はてなキーワード: 弁当とは
深夜までの残業。
連日の残業だったから、もはやお弁当を買ってレンチンすることすらしんどく、駅チカの日高屋に入った。
レジ袋有料化して以来、コンビニでお弁当を買うことについて心理的にハードルがすごくあがった。
3円ケチって弁当をむき出しで抱えて夜道を歩く、自画像にすごく心がささくれ立つんだよな。
そんなこともあって、同じ底辺感は拭えないが、日高屋でささやかな外食をすることにした。
12時近くだったから、店の選択肢はほとんどなくて吉野家か日高屋の2択だったのだが、
30代に入ってからめっきり油ものが受け付けなくなってきていたが、明日は2週間ぶりの休みという解放感から
思いっきり中華もんでも食ってくかと深夜のウキウキテンションで店に入った。
結果からいうと、半分も食えなかった。餃子はうまいのに、なぜか箸がすすまない。
馬鹿だ。油もんはもう食えないって分かってたのに、何で中華を深夜に食べた。数十分前の自分を恨みながら餃子を睨みつける。
でも一番削られたのは、餃子食えなかったことじゃなくて、一緒に添えられたから揚げとスープが全く受け付けなかったことだ。端的に言って、果てしなくマズかった。
「風通しの悪い田舎のおばあちゃんの家の古い匂いを味で具現化したこうなんだろうな」としか言えないから揚げ。
から揚げの口直しに飲んだ中華スープはさらにひどくて、おいスタッフ濃縮還元間違えて作ったんじゃないだろうなと、もう1回飲んでみたけどやっぱりダメだった。
毎日サービス残業を遅くまでして手取りが20万ちょっとというまごうことなき底辺なのに、
と言ってみたけど彼女はまだ12歳だし統合失調発症してるわけでもない。毎日しょーもないことで「ママのせいで…」と恨まれるのがキツイ。くらいの意味だ。
昨晩寝る前に娘が泣きながら抱きついてきた。
めずらしいことだ。
「ママと仲良しできなくて悲しい」
とシクシク泣かれた。
とりあえず
と言ってぎゅっと抱きしめた。
ほんのりとうんちの臭いがして
「ああ、シャワー浴びて欲しいな…」
と思ったけど、夜もとっぷり更けてたので舌かんで耐えた。
「アレした?これは何?」
と責め口調になりがちで
子供を生む前は
息子だったら
鬱陶しいと邪険にしそうで
怖かった。
「男は嫌いだ」
が、
20歳を過ぎて一人暮らしを始めたら、人恋しい気持ちに流されて、なりにイイ人だけど結婚相手とは思えない相手ばかりと恋愛ごっこをしながら30代になった。
「このままではアカンやろ」と婚活して頭のイイ経済力のある誠実な相手を見つけて半年でデキちゃった婚に漕ぎつけた。
ギリギリセーフで子宝にも恵まれた私はとてもラッキーだ。神様に感謝せなアカンな。と思っている。
宗教は嫌いだけど。
娘が生まれた時は
「何かとムツカシそうな男児じゃなくてよかったー。」
と思った。
が、
娘は眠らなかった。いわゆるかんの虫が強い赤ん坊だった。
常に抱っこしてないとダメ。
昼寝も2歳位にはしなくなった。
寝付きが悪く、夜中に泣き叫んで起きる。
午前1時、3時、5時のいずれかに起こされる日々が8歳くらいまで続いたお陰様で、夜驚がない平和な夜でも私は2時間おきに目が醒める体になった。
けど、夜中に目が醒める睡眠障害な体が健全なリズムを回復したのはホントに極最近の話だ。
「いつ怒号が響き渡るのか」
と身構えてた。
と我ながら感心するが、脳が破壊されたのをひしと実感する。
自殺願望や絶望はしてないがイライラするしネットびたりで現実逃避してる自分ははっきり言ってうつだと思う。
娘と喧嘩するようになったのは、彼女が4歳になって息子が生まれた頃からだ。
男児は弱い
育てるのが大変
という先入観があった。
娘は予定日よりも2週間近く遅くデカくて難産だったが息子は1週間前にちっちゃく生まれてお産がラクだった。
娘の時には産後2−3週間は立つだけで息が切れる程消耗したが、息子の時は
え?ホントに?
