はてなキーワード: らくだとは
今、何度かお出かけしたりして、
その人と昨日、居酒屋でご飯を食べていて、
そしたら彼が「上司に褒められたこと」と話していて、とてもハッとなった。
私にとって、上司に褒められたり認められるっていうのは、
社会人になってもおう8年ぐらい経つけど、すごく当たり前化していた。
身の丈に合った状態で働いて、それが段々と評価されてスキルアップして……
という階段をかなり順調に上ってきたので、
社会人になってから私はずっと上司に褒められたり評価され続けてきていた。
(それをテーマに必死で働いていたこともあるけど)とても日常的なこと。
同時に、彼の好感度がすごく上がった。
「そうか!褒められるってすごいことなんだ!」
と、感謝されるということの素晴らしさを改めて考えるきっかけになったし、
単純に、この年上の彼のことを「かわいい!」と思った。
聞けば、彼は今はスーツで働いているけど、
以前は田舎にいて、現場系の仕事や地元工場の期間限定社員で働くことが主流だったらしい。
こなす仕事が多かったのかもしれないし、上司と話す機会も少なかったのかもしれないし、
そこは憶測の域を出ないし、そういう場がダメだとも思わないけど、
彼にとって、今の職場はとても“自分にとって最高の喜びを与えてくれる”場所なんだろうなと思った。
そういう場を自分の力で見つけられたのは、とても素敵なことだと思う。
私の方が、収入や自己承認欲求が満たされる度合いは高いかもしれない。
見方によっては、彼は「私より年収が少なくてキャリアも低い彼」になってしまうんだろう。
それは、ネットなどでは男性の減点対象として語られたりもしているけど、
私は彼の話を聞いてそんな風には思わなかったし、
※あくまで一般的な収入があるからこそ言えるのかもしれないけど。
この彼から、これからどんな「ハッ!」が得られるのだろうとワクワクした。
なんていうか、上手く言えないけど、年収や仕事内容だけじゃないよね。
どうやって、告白しようかな。
世間知らずのガキンチョだったし、こんなお高いもの貰っていいのかって恐縮もしたし
何よりガサツな自分がこんなデリケートなもの使いきれない、絶対汚すか壊すかするらって言っても
「使ってなんぼ」といって、聞かないので
そういうもんなのかと思って使わせていただいてた。
おっさんのプレゼントは安くてン万、高いものはン十万するようなもので
並行輸入とかでもないらしい。
ゼロ多すぎてちびりそうだった。
いろいろあって別れたんだけど、途端にあんなにブランド品やったのに!とか言い出されて、本当に困った。
だってショルダーバッグは中でペンケースが開いちゃって飛び出したペンのインクで汚れまくりだったし
財布は中身ごと盗まれたし
傘は骨曲がっちゃったし
だから使いきれない、身分不相応って何度も言ったんですけど!って言い返したら
直接言ってこなくなったけど、自分の部署でずっとぐちぐち言ってるよ、大丈夫?って聞かれるようになった。
上司が気を利かせてくれたのかなと思ってる。
実のところ、財布以外にもいくつかなくなったものがある。
おそらくだけど、母か盗んだと思う。
日干ししようと思って出したら足りないとかだったから。
残っていたものは汚れたり壊れたりして売れなさそうなものだけ。
おっさんが異動した後、全部捨てた。
ブランドが悪いわけじゃないのはわかってるけど
ブランド品に絡んで嫌な思いをしたので
少し前に彼女と別れた。
生まれて初めて付き合った彼女ではないけれど、うまれて初めて好きになった人だった。
僕は彼女のことがすごく好きだったし、彼女も僕のことを好いていてくれたと思う。結局半年くらいで価値観や人生観の相違や、恐らくだけど、加えて僕への物足りなさもあり、別れることに。
別れは死ぬほど辛かったけれど、納得はしてるいるし、今は上手く消化もできている。
もちろん、こんなことなら出会わなければよかった、付き合わなければよかった、なんてことも思っていない。
というのも、ある種恋愛童貞だった僕に、彼女は色々なことを教えてくれた。彼氏彼女という関係性において、彼氏とはこうあるべきという女性目線の男性像から、他人への思いやりの気持ちや想像力などの内面的な部分の指摘はグサグサと僕の心を踏みにじり、強くしてくれた。
当時はそれが辛くて、そんなことを言わなくても、想像力想像力言うなら僕の気持ちもわかるよね?と思っていた。けれども、今は全て分かった上で伝えていてくれたと思うし、その教えは恋愛だけではなくて仕事もに活きていると実感している。
その甲斐あってか、その彼女と別れた後にまた別の彼女ができた。でも、その彼女へ当時の彼女に向けていた同じ感情が向けられない。好きという感情はおろか、性欲すらも湧いてこない。
今まで付き合った彼女に対して、好きという気待ちはなくても、性欲が湧いてこなかったことは、ただの一度もない。だからこそすごく戸惑い、色々と考えを巡らせた。
しばらく考えても全く答えが出てこず、苦悩したが、ある日答えに気がついた。気がついた、というよりも「気付かないようにしていたこと」に「気がついてしまった」のだ。
もうお分かりかと思うが、僕はまだ別れた彼女のことが好きで好きで仕方がないのだ。
消化しているのは別れたという事実を受け入れられた、というだけのことであって、僕が別れた彼女を好きという事実はまったく変わっていなかったのだ。
(別れの原因は長くなってしまうし、さして重要な要素ではないで割愛するが、もう絶対に復縁することはない。)
長くなってしまったが、
TwitterやInstagram、フェイスブック、LINE、あらゆるSNSで僕からコンタクトを取ることは一切ない。それどころかミュート機能のないInstagram以外は全てポストがフィードに流れてこないように設定している。
別れた後にInstagramのフィードで別れた彼女のポストを見ると、ドロッとした感情が胸を締め付ける。
