はてなキーワード: クッパとは
本当にここのところ海外の観光客の方が多くおみえになっていて多いわ!
ヒロミゴーのジャーピャーンじゃない方の億千万でもない方の綴りで書くスペルのJAPANってあるじゃない。
そのJAPANの文字が書いてある帽子でJAPANの最初のAが富士山のモチーフになっている帽子をかぶっている人はまだ序の口よね。
日本が大好きなのがよく伝わってくるわよ。
今映画でやってるスーパーマリオよろしくクッパやゲッソーの帽子を被った人もいたり
なかなか日本人がそれやったらちょっと痛い感じがしないでもないけど、
海外の観光客の人たちが楽しそうにジャパニーズファッションを着こなして闊歩しているのを見ると微笑ましい山脈に向かってヤッホー!って叫びたいところよ。
私が見かけたのは、
柔道着を普段着の旅の服装として着ているバックパッカーの人がいて
きっと私より強いやつに会いに行く!ってそれってなんてストリートファイターの件?って思っちゃうほど柔道着がしっくり着こなしていて、
しかもなんか新品のさらぴんのおニューの柔道着じゃないっぽくって
日本に来たから日本で買って着てみました!って感じじゃなくて本当に着潰していてちょっと彼の地元でもそれ普段着でずっと着てるんじゃない?ってそれなんてストリートファイターのおれより強いやつに会いに行くの件?って思うほどの柔道着のくたびれ具合なのよ。
あとはなかなか渋かったのは、
三度笠を街中で被ってる人。
私の突っ込みライブラリーの中からでは風来のシレンか!ってしかツッコめなかったけど
そんでそれ1人じゃなくて
別の日に別のところで何人かも見かけたから三度笠流行ってんのかしら?
どこで調達買ってきたか私も分からないレヴェルのなんか本格的な三度笠みたいで、
遠目から見ただけでもその三度笠の本気度が伝わってくる感じがなかなか三度笠よ。
さすがにまだ私は簔の被ってる人はまだ見たことないわ。
思えば遠くへみのもんた!ってはるばる日本に来てまた海外の人たちには気付かれていない日本人もビックリなアイテムかも知れないわ。
あと天秤棒担いでいる人もそれはさすがに脚色しすぎよね。
そんな人はいないわよね。
日本人がそれら彼らのような格好を街中でしていたらちょっと緊張感走るけど、
海外の人たちがやっていても日本満喫してるわね!って見方が変わっちゃうから変わっちゃう話しよね。
ちょっとほんと人が多すぎて、
馴染みの近所の定食屋さんも毎日パンパンで入れないのが大変なのよ。
お昼のピークタイム関係なく時間を外しても多いって言うんだから
うふふ。
ここのサンドイッチパン屋さんはまだかろうじてそんなに人パンパンではないんだけど、
そのサンドイッチ屋さんの近くの地元民にお馴染みの人気の美味しいパン屋さんはパン屋さんだけにって言いたいわけでは無いんだけど人パンパンなのよ!
すごいわー。
まあ野菜サンドイッチのタマゴとトマトの組合せが美味しさが際立つけどね!
もうちょっとお茶っ葉増やして濃いめに作ってもいいのかも知れない好みの問題かも知れないけど、
だんだんと暑くなってきたので、
水分補給はしっかりとね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
でもオリジナル設定がもやもやした、私の知っているマリオはブルックリンに住む冴えないキノコ嫌いの青年じゃないし、家族達も知らん人ばかりで誰だよそれ、マリオが父親との折り合いの悪さに悩んでいるがこの設定いるか?
あとピーチの性格がよく見るタイプのアメリカ映画ヒロインそのもので、可愛いけど少し違う。
最後ブルックリンでクッパに勝って、親に認められてブルックリンのヒーローになっていたがいらんだろ。
ブルックリン関連は萎える要素なので、ここに尺を割いてほしくなかった、最初からキノコ王国住人でも普通に話作れただろう。
最後を見るにヨッシーを目玉に追加して2をやる気満々ぽいので仕方ないが、ヨッシーの活躍も見たかった。
あと音楽、ゲームからのアレンジが微妙にやり過ぎ感あった、もう少し原型を残してくれたほうがキタキター!って嬉しくなると思う。
昔ニコニコ動画で流行ったヒャダインのウエスタンショーを思い出した。
ひたすらネガティブに振り切れたサイコなチコも、僅かな出番で深い爪痕を残していくほど異彩を放っていて可愛いが、マリオギャラクシーやってないからしらんけどこんなキャラなの?