ってくらいラクで、3日めには家の掃除ができるくらいには回復してた。
「もしかして…
娘はめちゃくちゃ難しい子供だったのかも」
と思うようになった。
娘に比べると息子は一人で放っておいても平気な赤ちゃんだった。
「常に抱っこしなきゃ」
という焦りがないことがこんなにラクだとは。。。
と衝撃だった。
となると
一時が万事きーきー泣く娘に
何でそんなことで。。。
先月娘は12歳になったが今でも時々パンツにウンスジをつける。
拭き忘れた
というレベルではない。
べったりとうんちで汚れたパンツを洗うのは私だ。
幼い頃は
と促すと
と彼女は怒った。
「臭いな。。。」
と私が気づく前にパンツを変えるようにはなったが。。。
丸めて洗濯かごに突っ込むので、うんちに気づかずそのまま洗濯機に放り込んで干す時にパンツにうんちがついたままで洗濯し直しということが何回かあった。
「できたら自分で手洗いして欲しいけど、無理ならせめてバケツに入れておいてくれないと洗濯機だけではうんちはキレイに落ちない」
と頼んだら、1回だけ自分で洗ってくれたが、その後は汚れたパンツがバケツに放り込まれるようになった。
自分も不安が強くIBS(男性は下痢、女性は便秘と症状に性差がある)な旦那は彼女の気持ちがよく分かるらしい。
羞恥心が強い余り自分に否があることを指摘されることに怒りを感じる
うんちを指摘されるなんてもってのほか
だそうだ。
確かに引っ込み思案で恥ずかしがり屋な子供だったかもしれない。
が、ステージでダンスをしたり学校の初日もやる気満々で臨んでいた。
そこまで人見知りで困ることもなかった。
が、一度
「ダメだ」
「できない」
と言えず、嫌なことを無理にやらされて拒絶反応になるらしい。
泳ぎだけは早く覚えて欲しかったので嫌がられるのは困った。
注射が大嫌いで定期検診も全力で嫌がる。
「今やっとかないと大人になってから受けても効果が薄いですよ。」
と医者に説得されて受けさせることを承諾した。すごく痛かったらしい。3−4日痛い痛いと文句を言われた。この調子では旦那がアイスクリームか有料アプリで釣って連れて行くことになるのだろう。私はやらなければならないことを甘いもので釣ってやらせるのが嫌いなのでいつもバトルになる。
彼女のために
と思ってやらせることを「ものすごくイヤだ」オーラ全開で拒絶されると私もムカついて
と怒鳴ってしまう。
息子は何でもオッケーなイージーモードで
「言いなさい。」と教えてもないのに
「御願い」
「礼儀正しく」と躾けるのは趣味に合わなかったので娘の時には何も言わなかったら、彼女は「ありがとう」も「御願い」も言わない娘になった。「何で私の〇〇がないの?」「誰も私の〇〇を持ってきてくれない」等と彼女の前で誰がそんな話し方をしてるわけでもないのに常に非難がましいのもムカつく所以だ。給食のおばちゃんにも意地悪をされたらしい。「ありがとうございます」とちゃんと言えないからではないだろうか。。。と思い、それを聞いてからは事ある毎に
「『ありがとう』は?」
と促すようにした。
彼女が事更に
とか
とか言っても
「口先だけじゃなかろうか。。。」
と常に疑ってしまう。
娘には注意欠陥や学習障害の傾向もあるのだろう。
診断されるほど顕著ではないが
他人の話を聞いてない
理解してない
ということが多い。
息子は
宿題も、
「え?!もう、終わったの?!」
となる日も珠にあるというのに、ダラダラ終わらない日の地獄が壮絶を極める。
「これ分からない」
と質問するくせに教えると
「そんなこと習ってない」
と怒る。地団駄を踏んで泣き叫ぶ。
なのは分かっていたが、私には毎日同じ時間にご飯を食べさせて寝かせることが難しかった。
家族に予定を事前に一々言葉で伝えることも億劫だった。努力して改善を目指したが今でもキツイ。
娘の友達が遊びに来た時
と無邪気に聞かれて衝撃を受けた。
娘は
「そんなこと聞いてない」
「今日の予定は何?」
と聞くことは全くなかった。
旅行の時にはトラブルが予測されたので細心の注意を払い、予定を紙に書いて伝えた。が、無駄だった。
移動の度に
「そんなこと聞いてない」
と怒られる2週間は地獄だった。
子供たちの中では今となっては良い思い出となっているのか
「また行きたいね」
と言われるが
と誓った私の心のもやもやは中々晴れない。
夜寝るのも嫌がった。
風呂に入るのも嫌がった。
外出するものバトルだった。
一々
「服を着て」
「靴下履いて」
「かばんはどこ?」
「靴はいて」
と指示しないと何もしない。
息子が3歳になる頃には、私が娘と外出前のバトルに興じている間に彼は一人で服を着て靴を履いて玄関で待機していた。
彼にはできる
「次は何をする」
という「予測」が娘には何故できないのかとイラ立ちが募るようになった。
頭では分かるのだ。
痴呆老人が、
「全てを忘れてしまった」
ことにおののき攻撃的な言動に出るように、娘も自分の注意欠陥傾向にうすうす感づいている。
と他責するのも、私に甘えられるからだ。と頭では分かっていても、怒鳴られるのはキツイ。
怒鳴り返す衝動を抑えようと頑張っても邪険な反応をしてしまう。
最初は耐えてても最終的には怒鳴り合いに進展することも頻繁だ。
昨晩シクシク泣いてたのは
と聞いたら、娘は2−3年前の喧嘩を思い出して罪悪感を感じたから
みたいなことを言った。
いつものようにくだらないことでものすごい喧嘩をしたことは何となく覚えているが詳細は忘れてしまったその事件は
娘が楽しみにしていたケーキを食べようとしていたら私の手があたってケーキが床に落ちてしまったみたいなことで始まった。
多分最初は泣きわめく娘に
「ごめんね。もう一つ買ってこよう。」みたいなことを言って場をおさめようとしたのだと思う。が、いつまでも泣き叫ぶ彼女に最終的には私がぶちキレる修羅場となり娘は
みたいなことを言ったらしい。
「本当はそんなこと思ってなかったのに。。。」
…
「失敗」だったのではないか
と今でも思う。
息子は4歳になるまで
保育所に入れなかった。
自覚は薄かったが、今から思うと、娘の時には、とにかく彼女から離れないとやってられない。くらい切羽詰まってた。
