はてなキーワード: きぬとは
可哀そうに あなたはなぜ そんなにもひもじく飢えているの?
何かと思えば…妾がひもじい?飢えている?
「ええ あなたは飢えている」
いくら食べてもいくら手に入れてもいくら上りつめても満たされない
可哀そうに 哀れだわ 本当は何が欲しかったの? 何を恐れているの?
足りていると感じることさえできたなら 別の未来もあったでしょうに
(中略)
鬼は何者にもなれるが何者でもない
飢えが怖い 退化が怖ろしい
長く生きてさえたまにわからなくなる
殺し続けていた
私の中で 私の命を
三百四二万四千八百六十七 一匹以外は 全員殺して殺し尽くしてきた
もう私はここにいる
もう私はどこにもにいるし どこにでもいれる
だからここにいる
私にはね インテグラ
ひどく哀れな 哀れな弱々しく泣き伏せる童に見える」
「おまえはおれだ!!」
「お ま え は お れ だ !!」
「おれもこの通りの有様だった 俺もこの通りの様だったんだ!!」
「カッ カハ… カハッ… カハ…ッ カハハ…ッ カハッ」
「鬼が泣くなよ 童に追われたか」
鬼が泣くな 泣きたくないから鬼になったのだろう
人は泣いて涙が枯れて果てるから
鬼になり化け物に成り果て 成って果てるのだ
ならば笑え 傲岸に不遜に笑え いつもの様に
哀れなお前はいつまで生きねばならぬ?
なに 直ぐだ 宿敵よ いずれ地獄で
きっと吸血鬼になれば素晴らしいのだろう
だが私はそれはできない それだけはけっして
不死は素晴らしい 能力は眩しい
失 せ ろ !!
俺の心も魂も命も 俺だけのものだ
何と素晴らしい それはきっと素晴らしいのだろう
きっとそれは歓喜に違いない
だが冗談じゃない 真 っ 平 御 免 だ ね
私は私だ
私は私だ
私は私だ!!
うらやましいね
眩しい 美しい
だからこそお前は私の敵だ 敵に値する
遂に私は宿敵を見つけたぞ
私の戦争の
そして我々はそのための準備を営々とはじめた
50年かけて
私は永遠が何かを知っている
「これきりなのね…………」
「いや そうじゃない」
「この瞬間は永遠なんだ」
やろうと思えば刑務所くらい俺も出られる。
ただ俺は今たいした不自由を感じちゃいないんでね。外出する必要もない
さ、戻ろうや所長。バカバカしい…
なんて不自由な男だい
あの虫は我我巨大で頭のいい人間にところかまわず攻撃を仕掛けて 戦いを挑んでくるなあ!
巨大な敵に立ち向かうノミ…これは『勇気』と呼べるだろうかねェ
「勇気」とは「怖さ」を知ることッ!「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!
タイトルと引用だけで9割が伝わる人もいるだろうから、これ以後はもはや蛇足である
冒頭で引用した、鬼の女王レグラヴァリマのとの会話が印象的だった
餓鬼は、三途・五趣(五道)・六趣(六道)の一つ。餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる
鑊身:私利私欲で動物を殺し、少しも悔いなかった者がなる。眼と口がなく、身体は人間の二倍ほども大きい。手足が非常に細く、常に火の中で焼かれている。
誰が地獄を作るか、それはまさに仏教的な意味での「縁起」や「十二因縁」である
人は足るを知らなければならない
人を知る者は智、自ら知る者は明なり
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し
足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り
その所を失わざる者は久し
死して而も亡びざる者は寿し
――老子
逆説的というか、皮肉にもというか
「欲しい」と思い込んでいるものを求め、望み、手に入れれば入れるほどそこから遠くなっていく
詳しい解説は松本俊彦の著書でも引用すれば良いが、そうなのである
そも、依存を引き起こすのは何か、何を求めてそれだけの執着になるか
冒頭で引用したセリフにあるように、「何を求めているのか」が掏り替わっているのだ
掏り替わり続け、世界と擦れ違い続けた結果、その主体者の主観的世界は地獄に生まれ変わる
潔癖症の人間が、自らの認識作用を総動員してその主観的世界を汚物で席巻するように
それは、人間というシステムが原理的に持ち得てしまうある種のエラーである
その救いとして、この世界では「自分の意思」というものを一つの解答とすることが多い
