はてなキーワード: 標題とは
私の10代は「相葉くんと結婚できないこの人生とは」という苦悩と共にあった。
相葉くんがこんなに好きなのに、今までの彼氏は全員相葉くんより好きになれないというのに、テレビをつければ(当時はマジ売れてなくて深夜番組ばかりだったが)こんなに明るく私に笑いかけてくれるのに。話もできない、ましてや友達にもなれず恋人にもなれないなんて…。と、ものすごく絶望していた。10代最後の2年間はほぼ引きこもりのような生活(認知症が始まったおばあちゃんのヒモ)をしていたけど、その間は嵐のDVDを見すぎてMCのリップシンクができるようになっていた。オタ友がいないので、善意で高等学校卒業程度認定試験の勉強を教えてくれている幼なじみに向かってバーミヤンの喫煙席で嵐のモノマネを疲労し続ける日々。不安感で眠れない夜は、私と相葉くんが恋人同士の次元に思考を飛ばしてなんとか乗り切った。その次元では嵐のメンバーが私と相葉くんのリレーションシップを多大に祝福してくれていた。
そんな日々は専門学校に受かり、私が実際に触れる距離の人物に恋することで終わりを告げる。ちょうど東日本大震災の直後、私は担当が「頑張ろう、ニッポン!」とか言いながら君が代かの如く日本の幻影のような郷里への思いを紅白で歌いあげる(もはや日本中が知っているが相葉くんは歌が下手)ことに耐えられなかったこともあり、自然と相葉くんと私の蜜月は終了を迎えた。
その後、嵐は国民的スターの地位を確固たるものにしていく。本当に「見ない日はない」そんなスターになった。その昔24時間テレビで相葉くんが涙ながらに語った「みんなでトップになろう」の夢は叶ったように見える。
相葉くんは、嵐は、私の水様便かのごとくグズついた脆い10代を完璧に生き延びさせてくれた最高の恩人だ。身の回りで実際に迷惑をかけた親類友人知人と同じくらい感謝している。
活動停止の発表にはびっくりしたけど、それよりひとりも欠けずに20年もやってくれたことへのありがたみがすごい。
長いな。標題の件だ。ジャニーズに所属するタレントが結婚を主とした「個人の選択」のタイミングを事務所にコントロールされたりしてんじゃねーか?ってことは、ファンだけではなく世間の人も感じているだろう(もちろん私はパンピーなので事実は知らない)。
会社にとって所属タレントは人材であり商品だろうか。“商品価値”が下がるようなことはして欲しくないと思うのは、まあイカレポンチの発想だし恐怖だが、そうなんだろう。
だがファンは違うだろう。ファンは、いやファンじゃなくてもだけど、ことさらファンは彼らの人生に口を出してはいけないだろう。誰と結婚するか、いくらの家を買うか、どんな今後を選ぶか、好き勝手言うのはあまりに格好悪いだろう。
その窮屈さが、嵐に活動停止を選ばせたとは思わないのか。その窮屈さは、翻って発言した自分をボコしてくるのではないか。「誰と結婚するか、いくらの家を買うか、どんな今後を選ぶか」。例えばそれは常連のお客様に、営業先の顧客に、口出しされることか?
