はてなキーワード: らくだとは
飢えた人に生魚を与えるのが教えてGoo、
ただ、恐らくだがどのサイトでも飢えた人に「はい。これは食べられるはずです。」と言って、おもちゃの魚(誤回答)を渡す人はいると思う。そこは共通して。
数ヶ月で感じたこと
Vtuberの面白さは「その人を知る過程」という面が一番大きい
これは友人、恋人、同僚と知り合う行為に近いし、もちろん生主、キャバクラ、メイド喫茶にも近い。
(以下、便宜上「知人化」と呼ぶ)
・動きが見えるのに、素顔は見えない
・双方向性が強い
という点がある
これらのお蔭で「知人化」作業は複雑かつよりエキサイティングになる
作業を分解するとこんな感じ
(中の人の趣味や経験 + ロールプレイ + 状況 → 発話)
発話から逆算して、「中の人の趣味や経験」と、「ロールプレイ(つまり設定)」を学習していく
中の人と設定は2つで1つであって片方だけで成り立つものではない
もちろんVtuberによっては、中の人を完全封印していたり、ロールプレイを完全放棄しているので片方だけとなる
素顔が見えないので、見た目から得られる情報が制限されることが大きい
普通よりもスタート地点が後ろにあるので、この作業はゲーム足り得る
これは姿が見えない相手と文通する楽しさにも似てるかもしれない(メル友でもいい)
双方向性が強く、質問を投げかけることができる(マシュマロ、質問箱)
これもゲーム性を強くしている
視聴者は時によって「中の人」を聞き出したり「設定」を聞き出したりする
やってることは「その人を知る」作業だ
身バレはどういう過程で起こるのかと言えば、この「知人化」のネタバレを見ようとする行為に近い
これは3Dモデルを触ってみるとか、制作関係者を調べる行為があたるだろう
ただ、生身の人間に比べたら圧倒的に情報量が少ないので身バレの方が確実に目立つ
これらによって参加型に近くなる
言及するほどでもないだろうが、画面の向こうに自分の行動が影響するのは楽しいものだ
その人を「知った後」
「知人化」作業はそのうち終わりを迎える
複雑なパーソナリティや、人生経験を持った人であっても、大体1クールもあれば底が尽きてしまう
この時点で視聴者とVtuberの関係は、双方向性が強ければ友人、単方向ならキャラクターに近いだろう
これによってどんな些細なことであっても「その人がやってるだけで面白い」という状態になりエンタメ足りうる
「Vtuberが面白くない」と批判してる人は単純に知人化できていない可能性が高い
視聴者の中には「知人化」が好きな人と、「知人(知人になったあと)」が好きな人が居る
これがこの界隈を地獄たらしめていると思う
知人化そのものが好きな人は「新しい出会い」を求めて自然と離れていくわけだ
おそらくだが、知人化が好きな人はリアル生活でも大人数と知り合いたいタイプではないだろうか
逆に知人が好きな人は少人数と長く付き合いたいタイプかもしれない
わかりやすいところで言うと、箱推しは知人化好きタイプ、個別推しは知人好きタイプだと予想してる
パーソナリティをさらけ出したあとはどうあがいても「パフォーマー」と「視聴者」という関係が強くなる。
この時に取りうる視聴者との関係性でいくつかパターンが考えられる。
↑単方向性が強い
・テレビ型
・ラジオ型
・劇場型
・リクエスト型
↓双方向性が強い
テレビ型が一番大きなパイを狙えるが、最も難度が高くネタ切れに喘ぐ方向でもある
またどれを狙うにしても「何か面白いことをする人」あるいは「話していて楽しい人」にならない限り視聴者は離れていく
最初の「知人化」の時期は少なくない人数が注目してくれるので
それまでに如何に楽しませるかで長期的な勝負が決するのではないだろうか
(ただ一部の企業的な戦略に乗ったVtuberはちょっとまた法則が違いそう、あれはもはやタレント業だ)
____
おまけ
最近VtuberのYoutube登録者数が伸び悩んできている
大体100万人は居ないくらい?
