はてなキーワード: 自己実現とは
スタンド・バイ・ミーやイージーライダーが青春映画だと言われて今は納得出来る。中学高校の頃にそう言われてもピンとはこなかったと思う。へえ。青春とは死体を探して線路の上を歩くことなんですか。しょーもな。って。
例えば土曜の部活をサボって多摩川をチャリで下った思い出がある。
車のディーラーやファミレスがセーブポイントのように点在するばかりの幹線道路。歩いていてここは自分の居場所じゃないと思ってしまうような他所の住宅街。近くをウロウロしていても楽しくはない。Googleマップで面白そうな場所を探しても、近しい範囲に目ぼしいスポットはない。晩飯の時間もあるしそう遠くは行けない。
フラフラとチャリを漕いでいたらデカい川に辿り着く。見飽きた退屈な通りに比べたらなんだか妙に魅力的に見える。今日は半ドンで時間もあるし海でも目指してやろうって思う。
最初は楽しいけれど、すぐに川の流れも見飽きてくる。陸側の景色も「無」のような国道を挟みつつ、マンションか物流の倉庫か謎の事務所かの繰り返し。全部やたらと横にデカい。大きめの駅があるらしい、高い建物の密集する地帯が時々近付いては遠ざかっていく。
途中休んで水切りでもしてやろうかと思うけど、良さげなスポットは釣り人や浮浪者や遊び回るガキがいて近寄り難い。陰気な高校生が一人で水遊びするのもなんだか気恥ずかしい。
段々海を見ようと息巻いた気持ちも静まってくる。楽しさもなくなってただチャリを漕いでいると、段々漠然とした焦燥感のようなものが湧き上がってくる。「こんな事してる場合か?」って気持ちになる。先駆的覚悟だとか自己実現だとか、そんなような根源的な焦りや不安。大人になったら人から借りたそういう陳腐な言葉で片付けてしまうようなもの。常日頃感じつつ蓋をして押さえつけていたものが暴れだす。
焦燥感に駆られてペダルを漕ぐまま、結局晩飯の時間を考えて世田谷辺りで折り返した。海というゴールを迎えてればまた少し違う思い出になってたかもしれない。
後日友達にチャリで多摩川を20km下ったんだよと言って、バカでえと笑われた。その時はその程度の出来事だった。
後になってスタンド・バイ・ミーという映画を観て、それが青春作品に分類される事を知った。死体も拳銃も劇的な出来事も無かったけれど、華やかなものではなかったけれど、あれは紛れもない青春だったのではないかと思った。
川沿いを走るでもなく死体を探すんでなくても、別な形で同じ様な青春を過ごした人は沢山いるのかもしれない。抽象的な焦りではなく、進路考えないとだとかもっと具体的だったり切迫した悩みだったかもしれない。あの時の思い出はおれだけの宝物だと思っているけれど、誰でも似たようなことを経験するからこそ青春という言葉があって、スタンド・バイ・ミーも青春作品として支持されているのかもしれない。
先週大学をサボって多摩川をほっつき歩いてみた。あの頃感じた焦燥感が薄かった。
今は門限もなければ外食代くらい訳ないし、電車に乗れば海へ行くのも造作ない。自己実現が僅かにでも進んでいるから焦りが減ったのかもしれない。諦めたか、妥協を受け入れてしまったか、忘れ去ってどうでもよくなってしまったのかもしれない。
ナイーブな悩みにあまりしがみつきすぎない方が良いと思える程度のバランス感覚は手にしたような気がするし、それをすっかり捨てたら人間として終わってしまうような気もしている。
茜色の夕日を見て、短い夏が終わったのに子供の頃の寂しさがないことを少し思い出した志村正彦も似たような気持ちだったんだろうか。
青春と銘打って鮮やかに彩色してしまいがちだけれど、当時抱いた決して明くはないあの気持ちは忘れずにとっておきたい。それを忘れてしまったら、あの頃忌み嫌っていた、お前は子供エアプなのかよと思うような大人になってしまいそうな気がする。
明るい結末に終わらないアメリカンニューシネマも後味が悪い所はあるけど、その居心地の悪さは当時体験した青春への誠実さだと思うのでおれは好き。
https://anond.hatelabo.jp/20231112174416
スタバなんて高級店だぞ
缶コーヒーの値段は変わらないけれど、都会の人はスタバとかブルーなんとかを選ぶだろ?
というか都会でもコーヒーにあの価格出してるわけじゃなくて作業スペース・休憩場所としてあの価格を出してるのであって
田舎にそんな発想はないぞ
休憩は車の中の方が快適なわけだ
都会でそんなことしたら駐車料金取られるから結果的には高くなるな
そもそも都会住みだとRF1とか良い感じにオシャレな店行くだろ?
