はてなキーワード: 市場メカニズムとは
筆者はブロックチェーンがWeb3にリブランディングされる前からこの業界で働いているエンジニアです。しかしWeb3系のインフルエンサーの掲げる思想に対しては反対の立場を取っているため、この記事の主張は概ね理解するものの、いつまで化石みたいな認識で批判記事書けなたと思うところもあり、せっかくの機会なので最新の状況を世の中にアウトプットしていこうと思う。
一応匿名ブログということになっていますが、「本記事は個人の意見であり所属企業は関係ありません」と予め明記しておきたい。
https://anond.hatelabo.jp/20230210072521
まず、web3の基盤をうたう殆どのブロックチェーンは分散されていないし、脱中央集権なんて無理だと諦め始めてる。あのイーサリアムでさえ、天下のSEC様に尻尾フリフリしてる。イーサの外を見ればもっと酷い。ほとんどが、一部のVCや創立メンバーが実質支配してるだけの名ばかり分散。まだGAFAの方がそれなりに世間や政府の監視に晒されてるぶんマシだろう。打倒GAFAとか叫んでるやついたよなー。お前らもう見分け付かんのよ。同じ穴の…ってやつだ。
最初に目指していた姿は確かに脱中央集権であったのは間違いないが、最初から分散かつ非中央集権で完璧なものを作れるわけがないです。製品開発における意思決定のスピードは中央集権型のモデルが圧倒的に優れているのは、この界隈でも認識しています。非中央集権型でどの機能を開発するか、どんなビジネス戦略で進めるかをイチイチ分散で合意をとっていたら意思決定だけで長い時間がかかります。そのため、最初は中央集権型でプロダクトを開発することでスピード感を重視し、徐々に理想的なモデルである非中央集権型にシフトするというのが今のトレンドです。みな理想と現実の乖離をきちんと直視しています。この流れのことをMinimum Viable DecentralizationもしくはProgressive Decentralizationと呼んでいます。
情報源は? 私の観測範囲ではまだまだいますけど。Web3界隈もレイオフ祭りなのでこの期間においては正しいかもですが。
まず、プロジェクトを始めるためにお金が必要になる。そうしてVCとかに近づくと、手で数えられるくらいの人数で支配的になるようなトークン配分で出資契約が結ばれる。始まった瞬間に分散は諦めないといけないんだ。それでAptosなんかはプロジェクトスタートとともに死んだと騒がれた。
そりゃ出資するんだから支配権を握りたがるのはガバナンストークンでも株式でも同じかと。VCは慈善団体じゃないんだから。その上での反論ですが、VCの出資比率正しく知ってますか? Aptosの初期供給量は10億枚。51%がコミュニティで保有。19%がコア開発者に分配。16.5%をアプトス財団で保有。13.5%を投資家に割り当て。13.5%ぽっちを複数のVCで分配しているのに、支配権があるとお思いで?コア開発者より少ないのに?
web3のビジョンには共感していても、現実があまりにかけ離れていることには気づいていて、仮想通貨の冬となった今、やつら結局、古巣に戻ったりしてる。web3エンジニアは分散ウェブの夢を見た。しかし、長いバブルを抜けるとそこは雪国だった。そして誰もいなくなった。それが今のweb3。
理想と現実の乖離があることは当事者は皆知っていることです。仮想通貨の冬が起きたのは理想と現実の乖離ではないので、因果関係のない事柄を結びつけないようにしましょう。誰もいなくなったと言っていますが、アナリストのレポートを読むといいですよ。Web3界隈の投資額はまだまだ高い傾向にあることに気がつくと思います。
本当の意味で、最も理想的に分散されているのはビットコインだが、ビットコインは本体も関連プロジェクトも、エンジニアに対する金払いは悪い。というかほぼボランティア。精力的に活動しているのはビットコイン長者の老人だけで、将来にわたっての開発の持続性がない。そもそも若い世代は育つはずがない。ビットコインはその大半が採掘されていて、これから人の一生分かけて、残り僅かな枚数のコインがちびちび採掘されて、すでに固定化されたマイナーに払われ続けるだけだ。自分が一枚も持ってないビットコインのために誰が働こうと思うのか。
ビットコインのコア開発者になろうとする人は確かにいないかもですね。だってもう開発する追加機能自体がないんだもの。ビットコインのコア開発者に今からなりたいって人がいたら、私だって止めますね。
そもそも、ビットコインが何年続くんだ?環境に悪いとかそういう批判はしないが、単純に採掘スケジュール酷くないか。4年ごとに採掘量が半分になるたびに価格が2倍になる?そんなこと言ったら40年後には1ビットコインは10億円越えだぜ。流通してるビットコインをぜんぶ足せば、世界のすべての価値を吸収しても余裕じゃないか。
詐欺師が使う胡散臭い言説なので無視したらいいのに。そんなことがありえないのはみんな知ってますよ。
つまり、そんなに価格が上がることはなくて、その分採掘の難易度が下がらないとマイナーの収支が取れなくなるんだが、そんなことしてたらいつか危ないんじゃないか?51%攻撃リスクだっけか。「ビットコインはハッキングされたことがありましぇぇん(キリッ」とかいつまで言ってられるだろうね?
マイナーの収支と1ビットコインの当たりの価格に関しては相関がないですね。マイナーの収支はTransaction Feeによって賄われるので、1ビットコインの採掘報酬がゼロになったとしても運用は回る設計になってます。慈善事業ではなくビジネスなので電気代やハードウェア費の採算が取れないTransaction Feeを指定したトランザクションは取り込みませんので、1ビットコインあたりの価値が1億円円だろうが1万円だろうが、Transaction Feeは現実的な値に落ち着くのが経済の原理です。51%攻撃が未来永劫受けないのはありえない話なので、過疎化したら攻撃可能になるのは間違いないです。まぁ過疎化した時点で二束三文だと思いますけど。量子耐性もないしそのうち危ないとは思ってますけど、それまでは金融ツールの一種として活用すればいいんじゃないですかね。デフォルト間際の某国の通貨だって世界で流通し続けてるのと同じ理屈で。
ビットコインの次に分散してて、そこそこビットコインよりは面白いことができそうなイーサくん。目指したのは信頼のいらないアナーキーな世界でも安心して利用できるオープンな分散型コンピューター。素晴らしいね。イーサリアム財団公式wサイトのソーラーパンク風のサイトデザイン好きよ。ユートピアって感じするよね。けど、人類がアホすぎて、結局そこで流行っているスマートコントラクトは、チンパンホイホイのポンジーファイナンスくらいなんだが。なんだ、おまえDeFiと言うのかい。贅沢な名だね。あんたの名はポンジだよ。いいかね。ポンジ。返事しな。ぽーんーじ。てなわけで、規制されない金融を可能にしたら、クソみたいなスキームでクソみたいなマネーゲーム環境が無限に湧いて出てきて、誰が一番多くドルに換金できるかの競争が起こって盛り上がり、なぜかそれがイノベーションとか言われているだけなんだ。規制ないところのアナーキー金融道なんてものは、産業革命の時代以降ずっと人類は経験してて、そのときどきでクソって結論になっててな。そりゃこの世界、規制ばかりでつまらないクソな世界だけど、これでもマシなクソを選んだんだよ。クリプトマンセーな方々の中には、市場メカニズムがーとか、加速主義がーとか、すべて見えざる手が解決してくれるぅとか言ってる奴いるけど、お前ら資本主義版の革マル派か?理想高い高ーいで、現実見えてなーいの典型。
お待たせしましたどーもDAOだお。あのな、DAOなんてものは、株の代わりにトークンで投票するだけで、別に社会的に新しいことはなんもないんだお。でも惹かれる気持ち分かるんだお。なんかイノベーティブに聞こえるし、ウォレットで投票して手軽にガバナンス参加とか新鮮だし良いよね。たまに空からお金落ちてくるし。ディスコードみたいなカッコいいとこには老人もいないし。リリースするソースコードに投票したり、ワクワクするよね。でも、それ、ブロックチェーンいらなくね?ウォレットなんか使いこなせるやつ世の中にどれくらいいると思ってるの?日本人の6人に1人は偏差値40以下なんだが?ニーモニック?100年早いわ。エアドロ?手元にお金ないけどお金配りおじさんになりたい人のためのアレすか!?。ディスコード?運営企業頼みやん?非中央集権どうしたん?。リリースされるコードの投票?デプロイするエンジニアたちは信用しないといけないやん。数人が結託するだけで、みんなから集めたDAO資金からお金無限ちゅーちゅー列車が出発できちゃうプロジェクトばかりなんだが。DAOなんて、自律もしてなければ、分散もしてない、ただの組織なんだお。なんだろう、雰囲気でweb3するのやめてもらっていいすか?
これも同意見。なんでみんなDiscordでやってるのかマジで謎。情報が分散しすぎてて情報収集辛いんじゃ〜。
そしてNFT氏とかブロックチェーンゲーム氏。お前らは金の匂いを消せ。お前らが呼び寄せたどんな陽キャでも明るくできないくらい、界隈が冷めてるの気づかないのか?それに、サ終しても、ブロックチェーン上にあなたの資産は残るとかいう嘘やめろ。お前らはブロックチェーンが無くならないといつから錯覚していたんだ?