樽を投げるドンキーコング、猫マリオ、たぬきマリオ、アイスフラワーで戦うウエディングドレスのピーチ、ジャングル王国でどんどん組み上げられていくカートに、マリオカートでの派手なカーチェイス、臆病ながらやるときはやるルイージ、キノコ王国の移動手段になってるマリオの数々のギミック。
ここで十分映画代の元は取れた。
まず私のプロフィールを明かしておく。
大学院生。社会学と文学のあいの子みたいな分野で、とくにジェンダーとかセクシュアリティとかそういう事を学んでいる。
映画は学部時代に少しかじった程度で、評価はB+だった。だから的外れなことも言うかもしれない。すみません。
匿名なのでもっと書くと、同性愛者で、SMの実践者で、フィクトセクシュアルに片足つっこんでいるので、わりとどの界隈でも少しなじめない気持ちになりがち。
「映画としてはちょっと……」というような意見が主にアカデミックや評論の場で散見される。
これは分からないでもない。ちなみにここでは個人攻撃みたいにするつもりはないので、引用は特に必要でない限りはしない。
「すげえ! マリオってこういう解釈ができるんだ!」みたいな「新しいもの」はなかった。しかし、「マリオの映画といえばこういうのが見たいよね」という「見たいもの」が詰め込まれており、「新しいもの」を入れる余地は90分にはないように思われる。
メディアミックス映画としては一つの模範解答であり、文句なしの一級品といってもいいかもしれない。面白い映画といい映画は別だが、以下では「いい映画」(いい映画って何すか?)としての切り口を見てみたい。
ゲームをアニメとしたら、キャラクターの解像度や物語の運び方だけでなく、どのようにゲームの快感が写し取られているかが重要ポイントに思う。
マリオのゲーム体験を思い返すと、快感は大きく二つに分けられる。
「スーパーマリオブラザーズ」ならステージクリアのタスク消化に似た快感。
「スーパーマリオ64」に連なる「箱庭マリオ」なら新しいマップを開いていく探索の快感。
マリオシリーズだけでなくゲームの快感はむしろこの二者に共通する「試行する」快楽が大きいのではないか。
私はといえば、ゲームが苦手だった。
クリボーに激突する。穴に落ちる。ドッスンに潰される。空から落ちる。燃やされる。溺れる。
我ながらヘタクソなプレイである。しかし、プレイを重ねると、一つ一つそれらを回避なり消化できる。そこにゲーム的快感がある。
翻って「映画マリオ」に戻る。キノコ王国に迷い込んだマリオは、ピーチ姫の旅についていくためにゲームばりのアスレチックに挑むわけだが、このプレイングも経験者ならば笑ってしまうほど失敗に満ちている。そしてその分だけマリオは「試行」を試すことになる。
アスレチックだけでなく、ドンキーコング戦、クッパ戦と繰り返し作中で強調される「諦めの悪さ」が導くゲーム的快楽とはこのような「試行」の快楽が適切だろう。
文学研究者の藤田直哉は上記のようなことも含めて、「物足りなさ」を指摘している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1655397557198278662
ここは鑑賞者のバックボーンも関わってくるのかもしれない。
周回前提のゲーム「ドキドキ文芸部」「UnderTale」「シュタインズ・ゲート」の記憶が私にはすごく強くあるし、マリオシリーズから距離を取っていたので(ここまで多くの作品に触れたわけでもない)、試行錯誤性は面白く観た。
また、勉強不足と笑われそうだが、3Dの映像で2Dのフィールドを表現する映像も、私としては十分に真新しいものだった。
「反ポリコレ」とか、「ジェンダーから距離を取っている」いう話も聞く。
しかし私はそうは思わない。LGBTと「マリオ」作品群の関わりは以下のコラムに詳しいため、これ以上は言及しないが、さらに男性性との関わりについて分析する。
https://cinemandrake.com/pokemon-musashi-kojiro-lgbtq
こちらも藤田直哉の評を引用する。私のマリオ映画への評価は彼とは異なるが、この評と私の見解は一致している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1656110486713434113
クッパは名誉と所有、暴力を原理においたキャラクターであり、婚姻と幸せを直結させる家父長制を背負った男である。
ピーチ姫に対し無茶な論理で婚姻を迫ったり、彼女の知人も含めた囚人を婚姻の犠牲として殺そうとしたり、人の論理の届かない人外らしさが映画における彼の輝かしい魅力でもあることは間違いないが、それは悪しき男性性の発露でもある。
この「有害な男性性」を退けることを軸にマリオ映画を見てみると、マリオは退けた先に何を得たのか。
それは物語のラストが示すように、ピーチ姫ではない(ピーチ姫とマリオとの恋愛の成就がほのめかされてはいる。しかし、ほのめかされていることと明らかであることは違う)。
マリオはゲームにおいてプレイヤーの分身であり、あまり感情を発露しない。
葛藤もあまり読み取れず、さらわれたピーチ姫を取り返すため、躊躇いなく絵画に入ったり火山に行ったり宇宙に行ったりしているように見える。
しかしマリオ映画においては、夢を追う自信のなさげな男として描かれる。
イタリア系アメリカ人の家庭で育ち、家族仲はおそらく悪くないが、「父親に認められたことがない」ということが恐らく影を落としていて、自分のやりたいことと、父親に認められたいという二つの想いが両立できていない。