幸せになって欲しい
もう一度戻りたい
僕以外の誰かといないで欲しい
不幸になって欲しい
心から幸せを願っている一方で、僕と別れて幸せになることが受け入れられず、善の感情と悪の感情がぐちゃぐちゃに入り乱れている。
でも、それはまだいい。
時折僕のポストや、なんでもないことで、別れた彼女の方からコンタクトを取ってくることがある。
そらに対して僕はちっぽけなプライドと自尊心を守るために「なんとも思ってないですよ」言わんばかりの、嘘にまみれた言葉を突き返している。
きっと相手からすれば、僕にコンタクトをとるのは、なんでもない日常のワンシーンなのだろう。
でも僕にとっては違う。
付き合っていたという事実は消えていても、好きだという事実は消えていないのだ。
ユーザビリティの分野で「結果の一意性」(「結果の予測しやすさ」と言い換えてもいい)を考えれていない人が意外と多いようだ。
一例として、「メニューボタンを押してメニューを開く」「下キーでメニューの2番目の項目に移動」「決定キー」という一連の操作を考えてみよう。ツールの使用に慣れたユーザはメニューボタンを押した後に、選びたい項目が2番目にあることをいちいち視認したりはしない。画面が切り替わるより早く下キーと決定キーを押す。画面のレスポンス待ち時間と視覚から情報を取り出す処理時間がロスとなるからだ。さて、ここでツールに「前回メニューを開いた時のカーソル位置を記憶する」という一見して便利そうな機能を加えるとどうなるか。そう、前回のカーソル位置をユーザが記憶していない場合、前述の時間ロスが発生するのである。これが「結果の一意性」が損なわれる例だ。注目すべきは、このカーソル位置記憶機能が高い確率で操作回数を減らしてくれているにも関わらずユーザは使いにくく感じる、という点である。おそらくだが、UI作りに携わる人間の多くが、UIの品質を操作回数だけで評価しており、操作を伴わない処理がユーザの脳内で行われていることを考慮していないのだろう。
某ライブ変換機能を邪魔に感じる人が多いことは「結果の一意性」に関して別の見地を与えてくれる。従来の変換形式の場合、ユーザは平仮名を打つ場合には結果の一意性が保障され、文字変換が必要な時にだけレスポンスを処理していた。つまり、「変換キーを押さずにEnter」or「変換キーを押して変換結果を選択」で一意な結果か否かを分離できていたのである。これに対してライブ変換機能は常に変換候補を提示しており、レスポンスの正誤判断を要するタイミングが分離できていない状態になった。ユーザとしては、操作は減ってもレスポンスを判断する機会が増えているため、使いにくいと評されるに至ったのである。すなわち、「結果の一意性」を保障できないならできないで、そのタイミングを明確にすることでUIは使いやすくなる、というわけだ。
ジャンプで連載されてた某ラブコメにずーーーと張り付いて未だに叩いてる人が居る。
恐らくだが彼の脳内ではその作品は終わってなくて、解消されない怒りだけが残っているんだろう。
無視すりゃいいのにそいつに構う信者も居るからどっちかが死なない限り戦いは続く。もしかしたら信者側が全員死んでもアンチは叩き続けるかな。
「ワンダーウーマン」を見たので感想。と言うか考えたこととかのメモ。ネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので、見た人向けだと思います。フェミの話とかも出てくるんでそういうの苦手な人も回避でよろしくっす。
まず最初に、「ワンダーウーマン」、個人的にはそんなに評価高くない。少なくとも世間で(特に欧米で)いうほど大絶賛、大感動をすることはできなかった。これは映画を見終わったあとのファーストインプレッション。
「1800円という価格&2時間という投資に見合った体験できるのか?」という視点で自問したところ、その答えは「100点」なのだ。十分高評価だろう。いい加減な脳みそだなあ、オレ。とも思った。
なんでこんな評価のすれ違いが発生してしまったかというと、今年見たアメコミ系映画の先行2本、すなわち「レゴバットマン ザ・ムービー」と「スパイダーマン:ホームカミング」の評価が高すぎた、というのが原因であるらしい。前出の基準で言うと、「レゴバットマン」も「スパイダーマン ホームカミング」も200点くらいの評価なので、「ワンダーウーマン」はタイミング的に損をしてしまったのかもしれない。これが「ドクター・ストレンジ」のあとだったら感激できてたのに。
PC的なディレクション――批判に対して自覚的で先手を打って内容を適正に作っていこう――は最近のハリウッド映画では多かれ少なかれあるのだと思うけれど、そういう制約(どういってもある種の制約ではあるだろう)を逆手に取って笑いやネタにしたり(デッドプールにおける「女性も男同様にブン殴ったほうが公平じゃない?」)、むしろそこに正面から踏み込んでえぐり出す(スパーダーマン:ホームカミングの敵役ヴァルチャーはいま注目されている「見捨てられた白人労働者」)のにくらべ、ワンダーウーマンのそれは踏み込みが浅くどうしても「そういうルールなので設置しました」感が出てしまっている。
おそらく「ワンダーウーマン」という作品――つまり女性が戦場に出て戦うという作品を作るにあたって、制作側は、(フェミニズムを中心に)炎上の可能性を覚悟して作ったのだと思う。だから、予め潰せる問題点は潰しておいた。
それは主人公ダイアナの人物設定にも反映されていて、彼女は美女で、アマゾン族の王女で、めっちゃ強い。すごい跳躍力や筋力を持ってるし、噛み殺しの特殊能力を持つスーパーゴリラだ。だが多分そのままだと脳筋批判も巻き起こすだろうから、島で英才教育を受けてた設定になっている。作中でも数百の言語を操り、古典に詳しく、第一次世界大戦当時の最先端の化学式を読み取るなど知能面でも卓越している。(第一次世界大戦当時の)女性だからといって馬鹿ではないのだ!