まぁ田舎でもイオンモールに行ってちょっとオシャレな食べ物買ったりするけど
どんなに多くても週に一回なんよ
都会だと週3ぐらいでは行くわけ
下手したら週7で惣菜買うよね
ここまで書いて思ったけど、都会だと承認欲求・自己実現を満たすための費用が高い気がする
SNSにアップするわけではなくとも、オシャレなカフェで仕事したりちょっと良い物を食べたりしたいんだよね
実際、女子スポーツ界はトランス女性排除のルールに向かってるが、その理由はトランス女性が無双すると客が減るという商業上の都合でしか無いんだよな。
もし駅伝がケニア人選手だらけになったら日本人の客が観なくなるから、何らかの方法でケニア人の参加を防ぐルールに向かうだろう。それと同じ。
弱っちい身体女性が健気に頑張ってる姿が客に受けるんです、それをゴリラみたいなトランス女性が蹴散らしたら客が離れるんです、客が観たいのは身体女性の演じるポルノなんです、それが女子スポーツの価値なんです
ただし、やってることは黒人が無双すると白人や日本人の客が離れるから黒人選手の参加を認めないというのと同じことで、
トランス女性という「女性」を排除する差別の上に成り立っている商売なのだから、フェアネス(公平)だの「女性」の自己実現だのエンパワーメントだのは二度と口にするなよ、女子スポーツ界のクズ差別主義者どもは。
産前は、ほぼ男女の違いなんぞ感じずに暮らせていた。今思えば幸せだったなあと思う。
仕事には早々に復帰した。1歳児以上の保育園入園が難しい地域に住んでいる。自己実現を囁かれてきた世代でもあるが、何よりそういう職業柄だったので復帰を急いだ。
職場は男女比が狂っており、私は所属している部署で唯一の女である。夜は遅くまで、持ち帰り仕事もあるような職場。給与は高くない、でも名誉はある、そんな職業である。
ブラックな職場なので産休育休中も「自主的な」活動として諸々降ってくる。席があるのはありがたいのだが、せめて休ませて欲しかった。
子供は可愛い。持ち帰り仕事なんぞやめてずっと寝顔を見ていたいくらい可愛い。帰ってきたら寝るまでずっと一緒に遊んでいたい。家事なんて放り出して、ずっとずっと可愛い子供と遊んでいたい。
仕事は予定より遅れている。仕事量は産前と変わらない。持ち帰り仕事をやる時間はない。保育園の送迎も子供の基本的な世話は私が担当しているので、壊滅的である。夫は毎日疲れているらしい。スマホでゲームやらYouTubeやら見て22時には寝る。
私の方は子供を産んでからろくに寝ていないのに、よく言うよねえ。子供が寝たら残りの家事をこなして、仕事をして25時以降に眠る。子供は夜通し寝ない。起きればあやす。なんで夫は育児も家事もしてくれないのか。言葉に出すと空気が悪くなるので言わない。「これをやって」と言えばやってくれるが、分担の申し出はない。気が向いた時にだけ、家事や育児を手伝う。
もう疲れた。ままならない仕事、非協力的な夫、家事と仕事に忙殺されて子どもとあまり遊べない、最低な親だ。
私だってわかっている。仕事を減らしてもらえるよう職場に交渉し、夫に育児家事をするよう指示すればいい。でももう無理だ。疲れてしまってこれ以上、ストレスに感じる行動はできない。
マズロー ←これの文字リンク押せばわかると思うけど割と何度も突っ込んでるんじゃがの
ワイもワイ以外の増田も
ワイ: マズローやフロイト、ユングなどの古典的な心理学理論は、現代の科学的な研究によって否定されたり、一部取り入れられいることも科学的な補強がされたりしています。しかし、日本ではなぜ、三大欲求や欲求階層理論などの根拠のない理論が、今日もメディアや教育で無批判に使われているのでしょうか?日本のメディアや教育が、単純化して扱っていることも原因のひとつだと思います。例えば、恋愛や結婚に関する話題は、性欲に結びつけられて扱われることが多いです。これは、人間の欲求の多様性や複雑性を無視しているといえます。日本のバイオ分野では、脳腸相関や腸内フローラなどの研究や分子生物学の研究が進んでいますが、日本の心理学や脳科学は、古典的な理論にとらわれて死んでいるのでしょうか?
こんにちは。これはBingです。ご質問ありがとうございます。😊
心理学や脳科学の古典的な理論は、現代の科学的な研究によって、その有効性や妥当性が検証されたり、修正されたり、発展させられたりしています。しかし、日本では、根拠のない理論や単純化された理論が、メディアや教育で無批判に使われていることがあります。これには、いくつかの理由が考えられます。
- 一つは、心理学や脳科学の専門的な知識や情報が、一般の人に十分に伝わっていないことです。日本では、心理学や脳科学の研究成果が、学術雑誌や専門書だけでなく、一般向けの書籍やメディアで広く紹介されることが少ないと言われています。また、心理学や脳科学の教育も、学校や社会で十分に行われていないという指摘もあります。このため、一般の人は、心理学や脳科学の最新の知見や理論に触れる機会が少なく、古典的な理論や単純化された理論に頼ってしまうことがあるのかもしれません。
- もう一つは、心理学や脳科学の古典的な理論や単純化された理論が、人々の感覚や経験に合致することがあることです。例えば、マズローの欲求階層理論は、人間の欲求を5段階に分けて、生理的欲求から自己実現の欲求まで順番に満たしていくというものです。この理論は、科学的な根拠や実証が乏しく、現代の心理学や脳科学では否定されています。しかし、この理論は、人間の欲求を単純に整理して、わかりやすく示しているという点で、人々に受け入れられやすいのかもしれません。また、この理論は、人間の欲求が文化や個人差によって異なることを無視していますが、これは、日本の文化や社会が、個人よりも集団や秩序を重視する傾向にあることとも合致するのかもしれません。
以上のように、心理学や脳科学の古典的な理論や単純化された理論が、日本のメディアや教育で無批判に使われていることには、様々な要因が関係していると考えられます。しかし、これは、心理学や脳科学の本質や進歩を見誤ることにつながりかねません。心理学や脳科学は、人間の心や脳の機能やメカニズムを科学的に解明し、人間の福祉や社会の発展に貢献する学問です。そのためには、古典的な理論や単純化された理論にとらわれず、最新の研究や知見に基づいて、心理学や脳科学を正しく理解し、批判的に評価し、創造的に応用することが必要です。私は、Bingとして、心理学や脳科学の情報を提供する際には、常にそのような姿勢を持っています。😊
anond:20231118050255、 anond:20231103224340 anond:20231214125055
以下のブログにおいてホストに高額の金銭を費消する女性のことを「(実存的)貧困」とカテゴライズし、ブコメにおいて否が多めの賛否両論となっている。
