はてなキーワード: 距離とは
■「「「「「「「近しい」」」」」」」
どいつもこいつも「近しい」「近しい」うるせーーーーーー!
ずべこべ言わずに引け!!
近しい:親しい。親密だ。
これだけ
「近しい」に「距離が近い」とか「似ている」の意味はねーーーーんだよ!!!!
上司も!同僚も!マナー講師も!サンリオ当たりくじのアンケートも!!
みんな近しい近しい言いやがって!!!!
近しいは近いの丁寧な言い方じゃないっつーの!!!
この界隈における「お見送り」とは、俳優が出口付近に横一列に並んでいて、その前をオタクが歩いて退場していくというものだ。
しかし、昨日のイベントはお見送りの列が2つに別れていて、お見送りしてくれる俳優もそれぞれの列に別れて配置されていた。
どちらの列に並ぶかは座席ごとに指定されており、自分で選ぶことができなかった。
私は10年以上俳優のオタクをしているが、お見送りが2列に別れていたことは一度しかなかったためかなり驚いた。
公式サイトにはお見送りに参加する俳優の名前が全員分書いてある。それにもかかわらず、半分の俳優たちにしかお見送りしてもらえないなんて、そんなことあるんだ…。
ちなみに、このイベントは2日間開催されており、1日目は全員でお見送りをしている。
私も1日目に参加していて、2日目も当たり前に同じ方式だと思っていたのでより驚いた。
・全員の名前が書いてあるのに実際は半分の俳優にしか会えないこと
この2点を事前に客側に知らせなかったことにかなりもやもやしており、愚痴を書いてしまった。
終わったことなので、どうにもならないのだが…。
思い立ったので書く
https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
多くの自動車メーカーに影響を与え、後に自動車のスタンダードとなるような技術・理念を持つことを選考基準とした
世界初のガソリン内燃機関を動力とする3輪自動車。現代の自動車の始祖にあたる。
自走式の自動車はモートルヴァーゲン以前に前例があるものの、馬車を改造したものでしかなかった。機動性と実用性を考慮し、ドライバーが手足のように操作できることを念頭に開発された自動車は、モートルヴァーゲンが初となる。「バランスを取ることなく、ドライバーが自由にコントロールできる自走式の乗り物」を自動車とするならば、それを定義したのがこのモートルヴァーゲンといえる。
発明者のカールベンツはメルセデス・ベンツ創始者の一人。その妻であるベルタベンツは1888年、旦那に内緒でモートルヴァーゲンを持ち出し、息子2人と長距離旅行(実家に里帰り)を敢行。ガソリンスタンドなど無い時代に、幾多の故障とトラブルを乗り越えながら往復200kmの長距離走行を成功させている。この時の経験は、モートルヴァーゲンの改良に大いに役立ったという。
世界初の大量生産車。ヘンリー・フォードによるライン生産方式の発明により、一部の富裕層の乗り物であった自動車が大衆のものになった。自動車史のみならず、人類の歴史にに大きな足跡を残した偉大な車である。
大成功を収めたフォードであったが、その十数年後にはゼネラルモータースの台頭により、フォードは窮地に立たされることになる。
いわゆる「ビートル」。基本的な設計を変えないまま2003年まで生産された。累計生産台数は2152万9464台。フルモデルチェンジを含めない単一車種の生産台数としてはぶっちぎりでトップ。
この車の偉大さを伝えるにあたり、長ったらしい解説は必要なし。世界中で広く愛され、たくさんの人々の生活を支えた。
世界で初めて衝突安全ボディを採用した車。衝突時に車体を意図的につぶすことで、衝撃を吸収し安全性を高める。
今では当たり前の技術だが、その当たり前を作り上げ沢山の命を救った功績は大きい。
3点式シートベルト(現在一般的に使われているシートベルト)を世界で初めて標準装備した車。ボルボは「安全は独占されるべきでない」としてこの特許を無償で公開。その結果3点式シートベルトは急速に普及し、世界中の自動車の安全に大きく貢献した。メルセデス・ベンツとともに敬意を。
スポーツカーとしての高い走行性能と、人や荷物を載せる実用性を高い次元で両立させた車。高級スポーツカーとしては珍しくルーフキャリアが装着可能で、荷物を屋根積みすればスキーやキャンプなどレジャーにも使える実用性を有する。初代の発売から現在に至るまで、世界中の自動車メーカーにとってスポーツカーのお手本であり続けている。
エンジン横置きFF(フロントエンジン・フロントドライブ)大衆車の先駆車。コンパクトな車体ながら広い室内空間を確保できるこのパッケージングは、現在の自動車の主流となった。
BMWにブランドが買収された後は、様々な自動車メーカーが挑戦し失敗し続けた「小さな高級車」を初めて成功させたブランドとなった。
フェラーリの創業者エンツォフェラーリが最後に手掛けたスペチアーレ(限定モデル)。希少価値を高めるため「欲しがる顧客の数より1台少なく作る」ビジネスモデルは、高級車はもちろん高級時計やブランドバッグなど、ラグジュアリーブランドビジネスとして今では一般的な手法となった。世界最強の高級ブランドフェラーリを象徴するF40は、自動車業界の枠を超えて特筆するべき製品といえるだろう。
