1.真言宗に出家すること
2.甲子園を目指して高校球児になること
]]>真言宗では、入定とは単なる死ではなく、永遠に深い禅定に入ることを意味します。空海は、全てのことをやり終えた後、入定したとされています。
高野山では、空海は今も生きているとされています。奥の院には、空海が入定した御廟があり、毎日朝6時と10時半の2回、食事が運ばれています。この儀式は、空海の入定から現在まで1200年もの間脈々と続けられています。
]]>その家の宗教によるんじゃないかと思うんだけどどうなんやろ
完全素人やけど道教っぽい気がする
ワイんとこは仏教真言宗
]]>「自分は家が真言宗なんで」とか適当に言えばいい
それでも誘ってきたらパワハラだから職場に言ってOK案件
]]>TVで、松潤の耳を齧る岡田信長を見て、ふと、ジャニー喜多川氏の墓は、高野山にあり、ジャニーズのタレントが墓参りに訪れている。ということを思い出した。
いつか、元ジャニーズの自分の推しがジャニー氏の墓参りへ行ったことをラジオで話していた。
その後、他にも名だたる元ジャニや現ジャニの人がジャニー氏の墓参りへ行っていることを何かで見知った。
ググったら、ジャニー喜多川氏の父は真言宗の僧で、かつては稚児だったとか。
僧の間の男娼文化がそこに蔓延っていたのかいなかったのか。
自分の推しのジャニ氏への親愛ぶりは有名。
記者会見では遺骨を披露していた。
ジャニー氏が倒れた時には、病床に様々なものを持ち込んで付き添っていたこともトーク番組で聞いた。
当人が性被害にあったかはわからないけど、少年期に合宿所にいたことは周知の事実で。
今現在、ジャニー氏のかつてのセクハラ、性被害を訴えている人たちは、その犯罪を責めているが、ジャニー氏自体は嫌いではない。という矛盾したコメントを発しているのが散見される。
普通、性被害を訴える人が被疑者の人格を擁護する展開はあまりないように感じる。
(自分は子どもの時、2回同じ奴から痴漢の被害にあったことがある。相手には今でも悲惨な死に方をして欲しいと思う位には、怨んだ感情をもっている)
グルーミングというやつなんだろうか。
ジャニー氏の性被害問題は、被害者とそして外部がシュプレヒコールをあげているのと対照的に、
関連メディア、事務所やタレントが先日まで恐ろしく無反応な様子だった。
真言宗、天台宗系の寺文化には、稚児にも、上稚児、中稚児、下稚児と身分があったらしい。男色の相手になるのは言わずもがな。ということは、ジャニー氏の中では、TVで活躍しているタレントを上稚児感覚で捉えていたのではないかと、下世話ながら想像してしまった。だから被害者声明が今日まで表立っていなかったのでは。
芸能というのは、想像以上に奇々怪界な世界なのだろう…。いずれにしてもそんな世界に入れようとする親はまともではない。
もちろん一番悪いのは、ノーと言えない環境を作り出して、性的行為を強要させる支配者。
私自身は、ノンケだけれども、同性カップルは全然構わない。一方、趣向で、恋愛メインのドラマに興味はなく、BLモノは生理的に受け付けない。老若男女問わず、人が上半身でも裸でTVに映っているとチャンネルを変えたくなる。裸や性的場面を公の場で見たくない。ジャニー氏の夜とか想像したくもない。
文頭の、耳を齧るシーンを見た時には、思わずチャンネルを変えてしまった。
とはいえ、それはそれ。
これからも推しは応援していくつもり。
推しがこれからどんな事をメディアの場で言っても応援できる自信がある。
(…結婚したら…ちょっと自信ない)
なんなら今まで、私の推しがいたグループを解散させた
かの事務所が大嫌いで、関連商品の購入や番組は避けていたけれども、
推しのマインドを思うと、
むしろこれからは、今逆風にあっている彼らのスポンサー商品を積極的に買おうと思ってしまったくらいである。
(演出が好きになれない今季の大河を見ているのもその一つ)
こんな私もまた支配者層の思う壺なんだろう。
やっぱり、死ぬ前に糾弾されて欲しかったよ。
]]>婚活をしていて、いいなと思っている方とLINEでやりとりをしているのですが、送られてきた写メを見てあることに気がつきました。
机の上に博文栄光堂と書かれた封筒が。
調べてみるとどうやら、創価学会系の書店のようなのです。
