はてなキーワード: 理想像とは
アメリカより競争原理も働かない硬直した市場と起業風土の中でそれを言うのはナンセンス
というか、職場としての理想像は決してアメリカではなく、北欧にあると思う。
就業時間を6時間にして寧ろ作業効率が上がった、もちろん給与据え置き。
https://m.huffingtonpost.jp/2017/01/06/sweden_n_13992182.html
勿論コスト増した所などもあるが、全ての人が8時間働く必要もないという事が示唆される。
過労死が多い日本なら法定を6にしてそれ以降を残業代発生にすれば、企業も色々と変わる可能性がある、過労死は減るかもしれない。(その前に労働基準法遵守していない企業への罰則強化が先だが)
また、教育全般、社員教育も遅れている部分は見習うべきだし、第一やれる事に限界あるのは中小企業であって、NTTなど大企業は金を内部に溜め込んでる上に、銀行から莫大に借りられて、それで色々社内システムに投資できるんだから、自分で雇っておいて無能を無能のままにしとく会社サイドに大いに問題がある。
見習うべき所を見習った上で、現状も踏まえて、北欧等の後追いでなく、美味しい所どりをいち早く実現させれば、もっと、世界で類をみない良い国になれる。
1980年代当時、尾崎豊を愛聴していた人間の大部分が、本当に盗んだバイクで走ったり、校舎のガラスを割る不良だったわけではない
むしろ、不良っぽいノリに憧れつつ実行できない良い子ちゃんがこっそり聴いていたという面もあった
今となっては、ネット上ではみんな不良ヤンキーDQNをバカにする
だがしかし、単純に「そういう事実があった」という客観的傍証で言えば
1980年代当時、学校秩序に順応してるだけのよい子にとって不良は「大人」に見えた
そしてそれゆえ、悔しいが世間からは格好良い連中であるかのように思われた
なぜか?
中卒や高校中退で働いている不良は自分で働いて稼いだ金でバイクや車を買って
自動車なんて動く個室だもんね、その中に異性を連れ込むことも出来る
そうはいっても尾崎豊が生きていた1980年代当時、ケータイもネットもなかった
学校の内側しか知らないよい子ちゃん(成績優秀とは限らない、単に親と教師に逆らう気概がないだけ)にとって、不良は悔しいが外の世界を知ってる大人に見えた
無論、学校の中だけで世界が完結してて外の世界なんか興味ない奴は不良なんかうらやましくなかったろうさ
オタ学生自体が少なかったしその手の部活やサークルが存在するのはごくごく一部の都市部の高偏差校のみ
教師は簡単に体罰を振るうし、「そんな態度じゃ社会に出てからやっていけないぞ」「
君らは外の世間を知らない井の中の蛙だ」みたいなことを言う癖に
アルバイト禁止とかでその学校の外の世界を知ろうとすることを断固阻む
そういう学校の空気に反発を抱くと、ロールモデル像が不良しかない
21世紀の現代でこそ、不良にもならず、IT技術とかyoutuberとか歌い手とかオタ才能でフリーで食っていく生き方もあるだろう
ところが、1980年代にはそういうロールモデルが本当になかったんだ
うっかり、尾崎豊みたいなのが地方で孤立してる社会不適合者にとってのイメージ的理想像になるしかなかったんだよ
くり返すが、俺個人は不良ヤンキーDQNは嫌いだ、尾崎豊も1980年代リアルタイムではちっとも好きではなかった
が、1980年代当時はぱっとせず地味に学校に順応したフリして生きるしかできなかったのに、あれから30年以上経って大人になってから、今さら不良ヤンキーDQNや尾崎豊を矮小化して勝った気になるのは、ちょっと不誠実じゃないかと思ってる
タイトルは主語が大きすぎるのでまず適切な主語にスケールダウンする。
ラブコメ→なんか主人公がイケメンに好かれてデモデモダッテしてくっついたり離れたりして最後にやっぱりイケメンとくっついて勝利するやつ
女子→私(28歳OL ※最近バズったアニメの増田の人ではない)
苦手になった原因はおそらく、中高生のころに携帯小説でそういう話ばかり読んでいたから食傷になったのだと思う。色々読んだけど大筋は主人公(カースト下位)がイケメン(カースト上位)に好かれて上位の仲間入り!むしろ頂点!大勝利!みたいな。
もうそういう展開は私はお腹いっぱいだし、頂点に立ちたいなら男を頼るな。自力で頂点に立つ展開でも、トロフィーハズバンドみたいにイケメンを捕まえるのあれなんなんだろうね。自分が成功したことの証明を男に頼るな。
(勿論、男女逆にした話も沢山有るのは知ってるし苦手といえば苦手だけど、あれらは元々女性向けとして推されてないからかあんまり気にならない)
とは言え、これは私がそういうストーリーが苦手だってだけだから、じゃあどんな話が読みたいのかって考えるほうが建設的だしそれならこれがいいよ!っておすすめされるかもしれないから書いてみるね。
・主人公は自分の性格を把握していて、自分の性格と相性がいい男性は多分こんな感じ、という理想像がある。
・恋愛に意欲的な主人公は、理想像の男性が存在しそうな環境に出向き、知り合ったり仲良くなったりして経験を積む。
