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2021-09-19

いろいろ間違っています

国語警察です。増田書き込みはいくつも間違いがあり、看過できません。

1つめ。まずお茶ペットボトルに書いてあったのならそれは川柳ではなくおーいお茶伊藤園主催する俳句大賞です。夕立という季語を入れているので、作者は俳句としての読み取りを求めていると解することができます俳句解釈はいくつかフォーマットがあるので、読み取りにはある程度それを知っておく必要があり、簡単に云々するのは適切ではありません。

2つめ。件の句は大変面白い句です。やや読み口が未熟ではありますが、賞に選ばれるだけの作品だと言えます。以下、少しだけ解説します。

まず、夕立季語として用いているので、季節は夏。象は「夕立」が降る日本でよくいる動物ではありませんから場所動物園とほぼ確定できます。夏の夕方に作者は動物園を訪れているわけです。事情はさまざま、ですが、一般的にいってどんな心境だと想像できるでしょうか。夏休み家族連れ?詠み手子供?親? 確実に言えるのは、詠み手はそう不幸な状況にあるわけではないと考えられるということです。不幸な人は、夏のさ中に動物園に来たりしませんし、夕立の中でぼーっと象を眺めたりもしません。むしろ想像できるのは、それなりに幸福な人で、新鮮な心と驚きをもって周囲に向き合っている人だということです。そこで、そういう心で、目の前の情景に向き合ってみましょう。

何も心配することのない子供のころの心で、夏のさ中に動物園にやってきた状況を想像してみてください。いろいろな動物のむせかえるような匂いに少しへきえきしながらも、非日常感に心躍らせる思いで時間はあっという間に過ぎ、気づけばもくもくと黒雲が辺りを覆っていて、不意に夕立が訪れます。象はいつも動物園の人気上位です。目の前の象の圧倒的な非日常感は、この日一日の中でもとりわけてあなたの心を喜ばせたでしょう。そして、夕立。遮るもののない中で、夕立普段よりもいっそう激しく感じられます。雷もなってあなたは少しひるんだかもしれないし、あるいはワクワクしたかもしれません。ですが、目の前の象はどうでしょう。象舎に入るでもなく、動じるでもなく、まるで心地よいシャワーでも浴びるかのように、何物にも動じません。そんな象の姿は、あなたの心を揺さぶらないでしょうか。それが、象への感動なのか、夕立への感動なのか、二つが混ざった状況は、目の前の柵の存在すら忘れさせて、ふと見たこともない遠いアフリカスコールを浴びる象の野生すら幻視させるかのようです。象が夕立を浴びている風景を、主語を逆転させ、夕立が象を洗っている、と見たのは、夕立に象に劣らぬ存在感や主体性詠み手が感じたことを表しています。そして、夕立というあまりにもありふれた題材が、象という、俳句にはなりにくそうな題材と出会うことで、なんと生き生きと、生々しく荒々しい存在感を生み出していることでしょうか。異質な二つが出会うことで取り合わせの妙が生まれる、つかず、離れず、のこの関係を「不即不離」と言います。上質な俳句に欠かせない、新鮮な感動だけが生み出す言葉マジックです。

最後の「またたく間」もとても素晴らしい。夕立は短いものですが「またたく間」というほどかというと少し誇張なので、このあたりやや詠み手の未熟さ若さと捉えられるかもしれません。しかし、この「またたく間」は、まさに瞬きも忘れるほどこの情景に見入っていたこども心の「またたく間」であり、必ずしも一瞬とは限らないとも言えます。また、ウォッシュされた結果クリーンになるのがまたたく間だった=それほど激しい夕立だった、と取ることもできますし、さらに読みを深めれば、これらの幻視、ひいてはこの日一日の非日常の全てがこの瞬間に込められており、夕立とともに非日常ははかなく消え去っていく、ただし、後に残るのは夕立の後のような爽やかさで、この一言とともに、象と夕立幻視に閉じ込められていた詠み手が再び現世に返り、我々読者もその爽やかな読後感を共有できる…そんな終わり方です。幻は一瞬であり、一瞬であるがゆえに永遠。この句はそんなことまで感じさせてくれます