そしてマリオは映画の終わりに藤田のいうところの「有害な男性性」の発露であるクッパを倒し、父親からの承認を得ることとなる。
婚姻に大きな意味をおく家父長制の権化を倒した先に、父という家父長に認められるというメビウスの輪的な権力のねじれについて、私はまだうまく説明ができない。こういう嫌な書き方をすることで、妙な引っ掛かりを表明するしかできない。
その是非について何か言いたいわけではない。
現実では家父長制や異性愛規範や同性愛差別やトランス差別や人種差別が吹き荒れている。そのような不均衡な権力は改められるべきだし、悪しき男性性とは決別すべきである。
その是非についても何か言いたいわけではない。
ここまでが建前。
「家父長制の権化」と表現したけれど、理屈の通じない愛情を持て余す魔王クッパが大好きだ。
本気で惹かれると言っていい。
そして彼は多くの部下に愛されながらも、彼の愛はどこにもたどり着かない。
槇原敬之の「軒下のモンスター」から「いっそ妖怪にでもなって 君を軒下からただ見ていたい」を引いてもいい。
三島由紀夫の「仮面の告白」から「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」を引いてもいい。
ピアノを弾きながら「ピーチピーチピチピチピーチ」とか歌ってる彼のカットでは劇場で笑い声が起きた。
「悪しき男性性」の回路ではもう誰かと心を交わしあうことはない。ピーチが振り向くことはない。彼の歌うラブソングは哀愁に満ちて、あるいは滑稽かもしれない。
私も笑った。でもぶっちゃけ泣きそうにもなった。
今ギリギリこの男を笑って愛でながら見られるくらいには私もマジョリティにいられてるんだろうけど、こういうジェンダーやクィアの批評は規範を可視化させ内破する営みであって、次に生み出される新しい規範にいられなくなったら、次は私が笑われる番なのだ。
本当は、弱者はクッパの方なのかもしれない。でも私は彼にあまりに感情移入しているから歪んだ読みをしているのだろう。
お前の横暴さも、報われなさも、情けなさも、関われなさも好きだぜ。ほんとに。
ゲームで一度も出てこないマリオブラザーズの両親や親族もオリキャラで出てきやがるけど、マリオブラザーズはコウノトリが運ぶ途中でヨッシーアイランドに落っことしてヨッシー達に育てられたはずだろ。矛盾してるやん。
ここだけは完全に同意。
まずマリオとルイージが元々キノコ王国の住人ではなく現実世界の人間でキノコ王国にワープする設定がもう論外。
ゲームで一度も出てこないマリオブラザーズの両親や親族もオリキャラで出てきやがるけど、マリオブラザーズはコウノトリが運ぶ途中でヨッシーアイランドに落っことしてヨッシー達に育てられたはずだろ。矛盾してるやん。
赤キノピオのキャラもゲーム完全無視。何だよあのひょうきん野郎は。
ピーチは助けに行く側でやけに気が強いし、マリオ顔負けの身体能力だし。
スマブラやカートみたいな番外編はともかく本編のピーチともう別人だろ。
CGのタッチも何かキモいし、BGMでやたらマリオと無関係な洋楽流してくるし、ブラックジョークをしつこく挟んでくるし…。
ようはこれ「親に見放された無能な主人公が別世界の住人と出会い世界を救ってヒーローになる」っていうベタなアメリカ映画を無理やりマリオでやってるんだよな。完全な原作レイプ。
本当に任天堂が監修したの?ちょっと信じられないくらい酷いんだけど。
あんな内容なのにやけに売れてるし、マリオファンや任天堂ファンにもすげー好評みたいで不思議。
ネットでボロクソ言われてたSTAND BY MEドラえもんとやってることはほぼ一緒だろ。
少なくとも俺はマリオファンとしてこの映画は自分の記憶から抹消したい。
予告の時点で嫌な予感は薄々してたけど、やっぱり観に行かなきゃよかった。
そんな映画。
今42歳、ファミコンのスーパーマリオブラザーズから遊んでる。子供がどうしても見たいというので一緒に行った。USJなどはめちゃくちゃテンションが上がったのでマリオは好きだが、無敵で無口なマリオのイメージを壊したくなかったので行きたくなかった。(漫画のスーパーマリオくんや、実写版マリオはスピンオフ感が明らかなので気にならない)
映画として気になったところ
まあ見に行くんじゃなかったなあという感じかなあ。子供は楽しんでたからそれでいいんだろうけど。さすが任天堂!さすが宮本茂!とは私はならなかった。
駄作だ失敗作だ黒歴史だ、と散々言われてるスーパーマリオの映画だけど、実際に見てみると思いの外面白い。
レビューサイトを見ると、「カネの掛ったB級映画」と称されているが、全体的な感想としては確かにそんな感じで。
コメディ要素が多くて楽しく笑えるし、全体的に勢いがあり話のスピード感もなかなか。勢いで誤魔化しているところも多いが、細かいところはいい。そして金は使っているので、頻繁に物が壊れ、無駄にアクションが派手であるのも見どころだな。
この映画はコメディ要素とその勢いはとにかくすごくて、例えばマリオとルイージが異世界に初めて降り立ったとき、困惑していると、傍にいた優しそうなオバちゃんから「ここは武器を持たないと危険なところだよ」と警告されるんよ。でもただの配管工のマリオは武器なんか持ってないし、正直に「いや、持ってない」と言うと、オバちゃんが間髪入れずに銃を向けて「だったら金を出せ!」と脅してきたり、クッパに捕まって手を縛られて死を覚悟したら、写真を撮られるだけだったりと、とにかく笑わしにくるイカれた展開が多い。