私は新興宗教に対して偏見を持っています。
どうしたらいいか頭がパニクってます。
お相手は良い方です。
ただ、冠婚葬祭の時に変なルールを強制されたらどうしようと思うと受け入れられそうにありません。
このような経験をした方がいらっしゃいましたら
アドバイスが欲しいです。
聞く場所間違っているかもしれませんが…。
旧統一教会の話を色々見聞きして新興宗教に対してアレルギーが出ています。
関係が崩れても、次のデートで信仰について聞いてみるべきなのでしょうか。
※わたしは母方が浄土真宗、父方が真言宗ですが、基本的に無宗教で信仰が薄いです。
]]>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E6%84%9F%E5%95%86%E6%B3%95
1984年、後に明覚寺の管長となる男性が千葉県野田市に水子菩薩を扱う訪問販売会社を設立[30]。地元の曹洞宗の寺と協力して販売していた男性が、1987年に醍醐寺の末寺として茨城県大子町に1987年に宗教法人「本覚寺」を設立し、関東一帯にそのグループを展開した[30]。1988年に真言宗 醍醐派を離脱し独立の寺として霊視鑑定を行っていたが、消費者センターに苦情が寄せられて詐欺商法だとして損害賠償請求が次々と起こったため、一時的に活動を中止した[30]。その後、休眠状態にあった和歌山県の高野山 (高野町)[31]にある「明覚寺」を買収し、関西地区で同様の活動を再開したが、こちらでも損害賠償請求が多数起こった[30]。愛知県警は明覚寺系列の満願寺(名古屋市)の僧侶らを摘発した[30]。1999年12月16日に、文化庁は「組織ぐるみの違法性が認められる」として和歌山地方裁判所に宗教法人明覚寺に対する解散命令を請求し、和歌山地裁は2002年1月24日に解散命令を出した[30]。明覚寺は最高裁まで争ったが棄却されて解散になった[32]。犯罪を理由にした宗教法人の解散命令としては、オウム真理教に次ぐ2番目のできごとであった[30]。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/shuukyo/giji_list/index.htm
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/shuukyo/gijiroku/1329788.htm
第2段落でございますが、「「修行目標」が定められていたこと自体、詐欺行為が組織的なものであったことを裏付ける事実というべきである」。その2つ下の段落でございますが、「さらに、抗告人が相談者から供養料が振込入金されることを確認し、その金員を管理していたことについては、抗告人も自認しているところ、この事実も詐欺行為が組織的なものであったことを裏付ける事実というべきである」。以上の理由から、抗告人の主張はいずれも採用できないということで、結論といたしまして、原判決は相当であり、本件抗告は理由がないからこれを棄却するという決定を行っているところでございます。これに対しまして明覚寺は、10月4日に最高裁に対しまして特別抗告を行っておりましたが、資料3-2にございますように、本件抗告理由は、民訴法第336条第1項に規定する特別抗告ができる理由で特別抗告をしていないと判断して、棄却する旨の決定を行ったところでございます。以上によりまして、明覚寺は解散をいたしまして、資料3-3の法人登記簿の3枚目の一番下にございますように、平成14年9月27日、和歌山地方裁判所の解散命令の決定の確定により解散となったわけでございます。
]]>「明覚寺グループの霊視商法詐欺事件①」
阪神・淡路大震災が発生し、このときばかりとオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした1995年の春のことです。和歌山県高野山に拠点を置いていた宗教法人・明覚寺グループの「霊視商法」詐欺事件が明るみに出ました。
この明覚寺グループは、茨城県大子町に本拠地を置く本覚寺グループをルーツにするもので、関東一円で霊感詐欺商法を展開していたのですが、被害者たちの訴訟が増えて1994年から1995年にかけて中部から近畿に転身して霊視詐欺事件を起こしていました。