サービス終了してもブロックチェーンに記録は残りづづけるので嘘ではない。ブロックチェーンがなくならないとは言ってないので。嘘じゃないけど真実ではないこの言い方は私も好きじゃないが。草コインのチェーンはそのうちひっそりと消えるだろうな。
最後にweb3を国家戦略にとかいってる偉い人たち。偉いなら賢くあってくれ。なぜ、国家とかを無くそうとか標榜してるweb3分野をお前らが後押ししようとしている?あほなのか?あたまいい若者たちがドバイに行っちゃったから?Astarが日本を捨てたから?ちがうんだよ。そいつらはweb3じゃない時代が来れば、そっちのために世界のどこでも行くほんとにすげー奴らなんだわ。でもそいつらは海外で稼ぐだけ稼いだら、安くて安全で綺麗な日本にちゃんと戻ってきてお金落としてくれるから安心してくれ。あんたら政府はそんな日本を来たるべきカオスな時代から守ってくれればそれでいいんだ。お願いだから政府はそれらしく真面目で居てくれ。
これは明確に違うと言いたい。ブロックチェーンの経済圏は良くも悪くも国を超えてしまっているので、日本だけ法規制してもユーザーは勝手にブロックチェーンに繋いでしまうので強制力のある規制が難しい。アメリカでこの前ステーキングが金融商品に該当するからやめろって判例出たけど、結局米国の人は個人で勝手にブロックチェーンに繋いでステーキングしてしまうから企業をいくら規制したところで意味がない。それなら企業を日本に誘致して法人税なりを納めてもらったほうが国にとって利益になるだろ。消費者保護のための規制と法人を誘致することの両立を目指しているんだよ。最初から完璧な制度を作るのは無理なので、まだまだチグハグしているけども。消費者保護のための規制に関しては他国より圧倒的に進んでますよ。日本は顧客資産と事業の運転資金を分離して保管することが義務付けられてるので、他国もこれを見習おうとしてますよ。
もう何番煎じか分からんし、誰がこんなスレ見るか分からないが、おまえらWeb3なんてものは流石にまがい物だって気づいてるよな。
まず、web3の基盤をうたう殆どのブロックチェーンは分散されていないし、脱中央集権なんて無理だと諦め始めてる。あのイーサリアムでさえ、天下のSEC様に尻尾フリフリしてる。イーサの外を見ればもっと酷い。ほとんどが、一部のVCや創立メンバーが実質支配してるだけの名ばかり分散。まだGAFAの方がそれなりに世間や政府の監視に晒されてるぶんマシだろう。打倒GAFAとか叫んでるやついたよなー。お前らもう見分け付かんのよ。同じ穴の…ってやつだ。
あと一時期、シリコンバレーで騒がれてたGAFAなどからweb3エンジニアへの転身してるってやつ。もうほぼない。バブルが弾けたってのも一つの要因だけど、それ以上の理由もある。web3の理想的なことを目指すと技術が全く関係なくなるからだ。web3は、トラストレスであったり、責任の分散なんかを目指しているウェブのパラダイムであるという前提で話すが、そんなの今から始めるプロジェクトでは絶対に無理。まず、プロジェクトを始めるためにお金が必要になる。そうしてVCとかに近づくと、手で数えられるくらいの人数で支配的になるようなトークン配分で出資契約が結ばれる。始まった瞬間に分散は諦めないといけないんだ。それでAptosなんかはプロジェクトスタートとともに死んだと騒がれた。彼らのブロックチェーンは確かに技術的には面白い。イーサなんかと比べれば未来技術だし、ソラナの教訓も活かしている。しかしだ。どんなにいい技術でも、分散されていなければ意味がない。どんなにエンジニアが頑張ってイケイケの分散プロトコルを実装しても、彼らがどうにもできないレイヤーで集権化されて運用されてしまうんだ。こういうプロジェクトにいるエンジニアは、時給数百ドルなんかでコードを書いていることはザラだが、彼らは自分たちが作っているものの無意味さを知りながら仕事をしている。お金がもらえるからやる。それだけ。web3のビジョンには共感していても、現実があまりにかけ離れていることには気づいていて、仮想通貨の冬となった今、やつら結局、古巣に戻ったりしてる。web3エンジニアは分散ウェブの夢を見た。しかし、長いバブルを抜けるとそこは雪国だった。そして誰もいなくなった。それが今のweb3。
本当の意味で、最も理想的に分散されているのはビットコインだが、ビットコインは本体も関連プロジェクトも、エンジニアに対する金払いは悪い。というかほぼボランティア。精力的に活動しているのはビットコイン長者の老人だけで、将来にわたっての開発の持続性がない。そもそも若い世代は育つはずがない。ビットコインはその大半が採掘されていて、これから人の一生分かけて、残り僅かな枚数のコインがちびちび採掘されて、すでに固定化されたマイナーに払われ続けるだけだ。自分が一枚も持ってないビットコインのために誰が働こうと思うのか。ビットコイナーは、自分たちが、これからビットコインを一枚も持たずに生まれてくる天才たちにとっては、既得権益を守るクソ老害にしか見えなくなることを分かっているのだろうか?ビットコイナーは革命でもした気かもしれないが、ただの宝くじ成金でしかないし、その財は実力で得られたものでもない。あれだ、お前らの革命はトランプゲームの大富豪の革命と同じだ。強者と弱者がひっくり返っただけで世界が何も進歩ないやつ。それにな。仮にお前らが望むビットコインがどこでも使われる世界がくれば、とんでもない格差社会になるだろうから、実名なんかで活動するな。襲われるぞ。そもそも、ビットコインが何年続くんだ?環境に悪いとかそういう批判はしないが、単純に採掘スケジュール酷くないか。4年ごとに採掘量が半分になるたびに価格が2倍になる?そんなこと言ったら40年後には1ビットコインは10億円越えだぜ。流通してるビットコインをぜんぶ足せば、世界のすべての価値を吸収しても余裕じゃないか。つまり、そんなに価格が上がることはなくて、その分採掘の難易度が下がらないとマイナーの収支が取れなくなるんだが、そんなことしてたらいつか危ないんじゃないか?51%攻撃リスクだっけか。「ビットコインはハッキングされたことがありましぇぇん(キリッ」とかいつまで言ってられるだろうね?
ビットコインの次に分散してて、そこそこビットコインよりは面白いことができそうなイーサくん。目指したのは信頼のいらないアナーキーな世界でも安心して利用できるオープンな分散型コンピューター。素晴らしいね。イーサリアム財団公式wサイトのソーラーパンク風のサイトデザイン好きよ。ユートピアって感じするよね。けど、人類がアホすぎて、結局そこで流行っているスマートコントラクトは、チンパンホイホイのポンジーファイナンスくらいなんだが。なんだ、おまえDeFiと言うのかい。贅沢な名だね。あんたの名はポンジだよ。いいかね。ポンジ。返事しな。ぽーんーじ。てなわけで、規制されない金融を可能にしたら、クソみたいなスキームでクソみたいなマネーゲーム環境が無限に湧いて出てきて、誰が一番多くドルに換金できるかの競争が起こって盛り上がり、なぜかそれがイノベーションとか言われているだけなんだ。規制ないところのアナーキー金融道なんてものは、産業革命の時代以降ずっと人類は経験してて、そのときどきでクソって結論になっててな。そりゃこの世界、規制ばかりでつまらないクソな世界だけど、これでもマシなクソを選んだんだよ。クリプトマンセーな方々の中には、市場メカニズムがーとか、加速主義がーとか、すべて見えざる手が解決してくれるぅとか言ってる奴いるけど、お前ら資本主義版の革マル派か?理想高い高ーいで、現実見えてなーいの典型。
お待たせしましたどーもDAOだお。あのな、DAOなんてものは、株の代わりにトークンで投票するだけで、別に社会的に新しいことはなんもないんだお。でも惹かれる気持ち分かるんだお。なんかイノベーティブに聞こえるし、ウォレットで投票して手軽にガバナンス参加とか新鮮だし良いよね。たまに空からお金落ちてくるし。ディスコードみたいなカッコいいとこには老人もいないし。リリースするソースコードに投票したり、ワクワクするよね。でも、それ、ブロックチェーンいらなくね?ウォレットなんか使いこなせるやつ世の中にどれくらいいると思ってるの?日本人の6人に1人は偏差値40以下なんだが?ニーモニック?100年早いわ。エアドロ?手元にお金ないけどお金配りおじさんになりたい人のためのアレすか!?。ディスコード?運営企業頼みやん?非中央集権どうしたん?。リリースされるコードの投票?デプロイするエンジニアたちは信用しないといけないやん。数人が結託するだけで、みんなから集めたDAO資金からお金無限ちゅーちゅー列車が出発できちゃうプロジェクトばかりなんだが。DAOなんて、自律もしてなければ、分散もしてない、ただの組織なんだお。なんだろう、雰囲気でweb3するのやめてもらっていいすか?
そしてNFT氏とかブロックチェーンゲーム氏。お前らは金の匂いを消せ。お前らが呼び寄せたどんな陽キャでも明るくできないくらい、界隈が冷めてるの気づかないのか?それに、サ終しても、ブロックチェーン上にあなたの資産は残るとかいう嘘やめろ。お前らはブロックチェーンが無くならないといつから錯覚していたんだ?
