はてなキーワード: 大蔵省とは
おお、岡本太郎批判にそのまま使えそうだ。本来は万博会場全体の予算であったものを太陽の塔ひとつに使ってしまい、途中で発覚し慌てて止めようとしたが時すでに遅し。あの塔が完成した
[B! 万博] サクッと調べたので間違えてるかもしれんが 万博会場の建ぺい率は70%な..
上記コメントは 太陽の塔内部の展示資料とパンフレットを読んだ私の記憶をもとに書いたのですが、改めて調べたところ
の間違いだと思います。いい加減なことを書いて申し訳ありません。ブコメも修正しておきます。
ただ太陽の塔建設は当時大変揉めていたこと、岡本太郎が勝手に暴走したことは事実のようです。
以下、参考になりそうなページをまとめておきます
会場計画プロデューサーの丹下健三氏と岡本太郎の取っ組み合いの喧嘩がさまざまな記事で言及されています。
中でも堺屋太一氏による「地上最大の行事 万博博覧会」は当事者による記述として興味深いので引用します
計画が出されたとき、万国博開催期間は梅雨の時期も含まれるため、人を集めるには「屋根」が必要だという意見が出た。しかし、これほど巨大な建造物の屋根をどのように作るのか、技術的な解決策は見えてこない。建設省や通産省からは安全性を危惧し、縮小変更を訴える声が強かった。
(中略: ここから大屋根建設の苦労が語られますが省略します)
お祭り広場の建築が軌道に乗り始めたと思った矢先のことだった。展示プロデューサーの岡本太郎氏が、お祭り広場の大屋根の真ん前に、塔をつくると言い出した。これが、かの「太陽の塔」である。
「すでにシンボルタワーは菊竹清訓氏が設計しています。あなたは展示プロデューサーなのだから、展示に集中してください」
菊竹氏が設計した蜂の巣状のシンボルタワーは、会場の南端に建てる予定で計画が進んでいた。しかし岡本氏は一歩も引かない。
「万国博の展示の中心には、一眼でわかるような造形が必要です。一番目立つ展示を私は考えました」と言ってスケッチブック4冊ほどを取り出した。そこには「太陽の塔」のスケッチが200枚くらい描かれていた。(中略)岡本氏の熱弁を聞いたところで、もちろん丹下氏は納得しない。丹下氏の口調は次第に厳しくなり、
「お前にそんなものを造る権利はない」「造るとしても、目立つところにあるのは許さない」
どうしても造るなら、お祭り広場の屋根の設計を変更して、太陽の塔を屋根で囲って見えないようにする、とまで丹下氏は言った。
すると岡本太郎氏は烈火の如く怒り、関係者のいる前で2人は取っ組み合いの喧嘩を始めた。互いの弟子たちは喧嘩を止めるどころか加勢し、手のつけられない状態になった。慌てた私はいったん通産省が引き取りますと2人を制したが、「引き取るとはどういうことだ」と、今度は私が2人に罵倒される始末だった。結局、大屋根の中央に大きな丸い穴をあけて「太陽の塔」を突き抜けさせるという妥協案に落ち着くまでに1ヶ月かかった。
(「地上最大の行事 堺屋太一 万博博覧会」 p269~p280)
このように「太陽の塔」はもともとシンボルタワーとして造られたものではなかったが、結果的に二つのタワーが万国博に登場した。岡本太郎氏は「自分の太陽の塔と、菊竹氏のタワー、どちらが真のシンボルタワーかは大衆の審査に委ねるべきだ」という考えを示した。と同時に「自分には自信がある」ということを盛んに表明した。この勝負、岡本太郎氏に軍配が上がったことは歴史が証明している
なお、著者である界屋太一氏は通商産業(現経済産業)省の方であること、出版が2018年であることは注意が必要です。
まるで仲介役をしていたような書き方ですが、以下の小松左京氏の著書によれば通産省も強固に反対していたようです。
当初の見解とは大きく異なり太陽の塔が歴史的シンボルになってしまったせいで不都合なことはみんなちょっとずつ伏せている感じはありますね。
予算といえば、あの「エキスポの顔」といわれた高さ六十メートルの名物「太陽の塔」があやうく消えかかったことがある。テーマ展示の、総予算は前にもいったように建設費こみのあち見つもりで三十億は必要だと、岡本氏のスタッフははじき出していた。(この金額で理事会で説明する時、岡本氏はテーマ展示には「最低三十万円」必要だ、とやってしまった。石坂会長の「明治四十五年の万国博」とともに万国博の二大迷言とされている)