しかし、だからこそというか、逆説的にというか、なんだかすごく残念な人物描写になってしまっている。
彼女は世間から隔絶された島で育ったので無垢だ……という設定なので、物語終盤になるまで「人間は悪神アレスに洗脳されているせいで地獄のような戦争をしているのだ。悪神アレスさえ倒せば人間は正義と慈悲に立ち返り戦争は即座に終わる」と信じ込んでいる。ここは物語のテーマなので、外せない重要な要素だ。
それはそうで、重要に間違いはないのだが、それってどうなのだろう。
言語というのは必ずその文化を含んでいる。外語を学んだことがある人ならわかると思うけれど、外語を学ぶというのはその言語を操る民族や地域の文化を学ぶということをニアリーイコールだ。文化も歴史も言語には含まれているからで、そこに理解無くしては言語の意味を理解するなんてできない。ましてや古典まで学んだダイアナが、人間の持つ二面性や、善悪といった内面を「全く理解してない」なんてのはありうるんだろうか? いやまあそこが物語のキーなわけだから、理解していないということにしないといけないのはわかるのだが、そういう描写にしてしまったせいで作品は別のメッセージを持ってしまった。
すなわち「知識も教育も倫理や人間についての理解の助けには全くならない。世界を良くするという意味では、教育は全く無意味である」というメッセージだ。多分これは随分うがった見方だろうし、制作側はそんなメッセージを発信するつもりはないだろう。けれど、物語上ここでねじれが生じているために、そう取られかねない「隙き」が生じてしまっている。批判される要素をなくそうと頑張っていた制作陣が、塞げなかった穴に見えてしまうのだ。こういうねじれが、どうも彼女をそこの浅い子供に見せてしまっている。
「ワンダーウーマン」は「(邦画では珍しくもないが)戦う女性主人公」「女性が監督した初めての大手スタジオによるスーパーヒーロー映画」という点で、フェミニズム界隈から賞賛を受けた。
けれど、個人的にはダイアナは女性ではないのだと思う。すくなくとも、フェミニズムが想定するような「解放されるべき女性」ではまだなくて、子供なのだ。まだ思春期すら迎えていないような子供で、世界に対して良く言えば無垢だし、シニカルに言えば無知で無責任だ。
ダイアナに強い好感を覚えられなかったのがこの映画の評価に加点が少ない理由だと、整理した今なら自覚できる。
多分、自分にとって不幸だったのはこの部分で、それは「ワンダーウーマン」を観るまえに「ウーマンリブ的な文脈でフェミニスト絶賛」みたいな評価を知ってしまった点だ。「そういうつもり」で見てしまったせいで捻じれが目についてしまった。
しかし、見終わったあとに思い返してみると、魅力的な部分がいくつもある映画だ。その最大のものがアメリカ外征軍大尉のスティーブ・トレバーである。
彼はドイツ軍をスパイした結果恐るべき毒ガス計画を知り、逃亡の最中に絶海の孤島アマゾン島に漂着し、主人公ダイアナを「外の世界」に連れ出す役目をする。無垢な美女ダイアナのエスコート役であり物語最終局面まで彼女を支えて導き続ける。
ヌードシーンがあったりもするので、女性向けの眼福要素も担当させられたイケメン俳優だと思っていたのだ。二回もイケメンって言ってしまったよ。
彼は優秀な軍人でありパイロットなのだが当然人間なので、スーパーヒーローで神の子であるダイアナに比べたら喧嘩においてはまったく弱い(軍人として適正に強くはあると思う)。おまけに非文明圏であるアマゾン島では虜囚に近い扱いも受けていたし、さらにいえば彼はアメリカ軍大尉であり、物語中盤の舞台イギリス(&イギリス議会&イギリス軍)では大きな権力を持っているわけでもない。上司に対しては愛想笑いを浮かべたり、自分の意見をひっこめたりもする。
物語中盤、未知の世界である外界に出たダイアナは完全にお上りさん状態であり、大都会ロンドンにおいて常識を知らないことから、スティーヴに迷惑をかける。それにたいしてスティーブはなだめたり、すかしたりしてダイアナに行動を抑制しようとする(そして失敗する)。スティーブはダイアナに「外の世界の常識や考え」を事細かに説明して理解を得ようとはせず、断念する。命の恩人ではあるし天下無双の戦闘能力を持ってはいるけれど、「面倒くさい子供」でしかないダイアナに呆れているように見えることもある。
こうやって説明すると際立つけれど、スティーブはイケメンが売りなだけのダイアナの介添に見えていた。
しかし、上映後に振り返ってみるとこの映画の中心はスティーブだと思う。
ド派手なCGバトルアクションとか、世間のフェミ的な評価を全部取っ払って、個人的に「ワンダーウーマン」の感想を述べるならば、「ワンダーウーマンはスティーブの映画」なのだ。
全般的に人物の内面描写が浅いきらいのあるこの映画だが、スティーブに関しては脚本も俳優も素晴らしい仕事をしている。
彼は心の中にロールを持っている男だ。それは「善き男」であり「善き大人」であり、おそらくだけど「善きアメリカ人」であり「善き隣人」だ。彼はそういうふうに生きたいのだ。正しさや信念というよりも、自分の中に理想像、ロールモデルがあると表現したほうがしっくりくるのがスティーブである。