親だか弁護士だかわからないが、宮川選手の行動のシナリオを書いてる人間がすごい。学校が守ってくれないと判断するやいなや、宮川選手を守り学校を糾弾する最適な選択をとり続けている。監督の指示を無視して被害者に直接謝罪。素人に会見の手配なんかできるはずないのにあっさり会見場を確保。当日の服装、発表した陳述書の内容から会見での言動まで完璧に近い対応。
おそらくだけれど宮川選手はこのあと被害届が出された警察に赴き"自首"をする。一時的に拘留されても絶対に処分保留になるし、ぜんぶ自供することで指示した監督コーチ陣の方を有罪追いこめる。やり方によっては民事訴訟おこして大学から賠償金さえとれるだろうが、たぶんそれはやらない。
アメフトは退部し、おそらく日大自体も退学するだろうが、世間の心証は完璧に近いほど回復している。拾ってくれるところは必ず出るだろう。
KADOKAWAのコンテンツの二次創作をKADOKAWAが書籍化する、という一連のフローは一見筋が通ってるようだけど、
他の二次創作まで削除したのはおそらくだけどKADOKAWAの指示で、KADOKAWAはこれまでも同人作家青田買いするたびに自社コンテンツを消させているという話はよく聞く。
これは「その作者の二次創作」が好きだった人にはスゴく残念な気持ちしか残さない。
確かに商業デビューもそれで過去の作品を消すのも作者の判断でもあるのだから尊重するべきではあるけど、
公式から自分の好きな二次創作を潰されたという感情が残るのは確かだ。
多くのファンは大人だからそれで何も言わないけど、やっぱり少し残念な気持ちが残るし、
そういうファンの気持ちを考慮しないKADOKAWAの振る舞いの積み重ねというのが、
ネットのKADOKAWAアンチの風潮を後押ししているのは否めない。(この姿勢が最悪の結果を産んでしまったのがけもフレ騒動でもある。)
一方で福音の少年にしろ最後にして最初のアイドルにしろ元作品の出版社とは違うとこから出てるし、
二次創作と公言できてるところからも、出版社からの「作者のリスペクトへのリスペクト」が感じられるから反感を持たれないのだろう。
あと絶愛を引き合いに出してる人が多く見られるけど、
好きなジャニーズのコンサートツアーのチケットの抽選申し込みが始まった。
少し前まではかなり力を入れてそのジャニーズのことを応援していたから名義(ファンクラブのに登録している名義の数)は3つあるのだけど、所謂担降りをしてからはかなり冷めているので次の更新の時点で1つしか残さない予定で3名義かけられるのはきっと今回のツアーが最後だ。
それで、冷めてきてはいるものの一番行きやすい東京公演だけはとりあえず行こうということに決めていた。4日間4公演あるが学校とバイトの関係で土日が丁度いいと思って3名義それぞれで第一希望を土曜で2枚、第一希望を日曜で2枚全部で6口申し込もうとしていた。
いつもなら交換に使えるということで最大枚数の4枚で申し込むのだが、今回はデジチケなのでダブりが出た時にやり取りしにくいと困ると思って4枚でなく2枚でと思った。
ツアー日程が決まった時にそのようなことをTwitterのヲタアカでツイートしたら「一緒に入ろう」と言ってきたヲタクの友人がいた。彼女はここ数年間の東京公演をずっと一緒に入っている所謂安定みたいな人だ。だから今回も迷いもなく彼女と連番して…というわけには行かなかった。というのにも彼女はまだそのグループの担当で、担降りをしている私にとって彼女の熱量に付いていけるか、また付いていけるフリをすることが出来るのかどうかが危うかった。
彼女とはヲタクとかなしに人として付き合いやすくて出来ることなら一緒に入りたいものだが、そういったことの億劫さから一人で行けるものなら一人でとして彼女に具体的な日程を提示されなければ一人で入ろう、またチケットが余ったなら彼女に声をかけてみようと思っていた。
そうして申し込みが始まってから数日経った今日、彼女から「ツアーどうする?」とまあアバウトなメッセージが送られてきた。どうする?とは私自身がそもそも公演に入るかどうかのことなのか、それとも彼女が私と一緒に入るであろう公演をいつにするかどうする?なのかまたはツアー誰と入るのお前もしかして一人で入る気でいる?なのか一体どういう意味なのかわからなかったが私なりに2つ目と解釈して、私は上のように土日に申し込みたいと返した。
