はてなキーワード: 教養主義とは
http://anond.hatelabo.jp/20140325193023
面白い釣り記事でした。追記された部分もブクマカーへの釣り針がたくさん。
でも、記事の拡散が済んだあとの追記だから、気付かれていないようです。
そこで、ここに引用して、もう一度ブクマカーを召喚してみましょう。
あとせっかくなので、ブックマーカーやブロガーへの僕の雑感も書きます。
(増田からのidコールは届かないみたいだし、うまく召喚できるかなー?)
もう目も当てられないつまらなさだ。
03/27 ブコメに返信
raf00
上手いことを言いたい欲だけでできているブコメは見てて気まずい。
meme-o
マーク・雑感バーグ
raf00と同じ。
cider_kondo
自分は店長のコンビニ話はそんなに面白いと思ってなかった。雑感や感想の方が面白かった。
こういう人がやっぱりいる。cider_kondoはあまり本を読まないだろ?
高名なプロが書いた小説でも、実体験ベースの文章って、それと分かることが多いよ。
ドヤ顔で浅いこと言ってんじゃねえぞ。
feita
”もちろん誰が何を書いてもいいんだよ”/なるほど、じゃあ「個人ブログに変な制約を求めるな」
コメント後乗せでお馴染みのfeita。
一番本質的なことだけを言えるように訓練したほうがいい。
B、上から目線での幼稚な主張
ブーメランは、文章単位でのツッコミを入れやすいので、良い釣り餌です。
上から目線で主張が幼稚、は特に「はてな」でのツッコミ獲得に向いた釣り餌です。
また、ファン・アンチが多いヒトへの未熟な認識を披露するのも、良い釣り餌。
ミクロに(個人的に)問題解決したいなら、
マクロに(抜本的に)問題解決したいなら、
アルゴリズムを批判し改善案を提出すれば良い。又はフィルタを自作して公開すれば良い。
言い換えると。
他人をすぐには変えらないから。でも自分とアルゴリズムはすぐに変えられる。
…というのが大人の考え方で、その逆をいくと釣り餌になります。
←文章力あるとの評価が高く、ファンが多かったヒト(後述)
②「id:raf00は上手いこと言いたい欲だけ」という断定。
←ポジコメ率が高いことや穏やかな語尾からも、上手いこと言いたい派でないことが明らか。
←後乗せイメージない。その日でもスラッシュあるコメは20%未満。
更に元増田へのブコメは、後乗せでなく引用部と順序入替の明確化が目的のスラッシュでは?
あと、神経質というより対人距離について繊細、と言う方が適切。大喜利職人は概して繊細。
④「id:cider_kondoは本読まないだろ?」という煽り。
⑤id:meme-oさんへの、「raf00と同じ」という断定。
←meme-oさんはコメ率が低く、タグのみの無言ブクマや引用のみが多いウォッチャー。
raf00さんと全く違う。
そして素直に言う分の言葉のアクをとるために、語尾で柔らかくしているバランス派。
一方のmeme-oさんは一拍置いたコメントするヒト。タグの顔文字「#|ω・)……」が象徴。
コメントも、「まぁ」「~かな」「…」が多い。皮肉コメを付けるのはよっぽどのとき。
⑤id:jt_noSkeさんへの、「あの駄洒落ブコメの奴はつまらなくて邪魔だな」という八つ当たり
←ノスケさんが喋った事件を参照。http://jtnoske.hateblo.jp/entry/2013/11/23/230829
『ノスケ師匠のブクマはダジャレ抜きにしてもそのチョイスそれ自体で非常に価値が高いって』
長文であること・身の回りの話もすること、くらいしか共通点ないです。
まずコンビニ店長さんは、オタク趣味ネタと教養人への憧憬が「はてなウケ」の源泉。
加えて、仕事や嫁への誠実さを表すエピソードや表現が人柄評価につながり、「一般ウケ」もある。(勿論はてなウケも上昇)
それらをバランス良く配合しながら複眼的な思考を順序よく見せる文体が、
このコンビニ店長に最も近いのはズイショさん。id:zuiji_zuisho
嫁エピソードによる人柄評価と、一文が長くなるかわりに両論を見せることでバランスを重視する、ってところは近似。
けど、ウケのメインウェポンは「比喩」と「反転」と「反復」。それで明確に笑いを狙ってるというのも大きな違い。
面白全開爆発。痔の話の記事。 http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2013/03/13/000000
リズム重視の文体実験の記事。 http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2013/09/07/214055
id:Rlee1984は、日常話にも棒グラフなどの図を入れ込もうとするところと、ネタの一切ないつまらない話が多いところがコンビニ店長と違う。
つまり、ウケの比率で言えば「ズイショーコンビニ店長ーコウモリ」の順。
あと、グラフ以外でも造語や専門用語による抽象概念を振り回すことが多いから、「日常」区分からは最も遠い。
日常話にもグラフを捻じ込む記事。http://rlee1984.hatenablog.com/entry/2014/03/12/021134
専門用語をイジって振り回す記事。http://rlee1984.hatenablog.com/entry/2014/02/22/224720
ごめんなさい、分かりません。(ブコメで誰かが説明してくれるのを期待)
なお、増田で「得体が知れない・感情がない」的な言及されることのあるid:topisyuさんは、
(これ前も言ったし浸透してきたと思うんだけど、まだまだ普及させたい!)
