はてなキーワード: ルイズとは
ルイズとは結局やんないのも焦らしとしてはかなりクルもんがある
ふーんって感じ
あんましらん
ぶっちゃけマンネリというか、キャラとかへの愛がなくて設定だけ借りてめちゃくちゃにした感じで全然おもしろくなかった
連合赤軍の話
申し訳程度のエロで、調べた内容を垂れ流しにしてるだけって感じで、氷菓キャラが出てくる割合もかなり少なかったし、面白くなかった
ケッチャムを初めて知った
いいものを教えてもらった
まあ元ネタからしておもしろい・面白くないっていう次元のものではないんだろうけど
これはさすがに知ってた
柳楽優弥がなんか賞とったやつ
見てないけど
マミさんが結構出てきたりさやかとまどかが全裸ラジオ体操するやつだったかな
隣の家の~の次に出たやつだったと思う
隣の家の~よりかは面白かったけど、他の蛸壺作品に比べるとイマイチだなと思った
表紙から。
いまいちだった
セックス安堵ばいおれんすって感じで雑でテーマ性はかなり薄かった
そのまんま。
元ネタはタイトルしかしらんけど、少なくともこの同人誌は艦これキャラを使って史実を書いたっていうだけで、
それ以上でもそれ以下でもない
艦これ愛はみじんもない
伊8にでちでち言わせてる時点で冷めた
あちゃー唯死んじゃったか―で一躍有名になったやつ
映画知らんかったけど、麻薬ネタってのとけいおんメンバーのそれぞれがウンチクとかなしでネタとして面白く書かれてた
澪がおっさんにやられてネットアイドルっぽいので承認用量満たすためにニコ生やったりとか
そのまんまっすね
あずにゃんメインだし
この話も結構好きだ。
一環の時点でほぼ太一のキャラ片目は済んだ状態。この話はあくまで太一が旅行中に出会った女性の話と言う体になっているつまり保険の仕事や軍隊の話はあまり関係がなく純粋に太一と言う人間が1人の人間として行動した話になる。
私は国家資産を持ち出した罪人として今もチョコ秘密警察エスTVに追われる日漂泊者なのです。
チェコでは早くから工業化が進み20世紀初頭にはあなたの言う山林貴族は存在しなくなっています。それに食堂車で歌っていた歌はザクセン民謡あなたは生粋のドイツ人だ。でもそんな事はどうでもいい。あなたのほうこそただのいちども私に感謝の言葉を言ってくれませんでしたね。
東西分裂に巻き込まれ息子は東ドイツに拉致されそこで将校として育てられる。夫はそれを救うために東ドイツに潜入するが捉えられて餓死する。妻もそれを追って東ドイツに潜入し、真実を知った後は息子のいる東独を倒すために活動すると言う悲劇の運命を送る。
あなたは今時珍しい青年ね礼儀正しくてとても優しいあなたみたいな人ほんとの貴族と言うのよ。さよならミスタ亀屯どうもありがとう。
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160212/1455256800
90年代にオタクコンテンツからいわゆるファンタジーが消えた、というのが異世界転生ファンタジーブームの遠因の一つになっている気がする。
そもそも80年代後半から90年代にかけてファンタジーブームだっただけという説もあるらしいが、その後にわざわざハイ・ファンタジーなのかロー・ファンタジーなのかよくわからない、
現実世界から異世界へ移動するファンタジーが勃興した背景には、「自分ではない別の人物・別の世界」への志向から、自己投影しやすい物語に需要が変わったからではないかと思う。
「現実世界と接点がある」という強みだったものが、最近は逆にうざくなってきたんじゃないだろうか。ルイズが現実世界にやってくる描写には首をひねりたくなるし、
オーバーロードは大変物悲しい。自己を消すという点では百合ブームもあったが現実の高校が描かれている。現役中高生やおっさんが羨む理想の青春がよくわからなくなってきたとしても、
細部までみっちり作りこんだ大きな妄想世界(ハイ・ファンタジー?)というのは現代では制作も消費も難しい気がする。そうしてみると自己を残して現実と接点のない(現実を生きたという過去の接点のみを残して)異世界に行く、
というのはよくできていて流行るのもわかる気がする。浄土系が現実を体系に組み込み「浄土は死後だが救いは今生」と諭して現実に送り返すのに比べると、異様な感じはするが。
今年の4月に新人が配属され、社会人3年目の俺にも初めて後輩ができた。
後輩ができると自分の仕事を見直す切っ掛けになるから、そういう意味では少しだけ成長(笑)できていると思う。
この辺りは学生時代の勉強なんかと同じだから割と想像ができてたけど、報連相がないときの不安は体験して初めて理解した。
右も左も分からない状態で先輩や上司に確認も取らず仕事をしてないか、仕事を頼んだ俺に確認が一切ないのは大丈夫なのか、俺自身も先輩や上司にこんな気持ちを味わわせていたかもと反省して、報連相はクドいくらいするようになった。
後輩ができると分かったときはまだ一番下でいいのにと思ったけど、いざ後輩ができるとそれはそれで学ぶことがある。
と、本来なら『先輩になって初めて分かること』ぐらいのタイトルで個人ブログに書いて終わるところだが後輩が臭すぎてそれどころではない。
後輩が配属された当初は繁忙期だったし、異動して出て行った人のデスク(俺から距離がある)で後輩は仕事をしてたんだけど、その時から通るたびに臭い。息が詰まる。
ほどなくして席替えがあり現在に至るまで隣の席だがヤバい。死ぬ。
この気持ちを吐き出したくて吐き出したくて初めて増田使う。限界だ。助けてくれ。
他の人は何食わぬ顔で仕事をしている。本当に何とも思っていないんだろうか?