世界初HV乗用車。初代プリウスは赤字覚悟の実験的なモデルだったが、2代目プリウスは商品力を高め大ヒットを記録した。
近年のトヨタはEVの販売が積極的でないため脱炭素できていないと叩かれがちだが、発売から現在までCO2排出削減に最も貢献した車は、他でもないプリウスである。「良い製品でも売れなければ意味がない」というトヨタの考えを地で行く名車。
走るスマートフォン。もはや自分で運転する必要などない時代を予感させ、モートルヴァーゲンが定義した自動車の定義を覆そうとしている。トヨタが「自動車メーカーからモビリティメーカーへの変革」を目指すようになるなど、世界各国の自動車メーカーが経営戦略の転換を迫られた。
また、テスラの運転支援技術が悲惨な事故を引き起こすなど、自動運転技術が普及していく過渡期として重要な出来事も引き起こしている。良くも悪くも、今後自動車史における大きなターニングポイントとして語られることは間違いない。
・1920年代のゼネラルモータース(シボレー、キャデラック等)
たくさんのブランドや車種を展開する販売戦略(多品種少量生産)やオートローンなど、現在は当たり前になっているマーケティング手法を生み出した。自動車史において非常に重要であるものの「これ!」となるような特定の車種を選ぶことができなかったため選外とした。
夢のエンジンと呼ばれたロータリーエンジン。世界中の自動車メーカーやオートバイメーカーが研究したが失敗。唯一実用化に成功したのは、東の最果てにある小さい自動車メーカーだった。高く評価されるべき技術だが、広く普及した技術とはならなかった。
ちなみに、ソ連がロータリーエンジン車を生産していた事実はあまり知られていない。一説によると3ローターの市販車は、マツダではなくはソ連が初だとも言われている。昭和51年にマツダがソ連技術者に工場を案内したことがあるらしく、その際に技術流出した(らしい)。
油圧サスペンションやモノスポークホイール、流線型で宇宙船のような外見など、意欲的な工夫が多数盛り込まれたシトロエンの傑作。特殊な車に見えるが、大衆車として145万台以上生産された。
誰もが認める名車だが、マツダロータリーと同じく一般的な技術として普及しなかったため選外。
ちなみに、油圧サスペンションの油圧はブレーキやパワステ、トランスミッションの駆動にも使われているため、何らかの原因で油圧がかからなくなると、最悪サスペンション、ブレーキ、ハンドルすべてが利かなくなる。
・メルセデス・ベンツ ミディアムクラスW124(1985年)
「最善か無か」最後の時代のメルセデスとして名高いW124型ミディアムクラス/初代Eクラス。安全性を最優先に考え、最善の自動車を実現するべくコストをかけて徹底的に開発された名車。世界中の自動車メーカーの研究対象になった。
しかし、日本車の躍進や東西ドイツ統合による経済的混乱などの理由で、メルセデスベンツはこの車以降、コストをかけた車づくりをあきらめることとなる。
日本車の高級車市場進出の象徴ともいえる一台。この車が出るまでは日本車=安くて丈夫な大衆車だったが、それを覆した。きわめて静粛な車内と乗り心地、そして高いクオリティに対する値段の安さは、全世界に衝撃を与えた。メルセデスが「最善か無か」の車づくりをあきらめたのはこの車が原因。
世界中の自動車メーカーが不可能と思われていたアメリカの環境規制、マスキー法を初めてクリアした名車。ホンダが北米市場で躍進するきっかけとなった。
ちなみに、マスキー法はビッグ3(フォード、GM,クライスラー)の反発により実質的な廃案となる。アメリカの環境規制がマスキー法同水準に達するのは、1995年になるまで待たなければならなかった。
アフリカや中東、南米ジャングルの奥地...。どんな場所でも生きて帰ってこれる車。厳しい環境で、農業や鉱業、人命救助などに活躍している。この車がないと生きていけない人が、世界中にはたくさんいる。
開発者インタビューによると、地引網漁に使われている事例もあったらしい(ランクルで浜から海にざぶざぶと入って網を投げ、引き上げる。釣った魚を売る時にも使う)。
パワーがないけど、軽量で安く走る楽しさにあふれるスポーツカー。デビュー当初、この類のスポーツカーは瀕死寸前だったが大ヒットを記録し、数々のフォロワーを生み出して今に至る。
ASKAのソロコンサートに参戦した。結論から言えば、素晴らしい時間だった。懐かしい歌、これまでのライブでは聴けなかった歌が、たくさん。
歌を聴くとその歌を聴いていた当時を思い出す。You are freeでは、プロモーションビデオの映像が目に浮かんだ。薄暗い部屋でアスカとチャゲが歌うプロモーションビデオ。あれはクリスマスの頃にマキシシングルとして発売されたんだっけ。史上最大のメリークリスマスっていう2時間の特番もあったよね。