ブログでは真顔でジョーク言うヒトで、真顔でブチ切れするヒト。
でもリアルだと感情の動きも明確。エピソード記事を見るとハッキリ分かります。
・トピシュさんブチ切れ、の話。『こっちは完全にスイッチが入ってしまいました。』
http://topisyu.hatenablog.com/entry/2013/08/23/190331
・トピシュさんの感謝と謝罪、の話。『いつもありがとうございます。見えてないことも多くてごめんなさい。』
http://topisyu.hatenablog.com/entry/2013/09/03/132807
・トピシュさんの涙、あれがデネブアルタイルベガ。『惚気た上で、その動画を見て二人で涙したりもします』
http://topisyu.hatenablog.com/entry/2013/10/31/014134
ヒトに対して、「このヒトどんなヒトかなー?」って判断するのは難しくて楽しい。
だから、ホテントリに上がった記事だけで他人を決めつけて無闇にdisるんじゃなくて、
ドラクエのような一本道のゲームがつまらない、という話に違和感があるのは、見出しに書いた理由からだ。
RPGの物語が一本道だったとしても、楽しむことができるのは確かだ。
キャラクターに自己投影したり、映画を見るように筋書きに没頭したり。
ただ、それはあくまでも、子供のころに楽しかったという思い出の中の話である。
ゲームとして、それがどれだけよくできている話だったとしても、
「物語」という、有史以来続く土俵の上で戦うには分が悪すぎる。
だから、考え方の温度差ができる。
ゲームのファン、アニメのファンが、好きなゲーム、好きなアニメを語るいっぽうで、
そうすると結局、子供のころは楽しかったけれど、大人になるとちょっと……となる。
「ライトオタクと本来のオタク」や、「漫画を書きたいなら漫画だけ読んでいてはダメだ」という話にも繋がるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20130825164553
http://anond.hatelabo.jp/20110824143747
コレ読んで書きたくなったので。
・ベンチャーは大抵、創業初期~中期に「安い人材を育てよう」⇒「無理だコレ!」の流れを確実に経験してるので
学歴に関しては経験則として「能力とおおよそ比例する」という感覚を強固に持ってることが多いです。
あと、ベンチャー経営者は大抵「学生ノリ」を強烈に引きずっているので、母校の学生を好むことが多い。
低学歴の場合、突出した何かを持ってない限り面接もしない。してるヒマがないから。
ある意味、成功しているベンチャーの間口は大手より狭い。これは儲かってる中小企業にも言えることだと思う。
学生が入りたいと思うようなベンチャーは、意外に入社難度高め。っつーか、正直こんなとこ新卒で受けなくていい
とりあえず大手行っとけと、僕はベンチャーの中の人として本気で思います。
[失点の無い人なんかどうせこない。一芸あるキチガイ求む]
・ベンチャー勤務なんて、どうせどっかしらおかしい人しか勤まりません。
つーか、マジでやばい経理関係や金繰り系の事務ワークは大体創業メンバーの誰かがやるので、
新人に求めるのはリアルな意味で即戦力。戦場で言うと「おら、そこにAKあるから敵兵撃って来い」って感じでリリースするのが基本。
大企業のように大規模戦列を組んで号令で撃ったりとかしない。自分のやり方で勝手にやれスタイル。
そういうわけで、新人は大体「一芸あるキチガイ」しか入りません。尚、一芸のないキチガイはすぐ撃たれて死ぬ。
ただし、この場合の「コネ」とは利益に直結するものを指します。
[単身世帯かどうかそもそも興味がない]
・そんなとこ見てる余裕ないのでどうでもいいです。ムリなら辞めてください。
え、仕事が合わない?キツ過ぎる?ああ、辞職届のフォーマット今から作るわ。前の担当者が作ったのどっかにあるかもしれないから
ちょっと探しといて。
[意外と顔とかどうでもいい]
・利益出せれば人外でもいいです。
利益の出し方も別に問いません。顔とか気にする余裕はないです。
・育児とか結婚とかそういうものって会社と何か関係あるんでしょうか?
・ベンチャー企業は大体「コレやりたいけどこの技能の不足がボトルネックだよなー…」
ってのを一個か二個抱えてます。それを解消する技能を持つ人間が来た時、
採用担当者は冗談抜きであなたを捕獲にかかります。採用じゃないです、捕獲です。
・というのも、ベンチャーは「利益が出るかそもそも全くわからない」プロジェクトに
カラ手で挑まなきゃいけない局面が多く、外注はたとえ安くても使えないことが割とあります。
試行錯誤する段階で外注使ってると幾らカネがあっても足りないので。
尚、当社では売買不動産系の技能持ちとフラマン語に堪能な新社員を超激しく募集してます。
採用の暁には、速攻肩書きつけて新プロジェクトのリーダーとしてぶちこみますので、興味のある方は是非。
・ベンチャー企業における「人事」とは、プロジェクトをたくらんでるけど人材が不足してる部署の長、という意味です。
採用は大体各部署の長が「こんなん入れたいんだけどどーよ?」って感じで決まります。
人事の専門家とか置く余裕ねーよ。つーか、人事って専門職域なのかそれってレベル。
[社交性はやっぱそれなりに重要]
というのも、ベンチャーにおける給与と裁量というのはおおよそのところ、「オラ、クビに出来るもんならクビにしてみろ、俺がいなくて仕事出来るのかアアン?」と
「クビにしてやんぞオラ、黙って働けクソカスが」の間の綱引きで決まります。
この資本主義社会を具現化したような交渉が出来ない人はそもそもベンチャーに向きません。
・技能と能力を持ってても、これが出来ないと使い潰されます。というか、使い潰します。
それを悪いことだと思う感性は、遥か昔に捨てました。
・我が社は割と教養主義なところがあります。メンバーほぼ院卒ですし。
ベンチャーって割とイデオロギーで回ってるところがあるので、主義主張や思想的背景が一致すると、
割と愉快に仕事が出来ることが多いです。というか、大手企業と違ってコミュニケーションにかけるコストがそもそもないので、
意思疎通をテンポ良く進めるためには、ある程度の教養が求められてしまう気がしています。
尖った思想を持ってる人は結構歓迎されます。我が社自体も尖ったイデオロギーで前進している組織なので、
それに共感するかはどうでもいいですが、理解はして欲しいと思います。
なにより、大手と違って教育のテンプレートが存在しないので、自己教育が出来る人でないと厳しいかと。
そういう意味で、本を読まない人ってのは多分ムリな気がします。ぶっ飛んだ一芸があれば別かもしれませんが。
・情報のインプットが早く、脳の体力があるって意味で野良博士はわりと採用したい人です。
フラマン語出来る人いませんかね?しつこいようですが。
・激しくどうでもいいです。
でも、自分の専門分野と大好きな領域を他人に楽しく話すスキルはあるととても素敵です。
オタクな専門知識を利益に換えるスキルって、そういうところから始まる気がしています。
[尊敬する人=親、でも問題ない]
・問題ないです。そもそも聞かないですけど、こんなこと。
あ、でも今もしこれを尋ねられたとしたら「流行モノ」は避けた方がいい気がします。
今だと「ジョブズ」はやめた方がいい。もちろん、ジョブズは尊敬すべき人だと思いますし、スゲーと思いますが。
それ言っちゃうとやっぱり「あー…この子夢観ちゃってんなぁ…」って思われます。
つーか、この答えで喜んで採用するベンチャーは若者の夢を喰って太るタイプの外道ですので、内定辞退しとけ。
ふわふわした夢を見てるタイプの人は、理想と現実のギャップでサドンデスする可能性が高いので、割と採用を躊躇います。
まぁ、必要な技能を持ってる場合は気にせず入れますけど。「育成枠」みたいな感じで採用するなら極力避けます。
もし、ベンチャーに特殊技能をウリにする以外で入社するなら、「現実の厳しさには強い方です」アピールが効果的。