実は臭いと思っているのに言うに言い出せないだけなんじゃないか?
遺伝的に近い人は臭く感じるみたいな俗説を聞くけどそれなのか?
俺だけが(もしくは後輩も俺を)臭がっていて、他の人は何ともないのか?疑心暗鬼になる。
1日に席を立つ機会が増えた。社内SNSで済む用事も積極的に足を延ばしている。
できるだけデスクにいたくない。人事課が残業時間を減らすために送り込んだ刺客か?
腐ったような強烈な臭い。もう嫌だ。まだ3ヶ月。
あとどれだけ顔をしかめればいいんだ。
座って足を前に投げ出している(デスクの奥なので俺から遠い)時と足を曲げている(俺から足が見える位置にある)時で臭いのキツさに差がある気がしてきているからだ。
念の為どちらも強烈な臭いであることに変わりはないことを申し添えておく。
発信源が分かったところでどうしようもないのが辛い。そして気持ち悪い。
臭いの元が足だろうがどこだろうが、その特定の部位から放たれた何らかの物質が鼻にまで届いているということだ。
もし俺だけが臭いと思っているなら仕方ない。毎年異動の希望を出し続けよう。
でも他の人も臭いと思っているなら、対策を実現できる道は残っているはずだ。
これを読んだ誰でもいい。考えてくれ。頼む。
お前らも、そして部署の諸先輩方も後輩が女だからって遠慮しないでくれ。
俺の命に関わることなんだよ。頼む。
これを書いた増田だが、ただ殴り書いただけなのにちょっと反響があってしまって責任を感じている。
http://anond.hatelabo.jp/20150513013343
だから今回はちゃんと俺の言いたいことが伝わるようにまとめてみたよ!
あ、タイトルは注目を集めるためにつけただけで、本気でそう思っているわけではなので悪しからず。
本気ではないが、半ばそう思っているけれど。
俺はナルシストだ。
そして品がない。
育ちも悪いしコミュ障だし、人の気持ちもわからんしデリカシーも無い。
見る度に、チックが別れた女房と息子に会いに行くシーンと、インデペンデンス号が墜落するシーンと、ハリーの自爆間際の走馬灯とで3回泣く。
俺の読書体験を要約すると、『スレイヤーズ』にハマって呪文詠唱覚えたり『星の王子さま』に感動したり『それから』を読んで代助のガキっぽさに読んでるこっちが真っ赤になったり『キノの旅』を読んで1巻目のプロローグとエピローグ暗記したり『猫の地球儀』に号泣したり『世界の中心で愛を叫ぶ』に号泣した後で本屋に平積みされてる『ジョン・レノンにだまさされるな』をワクワクしながら手にとって20ページほど読んでそっと棚に戻したり『いちご同盟』に号泣したり『バトルロワイヤル』に号泣したり『殺×愛-きるらぶ-』に号泣したり『天使の卵』に号泣したり『アルジャーノンに花束を』に号泣したり『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでわけもわからず激怒したり『ゼロの使い魔』読んでルイズに恋に落ちたり『フルメタル・パニック!』に号泣したり『とらドラ!』に号泣したり『永遠の0』に号泣したり『生贄のジレンマ』に号泣したり、まあだいたい号泣している。
こうして振り返ってみると読んでる本に脈絡ないなと思う。
ふらっと本屋で20ページぐらい立ち読みして、面白いなと思った本を買って読むからだろう。
あとは気分で話題になってるのを読んだりする。
テレビで『風立ちぬ』やったらしいから原作読んでみようか、とか。
夏目漱石とか太宰治とか川端康成とか谷崎潤一郎とか、国語の教科書に載ってるような文豪の作品も気が向いたら読んでみたりする。
ゲーテとかシェイクスピアとかカフカとかも、読んでみたことはある。
その中で、この人の書いたものは全部読まなきゃダメだ!って思わせてくれたのは秋山瑞人だけなんだよな。
『イリヤの空、UFOの夏』を読むと、
「ぼくは笑わない」
榎本の瞳の中に、どこか臆病な光が滲む。
「なぜそう言い切れる」
何度読んでもここで泣く。
これこそが文学だと思う。
さて、自己紹介もすんだところで俺の陳腐なブンガクロンの話でもしようか。
俺がむかっ腹が立って仕方がないのは「読書を教養を蓄えるための苦行と考えている人間」これに尽きる。
読書は面白いからするのであって、苦しむためにするわけじゃない。
ミステリが好きな奴は犯人探しにうんうん頭を悩ませるのが好きなんだろ?
重厚な哲学書みたいなのが好きな奴は、難しい話を読むのが好きだから読んでるんだろ?