すると「待って日曜はもしかしたらAとB(どちらも私と彼女の共通の友人)と3人で入るかもしれない…」と返ってきた。こういう時の彼女の ~の可能性がある=~と確信している となる。彼女はそうやって悟るよういつも無意識に示唆してくる。従って「もしかしたら」「かもしれない」は確定事項であるため、彼女を待つまでもなく日曜日、私と彼女とは一緒には入れないことが確定した。
それは別に良い、日曜日に一人で入れるのであればそれはそれで気を使わなくて済むので逆に助かる。しかし彼女はその後に「金土は厳しい?」と聞いてきた。きっと彼女なりに言わせると「金曜が空いているのなら金曜にも一緒に入ってくれ」ということなのだろうけど、彼女は圧力をかけていることすら無意識だからこれはきっと拡大解釈だ。そんなことはいい。何かと言うと私は金曜日の公演に申し込む気は無いということだ。
その理由のひとつに金曜日は学校があり公演に間に合わせるためにいつもより忙がなければならないことが嫌なことがあり、もうひとつにヲタク的な価値観がある。基本的にジャニーズのツアーはどの公演も構成が変わらない。一般に言わせればどの公演も同じなのだがヲタク的にはそもそも同じ公演ではない。これは多分私と私の周囲だけが思うことではないくらいに当たり前でもあると思われる。簡潔に言うと平日よりも休日のほうが価値も倍率も高いのだ。それは学校や仕事の事情で圧倒的に休日の方が行きやすいことも大いにあるのだが、そういう要因も若干加味して平日は倍率が低くなる。取りやすい公演を複数申し込みしてタブるということは捌けなくなって詰むということに繋がる。つまりそれ程好きでもなくなったグループの公演でしかも本来入ろうと思っていなかった私がそんな役目を被るのは勘弁というだけの話である。
そこで自分は金曜自体は空いているけど土日の方が都合がいいので、自分の名義をかけるのは土日にしてもいいなら彼女は金曜かけてもらってもいいかと返した。彼女は「それでいこう 2名義あるから金曜土曜それぞれ第一希望で申し込む感じで」と許諾してくれたのだが私はひとつ気になった。2名義あるからというところだ。恐らくだが彼女は名義を4つか3つは持っていたはずだ。それは日曜日に友人と3人で入る分にいくつか名義を使ったとしたなら(お前と一緒に入るのに使える名義は)2名義あるからということなのか、または今はいくつかの名義が有効期限切れになってしまっているのだとしたら(今使い物になる名義は)2名義あるからということなのかだ。
前の場合は特に問題はない。寧ろ倍率低めの平日含めたの公演に2名義かける彼女と若干取りにくい休日公演に3名義かける自分とがフェアな気がする。問題は後だった場合だ。彼女の使い得る名義の数が2つだった場合、私と入る金曜と土曜に加え共通の友人2人と彼女と3人で入る日曜も同一の名義で申し込む可能性がある。普通、倍率の高い公演を複数申し込みして複数当選することはあまりない。すなわち彼女の2名義は日曜にもかけられているということを彼女が私に隠していた場合の話だ。そして併せて私のかけた3名義のいずれかは当選し、彼女のかけた2名義のいずれかが日曜に当選した場合だ。そうなった時私はきっと重大なロスをしたことになるだろう。歩く名義として良いように使われたというわけだ。
もちろん今はそうなると決まったはずもなく、彼女は全部で4つの名義を持っていた可能性、日曜日にかけていない可能性、日曜日に当選しない可能性も十分にあるわけで、それ以前、それ以降のことはもはや予測しようがない。というかこんなことを考えて真面目に書き出して見てたら今更そこまで好きでもないグループの公演の当落なんていくつどう名義をかけるかなんてどうでもよかったことに気づいた。ここで希望の公演が当選しなくとも私はきっと入りたい公演にはどういう手段でも誰とでももちろん一人ででも入るだろう。ただひとつ私にとっての一番いい形としては彼女のかけた土曜と私のかけた土曜と日曜がそれぞれ当選し、土曜はダブりの中で良い方の席に入り、日曜は同行の人を募ってほぼ1人の状態で入りそれがめちゃくちゃ良席であることだ。もしかして彼女のことを歩く名義として見ていたのは私の方では???まあいい。多分このまま私は彼女と金曜日の公演に入ることになるだろう。
以上、毎回一緒に入ってるヲタ友と話合わなくなってきて1人で入りたいけど一緒に入りたい気持ちもあるから結果自分は良いとこ取りできたらいいなと思ってるって話。次回から一人で入ること前提にして名義かけよう。
http://kyoumoe.hatenablog.com/entry/20180404/1522818510
このブログを読んで気になったので。