推し・担当の熱愛が許せない人にオススメなのは、バックストリートボーイズのメンバーが開設しているインスタグラムアカウントをフォローすることだ。もちろん文化圏が違って、ものすごくカップル文化の国の話だからそこはまた事情が違うとは思う。だがしかし、彼らは自分のアカウントに子どもの写真を載せ成長を喜び、パートナーへの感謝を述べ、メンバーとの2ショット写真をポストしてくれる。
もちろんパートナーや子どもの写真を見せろ!と言う話ではない。彼らの歌や言葉で人生が明るくなったり肯定されたのであれば、ファンは「口出さない」と言う方法で彼らの人生にせめて闇を落とさないことができる。嵐に幸あれ。愛してる。
物心ついてから初のうんこ漏らし。なるほどこれは衝撃でかい。みんな増田に書く気持ちがよくわかる。
今日は仕事ででかいイベントがあるから緊張していて、1時間以上早く目が覚めてしまったり昨晩から食欲がなかったりと、体調がいつもと違っていたのは事実。緊張するとお腹が痛くなる体質なのもわかっていた。それで朝からトイレに何度も行って、大体出し切ったかな?という感じになり、顔を洗ってパリッとした服(※当社比)に着替えて、それでもまだ出かける時間には早いのでスマホいじってダラダラしていたらふと下腹部に屁の感じがよぎった。今思えばここで素直にトイレに行っておけばよかったのだが、「屁です」「よし通れ」のコピペまんまの感覚でひってしまった。
ただ恐ろしいことに、事ここに至っても漏らした自覚はなかった。元々肛門が狭い(?)のか、いつも屁をひると音が鳴るしケツに響く感覚もあって、今日もその範囲内だと思った。そのまま数分過ごしてから、念のためもう一度トイレに行っておくかーと動いたら、標題の通りの事案が発生していたという訳である。サイズで言うと親指大ぐらい。パンツ以外に影響はなかった。
幸いにして発生場所が自宅、かつ時間の余裕もあったので、そこからパンツを洗い、せっかくのパリッとした服(※当社比)もなんとなくアレなので全部着替えて、いま通勤電車の中でこの増田を書いている。うん漏の衝撃がでかすぎて緊張も何も吹っ飛んだので、ある意味でそこは良かったのかもしれない。ハイライトの消えた目で落ち着いて臨めそうだ。
今日得た教訓: (1)うんこは全部出し切ったと思ってもまだいる。腹部が不穏な時はとにかくトイレへ。(2)大事な用事がある日は早起きしよう。(3)増田に書くと心が落ち着く。
標題のような愚痴やダンナだけ自分の好きなことをやって、自分は家事・育児に追われている…みたいな内容の愚痴をSNSで良く見かける。
最初のうちは「大変だなぁ」「気の毒だなぁ」と素直に同情していたんだが、あまりにもその手のネタが多いので、「そんなにイヤなら早く別れれば良いじゃん」と思うようになってきた。
せめて子どもを作ってしまう前に相手がそういう男だということに気付かないんだろうか。専業主婦とかパートとかで、ダンナの収入がないと生きていけないのだろうか。
少なくとも夫がATMとしては機能していて、その収入がないと貧困に陥る状況ならば、「ダンナを根気強く教育して自分の思い通りに動くようにする」か「自分が我慢して家事も育児も全部やる」の二択ではないのか。
「そんな男を選んだお前が悪い」「それなりに稼げる仕事をしていればいつでもダンナと別れられるだろう」と思う私は間違っているのだろうか。私も昔結婚していたけど、男女平等に給料のもらえるところで働いていて、ダンナがいると家事や義理実家との付き合いなど面倒が増えるだけなので別れた。
まぁSNSだけのつながりの人なので愚痴を見たくなければ相手の投稿を見ないようにすればすむ話なんだけど、自分の選択の誤りをさも「全部夫が悪い」かのように書く女もいかがなものかと思う。
最近ガチのマジの新生児が性癖という増田が居たが、それに比べると自分は割とノーマルなのかもしれないなと思う。
自分は、標題の通りの女の見た目をしている女にしか惹かれない。ストライクゾーンがすごく狭いのだ(ただし年齢はぜんぜん気にしていなくて、10歳上とかもお付き合いしたことがある)。
微妙に当てはまる人はいても、完璧に当てはまる人というのは中々居ない。付き合い始めたころは当てはまっていたけど、だんだん垢抜けだして地味じゃなくなったりコンタクトにしだしたり髪を切って染めたりして当てはまらなくなるというケースもある。
眼鏡フェチには有名な「屈折リーベ」という漫画がある。この漫画の中で、異常な眼鏡っ子好きの男が出てくる。奴は眼鏡っ子の彼女がいるが、彼女が眼鏡をかけていなくても愛せるのか?という問題に直面し苦悩する。
自分には無理だった。
何かよく分からないのだが、この外見を備えている女の人は、なぜか皆優しくて気が弱くてオドオドしていて、可愛い声をしていて(でも小さいので何言ってるかわからないこともある)、ちょっと抜けてて、読書好きという特徴を備えている。つまり中身も素敵な人々なのだが、やっぱり見た目が変わってしまうと興味が失われていってしまう。我ながら最低だと思う。
赤ちゃんの増田のブコメで、その個別の赤ちゃんの人格とかを無視して、ただ性欲のみがある、尊重してない、みたいなことが書いてあったけど、まさにそれで、ものすごく突き刺さった。