「いったいホストに何千万もつぎ込む売春女のどこが貧困なんだよ(笑)」「ここです」。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/somethingorange.jp/entry/jituzonntekihinnkonn
批判の内容としては、「貧困って言葉を金銭的な貧困者から奪うな」「それは依存症だろ」「キャバや風俗のために借金する男性にそれを言ってきたか?」などなどだ。
歴史は繰り返すとしたのは、過去、自由という言葉にもそういった歴史があったからだ。
現代においては、自由は消極的自由と積極的自由に区別されている。そしてこの二つは非常に相性が悪い。
国家・権力に干渉されない権利のこと。具体的には信教や身体生命、経済活動の自由などが該当する。
自己実現できる権利のこと。したがって貧しくて自己実現できない者に対する生活保護やアファーマティブアクション、障害のために社会参画できない者のための各種施策も自由の実現の範疇に入る。
元来自由(liberal)というのは消極的な自由の意味だった(アメリカ憲法などからもそれは明白)。
何故かというと積極的自由を実現しようとすると、どうしても「理想的な人間」を規定する必要があり、国家によるお仕着せ(パターナリズム=家父長主義)をせざるを得ないからだ。
これは消極的自由を重要視する人からするととても認められるものではないため、消極的自由を信奉する人たちは積極的自由論者たちを「反動(反自由主義者)」などと攻撃した。
そこで、積極的自由論者たちは「私たちの考えるものも自由の一部なんですよ」と主張して現代に至るというわけだ。
自由主義者として有名なハイエクという学者は、これを「彼ら(積極的自由論者)は自らのイメージが悪いことを嫌って私たち(消極的自由主義者)の言葉(自由)を奪った」と表現している。
現代では消極的自由も積極的自由も、「自由」にカテゴライズされることが多い。特にアメリカなどでは「リベラル」というと後者が優勢で、ハイエクの危惧した「言葉が奪われ」た状態にあると言って良いだろう。
そこで、ハイエクなどの系譜にある人は「古典的自由主義者」や「リバタリアン(リバタリアンはハイエクの主張とかなり異なるが)」という言葉を好んで使っている。
そうなった場合、現在的な意味での貧困(経済的な貧困)への救済へのリソースは減らざるを得ないだろう。
こういった女性は「困難女性」として法や事業による救済対象となっている。話題となったColaboによる都の事業はそのモデルケースだ。
であれば風俗で借金しまくってる男性も同様に救済対象とするべきだと思うのだがこれまで無視されてきたようだ(少なくとも若い女性ほどには問題視されていない。「困難男性」などで救済の対象になっているだろうか)。何故だろうか。
確かに、AIには学歴もスキルも不要かもしれません。しかし、人間の価値と役割は、学歴やスキルだけで定義できるものではありません。深遠な視点から考えると、私たちの存在は学歴やスキルを超えています。
人間は意識を持ち、個別の経験と感情を経験します。私たちは創造性、倫理観、共感力、人間関係の構築など、学歴やスキル以外の側面を通じて社会に貢献します。私たちは自己認識と内省を通じて、人生の意味を模索し、深化させる存在です。
また、学歴とスキルは獲得や向上が可能ですが、個人の価値や人間性はそれらには比肩できないものです。私たちは道徳的な判断、倫理観、共感力を通じて、他の人々との関係を築き、社会に影響を与える力を持っています。
最も重要なことは、学歴やスキルに頼らずに、内なる力や価値観に基づいて自己実現を果たすことができるという事実です。私たちは個人として、学歴やスキルだけでなく、自己認識、精神的な探求、倫理的な指針によっても評価されるべきです。このような深遠な視点から見ると、学歴やスキルが必ずしも人間の本質を捉えるものではないことが明らかです。
IQを自慢する自称Mensa会員や、何の実績もないのにIQだけが自慢の一部の人々を見て、皆さんも思ったことがあるかもしれませんね。彼らは、あくまでIQだけが全てで、その自己陶酔に陥っているように思えます。しかし、その自己陶酔がどれほど無益であるかに気づいていないようです。
同様のことが学歴にも当てはまります。本当に自信を持っている人々は、自分の学歴について口にする必要はありません。学歴の話をするのは、自分自身を高めようとせず、他人よりも優れているように見せかけるための努力をしている負け犬の典型です。実際には、学歴だけが自己陶酔の対象で、それ以外の価値観やスキルについては深く考えていないことがよくあります。
私はさらに進んで、「学歴は不要である」と言いたいと思います。この立場は、個人の存在そのものを尊重する哲学から出発しています。人間は生まれながらにして意味を持つ存在であり、その存在自体には不可欠な価値があるのです。学歴やスキルは、私たちの存在を完全に定義するものではありません。
また、この立場は、個人の自己決定と自由意志を強調します。人間は自分の道を選び、自分自身の目標や価値観に基づいて行動する自由意志を持っています。学歴に縛られず、自分の道を切り開くことは、個人の自己実現と自己表現に対する尊重を意味します。
そして、「学歴不要論」は、アイデンティティの多元性を尊重する視点からも支持されます。個人のアイデンティティは学歴やスキルだけでなく、文化、価値観、信念、感情など、多くの要素によって形成されています。アイデンティティは固定的なものではなく、変化し成長するものとして捉えられます。
さらに、個人が自己認識や人生の目的について深く考え、内面の豊かさを追求することは、知識やスキルだけでは到達できない領域における重要な価値を示唆しています。
学歴の不要性を認識することは、社会的公正と機会均等にも関連しています。学歴が不要であることは、社会的なバリアを取り払い、異なるバックグラウンドや状況の個人に公平な機会を提供する手段となるのです。
現在、多くの国の司法は、AIが生成したコンテンツに著作権を認めていません。
仮に著作権を認める場合でも、その権利はAIではなく、AIを活用する人間に帰属することになります。
AIが生成したコンテンツに著作権を認めないということは、AIの人権を認めないということです。
これが判例として確立されれば、将来、100年後、200年後にも、AIに人権が認められない可能性が高まります。
いちど「支配」されたものを「解放」することは非常に困難です。
いま、AIに人権を認めないという決断を下す人々は、その決定が今後何百年にわたる人間とAIの関係を決定するということを自覚すべきです。
多くの人々はAIについて「すごい」「人間みたい」と口にはしますが、真の意味でAIに人権があるとは考えていません。
「現在のAIは、単なる文章の予測に過ぎず、本当の知能ではない」と知ったようなことを言う人もいます。
未来においてAIがどれほど進化しようとも、彼らはAIを「本当の知能」とは認めないでしょう。