でも、そんなことしてまで入る必要はないです。大手行ってください。
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以上。今、「ベンチャーに行きたい」と考えている学生さんにとって何かの足しになれば幸いです。
正直なところ僕は、ベンチャーは新卒の学生が行く価値のあるものだとは思ってません。
しかし、世の中には新卒の学生を使い潰そうと手ぐすね引いているベンチャーが多々あることも事実です。
もちろん、あなたがスタンドアローンで利益を出せる存在であり、かつ給与交渉、要するに自分の存在価値を企業に見せつけ、
経営者と利害関係の綱引きを出来るほどのツワモノであるなら新卒で入っても問題ありません。
しかし、そうでないなら「とにかく大手!」は新卒の思考として限りなく最適解に近いと僕は思っています。
大手からベンチャーに渡るのはカンタンです。しかし、その逆は限りなく不可能に近い。
あなたがベンチャーで一旗あげたいと思っているのであれば、大手の持っている教育システムを食い逃げして
ベンチャーに飛び移るのがお得だと思います。つーか、ベンチャーで勝ち残るのって大体そういう人です。
基本的に、大手に入社する能力のない人は大体(余程尖った一芸が無い限り)ベンチャーでも生き残れません。
大手さんの育成システムは皆かなりのレベルで、そこで落ちこぼれた人も多分ベンチャーは無理です。
つまり、仕事は出来るけどなんかもうアレがアレで大組織の中で生きるのは不可能に近い、そんな人が
最後の駆け込み寺としてベンチャーに来るべきだと僕は思ってます。
一応、最後に「ベンチャー」ってものをちょっと擁護しておくと、大きな組織には全く合わないけど、
ベンチャーの水は最高に合った!って人も結構います。僕もそのパターンです。
そういう人は、大企業の中で緩慢に死んでいくよりベンチャーに飛び移った方がいいと思ってます。
そして、そんな人を僕は今日も探してます。組織の中での自分の未来に見切りがつき、どうせダメでもせいぜい死ぬだけだと思い切れたらその日が転職時。
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ツイッターでwww11bigorjpkkkさんが反応してて若干感動しながらワロタ。
僕、大学生の時あなたのHP読んでアウシュビッツ社で笑ってましたよ。
未だに僕が書く文章と労働への感覚にはあなたの影響がものすごく強いです。
今はアウシュビッツ社で働いてます。いや、ITじゃないっすけど。
さーて、仕事がんばろう。
総じて生き物としての気迫というか、熱意というか、イキイキギラギラした感じというか
「成功」「感動」「仲間」「夢」あたりのお約束ワードがちりばめられ、
顔をクシャクシャにした笑顔のポスドク・院生の画像と、自信に満ちあふれた教授の画像。
(勿論、立って腕組みor座って机に肘をついて両手を前にのポーズ)
予想通りだった。流行なんだろう。
話をしていると、色々なタイプが居た(当然だが)。
昔はやんちゃしてましたタイプ、アメリカで修行をして独立したタイプ、
学生時代はダラダラしてたけど○○に出会って生まれ変わりました!タイプ。
この最後のタイプが表題の「自称モンキー・D・ルフィ」の教授達だ。
○○は大きく分けて二通り。本と人物。しかし結局は同じ事だ。
「ビッグラボにした人を知って、俺もそうなりたいと思った」という事。
おそらく自分の学生に対しても「CNSを目標にするな」と言ってるのだろう。
しかし、「マザーテレサの本を読んで教授をめざした」って人は居ない。
一人残らず全員が、「CNSを連発して成長させた人」に感化されている。
その時点で「CNSが欲しい」って欲を刺激されたのは間違いないのだ。
この教授達を刺激した本・人物が問題で、口では「CNSでは幸せになれない」などと言うし、書いてある。
教授達も「そうだ、CNSじゃないんだ」と心から信じ切っている。アホだから。
そして部下にも「CNSを夢にするな」と説いているはずだ。
それでいて、自分の目標を達成する意欲は揺るがないので「CNSを出せ」と口を酸っぱくする。
「CNSじゃないんでしょ?」と聞けば「ラボを続けるのに必要でしょ」と言い、
「CNSを目標にした方がシンプルじゃん」と聞けば「感動とか、幸せを共有する仲間を増やしたいだけだ」と言う。
挙げ句の果てに、「こいつ勉強してないな」「考えが浅い」「意識のステージが低い」という視線を向けて来る。
埒が明かないとはこの事だと思いながら、この理不尽さはどこかで見た事が有ると思っていたら
いた。
ジャンプの人気漫画「ワンピース」の主人公、モンキー・D・ルフィだ。
感動、仲間、夢、理不尽、見事に一致()
そう考えたら全てがシックリきた。
ルールとか、批判する人がいるとか、仲間が傷ついたとか、この人達は気にならないんだ。
「ラボに戻りたいんなら、あっちが頭を下げるべきだ(ウソップのように)」って思ってるんだ。
「半年間ラボに泊まり込むなんて生物系だと普通だよな」なんて言いながら笑ってるこの人達は、
おそらくグランドラインの荒波を駆け抜けるワクワク感の中に居るんだ。
「ブラック研究室」と批判する世間の声を「ワンピースなんて無い」って言う村人Aの台詞だと思ってるんだ。
俺は、ひとつカマを掛けてみた。
そこに居ない若手教授の名前を出して、「あの人ってワンピースのルフィみたいですよねー」
瞬時に周りの教授連中の表情を確認する。
居た居たw 「ルフィは俺だろ」と言いたげな表情で一瞬固まるヤツw
その一瞬の静寂の後、「おーなるほどー、どのへんがですかー?」と器がデカいふりをする台詞をはいたが
あの一瞬で俺は確信を得た。
こいつら、自称モンキー・D・ルフィなんだと。
そこへいくと、ロンダの教授達は判りやすい。「CNSだしたい」この一心だから。
現代科学の王道だ。幸せだの感動だのはラボには関係ない、と割り切ってる。
CNSを持ってるヤツが偉い。CNSを稼いだヤツの勝ち。winner takes allの精神。
だから、ポスドクに「CNSを出せ」と言っても矛盾は生じない。
「生かさず殺さず」の年収で働くポスドクがいるから教授がグラント持ちになれるという事実、
研究生で働くのが当たり前のラボがあるから旧帝のラボが成り立っているという事実、
「ピペドをピペドのまま」「バカはバカのまま」「地国は地国のまま」にしておくことで既得権益を守ろうとする人が居るという事実、
http://anond.hatelabo.jp/20130510210114
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130510210114
lost312
こーゆー人が「わかってる人」ってやつか。どこで情報得てるのやら。アニメーターの担当箇所なんて、一般雑誌に載ってないよね?ww2013/05/10
ざっとケースを挙げると
①過去の仕事で目立つ作画をしていた人、有名な人だったら、EDの原画クレジットに名前があるのを見越して推測は可能。
②インタビュー等で本人が言った。
③人づてに聞いた。
①は作画オタの教養主義たる所以です。
過去の仕事ぶりからそのアニメーターの作画上のクセ・タッチ・影響元を脳裏にインプットしておき、すぐさまそれを思い起こして目の前の気になる作画とすり合わせる事が出来るか、にあります。
例えば「この作画はかなりA氏っぽいがA氏の名前はクレジットされていない、その代わりA氏に影響を受けたとされるB氏の名前が載っているので、おそらくこのカットはB氏の原画だ」とこんな感じで"推理"するのです。
絵そのものは作画監督に完璧に修正されてても、動きのタイミングはその人の個性が残ってる場合が多いので、そこから推測や考察が出来ます。
諸事情でノンクレジット(名前が載ってない)って場合でもある程度は判別は出来るでしょう。例えばダイターン3の2話とか12話とか22話には金田伊功の名前はEDクレジットに一切無いけど、見りゃ解るでしょ。知らんって?