チャゲアス曲を聴くとやっぱりチャゲが足りないと感じてしまう。YAH YAH YAHは最後のサビでチャゲさんに「ラストー!」という声がけをしてほしい。GUYSもBROTHERもチャゲさんのパートがあるし、いないのはさみしい。
アスカのブログをチェックすると、このコンサートの前にチャゲに声をかけたという。でも、「陰謀論や反ワクに染まっている奴とは一緒仕事できない」というようなことを言われて断られたらしい。
確かに、わかる。超わかる。私もASKAの歌は大好きだが、反ワクと陰謀論は大嫌いだ。
ただ、アスカは昔から超常現象とかオカルトが好きで、ファンクラブの会報にもよくそんな話が載っていた。だから、アスカがそこから抜け出すのは正直難しいと思う。
昔のように、ファンクラブの広報誌で特定の人たちだけに影響を与えるのと、今とでは、やっぱり違うのだ。誰でも繋がれるSNSがあって、ある程度フォロワーもいてインフルエンス力をもっていると、一般の人を悪い方向へ導いてしまう力も絶大だから。
ああ、SNSがなかったらいいのに。
アスカがSNSをやめてくれたら・・・チャゲは陰謀論ごとアスカを包んで抱きしめてくれたら・・
こんなファンの戯言なんて聞く必要もないのだけど、チャゲアスを復活させる落とし所はここぐらいではないだろうか。
いつか、チャゲとアスカが2m10cmの距離で歌っている姿が観たい。ASKAとCHAGEの声が重なる瞬間をもう一度観たい。ASKAのコンサートを見てますますそう思った。
ASKAのソロコンサートに参戦した。結論から言えば、素晴らしい時間だった。懐かしい歌、これまでのライブでは聴けなかった歌が、たくさん。
歌を聴くとその歌を聴いていた当時を思い出す。You are freeでは、プロモーションビデオの映像が目に浮かんだ。薄暗い部屋でアスカとチャゲが歌うプロモーションビデオ。あれはクリスマスの頃にマキシシングルとして発売されたんだっけ。史上最大のメリークリスマスっていう2時間の特番もあったよね。
チャゲアス曲を聴くとやっぱりチャゲが足りないと感じてしまう。YAH YAH YAHは最後のサビでチャゲさんに「ラストー!」という声がけをしてほしい。GUYSもBROTHERもチャゲさんのパートがあるし、いないのはさみしい。
アスカのブログをチェックすると、このコンサートの前にチャゲに声をかけたという。でも、「陰謀論や反ワクに染まっている奴とは一緒仕事できない」というようなことを言われて断られたらしい。
確かに、わかる。超わかる。私もASKAの歌は大好きだが、反ワクと陰謀論は大嫌いだ。
ただ、アスカは昔から超常現象とかオカルトが好きで、ファンクラブの会報にもよくそんな話が載っていた。だから、アスカがそこから抜け出すのは正直難しいと思う。
昔のように、ファンクラブの広報誌で特定の人たちだけに影響を与えるのと、今とでは、やっぱり違うのだ。誰でも繋がれるSNSがあって、ある程度フォロワーもいてインフルエンス力をもっていると、一般の人を悪い方向へ導いてしまう力も絶大だから。
ああ、SNSがなかったらいいのに。
アスカがSNSをやめてくれたら・・・チャゲは陰謀論ごとアスカを包んで抱きしめてくれたら・・
こんなファンの戯言なんて聞く必要もないのだけど、チャゲアスを復活させる落とし所はここぐらいではないだろうか。
いつか、チャゲとアスカが2m10cmの距離で歌っている姿が観たい。ASKAとCHAGEの声が重なる瞬間をもう一度観たい。ASKAのコンサートを見てますますそう思った。
あっ、めっちゃわかる
なんかさ、政治って必要なのはわかるんだけど、やたら語気が強い人多くない!?
いや、声大きいだけで説得力あるわけじゃないし〜って思っちゃうんだよね…
ニュースとかで怒鳴ってる政治家さん見ると、こっちは「はいはい、落ち着いて〜」ってなるし、語尾強すぎて逆に引いちゃう
それにさ、SNSでも政治の話になると、文字だけなのに語気強い感じ伝わってきて「あぁ…こっちのTLにも来ちゃった…」ってなっちゃう
静かに話してる人もいるけど、どうしてもそういうのが埋もれがちで…
たとえ親であっても、自分にとって心が重くなる関係なら、距離を置くことは決して間違いではありません。親子関係だからこそ、無条件に理解し合えると期待されがちですが、現実にはそう簡単ではないことも多いです。
距離を置くことは「親を見放す」こととは違います。自分の心の平穏を守るための選択であり、今は必要な時間や空間を確保することで、将来的にお互いに冷静でいられる関係が築けるかもしれません。
「親子は血が繋がった他人」
これは僕の根幹の考えである。
最近、親ガチャ、毒親という言葉が以前より目にする機会が増えたように思う。
この記事を書くことを思い立ったのも、Xでとある漫画が流れてきたからだ。
簡単にいうと、お金にだらしなくヒステリックな母親に子供が振り回され、主人公の女性がJKリフレに手を出すという話。
・逮捕歴は5回以上、刑務所入りは3回(詐欺、万引き、薬物使用etc)
漫画のようなここまで強烈な逆ギレはされたことないため、そこだけはうちの母親の方がまともかもだが...