彼が軍に身を投じたのは、混迷続く世界情勢の中で、善きアメリカ人として社会に奉仕しようとした時、そのモデルが軍人だったからである。今の価値観で言えばもちろん異論はたくさんあるだろうけれど、その当時の常識で言えばそれは愛国心であったし、善き市民の善き行動だった。
ドイツ軍に密偵した結果、彼は恐るべきマスタードガスの開発と、それが講和間近のイギリス軍へ向けられていることを知ってしまう。彼はこの情報を持ち帰るために命を捨てるような危険を犯す。それもまた、彼の中にある「それが善き男の行動」だからだ。
その過程でダイアナに命を救われ、彼女の「外の世界の戦争を止めたい」という希望を叶えるためにも、一緒にイギリスまで情報を持ち帰ることにする。
しかし、イギリスにそれを報告したが、結果ははかばかしくない。講和が間近に迫ったイギリス軍は、ドイツ軍(の一部)に災厄的な行動があったとしても全面攻勢には移りたくない。スティーブの情報は事実上握りつぶされる。
彼はここで彼自身の行動規範である「善き人」を曲げられる。軍の階級差という世俗の権力構造のせいで、彼がすべきだと信じる行為を行うことができない。
講和のためとは言え、前線舞台をマスタードガスの脅威の前に放り出してよいのか? 良いはずはないが、議会や政府の決定に従うのも「善き国民」の義務ではあるのだ。
でも隣には精神的に子供のダイアナがいて「ねえなんでなんで? なんで正義しないの? まさかここでやめるわけ? 処す? 処そうか?」という視線で見てくる。彼は、その結果、軍の命令を無視して、私費で(というかボランティアのつもりだった?)傭兵を雇い前線に向かう決意をする。彼は心の中にある「善き人」の指し示すところに従ったのだ。ダイアナがあんまりにも無垢なので引っ込みがつかなくなったという側面があったにせよ。
前線に向かい、血みどろの後背地を抜けて塹壕にたどり着き、取り残された村をダイアナの神話的な能力にも助けられて開放して、ダイアナとスティーブの関係は接近する。男女間の性愛的な意味での愛情もあったような描写だったけれど、個人的にはスティーブの父性も強く感じた。その父性というのは、子供でしかないダイアナに「善き大人」を見せるというものだ。戦争なんて醜悪なものなのだけれど、それだけではないということ、世界には「善き隣人」の「善き努力」もあるということを示したかったように見えた。孤島から世界に連れ出した人間として、世界に失望してほしくなかったのかもしれない。
終盤。マスタードガスの大量生産はすでに完了しており、その暴挙を止めるために一行は秘密基地に忍び込む。ダイアナはその中で、アレスの化身だと思われるドイツ軍ルーデンドルフ総監を倒すことに成功する。ダイアナは「これで悪神アレスの洗脳は溶けて戦争は終了する!」と歓喜するが、兵士たちは戦闘をやめない。殺戮の準備を辞めない兵士にダイアナはパニック状態になる。ダイアナにとっては今まで信じてきた世界観が崩れ去った瞬間なのだ。
そのダイアナに向かって、スティーブは今まで何度も説明しようとしてしきれなかったことを告げることになる。
それは「この戦争は人間が開始して人間が拡大させたものなんだ。神はいない。僕たちの責任だ」ということだ。その告白はとても辛い。「善き男」として生きたかったスティーブは、まったく「善き男」ではなかった。戦争をしちゃってるのだから極悪人なのだ。しかし、スティーブは「この戦争は僕達の罪なのだ」ということを認める。なぜなら、戦争の責任を誰かに転嫁するのは、戦争を始めるよりも更に恥ずべきことだからだ。「善き男」として彼は、世界の醜さの責任を取らなければいけないと決意する。
スティーブとダイアナの間にあったものは多分とても複雑で、男女でもあったし、父と娘でもあったと思う。でもその一部には神と人間というものもあった。
彼女の戦闘能力があまりにも隔絶してたからスティーブもその視点を持たざるを得なかったのだろう。
ダイアナの考えは「神が神の邪悪を振りまいたせいで人間が迷惑をしている」から「神の使命を持つ私が人間を救う」というものなわけだけれど、スティーブはこれに「善き人間」としてノーを叩きつける。ダイアナの考えはある種のパターナリズムだが、スティーブの答えはそこからの脱却だった。
神々の戦いは神々であるアレスとゼウスの娘ダイアナが決着をつけるだろうし、人間であるスティーブはそこには関与することができない。
しかし人間の始めた戦争であり、人間の悪意であるマスタードガスは人間であるスティーブが止めなければならない。筋としてそれが正しい。
ダイアナの戦闘能力やスティーブたちの状況を考え合わせると、彼らはここで戦闘を放棄すれば逃げて安全に暮らすことは十分に可能だったように見える。その場合はもちろんマスタードガスで前線の部隊は凄惨なことになるのだけれど、倫理的に考えてスティーブが彼らを救う(その結果命を落とす)絶対的な義務があったわけではない。戦争の悲惨すべてを、個人であるスティーブが背負う必要はないからだ。
スティーブが命をかけた動機として、父(先行者)として娘(後続)に「この醜悪な外の世界にも善はあるのだ」という事を示したかったのか、人間として神に「あなただけにすべてを背負わせない。人間は弱いけれどそれでも自分たちのしでかした行為の責任は取る」ということを示したかったのか、それとも男として女に「俺も戦う」といいたかったのか、それはわからない(そこが返ってスティーブという男のテーマとしてよかったと思う。彼の愛情には名前がつけられない)。