ルーツである本覚寺時代の霊視商法というのは「相談料3000円」という宣伝文句で客を引っ張り込んで相談に来た主婦などを巧みに誘導して霊視鑑定し、祈祷料や供養料を要求するものでした。
問題視した消費者センターは「相談料という宣伝文句は、占いの見料に相当するもので商取引にあたる」と主張。すると「相談料・お布施として」という文句に変更し、あくまでも”宗教活動行為”であることを主張しました。
本覚寺の管長(宗派を管轄する長)は、西川義俊という男で、大阪府立大学経済学部を卒業したあとに大手製薬会社の営業マンとして働き、やがてコンドームなどを販売する訪問販売会社「協和」を設立しました。
1984年からは千葉県野田市を本拠地にし、地元の曹洞宗の寺と組んで、「水子菩薩」を売り出して蓄財。一方では京都の真言宗醍醐派の寺に通っては修行(笑)し、1985年「修験道教師」となりました。翌年には剃髪して得度に至たります。
これらは、”宗教は最大のビジネスである”と考えていた西川の予定の行動で、西川は日本仏教指導会という団体を開設、「仏教商法」に手を染めることになる。1987年に醍醐寺の末寺という位置づけで本覚寺を本山とし、関東一円に昇運寺、法輪寺、迎春寺、実証寺、春光寺、幸福寺、明星寺、光明寺などの”道場”を開設していきました。
いずれも宗教法人格は持っておらず、謂わば「霊感商法のための営業所」のようなものでした。それぞれの道場には霊能者はいましたが、その多くは避妊具訪問販売員が霊能者に扮していたものでした。
1988年には真言宗醍醐派から離脱して本覚寺を独立寺院として本格的な宗教ビジネスを展開していくのです。
「霊はあるか」安斎育郎さん著 講談社ブルーバックス より
でも中学生の時に覚えた、空海が真言宗で最澄が天台宗ってのが、30になった今ぱっと思い出せたので、その時期に覚えたおかげだろうなとは思う
例えばもっと最近の5年前とか3年前に覚えようとしたこととかだとたぶん何も思い出せないし
]]>ここは月曜日開館、土日閉館ですわ
神社に施された見事な彫刻に注目して、江戸時代の大工さんの技術力の高さに感心できましたの
いろいろな大工道具の展示が面白かったです
棟札によれば屋根の葺き替えは9~25年に1回行われてましたわ
全ての葺き替えの棟札が残っている前提ですけれども
多度神社を真言宗醍醐寺から派遣された山伏さんが管理していたことから
江戸時代の神仏習合ぶりも伺えましたわ
]]>が とてもいい話が聞ける。この様に誘われることすら、得がたいことであ
り、行けば必ず納得してくれるだろうと、教団名、宗教であることを隠して
勧誘する。
②京都へ行けば、2日間にわたり、念仏宗・無量寿寺信者としての(かなり洗
脳作用を伴う)教育および儀式を強制的に受けさせられる。
このとき、念仏宗の秘儀というものも教わるが、(太陽を裸眼で見る方法、
化仏、化菩薩を見る方法等で、この秘儀を伝えられたことにより、極楽往生
が決定し菩薩の仲間になったと教え込まれる。) これは普通の生活では経
験していないことを教えるだけで、同じようにすれば、誰でも見える。また
徹底した秘密 主義を誓わせ、たとえ家族のものであれ念仏宗無量寿寺で聞
いたことを他人に話すと、無間地獄に落ちると脅される。
③釈尊本来の仏教というよりも 浄土系、密教系の複合したもので 開祖、久
世太郎(本名 福井真尚、別称 戸倉貞和)教と呼ぶべきものである。ちな
みに開祖の前歴は占い師で詐欺による訴訟を神戸地方裁判所にて起こされた
こともある。
④念仏宗 無量寿寺の会員(同行という)になると、3人を済度(信者を勧誘
すること)するノルマを与えられる。
⑤学術的文献によれば一般に 「隠し念仏」と呼ばれている。浄土真宗側から
異端仏教として排斥されているものである。
仏教歴史学によれば、秘事法門と呼ばれ、 布団被り、御蔵法門、御杓子講
空也派、天王寺派等、が存在するようだ。念仏宗が、どの派に近いのか、ま
た、混交したものであるのかは不明である。 いづれにしても 善智識と呼
ばれるものを立て、自宗の奥儀として儀式を秘匿し、門外に他言すれば地獄