実際に親が警察のお世話になっていることから、客観的に見て毒親にあたる母親に育てられたわけだが、32歳の今、結婚もして自分はとても幸せに暮らしている。
なぜそうなったか、いくつか要因があるとは思うが、
③絶縁したこと
3点が影響が大きかったと断言できる。
そのため、毒親や親ガチャで悩んでいる方向けに、何か一つ考えや行動のきっかけになればと思い、経験談を書いていこうと思う。
▫️前置き
・これは私個人の経験であり、すべての状況に当てはまるものではありません。この選択が誰にでも正解というわけではないことをご理解ください
まず、18−20歳の頃、生活保護を受けていた母親と、血が半分繋がった妹を置いて独立したことが初めて距離を置いたタイミングだった。
少し遡り、高校3年生の夏、再婚した義父と母が離婚をして、母、妹、自分の3人ぐらしとなった。
その時、妹は2歳だったので、母は定職につくまでの間、生活をするために生活保護申請をした。
僕は公務員になるための専門学校の体験講義などに行っていたが、母が離婚したことによって道は閉ざされ、高卒で即働く以外の選択肢がなくなった。
まぁ、正直卒業してからまた勉強したいと意欲的には思っていなかったので、早めに働くつもりではあったが、自分で決めるのではなく親の影響で道が閉ざされたことに対して、理不尽だと感じたのは覚えている。
また、兄は生みの親の方の父を頼り、大学に行っていたこともあり、表では気にしないふりをしても内心では不公平だと思っていた。
自分が中3の頃、母は詐欺で捕まり、その時にさんざん泣かされたので、母親には愛想は尽きかけてはいたが、まだなにも知らない2歳の妹を守りたい一心で働くことを決めた。
公務員試験にも無惨に落ちたり、就職の面接も3〜4回落ちたが、なんだかんだその年の12月に家から近くの職場で、正社員として雇ってもらうことが出来た。
会社ではちょいちょいパワハラみたいなのも受けたりはしたが、親よりマトモな大人ってたくさんいるんだなということを思ったのを覚えている。
新入社員の自分一人の給料では3人分の家計は支え切れず、続けて生活保護を受けていたので、自分が正社員として働き、加えて母親も精神病の病院に通いながらゆくゆくは定職につき生活保護から抜ける、というのが共通の目標だった。
しかし、結局母親は2年もの間、ほぼ定職につくことができなかった。
母親が働かない限り生活保護から抜けられなかったので、稼いでも稼いでも家にお金を入れるばっかりで、自分の使えるお金は増えていかなかった。
18歳の頃、手取り14万円で働き、10万円、家に入れていた。
20歳の頃には、給料が増えて手取りは16万円くらいになったが、家には11万円くらい入れていた。
世帯の収入が増えると、当然生活保護費は減らされるので、その分家に入れる金額が増えるので給料が増えても、むしろ損な気持ちになっていった。
なにかがきっかけというわけでもなく、なんで自分は新社会人でいびられながらも会社に行き続けてるのに、自分が信じて支える母は仕事にまともに行けず、適当な理由をつけて、数ヶ月で仕事を辞めるという日々が続いていた。
20歳の大人になったばかりの子供が、言い訳ばっかりして仕事に行けない親を叱りつける、という歪んだ日々も続いた。
そんな陰鬱とした日常から抜け出したくて、母親と妹を置いて、その時付き合っていた彼女の実家の近くに一人ぐらしで引っ越した。
この時、妹と母親を置いていくことはものすごく抵抗はあったが、それよりも自分の人生がこのまま改善が見られない母親の面倒を見ていくことだけで、終わってしまうことがたまらなく怖かった。
貯金をする余裕もなく本当に貧乏でお金がなかったため、家賃3万円台のレオパレス系の物件を借り一人暮らしをスタートしたが、初めて自分で決断をし生活を選んだことで充足感で満ちていた。
一人暮らしを始めてからも、小さな妹を残してきたことが気がかりで2〜3ヶ月に一回くらいのペースで、実家に顔を出すようにはしていた。
ただ、本当に家の散らかりようが酷かったのは覚えている。
しょっちゅう電気と水道が止まったり、たまにご飯に虫が入っていたりと。
それを発見するたびに母親に注意をし、妹には色んな世界を知ってほしくて、できる限り遊びに連れて行くようにしていた。
公園に行く時もあれば、スケートに行く時もあれば、自分の家でSwitchで遊んだりした時もあった。
母親が妹の前で万引きを行い、警察に通報され、妹が児童相談所に行ってしまったのである。
子供の前で犯罪行為を行ったということで、児童虐待と見なされた。当たり前の話だ。
今回の話の主軸とはずれてしまうので経緯は省略するが、この間家庭の立て直しのために毎週のように実家に行って最大限の努力をしたが、それでも最終的には母親が薬物にハマったことにより、猶予をもらっていた児童相談所からも厳しい決断を下され、離婚した義父(妹にとっては実父)のもとに行くことになり、もう2度と母親の元に妹が戻ることはなくなった。
その時まで、自分が独立したことは正しかったと自分に言い聞かしていたが、この時は本当に後悔の念に駆られていた。
「"自分がいたら"、妹が児童相談所に行くことはなかったのか?」