・実際に恋愛することで、自分の性格の新たな一面を知ったり、理想像の別の面を知ったりして、方針を修正する。
・最終的に、この人だ!って人に狙いを定めてしっかり落とす。
辛い。試験勉強が辛い。何もわからない。何をやればいいのかわかっているのにやらない自分が嫌になる。あらためて自覚するとお腹に重いものが来る。体勢も悪い。腰痛めたくないのに。うまくいっている自分を想像するのは好きなのにそれに近付こうと努力するのは嫌い。大学受験だっていうほど頑張れなかった。受かったのはまぐれだ。金遣いが荒いのも治らない。英語を勉強しようと意気込むだけで何もしない。次の学期から頑張ろうって毎学期言っている。そのくせ学期末になると来年からはとか言い出す。今頑張れよ、今。ゾンビランドサガなんて見て感動している場合ではない。線形代数、電磁気、量子化学のテストと哲学の課題がもう目の前に迫っている。それどころかもう貫通するレベルでやばい。もっと頑張らなければいけない。高校生の時の自分が今の自分を見たらどう思うだろうか。少なくともあの時は今よりは勉強していた。大学生活に希望を抱いていた自分はもう戻ってこないのか。戻ってこないのかと受け身になっている自分が嫌いだ。普段自分のことが好きだと他人にも自分にも言い聞かせている。いつか自分を好きになる日が来るのだろうか。虚言癖も治したい。どうして本当に、本当にしようもないことを口走ってしまうのか。言った後にすぐ後悔するのに。今は友達も部内の人間以外いないので普段話すことがないからまだマシだが。食生活も改めなければいけない。糖尿病など洒落にもならない。また医療費もかかるし。親に迷惑もかかる。多額の学費を払ってもらっているのに。本当に申し訳ないと口だけでは言える。親が自分の現状を知ったらどう思うだろうか。国立に受かって安く済むと親は喜んでいたが、東京に下宿となると県内の私立大学よりよっぽどかかる。今は大学の寮だが後一年で出ていかなければならない。前期は2単位落単してしまい、3Qは落単を逃れたが4Qはどうなるか。どうなるかではなく勉強するしかない。こんな文章を書くのではなく。どうして問題が解けないのか。勉強していない量子化学は解けないのはわかりきっている。線形代数は意味がわからない。教科書通りの勉強ではダメなのか。何がいけないのか。本当にダメだ。ここまで自覚しておいて何もしない。何かしてもすぐに別のものを触ってしまう。スマホなんてなければいいのに。そうやって物のせいにする自分が嫌い。自分の理想像と自分をいつも比べてしまう。誰かにすがりたい。話を聞いてもらいたい。人間関係を維持するのに疲れ、それを放棄してきた人間には叶わない。他人に話を聞いてもらうには他人の話を聞かなければならない。苦痛。本当にわがままだ。愛して欲しいが愛したくはない。これでは手を差し伸べてくれる人間などいるわけがない。救いの手を自分から弾いてきたのだから。ああ、辛い。まだ大学一年生なのにこれからやっていけるのだろうか。
「その人を知りたいのならば、その人が何に怒るかを知れ」
そんな言葉を読んだことがある。これは本当に至言だと思うのだ。
なぜならば、怒りという感情はその人が大切に思っているものが傷つけられた時に起こる感情だからだ。
だから、何に対して怒ったかから逆算してその人の大切なものや価値観を知ることができる。
けれどもそれは簡単なことでは無い。そして、逆算できたからといってその怒りが理不尽なものではないことの証明になるわけではない。
また、怒りの発露をコントロールできないことの言い訳にもならない。
例えば、まだ離乳食を食べている様な幼子が食卓を汚すことに怒り狂う母親がいたとして、彼女が大切にしているものは何なのか?それは完璧に子育てをする自分という理想像かも知れないし、穏やかな食卓かも知れない。しかし、それを乱すとして幼子に怒りをぶつけるのは明らかに理不尽であるし、経験を積んでいる大人の側が怒りをコントロールできていないことの言い訳にはならない。
そして、怒りという感情は往々にして怒った本人ですらなぜ怒ったのか自覚していない場合がある。つまり、自分で自分の大切なものがわかっていない場合だ。しかしそんな場合でも怒りを手掛かりに自分を知ることができると思うのだ。
そうして怒りを手掛かりに自分や他人を推し量った結果、その大切なものが非常にちっぽけで惨めなものに見えることもあるだろう。それを馬鹿にするのは容易い。だが、本当にその人のことを知りたくて考えて出た結論なら、そう簡単に馬鹿にはできないだろう。むしろ、ちっぽけで惨めに見えたものを尊重する気持ちが起こることがある。
怒りを読み解くことは相手に敬意を払うことに通じる。
自分が怒るのも、他人の怒りに触れるのも、非常に怖いことだし疲れることだ。
だから怒りはスルーする、そういう身の処し方もあるだろう。自分を守るためにそうした選択をすることを咎めはしないし、実際まともに取り合えないくらい理不尽な怒りもある。
だがもしも自分や他人を理解したいのならば怒りは無視するべきでは無い。それが怖くとも疲れるとも。
そうして怒りと向き合った人間こそ、世界を変えられるだけの湧き上がる力を手に入れられるのだろう。