はてブでは「やぎぺーついに飛行機代も払えない位落ちぶれたのか」や「月収を誇っている人がこういう姿を見せるのは、どういう了見なのか確かにわかんない」というコメントがある。
確かに謎だ。わからない。一連の行動から受ける印象は、「怒り」じゃなく、「不可解」だ。
一般常識から考えると、「お金がないから小銭をたかった」と考えるのが妥当だが、やぎペーさんにお金がないことは非常に考えられにくい。
やぎペーさんは非常に賢い。自己啓発家としても優秀だが、情報商材屋としての立ち振る舞いも堂に入っている。現在の収入について探ってみたが、非常にうまくやっている以外の感想はない。やぎペーさんがチケット代の約6万円を即座に用意できないわけがない。
やぎペーさんが今回集金に利用したpolcaというサービスをブログに取り上げたいために事に及んだのかなと思ったが、すでにブログで紹介済み(https://www.jimpei.net/entry/post-7646)だ。
金がないわけでもない、サービスを紹介したいわけでもない。だとしたら動機はなんだ。
PCのキーボードを前に小一時間ほど唸ってみた。やぎペーさんのTwitterを覗いてみた。自分の頭で考えない取り巻きどものヨイショが空を飛ぶ。僕はそれを唖然として眺める。
やぎペーさんはアンチの攻撃にも動ぜず、僕にはよくわからない言葉で反論する。おそらくだけど、旧約の一節でも引用しているのだろう。名字がヤギ(スケープゴート)だし。信心薄い仏教徒の家に生まれた僕には理解すらできないけど。
「人生を楽しんではいけない病」ってなんだ? かかったら背中が痒くなるのかな? 「支援してもらった分だけ、人に感謝してもらえるようなことをしようと思う」って言ってるけど、今回のお返しは笑顔で帰国することだけだぞ? 「僕に支援すれば直接支援する以上の価値を最終的に与えてくれると期待して支援してくれたんだと思います」ってどういうこと? トートロジー?
いくらネットを泳いでみても、僕の頭上のハテナマークは宙ぶらりんのままだ。わからない、わからない、やぎの気持ちがわからない……。
俺自身はタバコは吸わない、というより吸えない(喉が弱い)のだが、職場には客も含めて喫煙者が結構いる
彼らを観察して気付いた事、思った事を書く
喫煙の頻度も影響するが、歯磨きの頻度やブラッシングが身についているかどうかも影響している様だ
喫煙者でも、自分の息の臭いに気を使う余裕がある人はそこまで臭くない
おそらくだが食生活などの生活習慣も大きく影響してるのではないかと思う
タバコは嗜好品なので当たり前かもしれないが、大きなストレスがかかると喫煙者が吸うタバコの本数は増える
普段、そこまで吸わない人でも仕事が忙しかったり、トラブルが発生したり、家庭内で問題を抱えていると吸う本数が増える
そのことについて、誰かに指摘されるまで本人は気付いていない事も多い
ヘビースモーカーの人はタバコに依存する事で、自分にかかっているストレスを軽減している節がある
健康に害があること、税金が高いこと、周囲に迷惑をかけること、といったタバコのデメリットを大抵の喫煙者は理解している
止められるものなら止めたいという人もいるし、実際に禁煙しようとする人も多い(挫折する人も多いけど)
禁煙という事に気付かずに吸ってしまうという事はあっても、禁煙だと認識している場合は吸わない人が大半
だが、そういう人は喫煙以外、例えばゴミ捨てなどでもマナーを全く守らない
おそらく今、話題の45分ルールも、大半の喫煙者は受け入れると思う
でないと喫煙そのものが禁止されてしまうという事を彼らは理解している
・マナーを守らない喫煙者は少数派で、守らない人は喫煙以外のマナーも守らない
喫煙者を減らしていくには喫煙者が何故タバコを吸っているのか? という事を理解する必要があると思う
タバコを吸わなければやってられないという環境に居る人にタバコを止めさせるのであれば、その人が置かれている環境を変えるか、タバコに変わるタバコと同程度のストレス軽減効果のある嗜好品を提供するかの二択になると思う
今の喫煙に関する規制や議論は、タバコに依存している人がタバコに依存せずに済むにはどうしたらよいか? という視点が欠けているのではないだろうか
このエントリで注目すべきとこって元増田は男性(夫)が家事をすることが当たり前って前提で話してることなんだよな
朝には脱いだシャツがアイロンがけされてるのが当然と思ってるような人間からは絶対にでない発想
20代か、せいぜい30代前半じゃないだろうか
そういう若い世代の男性と関わることが多い人ならわかるかもしれないけど