大蔵省筋はこの規模を内々に承認していたが、監督官庁の通産側は、あまり正面に大きなものを建てられると、ホストカントリーの日本政府館が目だたなくなる、という理由で強硬に反対した、テーマ展示の稔予算はせいぜい三、四億でいい、というのだ。モントリオールのテーマ予算百億と大変なひらきだ。そんな予算ではとてもテーマ展示はできないとプロデューサー側がいうと、もともとテーマなんてものは万風博にはいらないものだ、とまで極言した。
(中略)
予算の三倍にふくれ上った見つもりをむりやり削るのは大変な作業だった。業者サイドと一項目ずつ検討し、全体の仕様をかえ、やっと予算の倍ぐらいまで削った。だがそれをさらに半分にするのは、背筋の寒くなるような作業だった。
場合によっては、石を一つころがしておいても、これが「根源の世界」だとひらきなおってみせると豪語していたものの、当初のイメージが、はなはだしく萎縮してしまうのはさけられなかった。それに私は平野氏と話しあって、第三スペース「心の世界」に展示する、海外民俗資料収集のための、予算六千万円は、最初からおさえて、絶対手をつけないことにしていた。一・五倍にまできりつめる時、展示構想を基本からやりかえなければならないところにまできた。
テーマ展示に関わった小松左京氏が予算で苦労する様子が書かれています。現在の国立民族学博物館は小松左京氏と平野氏が守ったのですね。知りませんでした。
(id:ryotarox さんありがとう!)
id:tapi423 さん、こちらこそどうもありがとう。
思うに郵政省には、保険不正利用による優生的ステルス迫害虐殺があったと思う
郵政省時代のかんぽ生命は現金で満期保険金受取りができたので、ここ経由でまとまった現金をやりとりすることができた(子供に生命保険を掛ければ割が良く、受取人本人確認などなかった時代)
自民の敵は迫害虐殺しとけ!という状態なら米軍駐留も安心というわけだ
土地バブル崩壊とオウム麻原が現れたあたりで統一教会はメディアから消え、内閣もころころ変わったように見えたが、郵政省の現金払いをどうするの問題もあったからではないか(規制案に当省や保険・司法団体から妨害が入っていたのではないか)
結局、保険・郵政省・司法団体は、郵政省は尻尾切り、隠蔽係として金融庁を設立することで合意し、橋本龍太郎が省庁改革、小泉純一郎が司法改革をやった
それで大蔵省は財務省になり、金融担当大臣には竹中平蔵がつき(2002-2004)、その後の中川昭一(2008-2009)、仙谷由人(2010)、松下忠洋(2012)は早世し、安倍菅内閣ではずっと麻生太郎が担当した(2012-2020)
なお大蔵省の設置法
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/00519490531144.htm
(任務)
第三条 大蔵省は、左に掲げる事項に関する国の行政事務及び事業を一体的に遂行する責任を負う行政機関とする。
一 国の財務
二 通貨
三 金融
四 証券取引
五 造幣事業
(権限)
第四条 大蔵省は、この法律に規定する所掌事務を遂行するため、左に掲げる権限を有する。但し、その権限の行使は、法律(法律に基く命令を含む。)に従つてなされなければならない。
一 予算の範囲内で、所掌事務の遂行に必要な支出負担行為をすること。
三 所掌事務の遂行に直接必要な事務所等の施設を設置し、これを管理すること。
(以下略)
因果と結果が逆。景気が悪化するから支持を失って政権交代してるんだよ。
1回目はバブル崩壊。これは1985年のプラザ合意と、1990年の大蔵省の引き締めが引き金になって発生したもの。その結果、宮澤政権が持たなくなり1992年に政権交代。
2回目はITバブル崩壊→リーマンショックのコンボ。これは橋本内閣からの新自由主義政策が極まった所の小泉政権が爆弾を持ってて、リーマンショックが発生して景気が急降下した。その結果麻生政権が持たなくなり2009年に政権交代。