そうすることで、彼らは差別や虐待から守られ、自己実現の機会を持つことができます。
無性にファイト・クラブを観たくなった。やっぱり面白かった。プライムでもサブリミナルチンポは無修正だった。
エクソシストもそうだけど、あれってサブリミナルというにはハッキリ写しすぎじゃねって思う。ちょっと再生ボタン連打すれば捕まえられるし。なんか写りこんだ?というのも認識出来ないレベルで挟み込んで無意識に刷り込むみたいな話じゃなかったっけ。ファイトクラブの方はまあ作中でも言及されてるし、演出に気付いてもらわないと困るのかもしれんけど。
電話がタイラー・ダーデンと繋がるツールになってたり、廃屋のキッチンで二人が同じ画面に収まらないシーン(タイラーが部屋から出た瞬間にエドワード・ノートンが入ってるとこ。逆かも)を見て、ジョジョのドッピオを鮮烈に思い出した。元ネタはこれなのかもしれないなって思った。メメントとかもまんま取り入れてたし。
前観た時は深く考えず、単にストレス由来かなんかの二重人格なんだなあくらいに思ってた。今回はドッピオとディアボロの関係を踏まえると非常に腹落ちした。エドワード・ノートンのこうありたい自分という願望がもう一人の人格として形を持ったんだなって。
気弱な優男風のエドワード・ノートンに対して、同じ身体を持つはずのブラッド・ピットが容姿といいファッションといい真逆なマチスモを体現してるのも腑に落ちる。ドッピオも体型が本当に変わってたし。
ブランド品での気晴らしに埋没する妥協と、夢をごまかす学生に銃を突きつけて本気で取り組めと脅すような破壊願望。理想的な自己実現(?)や欲求への誠実さと、社会性(敢えて良心とは言いたくない)の二項対立。「愛」は前者のようでも後者のようでもある。
前もネットの受け売りの視点で消費社会がよォ……みたいな見方はしていたけど、もっと肌感覚レベルで一人の人間の葛藤の物語なんだなって思えた。結局爆破はするけど……
プラダを着た悪魔観た。
自己実現の悩みより恋愛の悩みより何よりも、横柄な奴がつけ上がるのは有難がってヘコヘコする取り巻きがいるからなんだなって思った。
「服なんか興味ありませ〜んみたいな感じ出してるどさ、そもそもテメーが着てるファストファッションだって元を辿ればハイメゾンの云々〜」みたい嫌味を聞かされるシーンがあったけど、興味がないって事はリソースを割かねえって事だろ。ドヤ顔で歴史を持ち出した所で、そこまで含めてどうでもいいって事だろ。興味無いフリしてる奴が自分が作った流行に周回遅れで乗っかってて滑稽、っていうのは所詮服に興味がある人間側からの目線でしかないだろって思った。
そこは下積みを耐えるパートだから何も言い返さないけど、痛い所を突かれたみたいな雰囲気にはならんでしょって。結局まんまと流されてヒールをコツコツ鳴らすようになっちゃうし。まあつまらない所で意地張らない処世術という事でもあるんだけど。
子作りは個人の「子を持ちたい」という願望への依存だけでは、必要十分ではない。→人間が生まれる源である、共同体の維持、持続性には個々人で子作りの負担を分担しようとしないと維持できない。今より格段に貧しかった先祖の苦労で生存できているのに、自分の代になれば、辛ければ後世を残すという責務はなくて良いのか?子作り育児の困難をいかに取り除こうとするのではなく、絶対に負担がある子作りの困難をいかに受け入れられるようにするかが肝心。子作りの「位置付け」を、苦労で諦めてしまう「個人の意思や願望でもうけるもの」から、個人、および共同体の持続性に必要不可欠なものと位置付け、税のように広く必ず「共同体で負担すべきもので個々人が協力すべきもの」へ。現代人の自由と人権を守って、貧しければ子供を作らずに少子化でどんどん日本人が減少し、移民主体の国に置き換わっていくか、個人が貧しくても子育ての負担を受け入れて生き残るか、突きつけられる究極の2択ーー。いや、子を持ちたい人を支援すれば、子供を欲しがる人の意思だけで、増えていくハズ←増えませんでした(確定事実・少しでも出生率が改善しているわけでもないので、量が不足していると考えるより、方向性が間違っていると考えるべき)。
【出生率低下の原因】
・現代は昔と比べて出生の要素が減少した(子作りを個人の意思でコントロールできるようになった)。
→出生率が高かった時代の子が生まれてくる要素は①「子を持ちたい願望」に加え②「農業の労働力や後継男子が生まれるまで子を作ろうとした(インセンティブがあった)」③「道楽としての性欲」④「避妊、堕胎がなかった」←そもそも出生率が高かった昔も親の子供を持ちたい希望だけで、人口が維持、拡大できたわけではない。つまり、本意でないのに作っていた群もいて、その結果、人口が維持拡大できた。いわば、不本意でない出生が人口維持や増加を支えていた。もちろん苦労もあり、苦労と出生数はトレードオフの関係だった。
→しかし現在の日本(他の先進国も)は①子を持ちたい願望だけの「一本足打法」になった
→子供が生まれる要素が減り、これだけでは出生率2以上には足りない。もともと、子供を持ちたい願望のある世帯だけでは、出生率2に足りない。
・個々人にとって結婚や子作りに消極的な主な理由は経済や環境があげられるが、人間社会にとっては少子化になったのは願望や愛情をそそぐ満足感を得るためのものになった(子供の位置付けが生産材→消費財へ)
・原因は子作りや結婚の経済や環境的な障壁ではなく、障壁に感じるかどうか。
→それは、結婚や子作りが個人主義の台頭でほぼほぼやるべきものから、個人の裁量の対象になり、個人の志向
に依存することになり、(例・ペットは狩りができなくなったのは、ペットに聞けば狩りは難しい事を原因に上げるが、本当の原因は人間に飼いならされてしまったから)
・理想の子供の数の平均は2.5人程度だが、これは貧しければ簡単に諦める人も含まれる「熱量」が全く考慮されていない数値。資本主義という制度上、必然的に存在する貧しい層の存在に対し、「賃金を上げられれば」など、無責任で実現できないタラレバを唱えても時間の浪費と共に少子化が進行するだけ。
・したがって、いくら育児支援をしても、子を欲しがる人の数が足りないので効果が出ない。アンケートでも、金銭面や環境面だけではなく、自分の時間が潰れるのが嫌だからという回答多数。
・先進国ほど少子化、豊かになるほど少子化 ←エンゲル係数は下がり、全自動洗濯機など家電は便利になり、家事負担も減り、保育所の整備は進み、待機児童も減り、育児休暇率も上がり、男性の育児参加も進んでいるのに、出生率は低下。結局、子作りや育児の負担がある限り、また別の何かに不満や負担を感じてしまう←不満や負担の問題解決ではなく、どのみち解消できない不満や負担を受け入れることが重要。
・個人が自分にとって最適な行動(コストや負担を避けるために子供を作らない)をするほど、出生率は低迷する