以下を読んで、そんなことを思った。
今回のキズナアイ問題は、反フェミ勢は単純な外見問題だと思い込んでいるようだが、最初に問題提起した人のツイートからも単純な外見問題ではないことはすぐわかる。
今後女性進出が期待される科学分野での世界的に権威のあるノーベル賞の解説にキズナアイ(とその外見)が適切かどうかという問題だ。
現実の女性に拒否されることを恐れる男性の理想像に「純粋で無知でセクシーな女性」があるが、
(https://mobile.twitter.com/t_wak/status/1050344328239898629)
キズナアイが現実そのままの女性だと思い込んでいる人が多いが、AKB、乃木坂など多くの生身のアイドルと同様に、ファン層の理想イメージを具現化するための「偶像」を演じている演者である。
https://anond.hatelabo.jp/20181002214303
吐き出すことで多少楽になったような気がするが、一方で予想外の反響に困惑している。
本来意図したところは、自分の気持ちを供養するというかお焚き上げするというかそんな程度で、きわめて個人的な思いをひっそりと綴ったつもりだった。なのでこれだけ反応があるというのは本当に意外だったのであるが、「気持ち悪い」と前置しているにもかかわらず、わざわざ時間を割いて読んでいただいたことに敬意と感謝を表します。
正直なところ、我ながら切なくも哀しい話だとは思うのだが、ピュアとか純粋とか言われるとどうにも居心地がよろしくない。むしろ「気持ち悪い」という反応のほうが安心感がある。
何しろ舞台は世間一般には後ろ暗い活動を行っているとされるところの風俗店であり、生き物の根源たる欲求を解消するために訪れているのだ。だから「どうせやることはやってるんでしょ」と言われても、はい仰る通りですという以外に返しようがない。
「他の客と同じ」みたいな指摘についても、「その他大勢のお客様のひとり」と書いてあるとおり、そこは理解している。「その他大勢のひとり」の要望に可能な限り応えてくれた彼女の仕事ぶりは高いレベルの職業意識に基づいていることが明らかで、敬服すべきだと思っているし、客としての立場を弁えて一定の距離を取っていたつもりだ。だからこそ自分の気持ちが思うようにならないことがなんとも歯痒い。Ω子さんによるコミック「リアル風俗嬢日記」に「ガチ恋さん」のエピソードがあって「あーこういうのは後でつらいぞ」と思っていたが、笑えなくなってしまった。
彼女との接触は短時間、箱型風俗店の狭い個室だけで、彼女がどんなことを考えていたのか、客たる自分のことをどう思っていたのかは知るべくもなく、「お前の主観だろ」みたいな指摘もまったくそのとおりである。ただ、どこかで聞いた「恋とは自分の理想像を相手に投影する一種のナルシシズムの発露」みたいな話を踏まえると、あれは確かに恋といえるのかも知れない、と思ったりはする。「嬢と客」以上の特別な関係を結ぼうと考えたら破綻は必至だろう。幸せな夢は夢だからこそ幸せなのだ。
一方で、この増田がここまで人口に膾炙する(というのもおこがましいが)とはまるで考えていなかったので、もし彼女の目に入ったときに何らかの精神的負担がかかるのではないかと、それだけが心配である。
https://anond.hatelabo.jp/20181003080356
風俗を利用することが気持ち悪いということは認識しております。貴方がそう思われることも仕方のないことでしょう。客の好悪については貴方の内心の問題であり、それについて他人がどうこう指図することはできないと思っています。
ただ、「気持ち悪いと疎外されてきたからこそ、やむなく風俗店に救いを求めざるを得ない」という人も存在します。明日にでもそういった男性があなたのもとを訪れるかも知れない。せめて、彼らが哀しい思いをしなくて済むような仕事をしていただきたいと願っています。差し出がましいようで恐縮ではありますが。
特に人文系において、大学や研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。
* * *
研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。
例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。
このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日の日本においても、同様である。むしろ、人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識したからに他ならないが——に直面している極東の島国の方が、研究生活を取り巻く環境は過酷であるといえるだろう。
博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しかも低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である。