けれど、スティーブは「自分の戦い」として今まさに離陸していこうとする毒ガス満載の爆撃機を止めるために飛び出す。そして乗り込み、爆弾を抱えて、前線を救って、結果としてダイアナを残して死ぬ。
こうやって思い直してみると、中盤、ロンドンの街で常識知らずにうろつくダイアナに手を焼いていたのも、「善き大人」として子育てに苦労してたんだなあ、と思える。
スティーブは大尉だからおそらくエリートなんだろうけれど、まだ若いし、それ以前にすべての人間がそうであるように、不完全で未熟だ。しかしそうであるからこそ、彼には「こんな存在でありたい」という理想像があった。そして常にそうであろうと、努力していた。都会ではトラブルメーカーのダイアナを「善き保護者」として(オロオロしつつも新米の父親のように)導こうと思ってたし、最前線では「善き戦友」として肩を並べて戦った。戦火から救い出した村でチャーリーが歌ったときは「善き男」としてダイアナを熱っぽく見つめた。彼は最終的に、「惚れた美人との安全な生活」よりも自らの役割を優先した。自分自身の信じる正しさに殉じた。それは「善き人間」として神の前に立った時、他の誰でもなく自分が、人間すべての代表として神に「人間の誠実」を見せるべきだと思ったからだ。
それは上野千鶴子あたりの言葉を借りると「男性の安っぽいヒロイズム」であり「戦争に興ずる幼児性」なのかもしれないけれど、物語としてみるとスティーブの人物描写はこの映画の中で一番複雑で深みがあった。魅力的だった。
そんなことを考えると、「ワンダーウーマン」はウーマンリブ的な価値観の映画というよりも、男性的な価値観の、そして「神(あるいは超越的な力を持つスーパーヒーロー)の前に立った『善き人間』の覚悟と誠意」の映画だと思う。そして、そこがこの映画の美点だと思える。
非現生人類のホモ・サピエンスは20万年前から10万年前にかけてもっぱらアフリカで現生人類に進化した後、6万年前にアフリカを離れて長い年月をかけて世界各地に広がり、先住のネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどの初期人類集団との交代劇を繰り広げた
交配できない人類が同じ時代に生まれる可能性はあるし、交配できない可能性もあるってことじゃん
おそらくだけど、完全に交配できない種が突然生まれるわけじゃなくて、徐々に交配できな人が出始めてほとんど交配できなくなるのが10万年単位ってことでしょ
10万年単位くらいで起きる可能性があるなら、もうアフリカを離れて6万年くらい経ってる
だったら、もうそろそろどこかの地域と地域では交配できない程度の差ができてるヒトがポツポツいてもおかしくないんじゃないと改めて思うんだが
ずいぶんと脱退があっさりしていて腑に落ちない部分を感じているファンも多いと思うし自分もそう。
不仲説とかよく言われているけど自分はそこではないと思っている。
最上もがはグループ内でもドラマやバラエティーなどテレビ出演多く一般認知度が高い。
でんぱ組はブレイクして武道館コンサートを成功率させるなどアイドルとしてはトップクラスではあるが正直なところ昨今では第一線にいるとは言えなくなっているだろうと思う。
でんぱ組としての仕事の単価と最上もが単体としての仕事の単価にかなり開きが出てきたのでは。
そうだとしたらでんぱ組の仕事にスケジュールを割くより単体の仕事を受けた方が儲かる。
でんぱ組がライブをやらなくなったのもその辺が絡んでいるのかなと思ってはいる。最上もががライブに向けての準備に時間が取れない状況がずっと続いていたんだろう。
この辺は最上もがの意向というより事務所等の大人の事情が強いのでは。
一人だけ群を抜いて知名度が高く単体仕事も多い。だからでんぱ組としての活動は順位が低くなる。
でも他のメンバーはこの状況が面白いはずない。不満があって不思議じゃない。最上もがが嫌いというよりそういった状況に耐えられなくなってきたのかもしれない。
不仲というよりも格差。袂を分かつ方がお互いに幸せかもしれない。
おそらくライブ停止発表の時点である程度今回の最上もが脱退の筋書きはできていたのではないか。
だからずいぶんあっさりとした脱退発表なんだろうしメンバーも予定調和的な反応なんだろう。
たぶん彼女たちがお互いに活動を続けていける答えとして最適解が最上もがの脱退なのかもしれない。
本当のところを知りたい気持ちはあるけどまあ知れることは無いよな。
ずいぶんと辛辣な意見(トラバ・ブクマコメント)をいくつもいただいたので、更に追記しておく。
おそらくだが、私の意見について「何を偉そうに。」「関わりたくないんで。」と反応する増田諸君は、
まだ人を使う立場に立っていない者と思う。
そのような増田諸氏は、自分の責任範疇において部下を持つ時のことを考えてみてほしい。
「もうすぐ30歳です。SEやってました。」という新人君が入ってくるとする。
でも実際に作業にアサインしてみたら、「コーディングは今勉強していて資格も取ります。」
「Linuxコマンドは今必死で勉強してます。」と言う話で実際の作業が全然できてない。
このような人が来ても、それでも増田諸氏は「いいよいいよー」と言ってあげられるのかい?