にしても、web3周りのインフルエンサーはキラキラしてるよな。ああいうふうになりたいよなぁ。かっこいいこと言っちゃったりして、頭良さそうなこと言ってチヤホヤされてなぁ。ドット絵のアイコンもナウいよなぁ。なによりFIREしてたりしてなぁ。いいよなぁー。でも、彼らは自分が関わっているプロジェクトのポジトークしてるだけなんだ。このゼロサムゲームに未来がないのにはもうとっくに気づいてる。簡単にいえば宣伝してるだけ。中身空っぽの公式アナウンスを日本語訳して、さらに薄めてTwitterに上げれば養分がありがたがって寄ってくるし、本家からJapanリードみたいな称号もらって、ちょっとばかしのお小遣いを貰えるからやっているだけ。あとは、エキサイティングなことがたくさんあったクリプト史を共に歩んできた数少ない友達と仲良くしながら「あのころはよかったなあ」したいだけなんだ。だから目を覚ませ、おは養分ども。今日もgmしてえらいでちゅね、じゃないんだよ。
そしてクリプトトレーダーたち。彼らは、別にクリプトに賭けてはいない。この未熟で歪んだ市場を利用してお金を拾っているだけ。DeFiとか情報の非対称性がほぼない世界は、かなり都合がよくて、頭が良くて少しの元手があればそこら辺に落ちているお金を取り放題(バブルならな)。結局、トレーダーたちはメタゲームをプレイしているだけ。次のビッグウェーブがあればそっちに乗る。最近ついったらんどで元気なAI株トレーダーの方たち、たまに見たことある口調のやついるよな。気のせいだよな、うん。
あと、落ちるナイフを全力で掴みに行ってる、NT○さん、ト○タさーん。
NT○さんは6000億もあるなら、ビットコインでも買って、お前もメタゲームに参加しないか?web2すらままならないGAFA予備校のお前にweb3なんてむり。どうしてGAFAさんたちがweb3に本格参入しないか分かるかな?彼らはそれが幻想だと分かるくらいには賢いからだよ。このままだと、6000億の埋蔵金目指して事業の実態がないレントシーカー・スタートアップ(笑)の群れにハイエナされて、西麻布のラウンジに消えるのがオチ。次の太陽光発電はweb3かな?今度こそはソーラーパンクな世界を作ってくれよ。
ト○タくんはAstarなんかと手を組んじゃってどうしたのかな?グローバルな視点で世界と戦うニッポンの希望が落ちぶれるのを見るのは悲しいぞ。別に彼らが詐欺師だと言ってる訳じゃない。あの頃のブロックチェーンはほんと輝いていて、世界中で多くの若者たちが理想のために純粋に頑張っていたんだ。ただ、今、この局面で、Astarはやめろ。あそこはもう死んでいる。魔界とか呼ばれてるんだぞ?そもそもAstar自体、どれくらい分散しているか知ってるのか?それに、実態を言ってしまえば、めちゃくちゃ過疎ってるポルカドットで、ただのイーサのコピー走らせてるだけだぞ。そういうプロジェクトでも、バブルの余韻でキャッシュフローがあるから組織は存続するし、偽りだとしてもコミュニティドリブン仕草は続けないといけないからそこにあるだけなんだ。そういうゾンビみたいなクリプトプロジェクトは世の中に星の数ほどあるんだ。みんなあの頃はほんと輝いていた。でもみんな成れ果ててしまった。今でもそういうプロジェクトを支えているのは、熱狂的な信者か、おバカさんか、ピュアな方々だけなんだ。そういう人たちが僅かな流動性の中で買い支えて成り立つトークン価格と、膨れ上がったトークン発行量の掛け算で、ユニコーンな時価総額が成り立っているんだ。その縁で辛うじて立っているおびただしいプロジェクトのうち日本発なのは確かにAstarくらいしかないけど、それをブロックチェーン界のPFNか何かだと思っちゃってるなら、怖くてもう、あんたの車のれないわ。
最後にweb3を国家戦略にとかいってる偉い人たち。偉いなら賢くあってくれ。なぜ、国家とかを無くそうとか標榜してるweb3分野をお前らが後押ししようとしている?あほなのか?あたまいい若者たちがドバイに行っちゃったから?Astarが日本を捨てたから?ちがうんだよ。そいつらはweb3じゃない時代が来れば、そっちのために世界のどこでも行くほんとにすげー奴らなんだわ。でもそいつらは海外で稼ぐだけ稼いだら、安くて安全で綺麗な日本にちゃんと戻ってきてお金落としてくれるから安心してくれ。あんたら政府はそんな日本を来たるべきカオスな時代から守ってくれればそれでいいんだ。お願いだから政府はそれらしく真面目で居てくれ。
あと、円転利確の税金安くするためだけにweb3の言葉を借りて、めっちゃロビー活動してる古参の億り人くんたちー?そりゃ税率少し変わるだけで億が入るやつとかいるんだろ?霞ヶ関までスーツで行ってお辞儀リレーするよね。その働きっぷり、あの頃のお前らが見たらどう思う?でも、10年とか経てば色々守るものも増えるからしょうがないよな。かっこいいぜ。おまえら。みんな幸せになれよ。
最近また転売の話題が盛り上がっているけど、多くの人が近年話題となっている転売行為の問題の本質を履き違えている印象を受ける。一般的な意見とは乖離することを書くし、少々長くなるが最後まで読んでほしい。
まずいきなり叩かれそうなことを書くと「転売」という行為自体は悪ではない。転売自体は資本主義社会のルールに則った需要と供給のバランスの中で商品に投機をして利益を得る正当な商売行為だ。例としてあげるならフェラーリのF40、F50、EnzoやマクラーレンのF1、P1、Sennaといった限定生産のスーパーカーは欲しい人が買うことよりは資産家が投資目的で買うということが圧倒的に多い。歴史にその名が刻まれてきた超高級車メーカーの限定生産車たちは当然時代の流れとともに希少になり値段が跳ね上がる。そのことに文句を言う車好きの人々もいるが、各メーカーが持てる技術の全てをつぎ込んで採算度外視で製造したスーパーカーはそもそも一般人には手が届くような価格で流通しておらず普通に買うことなどできない。そもそもVIP中のVIPにしか購入する権利すら与えられていないことがほとんどでそんな状況ではいくら文句を言っても仕方がないのだ。そういう意味では芸術品という枠に加えたほうがいいのかもしれない。もちろん購入者の中には単純な投資目的ではなく実際に車を運転する人もいるし、二代目フォード・GTのように購入希望車を審査して本当に運転して使ってくれる人にしか売らないというケースもある。こういったことが(ある程度の不満はつきまとうにしろ)まかり通っていることを考慮すれば「転売」自体が悪いということはけしてないということは明白ではないだろうか。
だが、今ホットな話題である「ゲーム機本体」の「転売問題」については単純な「転売」とは別方面で問題があると考える。それが「独占禁止法違反」だ。例えば仮に小売販売店が商品単価が低い物品を口裏を合わせてメーカーの小売希望価格から大幅に釣り上げていたとすれば当然その行為は独占禁止法に抵触する。今話題の「転売問題」はまさに同じ行為が個人のレベルで行われているというのが個人的な認識だ。今やAmazonやメルカリなどと行ったe-commerceサービスを使って個人が物品を売買することが容易にできる時代となった。それによって多数の個人がそういったe-commerceサービスを利用して利益を得ようとする状況が形成されるのはごく自然な流れだろう。そのビジネスモデルに注目した個人が次から次へと「転売ビジネス」に参入していけば、当然商品は品薄になる。しかも困ったことのそういった人々は自分の生活が仕入れに依存するためありとあらゆる手段を使って商品を入手するだろう。場合によっては販売制限をごまかすためにグループで行動したり、家族や知人を巻き込んで商品を買い上げるということもあるだろうということは容易に想像できる。そして転売屋たちが買い上げたことで品薄になった商品を堂々と高額で販売することができる。すると本当に商品が欲しい人達は「品薄なのだから、高くても買うしか無い」と購入し、需要と供給のバランスが成り立ってしまう。メーカーはメーカーで増産してしまうと既に転売屋が抱えている在庫分が損失となるため安易に増産ができない。結果的に転売屋の勝利になるという構図だ。
もう一度言うが、このような行為を小売販売業者がしでかせば一発で独占禁止法に抵触してアウトだ、では個人の場合はどうか。転売屋たちがネット上で集まって談合して値段を決めているとなればアウトかもしれない。だが昨今の「転売問題」は非中央集権化した独立した個人が多数出現し互いに「忖度し合う」ことで相場が形成されているのではないだろうか。従来の市場原理が働けば、少しでも売れるようにと徐々に価格相場は下降し本来の小売希望価格に限りなく近づいていくはずだ。だが転売屋は卸売価格で仕入れているのではなく、既に小売希望価格で商品を入手しているのだからそれはできない。そうなると「これ以上下げれば転売屋全員が共倒れになる」というラインを見計らって「転売屋の間に流れる相場感」で落ち着くということが起こっているのではないだろうか。そうなってくると独占禁止法の範疇では摘発しにくいのではないだろうか、なんせ明確な意図を持って市場操作が行われているわけではないからだ。だがそれは本来の独占禁止法が定める
独占禁止法の目的は,公正かつ自由な競争を促進し,事業者が自主的な判断で自由に活動できるようにすることです。市場メカニズムが正しく機能していれば,事業者は,自らの創意工夫によって,より安くて優れた商品を提供して売上高を伸ばそうとしますし,消費者は,ニーズに合った商品を選択することができ,事業者間の競争によって,消費者の利益が確保されることになります
https://www.jftc.go.jp/dk/dkgaiyo/gaiyo.html(独占禁止法の概要より抜粋)
という理念に反している。つまり我々消費者は感情論にまかせて「転売屋を潰せ」と叫ぶのではなく、「独占禁止法の解釈の拡大、改正、あるいは個人に適用可能な新たな法整備」が進むように訴えるべきなのではないだろうか。実際大手メーカーは転売問題によって不利益を被っていることは事実であることからも、こういった運動は実を結ぶのではないかと思う。転売行為そのものを問題視するのではなく、現代社会が生み出してしまった独占禁止法の抜け穴を塞ぐための努力をすることが昨今の「転売問題」に対する最も有効かつ適切な行動ではないだろうか。
「実は、ぼくら地上波のテレビをやっている人たちは、視聴者を信じていないんですよ。
見ている人のことを、かなりモノがわからない人だと想定して、その人たちにどう見せるかと工夫しているんです。
ものすごく悪い言い方をすると、もう「馬鹿にどう見せるか」と、みんな絶対にクチには出さないけれども、
どこかの所ではみんながそう思っているようなフシがありますね」
http://www.1101.com/T-bucho/2002-06-24.html
●大橋巨泉氏
――テレビが日本の民度低下に影響しているということはありませんか。
「その見方は、すごく皮相的だよ。(米国では)ビル・ゲイツもブッシュ家も、ニュースやスポーツ中継以外、
テレビなんか見てませんよ。(日本も)勝ち組とか金持ちとかインテリがテレビを見なくなっただけなんですよ。
負け組、貧乏人、それから程度の低い人が見ているんです。だから、芸能界の裏話を共有した気になって満足しているんです」
http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060127005218_print.shtml
「私がNHKに勤務していたころ教わったのは、「典型的な視聴者は、50歳の専業主婦で高卒だと思え」ということだった。
たぶん民放はもっと低く設定しているだろう。それが市場メカニズムでは正解である。
1億人の知的水準の平均値は、当ブログの読者には想像もできないぐらい低いのだ。
①~⑤まで順序立てて進行せず、もしかすると同時進行になるかもしれない。
アメリカは、自国の赤字解消やインフラ整備のため、世界から撤退。
②第二の波 「多極型秩序」
G20が良い例で、20カ国がそれぞれ統治する。また、「国家はグローバルな市場よりも弱い」。