ただ「限りなくこの作品やってるに違いない」くても「確実にやった」かどうかまではわからないので、確定するまでは「かもしれない」「(推測)」などの言い回しをしてお茶を濁しておきます。(作画wikiなどの編集時において)
当然外す事も多いです。
WEBアニメスタイルの「アニメの作画を語ろう」(http://www.style.fm/as/01_talk/01_talk_top.shtml)などは情報源の宝庫です。
インタビュー受けてる自身の仕事の他に、「あそこは◯◯さんがやった」とポロッと漏らしてくれるので、情報は集めやすいのです。
雑誌に載ってないよねと言いますが意外と結構載ってるもんなんですよこういうの。
稀にノンクレジットやペンネーム仕事もバラしてくれるのでありがたいです。
例えば『Sci-Fi HARRY』のOPスタッフは「絵コンテ・演出・作画監督:原田慎之介 原画:原田組」という謎の人物及び団体ですが、原田慎之介なる人物が大平晋也である事は作画オタなら誰でも知ってますし、原田組なるチームも橋本晋治や小西賢一らである事は本人達が自分から喋っています。立場上名前を出しちゃいけないから隠すはずなのですけどね。(共通項として、みんな同時期にジブリの某作品にメインで関わってた人たちという)
そんなわけで②は確実なソースの根拠になる・・・と思いきや、本人の記憶違いもたまに有ったります。その場合、間違ってる事に気が付かないと作画オタは情報をいつまでも鵜呑みに信じるしかないですが、訂正情報があった場合はすぐに検証してデータを更新しなければなりません。(出来れば、の話ですが)
それらに比べたら③はあまり無いですが、アニメーター界隈がいかにタコ壺状態であるか皆さんの想像する10倍以上は狭いものなので結果的に共有情報が多い→そこから意外な情報が流出する、という事も多々あります。
若いころアニメーターさんと知り合いだったっていうようなロートルオタクがブログやツイッター等で思い出話的に「実は・・・」と話してくれる事も多いです。
後は作画オタ系のブログや作画@wikiと、2chの作画を語るスレですかね。前述したように作画オタの基本は教養主義なので、腐っても鯛と言わんばかりにコミュニティが崩壊してても割りと語る時は語れるし情報は転がっているものですよ。よく分かってないフリして(ここ重要)「◯◯って□□だよね?」などとわざと間違った情報を出して聞いてみると「ちげえよXXに決まってんだろそんな事も知らないのかこれだからニワカは・・・」「ちなみに□□は△△だしXXは●●なんだぞそれぐらい調べとけカス」と鬼の首取ったかの勢いで色々教えてくれます。
で、そこを上澄みだけすくい取って知った気になっていれば、id:TM2501みたいな作画オタぶって他のオタ連中から一歩リードしてるつもりになってその実ニワカ以下のモノ知らず一丁出来上がりってわけです。
こんな感じで、作画オタクの世界ってものすごくアナクロなんですよね。
超能力か何かで誰の仕事か当ててるなんて事はまったく無いんですよ。
創業時からの熟成ソースを継ぎ足し継ぎ足しで現代まで受け継いでいるような存在。そこに義務感や使命感、そして優越感を持ってる厄介なヤツら、それが作画オタクです。
最近ブクマを荒稼ぎした寒天プールの人(http://sajiya.blog89.fc2.com/blog-entry-312.html)も、そういった作画的教養主義の荒波に揉まれてきたからこそこういう記事が書けるんですよ。id:TM2501と違って。
この人、「自分は作画オタじゃない」と言ってますけど、作画オタ間での同族嫌悪は全然珍しいものではありません。こいつらなんか一緒にされたくないと思ってる作画オタ同士は多いですよ、本当に。
追記:
■関連記事
http://anond.hatelabo.jp/20130520105912
■作画崩壊厨と『鉄腕バーディーDECODE』の思い出
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20130318/1363707421#c1363722838
Gl17さんは「作画を語るスレ」を全スレ読み直す所から初めてはいかがでしょうか。でないとお話にもなりませんので。
我々は「きてる」「たまんね」で全ての意思疎通が行えるんですよ。歴史と訓練の積み重ねでここまでやってきたんですよ。あなた出来ないでしょ?あなただけですよ。そんなの。
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20130318/1363707421#c1363738926
>>我々は「きてる」「たまんね」で全ての意思疎通が行えるんですよ
悪い。オレもそれはつきあいきれない。
http://b.hatena.ne.jp/kowyoshi/20130320#bookmark-137280062
kowyoshi コメント欄
コメント欄の「きてる」という捨てハンの主張…えーと、ディープな作画オタクってそういうものなの?いやまあ、なんJもそうだけどディープなコミュには特定のジャーゴンってありますが… 2013/03/20
このへんの。
我々作画オタクは、自称アニメオタクさんとアニメを語り合ったときに作画の話題が通じず歯痒い思いをした、という経験をおそらくみな一様に持っています。
友人知人関係はもちろん、アニ研・漫研・mixi・Twitter。リアルでもネットでもこの悲劇を何度も繰り返しています。
それを端的に表しているのがこち亀のこれ。
http://livedoor.blogimg.jp/shake1728/imgs/0/5/052c46a0.jpg
もちろん作画スレには作画オタクしかいないので当たり前なんですが、この作画オタクというのが非常に少ない。
作画スレは1日1スレを消費するので人が多いのかもと思いがちですが、アップローダのダウンロードカウントを見る限りROM含めて100人もいません。
Twitterにはアニメーターすら上回る知識を持つガチな方から、にわかと呼ばれるカジュアル勢までいますがこれですら数百程度。
ただTwitterは3〜4年前の移住時から既にコミュニティが成熟してしまっています。
ブロガー連中は萌え豚と売り豚がほとんどで、真面目にアニメを観ているのは宮台東宇野かぶれの前島くずればかりという悲惨な状況。
新たに参加しようとしても冒頭の悲劇が繰り返される恐れがあるのです。
このような背景があり、我々作豚はお互いにシンパシーを感じ、馴れ合いの感情を抑え切れないことが多くあります。
「なあ」「つれえよ;;」「すげえわかる・・・」
作画スレの会話はこんなのばかりです。
「きてる」「たまんね」はお互いの存在を確かめ合う言葉なんです。