息子が生まれてからもキツイことはキツかった。彼には八つ当たりもした。
娘に手を出したら只でさえ手のつけられない癇癪が修羅場に発展すると思うと絶対に手を出せなかった。が、息子は立ち直りの早い「簡単な」やつだ。という甘えからべしべし頭を叩いた。息子には何回も
「ママはヒドイことをした。すまない。」
と謝っているが
「ママは昔僕の頭を叩いたね。本気でべしっとやったよね。スゴく痛かった」
と息子からは事ある毎に言われる。
息子が生まれてから気持ち的にはどんどん余裕がなくなって暴力的な衝動を抑えられなくなってはいったが、娘の時に感じた
「とにかく赤子と離れなければおちおちトイレにも行けやしない。」
という追い詰められた感はなかった。
物怖じせず社交的な息子なら2歳児保育でも全くオッケーだったと思う。
が、娘は毎朝泣いた。
お弁当直後にお迎えに行くとなりに楽しそうに遊んではいたが、居残りさせるとしばしばうんちのついたおむつでお昼寝させられていた。
最初はちゃんとトイレに行かせてくれてたけどそのうち寝たくないが為トイレで長居するのだと見破られたようだ。そんな託児所に預けるのは気が引けたが徒歩で行けるのはそこだけだった。
カーシートで泣き叫ぶ娘を車に乗せることが苦痛だった。
彼女が分離不安の強い赤ん坊だということは分かっていた。寝付きの悪い娘はおっぱいがないと眠らなかった。寝たかと思って離れると泣き叫んだ。赤子ながら彼女に「ワシのおっぱいはどこや?口の中にあったはずなのに、どこへやってくれたんや?ごるらあ。」と怒られてる気分だった。
常に抱っこしていないと怒られるストレスから逃れる為に私は彼女を納得できない託児所に置き去りにした。
何かを恐れる心はその恐怖を現実のモノにする。とどこかで読んだ。
怒られるのがコワイ娘が、他者をイラ立たせ理不尽に怒られる不遇に遭わないためにも
仲良くしなきゃダメだ。と思った。
うんち我慢しないで欲しい(切実)。シャワーも毎日浴びて欲しい。1年くらい後にはきっと朝晩2回シャワー浴びるようになって、お願いだからそんなにお水使わないで。。。となるのだろうが。。。
在宅勤務でやることもなく、自宅で過ごすのも飽きてきたのでお昼前に散歩に出かけた
普段夕方からしかやってない居酒屋がお昼に店を開けていてテイクアウトのお弁当を売っていたので1つ買った
弁当のおかずはまさに居酒屋風でつまみにぴったりなものばかりだったので、コンビニで500mlの缶ビールを1本買った
ジャングルジムで遊んでいる子たちの中に小6くらいの滅茶苦茶かわいい女の子が一人いた
ルックスもさることながら、手足がすらっと長くてスタイルも抜群
ジャングルジムで逆さにぶら下がったりするたび、シャツがまくれてお腹や胸のあたりが見えそうになる
ベンチに腰掛けてビールと弁当を頂きながら、自分は必死にその子を目で追い続けた
下につけているスポーツブラのようなものを一度だけ見ることが出来たことに満足し、私は帰宅した
公園でお昼を食べただけで何も悪いことはしていないのだが、傍から見たら不審者だと思われてしまうのかなあと考えてしまう一日だった
なんか生きるのに飽き飽きしていた。
や、べつに死にたいとかそんなんじゃなく、なんつうか、刺激がないというかワクワクする事が無いというか。
面白い漫画とかゲームとか遊びとかがあれば、その瞬間はひゃー楽しいーてなるけど、しばらくすれば飽きるか、少なくともワクワク感は無くなる。
結局、遊びも恋愛もセックスも学生時代のようにいろいろと抑制された中だからこそ楽しいだけで、はいご自由にどうぞ、となると最初は楽しむもののすぐに飽きることに気がついた。
ある程度自由に使える金があって、ある程度自由に使える時間があると自分はダメなんかもしれんと思い、結婚してみた。
相手とは何年か同棲してたので、新婚旅行は楽しかったが、やっぱり飽きてきた。
子供ができた。
金と時間という資源がモリモリ無くなりびっくりするくらい制限が増えた。
途端にやりたい事リストが増える。
ものすごいストレスだが、それを年単位で少しずつ消化していく時の達成感がヤバい。
観光産業なんてあくまでおまけであってメインの産業にはなりえない
一時は客が来たとして10年後20年後も観光客を安定して呼べるの?無理ありすぎじゃない?
例えるなら風力発電とか太陽光発電を主電源にしましょうっていってるようなもんだよ 不安定すぎてあくまでサブにしかならないでしょう
観光関連業種で働いてる人たちもそういう不安定な業種だと分かってて就職したんだろうから今になって支援しろとか言われても困る
JTBとかJALが就職人気ランキングで上位に居るのを見て「やっぱ学生は何も分かってねえなあ」って思ったもの
1. ファミマ
2. ローソン
3. セブン
ファミマとローソンは横並びかな。というか、弁当ひとつ売るより、惣菜をバラ売りするのがコンビニの戦略なので、どこも低調。特にセブンのやる気のなさは酷い。
1. ファミマ
2. ローソン
3. セブン
バリエーションの豊富さでファミマが上回る。パスタではローソンがちょっと頑張ってる。
1. ファミマ
2. ローソン
3. セブン
豊富なラインナップのファミマを、悪魔のおにぎりなどの独自性でローソンが追う。
1. ローソン
2. ファミマ
3. セブン
「マチノパン」ということで非常に豊かなラインナップを揃えたローソン。一時期よりは落ちたがファミマベーカリーも良い。
1. ファミマ
2. セブン
3. ローソン
1. セブン
2. ファミマ
3. ローソン
セブンの圧勝。完全にここに狙いを定めているのがわかる。ファミマは「お母さん食堂」に力を入れるもいまいち。ローソンは土俵にすら立てていない感じ。
1. セブン
2. ファミマ
3. ローソン
同上。
1. ローソン
2. ファミマ
3. セブン
次々にヒット商品を生み出すローソンの圧勝。ファミマはローソンの真似っこで「デザートモンスター」とか言ってるけど微妙。サークルKサンクス時代の遺産は食い潰したか。
1. セブン
2. ファミマ
3. ローソン
24歳女、大卒未婚、関東在住、年収140万円ほど。手取りは月8万円くらい。金融資産なんてもちろんない。交通費も経費おりないので、自腹。