③第三の波 「超帝国」
その中で、二つの力が強大になる。
一つ目は、「エンターティメント」国民を大事な物事から目をそらさせるため。
政府からインターネットを通じて、厳しく監視される社会になる。
監視の対象は、あくまでも「物」であり、「個人」の自由を損ねるものであってはいけない。
④第四の波 「超紛争」
誰もコントロールができない。
紛争において、ノマド(遊牧民族=定住しない人々)が重要な役割を果たし移動する人が増える。
ノマドは三種類に分けられる。
C)パーチャルノマド(定住者だが、TVやインターネットで仮想パーチャルを楽しんでいる人達)
痛みで国が混乱。
http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/17378
フロムダさんは結局のところ絶対の価値なんて存在しないと思ってる。
「ほんとうにいいもの」だとか「ほんとうによいこと」や「ほんとうのしあわせ」なんて存在しないと思っている。
そして、だからこそ一定の程度でルールとして価値を測れる軸は存在するべきだと思ってる。
そして、その根拠のかなりの部分を市場メカニズムに求めている。そして、それは一定の程度正しい。
なにせ、そもそも「ほんとうの価値」なんて存在しないのだから。
「学術的には価値があるが、市場的には価値がないものに対して、公的にどれだけ支出してもいいか」という問いに対して
「その学術的『価値』って何なの、あやふやすぎないか」と思う人は少なくないだろう。
そんなものよりも、市場的価値を軸にした方が明解だと思っても不思議ではないだろう。
需要と供給。提供できるものと、人が欲しがってるもの。それが釣り合い、高い価格がつけられる。明解だ。
そして、それはまた一定の程度欺瞞を含む。
「市場メカニズムで評価されているものなのだから、それは肯定すべきものだ」という言い訳に容易くつながる。
僕はソシャゲーのプランナーが実際にそう語っているのを聞いたことがある。
そして、その需要や欲望をゲーミフィケーションや己の持つ技術を駆使して操作して最大限に利益を貪ることは正しいことだと。
彼は本気でそう考えているのだろう。骨の髄まで市場メカニズムを内面化させているのだろう。
そうやって心の底ではくだらないと思っていることで、洒落たオフィスで働き高収入を得ていることに対する罪悪感を消し、自分を正当化させている。
そう僕は考えるから、これを自己欺瞞だと勝手に断定する。そして自己欺瞞であるが、一定の程度正しい物言いでもあるのだ。
なにせ、そもそも「ほんとうの価値」なんて存在しないのだから。
そして、この経済ゲーム、市場ルールという価値を測る軸に対して、
「そもそもある種ソシャゲーって違法じゃん」という法律ルールという価値軸による反論がある。それも正しいのかもしれない。
ただ、「クソ」なソシャゲーについて、市場メカニズムも法律も、合法か違法か、儲かっているか儲かっていないかしか答えない。
倫理や美意識や価値について答えられない。それが本当に「クソ」なものであるかについて答えられない。
というよりも答えない。
あらゆる価値軸というものは「一定程度」正しくて、「一定程度」間違っている。
世の中はゲームとルールというシステムでほとんど全てのものが動いている。貨幣ゲーム、政治ゲーム、恋愛ゲーム、権力ゲーム、道徳ゲーム、etc
すべてを超越する価値を想定し、他人に押し付けることはできない。ある一定の範囲である一定のルールが定められたある一定のゲーム内での結果が出るだけだ。
付け加えれば、「人生ゲーム」だとか「超越的価値ゲーム」なんて存在しない世界に僕らは生きているというのが、ウィトゲンシュタインやニーチェのお話だ。
だから、法律をギリギリの線で見切って、ギリギリ法律内で市場メカニズムにおいて稼ぐものに対して、確かな答えは出ない。結局、個人的な答えしか出ない。
だから「多くの人がソシャゲーはくだらないと思っているが、着メロのようにささやかな幸せを提供するものだ」と言うことはできる。
そしてフロムダさんが、ここの部分で「もののような気もする」とふんわりと述べているところに一定の揺れを僕は感じるのだ。
「ソーシャルゲームで金を稼ぐこと自体が社会的に無価値であるかのように言うのは、ちょっと違うんじゃないかと思うのだ。」というのも
「金のために作ってるクソ商品の方が顧客を幸せにしたりする」というのもレトリックだ。
「合法のソシャゲーが社会的に無価値である」ということを断定することはできる訳がないし、
金のために「クソ」なものを売ったって、市場メカニズム内で評価されていれば、それは「クソ」ではなく「顧客を幸せにしている」と定義づけることも可能だろう。
ただ、そこから「合法の範囲で市場メカニズムで稼ぐことは正しいことだ」という価値観に走ることは容易い。
「オレはこんなクソみたいなものをビジネスにして楽しいわけがないが、金が儲かるんだからしかたがない」という信条と
元記事 http://anond.hatelabo.jp/20110328213318 の引用がアレで読みにくいので
http://synodos.livedoor.biz/archives/1720131.html
キセイガー/カンリョーガー脳の恐怖である。
これに対して、市場メカニズムを活用すれば、効率性の高い企業を自然に選別することが可能である。ひとつのやり方は、池田信夫氏がかなり早い段階で提唱した「電力消費税」(http://news.livedoor.com/article/detail/5412902/)を導入することである。これは、電力需要を抑制するために税を課すというもので、実務的には電力料金を引上げるだけであるから、すぐに実行可能である。
この方法では、電力料金を引上げても、利潤が出る効率性の高い優良企業は生産をつづける一方、効率性の低いゾンビ企業は休業をすることになるから、自然に効率性による選別が可能となる。また、病院や老人ホームなど、効率性とは別の観点から重要性が高い施設は、そもそも電力料金を引上げなければ良い。
問題は、電力料金を引上げると東京電力の収入になってしまうと勘違いされ、消費者が納得しないという点であるが、最終的に東京電力の売上高から、政府が電力消費税を吸い上げることになるから、東京電力を儲けさせることにはならない。このことをきちんと政府が明言して実行すればよい。
電力料金引上げによる電力需要抑制の最大の問題は、消費者の納得なんぞではなく、電力の需要曲線の形状が不明な点にある。言い換えれば、いくら料金を上げたらどれだけ電力使用量が少なくなるかわからない、ということ。既に周知が進んでいるが、供給能力を上回る電力が使用されると、予測不能な大規模停電の確率が極めて高くなる。これだけ値上げしたらこれだけの使用で収まると思ったんだけど、思った以上に使われちゃいました、なんて事態が生じれば、ライフラインその他に甚大な障害が生じる。それに比べれば、
しかしながら、本来、計画停電や総量規制のような「社会主義的な手段」は、命の問題にとっても、生産活動にとっても、非常に「非効率」である。早い震災復興を望むのであれば、こうした手段をつづけたり、大規模に行うことは望ましくない。生産活動にとって非効率というのは、生産性の高い企業も、生産性の低い企業も一緒くたに休業させてしまうからである。
たとえば、同じ電力量で10の生産を行う優良企業と、2しか生産できないゾンビ企業(本来であれば死んでいる非効率な企業)があるとしよう。両方とも電力量を平等に半分にされると、各企業の生産はそれぞれ5(優良企業)、1(ゾンビ企業)となり、生産量がそれぞれ半分になる。両者の合計は6であり、元の12から生産量は半減する。
一方で、優良企業には休業させず、ゾンビ企業のみ休業させるということであれば、生産量は10である。つまり、優良企業は元の通り10の生産を行い、2しか生産できないゾンビ企業が休業して0になるから、元の生産量12に対して、事後的な生産量は10とわずかな生産減ですむ。
この程度の非効率性など、どうってことはない。また、
問題は、このように効率的な生産を行う企業とそうでない企業をどう選別するかということであるが、計画停電はすべてが一緒くたになるので、選別は不可能である。また、効率性は高くなくても、必要性の高い病院や老人ホームは電力供給をつづけることが望ましいが、そうした重要度に応じた選別も不可能である。
予測不能な大規模停電が起きてしまえば、病院等の選別もまた不可能である。事前に対策が講じられる分だけ、予測不能な大規模停電より計画停電の方がはるかに適切なのは、言うまでもない。
加えて、鈴木氏は、次のようなことを言っている。
これに対して、電力事業というものは、どのようなときにも安定的な電力供給を行わなければならないという「供給義務」が課されているため、夏場数日間の昼間における一番のピーク時に対応するために、きわめて過剰な発電所設備を保有しているのである。このためじつは、普段は、発電所はあり余っている状態なのである。
このような過剰設備を許しているのが電力会社への規制であり、「総括原価方式」の下、どのように過剰な設備をもっていてもすべて電力料金に転嫁でき、しかも地域独占によって競争相手にさらされずに、料金を引上げられることが、その背景である。
これを経済学ではアバーチ・ジョンソン効果と呼んでおり、過剰設備、非効率の典型例とされる。また、電力会社も、経済産業省の官僚も、発電所設備を拡大することで利権があるので、こうした規模拡大にさらに拍車がかかる。
その是非はさておき、
ついでにいえば、西日本と東日本で電力の周波数が違い、変電設備が貧弱で、1日100万キロワットしか電力会社間で融通しあえないことも、今回露呈した大きな問題である。これは、電力会社の地域独占を守ろうとする既得権保持行動にほかならないだろう。国が公費を投じてでも、変電設備を拡張してリスクを分散したり、電力会社間の競争を促すことは合理的であると思われる。
東西の周波数変換など、こうした事態でもなければ遊休化すること必定であり、過剰設備・非効率が不適切だというなら、周波数変換はそれ以上に不適切である(注1・2)。結局、本当に過剰設備・非効率性を問題にしたいのではなく、キセイガー/カンリョーガーと言いたいだけなのだろう。
もっとも、各家庭まですべてピークロード・プライシングをするというのは、消費者は驚き、反対も大きいであろう。東京電力の電力需要の過半は企業需要であるから、まずはフランスの電力公社(EDF)が1957年から導入しているように、企業に対して、季節別・時間別・業種別のピークロード・プライシングをはじめることが現実的である。
少なくとも、ヨーロッパ全土で電力が相互融通可能であることを前提としたフランスのピークロード・プライシングを日本に導入することの是非は、これほど単純な話ではない。繰り返すが、価格を上げた割に使用量が減らなければ、ヨーロッパなら他国から買ってくればよいが、日本ではそうは問屋がおろさず、大規模停電の確率が上がるのだ。
教訓:非専門家が思いつくようなことは、専門家がとっくに思いついた上で、利害得失を計算して採りえないとしたものがほとんどである。
(注1)
今回のようなケースとしては、2002年に東電で原発のデータ隠しが発覚し、東電の全原発17基がすべてストップしたことがあった(2003年4~6月)。夏場の大停電が危惧され、東西連系線の拡張などが論議されたが、「投資額が莫大で、それなら自前で発電所を建設した方がよい」(電力業界関係者)として頓挫した経緯がある。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1285?page=2
(注2)
ピークが異ならなければ、地域間の電力流用によって全体の必要設備量は変わらないが、日本でピークが異なるのは、北日本に限られる。すなわち、東西の電力流用を推し進めても、東京電力の必要設備量は減らない。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1720131.html