におちると 信者に言い含めるのが特徴としてみられる。
⑥2チャンネルの「念仏宗無量寿寺」掲示板や、「知りたい。。。」掲示板の
元信者、現信者家族の書き込みに寄れば 無量寿寺への入信が原因で、離婚
や、家庭不和、鬱病に悩まされているという報告が数多く寄せられている。
また、念仏宗の幹部、であり、回向相伝を授けられた土屋 悟 氏が(2001
年)に自殺した。という事実もある。
⑦念仏宗 無量寿寺 信者にかかる費用(任意も含む)
護持費(会費)1口 2000円・・毎月支払い、口数は各信者の自由意志
その他、地方会費(各地区の別院、檀信徒会館、等施設維持のため)として
信者1人当たり1000円 ~5000円/毎月)の支払いがあるようだ。
回向 (先祖供養等) 一体1口 10000円 (1年に先祖1人につき6回必要)
集中回向 一体 100000円
布施 ボーナス月 7月と12月に 各10000円
法名 100万円
仏像 一体 100万円
葬儀に届く花代 100万円
御文書 200万円
本堂の柱 寄進 1本 1000万円
他、林間学校、等への布施
⑧念仏宗無量寿寺は昭和54年に宗教法人としての認可を監督官庁から受けた。
平成4年に 日本の仏教 第14宗として監督官庁に認可されたと、無量寿寺
の月刊誌に書いてあるそうだが、監督官庁が認可した事実は無い。
⑨開祖の久世太郎は 真言宗第195代 琳真大僧正の6番目の末弟というふれこ
みだが、真言宗に確認してみると そのような事実は無いとの返答であった。
⑩念仏宗・無量寿寺 信者として、六大祭事(初詣、大涅槃会、観音祭、降誕
祭、地蔵盆、成道会)への参加が、義務づけられている。
⑪これまでに5回 世界仏教サミットを開催しているが、これは念仏宗のお手
盛り、宣伝的なイベントであり、 日本の仏教会からは 全く無視されてい
る。
日本の仏教会は、全日本仏教会という組織(日本仏教会の9割以上が参加)
があり、これまでに20回以上も 世界仏教徒会議というものに参加している
⑫念仏宗無量寿寺の相伝(階位免許?みたいなもの)
を受けるに当たっては 五具足相伝に300万円、回向相伝には1000万の冥加
金を支払わねばならない。
⑬「白装束・数珠・蝋燭」
念佛宗では信者が儀式の際に使用した上記のものを死後8時間以内にこれら
を身に付けさせ、蝋燭を燈さなければ輪廻の輪から解脱出来ず、極楽浄土へ
向かう事が出来無いとしている。
⑭不退相伝の儀式
妊娠中に受けるとよいと勧められる儀式で 30万円
胎内にいる間に、仏との縁を結び、無事にこの世に生まれさせていただくと
いう儀式 いわゆる、安産祈願、不退は産まれてくる子が 真実の道、浄土
へ向かう道から外れないという意味を含むようだ。この儀式を受けたあかち
ゃんは臍のおが白いと云われるが、元、念仏宗信者の言によれば、他のあか
ちゃんの臍のおと 変わらないとのことである。
⑮現在、念仏宗無量寿寺を直接運営している幹部は
開祖の久世氏をはじめとして、法主:宮川氏、善智識:郡氏、清水氏の4名
かと思われる。清水氏は企業セミナーの講師もしているとの情報あり。
⑯念仏宗・無量寿寺 同行となったものは 精進しなければならない。(具体
的には、本山、 別院、檀信徒会館、王堂 関連の 維持、管理、世話等の
仕事が順番に回ってくるらしい。)
以上のことを、施主と称する役職名称で義務付けされる。
]]>廻りにはパチンコ屋とかカラオケ屋とかある
ちなみに愛知県は京都より寺の数が多く、都道府県で一位くらいらしい
https://kostrivia.com/1308.html
覚王山に大きいのがあるし、大須には本願寺からの分家が密集してたりする
熱田神宮という神道系の大御所もある(草なぎの剣を奉納されてたとこ)
ので日泰寺はさほど有名どころじゃないぞ
中身の仏舎利はタイの仏舎利塔から来たやつ
(だから日本とタイの交流の結果として日泰寺という名前になった。
日本で派生した大手仏教である真言宗とかの後ろ盾がない?か共同で維持か?、
とにかく完全な外来かつ中立の仏教の寺になってるようだ)
タイ仏教ってマジでガチだからインドからちゃんともらってきたやつだろうな
中国からもらったパンダとか日本で唯一だった千種のコアラみたいな人気はでなくて残念