○家賃について
セフレ関係のような、よく分からない曖昧な関係の男性とシェアハウスをして、月2万くらいで暮らしている。1人暮らし用の広さなので、もちろん狭いけど贅沢は言えない。
基本的に自炊。近くに商店街があって、夕方安売りになった惣菜+米を炊くだけという日も多々ある。1日1000円以内になるくらい。飲み会は奢ってもらえる飲み会しか基本的にいけない。
朝ごはんにおにぎりかパンを1個買ったりする時にコンビニは使うけど、普通にご飯食べようとするとコスパ悪いからいかない。スーパーの弁当も、3割引き以上じゃないと買わない。
どうしても必要な時だけユニクロ、またはZOZOでセールしている服をブランド関わらず値段と見た目だけ考慮して適当に買う。基本的に服は買わない
年収上がるまで、今の家に住まわせてもらってるので何も文句言えないし、他の人とも付き合えないと思っている。そもそもデートする金もない。
○車について
もちろん無い
○貯蓄について
貯蓄は無理。奨学金の返済と税金やらなんやらで、生活費をギリギリ保つのが精一杯。どうしても生活費費足りない時は、家賃を翌月にまわしてもらったり、ちょこちょこ消費者金融から借りてる。
○旅行について
Youtubeでおのださんの機内食や、海外ホテルレビュー動画みたりして現実逃避するのが楽しい。現実は、国内日帰り旅行さえも痛手すぎるので無理。
年収140万円でも、ぱっと見みすぼらしくならない程度に暮らすことは可能。
https://anond.hatelabo.jp/20200530164357
元増田を参考に書いてみました。前職の年収は倍以上あったのですが、生活レベルは元々低かったのでなんとか暮らしていけてます。早く一人暮らしがしたい。
大量に飲み物や弁当を取り置きしたのが、創価学会の集会の為だったり、
常連のおばあちゃんが、数字を読む事もできず、買いたいものをバイトの自分に「これ安いの?」「これ、私のお金で買えるの?」と訊いたりしてきた
二位が宅配食材会社が片手間にやってる老人一人ぐらし向け弁当やつじゃね
関東だとヨシケイあたりがつよいやつ 地元ごとにいろいろある、ショクブン、タイヘイなど
まあステマだろうな、という感じで信用できない。
あと初回利用は500円割引になるようなんだが、これも景品表示法違反ぽい表示の仕方。
サイト上の価格は所々「(税抜)」との表示はあるものの、特別記載がなくても「税抜」表示になっている。
これ自体はよくみる。なるべく安く見せたいってのもわかる。
特別記載がなくても「税抜」表示なので、普通に考えれば「500円割引(税抜)=540円割引(税込)」という認識になる。
つまり、「500円割引(税込)≒463円(税抜)」ということだ。
ちなみに税込割引であることは決済画面まで行かないとわからない。
決算画面の表示も
本体価格 ○○円
割引 -500円
送料 ○○円
消費税 ○○円
合計 ○○円
という表記だ。完全に誤認を狙ってきている。
寝耳に水、寝てるネズミに。
寝てるネズミの耳に水入れてやるなよ!可愛そうだろ!
もう1試合を27球で終わらせるようなパーフェクトピッチング!
ウソです。
まあ事務所私一人なので咳をしても一人よ。
たまにこういう火の粉を浴びるような、
なんでいままでAさんとBさんとでやり取りしていた案件を
だからAさんから私であるCさんを介してBさんに連絡するという、
余計な中継プレイをしつつ、
もう一旦マイクスタジオにお返しします!ってふんぞり返って言いたいところだし、
中継先からあまりにディレイでが酷すぎて聞こえないふりもできそうなものよね。
朝の占いあるじゃない。
6時50分!とかって言う占いで今日のラッキーアイテムはプチトマトだったの。
ほんと
いきなりのそう言う連絡ってやめてほしいものよね。
午後から仕切り直しよ!仕切り直し!
うふふ。
飲んでなくなったらティーパックを入れて
昔の人の苦労が伺い知れないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
母の話によると父はタバコの吸い殻をダンボールにためていたらしい。なぜ父はそんなことをしていたのかは分からないし、なぜ母もそれを危険視しなかったのかはわからないが、とにかくそのせいで燃えた。
僕の昔住んでいた田舎の実家はそうやってなくなった。次に見た時には簡単に整地されており、何を入れているかはわからないが小さな物置だけが建てられていてぽつんと建っていた。整地するためにお金が足りないということで僕も30万円を母に渡していた。
その後、父と母と、一緒に住んでいた次男は一時的に市営住宅のようなところに住んだ。向かいの家ではうさぎが放し飼いにされていた。しかしボロすぎて辛かったらしく、最終的に家を買った。今もそこに住んでいる。その家は2階建てで部屋もたくさんある広々とした家だが、前の住人が物置で首を吊って亡くなったため1千万円弱で購入できたらしい。
父はぶっ壊れていた。
僕が小さい頃の記憶を思い出してみると、父と一緒にファミコンの難しいステージを試行錯誤しながら一緒に攻略したり、将棋で対戦したりしていた。父の仕事場が家から歩いていける距離にあったため、小さな僕はたまに仕事場まで歩いていき、父が仕事が終わった時に一緒に原付きに乗せてもらって家まで帰ったりしたこともあった。
しかし父は脳に異常があった。その関係で度々入院したり、手術を行ったりしていた。何度も仕事を辞め、何度も新しい仕事をしていた。
そのためうちは母がメインで働いている。働きに出ている母のかわりに家事はおじいちゃんがメインで行っていた。食事、洗濯や、子どもが病気になった時に病院に連れて行ったり、雪で学校へ行けそうにない時は車で送って行ったり。
父は特に前頭葉に異常があり、理性を保てずふとした拍子に豹変することがあった。僕らがゲームをしていたら急に部屋に入ってきて怒り出したり、部屋で普通に過ごしていただけなのにちょっとした発言で急に説教をはじめたりしだした。