キセイガー/カンリョーガー脳の恐怖である。
>これに対して、市場メカニズムを活用すれば、効率性の高い企業を自然に選別することが可能である。ひとつのやり方は、池田信夫氏がかなり早い段階で提唱した「電力消費税」(http://news.livedoor.com/article/detail/5412902/)を導入することである。これは、電力需要を抑制するために税を課すというもので、実務的には電力料金を引上げるだけであるから、すぐに実行可能である。
>
>この方法では、電力料金を引上げても、利潤が出る効率性の高い優良企業は生産をつづける一方、効率性の低いゾンビ企業は休業をすることになるから、自然に効率性による選別が可能となる。また、病院や老人ホームなど、効率性とは別の観点から重要性が高い施設は、そもそも電力料金を引上げなければ良い。
>
>問題は、電力料金を引上げると東京電力の収入になってしまうと勘違いされ、消費者が納得しないという点であるが、最終的に東京電力の売上高から、政府が電力消費税を吸い上げることになるから、東京電力を儲けさせることにはならない。このことをきちんと政府が明言して実行すればよい。
電力料金引上げによる電力需要抑制の最大の問題は、消費者の納得なんぞではなく、電力の需要曲線の形状が不明な点にある。言い換えれば、いくら料金を上げたらどれだけ電力使用量が少なくなるかわからない、ということ。既に周知が進んでいるが、供給能力を上回る電力が使用されると、予測不能な大規模停電の確率が極めて高くなる。これだけ値上げしたらこれだけの使用で収まると思ったんだけど、思った以上に使われちゃいました、なんて事態が生じれば、ライフラインその他に甚大な障害が生じる。それに比べれば、
>しかしながら、本来、計画停電や総量規制のような「社会主義的な手段」は、命の問題にとっても、生産活動にとっても、非常に「非効率」である。早い震災復興を望むのであれば、こうした手段をつづけたり、大規模に行うことは望ましくない。生産活動にとって非効率というのは、生産性の高い企業も、生産性の低い企業も一緒くたに休業させてしまうからである。
>
>たとえば、同じ電力量で10の生産を行う優良企業と、2しか生産できないゾンビ企業(本来であれば死んでいる非効率な企業)があるとしよう。両方とも電力量を平等に半分にされると、各企業の生産はそれぞれ5(優良企業)、1(ゾンビ企業)となり、生産量がそれぞれ半分になる。両者の合計は6であり、元の12から生産量は半減する。
>
>一方で、優良企業には休業させず、ゾンビ企業のみ休業させるということであれば、生産量は10である。つまり、優良企業は元の通り10の生産を行い、2しか生産できないゾンビ企業が休業して0になるから、元の生産量12に対して、事後的な生産量は10とわずかな生産減ですむ。
この程度の非効率性など、どうってことはない。また、
>問題は、このように効率的な生産を行う企業とそうでない企業をどう選別するかということであるが、計画停電はすべてが一緒くたになるので、選別は不可能である。また、効率性は高くなくても、必要性の高い病院や老人ホームは電力供給をつづけることが望ましいが、そうした重要度に応じた選別も不可能である。
予測不能な大規模停電が起きてしまえば、病院等の選別もまた不可能である。事前に対策が講じられる分だけ、予測不能な大規模停電より計画停電の方がはるかに適切なのは、言うまでもない。
加えて、鈴木氏は、次のようなことを言っている。
>これに対して、電力事業というものは、どのようなときにも安定的な電力供給を行わなければならないという「供給義務」が課されているため、夏場数日間の昼間における一番のピーク時に対応するために、きわめて過剰な発電所設備を保有しているのである。このためじつは、普段は、発電所はあり余っている状態なのである。
>
>このような過剰設備を許しているのが電力会社への規制であり、「総括原価方式」の下、どのように過剰な設備をもっていてもすべて電力料金に転嫁でき、しかも地域独占によって競争相手にさらされずに、料金を引上げられることが、その背景である。
>
>これを経済学ではアバーチ・ジョンソン効果と呼んでおり、過剰設備、非効率の典型例とされる。また、電力会社も、経済産業省の官僚も、発電所設備を拡大することで利権があるので、こうした規模拡大にさらに拍車がかかる。
その是非はさておき、
>ついでにいえば、西日本と東日本で電力の周波数が違い、変電設備が貧弱で、1日100万キロワットしか電力会社間で融通しあえないことも、今回露呈した大きな問題である。これは、電力会社の地域独占を守ろうとする既得権保持行動にほかならないだろう。国が公費を投じてでも、変電設備を拡張してリスクを分散したり、電力会社間の競争を促すことは合理的であると思われる。
東西の周波数変換など、こうした事態でもなければ遊休化すること必定であり、過剰設備・非効率が不適切だというなら、周波数変換はそれ以上に不適切である(注1・2)。結局、本当に過剰設備・非効率性を問題にしたいのではなく、キセイガー/カンリョーガーと言いたいだけなのだろう。
>もっとも、各家庭まですべてピークロード・プライシングをするというのは、消費者は驚き、反対も大きいであろう。東京電力の電力需要の過半は企業需要であるから、まずはフランスの電力公社(EDF)が1957年から導入しているように、企業に対して、季節別・時間別・業種別のピークロード・プライシングをはじめることが現実的である。
少なくとも、ヨーロッパ全土で電力が相互融通可能であることを前提としたフランスのピークロード・プライシングを日本に導入することの是非は、これほど単純な話ではない。繰り返すが、価格を上げた割に使用量が減らなければ、ヨーロッパなら他国から買ってくればよいが、日本ではそうは問屋がおろさず、大規模停電の確率が上がるのだ。
教訓:非専門家が思いつくようなことは、専門家がとっくに思いついた上で、利害得失を計算して採りえないとしたものがほとんどである。
(注1)
> 今回のようなケースとしては、2002年に東電で原発のデータ隠しが発覚し、東電の全原発17基がすべてストップしたことがあった(2003年4~6月)。夏場の大停電が危惧され、東西連系線の拡張などが論議されたが、「投資額が莫大で、それなら自前で発電所を建設した方がよい」(電力業界関係者)として頓挫した経緯がある。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1285?page=2
(注2)
ピークが異ならなければ、地域間の電力流用によって全体の必要設備量は変わらないが、日本でピークが異なるのは、北日本に限られる。すなわち、東西の電力流用を推し進めても、東京電力の必要設備量は減らない。
「実は、ぼくら地上波のテレビをやっている人たちは、視聴者を信じていないんですよ。
見ている人のことを、かなりモノがわからない人だと想定して、その人たちにどう見せるかと工夫しているんです。
ものすごく悪い言い方をすると、もう「馬鹿にどう見せるか」と、みんな絶対にクチには出さないけれども、
どこかの所ではみんながそう思っているようなフシがありますね」
http://www.1101.com/T-bucho/2002-06-24.html
大橋巨泉氏
――テレビが日本の民度低下に影響しているということはありませんか。
「その見方は、すごく皮相的だよ。(米国では)ビル・ゲイツもブッシュ家も、ニュースやスポーツ中継以外、
テレビなんか見てませんよ。(日本も)勝ち組とか金持ちとかインテリがテレビを見なくなっただけなんですよ。
負け組、貧乏人、それから程度の低い人が見ているんです。だから、芸能界の裏話を共有した気になって満足しているんです」
http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060127005218_print.shtml
「しかしこういうドライな演出は、日本では受けない。素材の情報より、
スタジオでみのもんたが大げさに憤ってみせるコメントのほうを視聴者(特に女性)は喜ぶからだ。
私がNHKに勤務していたころ教わったのは、「典型的な視聴者は、50歳の専業主婦で高卒だと思え」ということだった。
たぶん民放はもっと低く設定しているだろう。それが市場メカニズムでは正解である。
1億人の知的水準の平均値は、当ブログの読者には想像もできないぐらい低いのだ。
それに迎合する古舘氏の戦略は正しいが、まともな視聴者が見ていて気持ち悪いということは知っておいたほうがいい」
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51294993.html
増田では概ね有意義な反応が尽きたようなので、戦闘的でも粘っこくもなさそうな方に試しにトラバ。
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080814/1218670547
さて不謹慎な表現など多々あるかと思うけど、以下に私的な疑問・論点をまとめます。
時間掛けて経営学や医学や倫理学や歴史学を学んでたら、軽くクリアーできる論点・誤解もあるかも知れないけど、その他も含めてご容赦を。
●論点1 トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
●論点2 「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
●論点3 「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
●論点4 経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
●論点5 トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
●論点6 トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
●論点7 むしろ平時に「かわいそう」の論理を追求する方が、長期的には「かわいそう」な人を増やすのではないか。
●論点1
トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
たとえば、短い時間で選択を迫られるという意味でなら、(汚い例で恐縮だけど)映画館で上映開始数分前に便意を催し、
そこで素早くトイレを済ませるか、そのまま2時間前後我慢するかなど分単位で決断を迫られたりとか、
あるいは語源となる(らしい)コーヒーの選別作業など秒単位で決断を迫られる行為が、実は日常でもよくある。
もちろん時間以外の資源をモノサシにする場合も同様に議論を進められるはず。
つまり、時間等の量的な制約をその条件とするのであれば、いわゆるトリアージ以上に「極限状態」とみなせる
選択はいくらでも存在することになり、なぜトリアージだけを取り上げて「極限状態」と呼ぶのかがわからない。
そして呼ぶだけならいいとして、そこに殊更特別な意味を見いだそうとする行為には恣意性が入って来ないか?
明確な基準がなくはっきりしないせいで、そうした疑問が浮かんでしまう。
もし資源制約等々を最初から全部取っ払って、人の命を「切り捨て」るプロセスを指し「極限」と呼ぶのであれば、
蘇生行為の中断や、人工呼吸器の取り外し、あるいは脳死判定?など、(当事者にとっては非日常ではあるものの)
平時の医療行為の中にもそれらは存在する。これらはいずれも倫理学的検討に値する問題ではあるんだろうけど、
今回の問題意識とはずれているのではないかという気がする。なぜなら、経営学講義中の「資源制約下の選択」
というトピックで取り上げる事は難しいと思えるから。よってこれも不適。
ここからはさらに妄想。そこで「資源」の意味をもう少し拡張し、技術水準まで含めるとしたら?