仏教知ってればわかるとおり涅槃に入られてからすぐに火葬したはずだから遺伝子は抽出できないからね
]]>佛教大学は浄土宗、龍谷大学は浄土真宗本願寺派、大谷大学は浄土真宗大谷派、高野山大学は真言宗と、
実家の寺がどの宗派かによって僧侶資格を得られる大学が限定されるのよ。
龍谷大学のほうが良さそうと思っても実家が臨済宗妙心寺派なら花園大学行くしかない。
某先生はわざわざ青森から花園大学へ進学してるあたりからしてまあそういうことなんだろう。
重ねていうけどさる先生が実際だれなのかは知らないからね。
]]>やっぱり両手を使って全力でマダンテを出し切らないと駄目なのかなあ。
]]>例えばうちは、父方が浄土真宗なので、戒名は代々三文字しかないシンプル戒名だけど、母方の親戚(真言宗)に言わせれば「それはありえない」し。
学会の他宗派への姿勢とか、勧誘方法については自分も否定的だけど、供養の仕方なんかはそれぞれの宗派で違って当たり前なんだから、そこはわけて考えたい。
]]>昨日そこの駐車場から車が出てきたんすよ。
坊さんが自分の車、出してるんすよ。
坊さんの車を先に行かせようとして、止まってボッーと見てたんすよ。
坊さんの車を見送ったら、なんか「?」って違和感が残って。
しばらく考えてわかったよ!
……ナンバーが、21だよ!
弘法大師の命日だよ!
その寺は真言宗だよ!
]]>仏教儀式名。「みえいく」とも読む。祖師の命日に,その図像 (御影) を掲げて供養する法会 (ほうえ) 。代表的なものに真言宗祖弘法大師御影供があり,毎月 21日に行う法会を「月並御影供」,3月 21日の法会を「正 (しょう) 御影供」という。天台宗には天台大師・伝教大師・慈覚大師・慈恵大師・智証大師の五大師御影供がある。なお,宗派により同種の行事を報恩講,あるいは会式 (えしき) ,御忌会 (ぎょきえ) などと称する。
コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
]]>選挙に行けば、母方からは公明党に入れろといわれ、父方には母親の言うことを聞かなくてもいいのよ、出来れば自民にいれれば。と言われてきた。
その反発もあってか、リベラル系や共産に人を選んで入れていたように思う。
母親の付き合いもあって、どうしても創価学会の人と飲みに行かないと行けないことがあって嫌々ながらも会社の飲み会の延長戦だと思って頑張って飲みに行った。
初めは気を使っていたけれども、酔うと大きくなる僕の悪い癖が出て、学生運動の話をしたんだ。
そしたら、飲んでた人がある企業の労働組合の会長だった。
僕の中で左翼は創価学会はいないと思っていたから驚いた。
二人で裸のラリーズやパンタの話では盛り上がった。
やっぱり、キツイ仕事は嫌だし、給料が低いのは嫌だって言ってた。だから労働組合の会長をやっていると。
初めて、創価って単語で括っていたバイアスが外れた。
みんな人間だった。カテゴライズ出来ない人間はいっぱいいた。
みんな生活が第一で、宗教はただの習慣と家系の延長なんだと。
きっと創価の家系だからそう思うんだとか、言われるんだろうけど、創価の子供ほどネットで創価学会を知って嫌になる子は多いよ。
生まれても宗教は選べないからね。
これは新興宗教で差別される人がいなくなればいいと思って書いただけです。
]]>【消費税増税】
消極的賛成。
そりゃ嫌だけど、後々のことを考えるとだね……
【憲法改正】
平和憲法としての性格が残るなら、賛成。
多分ここは立憲民主党が一番近いんじゃないかな。
【男女別姓】
両手を挙げて賛成。
【外国人参政権】
絶対反対。永住権とか関係なく反対。
【(追記)移民問題】
絶対反対。安全第一。
【唐突ですが、奨学金問題】
そもそも、大学が多すぎると思う。
無理して大学通う必要ないと思う。
よって、成績優秀者に限り、返却の必要がない奨学金を増やすべきだと思う。
【大学の研究費問題】
上記に関連し、Fランとかは潰して、上位の大学には助成金増やしてあげて。
【小さな政府か大きな政府か】
どちらかといえば、大きな政府派。
だって、保育園増やしたり、保育士の給料上げたり、でもなるべく保育料を抑えようとかしたら、しゃーない支出ってあるやん?