クッパやその一味は見た目は人間なのは、CGが満足に使えない時代のものだからしようがないにしても、クッパの暴君っぷりもちゃんと描かれてるし、敵としての描写は十分。俳優がなんとなくプーチンっぽい見た目もしていると、作中で言われているように独裁者、ファシストと言われるのも、それなりに納得がいく良いチョイスかもしれない。まあ、そんな独裁者クッパもやたらとピザを注文しようとしたり、コメディ要素もふんだんにある。
そして、この映画はマリオが頼れる兄貴分として描かれており、ヒーローとはまた少し違って描き方がされている。なぜか女を口説くのもうまいし、マリオ自身も誇らしげに言う。
口が悪いし、声がオッサンすぎるから、どちらかと言えば、こいつワリオじゃねえの?と思うこともしばしばあるが。
予定した攻撃が失敗しても、焦らずにまあいいかでスルーするし、映画の締め方を見ても、本当にこのマリオは頼りがいがある描写になっている。
ちなみに黒歴史呼ばわりされているけども、今公開されている「スーパーマリオブラザーズ ザ・ムービー」には、この実写版マリオ映画のオマージュと思われる部分もちょくちょくある。舞台がニューヨークのブルックリンであるのもそうだし、二人が配管工の仕事で使う車のデザインもよく似ている。そして冒頭で仕事に向かおうとすると、車が壊れるというところなんかも。
ザ・ムービーの方でマリオが弟思いという設定があるけど、それもおそらくこの映画からのオマージュじゃないかな。ゲームにはそんな設定はないし。
ちなみに本作ではルイージはマリオの養子という設定であり、実の兄弟でも義理の兄弟でもなかったりする。だからマリオはルイージは優しい。ただし、親子と呼べるほど年も離れていないから、母であり父であり兄である、と作中で言われている。
あと、この映画ではマリオの本名は「マリオ・マリオ」となっており、実にツッコミどころのある本名であるが、作中でこの名を語ったときは当然聞いた人から突っ込まれてる。続けてルイージが「ルイージ・マリオ」と名を語るので、「2人合わせてマリオは3つでいいのか?」と名を聞いた人が発言するのは、実に笑えた。ひょっとしたらこんなしょうもないネタのために、こんな名前にさせられたのか。
映像が良かった。このシーン、このアイテムの映像解釈がこうなるのか!という驚きの連続。BGMや効果音のさりげないアレンジも良い。
楽しい場面も多くて映画館で何度も笑いが漏れてた。間が絶妙なかんじ。
ピーチ姫のアクションがカッコ良い。ギャルっぽい話し方に最初違和感を覚えたけど格好良いから100点満点です。
映画批評家の評価が低いらしい。これはポリコレは全く無関係で、映画のセオリーを無視した脚本だからだと思う。
映画の脚本術は3幕構成とかセーブザキャットとかいろいろあるけど基本的に「主人公が挫折するパート」が必ずあるはず。
この映画を「普通の映画」にするとこんな感じになると思う(太字が改変部分)
1. 何をやってもうまくいかないマリオ兄弟。マリオは起業に弟を巻き込んだと責められている。
2. 弟を連れ去られ救い出す決意をするマリオ
5. 実はピーチ姫は裏切っていた。「ごめんなさい王国を救うにはこれしかなかったの」罠にハマり捕まるマリオ
1. 何をやってもうまくいかないマリオ兄弟。マリオは起業に弟を巻き込んだと責められている。
2. 弟を連れ去られ救い出す決意をするマリオ
5. 実はルイージが裏切っていた「いつまでも兄貴ヅラするな。僕はお前が嫌いだったんだ」ルイージに叩きのめされ失意のマリオ
6. 再び立ち上がりルイージと対決。溶岩に落ちかけたルイージの手を掴む。「お前がどう思おうと、僕にとっては弟だ」
上の5に相当する挫折パートがないんですよね。批評家が違和感を覚えるのはその辺かも。
ただ、これはファン向け映画なのでマリオキャラの仲間割れとか過度なドラマはファンは求めていないと思う。だからこれで良いんだ。
いちおう、ドンキーとマリオ主人公の「バディとの友情」としてみるとだいぶセオリー通りな感じなのですが・・・ドンキーはマリオの登場人物でないからうーん???友情出演と思って見ていたのに中盤であれ?こいつシナリオ的にメインキャラだなって
オープニングの前の任天堂のスーパーマリオのシーエムで泣いてしまいそうなほどそんな思い入れは無いんだけど
もうあれはひっちゃかめっちゃかの1-1のステージにクッパが何匹もバトル勝ち残っている終盤には出てくるというカオスさがスーパーマリオなのね!って思って
Switchで色々遊べるスーパーマリオがあったのでそれで遊んでみたぐらいの私のスーパーマリオ歴なんだけどね。
なんかでもゲームの画面がそのまま動いてこれもうゲームにしても面白いのかもね!って思うぐらいなワールドで
あれだわ、
スーパーマリオランのキノコ王国!ってあれがもっと密度がギュッとキノコ王国を集めた感じの景色だったのよね。
自ら文字通り私自ら出る!って勢いで戦いに行くあれファイヤーピーチになるとき服の色が変わるのが最初意味が分からなかったけど、
ああ!そう言うことねってマリオもファイヤーマリオになるのと同じ理屈なんだわ!ってプログラムをあとで読んで腑に落ちまくりまくりまくりすてぃーだったわ。
私が好きだったのはファイヤーフラワーのお花畑が綺麗だったし、
ドンキーコングと戦うときのステージにはてなブロック叩いてアイテムゲットしたんだけど、
あと、
ノコノコが意外と強いってことよ。
おまえそんなワザ秘めていたんかーい!って