恐怖や不安を直視し、良いものも悪い物も等しく自分の中に置き、「曇りなき眼」で見続ける
倒すことはできない、消すこともできない、「ただそこに在るだけ」をそのままにしておくこと
ACTは従来型のCBTと異なり、クライアントに自分自身の思考や感情、感覚、記憶など私的出来事のよりよいコントロール方法を教えるということはしない。むしろ、ACTでクライアントに教示されるのは、「ただ気づいていること」、受容すること、私的出来事を思ったままにすることである。特に、自らにとって望ましくない事柄についてそうすることが求められる。
最後に、くり返しになってしまうがまとめておこう。他者はいつでも私にとっては「理解できぬ不気味な存在」でありえる。その不気味さが同じチームのなかで突然浮かび上がることがあるし、理解という手法でそれを解決することはできない。むしろ、その「理解できなさ」こそが、一種の救いなのだ。他人の心に踏み込んでいったり、他人と自分を同じ存在だと思ってしまったりすると、正常な距離は失われることになってしまう。
だから、互いに「理解できない不気味な他者」として関わり、そしてそれゆえに「共にいる」こと。わたしたちはそうした関係に満足しているべきだし、そうした関係にこそ価値がある。
――ティッシュ専用ゴミ箱2 「女児向けアニメで描かれる「他者の理解できなさ」について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか。-『プリティーリズム』『プリパラ』を一例にして」
黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか?
森を侵した人間が、我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ!人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ!お前にサンを救えるか!?
分からぬ……だが共に生きることはできる!
フハハハ!どうやって生きるのだ?サンと共に人間と戦うと言うのか?
違う!それでは憎しみを増やすだけだ!
ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものにしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだった。
ところでネット上のレビューを読むと、このあとがきは賛否両論のようだ。
「めちゃくちゃ面白い!」
「これだけでも一読の価値がある」
という人もあれば、はっきりと嫌悪する人もある。特にアマゾンの、
「あとがきで、女性の半生記を長々と読ませられるのはベリベリ白けてしまった。「中国の行動原理」は読みたいが、著者の行動原理は不要である。」
「著者のファミリーのヒストリーがあとがきで書かれているが、少なくともこの本のあとがきとしては不要でしょう。」
このての感想はなんつうか、物事の本質が分かってねえ貧しい輩だなと思う。
"本編は面白いけどあとがきは不要"って……。いやいや逆でしょ。
こういうあとがきを書くような(或いは書かずにいられないような)人だから、こういう面白い本編が書けるんだよ!
本は情報を吸収する道具、著者は情報を提供してくれる装置、では断じてないのだ。
真に面白い本というのは、どうしても書かずにはいられない、あるいはそのようにしか書けない、やむにやまれぬのっぴきならない著者だけの特殊な事情がある。
何かについて語るということは、それを語る自分が何者であるかを包み隠さず開陳すること同義。
その一糸まとわぬ脱ぎっぷりのよさに、余人に真似できぬ面白さが宿るのだ。
そうせずに小手先のマーケティングで書いたものなんて、いくら有益で新奇な情報を扱っていても面白さには程遠い。
これはなにも小説や脚本の話だけでなく、学者の書くものだって同じことだ。
「私的な世界と公的な世界とは、きわめて複雑なかたちで混ざりあっている」
「いっぽうには、わたし自身の歴史があり、わたしの経験からひきだされたわたしの価値観や、わたしの書いたものや、わたしの立場がある。そしていまいっぽうには、こうしたことがらを吸収する社会的な世界があり、そこでは戦争や自由や公正について人びとが議論したり決断をくだしている。私的な知識人というものが存在しないのは、あなたが言葉を書きつけ、それを公表するまさにその瞬間、あなたは公的な世界にはいりこんだことになるからだ」