どうしたらいいんだろうな。
まじで。
9月に子どもが生まれました。めちゃくちゃ可愛いです。日に日に馬鹿みたいに大きくなっていきます。幸せです。
それはそれとして子持ち既婚者ってどこでシコればいいんでしょうか。
子どもが生まれる前は、夫婦共働きだし妻が不在にすることも多々あったのでそこそこシコれていました。
出産前後の数ヶ月は里帰りしていたのでそれはもうシコリ放題でした。
でも今無理じゃん。常に妻は家にいるし、たまに妻が外出するときは息子いるし。
セックスレスなわけじゃないんですよ。出産して頻度は減ったにしてもそこそこ夫婦の性生活は円満なんです。
古来から5億回くらい言われている事今からもう一回言いますけどセックスとオナニーって別物じゃないですか。
私は妻も抱きたいけど霧島さくらで浜崎真緒で吉永あかねでシコりたいんですよ。
それで標題に戻るんですが子持ち既婚者ってどこでシコるんですか?
考えてみれば自分の父親がシコっているとこ見た事ないし、父の背中から学べないこともあるんですね。
夜にトイレで?21世紀ぞ。なんでこの21世紀にトイレに夜中コソコソ起きてシコらないといけないんですか。てか妻眠り浅いから夜中にトイレいったら起こしちゃうし。
夜、妻が寝るまで待って?言ってなかったですけど私がっつり時間かけるタイプなんです。下手すりゃ2時間とかかけたいんですよ。いつ起きるかも分からん妻の隣部屋で2時間陰部を摩擦する?
そりゃよござんすね。実現不可能ということに目を瞑れば。
近くで猥談を声高にされていやでも耳に入ってくる、ストリーキングなどで卑猥な恰好の人間が目に入る、店でエッチな作品が陳列されているのが目に入る、ネットでエッチな広告が表示される、テレビでエッチな描写が流れる、映画でエッチな描写が流れる、
うーん。正直「目にしただけで嫌な気持ちになる」ってどうなんかな。
映画でエッチな描写については、それはそれを選んだ人の問題だし……あなた一人のために全員が見たかったシーンを取り除くってのも違うでしょ。
ストリーキング…全裸で走り回るパフォーマンス?とか見たこと無いんだけど何それ……それは犯罪で捕まると思う。
ネット広告もエッチな作品も避けれる問題だろ。大体場所は決まってるし、広告ブロック使えば避けれるでしょ。
標題のとおり、「駅で肩が軽くぶつかっただけで訴えてやる!」って言う当たり屋みたいだ。
自らぶつかりにいったのに声高に訴えてやる!って叫びまわってるような感じ。
社会生活のストレス(自身の離婚、家族の病気、上司との相性)から心療内科に通っていた。その後3ヶ月職場離脱後復帰した。
その間、薬の取捨選択をした。残ったのが標題のソラナックス0.4mg錠だった。
具体的な効能としては気分が落ち込んだ時に飲むと数時間後には普通に戻り、約半日効果がある。職場復帰後は冬の月曜日に向けて日曜の夜に服していた。寒い朝&月曜日が気落ちがするからだ。
職場復帰後は、毎日ではなく、気落ちしそう・やばそうな日の前日に飲む程度だったので、2週間分を半年で消費する感じだった。(個人的には中毒性は無かった)
ここ1年で2泊3日(または3泊4日)の出張(仮に複数日出張と呼ぶ)が3回あった。御年アラフィフ、疲れが溜まる(出張では飲むというのもある)。複数日出張の後は疲れがどっと出て、いつも出張報告の後に休むことが多かった(薬使用せず)。
今回土日月の出張で、金土は飲んだ、日曜の夜は疲れていて飲めなかった。月曜朝も疲れはとれず、薬を飲んだ。すると1時間ほどで疲労感は消え、月曜は乗り切った。火水曜日は薬を飲まずに乗り切ったが木曜日の午後から疲れがどっと出た、もう薬は効かなかった。
覚醒剤とは「疲労・睡眠を忘れて仕事ができる薬」と聞いたことがある。当然、薬が切れれば廃人のように疲労感が襲うこととなるとのこと。
かなり似た状況(疲労をおして気分を高揚させた)を体験できたのではないかと感じている。もちろん今後覚醒剤を摂取したいとはこれっぽっちも感じない。
話題になっていた標題の記事を読みました。いろいろと考えました。
内容そのもののこともそうだけど、訳がやっぱこなれていないのなかなぁと。
たとえば、私だったら、下の本文の原案の訳は、次のように考えます。
”The capital-T Truth is about life before death. It is about making it to thirty, or maybe fifty, without wanting to shoot yourself in the head. It is about simple awareness-awareness of what is so real and essential, so hidden in plain sight all around us, that we have to keep reminding ourselves, over and over: "This is water, this is water."