「え?なんで嫁だけが家事するんですか?二人でやったほうが効率良くないッスか?」
とかそういうレベル
アタックとアクロンとレノアとワイドハイターの区別がきちんとできて
当たり前のように適切に使い分けることができる(それくらい当たり前だろと思うかもしれないけど、洗濯機の回し方すらわからないオジサンは驚くほど多い)
だからこそ家事を夫婦で協力してやるのは当たり前としてその業務量を平等にしてほしいみたいな意見がでる
仮に書いてもバズらないからどうしても非協力的な夫というイメージになるけど
2.5次元作品が狂ってしまった、と嘆き憤る方の言葉を読んだ。
そのことについて思うところがある。
誤解のないよう、まず初めに私の立場を表明しておこうと思う。
私は、ペンライトやうちわなどを持ち込んで応援のできるスタイルの作品が、正直に言って苦手だ。「うちわ」が苦手なのである。
作るのが面倒とか、視界に邪魔だとか、そういうことではない。
ピースして、ウィンクして、というような「要求型」の応援が得意ではないからだ。
ただし、くだんの記事で書かれていたように、こういう客席参加型の作品を狂ったとは思わないし、舞台やミュージカルではないとも思わない。
うちわさえなければ普通に、というかハチャメチャに楽しく観劇するだろう。
客席に降りてきたキャストにファンサを貰ったら嬉しくて飛び上がるし、この色と決めていたペンライトのカラーはすぐに揺らいで、軽率にブロマイドを買ってしまう。
界隈にはよくいるオタクだ。
ただ、気持ちは分かる。痛いほど分かる。
あれほどの感情は持ち合わせていないが、理解と共感ができてしまうのである。
例の記事にはもう少し冷静に、悪感情だけを振りかざさずに話をしてくれればよかったのにと思ってしまう部分が少なからずあるが、何言ってんだコイツ、と切り捨てられてしまうばかりではあまりに悲しいので、今回筆を執るに至った次第だ。
なんだよ老害が、と思った方も、時間が許すばら話を聞いてもらえると嬉しく思う。
先ほど、この応援スタイルの作品は苦手だが、舞台やミュージカルではないと思わない、と申し上げたが、それはおそらく2.5次元より先にそのスタイルに出会っていたのが根源にあるのではと思う。
舞台だけれど、歌って踊ってファンを振りまき、客はペンライトを振ったり声援を送ったりする。そのことに対しての違和感があるかないか。そこが私と彼の方との大きな差であろう。
例を挙げるなら、宝塚なんかが有名ではないだろうか。
1部と2部で分けられた構成で、似たようなものが存在している。観たことのある方も多いのではないだろうか。
それから、四季のマンマ・ミーア!なども、近いものがあるだろう。
2.5次元作品で名前をお見かけする俳優さんたちが出演しているものでいうなら、私は数年前に上演された「ボーイ・バンド」が分かりやすい例ではないかと思う。
劇作家であるピーター・キルターの作品だが、世界中で初めての公演を日本で行ったものだ。
これは2.5次元作品ではないのだが、ミュージカルではなく、けれど歌があり、客はその歌に合わせてペンライトを振る。
(ペンライトを持ってくることについて公式からのアナウンスがあった)
少し時間が経ってしまったためよく覚えていないが、演者が客席に降りてのファンサービスもあったように思う。
歌われている曲は大ヒットしたJ-POPだ。(興行主側が曲を決めるらしく、作品として固定の曲はないようである。)一緒に歌ってほしいなどという煽りもあった気がする。
例の定型にはめるのなら、これらは舞台ではないということになるのかもしれない。
こういった作品は、知らないだけで、きっとずっと前から数多く存在しているはずだ。
ただ、昨今の2.5次元作品という界隈で、アイドルのコンサートと一体化しているようなものが乱立している。
2.5次元作品をかじっていればどうしても目についてしまう。それを苦手だと感じる人がいれば、極度の嫌悪感を抱いてしまうくらいには多いと思う。
おそらくだが、嫌悪までいかずとも、僅かばかりもやもやとしてしまう人にとって、そしてくだんの記事を書いた方にとっても、舞台・コンサート・イベントなどの種別に関わらず、興行というものは全て「参加するもの」ではなく「観るもの」なのだ。
ただ、作品を観賞したい。それに尽きるのだ。
だから、舞台上の出来事を受けて起こる笑い声は演出のひとつと受け入れることができても、客席側から舞台上に向かって存在や要求を主張するようなうちわや歓声は必要ないと感じてしまう。
少々暴力的な言葉を使うなら、邪魔なのだ。余計なものだと感じてしまう。