・過去と比べた場合の出生率低下の原因=1970年代前半まで既婚率97%、貧乏人でもほぼ結婚して子供を作っていた。「個人主義の台頭による子づくりの優先順位の低下」(経済や環境で諦める対象になった。子作りにおける世代間扶助より自己実現を優先)経済や環境は原因ではなく結果。
・昔「みんな必ず、大変でも子供は作りましょうね」→現在「子作りは各々の自由ですよ〜」→当然、経済的、環境的に大変な人は子作りを避けるようになる
・逆にいうと、子作り圧力などにより、先代が結果として自己の利益を犠牲(昔の方がエンゲル係数が高かった→昔は今より無理して子供を育てていた)にした結果、現代人が存在できる。
・社会のレールは「子作りと仕事の両立」ではなく、実際には「完全に仕事を優先」(新卒一括採用の掟)してしまっている
・教育費が高い問題→子供の数が少ないから、教育費に金をかけられる→金をかけるから金がかかるになる。
・負担を回避しようとする(無理=その間に少子化がどんどん進行してしまう)のではなく、いかに負担を受け入れてもらうか。出生を子育て世代の願望による産物ではなく、生物学的な道理、摂理に根ざしたものにすべき(人口維持に必要な数を目標にすべき)。→手順や方法ではなく、結果(出生率)に拘る。ターゲット戦略型にする
・子作りは楽ではなく、元々大変なもの→問題なく少子化が解決できる「魔法の聖杯」を探し続ける時間が長いほど少子化は進行してしまう。
・移民政策では、出生率低下により減り続ける日本人の少子化問題は解決しない。→単純に減り続ける日本人の代わりに移民と置き換わるだけで、共存が続くわけではない。X字のように、時間の経過とともに、人種構成が移民と置き換わるだけ。日本人がいなくなっても日本列島に移民がいれば解決ではない。
・少子化対策は質より量を目指す。数字ありきが正解。←質を保ちつつ、量を目指してきたが、結局失敗した(量が競争により質を向上させる面も)。
・出生の機序と誤解
→子供が欲しいから作る人が大半だが、全てではない。←ここがポイント。完結出生児数が2ならば、100%の人が結婚しないと少子化確定(そんなの無理)。
・そもそも、全ての人が最初から結婚し、子供を望んでいるわけではない。←生物学的にも子供は本能や希望だけではなく、元から全ての要素ではない。←あくまで授かって生まれた子供に愛情が芽生えるのであって、愛情が最初からあって作ろうとするのではない(本来は順序が逆)。
・労働ややりがいではなく、出生率を優先すべき。持続性が生命の大前提。それが担保された延長線上に個人のやりたいことや夢がある←人間は目先の報酬を優先してしまう
・子作りは生物学的原理なのに、個人の価値観の対象としてとらえらてしまっている。→生物は自己の価値観に合致しているから子供を作るわけではなく、あくまで本能。人間は生物額的本能が退化してしまった可能性がある。
・共同体の持続性は、個々人の負担で達成される。(個人の利益と相反)共同体というプールがあるから、人間が存在できる。一代(今の自分自身)の人間の利益を最大化すると共同体の持続性が毀損され、やがて人間は少子化によりどんどん存在できなくなる。
・選択肢が多いほど不幸になる「選択のパラドックス」江戸時代の農村は結婚相手が限られていた
・「出生率向上の目標」は子育て環境の満足度や子作りの納得感を上げることではなく、出生率の数値を上げること。子育て世代の満足感の向上への努力は出生率向上に繋がっていない。納得感、満足感ではなく、出生率の数字向上を重要視する(少子化は感情やモラルや倫理観ではなく、「数」で決まる現実を受け入れる)
・子供を増やすことによる副作用より、まずは頭数が重要。無理に増やすと、問題も増えるといって対策を打たなければ、プラマイゼロではなく、出生率低迷の長期化による出生数減はどんどん進行する。
・無理やり増やそうとするデメリットより、少子化のデメリットの方がはるかに大きい(子供を無理に増やすことの問題が増えても社会は持続できるが、少子化は時間の経過で物理的に絶滅する・例=癌と一緒。痛みがなく治る方法を探しているうちに、どんどんガンが進行して取り返しがつかなくなる。
→痛みがない方法はあるかもしれないが、見つからない段階ならさっさと痛みを堪えて切除するしかない)。現状は、「賃金を上げよう。環境を改善しよう」と雀の涙の給付と無責任な念仏を唱えるだけ
・子作りは自由だから逆に責任が生まれ、責任回避の動機から減ってしまう。
子供を作る方法自体は、性交渉であり、実は簡単。動物の繁殖もやることは分かっているため、簡単。ただ、現代社会で性交渉の機会を増やすことは非常に難しい。また、人間で難しいのは人権があるという点。逆に言えば、出生率が改善しにくい原因は子育て世代の人権保護を「優先」する為と言える。さらに逆に言えば、かつての子育て世代は周囲のプレッシャーなど窮屈な思いをして、自己実現や生活水準を我慢した結果とも言える。10割、自分の為に生きるのではなく、3割は次世代の為に負担を受け入れるという考え方の共有が重要。
・子作り(親世代が子世代を作って育てる=「世代間扶助」)の重要性を教え、その価値観を社会と共有する
→親や先祖による世代間扶助(子作り負担)の結果、現代人が存在できるという仕組みを、しっかり社会で共有する(自由や人権を主張できるのも、親や先祖の子作り負担の結果、出生できたから)←この因果関係をしっかり理解する。
→子を持つことを、子育て世代の「幸福の実現手段の一つ」から、社会的に共同体にとって「絶対に必要不可欠な原理」に変える。←子育て世代の子どもを作ることへの責任感の向上があり、社会からの協力も得られやすくなる。
→子作りを義務的に考えれば、必然的に教育競争は弱まる。現在は自由意志だから結婚も子育ても競争になる。(生物学的に必要不可欠な要素は競争ではなく、分配の方が結果的にうまくいく)義務的になれば、無茶な競争意識から解放され、育ってくれればとりあえずOKとなる。実は義務である方が責任がなく子ができた後は精神的にはかるかに楽。自由意志だから責任が伴う。
↓↓
・社会的に解決困難な課題、個人にとって避けたい行動を導くにはルールを作り、負担を社会全体で分担するのがセオリー。つまりルールを作ることが解決策。出生率が高かった時代も事実上、ルールとして意識されていた。
①ルール化と政府による積極的な子作り推奨・子作りの「社会的な位置付け」の変更←子育て世代の希望者だけ子供を作るのではなく、皆で分担して作る→結婚し子供を作る人が増えれば、相手も見つけやすくなる。
(個人として避けたい負担でも全体にとって必要不可欠な行動はルール化するのが古今からのセオリー、例えば税金は貧困者も負担する。国によっては徴兵制もある(こちらは国を守るために命を投げ出せと言ってる)
子作り子育て世代になれば、子供を作りましょう(もちろん健康に問題がある人は除く)
・子作りのタスク化(個人の願望の産物だと、モチベーションや環境に左右されてて必要な出生率を確保できない)