真実、といっても、普通の真実じゃなくて、カッコづきにしたいくらい別格の『真実』ですね。
その『真実』とは、死を迎える前の「生」、つまり皆さんが生きている日々のことです。
自死、つまり自殺などしたいと思わず、30歳、人によっては50歳くらいまで、何とか生きていくこと。
何が本当にリアルで、大切なのか、私たちの視野に入っていて、そのままの中に溶け込んでいるいることに対して。
そして、私たちが何度も、何度も、自分自身に対して注意を向けなければならないことなのです。
まるで、水のように。
魚にとっての、水のように。と。
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・”Tを大文字にした真実”は、つまり”平たい真実ではない”ってことと解釈。
・make it to 30 or maybe 50を読んだとき「生き延びる」に近いニュアンスに感じたのと、この場合のmaybeは、「場合によっては」のニュアンスかなと。
・アメリカとかだと銃が蔓延しているので、shoot oneself in headはなじみ深いけど、字義通り訳すと日本のスピーチではあんまなさそう。と思って、平たい自殺に。
・It is about~から始まる、重要だけど、やや長いところは、文法的にがちがちに解釈せず、あえて切り分けた。
これは文字として読ませた文章ではない。なので、あるメッセージを連続してつなげてお話しているイメージでとらえたので、
むしろ一つ一つが独立した区切りで実際はスピーチしてそうだな、と考えた結果。
・awareness-awarenessの訳に「意識高い」って言葉を使うのは結構悩んだけど、「意識をもつ」という平たい表現で「意識して意識をもつ」とすると
日本で「意識高い系」なんて言葉が生まれたのが良くないねーなどと考えましたが、そこに翻訳に際して文化的側面が影響を与える興味深い事象などと思ったり。
・hiddenの訳を最初「潜む」って訳しましたが、「見えてるけど実は意識しないと見えないもの」だとしたら「溶け込む」っていう表現ありかな、などと。
・This is water。この訳は、いろいろとできそうですね。私が文面から感じたニュアンスは、訳のとおり。
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別に翻訳家でもないけど、言語表現についてはいろんな局面で考えることがあって。
「これは水です」の中身はとってもしみじみと感じ入ることができたわけですが、
https://anond.hatelabo.jp/20180808075938
要は、器楽部に演奏実態ができる様に適切に演奏者を追加してくれということである。現状器楽部は殆ど何も合奏できないし存在意義が謎だ。
この3つは最低限の合奏をやるために少なくとも必要な楽器である
最低限の合奏をやるためには同じ楽器を演奏する複数の奏者の存在が不可欠だ
そして彼らは特別な絆で結ばれる。いわゆる「パート」というやつだ。この尊い関係に感じるものはないのか?