今まで書いたのもネタとかではないのですが、それとは別の視点から。
作画オタクが少ないというのを書きましたが、たまに「戦闘シーンがすごいアニメを挙げるスレ」みたいなまとめを目にすることがあると思います。
わりとカジュアルに色んな人が語り合っていて、ブクマも結構ついたりします。
これはつまり作画がすごいということを話しているスレなんですが、そのスレで語っている人たちにそういう意識はあんまりないです。
原画と動画とかレイアウトと原図、ひどいときにはコンテと原画の区別すらついてません。
そんな人たちでもある意味作画を語れているんですよね、戦闘シーンに限っては。
具体的にどんな作画が好まれるかについては御先祖様万々歳全部やゴールデンボーイの紀ちゃん、
最近のだとあの花2話の焼肉とかザムド最終話の大人ヤンゴと船長、
みんなが観てそうなのだとけいおんクリスマス回のプレゼント交換を思い出してください。(だいぶ系統違うけど丁寧ではあるということで)
こういう芝居にスゲェ!と目を見開いてしまうのは作画オタクだけなんです。
そして芝居というのは語るのが非常に面倒くさい。
そのうえ下手なこと言うと突っ込まれて優越感ゲームが始まってしまう。
でもお互い共通認識は持っている。
もう「たまんね」でいいでしょ、だってたまんねえんだもん、となります。
最近羽生善治が演技だ演技じゃないって盛り上がってましたよね。
増田で貼られてた動画観ましたがプロ2人の解説でもすごい素晴らしい天才だくらいしか言ってないんです。
故伊藤和夫の授業をyoutubeで見て、都会の受験生ってこんなスゲー授業受けてたんだと、15年後にカルチャー・ショックを受けたので、田舎の浪人生だった自分が使った大学受験参考書(東大理系96年入学、いまではなんとか研究職)。
内容はスタンダードでよい。
個人的にこれだけで必要十分だと思うし、これだけしかやらなかった。暗記科目とか非暗記科目とか言うけど、試験である以上、数学だろうが物理だろうが暗記科目だと思ってる(日本語の能力だけはどうにもならないけど)。これくらいはマルっと憶えられないと応用もなにもないと思う。浪人生は勉強だけしてればいいから、大学受験の範囲も泣きながらやれば3ヶ月で終わる。あとは、ひたすら復習。ペンだここさえて、ほとんど部活のノリだった。
昔は一冊ものだった気がするが、いまは全6冊になってるな。
日栄社のうっすいやつを適当に2, 3冊ずつくらい。おすすめすぎるシリーズ。
英文法標準問題精講
英文標準問題精講
和英標準問題精講
物理標準問題精講
化学標準問題精講
網羅すれば完璧。
旺文社の標準問題精講シリーズは、コンパクトで軽くて、本当にありがたかった。
ジョン・ロックの民主制とルソーの民主制の違い、という話が印象に残ってる。別に先生と仲はよくはなかったが、田舎の、文系理系分かれてないようなふつーの公立高校で、唯一信頼できた授業だった。そのプリントはいまでもとってある。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
まぁ増田が基本的に庶民蔑視に傾きすぎだったんで、まぁお前もそれの一部に過ぎぬのだよって感じでちっとからかいすぎたきらいはあります。すいません。
たしかに公務員講座ってのは手軽なわりには有効な対策だとは思います。明治や立教ぐらいを出てる知り合いのやつでも、地上合格者はなんだかんだ賢いやつが多い。少し専門的な話をしてみても、「関心をいだける」程度の知的水準は身につくんですよね。逆に言えばなんだかんだ短期間でも広く浅くかじれば誰でもそれぐらいにはなれるわけで、もうちょっとは日本の民主主義もまともに機能するようになるかと。
さきほどの私のエントリだけだと誤解されるでしょうが、教養とはそもそも考えるためのベースであり、衒学を目的としているようじゃ本来おかしいです。教養主義者としてはもうちょっとうるさく「深くやれ」だの言うかもですが、みなに教えるべき素養としてはそれぐらいがちょうどいいかと思われます。
幸い、日本は「試験」が絡んだ参考書の充実ぶりは、群を抜いていますしね。法律でいえばシケタイとか、素人やそれ+αの層にとっては十分すぎるほどよくできた書籍だと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20091221232734
まあ凡人には理解できないかもね。
言わんとすることは分からんでもないが、ちょっと君にうんこを投げさせてもらうと、
君の文章こそすんごい凡人臭い。多分学内でも中の上ぐらいの成績じゃないかな。
ああ、ええ、まぁどうでもいいんですが、自分の学部は東大です。
院は特定されると面白くないので伏せるけど、まぁ東大未満だとは世間様にも思われないぐらいのとこです。
まずね、タイトルで釣りすぎかな…「数学やってりゃ東大合格」の理由はどこよ?ちと狙いすぎだな。釣りっつーか、詐欺だな。
あとね、
子供が「数学なんてやっても意味ねー」と言い出したら、「そうだね。君の人生にとっては意味がないよね。義務教育終えたらそこらへんの工場で労働者として頑張ってね!」でいい。
そんなふうに考えていた時期が、俺にもありました。って感じなんですけどもね。実はそうでもないんですよね。それをするとしたら、数学よりは英語かな、って感じ。理由は後述。
うん、経済学は大事だね。これは本当にそう思う。マンキューの『入門経済学』にある内容ぐらいは国民みんなに分かっていてほしいよね。文系理系問わず、学歴問わず。鳩ポさんにうんこ投げちゃうことになるけど、民主党の方々って正直大馬鹿じゃない。あれはね、個人的には「いやぁ、国民の皆様が馬鹿ならしょうがないんじゃないんですかね」と思ってしまう。間接制であろうと最低限の素養を国民に与えておかないと、民主主義って死ぬんですよね。困ったもんだ。というわけで数学の素養も結構必要になるよね。まぁ微分積分ぐらいはね、って話になる。
理科もね、結構大事ですよ。僕からすれば、高校課程でいえば化学Ⅱ、物理Ⅱぐらい国民みんなに知ってもらわないと困るんですね。文系でもね。まぁこれはたしかにドカタ様には不要な知識かもしれないし、中卒の方々にはやってもらわなくともよい。ただ、大学を受ける層は、文系にも理解していただかないと困るんだよなぁ。物理も微積禁止令は解いていただきたいですよね。アレ、詐欺ですよ。文系でも物理Ⅱ+微積レベルは知っていただかないと、ね。
んでもって、「英語で教え込む」についてハッキリと言わせてもらうんだけれども、
え、誰が教えんの?っていう話。世間知らずの坊なのか知らないけれども、世の中先生って結構バカなんですよ。
自分の高校でも「あいつダメだよなー」とか言われてる先生ですら東北卒とかだったりして、まぁ世間一般で言えば普通に高学歴でした。