日本より恵まれた研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単である。しかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語、文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国の研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマの選択が制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである。
当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである。
ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学や官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクス、そもそも学歴のなかったピエール・プルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在である。しかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要な研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである。
尤も研究者も所詮人間であるからして、研究そのものの「客観性」や科学の位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。
* * *
さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働(自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである。
収入がないなどもっての外であり、亡命や収監、失踪や放浪なども、家庭生活とは相容れないものである。
歴史を顧みれば、自死や発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。
できれば平穏無事に、昭和時代に理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満で子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。
しかし今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームもマイカーも持たず、年金制度の破綻を前に怯えながら年老いるのである。
もしあなたが結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナーが無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。
さらに子供がいるとすれば、当然あなたは研究生活を放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制と時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれているかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖」である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)
多くの研究者たちにとって、結婚と出産は研究生活の首にかけられた縄である。
女性研究者の研究生活は性別的役割分業的発想や家庭生活に対する支援をパートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別的役割分業的発想や金銭的支援をパートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。
いずれにしろ、他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである。
だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である。穂積陳重以来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するものと定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である。
しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。
その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。
実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである。
当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。
あるいは「家庭」という理想像の崩壊、高齢者二人世帯や単身世帯、シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体が空虚なものになっているという批判があるかもしれない。
しかし反面で、なお結婚と出産を経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚と出産を前提とした私的領域の生活のモデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。
* * *
収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。
では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究者であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。
前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性に人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法を採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。
後者の方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラーが炭水化物の摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活の否定でしかない。
研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学の研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。
そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日の言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである。
家事労働、ワークライフバランス、長時間労働の問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働は時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大である。ワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないから低賃金かつやることのない中途半端な余暇をもたらすだけである。長時間労働を改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである。
とにかく、家庭生活の求めるものを根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである。
* * *
では、解決方法は何か。家庭生活の問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働を女性が支えるという構図が出来上がった。
しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族からの支援で収入の不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。
もし家庭生活に関与してからも研究生活を継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からのリソースが調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分の研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)
ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソースの調達先である。大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達が個人の能力に帰せられることで、研究の能力とは別にそれに取り組む環境が規定されてしまうということである。
この二つの問題を解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。
どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである。
アカデメイアやリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティが形成されていたはずだ。修道院のようなものである。
いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なものは国外へ出て行ってしまっている。もう最後のタイミングである。
いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間的猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に人文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。
最近母によく言われるようになった。大学生活も半分を切って、色々考えることも増えてきて将来はどうしていこうかなんてよく考える。
あんた就職どうするの?水商売でもやる気?今のバイト先でフリーターとかやめてよね。あんたの歳にはもう結婚してたよ。
それって私に言うべき言葉なの?私の将来なんだよね?
両親が共働きで近くに祖父母がいたから食事は土日だけ家で食べる。平日の洗濯物を畳んだりするのは小学校の時から家にいる人の仕事だった。弟はまだ小さかったし、必然的に私がやることになる。中学上がる前から洗濯物を取り込んで、教えてもらった畳み方をその通りにするだけ。
家族の中で私だけが目に見えてわかるくらい大雑把な性格で楽天的だと思われてるから、部活で遅くなって晩ご飯に間に合わないから取り込んで終わりなんてこともよくあった。その度にぐちぐち言われる。そんな中途半端で終わらせるならやらなくていいからとかお前は本当に何にも出来ないんだなとか。
うちの家族はみんな片付けるのが下手なんだけど(これは私以外も気付いてると思う)、お姉さんな私が体操服やワイシャツを綺麗に仕舞うことができなくて分かりやすく怒鳴られ叩かれ一回だけ蹴られたこともある。母がいつもそういう役回りで「お姉ちゃんがしっかりしなきゃ弟が真似するでしょ!何が悪いか言ってごらん!なんで黙るの!」と言われて母の言ってることは違うんじゃないかと言えばすぐに手が返ってくる。そんなこと繰り返させれれば何にも言えなくなるのは当たり前だと思う。2、3回だけ顔を叩こうとした腕を掴んだけどそれで更にヒートアップしたこともあった。母が私の部屋(弟と共同部屋)で私を叱れば頃合いを見計らって父が少し含んだ表情で「今度は何をしたの?」と割り込むのはお決まりの流れだった。私はそれが嫌で嫌でたまらなかった。そんなに気になるなら自分で言ってこいよ。自分たちを棚に上げて、明らかに馬鹿にしたように叱られるのが悲しくてつらくてどうしようもなかった。
母は「私がこう言わないとお父さんはもっとひどく怒られるんだよ」と言ってくるし、おばや祖母もお母さんが「盾になってくれてるんだよ」なんて言われたけど盾になってくれてる人が叩いたり、蹴ったりしてくるのかと思った。私がきちんとしないから怒られるのもわかってるし、自分が一番悪いとも思うからマイナスなことはあまり口に出さないけど、次の日に普通に接するとあんたは本当に反省するとかしないんだねと言われた時は流石に傷付くし、挙句の果てには何にも考えてなくて楽でいいねなんて言われる。
中学2年のとき成績や生活態度みたいなことで怒られた時、父が本気で怒ってバリカンを持ち出して頭に当ててきたことがあった。刃はついてなかったけど機械の音が聞こえて来たときにパニックになって刈られるくらいなら自分で切ってやると思って、耳と肩の間にハサミを入れて自分の髪をきったことがあった。父は私がロングヘアに憧れていたことも知っていたと思う。小さい頃からぶーちゃんとかブタみたいなんて面白半分で言われて男の子みたいな服ばかり選ばされていたわたしからしてみれば、長い髪は女の子として見てもらえるんじゃないか、可愛くなれるんじゃないかとかそういう憧れみたいなもので悔しくて大泣きしたのを覚えている。私の理想像として好きで好きでたまらない人たちは小さい頃に私がなりたかった憧れそのものなんだと20歳過ぎてからようやく気づいた。
高校も同じような感じだった。中学に上がった弟は私が小学校、中学校で出来ていたことよりも下でも許されていた。今もそう。例えば夕飯後の食器の洗い物も女のやること。私に手伝えといっても弟にはやらせない。お姉ちゃんがやれば弟もやるんだよなんてしょっちゅう言われるけどいやいやいやお前ら強制的にもやらせないくせに何言ってるんだよ。弟にも手伝わせようとするといいから早くやってと私に言ってくる。女だから家事をやれたいうんじゃないんだよなんて言うけど弟にも同じようにやらせない時点で女で嫁にいかせるからやらせるんだろ?馬鹿馬鹿しい。家事を出来る範囲でやるのは当然のことだと思うけど、弟の方が余裕ある時でも私がやらなかったのが悪いなんて言われることはざらにある。私が全て悪いのですね、はいはい。