読書が好きな奴にとっちゃ、当たり前だよな。
まさか、スタバでMac広げるノリで、ファッション感覚で分かりもしない純文学読んでる奴なんていないよな?
世の中には少しはそんな奴いるんだろうけど、こんな所でまで文学にあーだこーだ言う物好きの中には居ないだろう。
だからこの文章を読んでる人は、俺の嫌いな人間じゃないはずなんだ。
で、なんで読書が苦行と結びつくかと言うと、いわゆる「タメになる名作」って奴が歴史の洗礼を受けて生き残った、古い小説になることが多いからだ。
古い小説には、現代に生きてる人間にとって見慣れない表現が多く使われている。
当時の人にとって「ぐいぐい読ませる美しい名文」の集まりが、読書経験の少ない人には、まるでお経かなんかみたいに見えてしまっているわけだ。
だから「教養の無い人間にとっての、教養のための読書」は苦行になる。
そして、少し本を読んでるってくらいの俺にとっても、やっぱり明治の文豪の書いた文章は、血の通ったものには見えないんだ。
俺の思考、心、俺自身を構成する言葉の一部とは思えないんだよね。
なぜならライトノベルは、俺の心を作っている言葉、そのもので書かれた物語だからだ。
俺の体の中にある思考や心を、本という形で取り出した物だからだ。
文学かじってるような奴らは、『不朽の名作』なんて小っ恥ずかしい妄想を本気で信じてやがる。
断言してやるが、そんなもんはこの世に1作品足りとも存在していない。
全て名作は朽ちていくんだよ。
それは、作品に込められたメッセージが古くなるのではなくて、俺達が読めなくなるんだよ。
俺達には手が届かない。
だからどんな名作だって、その名作の本当の味を味わうことはできないんだ。
ショパンがその手で響かせていたピアノの音色を、俺達が耳にすることはできないように。
失われてもはや取り戻せない。
だけど、俺達はその片鱗だけでも、味わうことができる。
きっと完全ではないが、味わえる。
だって、人の心には百年でも千年でも、最も深い所に変化はないからだ。
そう信じるに足る何かがある。
眩いだろう。
なんか胸がときめくだろう。
ナルシスティックな気分になるだろう。
何十年かしたら、今読まれているラノベは苦労なしに読めない物語になっていくのだろう。
教養のための本になっていくのだろう。
それでいいんだよ。
そしたらまた別の何かが読まれるさ。
そうして俺達は滅びていく。
俺達の感動は、俺達の号泣は、俺達のナルシスティックな情動は、受験生を一喜一憂させる国語の試験の点数に押しつぶされて消える。
俺達が滅びた後で、意識高い系のインテリ気取りが20世紀末から21世紀初頭にかけての文学として、読み解くのに苦労するものとして、ラノベを語るのだろう。
それがちっとむかつくってだけだ。
西谷は「主人公は作家の分身」であり、それは「五感を共有していること」、「心の奥底まで共感しあうこと」だとするが、だからといって「主人公が作家の思うように考え、行動することを意味するのではありません」と警告する。五代/榊もまたありがちなワナビのラノベについて「キャラクターが作者を代弁するただのお人形になってる」と揶揄している。
このように見てみると登場人物と作家の関係について、作家が主なのではなく登場人物が主である、と主張しているように見える。しかし当然ながら各場面における登場人物の言動や思考は作家によって執筆されるのであり、作家が考えないのであれば誰も考えてはくれない。
この点でヒックスは登場人物を作家の一部であるとして、作家のある面を誇張したものであることを求めている。つまり嫉妬深い人物を描くならば自分の嫉妬深い側面を誇張した人格を創造する、というもので、全くの新たな人格を創造するのではなく、そのベースはあくまで自分自身だとする。
これに基づけば「キャラクターが作者を代弁する」状態とは、その人物を描くにあたり作家の誇張が無い状態、いわば作中に作家自身が名前だけを変えて登場した状態だと言える。作中に登場する作家自身がどれだけ失笑を買うかはくぅ疲の例を見るまでもないだろう。
登場人物は作家自身である。主人公は間違いなく作家の思うように考え、行動する。しかしその作家の「思う」主体は作家の人格そのままではなく、登場人物それぞれの設定によって歪められ誇張された人格であり、その結果時に作家の人格そのままであれば決して選択することの無い言動に出ることになる。
「キャラクターはある瞬間、勝手に動くものです」とは大塚の言だが、逆に言えば登場人物はだいたいの場合作家の想定通りに行動する、ということでもある。当たり前だが一定の合理性をもって人間は行動するものであるし、他人ならまだしも登場人物の人格のベースは自分自身である以上、ほとんど常に作家の想定外の行動を登場人物がするんです、という状態はありえない。もしそうだとすればそれは単に何も考えておらずその場しのぎで適当に考えているからか、もしくは薬物でもやっているからだろう。
なお突如として想定外の動きを登場人物がした場合、ヒックスはそれにあわせてプロットを書き換えるべきだとする。ヒックスは後述するようにプロットを重視するが、それ以上に登場人物を「愛さなければならない」という。
ヒックスは登場人物を創造する際、その登場人物の将来の夢は一体何なのかと作家に問いかける。これは夢を作家が事前決定しろという意味ではない。それではヒックスが否定する「組み立てられた登場人物」にしかならない。
ここでいう「夢」はその登場人物の人格に依存して考えだされるべきものである。これは大塚が世界設定で指摘した、ある条件を前提にしてそこからどうなるのか、ということを演繹的に導き出していく方法とよく似ている。