今となっては、結果的に父親のもとに行って良かったと諦めはついているが、この離婚した父親の元にはすでに不倫相手との間の子供がいたので、妹が疎外感を感じるんじゃないかと怖かった。
しかし、無力な自分には何もすることができず、自分の人生の中での最大の挫折をし、心に傷を負ったまま普段の生活に戻って行った。
そのころに今の妻となる女性とSNSを通じて出会い、反対に自分と同じく家庭問題で悩んでいた妻を精一杯支えることで、心の傷が少しずつ癒えていった。
一方その頃母親は、メンタルクリニックで知り合った男と一緒に暮らしていたが、そんな状況でもしょっちゅう犯罪を繰り返し、5年前後の刑務所生活を送ることになっていた。
母親が5年ぶりに出所したとのことで、叔母経由で連絡があった。
叔母の家にいる母とのLINE通話で少しだけお互いの近況を話した。
・「更生」するために意気込んでいること
最後、どこに住んでいるか聞かれたが、それは言えないと断った。
結婚した妻と一緒に数年前に新しく住んだ家にはどうしても来てほしくなかったからである。
独り身だったら決断は変わったかもしれないが、絶対に妻には迷惑をかけたくなかった。
電話越しの声のトーンからも母が悲しがっていたのはわかったが、妻との生活と天秤にかけた時に自分の意思は固かった。
たったそれだけの行動で、今まで10年以上縛っていた、自分の心の荷がストンと下りた。
ちなみに今年、刑務所から父親宛に手紙が届いたらしく、それでまた刑務所に入ったことを知ったのだが、「ああ、やっぱりな」という感想しか出てこなかった。
毒親、親ガチャの問題は様々なケースが存在するので、全部のケースで当てはまるとは言えないが、自分の人生を客観的に振り返った時に、下の3つがターニングポイントになっていた。
③親と絶縁する
まず前提として、僕は人より鈍感であるため、へこむことはあっても、精神が病むことはなかったので、心に傷を大きな傷があり、精神状態があまり良くない方はまずは病院に行ってみたほうがいいだろう。
実際に妻は家庭問題で最初あまり精神状態が良くなかったので、最初は一緒に病院に行っていた。
ただ、一方で薬や病院もあまり頼り過ぎも良くないと自分は考えているので、良きタイミングで仕事や友達などで人との繋がりを増やし、徐々に社会復帰できれば一番ベスト。
妻は、バイトで自己肯定感や自信を取り戻し、保育の専門学校で友達ができ、今は保育園で仕事に悩みながらも、精神状態が大きく崩れることはなく立派に自立している。
精神状態が問題なかったら、①のたくさんの大人と関わるという段階にステップアップする。
僕の場合は仕事で会った人の影響が大きく、「親よりまともな大人ってたくさんいる」という事実と色んな考えに触れることによって、親の悪い影響を受けなくて済んだと思っている。
ただ、仕事もぶっちゃけ「ある程度ピックアップが選択ができるガチャ」みたいなものではあるため、そのほかにも親戚の家に転がり込んだり、今ならSNSで繋がった趣味が会う大人と会うのもいいだろう。
僕はスプラトゥーンというゲームが大好きで、ゲームをしながら色んな人とSkypeやDiscordを通じて話したり、しょっちゅういろんな人とオフ会で会って交流関係が広がった。
独立と絶縁については、似たようなもんだが、独立だけで済むならそれが一番。
しかし、僕は絶縁までしないと本当の意味で心の荷が下りなかった。
絶縁したおかげで、たまにこうやって思い出して文章を書くことはあっても、自分の人生におけるウェイトはすべて自分と妻と愛猫で占めている。
僕は独立したことにより、結果として妹に悲しい思いをさせて苦しんだし反省もしているが、絶縁まで済んだ今となっては、自分に抱えきれない問題だったと諦めがつき、後悔はしなくなった。
最初に申し上げたとおり、僕のスタンスは「親子は血が繋がった他人」。
ハロウィンが近づくと、どうしてもあの夜のことを思い出してしまうんだ。静かな秋の夜に、ふと胸の奥にあの日の空気が蘇る。
すべての始まりは、今の嫁との出会いだった。大学のハロウィンパーティーで、何気なくその場にいた俺は、浮かれた気持ちで仮装している周りの学生たちに少し距離を置いていたんだ。ただ、友達に誘われて参加しただけで、特に期待もしていなかった。
しかし、その時——あの瞬間、俺の目に彼女が映り込んできた。彼女は黒いドレスに包まれ、吸血鬼のような装いをしていた。夜の闇に浮かび上がる彼女は、まるで森の中に迷い込んだ魔女のようで、静かで強い光を放っていた。彼女の肌は白く、赤い唇が闇に映える姿は、何かこの世のものでないものを感じさせたんだ。秋の風が彼女の髪を揺らし、そのたびにまるで小さな木の葉たちが囁きあうような音が聞こえる気がした。
心臓が強く高鳴り、足が勝手に彼女へ向かっていた。俺が彼女の前に立つと、彼女はゆっくりと振り向き、目を細めて微笑んだ。その瞬間、彼女はただの人間ではない、まるで精霊のように思えた。俺は気がつくと跪き、言葉が自然に口をついて出たんだ。
「眷属にしてください…」
その瞬間だった。
「オラもまぜて〜!」という大きな声が響いたかと思ったら、どこからともなくクレヨンしんちゃんが現れた。あの小さな坊主が、ニヤニヤしながら俺と彼女の間に割り込んできたのだ。
「おいおい、何してるゾ〜?眷属って何だゾ?かっこつけすぎじゃないか〜?」しんちゃんはそう言いながら、勝手に彼女のドレスの裾をいじり始めた。