あれが許せるか許せないか。あったほうが美味しいか、入っている意味すら分からないのか。
けれど、公式的にそれが認められ、あまつさえもっともっとと要求までされているのものだから、困惑するのだろう。
どうして、と思う。
そして、自分が好きだったジャンルが「どうして」で溢れかえってしまう。
パイナップルの入っていない酢豚が食べたいのに、流行のせいで中華料理店はパイナップル入りばかりを提供しているのだ。
こんな酢豚は要らない!私の思う酢豚はこんなものじゃない!と感じるのである。
私自身、この手の舞台にっついては冒頭に書いたように苦手な部分があるので、チケット代分をしっかり楽しめる気がしないから近寄らないでおこう、くらいのスタンスでいるつもりだ。
2.5次元作品も好きだけれど、他にもオリジナルなり古典なり、全然関係ないアーティストのライブなり、あちこち手を伸ばしているというミーハーな側面があるからだろう。
回鍋肉でも麻婆豆腐でも何かおいしそうなものがあれば、気が向けば食べる。
けれど、私が好きで好きで仕方ない漫画やアニメの作品が、うちわを持って応援するスタイルの舞台になってしまったら。
「楽しいと思うしそういうのがあってもいいと思うよ、私は行かないけど」という立場を貫けるのか。正直わからない。
きっとあの記事を書かれた方は、一足先にその憂き目にあってしまったのだと思う。
とにもかくにも、最近このドルステタイプの作品が多いのは紛れもない事実だ。
少なくとも私が2.5次元作品を観るようになったばかりの頃は、ミュージカルかストレートかといった分類だったように思う。
それを証拠に、ある作品が舞台化するという情報が出たときは「ミュなの?ステなの?」なんて疑問文をよく見かけた。
この新たなジャンルは、確かに舞台作品の範疇ではあるが、独特な応援スタイルが存在しており、それを楽しめる人もいればとんでもなく苦手な人もいる。
2.5次元ミュージカルの先駆けのひとつと言われ、多くの動員数を誇るテニスの王子様だって、初めは観客もぽかんとしていたという。
テニミュに触れたことがあれば、知っている人も多いのではないだろうか。あの最初の曲。You Know?
はじめの台詞を言っとき、お客さんが「???」という反応だった、と演者の方が話していた。
けれど、2.5次元ミュージカルがここまでの台頭を見せていなかった当時、「何で急に歌いだすの」「ミュージカルでやる必要ある?」と感じていたファンは一人もいなかったのだろうか。
決してそうは思わない。思わないが、徐々に受け入れられ、ファンが増え、公演数が増え、途絶えることなく3rdシーズン。
その折り返しをすぎた今、世の中には同じように漫画を原作とするステージが数多生まれ、『2.5次元ミュージカル』という言葉が自然発生的に生まれ、すっかり市民権を得ている。
今この時代、チケットを握りしめて劇場にいった人の中に「何で急に歌いだすの?」「ミュージカルでやる必要ある?」なんて疑問を感じる人はいないと思う。
そうとわかった上で、私はそういう作品が好きで観にきているのだ、という人が殆どだろう。
映画などとは違い、舞台は初日の幕が上がるまでどんなものなのか分からない。
当たり前だが、その通りだ。
先ほどのテニミュ初めての公演のもそうであるし、刀ミュが初めて上演されたときなんかも記憶に新しい。
実質ドルステ。そういうような単語がいくつも踊っていた。分からないのだ、幕が上がるまで。
私が知らないだけで、もしかしたら公式サイトのQ&Aなどで、内容が予想できるようなものがあったのかもしれない。
だが、そこまで下調べをし予想についての情報収集をしていく客の割合は、そう多くはないだろう。
少なくとも「ミュージカル刀剣乱舞」のタイトルとフライヤーだけでドルステだろうなんて、よもや想像がつくまい。
そして、とても現金な話ではあるが、決して安くないチケット代を払い、宿泊先を押さえ、はるばる新幹線に乗って都市部へ足を運んで観る。どうせなら、心から楽しめる演出作品のものを選びたいと思うのが人の心理というものだ。
苦手だなと思う私の立場とは逆に、うちわを作ってペンラを振って推しキャラ・キャストを応援するスタイルが大好きで仕方ない人だっているはずだ。
知人にも数えきれない程いる。舞台には行ったことがなかったけれど、評判を聞いて2.5次元のアイドルを応援しにいった女の子。いつの間にかうちわ制作のプロになっていて、自分の住んでいる県でも上演があるのに、このスタイルの舞台なら!と言って、うちわを持ってあちこち飛び回るようになったお姉さま。