「つねに個人的な曲解があり、私的な感性が存在する。そして、個人的な曲解なり感性が、いま語られつつあることや、書かれつつあることに、意味をあたえるのである」
「ジャン=ポール・サルトルやバーランド・ラッセルの書いたものを読むとき強く迫ってくるのは、その論じかたではなく、彼ら特有の個人的な声であり、その存在感であるが、これは、彼らが自分の信ずるところを臆せず語っているからである。彼らが、顔のない役人やことなかれ主義の官僚によもやまちがわれることはあるまい」
そう、だから、パンツ脱がずに小手先の情報だけで書こうとすると、必然的に無難な一般論や官僚答弁に行きつく。誰が書いても同じなんだから。
そうすると書き手の洞察は深いところまで届かず、したがって読者に感動なり知的興奮なりを与えるような面白い本にはなり得ない。
話を益尾氏の本に戻すと、
なぜ"東京対北京"に収斂できない「女性の半生記を長々と」書くのか。
本編を読んでもその意味と必要性が本当に分からない読者がいるとしたら、そいつはもう馬鹿としか言いようがない。
ちょっと熱くなってしまったが、走り書きなので言葉遣いが汚いのは許してほしい。
そもそも自分は「学者の書くあとがき」が好きなのだ。半分タレント化した人は別として。
学者の場合、小説家などの他の文筆業と違ってどうしても本編の制約が大きい。
たとえ一般向けであれ「学者の顔」で書く以上は、事実関係や客観性を重んじるのは勿論、表題に掲げたテーマに何らかの結論を出すことが求められるから。
それだけに、あとがきでは「学者の顔」に収まりきらない著者の顔がにじみでているのが、本編と相まってすごく味わい深く思えるのだ。
その意味で益尾氏のこのあとがきは、「学者のあとがき」として大変面白かった。
自分が今まで読んだ中では、安丸良夫『近代天皇像の形成』のあとがきを彷彿とさせる面白さ(この意味が知りたい人は読んでもらえれば分かる)。
真面目に考えると無論、
「コレクタブルカードでゲームをする(しかも同一カードを複数枚使ってもよい)」
が最大の発明なのは一切疑問の余地はないのだが、それはそれとして、元増田が挙げている物がどの程度「発明」だったかネチネチかつダラダラかつ主観的に検討してみる
無論、発明ではない。遅くとも、表記スペースが極めて限られているボードSLG時代には極めて標準的な考え方だった。
おそらく本当のイノベーションとは、
「イタリックで説明文を追加すれば無闇矢鱈に新しいキーワード能力を追加してもよい」
という決断が下された瞬間である((MAROがどっかで書いてた気がする))。
無論、発明ではない。ただし、
がデッキ構築という概念と密接に絡んだイノベーションな可能性は否定できぬ。
無論、発明ではない。カードゲーム(日本語で言うところのトランプ)を遊べば、そんな物が設定されている物はすぐに見つかるだろう。
ただし、(Raise Deadでなく)Animate Deadは明らかに異常な発想である。
無論、発明ではない。ユニットが青色だろうが灰色だろうが歩兵は3-3で戦車は5-5である(ダニガンは偉大だ)。
無論、発明ではない。ユニットが青色だろうが灰色だろうが歩兵は3-3で戦車は5-5である(ダニガンは偉大だ)。
それより『Bobby Lee』(所謂「積み木の南北戦争」。第一作は1972年出版の『Quebec 1759』)みたいなのをTom Dalgliesh(Colombia Games創業者)がどうやって思いついたのか知りたい。
あれって「アイデアというのは複数の問題をいっぺんに解決すること」そのもので、明らかに頭おかしい。
無論、発明ではない。ただし、山札から他のゾーンにカードを移動させる手段が多彩なので、発明に見える可能性は否定しない。
「勝利条件が設定されている」と「勝利条件を狙って行動できる」の間の断絶は本来は極めて大きい。
そういえば、バクスターか何かだと思うのだが、サイドボードがない時代の大会で、デッキ二つ用意して、対戦相手によって使い分ける話が載ってなかったっけ?
Duelistに1回載ってた謎のポイント制デッキのルール、サイドボード10枚毎にポイントが設定されてた(上限30枚)の、面白かったよね。
「コレクタブルカードでゲームをする(しかも同一カードを複数枚使ってもよい)」
普通のカードの代わりに平然と基本地形が混ざってるリバイスド以前のパックでドラフトしてた人達って頭湧いてたと思わない?
と書き換えると何か直接の先祖があった気がするが思い出せなくてモヤモヤするよね?