一時期はおじいちゃんが目の敵にされていて、おじいちゃんのやることなすこと全てに文句をつけて自分のやり方を強要したり嫌がらせをしたりしていた。ある日次男は父に「殺いたる!」と言われながら追いかけ回されてトイレに閉じこもって避難したりしていたこともある。僕もある日「ボケてるんじゃないの?」と父にいったらそれは禁句だったらしく、急に後ろから思い切り殴られ、しばらくの間耳が内出血した状態で過ごしていたことがあった。
あとは理性が効かないためパチンコにもハマっていた。生活費をほとんど持ち出してしまったこともあるらしい。そのため家族は色々と対策をしていたようだ。とにかく数え上げればきりがない。家族みんなが何度もひどい目にあっていた。いつ何で発狂するかわからない父と過ごす毎日は地獄だった。僕は本当に父のことが大嫌いだった。
中学、高校の頃は僕も思春期を迎え、なぜ僕だけそんな境遇なのかと自分の人生を呪った。特に僕は人と接するのが不得意だったこともあり、なぜみんな日々学校であんなに楽しそうにすごしているのに僕は何もうまくいかないのだろうかと感じていた。そして僕はきっと父親のせいでこんな風になってしまったのだろうから全てが父のせいだと思っていた。
高校で1日が終わったあと、僕は毎日夕方遅くまで部室でだらだらとすごしていた。やることがあったわけではないが家で父と顔を合わせたくなかったからなんとかむりやり時間を潰していた。そうして父がご飯を食べ終えて2階の自分の部屋に閉じこもるあたりの時刻に帰宅するようになっていた。たしかそのあたりでは父に話しかけられても全て無視するようになっていたと思う。正直、早く父がこの世から消えてほしいと思っていた。
進学は田舎から遠い関東の大学を目指した。高校での人間関係は何一つうまくいかないし、家に帰っても狂った父親が家にいることが耐えられなかった。とにかく全てを捨てて新たな地で心機一転新しい生活をはじめたかった。
結局僕は関東の大学に合格し、そっちで一人暮らしをはじめた。自分以外誰もいない家。好きなことを好きなだけでき、誰からも急に理不尽な文句を言われることが決してない、人生ではじめての心から落ち着ける空間だった。
外での人間関係が決して完璧にうまくいくわけではなく苦悩も多くしていたが、それでも大学のサークルに入ってみんなと普段から活動し、その中でいつも遊べる友達も出来てそれなりに充実はしていた。
そんな4年間を過ごし色々なことを経験する中で、僕の心も徐々に溶けていった。
色んな失敗をした。失敗をする中でなぜ僕はこうもうまく行かないんだろう? と考えた。一生このままで生きていかなければならないのだろうかと思った。そんな人生に何の意味があるのだろうかと思った。何もないのであれば死んだほうが良いのではないかとも思った。何かある度にすぐ父のせいだ、と思った。しかし、父のせいにすることは何の意味もないことにある日気づいた。たとえ本当に父のせいだったとしても、この先幸せになりたいのであれば、僕自信が変わっていくしかないのではないかということに、運良くたまたま気づくことが出来た。
それに気づいてからは父のことが頭によぎることがなくなった。自分にとって重要なことは、今後自分がどうしていくか、ということだけとなった。過去は何も関係ない。ただひたすら未来を描いて進むことだけが重要なこと。ひたすら考えて、考えて、考えるようになった。
そうやって過ごしているうちに、いつの間にか父のことを許していた。正確には、父に対しての興味を一切失った自分がいた。
僕は性格的に、一つのことに極端に集中してしまう傾向がある。大切な物は愛おしい。しかし自分に全く関わらないものには興味が無い。ちゃんと考えて話している人の言葉は気になる。しかし思考停止で人を傷つけるだけの言葉には全く興味が無い。嫌悪ではない。そんな人は世の中にたくさんいることが当たり前だからどうでもよすぎて興味が持てない。だから父のことも興味が持てない。しかし形はどうあれ、許すことも興味を失うことも同列だったため、僕の中で父のことは全てが解決した。
僕は自分の普段の生活のことばかりを優先して考えていて、あまり実家にも帰らなかった。たまに帰った時やたまたま母から電話が来た時に話をするのだが、父は窃盗もするようになっていた。窃盗と言っても数千円を盗むくらいだったらしいが。
とはいえ特に意外性はなかったし、その後どうなったのかなども興味はなかった。しかし一緒に住んでいる母としては大問題だった。家族が盗みを繰り返すのを放置してはおけない。
結局そのあたりから、母は自分が不在の時は時々父を介護施設に入れるようになった。もちろんはたから見れば早くそうしとけばよかったじゃん、みたいな話だろうと思う。事実母も父と離れる時間が増えることで精神的にはかなり楽になっていたのではないかと思う。
しかし、施設の費用はそんな安いものではない。時々だけとはいえそれなりの費用がかかる。家のローンに加え、介護費用。そのころ母はもう60近かったがとにかく定年まで働かねばと嘆いていた。
そしてなんだかんだで月日が過ぎ、父はどこかの溝に落ちて負傷してしまったらしく、自分で体を動かせなくなってしまった。完全な要介護者となった。
僕はといえば、そんな話を聞いても全く興味が持てず、帰省したときにも特に会いに行こうとは思えなかった。というかそういった発想すら出てこなかった。もう僕の中では全てが終わったことだったため、このままもう二度と会わなくても別にいいと思っていた。会ったほうがいいんじゃないかと兄弟に言われたりすることもあったが断っていた。
それから数年が経った2019年の年末ちょっと前に母から連絡が来た。父がもうそろそろ長くないとの話だった。丁度正月前後に亡くなるかもしれないということだったため、喪服などを購入して準備をした。
しかし、年末近くになり、再度連絡が来た。どうも結局峠を超えて今のところ問題ないということだった。
年末になり、実家へ帰省した。正月はだいたいいつも帰省し、子どもたちを妹の子どもたちと遊ばせたりしている。
さすがに状況が状況だったため、自然と父のところへ行く流れとなった。僕は別に行かなくてもいいと思っていたが、妻が子どもたちと父を合わせてあげたいという事を言っていたため、それもまあ子どもたちにとって何かの意味があるだろうと思い、特に拒否もせず行くことにした。