大学は押し切る形で決めた。両親は高卒で働かせようとして最後の最後まで(なんなら未だに)学校に行く意味あるのかなんて言ってくる。母には入学金だけ払って頂いて就職したら返して行くつもり。学費は全部自分で払ってて奨学金も借りてる。毎月決めた金額を祖母に渡して管理してもらってるけど、バイトにあんまり入れない月もあるわけで、学費の納入を送らせてもらうための判子を押してもらうために書類を見せたらこれでもかというくらいに怒られた。どうせ遊んでて少なくしたんでしょとかなんでもっと計画的にバイト入れないのとか色々言われた。一番笑いそうになったのは足りなくてどうしようもなかったらお金貸すからって言われたこと。一ヶ月ほど納入を遅らせることが出来て自分で払えるなら一々馬鹿みたいに怒鳴られるより判子を押してもらった方がまだ精神的に楽だ。貸してあげるからなんて言って怒鳴れるなんて勘弁したい。バイトもそう。大学入ってから24時近くのシフトまで入れるようになればもうちょっと時間を早く出来ないの?とか土日どっちか休んだらなんて言うけど、土日に給料が上がる飲食店勤務のアルバイターにそんなことを言えるなと思う。なんでもっと入らないのとか言われることもたまにあって本当に勘弁してもらいたい。
一番キッツイのは弟が高校に上がってから。家から大学まで1時間以上かかるから弟の方が家にいる時間は長くてそれなりに家事もできる。流石に洗濯物を畳めるようになったし、米を研ぐことも出来るようになった。私も家に帰るのは遅くなったりするから弟が私がやってた役割をするのは必然だと思う。そうすると今度はあんたは何もしてない、何も出来ないになってしまった。
母が遅くなったり自分のものが多ければ洗濯機回して干すこともできるし、家の掃除も一人でしたことも当たり前にある。風呂掃除も米研ぎも私がずっとやってきたことだった。家の家事の大部分をしている母からすればやったことにはならないかもしれないけど、最近そう言われる度に自分の中の何かが崩れそうになる。結婚するときにどうするの?なんて言ってくるけどなんで私が結婚する前提なの?父は料理はするけど他は何もやらない。父の部屋は漫画で埋め尽くされてる。父は私の全てを馬鹿にしたいらしくて何かとつけて馬鹿にしてくる。声優が好きと知れば、あんななのどこがいいの?とか、BLが好きだと知れば、ホモじゃんとか、太ってるからな〜とかお前のその出てる腹をなんとかしてから言ってくれ。父のことは顔を見れば殺意が沸くほど嫌いというわけではない。小学生の頃から好きなアニメの映画がやれば2人で観に行くことはあるし普通に会話もする。けどある瞬間に投げかけられるそれらが嫌で嫌で仕方ない。母、おば、祖母は「お父さんはなによりも貴方を理解してくれてるし、誰よりも貴方の好きなものを理解してる」と言ってくる。私の趣味を理解してくれてるのはわかるけど、それでも嫌な部分はある。小学生のとき、擽りを家族三人がかりくらいでされたことがある。苦しくてやめて欲しくて泣いたけど結局私が胃の中にあった夕飯を全て吐き出そうとするまでは止めてくれなかった。音や接触を過敏に感じてしまうことがあるので何よりも辛かったし、それをコミュニケーションとして使って私に対してつまらないみたいな対応をされたのも凄くショックだった。自分の好きなものを否定されることの辛さを知ってるはずなのにそういうことを平気でしてくる。私が好きなアニメをみてくるとすぐBLか?ホモか?とか言ってくる差別意識とか本当無理。
私が大学生になった今でも4人で出かけることはあるしディズニー行くのも家族で行くのは普通だし、周囲にも仲が良いねなんて言われる。たしかに普通に仲が良い。けどそれぞれ微妙に壁を感じるし、弟が生まれるまで私は両親と過ごす期間があまりなかったから未だに遠慮してるのかも。
大人になっていけばこれって理不尽なことじゃない?なんで私は駄目で弟は許されるのなんて思うことは増えてくし、反抗期なんてなかったような私は高圧的に当たられれば何も言えなくなる人間になってしまった。母に何にも出来ないなんて言われても反論なんてする気が湧かない。そうだよねそんなもんですよね。
母はやたらと大学に通う私を馬鹿にしたがる。レポートが重なることなんて当たり前にあるのにあんたが何もやってなかったんでしょとか言われるし、家にある父のPCは使わせてもらったことがないのでおばに借りてやるしかない。リビングにある荷物も半分は両親のものなのに何冊か置いてある私の本を見れば、溢れかえってるかのような叱り方。大学生の姉と高校生の弟が同室でタンスを半分ずつ使う、二段ベットなんてかなりきつい。私の給料のうち手元には三万くらいしか残られないのに一人暮らししろなんて言ってくる。
大学生のバイトの給料で一人暮らしするなんてだけできついのにそれを出来るでしょなんて言われるとは思いもしなかった。私はあんまり友達と飲んだりしないから趣味に使ったりするだけなのにそれさえ否定されるなんてどう対応すればいいのかな。
母の結婚した年齢は今の私の歳。その私が馬鹿みたいにしか見えないのか。血の繋がりは感じるけどなんでも共有しあえるわけではないし、考えを全て知ることなんて出来ないのに色んなことを言われると気持ちが萎んでしまう。
今さっき母に言われたことがきつくて吐き出せる場所が欲しかった。もし読んでくれてる人がいたら長文読んでくれてありがとう。すこし落ち着いた。
これは自身の思い込みなのかもしれないけど誰か共感して欲しい。