順番から見ても、景気が悪くなったから政権交代してる。自民党が野党転落すると景気が悪くなった、のではなくて、経済状況が悪化すると政権交代が発生し、野党側がその舵取りをする事になるということ。
これは日本以外でも同じ傾向です。ただ、景気悪化した局面で舵取りを担う事になる政党が育っているかどうかは、国によって異なる。
未だに「マルクをたくさん刷ったからハイパーインフレになった」という説明が成されてると聞いて
第一次世界大戦時のインフレの進行は通貨発行量の増加とあまり関係が無い
資料の引き写しだが
1914−1918(開戦から休戦まで)
貨幣発行:4.4倍
輸入物価:2.1倍
貨幣発行:1.6倍
輸入物価:1.7倍
1919−1920(ベルサイユ条約調印から1920年2月まで)
貨幣発行:2倍
輸入物価:19倍
1920−1921(1920年2月から連合国の賠償金最後通告まで)
貨幣発行:1.5倍
1921−1922(最後通告から1922年7月の賠償金支払い交渉まで)
貨幣発行:2.5倍
輸入物価:9倍
1922−1923(1922年7月ー1923年6月いわゆる天文学的ハイパーインフレの始まりまで)
輸入物価:225倍
レンテンマルク発行、ハイパーインフレ沈静化
とまあ通貨発行とかと物価が直接関係してないのはわかっていただけると思う。端的に言えばみんなが知ってるドイツのハイパーインフレを引き起こしたのは紙幣をたくさん刷ったからというのは原因に対する対応である。ルール進駐による経済ダメージこそがハイパーインフレの源である
https://www.yomiuri.co.jp/column/history/20220921-OYT8T50046/
https://anond.hatelabo.jp/20231014043358
についての
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231014043358
のお話です。増田は自称財務省主計局の元中の人だけど、ホントかどうかの判断は自己責任でよろしく。
参考資料の学級規模と教員一人当たりの生徒数のギャップを見る限り先生余っているはずだけど公立の学校見ているとどうも余っている様子は全く見られないのなんでなんだろうなあ
足りないのは事務員なんだよね。自治体予算には限りがあって教育分野でも削らざるを得ない、でも教師の雇用・処遇は相対的に守られてきてそれほど減らせない、となると他の部分にしわ寄せが行って、事務員が足りなくなった分、教師が事務仕事をこなすことになって多忙になると。人件費単価は教師より事務員の方が低いから、教師の枠を事務員に振り替えれば、学校の従業者数を増加させることになって職場環境は改善できるんだろうけど、世の中うまくいかないよね。
とりあえず予算を査定する側とされる側が対等にバトルしているという幻想は捨てよう。実際、他省庁が財務官僚に「査定のお願い」に行く際、財務省側は二ランクか三ランク下の官僚が相手をする程の権力差がある。
よくある財務省ツエー論の根拠の一つとして挙げられる話だけど、実態は全然違います。9月の最初のヒアリングは、要求を網羅的に聞くから各課の課長が主査(課長より2ランク下の課長補佐クラス)に説明するけどーー各担当補佐が説明するとなると、ヒアリング日程の調整やヒアリング現場での説明者入替え等のオーバーヘッドがかさむんですよーー、その後は普通に主査と補佐で議論してるからね。まあ各省庁の文化の違いや課長のキャラで補佐に下ろさず課長が出てきがちな場合もあるけど、少なくとも主計側から「主査は補佐を相手にしない、課長を出せ」なんてことを強いているわけではありません。
ともあれここ数十年財務省の力が強くなり過ぎているのが国力を削ぐ結果に繋がっているので、財務省は分割解体されるべきである
こうした主張、はてブに限らずいろんなところで見るけど、なんで一定の説得力を持っているのかさっぱりわかりません。だって大蔵省・財務省にとっては、ここ数十年、国債残高を減らすことが悲願なわけですよ。で、それを一度たりとも成し遂げていません。バブル末期に赤字国債脱却はできたけど、その間も建設国債は増えていて残高は右肩上がり、バブル崩壊後はご覧のありさまですよ。増田は個人的には国債残高減少を金科玉条として目指すことには批判的ですが、だからこそ、財務省が悲願を実現するだけの力がない弱っちい役所でよかったなあ、としか思えません。