母と僕の兄弟とその家族でそれぞれ数台の車に乗り、大人数でぞろぞろと介護施設へ行った。
部屋に入るとベッドに横たわっている父がいた。父はもう当然自分では動けない状態で、しゃべることもできないため、うー、うー、とずっと唸ったりしていた。目が合うような気もするが特に変わった反応もなく、何を考えているのかは分からないし、そもそも何かを考えることが出来ているのかもわからない。結構多い人数で来たためぐるっとみんなでベッドを囲み、ぎゅうぎゅう詰めとなる。みんなで父の様子を見て、きっと大勢来ているから父もびっくりしているだろう、とか、喜んでいるときの声だわ、みたいな話をしていた。
父はたしか僕の子たちを見たことがなかっただろうと思うので、子どもをそれぞれ抱きかかえて父の目線の先に連れて行った。特に反応もなく、自分の孫だと分かっているのだろうか、分かっていないのだろうかもよく分からなかった。
そんなこんなでそこで少し過ごし、写真を撮ったりして帰ることになった。
最後に大人たちがうちの子に「早く元気になってね」と言ってあげて、と促した。7歳の長男と5歳の次男がそれぞれ父に、まだ幼い可愛らしい声で「早くおもちゃ買ってね」「早く元気になってね」と一生懸命伝えた。すると突然、父が今までと違うかなり大きな声であー、あー、と言った。みんなびっくりしていた。一応子どもたちの言葉は伝わったのだろうか。詳しくはわからないがそれっぽかった。
それから半年ほど経った。コロナが流行し、緊急事態宣言が発令されて終了した頃。2020年6月29日、朝起きたら妹からLINEで父が3時頃に亡くなったという連絡が来ていた。月曜日。
妹に電話してみたところ、コロナのこともあるし別に来なくてもいいよ、ということを母が言っているとのことだったため、僕は葬儀には行かないことにした。僕も正直葬儀には興味が無いし、それよりも子どもたちに学校に行かせたり普段の生活をおくらせてあげたかった。
しかし妻が不安になって再度母に連絡をとってみたところ、そんなことは言っていないらしく、来いと言われた。一体なんなんだ。
とはいえコロナのこともあるし、妻もちょっと体調的にウロウロできる状況ではないため、僕一人だけ行くことにした。
葬儀は7/1。朝からだったため前日に仕事を終えたあと実家に帰った。弟や甥っ子たちも実家に来ていた。大切な父……というわけでもなかったため、みんな普通に過ごしており明日が告別式ということも忘れそうだった。
次の日、起きて甥っ子たちはフォートナイトをしたり、みんなでだらだらと朝ごはんを食べたりしていた。そうこうしているうちに時間になり、葬儀場へ向かう。
葬儀場は宿泊できる部屋があり、実家にいなかったメンバーはそこにいた。しばらくすると大阪のおじちゃんとおばちゃんがきた。それぞれ父の兄弟で、夏休みや冬休みには僕の兄弟と同じくらいの子どもたちをつれて実家に遊びに来ていた。大勢でマリオカートをして遊んだりしていた。おじちゃんにはいつも海につれていってもらっていたし、おばちゃんは逆に夏休みに大阪に泊まらせてもらっていたため二人とも馴染み深い。
おじちゃんによると、父は子どもの頃に事故で頭をうったという。当時は額あたりの怪我の治療は前頭葉があるため、簡単にはいじれず、医師にも難しかったという。誰もしっかりとした治療はできなかったらしい。その後父は元気にスポーツをしたりしていたらしいが、大人になって障害が出始めたのはもしかしたらそのあたりが原因だったのかも、という話をしてくれた。とはいえ母も僕の夜泣きが原因だったのでは、と言っていたりするので何が原因かはよくわからず、おじちゃんの話も懐疑的だった。
しばらくして葬儀が始まった。みんなが部屋に集まる。何もよくわからない状態だったが言われるがままに並んで椅子に座った。部屋が暗くなる。導師さんが念仏を唱え、みんなで繰り返す。
その後も式が進行し、導師さんが話を始めたりした。誰なのかもよくわからないし、何を話していたかももう忘れてしまった。
導師さんの話が終わると、今度は親族代表ということでおじちゃんが話をすることになった。おじちゃんは前に出てきたのだが、マイクと全然違うところで話をし始めた。式場のスタッフを見るとあわてておじちゃんのところに駆け寄ってマイクのところに連れて行こうとするところだった。おじちゃんはいわれるがままにマイクのところまで行ったのだが、なぜかマイクを背にしてマイクがない状態で話し始めたので再度スタッフが誘導したのがおかしかった。
おじちゃんはおじぎをしたあと、先程のように事故の話をし始めた。頭をうち、前頭葉があるため治療もできず、でもスポーツをしたりしていた、ということ。
そのあと、父が大勢の人に迷惑をかけるようになってしまったこと、そして、その父のことを母が最後まで面倒を見てくれたことを話した。すると突然、何か急にこみ上げてきたものがあったらしくウッと声を止めて泣き始めた。それを見て母も泣いた。なんとなく空気が変わった。
元々そんな雰囲気はなかったためびっくりした。僕はもらい泣きもしなかったし悲しくもなかった。ただ、みんな何かしらそれぞれ思うところがあるのだなと思った。おじちゃんからすれば身内がとんでもない状態になってしまって、父が元々赤の他人である母にひどい仕打ちをたくさんしてしまったことに申し訳ないという気持ちが非常に大きいのだろう。
母は実際にひどいめにたくさんあい、この年までずっと働き詰めで大変な思いを今もしている。しかし、お見合い結婚だったとはいえ、楽しく幸せな時期も経験し、僕らがまだ生きて経験したことのない年数を父と一緒に過ごしてきた。詳しいことはわからないが、そこには本人にしかわからない無数の思いがあるのだろう。自分と妻も一緒に生きてきているが、子どもたちはそこであった多くのことを何も知らない。当たり前のことなのだが、不思議なことだ。
そして、ここにそれぞれの思いを抱えた色々な人が集まったことも不思議に感じた。みんな何を思ってここにいるのか。僕には分からないが、何かを思っている。
その後告別式は終わり、父の棺にみんなで草花を詰めた。父の顔は処理を施されてつやつやしており、蝋人形のようだった。