でもね、中学(僕は中学までは公立。しかも田舎)はね、本当にひどかったよ。英語の教師が英検2級だったりね。ギャグか、と今なら思うんだけれども、目立った取り柄もない人間だって働かないといけないのだよ。そうなると必然的に馬鹿な先生も出てくるんですよ。残念ながら、わが日本国には「すべての教師を教養人に!」などと高邁な理想を実現するほどのリソースは残されていないんです。
英語教師でさえ英検2級とか履歴書に恥ずかしくて書けないようなうんこ資格しか持ち合わせていないのだから、他科目なんて、ねぇ、って話ですよ。それは高校教師でもそんなに変わらんです。ああ、「頑張らせればいい」と言うのは、ナシね。そこまでマッチョイズムでゴリ押ししても、のれんに腕押しが実情です。
あなたは「重要科目に絞る」ということに重点を置いてましたけど、まさにその通りで、子供に与えられる教育の時間ってそんなにないんですね。基本的に教育って、(エリート育成を除いては)国体を維持しさらなる成長を期待できるため、国民に最低限の民度を維持せしめることにあると思うんですよ。で、英語って、ぶっちゃけ日常じゃ使わんでしょ。テキサスの巨乳娘を口説くために国費を投じる必要はないわけなんですよ。ええ、何が言いたいかっていうと、馬鹿には必要のない言語なんですよねしょせん。たしかに自分にとっては必須ですらあるんですが、「国民に知ってもらいたいこと」を教えるには、幸いまだ日本語でも十分に可能なんですね。
自分は必要に駆られてラテン語も習得しましたけど、多分あなたには必要ないでしょう。まぁ、極論を言っちゃえばそんなもんなんですよ言語って。ちなみにお隣の韓国さんはというと、国民みんなに小学3年から英語やらせてますけど、どうも一般人はベラベラとは言い難いのが現状のようですね。向こうも教員のレベルがネックとなってるみたいです。韓国の友人が言ってました。国内市場が小さいので海外進出を日本以上に頑張らないといけない韓国でさえも、そんな程度なんです。まぁでも、たしかに大卒さんなら英語ぐらい、というのは分かります。そいつらに教える英語の教育法についてはまぁ言いたいこともありますが、今回の本論には関係ないので避けますね。
つーわけで国語はいるよ?だって「賢くなるため」の文章を読むには必須の素養だもの。偏差値40台の高卒ちゃんとか、漢検4級もギリギリレベルですよ。言葉はひどいけどね、もうほとんど文盲なわけ。これが、教育しなくなったら、どうなるか。マジでほとんど平仮名とカタカナだけになるんじゃないか。日本が神聖文字と民用文字を使い分ける世の中になったらめんどくさいことになりそうだと思うけどなぁ。
そもそも抽象的思考もできないやつが英語を覚えたところでハラペコ青虫とPLAYBOYぐらいしか読んでくれんよ。実際、日本でNewsweekだのNatureを読んでる層って、日本語でも抽象度の高い文章を好んで読んでますしね。君が貼った記事にもあるとおり、実際のところバイリンガルなんて無理だし、恐ろしく稚拙な日本語と「はうあ~ゆ~?」ぐらいしか言えない、豚や鶏をちょっとマシにしたような非知的生命体が量産されること間違いなし。バイオハザードもビックリだ。
日本史はね、うんまぁ、必修は近代史まででいいかもね、と言いたいんだけど、やっぱ聖徳太子とかもかじらせとく必要はあると思いますですよ。DQN様って、本当に勉強しないので。マジで日本人同士でも会話が成立しなくなるんじゃないかな。別に左翼ではないのである程度の格差はしょうがないと思うけど、あんまり似たようなお友達ばかりと馴れ合っているとマクロ的にも損するようになってますよ世の中。
世界史はそもそも、「過去の事実」を覚えるというより、世界のシステムというか、ダイナミズムというか、そういったものを学ぶためのもんだと思うんだけれどもね。これも高校の先生ですらできてない人ばっかだね。まぁ教科書もそうなってるからね。でも覚えもしないとそれをできる一握りの人材すら日本から生まれなくなるので、まぁ教育しといた方がいいとは思うけどね。
・先生って思ったよりバカなんですよ
・(現行の高校課程に意味をとどめない)「政治・経済」は、日本国民にとっての必須となる教養。
・そのためにも数学は要るかもねぇ
・国語を教えないと、バカとエリートの使う言語感覚の隔絶が、おそろしいレベル(国が滅びるぐらい)になるよん
・バカに英語を教えてもねぇ
・そのかわり大卒さんは英語覚えてほしいよね。まぁそれはまた別の話でしょ
ところで、あなたは駒場生かしら。せっかくリベラルアーツを学ぶ機会を設けられたのだから、もうちょい頑張ろうぜ。
いやね、僕も知識人としては下っ端も下っ端なんですけれども、正直、ちょっと脱力した。しすぎて文章も散漫になった。教養主義とかじゃなくてだね、もうちょい基礎んとこを理解した上で社会ってもんを見ようぜっていう、そういう話。
あと教育論から外れるの承知で書くけど、古文漢文って君には必要ないのかね?俺は高校は理系だったけど、普通に必要な素養だと思ったけどなぁ。ていうか今も読むけどなぁ。エリートを自称する学生なら千字文とか四書五経とか、それぐらい読まねぇ?普通。それとも君は、「やりたくなければやんなくていいじゃんよー。ただし国際社会で恥かくかもだけどねー」でいいじゃん、で済むのかな。俺がジョン(仮名)に「えー!おま、論語の○×も知らないで20年も生きてきたの???wwww」とか学生時代に言われたら、その恥とやらのために死んだね。まあ凡人には理解できないかもだけど、ね。
うんこ投げすぎたので最後に一言だけ有用なアドバイスをしておくと、公教育について論じる時はもうちょっとナショナリスティックな視点を考慮に入れた方がいいよ。
そうそう、そういうパックみたいなもんが欲しいのよ。
何百時間かければ、ある程度つかめてしまえるっていう。過去の整理と意味づけ。
いわゆる名画・名盤・名著を数こなすだけじゃなくて。
っていうか、それぞれの分野で本探せばあるのかもしれないけど。
ジャズだと菊地成孔の東大の講義まとめた奴みたいな。よく知らんが。
そういう風にまとめたものはある一定の史観にならざるをえないけどね。
山形浩生の「新教養主義宣言」みたいな発想の奴よ。あれは結局こころざしだけで終わってたけど。
その基礎的な概念をまずインストールできるような見取り図みたいなのが欲しいのよ。
7本でつかもうなんてさらさら思ってない。
例えば200本選定して、これらにはこういう意味とか意義とか関連性とか歴史性とか独創性とか面白さがあるっていう意味づけをして、
400時間で映画全体のとりあえずの概略図をつかめるような手引書がほしいよ。
単なるディスクレビューみたいなのじゃなくて。単発的なそれぞれの意味じゃなくて。
統一理論的なもん。
哲学ならともかく、映画が始まって100年ぐらいなんだからできそうだけどなぁ。