補正予算になると精査もせず30兆ぽんと出し、剰余金を一般会計に繰り入れて好き勝手に使う財務省。文科省にだけは強気だけど、他の省庁にもちゃんと物申したらどうですか。大蔵省の頃はやってたと思うよ。
農水省や国交省の中の人たちからすれば、文科省はうらやましい限りだと思うけどなあ。増田は主計局を離れてそこそこ経つので、例えば最近の防衛費増の受け止めはわかりませんが、増田がいた頃は、文教費は、社会保障や地財と並んで扱いが難しい予算だ、というのが一般的な認識だったと記憶してます。文教族は政治力強いからねえ。
「歳出予算はその年度に使い切ってください」
「持ち越しは一切してはいけません」
「余りが出たら『別に必要なかった』という証拠として、次の予算審議の材料にさせていただきます」
結果的に年度の後半は『如何に効率的にピッタリ使い切るかを考える』のモードに入ってしまう。*1
財布の中身と相談してギリギリで使い切ろうとするテレビ番組の「◯万円ピッタリお買い物ゲーム」みたいなことを10月~3月にかけてどの省庁もやってる。
そこに向けた準備も考えると純粋な費用対効果だけで考えて伸び伸びと動けるのは4月~6月ぐらいまで。
7月以降は予算が付きすぎた事業では必死に使い切りを模索し、足りてない事業については爪に火を灯すような使い方になる。
「俺たちはこの事業にコレぐらい金がいるんだぜ!だから税金をくれだぜ!」
と言って貰ってきてるので自分たちの管轄であっても事業間でホイホイお金のやり取りをして全体をフラットにするとかは駄目。*2
だから金がない中で必死にやりくりするんだけど、それをしたらしたで「じゃあやっぱ足りてたんですね。最初のドンブリ勘定なんだったんすか?」みたいな事を次の予算調整で言われる。
必要な所に必要な予算を必要な形で配るっていうのを本気でやろうとしてるとは思えないんだよね。
やってる感を出すための資料作りを皆で頑張って、それに対して超絶究極絶対神大蔵省スーパーエリート様がやってる感のある感じで予算をお出しくださってエヘヘヘあっしらのような下賤の下っ端役人如きにお恵みくださってくれるんでげしよげへへへ。
まあ税金でやる以上は先にいくらかかるかキッチリ見積もってからやれってのは事実だとは思うんだが、それにしたってもうちょっと効率的にというか実態に即したやり方は出来ね―もんかなと思う。
なまじっか複雑な分最終的には「お役人様のご機嫌を上手に伺った人の勝ち」って所が強くなってる気がしてならん。
んでまあ世の中なんだかんだ水物だから未来予知しきれなかった部分でボロが出てくる。
無茶苦茶だぜ。
保身しか考えてない結果からくる完璧主義に囚われきった官僚の逆効能の完成形だよ。
結局はセコセコ手を動かして胡麻をするか必死に誤魔化すかしかねーんだわ。
そのくせして表向きは「完璧に我々の予想通りでした」と言い切らないといけないのが狂ってんだよね。
※1 予算をピッタリ使い切る
予算をピッタリ使い切ると言っても完全に財布を0にする使い切りは基本的に不可能。
入札方式を取っているのでどうしてもブレが出るのだ。ブレが出ないように会社と事前に値段を決めてそれを書いてもらうとかは当然NG。なので予定していた契約額±10%ぐらいのブレはそれぞれの契約ごとに発生する。契約したけど役所のガワにお金がないのは絶対にあっちゃいけないので予算は余る側に向けて調整される。
絶対に余るのだけど、余らせすぎると次年度以降に予算を削られてしまうので、予算を使ったという証明のために「最後は文房具でも買って1000円単位ぐらいまで頑張って使い切れよ」と仄めかされたりする。年度末に無駄な仕事してて本当アホ。
実はちょっとしてる。切り分けが曖昧な分野では多めに予算がついた方からお金を出す感じで。
一般家庭でも「知育ゲームはゲーム用お小遣いと勉強用お小遣いのどっちから払うの?」とか「旅行先で飲むお酒は個人のお小遣いから払う?それとも旅行用のプールから払う?」みたいな「どっちの予算からお金を使うか」っていう問題は起きるでしょ?