そんな、まるで壮大な幻を一編の短編映画に仕立てたような幻想を、わず17字に詰め込む、これこそが俳句の妙であり、これはそんな俳句という表現形式の魅力を存分に発揮した作品だと言えるでしょう。実に見事というほかはありません。

3つめ。これは一番勘違い修正いただきたく、返信をしようと思った最大の理由ですが、「分け入っても分け入っても青い山」は、種田山頭火俳句です川柳ではありません。無季自由律であってもそこに俳句スピリットがあればそれは俳句だ、というのが彼らの主張であり、その主張自体をどう取るかは人それぞれの考え方にもよりますが、「あれは俳句ではない」と主張するならまだしも違うジャンル呼び名で呼ぶのは、俳句に対して、川柳に対して、そして山頭火に対して、あまりにも失礼で不当です。この勘違いは、即刻修正していただきたいです。

最後に、俳句川柳面白さはまた違うところにありますが、川柳面白さはもっと言葉の響きや並びの妙といった所にあるので、「情景が浮かばないとダメ」といったような狭い(ある意味俳句的な)縛りの下にあるものではありません。その点も、増田勘違い修正された方がよいと思います俳句世界川柳自由さは、それぞれに面白いものであって、それぞれの特長をきちんと知ることで、それらの作品をより深く味わうことができるようになります。知らないで否定することは簡単ですが、それはあなた世界を狭くしてしまます。分かったつもり、の人生より、世の中にはまだ知らないことがたくさんある、という人生の方が、楽しいと思いませんか。お茶ペットボトルを飲み捨てることなく、そこに書かれた一言に目を向ける精神は素晴らしいと思います。どうかそのように、物事簡単に切って捨てるのでなく、小さなところにも発見のある人生をお送りください。

anond:20210918185654

2020-01-10

「あれより早くても遅くても」問題

彼が助かっていた場合

薬剤の投与が「助かったタイミング」より早くても遅くても(=助かったタイミング以外では)彼は助からなかった

という意味に取れる。

これは「最適な投薬のタイミングピンポイント存在した」という意味である

彼が助かっていなかった場合

薬剤の投与が「助からなかったタイミング」より早くても遅くても(=どのタイミングでも)彼は助からなかった

という意味に取れる。

これは「結局のところ最適な投薬のタイミングなどなかった」という意味である

投薬のタイミングを悔やむ医師に「どちらにしろからなかったよ」と慰めの言葉をかけるようなシチュエーション想像される。

ゆえに前提次第でどちらにも解釈できる。

悪文とまでは言わないが、一文だけを切り出して判断することはできない問題だと言える。

ただし元ネタ場合はやや異なる。

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった

https://sunagoya.com/jihyo/?p=1726

この短歌は「告白」と「道の長さ」がちょっと離れた関係にあるからこそ、

その二つをつなぐ「逡巡する自分」「機を窺う自分」が立ち現れてくるものだ。

すなわち「告白できた」という意味にとるなら、

「短いと踏ん切りがつかない、長いと逡巡しすぎる、ちょうどいいか告白できた」

とすんなり解釈できるが、

告白できなかった」という意味にとるなら、

「なぜ道の長さなんて持ち出してきたのか?」という話になる。

もっと道が短ければ踏ん切りがついたのに…いやどちらにしろ無理だったか…」などと

詠み手懊悩しているシチュエーション想像するにはかなりの補完が要求されてしまう。

そういった点で「投薬のタイミング」と「道の長さ」は対称的ではない。

いいだかずま氏のアンケートはあまり参考にならないし、

土岐友浩氏は、たまたま解釈を間違えた若者がいたくらいで

最近の若者心理に重大な変化が起きているー!」などと盛り上がるべきでないと言える。

 
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