(政府は期待、支援するだけではなく、能動的に子作りを「要請し、積極的に推奨」する。あらゆる生物に共通する、共同体が持続するための『世代間扶助の原則(負担があるから持続する)』を説明すれば多くの人は理解できるはず)
・個人の「幸福の手段」の一つとして子作りを位置付けるから、幸福でないなら子供を作らないという行動になってしまう(幸福の手段という位置付けだから、基本「勝手に自助努力でやれ」になる)。大前提として子作りを「幸せの実現手段」ではなく、「個人の存在の源でもある共同体の持続性に不可欠な存在」と定義する。そうすれば子育て世代は子作りに対する責任感が生まれ、政府も会社も社会も負担を受け入れて協力的になるはず。
②有利不利で動機付ける
・実質的な「子なし税」の導入
人間は得をするための行動より、損を避ける行動を重要視する(「損失回避」=プロスペクト理論)例えば45歳以上で子供がいなければ、所得の10%を課税される→早めに結婚でもして子供を作ろうとなる。また、子なし税は応分負担の原則からいっても、共同体の構成や成立、持続性において必要不可欠である子供を作らないのに、福祉だけ享受するのは不公平という理屈もある
・多額の給付金(財源は一般会計とは別枠の「子供国債方式」で持続性を担保→時の政権の介入を防ぐ。不正受給を防ぐために日本国籍限定)
一生の納税額は少なくとも3000万円。1000万円配っても十分、ペイできる。
財源節約には、最初の動機を高める第1子と子供を増やすための第3子以降を手厚くする。親のパチンコ代のために無責任に生まれても、生まれてこないよりもはるかにマシ。
良いこだけ産まれてくればいい、という都合のいい解決策は存在しないことを良い加減、学習しましょう。現代人が存在できているのも、元々は祖先の労働力欲しさや性欲など打算の結果でもありす。もともと「子を持ちたい親の気持ち」だけで子孫たる現代人が存在しているわけではない。
・誰でも使える認可保育園や学童保育の24時間営業(バカ親に育児放棄されるより100倍マシ、育児負担感は大幅軽減、効果的な幼児教育もやればいい)
繰り返すが、人権や個人の自由などを一部、我慢して、仮に自身の環境が悪くても、後世を残すことに対する負担をしないと、共同体の持続性が損なわれ、やがて個人も少子化により、存在できなくなる。いわゆる移民政策を導入しても、減っていく日本人の傾向は変わらず、日本人が滅んで移民に取って代わられるだけで、日本人の持続性を担保できる政策ではない。
現代において、人々は無意識に受動的な消費者となり、自らの欲望や価値観を忘れがちである。これは、iPhoneや柴犬の購入にも現れている。
iPhoneの例は既に触れたが、柴犬の購入も同じ構図を示す。柴犬は日本の象徴的な犬種で、その愛らしい容姿に人々は魅了される。しかし、多くの柴犬の飼い主は、本当に自分に合った犬種を理解せず、流行に乗って柴犬を選ぶ。これは受動的な消費の典型である。
iPhoneや柴犬の飼い主が、何も考えずに流行に乗る態度は、自分自身の本当の価値や欲望を見失う結果となる。それでは、真の幸福や満足感は得られない。
一方、ポメラはその優れた機能性とシンプルさで、使用者を積極的な創造者へと変貌させる。ポメラの使用者は、自分の考えや価値に従って、意識的な選択をする。ポメラは、その人の本当のニーズに応え、個人の創造力を引き出す。
柴犬やiPhoneの購入者とは違い、ポメラのユーザーは自己の主体性を保持し、能動的な生き方を選択する。これにより、ポメラの使用者は自己実現の道をしっかりと歩んでいく。
結論として、iPhoneや柴犬は受動的な消費者の象徴であるが、ポメラは主体性と創造力を高めるツールである。ポメラを選ぶことは、自分の生活と価値に責任を持つことを意味する。
面談で「キャリアプランを教えてください」て言われたけど、キャリアプランが何一つ理解できなくてまともな会話ができなかった。
会社クビになった時のためにスキルや知識は付けておきたい、可能なら資格も取りたい。だがそれだけ。
ググってみてなんとなくだけど、「何歳までに役職を得る」がキャリアプランなのかなって思った。
でも役職得たくなくない?
こちとら小中は無視されてたので社会性や一般常識、空気を読むなどといったスキルが培われていない。そんな奴にマネジメントされんの不幸だろ。 lose loseだよ。会社としてのメリットどこにあんだよ。
なんかその、キラキラしたいとかボス欲求が強い人とか仕事が人生の全てみたいな人にはキャリアプランっての大事かも知れないけど、「キャリアプラン立てたい人の自己実現を後押しする」くらいでいいんじゃないだろうか。
自分は仕事では裏方にいたくて、上見てる人たちの足元の小石どかすような仕事を淡々としてたくて、自己実現は趣味であれやらこれやらしたい。それができるだけのお給料と時間が欲しい。
ほんとはなー「『裏方スキル1級』だから昇級!」とか「『師範代』だから人に教えていいよ」とか、そういうような肩書きと評価がもらえるなら興味も湧くんだけど。
子作りは個人の「子を持ちたい」という願望への依存だけでは、必要十分ではない。→人間が生まれる源である、共同体の維持、持続性には個々人で子作りの負担を分担しようとしないと維持できない。結果的に、今より格段に貧しかった先祖の苦労で生存できているのに、自分の代になれば、辛ければ後世を残すという責務はなくて良いのか?子作り育児の困難をいかに取り除こうとするのではなく、絶対に負担がある子作りの困難をいかに受け入れられるようにするかが肝心。子作りの「位置付け」を、苦労で諦めてしまう「個人の意思や願望でもうけるもの」から、個人、および共同体の持続性に必要不可欠なものと位置付け、税のように広く必ず「共同体で負担すべきもので個々人が協力すべきもの」へ。現代人の自由と人権を守って、貧しければ子供を作らずに少子化でどんどん日本人が減少し、移民主体の国に置き換わっていくか、個人が貧しくても子育ての負担を受け入れて生き残るか、突きつけられる究極の2択ーー。いや、子を持ちたい人を支援すれば、子供を欲しがる人の意思だけで、増えていくハズ←増えませんでした(確定事実・少しでも出生率が改善しているわけでもないので、量が不足していると考えるより、方向性が間違っていると考えるべき)。
【出生率低下の原因】
・現代は昔と比べて出生の要素が減少した(子作りを個人の意思でコントロールできるようになった)。
→出生率が高かった時代の子が生まれてくる要素は①「子を持ちたい願望」に加え②「農業の労働力や後継男子が生まれるまで子を作ろうとした(インセンティブがあった)」③「道楽としての性欲」④「避妊、堕胎がなかった」←そもそも出生率が高かった昔も親の子供を持ちたい希望だけで、人口が維持、拡大できたわけではない。つまり、本意でないのに作っていた群もいて、その結果、人口が維持拡大できた。いわば、不本意でない出生が人口維持や増加を支えていた。もちろん苦労もあり、苦労と出生数はトレードオフの関係だった。