もちろん何の事前設定もなく人格を作れと言われても作家当人の人格にしかなりえない。ゆえにいくつかの設定は事前定義が必要である。それは主題や、もしくは世界による必然性を伴った定義であることが望ましいだろうが、それら断片的な設定に後付で作家が適当にどんどん設定を付け足していくのではなく、演繹的に設定が導出されていくべきだ、というのがヒックスの考え方であると筆者は理解している。
西谷がヒロインのブラジャーの形状にこだわった逸話はしょーもないの一言で済む話だが、そこに人格から来る必然性があるのであればわからなくもないと言えよう。
以上のように作家と登場人物の関係について述べてきたが、一方で主人公を決して困難な状況に陥らせないワナビにそれを指摘したところ「だってかわいそうじゃないですか」と反駁したという事例を西谷が挙げている。この点だけ見ると作家が主人公に同化し過ぎたり、感情移入し過ぎることに問題があるように思えるが、西谷がここで問題にするのは、ワナビとは裏腹に読者がまったく感情移入できていないことにある。読者も同様に感情移入しているのであれば、徹底して登場人物への虐待を作家が行うことに逆に嫌悪感を覚えることすらあるだろう。
西谷同様、筒井は「自分が作品に感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違い」と指摘する。
本格ミステリやSFなど、感情移入を必要とせずとも最後まで読ませる魅力を持った小説は存在する。しかし感情移入が読者に続きを読ませる原動力として強く機能することは言うまでも無く、感情移入できないという状態は読むのをやめようという動機になりうる。読者が感情移入をしてくれるに越したことはない。
さて、基本的に読者の感情移入は物語の中心を担う主人公に対してなされるべきであるが、ではどのような要素が感情移入を誘うことができるのか、という点について各説を整理する。
まず榎本や水島は主人公の年代をターゲットとなる(と下読みや編集部が想定する)読者層と重ねるべき、としている。すなわちラノベの主人公は中高生であることが望ましいと言う。同じ理由で性別も男性の方が好ましいと言いうるだろう。スレイヤーズやブギーポップのように女性主人公の成功例はもちろんあり、水島のようにそれを地雷ジャンルとまで言うのもいかがなものかと筆者は思うが、女性より男性の方が主たるターゲットである男子中高生の感情移入を誘いやすいことは想像に難くない。
まず作者自身をモデルとして主人公に据えるやり方について、「基本的に失敗する」「ナルシズムか自虐に陥るのがオチ」と榎本は断言する。もちろんそれで成功している例もあるが((森博嗣などは成功例と言えるだろう))、分の悪い賭けであることは確かだろう。
主人公に求められる特質について、西谷、榎本、飯田は読者の憧れを具現化していることであるとする。憧れとは立場的、能力的、性格的に秀でていることでもたらされるものだと榎本は言い、クーンツもまた「高潔」「有能」「勇気」「好感」という要素を挙げ、これらを満たしていることが必要だとする。
そして最も重要な点は、完璧超人では読者の共感が得られない、という点である。「ジェームズボンドのような例外はあるが」とクーンツは言いつつ、共感を得られやすい主人公には上記の要素に加えて「不完全さ」が必要だとしている。これは人によって「欠点」「弱点」と表現は異なるが、いずれも同じ意味である。
一方で「低スペックで卑屈、無個性、へたれ」な主人公像については、飯田は「マスな読者のニーズとはマッチしない」として、そういった主人公のラノベは「実売数千部のマイナー作品」に見られる傾向だという。榎本もまた、読者が作品を読む理由の最も大きなものは「自分とは縁遠い出来事を手軽に楽しく疑似体験するため」であり、現実の平凡な中高生に近い主人公像ではそれが得られない、という。
しかしながら水島は「平凡な主人公」でも問題ないとする。超人的能力を持った主人公像を否定することはないが、榎本や飯田のように平凡さを否定することもない。西谷も同じであり、憧れへの言及は最近のヒットしたラノベを見ているとそのような傾向がある、と言うにすぎず、読者の分身として機能する平凡な主人公像も肯定している。
さて、筆者はこれらの各説は人物の能力と精神と倫理を区別せず論じていることで生じた混乱だと考えており、ここで対立があるとみることは無意味だと考える。
能力とは例えば「直死の魔眼」のような、その人物だからこそ実行可能な、常人には実行不可能な行為の名称である。この点での超人性を主人公が備えているかべきかは物語上の必要性によって判断されるべきであって、主人公がそうした点で無能力であることは全く問題なく許容されるし、また絶対に負けず死ぬこともない完全無欠の超人的能力を持っていても(それが物語上必要ならば)問題ない。
次に主人公の精神についてであるが、これは完璧であってはならず、平凡でなくてはならない。あらゆる誘惑に対して微塵も揺らぐことなく、確固とした信念を持ち理性と知性に溢れた決断をし続ける聖人君主はご立派すぎてうさんくさく、クーンツが言うところの「好感が持てること」という要件を満たさない。飯田にしても「ヒーローは悩む存在である」としてこの点での超人性を否定する。自分の将来や恋愛といったわかりやすく、読者が共感できる悩みを主人公は持つべきであり、さらに「何を考えているのか、わかりやすく書くほうがよい。感情がオープンにならないキャラには感情移入しづらい」とする。