タイプ1とタイプ2を分離するのは確かに画期的だったが、本当の決断は
「Ice Ageを出すときにカード背面のデザインを変えなかった」
ことではないだろうか。
もともと、Ante関係のカードの存在故に、まともなトーナメントルールを作るならば「禁止カード」の設定が必然だった、という偶然から発生した話ではある。
それがなかった場合に「特定のカードはデッキに入れてよい枚数をコントロールする」という発想が出たかは謎ではある((いやそれなら最初に「同一カード4枚制限」を思いついたのが一番の発明だろう))。
社会広範不特定多数を巻き込んだ時点でそれは常にあった。SNSで可視化されただけだ。
反対している人たちの考えがなにかっていうと、それだね。
考えがあるというか、不可避的に発生するミサイルの打ち合いの一部だ。
それを「やめたほうがいいと思う」で止まらずに、そうである現状をどう生きぬくか、で考えていくのが重要なんじゃあないかな~。
ひろゆきの着地点もそこだったわ。フェミニズムって呼び方を一回捨てたほうがいいのでは、という。その是非はやっぱりおいておかないといけないけど。
ネットとリアルの双方で男性が抱く女性への価値観を彼なりに分かりやすく分析していたし、
(確かに彼の発言にウーンとなる部分も確かにあるけど、あの記事ってそもそもそれを目に見える形にするコンセプトじゃない?)
あの記事は男性サイドから見たフェミニズムのイメージを上手く纏めていたのではないかと思う
私はフェミニズムを学んでジェンダーギャップのない世の中になって欲しいと願ってやまないけど、
それに至るには様々な人との対話はやっぱり必要だと思っていて、
今回の対談についている
「この記事は毒」「セクシストと対話なんて無意味だし無価値」という記事のコンセプトそのものに批判している人達の具体的な意見が全く見えてこないんだよね
私の勉強不足なのだと思っていろいろと模索しているけど、やっぱり分からない
差別主義者の意見、彼等から見たフェミニストの(フェミニストでもそうだなと思うような)まっとうな批判は一度受け止めるべきではないだろうか?
専業主婦への価値観に対する批判はバンバン見かけたけど「過激なフェミニストのこういうところがよくないよね」という意見に対する反論は見当たらなくて、
告発型社会運動なんて言われているけど、この形式はインパクトはあっても解決に至るまでのスタミナに欠けるというか、現実味を帯びていないなぁと思う
言ったら言いっぱなし、言ったもん勝ちみたいなミサイルの打ち合いはもうやめたほうがいいと思う
それを「やめたほうがいいと思う」で止まらずに、そうである現状をどう生きぬくか、で考えていくのが重要なんじゃあないかな~。
ひろゆきの着地点もそこだったわ。フェミニズムって呼び方を一回捨てたほうがいいのでは、という。その是非はやっぱりおいておかないといけないけど。
これはなるほどなと思った。
職場……それは賃金と引き換えに魂を削り売り渡す場所……飲み会……それは金も出ねぇのに酒の入ったおっさんたちのパワハラに耐え、吐くまで飲まされ、それでいて翌日礼まで言わねばならない苦行……。
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そうやって嘆いていたアタシを救ってくれた白馬の王子さま、ていうかホワイト企業!他人の悪口を聞かなくていいし、同調しなくていい飲み会、たのちぃ……。そもそも(本当の意味での)自由参加だし……。
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土日に同僚と遊ぶとか、それなんて罰ゲーム?と思っていたわたくしですが、今は仲のいい同僚と休日にキャンプやバーベキューをする関係に。これまでの人生で理由なく陽キャを避けていたけど、別にいい人たちなんですね??