→しかし現在の日本(他の先進国も)は①子を持ちたい願望だけの「一本足打法」になった
→子供が生まれる要素が減り、これだけでは出生率2以上には足りない。もともと、子供を持ちたい願望のある世帯だけでは、出生率2に足りない。
・個々人にとって結婚や子作りに消極的な主な理由は経済や環境があげられるが、人間社会にとっては少子化になったのは願望や愛情をそそぐ満足感を得るためのものになった(子供の位置付けが生産材→消費財へ)
・原因は子作りや結婚の経済や環境的な障壁ではなく、障壁に感じるかどうか。
→それは、結婚や子作りが個人主義の台頭でほぼほぼやるべきものから、個人の裁量の対象になり、個人の志向
に依存することになり、(例・ペットは狩りができなくなったのは、ペットに聞けば狩りは難しい事を原因に上げるが、本当の原因は人間に飼いならされてしまったから)
・理想の子供の数の平均は2.5人程度だが、これは貧しければ簡単に諦める人も含まれる「熱量」が全く考慮されていない数値。資本主義という制度上、必然的に存在する貧しい層の存在に対し、「賃金を上げられれば」など、無責任で実現できないタラレバを唱えても時間の浪費と共に少子化が進行するだけ。
・したがって、いくら育児支援をしても、子を欲しがる人の数が足りないので効果が出ない。アンケートでも、金銭面や環境面だけではなく、自分の時間が潰れるのが嫌だからという回答多数。
・先進国ほど少子化、豊かになるほど少子化 ←エンゲル係数は下がり、全自動洗濯機など家電は便利になり、家事負担も減り、保育所の整備は進み、待機児童も減り、育児休暇率も上がり、男性の育児参加も進んでいるのに、出生率は低下。結局、子作りや育児の負担がある限り、また別の何かに不満や負担を感じてしまう←不満や負担の問題解決ではなく、どのみち解消できない不満や負担を受け入れることが重要。
・個人が自分にとって最適な行動(コストや負担を避けるために子供を作らない)をするほど、出生率は低迷する
・過去と比べた場合の出生率低下の原因=1970年代前半まで既婚率97%、貧乏人でもほぼ結婚して子供を作っていた。「個人主義の台頭による子づくりの優先順位の低下」(経済や環境で諦める対象になった。子作りにおける世代間扶助より自己実現を優先)経済や環境は原因ではなく結果。
・昔「みんな必ず、大変でも子供は作りましょうね」→現在「子作りは各々の自由ですよ〜」→当然、経済的、環境的に大変な人は子作りを避けるようになる
・逆にいうと、子作り圧力などにより、先代が結果として自己の利益を犠牲(昔の方がエンゲル係数が高かった→昔は今より無理して子供を育てていた)にした結果、現代人が存在できる。
・社会のレールは「子作りと仕事の両立」ではなく、実際には「完全に仕事を優先」(新卒一括採用の掟)してしまっている
・教育費が高い問題→子供の数が少ないから、教育費に金をかけられる→金をかけるから金がかかるになる。
・負担を回避しようとする(無理=その間に少子化がどんどん進行してしまう)のではなく、いかに負担を受け入れてもらうか。出生を子育て世代の願望による産物ではなく、生物学的な道理、摂理に根ざしたものにすべき(人口維持に必要な数を目標にすべき)。→手順や方法ではなく、結果(出生率)に拘る。ターゲット戦略型にする
・子作りは楽ではなく、元々大変なもの→問題なく少子化が解決できる「魔法の聖杯」を探し続ける時間が長いほど少子化は進行してしまう。
・移民政策では、出生率低下により減り続ける日本人の少子化問題は解決しない。→単純に減り続ける日本人の代わりに移民と置き換わるだけで、共存が続くわけではない。X字のように、時間の経過とともに、人種構成が移民と置き換わるだけ。日本人がいなくなっても日本列島に移民がいれば解決ではない。
・少子化対策は質より量を目指す。数字ありきが正解。←質を保ちつつ、量を目指してきたが、結局失敗した(量が競争により質を向上させる面も)。
・出生の機序と誤解
→子供が欲しいから作る人が大半だが、全てではない。←ここがポイント。完結出生児数が2ならば、100%の人が結婚しないと少子化確定(そんなの無理)。
・そもそも、全ての人が最初から結婚し、子供を望んでいるわけではない。←生物学的にも子供は本能や希望だけではなく、元から全ての要素ではない。←あくまで授かって生まれた子供に愛情が芽生えるのであって、愛情が最初からあって作ろうとするのではない(本来は順序が逆)。
・労働ややりがいではなく、出生率を優先すべき。持続性が生命の大前提。それが担保された延長線上に個人のやりたいことや夢がある←人間は目先の報酬を優先してしまう
・子作りは生物学的原理なのに、個人の価値観の対象としてとらえらてしまっている。→生物は自己の価値観に合致しているから子供を作るわけではなく、あくまで本能。人間は生物額的本能が退化してしまった可能性がある。
・共同体の持続性は、個々人の負担で達成される。(個人の利益と相反)共同体というプールがあるから、人間が存在できる。一代(今の自分自身)の人間の利益を最大化すると共同体の持続性が毀損され、やがて人間は少子化によりどんどん存在できなくなる。
・選択肢が多いほど不幸になる「選択のパラドックス」江戸時代の農村は結婚相手が限られていた
・「出生率向上の目標」は子育て環境の満足度や子作りの納得感を上げることではなく、出生率の数値を上げること。子育て世代の満足感の向上への努力は出生率向上に繋がっていない。納得感、満足感ではなく、出生率の数字向上を重要視する(少子化は感情やモラルや倫理観ではなく、「数」で決まる現実を受け入れる)
・子供を増やすことによる副作用より、まずは頭数が重要。無理に増やすと、問題も増えるといって対策を打たなければ、プラマイゼロではなく、出生率低迷の長期化による出生数減はどんどん進行する。
・無理やり増やそうとするデメリットより、少子化のデメリットの方がはるかに大きい(子供を無理に増やすことの問題が増えても社会は持続できるが、少子化は時間の経過で物理的に絶滅する・例=癌と一緒。痛みがなく治る方法を探しているうちに、どんどんガンが進行して取り返しがつかなくなる。
→痛みがない方法はあるかもしれないが、見つからない段階ならさっさと痛みを堪えて切除するしかない)。現状は、「賃金を上げよう。環境を改善しよう」と雀の涙の給付と無責任な念仏を唱えるだけ
・子作りは自由だから逆に責任が生まれ、責任回避の動機から減ってしまう。
子供を作る方法自体は、性交渉であり、実は簡単。動物の繁殖もやることは分かっているため、簡単。ただ、現代社会で性交渉の機会を増やすことは非常に難しい。また、人間で難しいのは人権があるという点。逆に言えば、出生率が改善しにくい原因は子育て世代の人権保護を「優先」する為と言える。さらに逆に言えば、かつての子育て世代は周囲のプレッシャーなど窮屈な思いをして、自己実現や生活水準を我慢した結果とも言える。10割、自分の為に生きるのではなく、3割は次世代の為に負担を受け入れるという考え方の共有が重要。