最後に主人公の倫理は、読者の倫理に反してはならない。主人公への感情移入によって「あらゆる女の子にモテまくる存在であるという全能感」を読者は得るのだと飯田は言うが、しかしどれだけモテようとも複数同時並行で交際することは一般に許容されない。「主人公は鈍感でなければならない」とする指摘は、倫理的正しさを保ったままその状態を維持する点で(安直だが)効果的に機能する。
一方で木刀を持って不法侵入の上傷害沙汰を起こした同級生に対して警察を呼ぶことなく、彼女の空腹を察してチャーハンを振る舞い、自分の恥を晒しながらも穏やかに話し合いで事態を解決する主人公は、まさしく完璧超人と言うべき存在である。
Unlimited Blade Worksとかマジカッコイイ!憧れる!といった読者もいるだろうが、失笑する人も少なくないだろう。しかし倫理的にそうすべきと読者が思い、また自分にも物理的には不可能ではないだろうがしかしなかなかそうはできないと思うことを主人公がやってのけることにこそ、多くの読者は「憧れ」を抱くのではないかと考える。
さて、憧れは感情移入の要素として極めて強力に機能するが、冒頭からいきなりその段階に持ち込むことは容易なことではないだろう。まず最初に主人公へ興味を抱き、好感度を稼いで少しずつ感情移入を誘い、そして上述のような行為によってその感情移入を一気に深め、確固たるものとして確立する、というのがより無難な戦略だと言える。
こうした興味喚起、好感度向上に役立つ要素として、例えば西谷は「肉体的な苦痛を与える」ことを有力な手法だとしている。クーンツの「主人公を冒頭で過酷な困難に放り込む」も同様の指摘と考えられ、冲方による「苦しい場面での感情移入に成功すると、自然とハッピーな場面ではそのまま感情移入してもらえることが多くあります」というのも、苦痛を伴う場面は幸福な場面よりも感情移入の効果が高いという指摘だと言えよう。
西谷が肉体的苦痛をあえて挙げている点は特に説明はないものの、おおむね誰にとっても明確でわかりやすいという点で精神的苦痛よりもメリットがあるからだろうと筆者は理解している。
そしてもう一つ効果的と思われる方法が、飯田が指摘する登場人物のギャップである。
本項では「キャラ」と「登場人物」を区別しないが、新城はそれぞれ異なる意味で定義しており、曰く登場人物を「内面があって葛藤と選択をする人格」、キャラを「こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」とする。
飯田は「人間は意外性のある物語に弱い。とくに、内面なんてなさそうな人物に内面があった、というパターンに弱い」と述べ、人物の外面と内面でギャップを設けるべきだとしている。すなわち新城がいうところの「キャラ」としてまず描かれ、それが物語を通して「登場人物」であると描いていくことで読者の感情移入が誘えるのだ、とする。
ところで飯田は良いツンデレと悪いツンデレがあるとして、良いツンデレは多面的な感情の一つにツンとデレがあるが、悪いツンデレにはツンとデレの2面しかない。だからハルヒは不人気でルイズは大人気なのだ、とする。筆者はツンデレに良し悪しがあるとすれば、それは新城の言う「キャラ」と「登場人物」であろうと考えるため、飯田の説には同意しない。
「ツンデレ」は言動まで類型化された属性である。本来内面であるはずの照れ隠しの典型的言動はまさしく「こういうシチュエーションではこういう言動」であり、そこに人格を読者は感じられず、むしろ「お人形」として認識されると考える。
良いツンデレがあるとすれば、同じ典型的発言をするにせよ、そこに「葛藤と選択をする人格」があると読者に理解されることが要点と考える。ツンデレ喫茶でバイトが事務的に発言する様を見て「ツンデレ萌え!」と興奮できるオタクがいないとは言わないが、ドン引きするオタクの方が多いだろう。
さて、さらに飯田はギャップは「属性」についても適用できるとする((「属性」についての議論としては東のデータベース消費論などがあるがどうでもいいので無視する))。登場人物へは二つの落差のある「属性」を付与することが効果的だと飯田は言う。例えば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」における「モデル」と「オタク」という組み合わせを挙げ、「モデル」が持つ華やかでリア充的イメージと「オタク」が持つ根暗でコミュ障的イメージを同一人物に同居させることで意外性を与え、興味を喚起できるとする。なお当然ながらこの手の単純な「属性」の組み合わせはそれ以上工夫する余地が無く、すぐに陳腐化する点は飯田自身が指摘するところである。
このギャップについては、陳腐化しやすい「属性」の組み合わせよりもその個別の設定においても有効に機能する。
例えば「とらドラ」における「目つきが悪いヤンキー」かつ「家庭的で親切」という主人公の設定、「小柄で可愛い」かつ「家事は苦手で暴力的」というヒロインの設定はそれぞれ落差のある設定だと言えるだろう。これは個人的なレベルでのギャップであり、また同時に登場人物間のギャップにもなっている。
西谷は主人公とヒロインを組み合わせると完全な人格になるよう相互補完関係を持たせること、また主人公には対照的な人を親友として持たせるのが好ましいとする。しかし主人公、ヒロイン、親友という限定した関係に留まらず、主人公格として機能する集団を想定し、それぞれは別の仲間とその設定にギャップをつけること、というように拡大解釈可能だと筆者は考えている。
ルイズのことを考えるとドキドキしていても立ってもいられなくなる。
ルイズを抱きしめながら、ルイズの笑顔を心に描いて幸せになる。
こんな僕は、世間的にはキモヲタと言われ、犯罪者予備軍扱いされてしまう。
でも、一体何の「犯罪」を犯せるというのだろうか?