その後棺を閉じ、それを男たちで車へ運んだ。そしてみんながそれぞれの車で焼却場の方へ向かう。
焼却場は僕が今まで行ったことがあるような汚い場所ではなく、きれいな施設だった。コロナの影響で焼却場には15人だけが入れるということらしい。父に近い15人が部屋に入る。部屋の中にある等間隔に並んだ足のマークの上にそれぞれが立った。
次に、父が入った棺が焼却する空間に納められた。スタッフがボタン類をアルコール消毒したあと、閉じるボタンを押した。機械により扉が閉じられる。
そしてどのボタンを押すと焼却が始まるかの説明を受け、準備が出来たら押すように説明があった。しかし誰も反応しないため僕が母に押しなよと促した。しかし、どうも嫌だったらしく、いやいやという手振りをしたので僕が押した。
その後は1,2時間ほど時間がかかるということで休憩の時間となった。密をさけるため、どの部屋も人数制限があり適当にバラけることとなった。弁当が用意されていたためそれを食べて過ごした。
しばらくするとスタッフから声がかかったためみんなで部屋に集まった。中央には棺の台を収めるスペースがあり、今は空いている。そのそばに長い箸がたくさんあり、それぞれがその箸を手にした。
しばらくして台が運ばれてきた。まだ熱く、気をつけるよう注意があった。その上には骨が置かれている。葬儀は何度か経験したことがあるため特に新たになにか思うということはなかった。そういえば昔妻が飼っていたうさぎを看取ったのだが、その時に焼却されて出てきた骨を見た時はとても悲しくて泣きそうになった。
スタッフに説明されながら、足から順に骨を入れ物に詰めていく。みんなで行ったり来たりしながらそれぞれ骨を詰めていった。思ったよりもポロポロともろい。頭の方になると、大きすぎるため箸で割って詰めていく。頭には手術の跡の金具がついていたりした。それも母が詰めていた。
そして一通り詰め終わり、葬儀の全ての工程が終わりとなった。皆それぞれ準備をし、帰宅した。僕も一度実家に帰って着替えをして荷物を整理し、車で帰路についた。
僕は仕事もあったし、あまり車で長距離移動をするのは事故で死ぬ可能性もあるし好きではない。そのためとにかく早く全てを終わらせたいと思っていた。なんとか生きて帰ってくることができたが、かなり疲れ果てていた。とにかくいつ始まるのか分からなかった大変な出来事が一つ終わり安堵した。
父が亡くなったが、母は元々次男と一緒に住んでいる。近くには妹の家族もおり、しょっちゅう甥っ子や姪っ子たちと遊んだりしている。三男もわりと話が好きで母によく電話をかけているらしい。僕は離れていて長期休み以外は音沙汰も無いが、それでも母はみんなのおかげで楽しく暮らしているように見えるため特に心配はしていない。
父がいなくなったことで母は父の介護費用を払う必要がなくなった。だいぶ生活も楽になるのではないかと思う。僕は本当に良かったなと思っている。
昔「家、ついて行ってイイですか?」という番組を見ている時に、一人の若い女性の家に行く回があった。
その女性の家には父親がいるのだが、要介護のため自分では動けない。女性はその父親の介護をしていた。自分では動けないため、あらゆる事を補助してあげなければならない。朝起きてから、昼食、夕食、風呂、トイレ、あらゆることだ。もちろん生活のため仕事もしている。ヘルパーさんがいたのかもしれないが、それでも何もなく普通の生活をしている僕らには想像できないレベルの大変な毎日であることは間違いない。
女性はまだ若く、色々なことがしたい年頃だろう。彼氏を作ってデートをしたり、友達とショッピングに行ったり。インドア派であればゲームをしたり、ゲームのキャラにハマって腐女子をしたり、好きなアイドルのライブにも行ったりしていたのかもしれない。しかし、全て介護のためできない。ただひたすら介護をしなければならない。夢もあったのかもしれない。でももう諦めてしまったのかもしれない。
父のため仕方がない、と思いながらも、女性が毎日どれだけ苦しいかを想像をするだけでも苦しくなる。
その父はどう思うだろうか。自分の娘が自分の介護のために全てを犠牲にし、尽くしてくれている。ありがたいと思うだろうか? 僕だったら死にたいと思う。一生懸命育てた自分の娘。小さな頃から育てながら思うことは、この子が楽しいことも辛いことも含め色んな事を経験し、苦悩しながらもそれでもたくさんの素晴らしいことを経験しながら歩んでいき、やりたいことをやって自分の未来を掴んで幸せになってくれればいいなということ。どんな未来でも自分が進みたい方向に進んでいってほしい。
しかしその全ての未来を自分の手で摘み取ってしまう事になったとしたら。耐えられる自信はない。すぐに死に、失いかけていた大切な未来を与えてあげたいと思う。若い娘がそのような境遇にさらされて多くの時間を失ってしまうことは世界にとっても大きな損失だ。
でも、死ぬということは難しい。自分で死ぬ覚悟ができるものかどうかは全くわからない。さらに介護されている状態で自分で死ぬこと自体がそもそもできない場合もあるだろう。
この世には安楽死が必要だと思う。死にたくても死ねない人を助ける制度が必要。綺麗事だけでは救われない人達がいる。その人達が救われる世界になってくれればいいと思う。しかしどうすればそういう世界にできるのかは壮大すぎて僕にはわからない。とにかく僕にはこうやって苦しむ人達がいるということを文字にして発することしか出来ない。
とにかく、その一つとして父が死んで本当に良かったと思う。
番組ではステイホームをする全国各地の家庭の様子が写し出されていた。
そこでは家キャンプする仲の良い家族だったり、子供の誕生日会をピリピリしながら行う夫婦だったり、自作すごろくをして過ごす夫婦だったり、息子と格闘するお父さんだったりと、いろんな家族がいた。
誕生日会の家族は雰囲気こそほんわかしてないけど最終的には丸く収まっていて、番組で流れた家庭は大体どこも良い話になっていたように思う。
担当ディレクターのコメントを読んで、その中のとあるくだりに対してうちの夫婦はどうなんだろうなと思ったことについて書く。
前:妻(私)→シフト制正社員、旦那→カレンダー通りの休みの正社員