踏んづけて蹴飛ばされるだけじゃなかったんだわ。
あんた強いのね!って言って言えそうなレヴェル。
総じて良かったけど、
私もSwitchで遊べるマリオをやろうと思って遊びたい気持ちはあるんだけど、
今はスプラトゥーン3のヨビ祭中だし、
もうさ、
昨日は勝てず調子悪くこんな時は寝るに限るわね!って調子だった。
うふふ。
渋々と思いながら食べるのは良くないわね。
お茶を入れるガラスの容器と私がルービーを飲むガラスのコップがそれを使うと足りなくなるので、
また私の好きなガラスのコップのことについては書くわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーを見てきたので感想を残しとく。
[視聴環境]
[事前情報]
世界興収がスゴイらしい。評論家からの評価は悪いらしい。吹き替えはマリオが宮野守でルイージが畠中とかいう奴らしい。予告チラ見した感じ、声が微妙だったので字幕でみることにした。
[どんな話か(うっすらネタバレ)]
現代のニューヨーク在住の冴えないイタリア人配管工の兄弟が、ひょんなことから異世界(マリオワールド)に飛ばされ、キノピオ、ピーチ、ドンキーコングとともに悪者クッパを倒そうとするお話。
[総評]
普通に面白かった。良くも悪くもファンムービー。映像的な革新性、脚本の秀逸さ、思わず吹き出してしまう小気味よいジョーク、心動かす感動的なシーン、胸が熱くなる激アツ展開、などはない。
かといって出来が酷いわけではなく、一応どれも及第点は取れてる、と思う。(脚本はかなり雑で突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるけど、子供向け映画にマジになっても仕方ないよね)
[おすすめ度]
劇場で何度も見たくなるタイプの映画ではないけど、人生でマリオのゲームに触れたことある人なら一回は見といた方がいい映画だと思う。
[誰向け?]
万人向け。マリオのゲームをやったことある人なら、小さい子連れのファミリーから、デートムービー、友達グループ、独り身の暇つぶしまであらゆる層に対応してる。
[グロ度]
なし。ただしギャグ演出として暴力的なシーンが多用されている。痛々しい演出は多め。(例:手をピアノで挟む)
<良い点>
・キャラクターのモーションやSE、BGMが原作を忠実に再現していて楽しい
<悪い点>
それに加えて各シーンの演出や各エピソードの繋がりがとてもご都合主義的。
どのような「ご都合」かというと、「原作のこの絵を再現したい!」→「じゃあこういう展開でこういう演出にしましょう!」というのが明け透けに見えている。
たとえば、「ベビーマリオを出したい!」→「ルイージに幼少期を回想させよう!(何の脈絡もないけど)」みたいなのが盛りだくさんとなっている。
原作再現が最優先なため、伏線を先に引いて、後で回収する・・・というのがほぼない。
ピーチ姫がSWのレイみたいになってたり、キノピオが陽気な友人キャラみたいになってたり。どれもハリウッド映画に出てくるお決まりのキャラではあるけども。
<まとめると>
どのシーンにも「物語上の必然性」がない。かわりに「原作再現上の必然性」がある。
だからマリオを知らない人が見たら「なんでそうなる???」「唐突・・・」「最初からそうしとけばいいのに・・・」「無理矢理だなあ」「この人たち出てくる意味あった?」「え?なんでみんな普通に受け入れてハッピーエンドみたいになってるの?なんか説明合った?」「こいつは一体なんなんだよ」と突っ込みどころ満載かもしれない。
が、それもこれも原作再現を楽しみにしてるファンを思ってのことだと思うので悪く言うつもりはない。
体型的に向いてると思うもん
・なぜか映画のストーリーでマリオは父親に認められたことになるらしい
・とにかくドラマが足りない
・描写不足
・ピーチやピノキオ隊長はマリオを一瞬で受け入れすぎではないか
・ピーチとピノキオの出会いなども語られているがあそこはもっと掘り下げるべきではないか
・結婚式で捕まった面々が生贄にされるのは意味がわからないしストーリーの都合でしかない
・マリオギャラクシーに出てきた青い星は何かストーリーに関わってきそうでひたすらネガティブなのことを言ってるだけで何もない
・そもそもクッパがピーチに求婚する理由やそのきっかけがまるで描写されていない
こちとら初代スーパーマリオをリアルタイムでプレイした40代のオッサン。
ネタバレありかつ、批判的かつ否定的な内容なので、これから観に行く人は読まない方が良いと思う。
これから観に行く予定がなく、ネタバレオッケーで、否定的な感想もオッケーな人達だけ読んでほしい。
で、正直言って、「ネタバレあり」とは書いたものの、大してバレできるネタがない。
1時間半トムとジェリーを見続けても、バレるようなネタはないだろう。これはそういう映画だ。
これが世界中で1000億円の大ヒットを飛ばしているというのが、オッサンにとっては最も不可解な点と言って良い。
評論家に酷評を受けつつ世界中で大ヒットしてるなら、評論家の方が間違ってるんだろうと思ってたのだが、
観終わってみたら、俺は評論家側だった。
なんでこれが大ヒットしてるんだ。
シン・仮面ライダーこそが今年見た最もつまらない映画だろうと確信していたのに、ワースト1位の座は本日更新された。
観ている間中、終始真顔だった確信がある。とはいえ子供の姿もないレイトショーの劇場中に、笑いも起きなければどよめきも起きなかったところから、多分周りのオッサンやニーチャン・ネーチャンの感想も似たようなものなのではないかと思う。