仮に100歩譲って、僕が犯罪者の心を持っていたとする。
ルイズにストーカーしたい、ルイズを誘拐して自分の家に連れ込みたいと思ったとする。
でもそれって実現できないじゃん。
やっぱりルイズは二次元の存在で、三次元の世界からは手を出せない。
ストーカーする相手、誘拐する相手がこの世界にいないのに、どうやって犯罪を起こすんだ?
被害を受ける相手がいないのに、犯罪なんて起こせるわけがない。
その人が好きで好きで仕方なければ、いくらでも手を出せる。
こっちの方がよっぽど犯罪者予備軍じゃないか。
古いアニメを持ち出すが、ゼロの使い魔のアニメ2期のEDの歌詞に『よそ見してたでしょっ 他の女の子』
という歌詞がある、これは主人公であるサイトがルイズの視点から見るとしょっちゅうシエスタやキュルケに色目を使い目移りしているように見えるということを示唆している。
しかし読者や主人公からすれば主人公であるところのサイトがずっとルイズが好きなのは明らかである。
では何故そのようなすれちがいが発生するのか、これをゲーテの名作であるところの"若きウェルテルの悩み"を読んでいたところ思いついたのでここに記してみる。
若きウェルテルの悩みはウェルテルがロッテに猛烈な恋をするが、既婚者であるロッテとの恋はどうやっても叶えられないことに絶望し最後には自殺をするという壮絶な内容であるが
ロッテが結婚したからといってすぐ自殺をしてしまったほけではなく、当然そこには過程がある。
ウェルテルはロッテがすでに婚約者であったがためにいったんよその土地へ行くがまた戻ってきてしまう、そして戻ってきたときにはロッテはすでに結婚しており以前住んでいたときの住民の近況は変化していた。
作中のエピソードでウェルテルがある口下手な作男と非常に仲良くなり、その男はある後家さんのところで働いており非常にその女主人を慕っており、女主人のほうも作男を優遇しておりにくからず思っているということが語られる。
ウェルテルがよその土地から戻ってみると、その男はウェルテルが留守にしているあいだにその女主人と腕ずくで思いを遂げようとしたがそれを快く思わない女主人の弟の介入もあり拒否され解雇されてしまう。
もちろんウェルテルはこの作男にロッテへの強烈な横恋慕をしている自分を重ねあわせて同情する、そしてこの作男は最後には後任の男を殺してしまうのだ。
作男がこの後任の男を殺したのにはもちろん理由があって、何故か女主人はこの後任の男と結婚しそうな気配があったらしい(なぜこうなったのかは私にはわからない)
ウェルテルは後任の男を殺してしまったこの作男を強烈に弁護するが周りからは受け入れられない。
他にもロッテに恋し、それを打ち明けた結果免職になり気が狂ってしまった書記の話などが語られる。
もしもまともに恋愛ができたならば当然この書記はウェルテルにとっての恋敵なわけだが、ウェルテルはこの気が狂った書記の話に対してはげしく感動をしてしまう。
なぜなら、この書記はウェルテルがやりたいと思ってできなかったことをした結果狂気の道におちいったからだ、それに対して深い同情を覚えて感動をしたわけだ、しかしこれはウェルテルにとっては絶望への一歩だったと思う。
さて前述の作男の裁判をした結果、弁護は受け入れられずウェルテルはロッテとの交流も断たれてしまい、最終的に自殺の道を選ぶことになる。
では何故ウェルテルは自殺をしたのか? ロッテが婚約しているにしても、結婚前に告白すれば万が一でも受け入れられたのではないか?もしくは他の女性を探すとかロッテを略奪するとかさまざまな道があるのではないかと読者が思うのは当然である。
しかしこれらの道はすべてウェルテルからするとすでに検討された、というか現実に試行してみたようなものなのだ。ウェルテルは発狂した男や殺人を犯してしまった作男を見て、自分の思いをうち明けたり略奪をしようとすれば同じ結末になることに気がついてしまったのだ。
とはいっても、他の土地へ移るというのもすでにやってしまった道であり、どうやってもロッテへの想いを抑えることはできないと悟ったから最終的に自殺をするわけである。
ではどうしてこういう考えに至るのかというと、告白やら略奪といった行為は男性にとって非常にリスクのともなう行為だからだ。
古来から女性には恋愛や結婚に弱い拒否権はあっても、誰々と結婚したいといった能動的な権利は与えられてこなかった、つまり求婚は基本的に男性から行われてきたのである、これは現代でもある程度同じ傾向が見られるといっていいだろう。
フィクションであれば"すばらしい新世界"などで女性から直截なセックスを求められ野蛮人(旧世代人)のジョンがショックを受けるといったような話があるが、だからこそ現実ではそうはなっていなかったということがわかる。
それはともかく、女性から求愛をするというのは稀であるというのがわかると思う、これは"据え膳食わぬは男の恥"という故事成語からもめったにあることではなくそのような事までさせてしまったのだから男は責任を取れという意味合いであると思う。