でも、無理に地方を活性化させる必要はないなと思う。
それよりは、とにかく人口増やしたほうがいいと思う。
【北朝鮮問題】
面倒なので、暗殺部隊頑張れ。
後継者が生まれる前に。
【ここまで触れてきませんでしたが、アベノミクスをどう思ってるか】
株やってるんで儲からせて頂いてますけど、どちらかというと、それはアメリカの株高のお陰じゃね?
あと、株価については、年金問題もからむわけだが、日経平均上げるだけじゃなくて、小粒の優良企業の株も積極的に買ってあげて。
あと、企業の内部留保を研究開発や品質向上に回させるような税制とか、なんかできることないのかね。
【特定の宗教に関心があるか】
典型的日本教人間だと思います。
神社仏閣は割と好き。神道のテキトーさが好き。日蓮宗系はどちらかというと嫌い。おまじない真言宗バンザイ。曹洞宗もなんかいいな。
こんな感じ。
大学の話がやたら出てくるのは、理系院生だからですw
判定お願いします!
]]>目次 [非表示]
1 概要
2 平安初期の仏教界
2.1 法相宗と徳一
2.2 天台宗と最澄
3 論争の経緯
3.1 論争の発端について
3.2 著作の応酬
4 最澄激昂の理由
4.1 最澄の孤立
4.2 南都教団への対抗
4.3 中傷者徳一に対する怒り
4.4 蝦夷征討との関係
5 その後
6 注・出典
7 関連項目
8 参考文献
概要[ソースを編集]
「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗(声聞乗・縁覚乗)・大乗(菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。
ただし、徳一と最澄の論争は三乗と一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経の正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作を執筆しており、これは徳一からの批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗の空海(774年 - 835年)への論難である『真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である。
いずれにしろ論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。
平安初期の仏教界[ソースを編集]
奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗・律宗などの南都六宗である。本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである。
この時代の日本における仏教は中国と同様、鎮護国家の思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度が施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇(737年 - 806年)が平城京から長岡京・平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあった。
法相宗と徳一[ソースを編集]
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
徳一は一説には藤原仲麻呂(恵美押勝とも。706年 - 764年)の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国で布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。
前述のごとく、徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。
天台宗と最澄[ソースを編集]
天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教の理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。
最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇は最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年(805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年)帰国した。
帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである。最澄はさらに同じく入唐した空海に師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗の鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教の既得権益との対立を深めていた。
論争の経緯[ソースを編集]
論争の発端について[ソースを編集]
論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判・法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。
ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身は鑑真の弟子で、律宗の僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄が東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁(794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要な役割を果たしていた存在であった[6]。
筑波山を開山し、会津を拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的に東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。
著作の応酬[ソースを編集]
三一権実諍論に関する著作としては、
≪徳一側著作≫
『法華肝心』2巻
『法華権文』1巻
『中辺義鏡』20巻
『慧日羽足』3巻
『遮異見章』3巻
『義鏡要略』7巻?
『法相了義灯』11巻
『通破四教章』1巻
≪最澄側著作≫
『照権実鏡』1巻
『依憑天台集』1巻
『守護国界章』9巻
『決権実論』1巻
『通六九証破比量文』1巻
『法華秀句』5巻
などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、
徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論。
徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論。
最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。
となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄の反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論、結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。
一連の論争の内容は難解で、一乗・三乗の権実のみならず、教判論における法華経や天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解の先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。
天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。
最澄激昂の理由[ソースを編集]
下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。
最澄の孤立[ソースを編集]
最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海に師事することになる。