現代医療で人工呼吸や蘇生や脳死判定が要請される重態の患者でも、実は簡単に救えるほどの医療技術が
遠い将来いずれ誕生する事を想定すれば、それらの現場を「極限状態」と呼ぶ事も可能かも知れない。
けれど何事も有限なこの世界で、資源の有無は所詮相対的な問題でしかないから、逆に心臓マッサージも知らない
ような時代まで遡れば、現代医療は「極限」でも何でもなく、相対的にかなり恵まれた状態だとさえ言えるかも知れない。
だからこの妄想理論も、当然すぎるほど当然ながら、使えないよね多分。
●論点2
「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
トリアージの現場では、住所氏名年齢性別人種思想信条宗教経済状態等ではなく、たとえばSTART法に
代表されるように、あくまで症例とその喫緊性を判断材料にして、医療資源の配分が決定されて行く。
そこでの個人は、生存者の最大化という観点から、同じ人間同士限りなく対等に扱われると見ていいはず。
他方、ナチスはアーリア人種なんかにとって、異民族共産主義知的身体的障害者等の存在が有害だと
訴えてたわけで、その排除は平時であると有事であると問わず、進行していたんじゃなかろーか。
不謹慎な言い方をすれば、対等ならざる「異分子」の排除は、保健所の動物駆除のように、
生存権や私有財産権その他の人権を持たざる者と扱った上で、粛々と進められたんじゃないかなと。
また日本や北欧等でも障害者・社会的弱者の断種手術が進められたけれど、これらも特に有事であるからと
行われていたわけではないはず。社会ダーウィニズムや通俗的な理解によって「市場原理主義」など(あるいは
「原理主義的資本主義」?)と呼ばれる淘汰のプロセスは、ある緊急時の必要に応じて進む(進められる)
と言うよりは、むしろ長期的に徐々に着実に進行していくモデルだと考えるのが妥当だと思う。
そして比喩としての「極限」的危機のアピール自体は、かつてのワイマール共和国を含む(民主主義・非民主主義問わず)
あらゆる国家で行われる、支持者獲得の為の常套戦略で、たとえば、核戦争や原発メルトダウンの恐怖を時に過剰に煽るのも、
類似の行為と言えるのでは?ナチスに特徴的な行動として取り上げるのは些か困難じゃないかと感じる。
以上の点から、トリアージを差別的な(どころか相手を人間扱いしていない)ホロコーストとなぞらえるのは
間違いであるし、また仮にトリアージが「極限状態」の選択であると仮定しても、ナチズムやホロコーストとの
同質性を認定するのは恣意的だと考える。トリアージの普及推進や例示がホロコーストと地続きである、または
そうした考えを広げるというのは、不謹慎である事を除いても有益な議論とは言い難いはず。
そもそもホロコーストの最たる物である絶滅収容所等におけるユダヤ人殺害は、ナチスドイツの
敗色が濃厚になった戦争後半期にかえって加速していたようで、一般的な意味で言う有事への対応や
資源の最適な配分という意図からは、どうも外れた感が強い。元々戦場の論理とは別物なのでは。
●論点3
「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
トリアージの現場においては人員物資設備等の制約がボトルネックとなっているけど、そもそも人員物資設備等が
無限であれば、トリアージはもちろん企業経営の探求や経済学的考察など、資源の効率的な配分を研究する
学問・営為は生まれなかったはず。経営学や経済学をはじめ、多くの人間の知的営為はその濫觴において、
現実世界の資源の有限性を前提としており、その有効活用を目的としているわけだから。
たとえば、市場メカニズムの根本を支える価格シグナルは、財やサービスの需要と供給によって決定されるけれど、
供給無限(商品の物量だけでなく運搬供給設備やそれらの生産性等も)であればその価格はゼロとなり、
人は欲望の尽きるまでそれらを蕩尽するはずだが、もちろん現実はそうじゃない。一見価格ゼロに見えても
広告販促込みだったりして誰かが費用を負担しており(そのままでは持続可能ではない)、いずれにしても
「価格」の存在は、資源の有限性がこの世界に付き物だという事実を、端的に示していると言えるわけ。
またたとえば、かつて環境問題が今ほど注目されなかった時期には、社会的制限が存在しない中で
工場は排煙を垂れ流し放題だったけど、現在では空気ですら無限ではないというのが、環境問題を認識する
あらゆる人間の知る所で、その為に各種の環境規制や課税が行われ、少なくとも先進国では、工場経営者も排煙その他の
公害原因の扱いに注意を払うようになっている。逆に各種エネルギーに補助金(それは低い技術水準とワンセットだが)を
与えている中国やインドなどは、その凄まじい蕩尽によって資源の国際価格高騰や各種公害の原因としても台頭している。
以上のように、資源が無限か有限か(≒価格がゼロか否か)は、その資源を効率的に扱うインセンティブを決定している。
そして、およそあらゆる物に価格や税金、規制が付きものなのは、それらが現に有限だからに他ならず、
経営学・経済学・トリアージはもちろんとして、多くの人間の知的活動はその資源制約によって発展・流転を促されてきた。
よって「資源の有限性を前提にするな」という主張は、現実を無視し多くの知的活動を否定する行為に等しく、場違いな指摘だと考えます。
有限性の前提や資源の効率的利用・効用最大化と言った考えがナチズムへとつながるのであれば、必然的にこの世の
学問・営為・制度・生活習慣は、その多くがナチズムの眷属となり、今回の件を特別批判する意味は限りなく薄まるはず。
●論点4
上と関連して。経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
経営学と経済学は、もちろん共に資源制約の下での効率的利用を目的とするんだけど、後者が主に
社会全体の効用最大化を目指すのに対して、前者は時に社会全体の効用をかえって損なう決定を推奨しかねなかったりする。
既に上で述べた環境問題における企業行動が典型例だし、あるいは独占や寡占の追求、他企業とのカルテル、
最近も相次ぐ情報の非対称性を悪用した偽装問題など、企業は時に利益追求という存在意義に忠実なまま、
社会全体の最適化からは逸脱しちゃう場合がよくある。そうした行為には違法な物からグレーゾーンまで何でもあり。
他に経済学の概念上でだけで考えれば、ブランド構築・製品差別化、特許等の独占的使用販売権の取得等も、
完全競争を避ける狙いから行われる、社会全体の最適化に反した行動とみなせる。もちろんこれらの場合は
消費者や社会の利益となる場合もあるんだけど。ともかく経営が目指すのは本質的に部分最適・部分均衡なわけ。
このように企業はいろいろな経営的実践を通して、市場における競争を避け、超過利潤・独占利潤を得ようとする。
それに対して、各種公害規制や独占禁止政策・不正競争防止、情報の非対称性の排除などを通じて、市場メカニズムの
健全な作用を維持し、また時に所得再分配を考慮し、社会全体の効用最大化を目指すのが、一般的な意味で言う経済学の使命。
つまり、別々の学問として定立している以上当然なんだけど、経営学的実践における「全体」と、
経済学的・政治的・社会的実践における「全体」とは、多くの場合かけ離れているんだね。
よって、(仮に)経営学的営為の例としてトリアージを取り上げる場合でも、それらが一般的な意味で言う「全体」、
社会や国家全体に敷衍されて適用される恐れがあると考えるのは、学問の目標を見誤った、飛躍を含んだ主張じゃなかろーか。
●論点5
トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
既出のようにこの世界のあらゆる物は有限であり、ある選択は必然的に他者の選択を制限してしまうのが世の常。
だからたとえば、日常の買い物で財布の中身と照らし合わせながら商品を決める(予算制約下の最適化行動)裏には、
売り上げ好調で繁栄する勝ち組企業と同時に、売れない商品を作って経営不振に陥り、場合によっては
倒産する「かわいそうな」負け組企業の存在があったりする。ひょっとしたら「切り捨て」られたその経営者は
自ら命を絶ってしまうかも知れない。その他日常ありふれた選択が、当然のように多くの他者の運命を決定している。
政治上の決定で見ればもっとわかりやすい、再分配は必ず財源を必要とする。
たとえば公共事業を削ればどうしても倒産は増えてしまう。増税だって薄く広いだけで景気を落ち込ませずには居られない。
以上のように考えれば、無視出来ない他者の範囲は空間的・時間的に際限なく広げる事が可能であり、
トリアージだけを取り上げ、その「他者性がない」側面を強調する行為には、恣意性が含まれているのではないかと。
●論点6
トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
仮に「災害時に被災・負傷し、物的人的制約のある災害医療の拠点に搬送された場合にどのような治療戦略を望むか」
という契約をあらかじめ(被災時に意識を失えば意思の確認が出来ず不公平なので)交わすとすれば、
そして公序良俗に反するという立場から、金銭などの代償を対価とした優遇や、自己犠牲を禁じ手とすれば、
自由かつ平等な個人は、期待生存率を最大にする為=自分自身の為にトリアージを選択する権利を行使するはず。
これが全体主義国家ならマイノリティは放置され、地位や能力のある者の治療を優先させられるかも知れない。
よってトリアージは「みんながひとりのために」でも「ひとりがみんなのために」でもなく、
「ひとりがひとりのために」という個人主義をベースとした選択と考える事も十分可能だと思う。
また自分の命が常に他者の命と可換であるという強い認識が働くから、他者認識がないという批判も的外れとなるはず。
(ちなみに治療従事者自体はロボットだって構わないわけで、その他者性認識を問題にする意義は仮想の話の上では薄いと思われ)。
以上はリベラリズムの基本である無知のヴェールのアイデアを多少拝借した物。
無知のヴェールとはリベラリズム上の社会正義のあり方を考える思考実験で、それを被された者は他人はもちろん
自分も含めたあらゆる属性・・・住所氏名年齢性別人種主義主張経済状態等々・・・がわからなくなってしまう。
その状態で、各個人は自身の利益も含めもっとも望ましく公正な社会の条件を考えてみよ、というのが実験の中身。
で、リベラリズム上の議論においては、その条件の下で「格差は最も弱い立場の人々の効用を最大化する目的でのみ正当化される」
という「格差原理」が導出される事になっている。では、トリアージの現場において、それがどのような人々に当たり、
かつその条件の下で選択要請される治療戦略とはどのような物になるだろうか、ちょっくらこれを考えてみる。
まず被災患者を症例・緊急度により以下のように分ける。
A.所与の医療資源・技術では、どれだけ治療を施しても亡くなってしまうとされるグループ(START法では黒いタグを付けられる)
そして以下のように選択可能な治療戦略が提示されているとする。
1.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、医療資源を人数分で割って全員に割り当てる「平等戦略」
2.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、各人へのくじ引きで割り当てを決める「機会均等戦略」
これら5つの内であれば、各人は全体最適など考えずとも(それを考えるのが完全な悪というのもおかしいんだけど)、
個人の利害に触発されて、自由かつ平等な権利の下に、最も自らの期待生存率の高い4のトリアージ戦略を選ぶはず。
ではその場合の「最も弱い」人はどの患者グループなのか、その効用はどうなるのかを不謹慎な表現も交えるかもだが次に検討。