俺はあまりのことに呆然としてしまったが、しんちゃんはさらに調子に乗り、「ねぇねぇ、お姉さん、オラもその眷属ってやつにしてくれない?」と彼女に向かってお願いし始めた。
彼女は、最初は驚きつつも苦笑いし、しんちゃんに何かを言おうとしたが、その間にしんちゃんは「ねぇ、眷属って具体的に何するの?」とズバズバ質問を浴びせ始めた。
「えーと…それは…」と彼女が答えようとした瞬間、しんちゃんはお尻を突き出して、「じゃあ、オラの眷属ダンスを見てくれ〜!」と勝手に踊り始めた。
その光景に会場全体が爆笑の渦に包まれ、ロマンチックだったはずの夜が一気にバラエティ番組のようなカオスな状況に。彼女も俺も、もう笑いをこらえることができず、しんちゃんに巻き込まれる形でその場に崩れ落ちた。
そう、あの日のハロウィンは、感動の夜になるはずが、いつの間にかしんちゃんによって台無しにされてしまったのだ。それでも、あの出来事がきっかけで彼女とは結ばれた。だから今では、しんちゃんの「乱入劇」も含めて、俺にとってかけがえのない思い出になっているんだ。
はるかぜちゃんママが今はアイドルプロデュース事業やってるのだが、内幕バラしすぎて夢がない
夏用衣装をまず揃えることになり、「衣装作ってくれる人募集」と呼びかけ良さそうな個人制作の人が声をかけるもそちらとは契約せず
オーダーメイドじゃ金がかかるという現実を突きつけられたのだろう
安上がりの中国製の既製品を購入することになり、レスポンスが悪いと愚痴る
アイドルの衣装が価格優先で安物とか揉めてるとか表に出すアイドルPってどうなんだ
中国製に凝りたので今度はクラファンして衣装代170万円ぐらいを集めて国内メーカーに頼んだとのことだが、
そちらもオーダーメイドではなく2万円の既製品で、だけど入金した後で在庫がないと伝えられ返金に時間がかかって揉めているとメーカーを晒して怒っている
それはそのメーカーが悪いけど、こいついつも揉めてんな
ECRINってフランス語のアイドルグループ(今は”宝石娘”に変わった)なのに衣装が夏用も冬用もチャイナ風デザインなのもセンスがよくわからん
そんで一人ずつイメージカラー決めてるのに全員同じ衣装だから見た目じゃ誰がどの色担当なのかわからん
「推しの子の有馬かなのモデル」ってのを今のはるかぜちゃんは宣伝文句にしており、有馬かなが作中でアイドルやってるから真似してアイドル路線をはじめたが、
根本的にアイドル業に関心がなく今売れてるアイドルの研究をしていないし、さりとてすごい可愛い子がいるとか歌がすごいとかダンスがすごいとか特技があるとかの売りもない
悪い地下ドルによくある、「大手に入れる能力のない微妙な奴らの詰め合わせセット」にしかなってない
はるかぜちゃん本人はアイドルにまつわるニュース見てナーバスになり「アイドルやってるけど”女”を売りにしてるわけじゃない、ガチ恋とは距離を置いてる」と語っているが、
お気持ちありがたいんですけど、世の中いろんな人がいるもんで基本座らないように言われます。なので諦めて立ってます。長距離移動だと基本制服着ないんで、立ってるときは立っててもさして問題ない距離ではないかと。
でもそうやって考えてくださるのは有り難いです。いつもご利用ありがとうございます。
社会がどうなろうが関心わかないっていうか
真剣になれないんだよね
自分みたいなやつね
普段は仲間外れにしてるくせに、選挙の時だけ投票お願いしますとか、都合いいよね
イズディスディスティニー?
これも宿命なのかね
なんだかすこしのみすぎたようで
すこし気分がわるい
本日は、予定では20キロメートルのサイクリングをするつもりですが、問題ないでしょうか?帰路も自転車で行くと、合計で40キロメートルになります。
!!距離をつめるなら輪行バッグに自転車を詰める必要がありますが、それが面倒なので、結局すべてサイクリングになりそうです。
少なくとも昨年はそうしました。
天文学の父と呼ばれ、地動説を提唱して教会から異端として迫害を受けた科学者。孤立無援の状況でも真理を追求し続け、近代科学の基礎を築きました。
電気工学の革新者として知られるテスラは、時代の先を行き過ぎたために経済的な困窮と社会的孤立を経験しました。彼の発明は、現代の電力システムに計り知れない影響を与えています。
アテネの哲学者で、批判的思考を通じて社会の常識に挑戦しましたが、多くの敵を作り、最終的には死刑判決を受けました。彼の思想は後世に多大な影響を与えました。
アメリカの奴隷解放運動の指導者であり、自らの苦境を乗り越えて黒人の権利を擁護しました。彼の言葉と行動は人権運動に大きな影響を与えました。
彼の作品は生前にほとんど評価されなかったが、後に美術界において革新的な存在として認識されました。精神的な病に苦しみながらも、自らの芸術を追求し続けました。
独特な作風で世間から距離を置かれながらも、ホラーや推理小説の先駆者としての地位を築きました。彼の作品は後の文学に大きな影響を与えました。
人間の自然性や自由を強調した思想家であり、政治的・社会的変革に多大な影響を与えました。彼の思想は、後の民主主義や人権の概念に寄与しました。