最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年)から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年(806年)に帰国していた。最澄は空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海の高雄山寺において灌頂を受け、正式に空海の弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。
しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さらに最愛の弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり、密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。
天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗は最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。
南都教団への対抗[ソースを編集]
最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国に拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗を代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。
中傷者徳一に対する怒り[ソースを編集]
徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義そのものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。
蝦夷征討との関係[ソースを編集]
宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。
最澄が東国に下った際に活動の拠点としていたのは亡き道忠が活動の拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野・上野両国から陸奥・出羽両国に対しては国司からの課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗や東国の鹿島神宮・香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院や神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗の公認を得たばかりの最澄も東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄の東国行きに随行した弟子の円仁(下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野・上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。
これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原は最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷< ]]>
目次 [非表示]
1 日本の天台宗
1.1 天台密教(台密)
1.2 四宗兼学
1.3 止観行
1.4 所依
1.5 主要寺院(寺格)
1.5.1 天台宗(山門派)
1.5.1.1 総本山
1.5.1.2 門跡寺院
1.5.1.3 大本山
1.5.1.4 別格本山
1.5.1.5 その他の寺院
1.5.2 天台寺門宗
1.5.3 天台真盛宗
1.6 その他天台系宗派
1.6.1 天台宗系新宗教
1.7 教育機関
1.7.1 大学
1.7.2 天台宗系中学校・高等学校
1.7.3 養成機関
2 中国の天台宗
3 韓国の天台宗
4 社会運動
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク
日本の天台宗[編集]
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
天台密教(台密)[編集]
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
四宗兼学[編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
止観行[編集]
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
所依[編集]
法華経
涅槃経
大品経
大智度論
主要寺院(寺格)[編集]
天台宗(山門派)[編集]
総本山[編集]
比叡山延暦寺(滋賀県大津市)
門跡寺院[編集]
滋賀院(大津市)
妙法院(京都市東山区)
魚山三千院(京都市左京区)
青蓮院(京都市東山区)
曼殊院(京都市左京区)
毘沙門堂(京都市山科区)
大本山[編集]
関山中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)
日光山輪王寺(栃木県日光市)
東叡山寛永寺(東京都台東区)
定額山善光寺大勧進(長野県長野市)
別格本山[編集]
毛越寺(岩手県西磐井郡平泉町)
瑞国海岸山観音寺(宮城県気仙沼市)
正覚山蓮前院安楽寺(茨城県常総市)
星野山中院(埼玉県川越市)
狭山山不動寺(埼玉県所沢市)
大鱗山雲洞院天龍寺(埼玉県飯能市)
浮岳山昌楽院深大寺(東京都調布市)
北向山常楽寺(長野県上田市)
宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市)
龍谷山水間寺(大阪府貝塚市)
書写山圓教寺(兵庫県姫路市)
大山寺(鳥取県大山町)
契山大興善寺(佐賀県基山町)
六郷満山両子寺(大分県国東市)
その他の寺院[編集]
谷汲山観音寺(北海道河東郡音更町)
青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市)
星野山喜多院(埼玉県川越市)
谷汲山華厳寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町)
清香山寂光院(京都市左京区)
根本山神峯山寺(大阪府高槻市)
三身山太山寺(兵庫県神戸市)
補陀落山長尾寺(香川県さぬき市)
清水山観世音寺(福岡県太宰府市)
金海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市)
阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市)
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である)
天台寺門宗[編集]
総本山 長等山園城寺(三井寺)(滋賀県大津市)
天台真盛宗[編集]
総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市)
その他天台系宗派[編集]
聖観音宗
浅草寺(東京都台東区)
和宗
四天王寺
本山修験宗(寺門派系)
聖護院(京都市左京区)
金峯山修験本宗
金峯山寺(奈良県吉野郡吉野町)
浄土真宗遣迎院派
遣迎院(京都市北区)
妙見宗
本瀧寺(大阪府豊能郡能勢町)
粉河観音宗
粉河寺(和歌山県紀の川市粉河)
善峰観音宗
善峰寺(京都府京都市西京区)
天台宗系新宗教[編集]
念法眞教
孝道教団
鞍馬弘教
教育機関[編集]
大学[編集]
大正大学
天台宗系中学校・高等学校[編集]
比叡山中学校・高等学校
駒込中学校・高等学校
養成機関[編集]
叡山学院
]]>他方、死後どうなるかについては割とあやふや。
こういう部分は、地域のグループで口伝される非公式な教義があって、補完されている。
真言宗のような邪宗だと~~な酷い死に方をする、とかね。
公式には言わないけど。
]]>厳しい修行をして鍛えられたい。仏教をインストールして少しでも苦しみを和らげたい。
こんな願望があるのだが、仏教の教えは変わらず素晴らしくともそれで飯を食っていく
仕組みがオワコンになっている。しかも在家なので、
僧侶の資格がとれたとしても行く先が見つからない可能性がある。
なので、未だに檀家さんをいっぱい持っていて、
娘さんしかいないお坊さん。私を婿養子にしてくれませんか。
※出来れば真言宗。(空海が好きなので)
]]>