実に静かな1時間半だった。終わった後も、皆なにやら内輪でコソコソ話したり、ポップコーンをこぼしたのという話しかしてなかった。
実のところ、導入部分はそんなに悪くなかったと思う。
ニューヨークからキノコ王国に行くのは、異世界召喚もののようでちょっとワクワク感もあった。
正直、この筋立てを考えた脚本家に感心すらした。
が、キノコ王国に行ってからは、単なるゲーム実況動画以下の代物でしかなかった。
一つには、「この世界の人間が異世界に召喚された」際にあるはずの諸々の衝撃や葛藤が皆無だった事。
マリオあっという間に馴染んでたし、人間ではありえない身体能力を発揮しても、それが魔法的な力なのか、マリオの素のスペックなのかが区別がつかなかった事。
絵柄上、血もほぼ出ないし。ダメージ受けても効果音と共にパワーアップが解除されるだけである。この辺、ゲームに忠実過ぎて緊張感もクソもない。
キノコ王国もその他の国々も、街や民衆がかなりふざけた連中で、もともと国家の体を成してなかったので、クッパの侵攻を受けても遊園地が壊されてる程度の印象しかなかった事。
クッパ側も含めて、世界観がわけわからず「何この世界」という感があった。ディズニーランドがそのまま世界になってるような、とでも言えば良いのか。
でたらめな世界で、でたらめなキャラが、でたらめな事をしている。
それを楽しめるのは、よっぽど病んでるか、よっぽど健康な人だけだろう。
感情の起伏がほぼゼロ。ひたすらアスレチックで暴れているだけ。
そのまま最終決戦へ。
クッパと戦ってるんだから最終決戦なのだろうが、余りに何もないストーリーなので『まさかこのまま決着付けて終わるのか?』とうろたえていたら、
最終決戦の舞台はなんやかんやあってニューヨークへ。ここでまた印象は少し持ち直した。
キノコ王国で決着付けてたら、もはや擁護の余地もないほどの駄作だっただろう。
ニューヨークでクッパが暴れてくれたおかげで、おおっという場面がちょっとだけあった。
しかし、その後はお寒いもので、なんかもうクッパを倒しただけである。
脚本家は、書き上げた脚本を前に首をかしげなかったのだろうか。
ヒットして悪い事はないが、なぜこれが大ヒットなのか。
多分、この作品は元ネタのゲームを知ってれば知ってるほど楽しめるのだろう。
俺は初代のスーパーマリオくらいしかまともにプレイしてないが、その後のマリオシリーズを何作も何作もやってれば、
多分ニヤニヤできる場面も多かったのだろう。
良かった
ただ、なんというか、微妙に物足りない
メインのストーリーは全然いいんだけど、脇役とかでファンにグッとくるような小ネタがもっとほしかった
(というかほとんどなかった)
幼少期におりがみで遊び、親となって子どもとおりがみで遊び、祖父母となって孫とおりがみで遊ぶということらしい。
マリオは今まさに、誰もが当たり前に遊ぶ遊びとなるべく、三度目の出会いを目前に控えている時ではないだろうか。
ファミコンの「マリオブラザーズ」が発売された80年代に小学生だった世代は、今40代から50代へと差し掛かっている。
私も二度目の出会いを子どもたちと迎え、三度目の出会いまであと少しというところまできた。
正直に言ってしまうと、ずっとマリオで遊んでいたわけではない。
プレステに衝撃を受けて、任天堂のゲーム機から離れた時期と、結婚出産子育ての時期が続いたこともあり、64とゲームキューブはスルーした。
今日、「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」を観に行った。
良いことばかりではない。
積み重なっていたこともあった。
映画の内容に触れない程度で言えば、泣く要素はどこにもない。
でも、ずっと涙が込み上げてきた。
どれだけお願いしても買ってもらえなかったファミコン。
お小遣いをためて、親の目が届かない旅行先で買ったゲームボーイ。
Switchは、どんな奇跡が起きたのか、店頭にあった最後の1個を滑り込みで買うことができた。
アドバンスやDS、3DSは、今も家族の分が引き出しにしまわれている。
ゲームの話ができる友だちは皆無だった。
そもそもゲームをするなんて、しかも女の子がゲームするなんて……と言われた時代だ。
ピーチ姫だって、クッパにさらわれてマリオの助けを待つばかりだった。
でも、時が経ち時代は変わった。
そして、ピーチ姫は勇敢に戦う人となった。
私もたくさん戦ってきた。
私たちはここまでよくやってきた。
色々なことがたくさんあったけれど、よくやってきたのだ。
がんばった人もがんばってない人も、ゲームで遊んだ人も遊んでいない人も、みんな私たちはここまでよくやってきたのだ。
あとひと踏ん張りなのだ。
映画を観ながら、そんなことを考えていた。
残念ながら同じ世代でこんな話ができる人は身近にいない。
同世代でも家人はゲームをしない人だし、友だちたちもゲームをする人は皆無だ。
ゲームの友だちは年若いか、海外勢のためこの映画を観たとしても、同じような感情になることはないだろう。
なので、駄文ではあるがここに書くことにした。
もしも、同じ時代を過ごしてきた人の目に留まるようなことがあれば、これだけは伝えたい。
私たちはここまでよくやってきた。
あとひと踏ん張りなんだよ、と。
最後に。
マリオ、本当にごめん。
これからもっともっと手元がおぼつかなくなるけれど、よろしくね。
でも、「スーパーマリオブラザーズ35」では何度も1位取ったんだからね!