「あんたの書き方から肩書の真実味は感じないし」と反応した増田氏については、
自分の肩書が真実かどうかこの場で証明できないし、私の意見から「この人はアーキテクトだ」と
思わせる部分はおっしゃる通り何もない。しかし、私の意見は確かに上から目線であったので、せめてどのような
ポジションで仕事しているのか明らかにしなければ本当のマウンティングになってしまうと思った。
増田氏が言う「LPICもプログラミングも遅すぎるとか無い」ってのは異業種転職を考えている30歳手前が相手なら私も
そう思うが、元増田が「元SE」と言うので「おいおい」と思ったんだよ。
人を雇う側・人の上に立つ側からしたら元増田の現状について「大丈夫だよー」とは言えない。
でもこの元増田は開発系の仕事をしたい気持ちを持っているのも明らか、しかしトラバやブクマコメントは
実際には何も考えていない無難なものばかりだったので、雇う側の一人としての意見を書いてみた。
おそらく私を dis るのは管理職経験のない若い諸氏だと思うが、君たちと違う意見もあるのだと言わせてほしい。
ただ、確かに私の意見は強い口調であったので、気分を害した増田諸氏についいては申し訳なかったと思う。
この後きつ過ぎる部分を書き直しておく。もちろん原文は残して。
順調に真綿で首が締まってきた、ってだけの話で同情の余地は全くない。
課題は先送りにするほど重い足枷になり、後の自分を苦しめるなんて事は小学生時分に夏休みの宿題で気付く。
バカでも8月中旬になれば少しずつ焦り出して、後半には渋々着手してなんとか終えるだろう。
でも怠惰なキモカネは自分に言い訳して誤魔化し、やらなかった。焦燥感は人並みに持ってたくせに。
色々なものを積み重ねるべき青年期を無為に過ごしたツケを、四十路になってからヒィヒィ言いながら払ってるだけだ。
氷河期、女尊男卑、新卒至上主義・・・言い訳だけは一丁前。なら同級生は全員同じところまで落ちてるか?
社畜なんぞになってたまるか、と開き直って自営業でもして生きる勇気も知恵も無ければ
同じ境遇同士で団結して現状打破に動いたり、相互扶助を目指すような協調性も無いからタチが悪い。
そのうえ非協力的・他罰的・内向的・悲観的とくれば、誰も救いの手なんか差し伸べてくれるかっつうの。
そろそろやめませんか?
https://lineblog.me/sascha/archives/8342298.html
オリンピックで初めて選手宣誓がされたのは1920年のアントワープ五輪
おそらくだけどこれがかなり印象あったんだろうね、1924年のパリ五輪ではポスターに使われる
http://gigazine.net/news/20080807_olympic_poster/
この超有名なポスターで全世界に選手宣誓=手を挙げるってのが広まったのかと
追記
信用できるソースとしてはオリンピック公式サイトのこちらをどうぞ
https://www.olympic.org/paris-1924
POSTERのところで確認できる、下には手をまっすぐに伸ばした宣誓の姿もある
人生の中で、不意に強烈なジレンマを感じるときがあった。それがつくづく不可解だった。
こちらのことを悪く言う人間、他人を貶めずにはいられない人間、他人の不幸を喜ぶ人間について、どうしても、それが卑怯であるとか、浅ましいとか、自分は面と向かって言うことができなかったのだ。まるで口にガムテープを貼られているようだった。
自己愛性人格障害であったり、ハラスメント気質であったり、世間には、その妬みや劣等感を他人にぶつけて生きる人たちがいる。そういう人間に出会ったとき、自分はほどほどに苛立ちながらも、原因が相手の弱さだと分かっているのに、どうして苛立ちを払拭できないのか?と、疑問に感じていた。
専門家や先人たちはどう考えるのかと調べても、やはり、その弱さを攻撃することよりも、距離を置く、関わらないことが勧められていた。
しかし、どうして相手の弱さを攻撃することに強い忌避感があるのか、気付いてみれば簡単である。妬み、劣等感、不寛容、その反対は(恐らく)、祝福、自己肯定、寛容である。優しさは、他人への攻撃性の元となる弱さの反対側にあるのだ。相手の弱さを攻撃したい、するべきだ、と思うこと自体が、自分の弱さから来る。もしそうすると、相手と自分とは同じ高さで向かい合うことになる。
優しさがあるかぎり弱さを攻撃できないのなら、優しさを捨てない人間に勝利はないのか?もしかするとそうかもしれないが、しかし、それでは世の中はもっと強くネガティブに偏った勢力図のはずである。
恐らくだが、優しさはそれそのものが勝利なのではないだろうか?他人を攻撃し、他人がもっと弱くなることを願い、もっと不幸になればなるほど自らが悦びを得られる人々にとって、苦しみとは、自分がどれだけ貶めても、むしろ自分に対して優しさを失わない人間を目の当たりにすることではないだろうか?
