「その人を知りたいのならば、その人が何に怒るかを知れ」
そんな言葉を読んだことがある。これは本当に至言だと思うのだ。
なぜならば、怒りという感情はその人が大切に思っているものが傷つけられた時に起こる感情だからだ。
だから、何に対して怒ったかから逆算してその人の大切なものや価値観を知ることができる。
けれどもそれは簡単なことでは無い。そして、逆算できたからといってその怒りが理不尽なものではないことの証明になるわけではない。
また、怒りの発露をコントロールできないことの言い訳にもならない。
例えば、まだ離乳食を食べている様な幼子が食卓を汚すことに怒り狂う母親がいたとして、彼女が大切にしているものは何なのか?それは完璧に子育てをする自分という理想像かも知れないし、穏やかな食卓かも知れない。しかし、それを乱すとして幼子に怒りをぶつけるのは明らかに理不尽であるし、経験を積んでいる大人の側が怒りをコントロールできていないことの言い訳にはならない。
そして、怒りという感情は往々にして怒った本人ですらなぜ怒ったのか自覚していない場合がある。つまり、自分で自分の大切なものがわかっていない場合だ。しかしそんな場合でも怒りを手掛かりに自分を知ることができると思うのだ。
そうして怒りを手掛かりに自分や他人を推し量った結果、その大切なものが非常にちっぽけで惨めなものに見えることもあるだろう。それを馬鹿にするのは容易い。だが、本当にその人のことを知りたくて考えて出た結論なら、そう簡単に馬鹿にはできないだろう。むしろ、ちっぽけで惨めに見えたものを尊重する気持ちが起こることがある。
怒りを読み解くことは相手に敬意を払うことに通じる。
自分が怒るのも、他人の怒りに触れるのも、非常に怖いことだし疲れることだ。
だから怒りはスルーする、そういう身の処し方もあるだろう。自分を守るためにそうした選択をすることを咎めはしないし、実際まともに取り合えないくらい理不尽な怒りもある。
だがもしも自分や他人を理解したいのならば怒りは無視するべきでは無い。それが怖くとも疲れるとも。
そうして怒りと向き合った人間こそ、世界を変えられるだけの湧き上がる力を手に入れられるのだろう。
以下を読んで、そんなことを思った。
でもキモくて金のないおっさんが怒っていてもどうでもいいのでただの迷惑行為として処理するんですよねわかります