RubyKaigi 2011は成功だった。重要な決定がなされたり、こうした機会がなければ決して会うことのない人たちが出会ったり、久しぶりの友人と再開したり、そういう場面を会場でいくつも見かけた。RubyKaigiであるからこそ出会った人が、RubyKaigiだからこその会話や議論をしていた。このような参加者同士のコミュニケーションがメッシュ状に展開され、構築されるトポロジーこそが、まさにコミュニティなのだろう。
角谷さんの講演は、そういった気分をよく表現していた。コミュニティは目に見えないものなので、これであると指し示すことができない。とはいえ、私たち個々のコミュニケーションから成り立っているということも事実である。だから、コミュニティを主語にしようとすると、それを構成する個々人のコミュニケーションへの構えを話すことになる。(この落差が誤解の元なのだが、それは別の話であるのでここには書かない。)
私がみなさんにお伝えしたいのは、RubyKaigiが現前してみせたコミュニティは、あなたのコミュニケーションへの構えに過ぎないということだ。RubyKaigiという奇跡的な場は終わる。でも、悲しまないで欲しい。あなたが感じたコミュニティの情熱は、あなたに内在している。なぜなら、コミュニティとは、あなたとあなた以外の人の間のコミュニケーションなのだから。
◆
最後に、実行委員や当日スタッフの皆さんにも最大限の感謝を贈りたい。それから、少しばかりスポットが当たることが少ない人を紹介させて欲しい。
まずは、高橋さんを紹介したい。高橋さんがRubyKaigiの方向性を決め、責任を担う。これがどんなに難しいことか、イベントを主催したことのある人間でしか分からないかもしれない。しかし、彼は最初から最後まで(最後と決めることも含めて)この難しい仕事を全うした。心から賞賛を送りたい。
そして、レオさん。彼はRubyKaigiを国際化した立役者だ。日本の開発者と海外の開発者を結び付け、国際的な輪を広げた。講演のスクリーンでの翻訳だけではなく、日本の開発者に海外の開発者を紹介したり、言語的な障壁を取り除くことに貢献した。彼の成し遂げた事は本当に大きいと思う。
あずみさんはずっと会計を担当してくれた。とても信頼できる人で、仕事が忙しい中でも手間を惜しむことなく、面倒で難しい仕事を丁寧に根気良くしてくれた。とても負担をかけてしまっていたので、ご迷惑をおかけしたのではないかと、ずっと心配をしていた。
他にも紹介したい人はいっぱいいるが、書きかけてあまりにも個人的なメッセージになってしまったことに気付いたので、割愛したい。もしも御縁がありましたなら、いつの日か、また、お目にかかりましょう。
週末に行ってきたイベントだが、ちょっとインパクトが強すぎて、あとたぶん昼から通しで追っかけてるのは自分だけなので、この話誰かに伝えたい!と柄にもなく思ってしまった。
ここまで、日本語でウケを取り、アメリカ人にしか聞こえない英語をしゃべりつつの話。まじありえないレベルの覚悟と実践なんだが・・・!
この人のセッション、ブラジル事情の紹介みたいな話で大ホール側のセッションも覗いてみようかなと思っていた所にこれで、ただちに絶対参加すべきレベルのセッションに格上げされた。こんな人がいるとは。
で、昼休み後の問題のセッション。結局ツイートどころじゃなかったが、こんな感じ:
Javaはあれが酷いとかPHPがとかいう態度でRubyを使うのも無駄だ。
なんという激熱トーク。本当に小さかった南米のRubyコミュニティを仲間と共に成長させ、いまやRubyConf Brazilとか南米で何個もイベントが立ち上がるまでに育てた。この伝道のため、ここ数年で80箇所は回って普及に努めたとかとか。ブラジル事情への関心と関係なく、この熱量を体験できてよかった。
最後の時間オーバー後の「あと一言だけ(本当はあと1分だけと本人は言っていたのだが、わざと誤訳してタイマー役の人に会場から叫んだ自分w)」でどんなにダメだとされていても、諦めずに進めという、過去の偉人が貶められたり失意にあった時代の動画もよかった(もっとも、この話は知っていたのでインパクト自体は薄めだった)。
この後はLTとクロージング。
インパクト強すぎw
これ漫画系展開をバックボーンにしたエンタテイニングなスタイルだと理解せずに真に受けると大変だなと心配になったり。なにしろ上は三行だけど全部通しで書くと
真面目に受け取ったらヤバイ発言多すぎだろ・・・
こ れ が 締 め の 講 演 か よ !