自分が特定のものに対して優位であるべき(はず)だという考えはいくつかあると思う。卑近な例をあげてしまえば「自分は学年一位を取っているはずだ」だとか「自分は良い大学に行くべきだ」だとか「良い車が欲しい」といったことだ。そして、大抵の場合このような考えや理想は現実では叶わない。たとえば、大学に落ちてしまうとかといったことだろう。この時僕たちの気持ちはどん底に落ちるし、あるいは生きた心地がしなくなってしまうだろう。そうやって落ち込んでいると世の中の人様は「そんなに自分(または世の中)に期待しちゃダメだよ」だとか「誇りを捨てろ」だの言うのだ。まるで自分が特定のものに対して優位であるべきという考えや理想は自分が優れているという傲慢さから来ているのだと言いたげのように。
彼らはまるで何もわかっていない。もちろん、自分が特定のものに対して優位であるという理想は傲慢からくることもある。しかしながら、この理想はそれだけではなく自己評価や自己肯定の低さからくることだってあることを理解してほしい。「僕は優れている人間だから良い大学に行くべき」じゃなくて「僕は今までカースト最下位だから、自分のカーストを打ち破るために良い大学に行くべき」と考えている人だって少なからずいると信じている。悪い境遇を受け続け自分を高く評価したり肯定したりすることが出来なくなってしまい、自分が存在する意義がわからなくなる人間がそうであろう。自分が存在する意義や価値を見出すためにどこかで優位性を示さなければならないと考えて自分の理想像を作り上げるのだ。のような人間が理想をかなえられなかった時に「誇りやプライドを捨てろ」だの「自分に期待しちゃダメ」と言ったらもう二度と立ち直れないと思う。なぜなら、その言葉は自分が存在する意義や価値を否定する言葉なのだから。大抵は優しい世界にでもいたのか自分への評価が普通以上の人間が言う慰めにも糞にもならない言葉なんだろうな。普通以上の人が羨ましい。こんなこと言うなら存在意義も価値もない自分を認めて欲しいと強く思うがこの想いすら伝わらないんだろうな。
「私の少年」という漫画作品があって、昨日5月28日に発売されたヤングマガジンに移籍連載が始まったので、買って読んでいる。
元々、私の少年という作品は、双葉社の月刊アクションで月一連載されていたのであるが、第18話を区切りとして講談社のヤングマガジンに移籍した。
18話のリリースが昨年の初冬だったので、約半年ぶりの連載再開となったわけで、私の少年ファンは浮足立っているだよね。
作品のジャンルはオネショタであり、小学生の美少年・真修と30歳のOL・聡子の二人の物語である。
ちなみに、私・元増田の性別は男であり、月刊アクション時代からの私の少年ファンであるが、この作品には私のような男性ファンも多いとのこと。
月刊アクションからヤングマガジンへの移籍については、大人の事情らしいのであまり深くは突っ込まないことにする。
しかし、ヤングマガジン移籍後も月一連載のペースになるので、月刊アクション時代のクオリティは維持されるとのことなので、とりあえず安心した。
申し訳ないが、19話のネタバレはしない。私の少年という物語に興味を持った人は、是非コンビニで買って読んでみてほしい。
しかし、少しだけ。真修と聡子の新しい日常が今後どうなっていくのか、目が離せなくなってしまった(ここまで、ゴメンね)。
私の少年の作品のクオリティも物語も、月刊アクション時代から全く変わっていないことは安堵しているのだが、ここで一つ気になることが出来てしまった。
正直言って、ヤングマガジンの媒体の中では真修のキャラクターは完全に浮いている。
真修は、美少女と見紛うくらいのレベルの美少年の設定のキャラクターであり、女から見た男の理想像を突き詰めた存在が真修だと言えよう。
他方で、ヤングマガジンは青年誌であり、既存の作品内に出てくる男キャラクターは皆、ブ男か粗暴なキャラクターしかいないのである。
昔はアドレナリン出まくってたゲームとかアイドル見ても心が1ミリも動かない。
でも自分と同世代が未だに熱心に追っかけたりしてるのを見ると俺がおかしいのかと思い始める。
アイドルもソシャゲも散々言い尽くされているが単なる札束の殴り合い。
金持ちなら楽しめるの?と思ったが金持ちがソシャゲに熱中してるところって想像できない。
ネットで聞く石油王とかは半信半疑というか10割は自分の理想像の設定をしゃべってるだけで
金持ちになればソシャゲより面白いこと腐るほどあるからソシャゲにコンテンツとしての勝ち目は無い。
もしソシャゲが金持ちに請求力があるコンテンツならもっと世の中のコンテンツはソシャゲだらけになってる。
ソシャゲ人口は多いようでいて、実際は俺みたいに365日一度もソシャゲしないやつなんていくらでもいるだろう。
えー、とにかく惰性以外で、初期に投資しすぎて今さら引けない、他にやることがない、的な理由以外で、
別にアンチというわけじゃなくて脳機能に違いがあるのかとか、心理的精神的な差異について知りたい。
カッコつけたりせずに匿名だからこそ同じことの繰り返しで札束の殴り合いのソシャゲを10年たっても続ける心境を聞かせて欲しい。