楽器の違いでキャラに個性をもたせようしているなら今すぐやめてくれ
そんなにそうしたいならカズーでも吹かせておけばいいだろう。楽器とはびっくりどっきりメカではないのだ
人類初のワグナーチューバ専に関係する話である。要は彼女をホルン奏者にすればいいのだ
ホルン奏者だが、ふと聞いたワグナーチューバの音色に取り憑かれ…そういう形でマイナー楽器を愛するようになった奏者は沢山いるだろう
普段はメイン楽器吹いて食っているが、チャンスさえあれば本当に自分が愛する楽器を皆に聴いて欲しい…
ピアノ調律師、実に素晴らしい夢ではないか。そしてピアノは万能の楽器である
なぜここを明らかにしてプッシュしていかないのか真剣に謎である
実はここにはさして文句はない。それは創作者の選択の問題であり、それは創作者の自由である
ただ、一つ言うことがあるとすれば「絶対音楽」という言葉を知ってほしいぐらいかな
まあコレ自体がクラシックの気難しさを象徴するような語だがこれは「歌詞を持たない音楽の中で
物語その他文学的な何ものか(標題)を音楽で表現しようとする音楽でなく、音楽そのものを表現しようとするような音楽」のことである
要は「音楽の音楽による音楽のための音楽」である。多くのクラシック曲がこれに分類される
つまり相当数のクラシック曲には「メッセージ性」というものがないのだ
「成熟しておらず、大人の男には一切勝つことが出来ない」ことが考えられる。
力任せに何かをさせること、虐待されること、性的暴力されることを防ぐために罰則がついてまわる。
中学生の時に、中学生と性行為したところで事件になった話は無いだろ?まぁ、貞操観念低すぎるとは思うけどな。
実際「女の子が不安になり親とかに相談した」とかそういう事だろ?
外野がギャーギャー言って通報されて逮捕されたっていう話はあまり聞いた事が無いが
強姦その他、意思が無かったのに性行為するほか無かった。怖かった。というパターンだってあるわけだ。
権利を認めろ!と騒ぐだけで何も対策案が無い上、ロリコンでもないのに「かわいそうだから」とかいってロリコン代表する
お前みたいな奴が一番のクズだと思う。
忙しい方向けに結論を先出しすると、
・「『正しい前提』でないと、いくらそこからの説明がロジカルでも誤った結論しかでないのが上手くいかない原因」
・人間は論理の誤りを検出するのは得意だが、自分の見てきたものでしか世界を把握できないために前提の正しさの検証が苦手
・場合によっては、論理的整合性を保つために現実にバイアスをかけたり自分に嘘をついたりして前提をでっちあげてしまうこともある。
・いくらロジカルで筋がよくても、なんかもやっとするときは前提を疑おうね。
という話です。
数学や論理学をベースとした理論では論理的であれば必ず正しくなります。そこで、世間では理論に限らず様々な場所で論理性を活用して物事を上手く回しているように見受けられます。
しかしながら私は、とりわけBtoCの現場では論理的であるからといって必ずしもうまくいくわけではないことに気付きました。そして何かを考えたり作ったりする上でロジックに全幅の信頼を置くのをやめました。
最初はこの気づきを上手く言語化出来ず、ロジックを信奉している方々になぜそうなのか説明してもなかなかうなずいてもらえなかったのですが
この度何故自分がそう考えるかの「ロジカルな」説明がおおよそ形になりました。
(尚、ここで言うロジカルとは、AでA⇒BならBだよねとかAでBだからA∧Bは真だよねなど、何かしらの真なる前提の元にそこから言えることを組み立てるという方法論をさします)
理論では、究極的な大元になる前提(公理)が存在し、それを前提に論理を組み立てることで様々なことを言っていきます。
要するに「前提が正しい、論理が正しい、だからそこから言えることは正しい」なわけです。
逆にいえば、論理が正しくとも前提が誤っていればその結果は誤りうるわけで、標題の主張の根本はここにあります。
現実で何か提案や問題解決を行う際にも、何か前提があり、そこに論理を入れることで、結論を出すわけですが、ここで正しい前提を設定しないといくら論理の筋がよくても結論が誤ったものになります。
では正しい前提とは何でしょうか。多くの場合、主張する当人が正しいと思い、その場で意思決定をする人間がそれを否定することが出来ないことが正しい前提として扱われるのではないでしょうか。