すなわち、相手の弱さを攻撃するのは弱さそのものだと悟り、その優しさに自信と誇りを持つことこそが、人の心の弱さに対する真実の勝利であり、弱さと優しさの均衡を自らで保つ始まりなのではないだろうか。
そして、時に人は音楽というものに何を求めるか、それは何かであるかということで苦心する。
弟の友人であるミミセンは、そのあだ名の通り耳栓を愛用している。
大きい音や、雑音などが苦手だからだという。
その一環で、彼は家でもヘッドフォンをつけて音楽を聴くことも多かった。
それ自体は弟たちにとって慣れたものであったが、最近そこから漏れてくる謎の曲に不思議と引き付けられた。
「ミミセン、最近はその曲をよく聴いているよね」
「ああ、掃除をしていたら、物置にCDがあってさ。一昔前の曲だと思うんだけど、聴いてみたら中々いい感じの曲なんだ」
気になった弟たちは、その音楽をスピーカーから聞かせてもらう。
ミミセンの言うとおり、その曲はとてもキャッチーで、歌は思わず口ずさみたくなる小気味良さがあった。
「ユールネバー! ゲットイット! アウト、ヨア、ヘッド!」
シロクロが曲にノりながら、分かるような分からないようなことを言う。
恐らくだが、曲を褒めているのだろう。
「うん……いい音楽だね」
「クセになりそうだ」
だが弟たちには、一つの疑問が浮かんでいた。
「私もいい音楽だと思うけど、これ何て歌ってるの? どこの国の歌?」
その歌は弟たちの意味の分かる言語ではなく、少なくとも自分たちの国のものではなかった。
「それが分からないんだ。この音楽の入っているCDにも、ケースにも、タイトルや歌手すら書いてなくて」
最初はそれほど気にしていなかったが、ここまで謎が謎を呼ぶと逆にどんどん気になってくる。
「賛成。歌詞の意味が分かったほうが、よりこの曲が好きになれるだろうしね」
こうして弟たちは調査を始めるが、成果は芳しくなかった。
道行く人の答えは共通していた。
意外にも音楽自体は聴いたことがあるという人がほとんどだったが、その他のことは誰も分からないのである。
そこそこ期待していた魔法少女すら、答えは同じであった。
「なんで分からないんだよ」
「魔法少女でしょ」
「……」
魔法少女の肩に乗っている動物は、いつもならせわしなく動くのだが、今日は完全な置物のようだった。
どうやらペットを遠隔操作していた人が、席を外していたようだ。
「……本当、掘り下げれば掘り下げるほど夢も希望もない存在になっていくよね、この魔法少女」
唐突に、何の文脈もなく、うんこを漏らしたくなることがある。街を歩いているときやカフェでコーヒー飲みながら本を読んでいるとき、誰かと真面目な話をしているとき、談笑しているとき、何でもない日常の一コマでうんこを漏らしたい衝動と戦っている。正直漏らしても何のいいこともないのは理性では承知しているつもりで、お前は何と戦っているんだ状態だが、もはやこれは衝動と言っても良いぐらいの強度で、僕の頭と主に肛門周りを強く刺激してくる。
特に、誰かと会話しているときに、「うーん、これは」とか「うーん、違うんじゃない」とか、うんこを想起させる発言をされた瞬間が一番やばくて、その瞬間僕の大臀筋に緊張が走る。
そんな衝動と日々戦っていると、自分のこの衝動と犯罪者のそれが似ているのではないかと思ってしまうことがある。「魔が差して」痴漢してしまったり、「衝動的に」通り魔をしてしまった犯罪者と自分は同じなのではないかと思うと身震いするような空恐ろしさを感じる。
人混みの中で急にうんこでも漏らしたら確実に僕は異常者扱いされるだろう。それが、「我慢したんですが便意を耐えられずに」であればある程度仕方がないとする向きもあるだろうが、「排便衝動に耐えられなくて積極的に」だと完全にアウトである。
自分のこの衝動を見つめ直して見ると、「今、誰も俺がうんこするなんて思ってもいないだろうな」と感じる場面で特に便意が強くなる気がする。日常感が強ければ強いほどその欲求は高まる。おそらくだが、大層に言えば、予定調和からの脱却欲求があるのだと思う。つまり、相手の裏を掻いてやろうという気持ち、といったところか。
宮台真司がかつて喝破したように、我々は大きな物語を喪失し、終わりのない日常を生きている。その日常の断絶という物語を生む道具が私のうんこなのである。うんこによって日常は非日常と化し、そこから新たな物語が生まれる。もちろん、僕個人の物語が大きく変わるだけで、世界は何も変わらないだろう。でも、少なくとも誰かと朗らかに談笑している途中に僕が唐突にうんこをすれば、その日は僕の人生の大きな変化点になるに違いない。それが僕にとって良いことか悪いことかは分からないが、僕はそうなるのを心のどこかでは期待しているのかもしれない。
だから、クーラーボックスに入るコンビニ店員やおでんをつんつんするユーチューバーを見たときはよく分からない親近感と憧れに似た気持ちを感じたものである。