まだまだいけるよ!!たぶん。
素晴らしいゲーム、映画を本当にありがとうございます。
また観に行きたいと思います。
マジでAIにやらせればいいような絵ばっか描いてた人間はいちいちAIイラストに言及すんのやめーや。
もうね、そろいもそろって全員同じポーズ。
手を前に出して「がお」。
背景は真っ白。
本当に流行りに乗っただけでろくにクッパに対する知識があるわけでもないから全員同じような絵しか描けない。
当時の画像生成AIなんて崩れ気味のバストアップしか描けなかったけど、
クッパ姫がデータセットならポーズまで描けるんじゃねーのって思ったわ。
130点ヤッター! 点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。多分世間では娯楽映画という評価であり、事実娯楽映画なんだけど、ゲームという文脈においてガチだった(この辺後で詳細語りますわ)で130点なのでした。
見終わった瞬間、あれ、この映画って存外、なんか手堅くまとまってて100点くらいなのかな? 娯楽映画としてよくできているけれど、やっぱ弱点はあるよね、とは思ったのです。
主人公マリオの悩みみたいなものも、その克服も描かれてはいたんだけれど深い描きというよりはあっさりと乗り越えたし、アクションシーンの出来はどれも良かったんだけどアクション娯楽映画にありがちな失点として、アクションシーンの連続になりすぎて、ドキワク感が全体でのっぺりしちゃったところは実際にある。
あと、これはフォローしがたいけどエンドクレジット後のおまけカットみたいなの(2種)は蛇足感があった。
でもそうやって、脳内で「映画減点表」みたいなのを作り、同時に「映画加点表」みたいなのもあり、合計計算して出てきたスコアは100点だったんだけど、見終わった感情的満足感は130点だったんですよ。ズレが有る。
こういう映画ってたまにあって、それは自分が言語化できてない、なにかスペシャルな要素があるって証拠だと思うんですね。
じゃあその+30点どこから出てきたんだよというのが、この感想を書いた理由です。
主人公マリオはニューヨークで配管工業を営む青年。作中はっきりとは語られてないけれど、イタリア系移民で大家族で暮らしていて、年齢は20歳ちょいなのかな。新卒で入った会社を飛び出して、弟ルイージを巻き込み、いきなり配管修理事務所を起業して、全財産を叩いてCMを流したところから物語は始まる。
会社を飛び出した経緯の詳細は語られていないけれど、「何をやらせてもダメ」「できることがない」とモラハラを受けていたフシがあり、マリオは「自分は役立たずなんじゃなかろうか」「いいやそんなことはない、やればできるはずだ」の二つの気持ちの間で揺れている。
おっかなびっくりだし、確信はないし本当は自信だってないんだけど、ルイージに対してお兄ちゃんぶりたい気持ちだけはあって、まぁ虚勢を張っている。
映画になって肉付けされたこのマリオ像ってのは、結構好感度ありました。
主人公マリオのもってる「自分は役立たずなんじゃなかろうか」なんて悩み、誰にでもあるじゃないですか? はっきり言っちゃえば、具体的な問題の表出は違えども、全人類の99%が成長過程の中で経験するものでしょう。
それにたいして「やればできるはずだ」っていう根拠のない自分自身の鼓舞だって、誰でもやるでしょう。
これらは映画を含む既存のストーリーメディアでは、勇気とか挑戦とか言われるたぐいのテーマの類型です。この類型は多くの、それこそほとんどすべての物語作品で見ることができます。内面の問題や弱気を乗り越える勇気の話は、物語作品の王道ですから。
歴史上、ストーリーメディアはそれに対して勇気づけるための物語を何千何万と語ってきた。美しくまたはおぞましく、ハラハラ・ドキドキするような物語をたくさん作ってきた。「勇気を出す理由」「その褒美」について、あらゆる物語が手を変え品を変え洗練したストーリーを紡いできた。
そういう歴史あるテーマの歴代傑作の洗練に対して、この映画のエピソードづくりや演出が最高峰かというと、そんなことはない。マリオの閉塞感もその打開も、徹底的に演出されているわけではない。もちろん赤点ではないんだけど、その部分で言えば「凡庸なファミリー映画」ですらある。
たぶん「それ」が、映画としての物語性や演出を厳密に評価した評論家と一般ユーザーの間で、この映画の評価が真っ二つに別れちゃった理由だと思うのです。
あらゆる人々の実際の人生における、自信のなさ、不安感、でもそのなかで勇気を振り絞って、はたから見ればどんなにくだらなくてもその当人にとっては難題である目の前の課題に挑んで見る――そういう勇気に対して物語メディアは物語としての洗練や感動をもって応援してきたわけですが、じゃあそれで現実の人々の不安感や自己否定をちゃんと払拭できたかといえば、そうではない。物語の大好きな自分は、それでも物語のない世界は暗闇だと思うわけですけど、世のすべてが照らされて現実の問題が駆逐されるなんてことはなかったわけです。
でも、全く同じ問題に対して、ビデオゲームは別の方法論で挑んできました。
それは成功体験です。
問題点がある。失敗する。ゲームオーバーしてしまう。つらいね、くやしいね。でも何回かやってみようよ。工夫してみようよ。ほら!さっきよりいい感じ!よし!一個クリア!先に進めた!すごい!ほら、つぎの課題が来たぞ!ジャンプだ!パンチだ!やったぞ!進めたぞ!!