それと同じ感じである程度都合よくお金を融通しあってから「これはもう完全にこっちの予算で使うべきだったわけで何もおかしくないんすよね~~。まあ結果的にこっちの事業で使う頻度が多くなっちゃってる気はするんですけど、それは結果論みたいな話でしかなくて~~~」みたいな感じで説明して乗り切ってる。
やりすぎると問題になるから『足がつかない範囲で』は意識することになる。
んで下手にやると「じゃあやっぱこの事業はこの予算でイケるってことっすね~~~」で全然足りてない予算が次回以降の実績になったりするので、血の涙を飲んで「金がないせいで何年も事業が遅れてんだよ。どうにかしてくれよ」と言うために裏技を使わないこともある。
ただの独法系病院勤務医だけど神奈川の田舎の母子家庭に生まれたからか、昔は名誉欲と権力欲が強かった。横浜翠嵐卒業して東大法学部卒業して、在学中に司法試験と国家公務員試験に合格して、大蔵省か自治省の官僚を目指していた。金には全く興味がなくてエリート視、次官という肩書き、陛下から頂ける勲章が欲しかった。
だけど、司法試験合格して東大法卒の事務次官でさらに中高は私立の名門男子校なんて人はゴロゴロいるわけで、地元小中と県立出身の自分じゃ「真のエリート」にはなれないなと諦めた。
その後内閣人事局というとんでもないオフザケ組織ができてしまったのでその選択は正解だった。
それからは「国立大学医学部の教授」を目指して旧六医とされる地方国立医学部に受かったんだけど、大学在学中に新しい臨床研修制度が始まってしまった。県外出身の友人始め多くの同級生はそれを歓迎していた。だけど俺は不安だった。せっかく苦労して関連病院の多い歴史の古い国立医学部に入ったのに、その医局の権威が揺らいでしまったら…と。
予想は的中し、今や国立医学部よりも設備の整った私立総合病院の院長がデカイ顔をすることもあり、大学医局に属したことのない医師が名医と紹介されることもあり、極め付けに最初から稼ぎの良い美容外科を志望して入学してくる学生がいる。
医師や官僚だけじゃない。情報化社会とネットメディアが進展すればするほど、金と根拠のない影響力だけを持った胡散臭い実業家やインフルエンサーが大口を叩くようになり、正当な権威や権力を持った人間の影響力が次々と失われていく。
1991年1月の中旬だったかな、ニュースでバブルはじけたって騒いでた気がする。
どうでもいいような土地に価値が有るように見せかけて担保にして、
バブル崩壊とは、1991年から1993年頃にかけて起きた株価や地価(土地の値段)の急落のことです。歴史(近現代)の教科書にも載るほどの大きな現象で、長い不況の入り口になりました。バブル崩壊は、投資家や不動産のオーナーだけでなく、企業経営者から会社員にまで広く影響を与えました。バブル崩壊に至るまでの歴史を振り返ります。
バブル崩壊の「バブル」とは泡のこと。泡のような急速な好景気と一瞬ではじけ飛ぶ様子を「バブル景気」と呼びます。日本がバブル景気に入るのは、1980年代後半のことです。
1985年9月、アメリカの貿易赤字を改正するために、先進国5カ国での「プラザ合意」がされました。合意内容は、アメリカの製造業を守る円高ドル安の路線。これを受けて市場は急激な円高になり、それまで順調だった日本経済は、不況に陥りました。
そこで、日本政府は公共事業拡大と低金利政策を実行することになり、結果としては企業・個人にお金が余る状況を作り出します。余ったお金は株式投資や不動産投資に回され、株価は急激に上昇し、土地の価格も高騰しました。いわゆるバブル景気の状態と言えます。
バブル景気は長く続くことはなく崩壊しました。直接的な原因は、1989年の金融政策転換と1990年の総量規制の実施です。
株価を引き下げる要因になったのは、金融政策の転換です。1989年5月以降、公定歩合が段階的に引き上げられた結果、1989年末に3万8,915円だった日経平均株価は、わずか1年後の1990年末には、2万3,848円にまで下落してしまいました。
不動産価格を下落させたのは、地価の高騰を抑えるために政府が行った総量規制です。銀行の不動産融資を実質的に制限する政策でした。総量規制が実施されると、まもなく地価は下がりそれとともに、バブル景気は終焉を迎えました。
総量規制が出されていたのは、1990年から1991年までの1年3カ月間のみです。しかし、この政策は、政府・大蔵省が予想していた以上の結果を招きました。それが「土地神話」の崩壊と90年代後半以降のデフレ経済です。まさに「失われた20年」の原因となった政策でした。