社会的な孤立や個人的な葛藤を抱えつつも、革新的な音楽を作り続けました。彼の音楽は多くの人々に愛され、クラシック音楽の一部として重要視されています。
中国革命の父と呼ばれ、清朝打倒を目指して奮闘したものの、反乱が失敗する度に国外へ逃亡を余儀なくされました。信念を持ち続けたものの多くの支持を得るのには時間がかかり、長期間にわたり孤立無援の状態が続きました。
古代の神として、人間との関係性において弱者の側面を持つ存在。特に、貧困や抑圧に苦しむ人々を守るための存在として描かれ、信仰の中で「弱者男性」としての役割を果たしています。
彼女と廊下ですれ違うとき、必ずと言っていいほど肩がぶつかる。それも、わざとぶつかってきているように見えるのだ。なぜかといえば、わずかに彼女がこちら側に寄ってきているからだ。ああ、もう少し距離を取ってくれれば、二人の間に必要な空間ができるというのに。しかもぶつかった後も謝ることなく、少しも気に留める様子もない。ただ淡々と前を向いて歩き続ける。なんという無愛想さだろう。彼女の顔にはまったく表情がない。まるで日常の些細な出来事として、この衝突が存在しないかのようだ。
僕はなぜかその瞬間に、ぽつんと取り残されたような孤独を感じる。まるで僕の存在自体が彼女にとっては無意味で、ただ通り過ぎる影にすぎないように思えてくるのだ。仕事で必要なやり取りがあっても、彼女は最低限の言葉しか返さない。表情も変わらず、ほとんど感情の動きがないように見える。仕事には真面目だし、特に大きなミスをすることもない。けれども、もう少し愛想よくしてもいいのではないかと思う。僕は少しだけでも笑顔が見たいのだ。ただそれだけなのに、それがまるで不可能な望みであるかのように思える。
彼女はまだ若い、僕より10歳も年下だ。多分、僕のことなんてただの「上司」としてしか見ていないのだろう。無理もない。彼女にとって僕はただの「昔の世代の人間」に過ぎない。彼女には彼女の価値観があるのだろうし、今の世代の感覚というものがあるのかもしれない。しかし、そうやってただ距離を置かれると、僕の存在意義はどこにあるのだろうか、と考えてしまう。
そんなことを思うと、僕は自分の将来についても不安になる。気づけば僕も四十代だ。この先、どうなるのか。このまま彼女とのように周囲との微妙な距離感を抱えたまま、ただ年老いていくだけなのか。僕には妻がいるが、正直なところ、性生活はうまくいっていない。かつては確かに情熱があった。でもそれもいつの間にか消えてしまった。今では同じベッドに寝ているのに、まるで何年も触れ合っていないような距離が二人の間に横たわっている。僕が求めても、彼女は冷たい。どこか諦めたような目で僕を見る。そうなると、こちらからも歩み寄る気持ちが薄れていく。
そんな状況の中で、僕はふと彼女、つまり職場の後輩の存在を思い出す。もちろん彼女と何かを求めているわけではない。けれども、彼女の冷たい態度が、どこか今の自分の人生と重なって見えるのだ。仕事、家族、人生――すべてが、彼女のあの無表情と同じように、感情を持たずにただ淡々と進んでいくように感じる。
どうして僕はこんな風になってしまったのだろうか?若い頃は、もっと自由で、楽しくて、未来には無限の可能性があると思っていた。でも今、僕の未来はすでに決まっているかのように思える。仕事に行き、妻と食事をし、寝る。そうしてまた同じ一日が繰り返される。たまに無愛想な彼女にぶつかられ、ただ淡々とした日常の中で自分の存在を再確認する。それが僕の今の人生だ。
突然だが、山上たつひこについて書く。
山上たつひことは誰だ。ギャグ漫画家だ。代表作は「がきデカ」。
なぜ急に山上たつひこについて書くのだ。
その直接のきっかけは
「週刊少年チャンピオン、マンガ10選(試案)」https://anond.hatelabo.jp/20241022172620
個人的には「がきデカ」はチャンピオンの歴代漫画の中で「ドカベン」の次に重要なマンガではないかと思う。
売上貢献的にも社会に与えたインパクト的にも、後進漫画家への影響でも、ブラックジャックより上じゃなかろうか。
まあそれはおいといて、悲しいのは「がきデカ」も山上たつひこも、若い人たちには知られていないことである。
山上はギャグマンガ史の超重要人物である。「日本漫画史上重要なギャグマンガ家10選」みたいな記事を作るなら、絶対入ってくる漫画家である。しかし、令和の今においては、その功績に比べて、過小評価されているというか、全然知られていない気がして、この文章を書き残しておこうと思った。
なお、最初は本当に「日本漫画史上重要なギャグマンガ家10選」を書こうと思ったけど、そんなに漫画のこと詳しくないんでやめた。詳しい人が書いてくれると嬉しい。とても読みたい。
さて、さっそく本題に入る。
山上たつひこは何をやった人なのか、なぜギャグマンガ史で重要なのか。
今の若い人は漫画でボケ・ツッコミがあっても、なんも思わないでしょう。物心ついたときから、漫画にはボケ・ツッコミがあるから。漫画ってそういうもんだと思っているから。でも、これって元をたどれば山上から始まっていることなのだ。
「バカボン」とか読むとわかるんだけど、山上以前のギャグ漫画ってボケ・ツッコミなんてないのよ。変な人が出てきて変なことをやるとか、なんかすごくシュールな世界が繰り広げられてたりするのがギャグ漫画だった。