そういう、課題と克服、工夫や練習での突破、つまりは直接的な成功体験で、「キミはできるんだ!」と全存在で訴えかけてきてくれるわけです。ビデオゲームをする人にはあまりにも自明で、やらない人には分かりづらいかもしれませんが、任天堂のみならずすべてのビデオゲームの本質はこれで、これでしかないんです。
何か挑戦すべき課題、突破するべきステージでも強敵でも生産目標でも集めるべきコインでもなんでもいいですけど、課題があって、それは最初は難しくて無理かもしれないけれど、ゲームの世界を調査して構造を知り、工夫して、練習すれば、達成していける。
「努力すればなんとかなる」。
そのことを、人間の子守では到底無理なほどの忍耐(なんせ機械なので)で、何千回でも、何万回でも人間の子どもたち、時には大人にも付き合ってくれた。それがビデオゲームの達成した最も尊い部分だと思います。「レベルを上げる」「レベルが足りない」という今や日常会話でも違和感なく使えるこのフレーズには、「いまは無理でもいずれできる」「できるようになるはずだ」という、生きる上で本当に重要な価値観が込められていることがわかるでしょうか?
スーパーマリオの歴史ってほぼイコール、家庭用ビデオゲームの歴史です。そして、ビデオゲームの歴史は、「挑んでみなよ!なんとかなるよ!」というメッセージの歴史なのです。任天堂こそは、それを声高く叫び続けるゲームデザインをしてきた企業でもある。
前述のように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は既存の物語メディアの、少なくとも映画の文脈で言えばそのシナリオや演出が傑作に達していないかもしれない。でも、そこにビデオゲームという別の文脈が持ち込んである。そしてそのことに制作陣は自覚的です。
つまり、彼らはわかっていて、わざとそう作ったのです。マリオと任天堂と、そしてなにより地球で生まれて40年になるビデオゲームという新顔の娯楽を本気でリスペクトして作ったのです。
マリオは作中「諦めが悪い」「しぶとい」とピーチ姫などに評されます。実際、マリオは映画終盤になっても結構ミスをする。敵の攻撃を食らってパワーアップが解除される、しかも頻繁に。
それをマリオは「スマートに物事を解決できない」という評価だと受け止めてちょっとしょぼくれたりもするのです。が、とんでもない。
それは「ミスをしてもなげださない」という意味であり、「ゲームの主人公」として、そして「マリオを操るプレイヤーとしての我々」としても、それは最上級の素質です。
そう考えてみると、この映画の白眉は序盤、キノコ王国にたどり着いたマリオがピーチ姫への同行許可を得るために、練習用コースに挑戦した部分だったと思い出されます。
マリオは何十回も何百回もミスをする。回転する棒にビビって飛び込めない。移動する床をうまくジャンプできない。ブロックを壊そうとして目測を誤って落下する。
そういった失敗は『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたことのある人々にとっては、あるあるだし、わかるし、お前もか……。なわけですよ。
でも同時に、それを何十回も繰り返せば、あんなに難しいと思えた難所もクリアできるようになるし、ピーチ姫が疲れて寝ちゃった夜中もずっとプレイして、ミスを繰り返して、ヒャッフゥ!と突破できるようになるのもまた、自分自身のことのように、わかるわけです。
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』における「課題と勇気、挑戦」はそのようなものなのです。だからブルックリンにクッパが現れたって絶望したり家族が死んでスーパーパワーに覚醒したりする必要はありません。映画的な意味での過剰なドラマ表現をしなくても、マリオは「やるぞ!」とちゃんと理解できるのです。
ビデオゲームが産まれ、親しまれ、市民権を得て、もはや一般的な共通理解となった現代社会において、視聴者の理解や感覚はもうその段階まで達している。だからこそ映画もドラマの形を拡張して、巨大なリスペクトを持ってゲームの文脈を抱きかかえることができた。
映画もゲームも大好きな自分として、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそのような映画であると受け止めました。
+30点はあるよ、ちゃんと実在するよ! 家族が死んだり国が滅びたり医師生命を失ったりしなくても、そんな悲劇がなくても、僕たちはちゃんと「攻略してやればクリアできるんだぜ」という、穏やかに前向きな価値観をゲームから予め受け取っているんだ。そういう意味で、とても良い映画でした。