そういえば途中にまどマギネタも入ってた記憶があるのだが、上のインパクトが強すぎてどこかに飛んでった。
その後の高橋さんの最後の挨拶とスタッフを集めてのスタンディングオベーションはちょっとうるっと来た。初参加だから今回の運営自体への思い入れはないのだけど、この回だけでも感激することが多かった。この完成度に達するまでどれだけの努力と熱意が投入されていたかと考えると。
隣の席が実はtdtdsさんでびびってたのだが、最初に立ち上がったのを見て、続く二人目のタイミングが大事!とすぱっと立ち上がってみてよかった。その後前列の人がみんな!立とうよ!みたいにやって一気に雪崩状態。
これで会議は閉幕したのだが、さらにherokuの緊急パーティーが開催され、思い切って行ってみた。まあ、懇親会に輪をかけたリア充な雰囲気でまともに話せなかったのだが、
こんな一日だった。熱かった・・・
ともかく僕がネットの意見に悲観的トーンを強めたのは、あの bewaadのあからさまな扇動に実名匿名を含めて中途半端な態度や批判さえもしだした連中がいわゆるリフレ支持者でも多くいたこと。本当に、こりゃ、ダメだ、と思った。それから基本的にネットには期待してない。申し訳ないけど
@shinichiroinaba 甘い。高橋さんの馬淵批判が前提なのを見逃してるね。こっちは賛成反対以前の段階を批判してるのに、妄想はどちらかといいたい。これでは日銀批判してるほど委員になれば賛成に転じるというのと同じ
posted at 19:22:39
しかし稲葉振一郎はただの物見遊山でネット政治だけ配慮し、高橋洋一はつまらないことで妄想全開であげ足とり。これじゃあ、デフレ脱却なんかできない。あまりにも信用できない人が多すぎる
やはり長年官僚の世界にいると浮世離れするということがよくわかりました。要するに審議会では黙ってるのがベストということを高橋さん流に言い直し、さらに批判できるのは俺様だけというわけですね、わかりました。笑。正直、つまらねえ、足のひっぱりして楽しい?@YoichiTakahashi
信用できない人が多いなんて、当初からいわれてたことだわな
http://anond.hatelabo.jp/20110127223112
んー?結局、高橋さんが「サザエさんは暴力装置だ!」っていうのは、そう指摘することだけが目的で、家父長制自体はどうでもいいってことか?
学会というのは「講」である。つまり、「講」だ。この時点で、まともな宗教団体ではなく土着の宗教や信仰宗教団体である。
つまり、創価学会は「池田先生」なるものを依り代にして集まっている「烏合の衆」であって、宗教的なものを目当てとしない。
「三丁目に住んでいる高橋さんの家に会合についてのパンフ渡してきて」
「あ、そうだ。ついでにこの間いった旅行土産もついでに(ry」
こんな世界が学会だ。創価学会なんてものすごく着飾って言っているけど、ただの中身はこんなもんだ。2chとかと一緒。
でも宗教団体なんだ。だから、変なノルマもあるし、特に「講」という制約があるから近所付き合いになる。
煩わしいと思うのならやめた方がいい。そして近所付き合いである以上、黄金地区に住むなら嫌になる。だから嫌われてるんだと思ってる。
学会の良い点も悪い点も「講」だからだよ。宗教講だったか。集団講だったかでぐぐれ。石仏信仰で出てくるあの「講」だ。
俺は「池田」はいらない。俺は「講」が欲しいけど、「池田」はいらない。
「講」という依り代にいたいけど、そこで「先生凄い」とまではいえない。
しかし哀しいかな、そうしないと「講」として成り立たないんだ。教祖が凄いとやらないと無理。
だからあんな道化に走ってるんだと思う。名誉賞とか、勝利とかってうたい文句はそうしないと講として成り立たないんだ。