論理学や数学における公理のようにそれ自体が地球上の何億人という人間によって否定できないならまだしも、実際の現場ではたかだか数人が否定出来ないことによってそれが正しいように扱われます。
言ってしまえば、その場で意思決定する人間全員が否定できなければいくら誤った前提でも通ってしまうのです。
じゃあもっと広い人にその前提を検証するためにユーザーテストや市場調査を十分に行えば問題ないかと言えばそういうわけでもありません。現実問題として潜在的なユーザー全員を調査することは困難でありますし、例え全員を調査できたからといっても、調査した人それぞれが自分の感覚を正直に言葉にできるわけではありません。時には真逆のことを言ってしまうこともあります。
そういった制約のなかで、本当にその前提が正しいのかを検証することは困難です。説明が論理的かどうかは多少勉強をすればわかりますし論理的でないことを捉えるのも簡単ですが、自分が立った前提が正しいかどうかは「少なくとも自分の世界や調べた範囲では当てはまらないものがない」ということでしか検証できないため、広い世界で本当に現実に即しているかを把握することは非常に困難になります。
また、これは仕事で成果を出さなければならないという状況下で顕著ですが、筋が通っていなければ提案が否定されるということを理解している人が、筋の通った説明をするために自分にバイアスをかけて真実を歪める場合があります。たちが悪いのが、成果を出すこと=意見を通すこととなってしまった場合に自分自身そのバイアスに本当に気づかない、または気づかないフリをすることがあるのです。
要するに、前提が間違ってていいならロジカルであることなんて簡単で何にでもロジックをつけてしまえるということでして、本当に難しいのは正しい前提を見つけることなんです。
だからこそ、本当に成功したいのであれば他人の「ロジカルな」説明を聞いて「ロジカルだから大丈夫だろう」などと考えてはいけません。貴方が話を聞いて正しそうに感じるけど何か引っかかるのであれば、それはおそらくこねくり回された理屈の都合の悪い部分が前提に隠されているのを感覚で感じているからです。前提を疑いましょう。きっとなにか隙があります。
標題のとおり。
私は寝ているときに最強らしい。
布団をグルグル巻きながら奪い取る技。
ちなみに、奪い取った布団はかけずに抱き枕にする模様
また、奪い取った記憶は一切無い
痛みを忘れる技。
寝ている間の全ての痛みを無効化し
寝ることにのみ集中することができる。
ただし、痛すぎた場合は後日アザになる模様
ある意味すっきり起きれるスゴイ技。
みんなはどんな技持ちかな~
先輩の寝技追記
そして、そうなったらもう寝れないんだとか。
ある意味強い。
標題のエントリの文法があやしいということで前半だけ読んでみた。
難解な文章だったため、自分の中で文章を書き換えながら読む必要があった。
今、「UI/UX」の議論が盛んである。これまではUI/UXの表面的な手法について議論されることが多かったが、今ではUI/UXの本質的な部分に関する議論が多くなっている。
しかしながら、IT業界においては議論の対象がアプリ・WEBに限定されており、狭義のUI/UXに関する議論になっている。UI/UXの本質的な部分に関する議論をしないと問題を解決することはできない。
→「問題」というのが何のことを指しているのかわからなかった。
マツモトキヨシのロゴデザインをしたデザイナーの小谷中さんと、地元千葉で一緒に仕事をしたときに、施設のパンフレットのデザインを見せた。そのときに言われた「現場に言ってみた?」という一言が今でも忘れられない。
デザイナーの小谷中さんはマツモトキヨシのハウスデザイナーとして1951年にロゴ制作などをしていたが、当時、「UX」という言葉はなかった。
「パンフレットがどのように並び、どう見えるのか」「パンフレットが来訪者の目に止まり、手にとってもらうにはどのような表紙デザインが良いのか」といったことを、実際にパンフレットが並ぶ場所に行って考えることが大切だ。
米国の有名なデザインコンサルタント会社「IDEO」は、顧客からの「地下鉄の駅にある自動販売機の売上をアップしてほしい」という依頼に対して、「自動販売機の上に時計を置く」ことを提案した。この提案によって、顧客の問題を解決した。
ここまで読んで疲れたため読むのをやめた。以上。