つまり求愛は男性から基本的に行われ、女性はせいぜい思わせぶりな行動しかとれずあなたは私をどう思っているのか?ということは聞けないのである、聞けば実質それは告白と同じである。
そして万が一その告白が拒否されればそれは恥ずかしいことであり自分の自尊心を大いに傷つけることになる。しかしそういったことを聞かずある程度まで仲良くする分にはまったく問題がなくノーリスクなわけである、女性の側からするとやきもきするかもしれないが男性の側からすると告白はリスクの伴う行為であり確証を得るまでは動けないのである。
告白を行うムードまでもっていけたら実質告白前に勝負は決まっており勝ちも同然である。
ある程度の仲まで持っていくのはノーリスクなのだから青年男性はいろんな女性とある程度に仲よくなったりするわけであり、それは意中の女性がいたとしてもまだ彼氏彼女の関係になっていなかったらそうなのである。
それはリスク分散という側面もあるし、単に女性と話すスキルを上げたいというのもあるだろうし、告白し失敗した場合に自分の精神を守るための布石だったり、一人の女性だけに入れ込んでいるのは怖がられそうという判断のためだったりするだろう。
しかしこれは女性の側から見たら、男性はいろんな女性に目移りしたりデレデレしているように見えるのではないかと思った。私は好きとは言わないけどあなたからは言って欲しいというわけである。好きと言ってくれなかったらそれまでの愛が憎しみに変わったりすることもあるわけで、
たとえ男の方は意中の女性のことをずっと一途に慕っていたとしてもそうなったりする。
こういうことを考えていたら、そういえばゼロの使い魔のEDにそういうような歌詞があったなと思いだされてたので文章にまとめた。
ともあれ恋愛弱者に対して死刑宣告をするような本だった、途中まであまり面白くなかったがロッテに告白して爆死した男にウェルテルが同情したあたりから面白かった。
参 加 し て こ そ 祭 の 空 気
声優さんにとって、演技を聞かれて名前を当てられるのは名誉なのだろうか、それとも不名誉なのだろうか。
いい声だな、すごい演技だな、と思うことはあるが、それが誰なんだという事には執着がないし、よほど特徴的だったり野沢雅子レベルのメジャーな声以外は「声優当て」も全くできない。
俺は音痴だ。音を聞いても音階がわからないうえ、自分で音程も取れない。たぶん音という情報の処理が苦手なんだと思う。
だからと言って「声優当て」ができないことへの劣等感は全くなく、逆に多くのキャラクターの声を先入観なしに聞く事ができて得だとすら思っている。俺の中で、ルイズとシャナは全く無関係な別人なのだ。
ところが俺の弟はたいそう声優にご執心だ。
アニメを観ては「お、この声は誰々だな」「○○の主人公の××の声だよ」と、聞いてもいないのにクレジットを見る前に各キャラの声の主を当てていく。
俺はそれを聞くたび、いま見ているキャラクターにその別の作品のキャラクターのイメージがかぶってしまい、苦い思いをする。
俺にとっては、そのキャラクターはただ「そういう声」なのだ。別のアニメの別のキャラクターとは何の関係もない。そのキャラクターを気に入っていればいるほど、イメージに横槍が入るのは気分が悪い。そういう目で見る(耳で聞く?)のは無粋だとすら思う。
弟の「声優当て」は、悪気はなくとも自慢の範疇には入るのだろうから、正直バカにされているようで不快だ。そういう話は声優オタの間でやってもらいたい。
が、そんなもの気にするなと言われればそれまでだ。
というわけで、冒頭の疑問に戻る。
声優さんにとっては、果たして俺と弟、どちらが「嬉しい観客」なのだろう。
キャラクターの背後にいる自分ではなく、声と演技のみに目を向けている俺か。
演技で声を変えても(そうでない時もあるだろうが)ちゃんと見破ってくれる弟か。
当然声優もさまざまだろうけど、基本的には自己表現の仕事なのだから、自分を認識されたいと願うのが普通だと思う。
しかし、「七色の声」という表現もある声の演技者においては、そうでない部分もあるのではないかという気もする。
どうなんだろう。
こんな感じ?
ルイズ!ルイズ!ルイズ!ルイズぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!!
あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!ルイズルイズルイズぅううぁわぁああああ!!!
あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん
んはぁっ!ルイズ・フランソワーズたんの桃色ブロンドの髪をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!!