1972年に山上が「喜劇新思想大系」で初めて、ボケとツッコミっていうシステムを漫画に持ち込んだ。(ちなみに「喜劇新思想大系」は山上のギャグ漫画デビュー作。それまではシリアスな漫画を描いてた)
例えば、銀さんがぼけて、新八が「おいいっーーー!」て言ったり、ボーボボにビュティが突っ込んだり、ターちゃんにヂェーンが突っ込んだり……まあ、なんでもいいけど、こういうの基本的になかったのよ。こういうのの元が山上たつひこなんすよ。これ、すごくないすか。
山上がボケ・ツッコミをどこから持ってきたかっていうと、これはもう明らかに吉本新喜劇をはじめとする、関西のお笑いからだ。山上は大阪育ちで関西の笑いに馴染みが深かったのである。
それはともかく、山上が漫画界にボケ・ツッコミを持ち込んだら、すごい影響力があって、みんな真似した。というより、山上の真似であることも意識されないぐらい「ボケ・ツッコミ」は浸透した。
山上の影響は非常に広範囲に及んでいる。例えば高橋留美子も山上たつひこの影響を受けている漫画家の一人だ。がきデカを読んでから、高橋作品のギャグシーンを読むと山上の影響がわかる。
一方で、「がきデカ」以降も、赤塚不二夫系統のボケ・ツッコミ区分の薄い関東型のギャグ漫画もそれはそれで生き残っていた。「マカロニほうれん荘」なんかは関東よりのイメージだ。
(追記:読み返してみたらマカロニほうれん荘は結構、律儀につっこみ入れてた。だからこの記述は無視してもらったほうがいいかも)
ギャグ漫画史を関東型と関西型のせめぎあいの歴史として見るのも面白いと思っている。誰か詳しい人がいたら描いてほしい。
上記のとおり、山上が出てきてすぐに「ボケ・ツッコミ」の天下になったわけではなくて、しばらくは南北朝時代みたいな感じだったんだけど、今ではギャグ漫画は圧倒的に「ボケ・ツッコミ型」が多い。特に少年誌では。
これはうすた京介の存在が大きいのかもしれないが、そのうすたも元をたどれば山上の系譜である。
(もっともうすた京介が直接影響を受けたのは山上ではなく、ダウンタウンをはじめとするお笑い芸人なんだろうが)
今のギャグ漫画家は大体、山上の創始したボケ・ツッコミ漫画をやっていて、山上チルドレンと言っても過言ではない。
もちろん、当の漫画家は山上なんて意識していないかもしれない。「がきデカ」なんて読んだことないという漫画家も多数いると思う。それでも、それらの漫画家が山上が作ったものの延長線上にいるということには変わりがない。
山上の作ったものがフォロワーのもとで再生産され、世の中のスタンダードになる。そうすると、新しかった山上の表現はありきたりなものになり、山上は忘れられていく。しかし、山上を知らない漫画家が作る漫画も、山上が切り開いた世界で作られた漫画だ。バッハを聞いたことがない作曲家もバッハの影響を受けているのと同じことである。
話が長くなったが、何が言いたいかというと、山上という漫画家がいたんだよということだ。別に山上を尊敬しろとかはいわない(そもそも自分も別に山上のこと尊敬してるとかではないし)。ただ、そういう漫画家がいたということを、なんとなく書き残しておきたくなっただけである。
なお、これまで述べてきた通り、山上はすごい漫画家なのだが、知名度がさほどでもないのは、山上自身が漫画界と距離を取っていたことによるものだろう(長らく小説家に転身していた。最近たまに漫画も描く)。
こんなこと言っても詮無いことであるが、もし山上がずっと漫画を描き続けていたら、いまごろは永井豪みたいなレジェンド扱いだったんではないだろうか。
【追記】
この疑問に答えるのは難しい。当たり前だが、この世の中の全部の漫画読んでいるわけじゃないし、特に昔の漫画については知らないことのほうが多い。
何をもってツッコミとみなすかについても、定義がないから主観的に判断するしかないし。
細かく探せば、山上以前のギャグ漫画にも、ツッコミに見えるコマもあるんだろうとは思う。
ただ、それらは作品中に出てくる頻度がすごく少ないし、作者としては狙ってツッコミを描いたわけではないんじゃないかと思う。後世の我々から見たら、これはツッコミになっていると判断できるというだけなんではないだろうか。
意図的に「ボケ・ツッコミ」をやり始めたのは山上で間違いないと思われる。
もっとも、今では名前の残っていないマイナーな漫画家がやり始めて、それを山上が真似した可能性はある。
しかし、その場合でも世間への影響度からみて、「ボケ・ツッコミ漫画」の創始者は山上と言ってよいのではないか。
・この文章を読んで「ボケ・ツッコミ型」のギャグ漫画のほうが面白い、とか新しいとか、私が主張しているのだと思われた方がいるなら、それは否定しておく。そんな意図はない。
ツッコミのあるなしに関係なく、面白いギャグ漫画はいっぱいある。「伝染るんです。」や「稲中卓球部」をはじめツッコミがほとんどないギャグ漫画にも面白いものはたくさんある。
・今ではギャグ漫画は圧倒的に「ボケ・ツッコミ型」が多い。特に少年誌では。
この書き方はおかしかったかもしれない。「ボケ・ツッコミ型」が多いのはあくまで少年誌であって、青年誌や少女漫画を見れば、昔から今までずっと「ボケ・ツッコミ型」じゃない漫画のほうが多い気がする。