私はコロナ関係なく仕事を一旦辞めていた。緊急事態宣言が解除されてから絶賛就活中。
旦那はコロナでも仕事がきちんとあり、マスクをして会社へ行っている。
○家事
前:ご飯は作れる方が作る、掃除洗濯は各家電にお任せ、買い物は一緒に行ったり片方が行ける時に行く
後:大体全部妻が担当
以前は共働きなのでやれる方がやるようになっていた。
ご飯は私も作るし旦那も作る。先に帰った方が用意しておくことになっていた。
帰ってから作ることもあれば作り置きしてあるのを食べたり、なければお惣菜買ったりたまに外食したり。お弁当も各自で用意。
掃除はルンバ(ボタン押すのは旦那のが多い)洗濯はドラム式洗濯機で乾燥まで一直線。ボタン押すのは半々(気持ち、私の方が多いと思う)
後は3食のご飯もお弁当も掃除も買い出しもほぼ私。買い出しはネット通販も使ってたけど。
献立考えるのしんどいのに初めて気づいた。世の中の子供育ててる主婦の方すごすぎでしょ…。
○お出かけ
前:休みの合う日に映画見たり、服を買ったり、ぶらぶらウィンドウショッピング、週一で外食
後:ほぼない
ここが一番変化が大きい。まあこのご時世だからなかなか出られないよ。
休みに何やっているかというか各自の部屋で好きなことをしている。
共通する趣味がない。やろうと誘えばできるのもあるけど、一人でやってる方がいいのかも。
前:頻度は高くないにしても定期的にあった
後:ここ数ヶ月はない
世間の日数で言えばセックスレスに値する期間はしていない。ここについてはコロナとは別の問題があるからまた書けたら書きたい。
番組担当ディレクターやMCのオードリー二人が言ってた、コロナ禍でみんなで(家族)楽しむように工夫しているっていうコメントが私の中で引っ掛かった。
あれ、うちの夫婦は二人でというより個人で、の方に拍車がかかってんじゃないか?って。
二人でやっていたことってコロナ前だと週一のお出かけが唯一だったのかなあって。
あそこでコミュニケーション取ってたような気がするけど、今は全然できてない。
各自の部屋で過ごすことが圧倒的に増えたし、外食も減ってしまったから一緒に食べるご飯もおざなりかもしれない。
番組ですごろくしていた夫婦がすごい羨ましい。あんな風に二人でワイワイしたい。
「〇〇さんは良い人だけど、付き合うとかは考えられない」
めっちゃ言われる。あと既婚者からやたら褒められる。うーん、社交辞令ありがとう。つらい。
私は私の凄いところめっちゃいっぱい知ってて、駄目な所もいっぱい知ってる。仕事できるし、上司同期後輩からの信頼もあって、年収も悪くない。料理めっちゃ得意で栄養計算もできて、毎日弁当作って仕事行ってる。家計もちゃんとつけて、貯金もできてる。ジムでのトレーニングも4年続いてる。学歴も上位1%に入ってるが、さすがに30近くなって学歴自慢はアカンよなって思うくらいの理性はある。駄目な所は、顔がザキヤマかフジモンか十影か崇勲くらいデカいところと、脚が奇形レベルで短いこと、一人で出来る趣味以外持ってないこと。
私も「『オス』としての魅力がない問題」に悩まされてたけど、すっごい簡単な解決法があった。恋愛事からスッパリ手を切れ。
一言で言えば、私は有能なのよ。それもかなりの。勉強できたし研究もできたし仕事もできてる。一人暮らしでしっかり家事やって、ジムでトレーニングしたり増田でわーわー言うくらいの時間もある。ほとんどのことを普通以上のレベルでやれる、有能じゃなきゃなんなんだろう。それでも「『オス』としての魅力がない問題」にめちゃくちゃ悩んだ時期があって、そのとき「私はこんなに有能なのになんで恋愛だけはこんなにうまく行かないのか」を本気で考えた。
私が恋愛以外で出来ないことってなんだろう、って考えても、サッカーがめちゃくちゃ苦手でホントにやりたくないくらい。そうだよ向いてないならやらなきゃええやん。ってんで、シンプルに恋愛事に向いてねえってことに気づくのに26年かかった。私レベルの有能が26年かけて出した答えが間違ってるはずがないから、安心して恋愛事からスッパリ手を切れ。
恋愛事から手を切るとマジで人生が好転した。ずっと「何でも出来るのに女にはモテない」で悶々としてたのが、「何でも出来る」に様変わり。タバコなんて絶対吸わん、余計モテなくなる、とか思ってたけど、葉巻とパイプっていう新しい趣味ができたし、ファッションもどうにか短足を隠せる、顔デカを隠せるちょっとでも良いものを、っていうのが無くなってユニクロでスッキリシンプルな誰が見ても「普通、短足顔デカだけど」っていうカッコになった。空いた時間で趣味と仕事のスキルつけたりもして、良いことしかなかった。やっぱ恋愛は向いてなかった。安心して恋愛事からスッパリ手を切れ。手を切っても駄目だったらまた戻ればいいから。
幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。
学もなく、技術もなかった母は、
娯楽をする余裕なんてなく、
日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに遊びに行っていた。
給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。
ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。
野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。
母がもらったのは招待券ではなく優待券だった。
チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わなければいけないと言われ、
外のベンチで弁当を食べて帰った。
俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、
母に孫を見せてやることもできた。
そんな母が去年の暮れに亡くなった。
死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように
「野球、ごめんね」と言った。