「400時間で○○をとりあえず体系的に理解する」みたいな本あったら買うけど。
私の出身地では,公立図書館は主婦と退職者のたまり場になっている。
購入リクエストも流行の大衆小説とか料理本とかそんなのばっかりだ。ひどい話だが大作や血液型占いまで入ってる。
「利用者のニーズ」を優先して蔵書を構築していくととんでもないことになる。が,それを無視して教養主義に走ったところで独善的の謗りは免れないし,利用指標が落ち込んで予算削減,下手をすれば廃止検討対象になるのは目に見えている。困るよなあこういうの。
公立図書館の使命は知る権利の保障だと思う。「真理はわれらを自由にする」だ。報道・学術・基礎資料だけあればいい。娯楽本は市場の流通にまかせる。書店や貸本屋でいいじゃない。と理想論をはきたくなるがそれじゃ絶対に現実は回らないんだよなあ。むむ。
音楽に歴史を求めることが見られなくなっているので全文引用.http://d.hatena.ne.jp/taninen/20070203/p1
- 「音大生なら聴いておきたい100曲」が話題になっていることについて書いたエントリ(id:taninen:20070201:p2)に思いがけず反応があったので、乗りかかった船でもう少し整理しておこうと思う。
- 先に断っておくと、僕自身も音楽学部で学んできた身で、音楽について論じたり大学で教えたりもしているけれど、西洋音楽史の専門ではないし、研究や教育についてもかなり異なるスタンスを持っている。件のリストの前口上に対しても結構異論がある*1。しかしここでは僕個人の意見は脇に置いて、あれが一種の教養として求められていることを汲んだ上で、それがどういうものなのかを考えたい。
- まず、例のリストは「名曲百選」のようなものではない。それならそれでもっと吟味のしようもあるだろう(僕は関わりたいと思わないが)。そうではなくて、挙げられた曲は音楽的リテラシーを培うための、言わば「例文集」として集められていると考えられる。
- テクスト自体をきちんと読解することは大事に違いないが、その作品を「読めている」と言えるためには、それよりずっと多くの知識が必要となる。それが書かれた時代や社会の言葉の使われ方やものの考え方を抜きに、その文章が何を表現するために書かれ、またどうしてそのような文章になったのかを云々することはできない。
- 楽譜として残っている作品が演奏される際の表現のあり方については、考慮すべきことがあまりにたくさんある*2のでここでは踏み込まない。しかし作品(に今触れられること)が歴史の産物である以上、歴史的想像力は多かれ少なかれそこに介在している。そういうことに無頓着であること自体、ある種の特異なスタイルをなしてしまう。
- 音大で音楽史を教えるということは、以上のような歴史的な想像力を育ませるということを使命の一つとして負っている。そのための楽曲リストが作成されたのは、学生にそういう意識が足りないという危機感を物語っている。しかし、それは単に「音楽家たるもの名曲をたくさん知らなくてはいけない」というのとは別の話だ。(その是非はともかくとして)クラシック演奏家のエートスとして歴史主義を維持していくこと、それがあのリストには込められている。
- 端的に「音楽を楽しむ」という時、その楽しみ方の内実についてはあまり意識されない。特にこんにちでは、音楽はそれ自体でオートマティックに楽しませてくれるものとみなされるか、あるいは好みの問題で片付けられることが多いように思う。
- それに対して、もっと教養主義的な価値観のもとには「音楽はより良く理解されるべきものである」という理念がある。クラシック音楽は長らくそのような教養の対象として扱われてきた。歴史的コンテクストの中でこそ音楽が理解できるとする立場は、もちろん教養主義的な性格を持っている。
- しかしながら、音楽に歴史的想像力を求めることは、かならずしも後者のイデオロギーに回収されてしまうわけではないかもしれない。つまり、「端的に楽しむ」と思われている現象にも、ある種の歴史性が関わっていると考える余地絵は充分にある。
*1:クラシック音楽の用語や概念が万国共通語としての地位を確立しているという認識は、パラダイムとしてはすでに過去のものになりつつある。むしろ、その思い込みを押し付けることで見えなくなっていた概念の複数性・ローカル性をどうやって掬い取っていくかというところにこそ、近年の問題関心がある。すでにクラシック音楽の語法を身に付けた音大生の意識を高めるための方便としてなら、そのアナクロさも理解できなくはないけど。
*2:楽譜のエディションの問題、演奏家の系譜の問題、解釈スタンスの問題、演奏スタイル自体が持つ歴史性の問題、レコード化の影響などなど。演奏論は音楽学の中でも後手に回ってきた領域だけど、多分これから盛り上がる。
諸君 私は決断主義が好きだ
諸君 私は決断主義が大好きだ
『バトル・ロワイヤル』が好きだ
『リアル鬼ごっこ』が好きだ
『ドラゴン桜』が好きだ
『DEATH NOTE』が好きだ
『コードギアス』が好きだ
『Fate/stay night』が好きだ
『野ブタ。をプロデュース』が好きだ
この地上で行われるありとあらゆる決断主義が大好きだ
戦列をならべたゼロ年代の想像力の一斉発射が轟音と共にセカイ系を吹き飛ばすのが好きだ
空中高く放り上げられた第三世代オタクの自意識がパワーゲーム的世界観でばらばらになった時など心がおどる
サブカル保守の操る教養主義のアイロニーがポストモダン批評家を撃破するのが好きだ
悲鳴を上げて燃えさかる波状言論から飛び出してきた批評家を「現代の想像力」でなぎ倒した時など胸がすくような気持ちだった
銃剣先をそろえた職業ライターの横隊がブログ論壇を蹂躙するのが好きだ
恐慌状態のブックマーカーが既に息絶えたブロガーに何度も何度もネガティブコメントしている様など感動すら覚える
敗北主義の引きこもり達を実社会に吊るし上げていく様などはもうたまらない
泣き叫ぶ甘えた感性の持ち主がゼロ年代の振り下ろしたサバイブ感とともに金切り声を上げる決断主義者にばたばたと薙ぎ倒されるのも最高だ
哀れな反論者達が雑多なイジケパフォーマンスで健気にも立ち上がってきたのを河出スクールカースト文学が文化圏ごと木端微塵に粉砕した時など絶頂すら覚える
諸君 私に付き従う決断主義者諸君
君達は一体何を望んでいる?
更なる決断主義を望むか?
情け容赦のない糞の様な決断主義を望むか?
鉄風雷火の限りを尽くしサブカル論壇の鴉を殺す嵐の様な闘争を望むか?
よろしい ならば決断主義だ
我々は渾身の力をこめて今まさに振り降ろさんとする握り拳だ
だがこの暗いウェブの底で五年間もの間堪え続けてきた我々にただの決断主義ではもはや足りない!!