舞台を観たことがない人を、いかに劇場に来させるか。そんなことを、制作側から聞いた。これまた情熱大陸だ。大成功である。そして、すっかり確立された演出方法にもなった。
きっと今、文化の変遷と定着の、まさに過渡期に立っているのである。
だからそろそろ、この新しいスタイルの演劇に名前をつけませんか。
そうとわかった上で、私はそういう作品が好きで観に行くのだ。
これを当たり前にするために。
オペラから派生し、最初は格下だと思われ、あんなもの芸術じゃないなどと言われてきたであろう、そして現代ではすっかり格式と市民権を得たミュージカルのように、いつかこのスタイルの演劇も一つの舞台芸術の形としてウィキペディアに載る日がくるかもしれない。
ふと気になりGoogle Trendsを使って人気度の動向を調べてみると、艦これの人気度が未だに根強く、アズールレーンを上回っていることに気づいた(2018年1月25日現在)
また、人気度の瞬間最大風速が艦これを100とすると、アズールレーンは最大30(因みに戦艦少女の瞬間最大風速は2でした)とイニシャルのユーザー獲得数がそもそも少ないということも推測できる。
勿論、艦これはサービスリリース当初から徐々に人気度が下がっているのだが、半年以内に周期的に人気度が上昇し、少しだけ持ち直す、という現象も起きている。
恐らくだが、コミケ等のイベントや雑誌、アニメーション等のメディアとの連携がある毎に認知度の拡大、及び再認知が発生しているのではないかと思われる。
対して、アズールレーンはリリース当初に最大の人気度(先に挙げた数値30)を獲得したのだが、その後は一転して下がり続けている(ドイツイベの時に少し上がったのだが)
このデータだけみると、半年以内にはゲーム以外の別のメディア展開も含めたプロモーションを打たないとサービスの拡大は正直厳しいのではないだろうか。
小学生、中学生の頃は友人もいたし明るく社交的で皆といることがとても楽しかった。
とにかく人と付き合うことを避けている。
自分はその不良からは目を付けられていなかったけど、でも時たま絡んでくる奴がいて、そういう時、そいつはボディーランゲージとばかりに小突いてきた。
体育の最中なんかいきなり人のハーフパンツをずり下ろしてきたりした。
自分はその頃もやしな体型だったこともあり、ハーフパンツをずりおろされて棒のようななまっちろい足を見られるのが嫌だったし、ましてやそれが女子が見ている前でされた時は最高に屈辱だった。
多感な時期でもあったし、ひどく傷つけられた。
中学までは自分はクラスの中でも中心的な明るい人間だったこともあって、高校でそういう扱いをされたことは非常なる屈辱だった。
人と関わりたくない気持ちになっていったし、避けるようになった。
本来ならば自分は明るい人間で人前で何かをやりたがり、注目されたい人間だったはず。
そいつのことなんてもう何十年も前のことだから諦めているが、でも昔の明るい社交的な性格は取り戻したいと思っている。
そこでクリニックに行ってみようかと思っている。
昔の明るい自分に戻りたい。
体調を引っ張られるので、なるたけ接続は控え、寝たり食ったり散歩したりしてた。【+2kg】
頭の中へ醸し出る関係(妄想?)で私液が薄まり、半ば途絶した状態で動いてたここ2、3ヶ月だった。
そこから何日か経て、この想像上の力関係の中へ自分を私として書き込もうとすると、
その際の想定もあれ何か変動する?ことに気づき、私生活の些事が強固に映りがちになっている。
問題は、それすらあまり手につかないこと これぞ休養 割り切って寝たり食ったり散歩したりする。【+2kg(予定)】
ただ、こうした鈍感か敏感になり果てた状態はやはり情けなく、少しでかなり効く。
スタイリッシュに毒づきたい気もするけど、対象を絞れないので無差別通り魔にしかならないと思う。
現になってるかもだけど。それは知らん。【-1kg】
「最近の若者は~」で始まる若者批判は、いつの時代もなくならないものである。50代くらいのサラリーマンが、居酒屋でビールを飲みながらくだをまく様子がありありと思い浮かぶ。きっと彼らも30年位前に同じようなことを言われていたのだろう。
しかし、批判の対象となっている「若者」の中には、こう思っている人も多いだろう。「この『若者』とは果たして誰のことを言っているのだろうか?」と。
例えば、「最近の若者は根性がない」などという話を、仕事や勉強に頑張っている若者の前で言っても、白い目で見られるだけだろう。または、「最近の若者は向上心がない」と、若い起業家が集まるセミナーで言えるだろうか?