・子作り(親世代が子世代を作って育てる=「世代間扶助」)の重要性を教え、その価値観を社会と共有する
→親や先祖による世代間扶助(子作り負担)の結果、現代人が存在できるという仕組みを、しっかり社会で共有する(自由や人権を主張できるのも、親や先祖の子作り負担の結果、出生できたから)←この因果関係をしっかり理解する。
→子を持つことを、子育て世代の「幸福の実現手段の一つ」から、社会的に共同体にとって「絶対に必要不可欠な原理」に変える。←子育て世代の子どもを作ることへの責任感の向上があり、社会からの協力も得られやすくなる。
→子作りを義務的に考えれば、必然的に教育競争は弱まる。現在は自由意志だから結婚も子育ても競争になる。(生物学的に必要不可欠な要素は競争ではなく、分配の方が結果的にうまくいく)義務的になれば、無茶な競争意識から解放され、育ってくれればとりあえずOKとなる。実は義務である方が責任がなく子ができた後は精神的にはかるかに楽。自由意志だから責任が伴う。
↓↓
・社会的に解決困難な課題、個人にとって避けたい行動を導くにはルールを作り、負担を社会全体で分担するのがセオリー。つまりルールを作ることが解決策。出生率が高かった時代も事実上、ルールとして意識されていた。
①ルール化と政府による積極的な子作り推奨・子作りの「社会的な位置付け」の変更←子育て世代の希望者だけ子供を作るのではなく、皆で分担して作る→結婚し子供を作る人が増えれば、相手も見つけやすくなる。
(個人として避けたい負担でも全体にとって必要不可欠な行動はルール化するのが古今からのセオリー、例えば税金は貧困者も負担する。国によっては徴兵制もある(こちらは国を守るために命を投げ出せと言ってる)
子作り子育て世代になれば、子供を作りましょう(もちろん健康に問題がある人は除く)
・子作りのタスク化(個人の願望の産物だと、モチベーションや環境に左右されてて必要な出生率を確保できない)
(政府は期待、支援するだけではなく、能動的に子作りを「要請し、積極的に推奨」する。あらゆる生物に共通する、共同体が持続するための『世代間扶助の原則(負担があるから持続する)』を説明すれば多くの人は理解できるはず)
・個人の「幸福の手段」の一つとして子作りを位置付けるから、幸福でないなら子供を作らないという行動になってしまう(幸福の手段という位置付けだから、基本「勝手に自助努力でやれ」になる)。大前提として子作りを「幸せの実現手段」ではなく、「個人の存在の源でもある共同体の持続性に不可欠な存在」と定義する。そうすれば子育て世代は子作りに対する責任感が生まれ、政府も会社も社会も負担を受け入れて協力的になるはず。
②有利不利で動機付ける
・実質的な「子なし税」の導入
人間は得をするための行動より、損を避ける行動を重要視する(「損失回避」=プロスペクト理論)例えば45歳以上で子供がいなければ、所得の10%を課税される→早めに結婚でもして子供を作ろうとなる。また、子なし税は応分負担の原則からいっても、共同体の構成や成立、持続性において必要不可欠である子供を作らないのに、福祉だけ享受するのは不公平という理屈もある
・多額の給付金(財源は一般会計とは別枠の「子供国債方式」で持続性を担保→時の政権の介入を防ぐ。不正受給を防ぐために日本国籍限定)
一生の納税額は少なくとも3000万円。1000万円配っても十分、ペイできる。
財源節約には、最初の動機を高める第1子と子供を増やすための第3子以降を手厚くする。親のパチンコ代のために無責任に生まれても、生まれてこないよりもはるかにマシ。
良いこだけ産まれてくればいい、という都合のいい解決策は存在しないことを良い加減、学習しましょう。現代人が存在できているのも、元々は祖先の労働力欲しさや性欲など打算の結果でもありす。もともと「子を持ちたい親の気持ち」だけで子孫たる現代人が存在しているわけではない。
・誰でも使える認可保育園や学童保育の24時間営業(バカ親に育児放棄されるより100倍マシ、育児負担感は大幅軽減、効果的な幼児教育もやればいい)
繰り返すが、人権や個人の自由などを一部、我慢して、仮に自身の環境が悪くても、後世を残すことに対する負担をしないと、共同体の持続性が損なわれ、やがて個人も少子化により、存在できなくなる。いわゆる移民政策を導入しても、減っていく日本人の傾向は変わらず、日本人が滅んで移民に取って代わられるだけで、日本人の持続性を担保できる政策ではない。
『子どもは「贅沢品」になったのか。上位大学と中堅以下の大学の学生たちに見えた「意識の差」』
https://news.yahoo.co.jp/articles/e8dd6ebe824bc0984ceff04d12d5c429cb88678a
この記事、昨今話題の「若者の恋愛離れ」に対し、上位大学の学生と中堅以下の学生とで子供を持つ意欲に差があるという調査結果は凄く納得いくけれど
この記事で残念なのは意見の実例を挙げているのが男子学生ばかりで、女子学生が少ない事だな
実際、上位大学と中堅以下の下位大学とでの子供を持つ意欲の差って、男子学生よりも女子学生の
自分は故あって上位大学の女子学生が多く集まる場所にいるけれど彼女達本当に凄いもの
都内や大都市の実家の太い名家に生まれ、当たり前のように女子御三家のような名門校から東大や私立トップ大に入り
それに加えて海外旅行やお金のかかるレジャーも楽しむ、キラキラした学生ばっかり。
そして何よりも、生まれついてのブルベ色白の肌で大きな二重の瞳、童顔小顔の似たようなルックスばかり。整形やメイクではあれは無理だろう。
おそらくは彼女達の親の世代で既に婚姻における選別と淘汰が進みきって、容姿が良くないと結婚出来なくなっているんだろう。
そういう女性はコンプレックスも何もないから、似たような上位大学の男子と結婚して自分達の優秀な遺伝子を子供に受け継がせる事に何の不安もないんだよね。
そして「子育て」についても、福利厚生が充実した公務員や大企業への就職が約束されているので当たり前のように仕事と両立する予定でいる。
フェミニストにしろそうでない女性にしろ、「子育ては女性に負担がかかりすぎるから女性は本心では子供なんてほしくない」という事にしておかないと
自己の主張に不都合だから困るんだろうけれど、実際は上位層の女性ほど自己実現の一環として子供を望むし子育てに負担感なんて感じてない。
一方、中堅以下の下位大学の女子学生は学業の成績や親の資産のみならずルックスも劣った人が多いので、自分の遺伝子を受け継がせたくないから結婚や出産に尻込みする。
よく言われる、「少子化は女性が一人でも生きていけるようになったから」「自立した女性は結婚したがらない」なんてのは大嘘で
実際には経済的に安定し『自立』した女性ほど結婚と子育てを望み、そうでない女性は望まないというのが現実だと思う。