なので、彼らのニュースとその後の炎上を目の当たりにした僕は他人事とは思えなかった。もし僕が彼らに先んじて渋谷のホコ天でうんこしていたらきっと僕も彼らと同じ目にあっていたに違いないからだ(大阪なら何事もなく許される気がする)。逆に言うと、彼らを親の仇のように批判していた人たちはああいった愉快犯的な衝動が一つもないということで、それはそれで羨ましい気持ちにもなる。
もちろん、上で述べたことはただの欲求であって、本当にうんこすることは今後もありえないとは思っている。そこが僕と炎上した先人たちの超えられない差と言えばそうなんだろう。だがしかし、日常の一コマ一コマでこれからも便意と戦っていかなければならない人生を思うと、若干暗い気持ちになってしまうのは否めない。そんなときは、老人になったら嫌でもすることになるんだから、と自分を励ましたりしている。
おならをすると少し衝動が和らぐということだ。だから、僕は(もちろん相手は選ぶが)時々唐突におならをするようにしている。談笑中に唐突に放屁。ごめん、屁こいた。ガハハハハ。といった具合である。
うんこの代替としておならというのは分かりやすい。使う部位も一緒なのも良い。そんなわけで、日々どうしようもなくなったときはおならでお茶を濁しているのだけど、最近どうもおならでは満足できなくなっている自分に気づく。
これらおそらくだが、おならが僕の中で日常化してきているのだと思う。もともとは談笑という日常の風景に対するカウンターパンチがおならだったはずが、談笑+おならがセットになって僕の日常となってしまったのだ。
これは、影で「おなら野郎」と罵られるという犠牲を払いながらも、うんこよりはマシと放屁をし続けていた僕にとっては由々しき事態である。代替品としてのおならが通用しなくなってしまった僕の日常にはもはやうんこしか残されていないのではないか。
それだけではない。この事実は、もし僕が忌憚なくうんこをするようになったとしても、それはまた新たな日常の到来を意味しているのである。
でも別に喧嘩別れしたわけでもないので、継続的にお仕事いただけるかなと思ってたし、そういう話もしてたんです。
しかし残念ながら、携わっていたプロジェクトが私が辞めると同時に無くなることになりまして。宙に放り出されてしまいました。困った。
もう辞めちゃったし、これからフリーランスで頑張るぞ、って気持ちはあるので、色々慣れない営業したりもしたんですが、このご時世なのでそんなにすぐお仕事もらえるわけでもなくて。
(いくつかお話はもらってるんですが、今の生活に困ってるので今すぐお仕事欲しいんですよね)
噂には聞いていた、クラウドソーシングサイトにも登録してみました。
スキルとか本人確認とかとりあえず済ませて、検索したんです。自分の得意なジャンルを。
まあ、当然なんですが、ほとんどお仕事はありませんでした。仕方ないです。あったとしてもかなり単価が安くて「舐めてんのか?」ってお仕事ばっかりで。
仕方なく慣れないものでもやってみようと思って、検索の幅を広げました。
そしたら、そこには沢山のお仕事募集が。まるで宝の山です。掘っても掘ってもまだあるって感じです。
でも、単価がヤバイんです。「え?桁一つ間違ってない?」って言う募集が山ほどあるんです。
文字単価0.1円とか、いくら書いても暮らして行けないです。無理です。
今の主流(っていうかクラウドソーシングサイトの主流)はキュレーションメディアとか、アフィサイトの記事のようです。クリックしたり物が売れたらいくら入るっていうサイトですね。
これ自体は否定しないです。中には本当に役立つ情報を載せてくれてるサイトもあるし。
詳しい情報が知れて、物が売れて。お互い利益のあるいい関係だと思ってます。
会社員だった頃は見えてなかった世界がそこには広がっていました。
外注さんにライティングをお願いすることもあったんですが、その時だってこんな単価提示したことねーぞ!レベルの単価ばっかりで。
3000字以上で500円とか「は? マジで言ってんの?」って言う募集が沢山あるんです。
安く済ませたいって言うのは理解できないこともないです。質より量。世の中そんなもんですよね。
けど、安い案件に飛びつく人が多いと、市場が正常値になることはないんです。
安くても書く人がいる限り、わざわざ単価あげたりしません。慈善事業じゃないんだし。
今の市場を見てると、クオリティ高い良質な記事を書ける人まで安く買い叩かれてしまいそうで怖いです。
別に今始まった話でもないだろうし、長くやってる人なら誰しも知ってることだと思うんですけど、何かびっくりしたので日記にしてみました。
もうちょっと、クオリティでふるい掛けてもいいんじゃないかなあと個人的に思ってます。
もちろん、名前出るようなライターさんとかは別ですけど。私もそうなりたい。
あと、サイト作れて記事書ける人なら自分でサイト作ったほうがいいんじゃ?とも思いました。
アフィリエイトやったことないんでどのくらい稼げるか知らないですけど。
何も知らずにイカダで航海に出てしまった私に生き残る術はあるんでしょうか。