もし医療資源を注ぎ込んでも「ほぼ」助からない黒いタグ、この場合グループAの患者だとすれば、どのような治療戦略においても
「ほぼ」死亡という結果に終わり、効用は「ほぼ」不変=「ほぼ」常に最大だからトリアージを選ぶ事は「ほぼ」許容される。
次に死亡状態とみなされる人ではなく、助かる可能性はあるが治療を必要とする赤や黄色のタグ、グループBに含まれる患者を
「最も弱い立場」とするならば、トリアージによって最も手厚く医療資源を配分される事になるから、やはり許容範囲となるはず。
問題はもちろんグループAについての「ほぼ」の取り扱い。技術水準の問題として閑却する事も話の上では出来るんだけど、
(前にネタのした時は確実に生存率を判定出来ると仮定したので簡単だった)、現実のトリアージではそうは行かない。
ただ、いずれにしても確率的な選択を強いられるのであれば、やっぱり4のトリアージ戦略しかないと思うんだけどね。
あと検討の順序が逆だったり、戦略や条件の設定の重複・恣意性等あるけど、まあ素人なんで大目に見てくださいな、と。
基本的には無知のヴェールまで降りて議論するまでもなく、最初の期待生存率+公序良俗の「治療戦略選択契約」の話で
大体OKと思うし、そこで「全体主義的」なる批判はシャットアウト可能だと考えてます。よってここらでこの論点終了。
字数制限でhttp://anond.hatelabo.jp/20080817193711へと続きます。目障りでごめんなさい。
「官僚国家の崩壊」っていう最近出した本の中にも、官僚機構などにネットワークをはる複合体の人脈を「ステルス複合体」と呼び、その「本尊」は学歴による優越意識に基づく大学同窓などの見えざるネットワークであり、たとえば、東京大学法学部出身者を核とするエリート人脈である、と書いている。
http://d.hatena.ne.jp/yumyum2/20080529/p5
<官僚国家>を牛耳る<ステルス複合体>の得意ワザはズル、ウソ、ゴマカシ。<医療>改革を<健保>問題にスリカエた。元財務大臣の塩川正十郎が「財政の都合ばかりを優先、人間味に欠ける」と批判、元総務会長の堀内光雄が「年寄りは死ねというのか」と「文藝春秋」6月号に寄稿。当然だ。
元自民党幹事長の中川秀直、近著「官僚国家の崩壊」(講談社)で「(ステルス複合体は)学歴(東大法)に基づく自らの身分に誇りを共有する。官僚機構、日銀、経済界、学界、マスコミなど、あらゆるところに巨大なネットワークを張る。この同質的人脈が『空気』をつくり、政策の『相場感』をつくっていく。彼らの醸し出す空気と相場感に反するものは『異端』扱いされるか、無視され、あらゆるエリート層に、予定調和的な言動を強いて、同質化圧力を加えていく」(23頁)と書く。日本を牛耳り、食いモノにしている。
「『ステルス複合体』に政策を任せると、日本は必ずや『日沈む国』となる」(中川・24頁)。
「小泉内閣以来、自民党が進めてきた改革の本質は何か。基本的な図式はよく言われるように、『霞ヶ関対永田町』である。官僚によって、役人天国が形成され、今や、官僚が国政を操り、国を私物化しているという批判は、ある意味で正しい。官僚主導を本来の政治主導に戻し、国民のための政治に戻さなければならない」(舛添要一「霞ヶ関VS永田町」講談社・2頁)。参院政審会長2007年5月の刊行。正論だ。中川秀直も火山も同意見。
http://blogs.yahoo.co.jp/kome_1937/54679415.html
その中川氏は日本が東大法学部を中心とするエリート官僚たちに巧妙に支配されており、政治が官僚をコントロールできていないことが、日本の改革が進まない最大の要因であると主張し、改革に反対するエリート官僚たちを厳しく批判する。選挙の洗礼を受ける政治家は、政策の失敗に対して責任を追及されるが、官僚たちは、匿名のまま、政策を作成し、それが失敗に終わっても、結果責任をとることもない。政治家がいくら改革の旗を振ろうが、最大の既得権益者であるステルス複合体が改革を許すはずがない。彼らは官界を越えて、産業界、学界、マスコミまでを網羅した東大法学部人脈を通じて、相互に補完し合いながら、自分たちの力の保全を図っている。これが中川氏が日本の最大のガンになっていると断罪するステルス複合体の実態だ。
http://www.videonews.com/on-demand/371380/001321.php
ステルス複合体とは
「東大法学部を中心とするエリート官僚たちが、官界を越えて、産業界、学界、マスコミまでを網羅した東大法学部人脈を通じて、相互に補完し合いながら、自分たちの力の保全を図っている集団」
の事を差すようです。
私見ではそのようなゆるやかな連携は存在すると思います。しかし、本当に「ステルス複合体」が「抵抗勢力」なのでしょうか?そもそも、「新自由主義の導入=改革」に抵抗するのは国民国家の利益を考えると穏当な場合もあり得るわけです。
確かに、官製不況なる言葉に表されるように、近年は所轄官庁が所轄官庁であり続けるための政策が実行されて、民業の足をひっぱるような事態も起きています。また、膨大な公債が積み上がり、国家の財政事情は悪化しています。公務員給与総額を減らさねば、国家破産は避けがたい状況です。よって、キャリア官僚制度の弊害は存在することは間違いありません。
しかし、小泉純一郎こそが、財務省の族議員であり、なおかつアメリカの利益を代弁する外資族議員です。旧大蔵省理財局は財政投融資を通じて毀損しまくった郵貯・簡保を総務省(旧郵政省)に返し、なおかつアメリカに売り渡すことにより責任を逃れようとしています。その片棒を担いだのが小泉純一郎・竹中平蔵です。後期高齢者医療制度を導入したのは当の小泉純一郎です。後期高齢者医療制度の本質は竹中平蔵の言うところの「人頭税」の制度導入に他なりません。
結論から先に申し上げれば、殲滅すべきはステルス複合体ではなくて、清和政策研究会です。「官僚は政治にそよぐ葦」であり、昨今の悪政の源泉は売米政治を続ける清和政策研究会にあります。
http://wanwanlapper.seesaa.net/article/99881325.html
418 :名無しさん@3周年:2008/06/27(金) 02:06:05 ID:FVsDlK8i
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1145095961/418
2008.06.11 とんだ食わせ物!中川秀直著『官僚国家の崩壊』
暴論珍説メモ (38)
田畑光永 (ジャーナリスト)
しばらく前、自民党の大島理森国会対策委員長がテレビで「ねじれの丘」というのを歌って見せた。「今日も昨日もねじれの丘で・・・」と。
そう、今年の通常国会は初めからお終いまで(まだ終っていないが)、確かにねじれねじれで明け暮れた。自民党は要所で例の「三分の二」条項を使い、それではせっかく昨夏の参院選で大勝した甲斐がないと民主党は福田首相への問責決議案を出そうとしつつも、その後の見通しが立たずに逡巡しつつ日を過ごしてきた。いよいよ今日明日中に出すとか言っているが、さて土壇場でどうなるか、あの党のことだからなんともいえない。
ではあっても、国民からすれば、なんでも自民党の思い通りにはいかなくなったという意味で、去年、自民党を敗北させただけのことはあったのだが、駆け引きばかりが表に出て、国政を論ずるという点では「政治不在」という印象を免れなかった。
ところが、ここへ来て自民党内にいささか波風が立ってきたらしい。4日、総裁派閥の町村派で代表世話人を務める中川秀直元幹事長を囲む「中川勉強会(仮称)」が発足したというのである。現職総裁を擁する派閥はなるべく低姿勢を保って、総裁の任期を全うさせることに意を用いるというのが常識なのに、その総裁派閥の中で派中に派を作るような動きは異例である。
だから早速翌5日、同派の最高顧問である森喜朗元首相は派閥の総会で、「福田さんが今にも代わるのではないかと予測したような動きは、誰もしていないはずだ。我が派がいちばんやっちゃいけないことだ」(6日『朝日』)と苦言を呈したという。もっともである。
年金の騒ぎが収まらないうちに、後期高齢者医療保険でまたまた国民を怒らせてしまった自民党は、民主党の衆議院解散要求をなんとかしのいで風向きの変わるのを待つしかないというのが現状だが、すくなくとも「福田では選挙は戦えない」というのはコンセンサスになりつつある。といっても今の衆院議員の任期は来年の9月まで。あと1年ちょっとしかない。それまでに福田総裁の後釜を仕立てるとなると、すでに手を挙げている麻生太郎前幹事長がタナボタということになりかねない。
そんなにやすやすと政権をくれてやるわけにはいかないというのが、現職総裁派閥に身を置きながら、派中派をつくるという異例の行動に出た中川氏の胸中であろう。4日の初会合には同派の議員33人が出席し、そのほか秘書20人の代理主席(雲行きを見て参加しようという議員)があったという。相当な数である。
中川氏といえば、2000年に小渕首相が病に倒れた後に発足した森内閣で官房長官に就任したが、女性スキャンダルで無念の辞任に追い込まれたことは記憶に新しい(でしょ?)。それ以来、政府の役職にはつけず、もっぱら党で国対委員長、政調会長、幹事長を歴任してきたわけだが、謹慎ももういいだろうと表舞台に立つ決意をしたようだ。
その中川氏、最近「官僚国家の崩壊」という新著を出した。政治家が本を出すのは野心がある時が多い。安倍前首相が総裁選前に「美しい国へ」を出し、麻生氏が「とてつもない日本」を出した。中川氏のこの本も氏の政権取りへの信号弾なのであろう。
読んでみた。実は読み通すのが苦痛だった。題名のとおりわが国の官僚が政治家を手玉にとって政治を動かし、自分たちの既得権益にしがみつくのを痛罵している。防衛省、厚労省、国交省、財務省などなど、事務次官のゴルフ漬けから職員の居酒屋タクシーまで、お役人たちのすることに腹を立てていない人はいないはずだから、官僚を痛罵するのはいい。しかし、なんとも中身がうすいのである。
日本をウラで操る「ステルス複合体」などという新語を作って売り込んでいるのだが、話はあっちへ飛び、こっちへ飛びで、付き合うのに骨が折れる。しかも論旨はなはだ粗雑である。
例えば、自民党内には党人派と官僚派というグループ分けがあるが、現在は福田赳夫(現福田首相の父)以来の清和会の総理が四代(森、小泉、安倍、福田)続いているが、著者は「日本の順風の時代を担うのが官僚派であり、逆風の時代を担うのが党人派だ」とのべ、いかにも自分たちが今の日本を背負う党人派だと言いたげである。しかも、それ以前の党人派政権となると20年以上も昔の、1978年に退陣した福田(赳夫)政権までさかのぼらなければ存在しなかったと言い、「2000年の森政権の誕生は実に20年ぶりの政権交代であった」とまで言う。
こんな出鱈目な話はない。福田赳夫という人は大蔵省(当時)の主計局長まで務めた官僚中の官僚であり、その福田内閣の後に登場してきた自民党の歴代首相の大半、すなわち鈴木(善)、中曽根、竹下、宇野、海部、橋本(竜)、小渕の各氏はすべて党人である。官僚出身は大平、宮沢の二人しかいない。鈴木から小渕にいたるまでの各氏は、自身は党人でも官僚に牛耳られていたから「官僚派政権」だというなら、それはそれできちんと分析して見せるのがモノを書くということである。
もう一つ挙げよう。著者は道州制の支持者だそうだが、道州制を導入すれば国と地方の公務員が大幅に減るとして、現在の国家公務員30万人、都道府県公務員35万人、市町村公務員105万人、合計170万人が、それぞれ10万人、15万人、基礎自治体20万人の合計45万人になるという図表を大きく掲げている(257頁)。公務員がざっと4分の1になるというのだから、国民としては耳寄りな話である。しかし、この図表についての説明は1行もない。見落としたかと思って探してみたが、どこにもない。こんなものが本といえるか!