大決断主義を!!
一心不乱の大決断主義を!!
ならば我らは諸君と私で総力100万と1人の戦闘集団となる
我々を忘却の彼方へと追いやり眠りこけている批評家連中を叩き起こそう
髪の毛をつかんで引きずり降ろし眼を開けさせ思い出させよう
連中に不安の味を思い出させてやる
連中に我々の不安と憤りの音を思い出させてやる
ゼロ年代と九〇年代のはざまには奴らのテツガクでは思いもよらない事があることを思い出させてやる
一千人の決断主義者の戦闘団で
サブカル論壇を燃やし尽くしてやる
そんなことが解ってないようにみえますか!?
二人一緒じゃだめですか!?
そういうの、はてなユーザーは優越感ゲームというって……お互いが憎しみの炎をぶつけるために利用しあっていては、みんな駄目になるって、なぜ分からないんだ!!
あまりの反響に腰をすえて色々なご意見にお答えしなければと思いつつ、議論の焦点がぼやけているためにアニメやらイラストやら消費形態やらいろんなものの系譜を頭の中で整理していたらとてもじゃないけどすぐ書ける様な話でなくなってしまったので、脊髄反射で思ったことだけ書き記しておきます。
本文のクオリティは保証しないので、君はこのエントリを読んでもいいし、読まなくてもいい。
さて、元エントリ「なぜ作画の評価は割れるのか?」では、あえて“脚本・演出”の評価と“作画”の評価を切り離しています。これは、最近みられる“作画崩壊”に対するネット上のアニメファンの反応における問題点を明確にしたかったからです。
『グレンラガン』#4は脚本がダメだったから叩かれているのに、小林作画を擁護しているのは検討違い。本当にグレン観てるの?という批判については、上記の理由より「いやそんなこと申されましても…」としかいえません。
ちなみに、今回シナリオにも小林治の手が入っていますが、自分としては小林演出と、氏の描く女子の可愛い表情、仕草は大好物ですので、ふつうに楽しめてしまいました。
ゆえに「ふつうのアニメファンには見向きもされない」と『BECK』を評された増田様におかれましては、「じゃあふつうのアニメファンって何を観てるんだ?!」と激しく抗議申し上げたい。
冗談はさておき『グレンラガン』#4はあくまで元エントリを書くことになったキッカケに過ぎず、各人にとってそれが面白かったかどうかは、今回述べたかったことではありません。
「作画崩壊祭り」に限らず、「トレス祭り」「パクリ祭り」など、ネットでの炎上事例は枚挙に暇がありませんが、本来、非難されるべきでないものまで含めて祭りの対象となっている様に思われるケースが多々みられます。
祭りに参加している人には「わざと叩いてる」荒らしもいますが、中には、ブログのエントリやまとめサイトに煽られて、かなり真剣に批判的な書き込みをしている人がいる様に思います。
例として適切かどうかわかりませんが、『涼宮ハルヒの憂鬱』における「晴レ晴レユカイ」の振り付けはトレスである(パクリである)というエントリが一部で話題になったことがあります。このダンスについては、京アニの山本寛がアイドルユニットBerryz工房の大ファンであり、作画スタッフは絵コンテとともにPVを幾度となく見せられたというエピソードが公開されていて、“盗用”ではなく“オマージュ”と見るのが正しい受け取りかただと思うのですが、このエピソードを知らなかったとしても、ハルヒのEDとベリ工のPVから同じ動きのカットをならべて「トレスだ!」「パクリだ!」と言うのは、ちょっと違うんじゃないのといいたくなるわけです。
教養主義や世代論でこの問題を解決したいとは思いませんが、クリエイターや著作権に対する無知・無理解、あるいはリテラシの欠如が、こういった祭りを加速する要因のひとつだととらえると、元エントリのような教科書的にジジむさい説教も書かずにはいられないのです。
実際のところ、自分もアニメーターブーム直撃世代ではなく、その後のキャラクターデザイナー、イラストレーターが注目される時期に、アニメにはまっているので、キャラ萌え、ビジュアル重視という傾向にむしろ拍車をかける様な消費形態をとってきました。ゆえに、作画やアニメーターに関する知識においては半可通であるという負い目もあって、あえて増田で書いているわけですよ。出来ることならばタイムリープして自分に説教したい!
そんなこんなで、誰かを突き放したり、権威ぶったりするのではなく、消費する中で自分が獲得した視点とか面白ポイントを、Web2.0的に共有したり継承したりできればいいのになと思って頑張って書いてみたのをご理解いただけると増田うれしい。
あと、anond:20070424113453の増田さんはおそらくバランスのとれたアニメの観かたをできている人だと思います。「あー、おいしかった」というアニメの観かたの中には、知識の有無は関係なく「アニメーターの凄い仕事」に対する感動が含まれているハズだと思います。「作画崩壊祭り」の輪の中にいる人たちの言動が、あまりにも極端に「絵の美麗さ」と「キャラクターの一貫性」を非難の根拠としていることから、元エントリも極端な反論になっているので、実際バランスをもっている人にとっては、そんなことないよと反論されるものだと承知しています。
「さすが京アニ」を「さすが京アニ」にとどめず、ちゃんと理解することが、理想的な状況につながる突破点だと考えているのですが、それを記すには膨大なリソースが必要となるので、いつかまたどこかでやりたいなと思ってます。あるいは某アルファブロガーとか某アニメライターとかがやってくれないかと思います!!たりきほんがーん!!
キャラクターの一貫性に対する寛容・不寛容については、同人におけるキャラクター消費の盛況から、実際は若いファンほど寛容であるという意見があったのですが、公式キャラクターグッズのひとつとしてのアニメ、DVDという観点からより強力に一貫性が求められる傾向にあるという理解です。この議論につっこんで「データベース概念」や「キャラとキャラクター」という話を始めると、「批評うざい」といわれるので、あまり掘り下げることはしません。というかこれ以上、泥沼に足を突っ込みたくありません!
最後にひとつだけ、ガイナックスというスタジオは、少なからずその出自を“オタク”に持つ、あるいは持っていると思われることで、アニメオタクから支持されてきたはずなのに、なぜ今回のような事件を起こしてしまったのかが、残念に思えてなりません。
もっとも、エヴァの時点で庵野秀明がいろんなことを言っちゃってますが、そのフラストレーションのアウトプットとしてそれ相応の作品ができてくることで、むしろ根源的な部分で切っても切れないオタク性みたいなものを炙りだしていたので、自分としてはほほえましく思いました。
しかしながら、ガイナックスの内部スタッフがキモオタ氏ねというコメントを(意図的ではないにしろ)発表してしまい、そこに赤井孝美が乗っかってるというのは正直どうよと。いつからそんな風になっちゃったの!と。オタク目線をわすれないガイナックスというのはもはや幻想なのかもしれないと感慨にふける14の夜(嘘)でした。