そもそもそういった「若者批判」をする人たちは、どれほど若者と接しているのだろうか。おそらくは自分の身の回りにいる数名だけではないだろうか。その数名がたまたま出来が悪かったり素行が悪かったりした時に「最近の若者は…」という思いが湧くのだろう。非常にくだらない話である。
そういった批判をする人たちが、「最近のおじさんは電車で痴漢ばかりしている。おじさんは皆性犯罪者だ」と言われたり、「最近のおばさんは気に入らないことがあるとすぐクレームを入れる。おばさんはクレーマーだから気をつけた方が良い」と言われたら、どう思うだろうか。「ふざけるな!自分はそんなことしない!一緒にするな!」と憤るのではないだろうか。
当然である。一部の事例を挙げて全体を評価することほど愚かなことはない。少数の非常識な「おじさん」「おばさん」がいるからと言って、全ての中年が悪いはずがないのである。そして、それは若者も同じなのである。
もちろん、批判に当てはまる人もいるだろう。根性のない若者や、向上心のない若者もいる。痴漢をしているおじさんや理不尽なクレームをつけるおばさんもいる。だが、それは必ずしも多数派ではない。多数派であったとしても、全員ではない。
誰かが「最近の若者は~」と批判した時、批判の対象となる人は、「若者」という漠然とした集団ではない。それは批判した人と同じように、個別の名前を持ち、血の通った一人の人間なのである。
そんな基本的なことも忘れて、「最近の若者は~」「これだからおじさんは~」と安易に批判する人は、「想像力が欠如している人」ではないだろうか。
そして、想像力の欠如は容易に差別を生み出す。「最近の若者は~」という批判は、人種差別や性差別と、本質的な違いはないのではなかろうか。
集団を批判することに意味はない。個別の事例については、その当人を論じるべきだ。イスラム教徒がテロを起こしたからと言って、全てのイスラム教徒が悪い訳ではないし、痴漢を犯した男性がいるからと言って、全ての男性が痴漢を犯す訳でもない。同様に、あなたの身の回りにいる若者が出来が悪いからと言って、全ての若者が出来損ないという訳もないのである。
ちなみに、冒頭に例として挙げた「50代くらいのサラリーマンが、居酒屋でビールを飲みながらくだをまく」というのも同じだ。「若者批判をするのはそういう下らないおっさんたちだ!」というただの偏見であり、合理的な意見ではない。もちろん冗談ではあるが、正直そういうイメージが湧かなかったかと言えばウソになる。自分も偏見が捨てきれていないことを反省しなければならないと感じた今日この頃であった。
本多勝一の「中学生からの作文技術」に載っていたけど、手垢の付いた表現や、書いている側が笑っているような文体は、読み手が面白くなくなる原因になるという。
手垢の付いた表現っていうのは、はてなの記事では「ラノベアニメは寒い描写を入れろという暗黙の制約でもあるのかと思うほどテンプレ展開が多い。」の指摘が当てはまっていると思う。
書いている側が笑っているような文体は、恐らくだが「女子のツッコミの過剰な暴力、寒いギャグやノリ」が当てはまっているのでは無いだろうか?つまり、脚本を書いている側が「これ面白いでしょ」というメッセージがあるように感じられるのでは無いだろうか。
もう少し分かりやすい例を挙げると、アンサイクロペディアが気持ち悪いとか面白くないと指摘されているのに通じる気がする。また、「w」を多用している文章を面白くないと感じるのに近いかもしれない。
本多勝一は面白い文章の条件として、「自然さ」とか、ギャグとのギャップとしての「真面目な文体」とか、「手垢の付いていない表現」を挙げていた。元記事で、不自然さを嫌っているのにも共通する気がする。