よく知られているように、中川氏は官僚の無駄遣いをやめさせ、なによりも経済を成長させることができれば、それによって消費税は上げなくてもやっていけるという立場である。消費税の値上げは避けて通れないとする「財政再建派」、とりわけその代表格である与謝野馨氏と対立している。前著「上げ潮の時代」以来、消費税値上げ不要論が中川氏の売りである。
本書でも中川氏は従来の主張を繰り返し、竹中平蔵氏の市場メカニズムによる改革路線を
大いに持ち上げて、その継承を打ち出している。それは考え方であるから、私には異論があるが、それはここでは述べない。私があえてこの本を取り上げたのは、日本の指導者たらんとする人間がその主張を書物という形で公にすることは大いに称揚したいのだが、それにしてはあまりにおざなりなものを持ち出してくるその傲慢さが腹に据えかねるからだ。
街頭演説や反対党との討論やテレビ番組では十分に考えを説明できないから本を書いてとことん説明するというのなら大いに歓迎だが、大衆にはいい加減なことを言っておけばいい、どうせ細かいことはわからないのだから、箔をつけるために本を出すという人をばかにした態度は許せない。そんな御託につきあう暇はないのだ。
中川氏の本だけを取り上げるのは不公平だから、次回はライバルとされる与謝野氏の新著「堂々たる政治」を紹介することにしよう。
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-370.html
注
ステルス(Stealth)とは、軍用機、軍艦、戦闘車両等の兵器をレーダー等のセンサー類から探知され難くする為の軍事技術の総称。
単にそれらの技術を取り入れて開発された兵器を指してステルスと呼ぶ事もある。「ステルス性」という言葉は「ある兵器がセンサー類からどの程度探知され難いか」という事を相対的に表す。ステルスの本来の意味は「こっそりとする」「隠れる」である。
http://japan.cnet.com/blog/kenn/2007/11/09/entry_25001425/
↑これについての考察です。
アメリカなら、ソフトウェアの世界で本来の意味でモノ作りに携われる仕事がたくさんある。グーグルとかマイクロソフトとか、メジャーどころを足し上げていくだけでも10万人以上の雇用吸収力があるから、ごく平凡なスキルのプログラマでも大企業でそういった仕事に就く機会がある。それなりにいい給料で、ステータスもあって、定時に帰るという満足な生活を営むことができる。そういう意味では、外国人労働者との競争とかレイオフみたいな要素もあるけど、アメリカ人にとってのソフトウェアエンジニアという職業は日本に比べたらずいぶん楽できているのは間違いない。
これは極端な例を挙げているに過ぎない、日本だけそうであるとは到底考えられない。更に下の引用のように(日本の)IT業界が忙しいのは競争が働いていないからではない。(詳しくは下に書く)
しかし、本来ならそんな生産性の低い企業は市場メカニズムによって退場させられるはずなのだけど、なぜか日本ではそういうことが起きない。情報大航海プロジェクトみたいなのに代表されるトンデモなバラマキ政策などで植物状態にもかかわらず酸素だけは供給されているから、もうそろそろ死なせてあげるべき企業が死ねてないのだ。みじめとしか言いようがない。
これも視野が狭い。今の社会では政府の役割として市場の原理から競争力の無い人を守る仕事が含まれる。なぜ今、格差社会がこれ程大きな問題となっているかという現状が少しも理解できていない。赤城智弘が『若者を見殺しにする国』で戦争するしかないとまで切実に訴えているようなワーキングプア、働いても働いても楽にならない人たちがいるということを今この時期に見落としているのは最早致命的だ。
更に言うと見通しが浅すぎる。明石散人が『日本語千里眼』で書いているように、250年の平和を維持した江戸時代は敢えて「不便」を採用した。大きな川に橋を架けないことにより宿場町をつくり、参勤交代により街道を賑わした。それに日本には馬車がなかった。そして、この不便がバッファとなり明治維新の原動力となっていく。江戸幕府が先を見据えて「不便」を信条としていなかった可能性と、今の政府がバッファ(産業のパイの大きさ等々)を作り出すために非効率な施策を打っている可能性が同じくらいだったとしても、少なくとも市場による競争原理を至上とするネオリベラリズム全開の考え方は明らかに偏っている。
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先に書いた「IT業界が忙しいのは競争が働いていないからではない」これも当にこのことによる。1つ例を挙げると分り易いと思う。「米の品種改良が奇跡的に進み、苗作りから収穫までが1ヶ月で行えるようになった。」この時、稲作農家の仕事は楽になるだろうか?米の収穫が年10回になり、稲作農家が今の数倍多忙になることは想像に難くない。市場の競争原理とはそういう風に働くものだからだ。
IT業界の忙しさは上の例の歪(ひずみ)だ各産業は市場競争に勝利するために何をするか?宣伝と効率化、落ち着くのは大方そういうところだろう。各産業の各社が効率化、IT化を図る。スピード勝負だ。それも1回こっきりではない。繰り返し何度でも効率化する。当然、IT業界(SI)の開発納期は短くなる。新しい技術など導入している暇が無い(あるいはそれを突破するほどの技術革新は起こっていない)、技術者(管理者)は忙しい、労働時間は必然的に長くなる。そしてまた「宣伝」もITの分野となった。
上で引用したアメリカのメジャーどころが楽に仕事をしているとすれば、間違いなく競争しなくても勝てるところまで成長しているからだ。金持ち喧嘩せず。ある意味、市場競争というスゴロクでアガリになった企業だからだと言える。余暇にこそ文化的な創造が可能になるということの緩い体現なのだ。
ネオリベの支配は相当だ。外国に行ったくらいで逃げられるはずが無い。それがグローバリゼーションだ。IT業界はなかなか滅びないだろう。ネオリベという軍隊の尖兵だからだ。新兵がいなくなることは有り得ない。(不人気の煽りで金銭的な待遇は今より良くなる可能性はある。ただ、今は技術者の質を落とすことで凌いでいるようだが・・)
その結果、そもそも本質的には供給過剰だった多くのSI企業は倒産するか併合され、おそらく数社の大手ブランドと超小規模なブティックに収束することになるだろう。そして一時的には今以上に「見かけ上のサービス供給不足」が起きるが、ユーザ企業はむしろ「無きゃ無いで、割と平気だったのね」という真実に気付かされるだろう。
こんなハッピーエンドは無邪気すぎる。
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だからと言って全てを否定する分けではない。
こういうことを切実に考えるSIerがいることは、事実なのだろう。上の2つの問い、これは重要だ。これを憂うべき問題として表出させたことには大きな意義がある。そして、これを解決し「イノベーション」や「エキサイティングな革命の歴史」を実現すれば仕事の忙しさ、辛さに耐えていけるのだ!!・・・一時的に。
上に書いた米(こめ)の例を顧みるまでもなく「イノベーション」や「エキサイティングな革命の歴史」がIT業界を楽にすることは無い。ネオリベの新兵に休息は似合わない。ここまで読んできて大袈裟なと考える人もいるだろう。けどそれは、これらの自体を大袈裟だと感じてしまうほどネオリベに染まっているのだと言っておきたい。
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ただ、上の絶望は(SIerである)私の絶望ではない。IT業界の絶望でもない。ネオリベラリストの絶望だ。勿論、市場経済、資本主義の全てを否定する気はさらさら無い。今の社会でその生活は辛すぎる。しかしかくのごとく、ネオリベの果てには救いが無い。
私はもっと別のことを考え続けたい。(世界に)救いが無いわけでは無いと。1つ言えるのは、極端なところには答えが無いということだろう。