間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!!
小説12巻のルイズたんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!!
アニメ2期放送されて良かったねルイズたん!あぁあああああ!かわいい!ルイズたん!かわいい!あっああぁああ!
コミック2巻も発売されて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ!!
ぐあああああああああああ!!!コミックなんて現実じゃない!!!!あ…小説もアニメもよく考えたら…
ル イ ズ ち ゃ ん は 現実 じ ゃ な い?にゃあああああああああああああん!!うぁああああああああああ!!
そんなぁああああああ!!いやぁぁぁあああああああああ!!はぁああああああん!!ハルケギニアぁああああ!!
この!ちきしょー!やめてやる!!現実なんかやめ…て…え!?見…てる?表紙絵のルイズちゃんが僕を見てる?
表紙絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!ルイズちゃんが僕を見てるぞ!挿絵のルイズちゃんが僕を見てるぞ!!
アニメのルイズちゃんが僕に話しかけてるぞ!!!よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ!
いやっほぉおおおおおおお!!!僕にはルイズちゃんがいる!!やったよケティ!!ひとりでできるもん!!!
あ、コミックのルイズちゃああああああああああああああん!!いやぁあああああああああああああああ!!!!
11日の午前に電車の中で突然TLにライターのヤマグチノボル氏が死んだという文字列を見かけた時は心底驚いた、
なぜなら昨日の深夜ちょうどKindle Storeでゼロの使い魔を買って読みなおそうか検討しており同時に作者のWikipediaを漁り、まだ死去のニュースが載っていないことを確認したからだ。
嘘だまさかと思いつつソースとしてメディアファクトリーのURLが貼られていて、やはり末期ガンで死んでしまったのか…と心底では受け入れてしまった、それと同時にゼロの使い魔が残り数巻を残して心ならずも完結しなかったことを悔やむ気持ちがこみあがってきた。
そしてメディアファクトリーの公式サイトが繋がらないのでWikipediaのヤマグチノボルの項目を見てみると、つい数時間前まで見ていたページに "この項目は亡くなったばかりの人物について扱っています。"と記述されていて、そのとき完全に彼の死を認識した。
そして思えば中学生の頃、アニメゼロの使い魔2期最終回では原作を改変してサイトを行方不明にせずルイズがサイトを探しに行く過程をすっ飛ばしたことでアニメの制作陣に憤慨したし、その後原作にちょっとの期間ハマリ著者の刊行ペースが早いこともあってルイズとサイトの恋模様にハラハラドキドキし、次の巻が出ることを心待ちにしたものだった。
ゼロの使い魔が放送していた一時期の2chのν速ではスレタイにゼロが入ると真面目なニュースソースでも、すぐアニメスレに早変わりしたし、ユニオンジャックの変更問題にルイズをコラージュして茶化すなんていうこともあった、有名なあのルイズコピペも生まれたしあの頃はゼロの使い魔というコンテンツは絶頂期だった。
死んだ後になって有名人の作った物が再発見されるということはよくあることだが、それに習って彼が昔書いたWebコンテンツであるバイク便日記と片桐彩子日記というものをアーカイブから読んでみた、昔の日記らしく今と比較するとあまり分量はない、読んでみるとヤマグチノボルが26歳頃(15年前)に書かれた物のようだ、彼は今のようなライター稼業をやる前からインターネットに文章を公開していたようでバイク便をしていたことなどが綴られている。
そしてときめきメモリアルのヒロインの1人である片桐彩子への愛を面白おかしく書いた文章などから、ゼロの使い魔で読むニヤニヤしてしまう文体が当時から見られる。その後どうやってゲームのライターに転職しゼロの使い魔等の作品を生み出したのかはわからないが、ゼロの使い魔がヒットしアニメ化し流行するようになってからは、二次創作や改変も含めてネットのいろんなところで自分が生み出したネタが見られて、本人は面白くて仕方ないのではなかったのだろうか、あくまで想像にすぎないが。
さらにこれはツイッターからの勝手な引用になるが、死ぬ少し前に「生まれ変わったら何になりたいの」という質問に「もう一度自分に生まれたい。すっごく幸せだったから」と答えたらしい、このエピソードから短くともすごく幸せな人生だったのだろうなということを感じ 願わくば自分もこのような生き方をしてみたいと少し願った、しかしファンとして勝手な事を言わせて貰えば。
あともう一年生きてゼロの使い魔をキッチリ完結させて欲しかった…!
それが残念でならないといったところです。
改めてお悔やみ申し上げます。
基本的な戦法は、「同じ文字で攻め続ける」です。始まる言葉が少なく、終わる言葉が多い「ル」攻めが基本ですが濁点が有効なら「ズ」の方が効果的です。
それで攻め続けるだけで、だいたいは勝てるはずです。
しかし、逆に自分が「ズ」攻めを食らったときのために「ズ」で始まる言葉を羅列しておくです。
そして取っておきの「ズ」で始まって「ズ」で終わる言葉
相手が中級以上のしりとリストならば「ズ」攻めを使ってくるかも知れません。「ズ」攻めを食らい続けて散々つぶした後に「ズ」返しをする戦法が最強です。