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よく遊ぶグループのひとり、Aさんはコミュ力の高い女性。聞き上手で相手の話を聞き出して盛り上げるのが上手い。ちょっと面倒な相手の厄介な発言に対しても、雰囲気を悪くするすることなく指摘ができる。当然、社の老若男女、とくにおっさんからは信頼されている。
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そんなAさんがナンパされているところを見た。
詳細は省くが、職場のメンバーで休日待ち合わせをしていた。自分が待ち合わせ場所についた時、Aさんがひとりでソファに座ってスマホをいじっていた。他の人が来るまでのほんの数分間とはいえ、女子とふたりきりで会話など拙者にはできぬ……けどそっちが気づいて話しかけてくるならやぶさかでもありませんぞwww?という非モテの呼吸・壱の型 “近くにいるけど知らんぷり”を繰り出して彼女の死角に腰かけた。スマホを見るふりをして、彼女の様子を伺うキモオタ仕草。すると彼女のとなりにひとりの男が座った。自然すぎて会社の人かと思った。
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男は「お姉さん、待ち合わせですか〜」みたいなことを言っていたと思う。Aさんは愛想の良いタイプだから、困りながらも応対するだろう。え、俺が割り込むべき?相手の男がタイプだったら、俺こそ邪魔者?と非モテの呼吸・弐の型 “傍観”を使ってアワアワ様子を見ていたが、Aさんはスマホから顔を上げなかった。聴こえてないのか?と思ったが、イヤホンをしている様子もなかった。
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男が何を言ってもガン無視だった。焦れた男がスマホの画面を手で遮った時、やっとAさんが口を開いた。「は?何ですか?」冷たくて低い声だった。
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男は「聴こえてんじゃねーか」とかモゴモゴ言って去っていったが、俺は妙な動悸が止まらなかった。ナンパは迷惑かもしれないが、Aさんがそういった態度をとるのは意外だったし、男が逆上する可能性だってある。怖くなかったのだろうか(俺は怖かった)
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その後、駅で迷ってる同僚を迎えに行って、自然にAさんと合流した。いつも通りの朗らかな彼女だった。でもなぜかナンパを黙って見ていたことを知られているような気がした。Aさんは何も言わないし、そんなそぶりも見せないのだが。
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いつもニコニコして、愛想が良くて、優しい彼女が迷惑な他人にはあんなに冷淡な態度をとる。そのことがすごく強烈だった。自分に親切にしてくれるのも、当たり前だが同僚だからなのだろう。それに気づいて以来、彼女を見るとドキドキしてしまう。これがほんのりとした恐怖なのか、憧れなのか、恋愛なのかはまだわからない。
よかろう、本コメント補足委員長に立候補いたすwww 無事当選、九頭龍閃wwww コポォwwwwwwwww
まず、増田氏は「ロマンポルノ」という単語を使っておるが、それだと「日活ロマンポルノ」だけを指してしまう気がすなるwww
この定義なら、大手以外の映画製作会社によって作られたポルノ映画全体のことを言えるのでまほろ駅前多田便利軒www
はい、ここで増田のシナプスに注目ゥwww 彼のシナプスは「大手映画」という単語をキャッチしたことにより分子レベルで疑問が浮かんだでござるな?www な?www なあなあ?wwwwwww
ピンク映画が流行る前の1960年頃、日本の映画製作は大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が牛耳っており、五社協定というものが結ばれていた。
ドプフォwww つい五社協定なんていうマニアックな単語が出てしまったwww 五社協定というのは、専属監督・俳優らに関する協定のことでござるなwww 他社所属の監督・俳優の引きぬきや貸出は禁止ですというモノwww ま、これぐらいのボキャブラリィ存じ上げておったかwww スマヌスマヌwww
なんでそんな協定ができたかwww 当時は多大な需要を満たすために、スター俳優を中心としたシステムを作り上げて大量の本数を作っていたのじゃwww
そうなると、客を呼べるスターを引き抜いちゃえばいいじゃんと泥沼の戦いになってしまうとwww
ところが、1960年代後半になると、日本における製作本数のうち半分近くがピンク映画になった。(ピンク映画自体の製作本数も桁違いに増えた)
正解はテレビでしたーwwwwwwwwwwww ブフォオッwwwwwwwwww
テレビの浸透によって映画館への客足は鈍り大手五社の製作本数も激減www 五社協定(新東宝が倒産し、日活が加入)は1971年をもって消滅www
つまりですなあwww 映画文化自体は残りつつも、製作は予算の安いピンク映画に流れたというわけでござるwww
だから、増田の言った「昔にはよくある光景」っていうのは正解かもしれないwww
正直、拙者は資料でしかわからないけどwww フォヌカポゥwwwwwwwwwwwwwwww
ちなみに、ピンク映画は「低予算かつ女の裸が映っていれば何でもいい」という思想があるwww そのため、敷居が低いことから作家性が強い作品も多いwww
浜野佐知のように一般映画では稀有だった女性監督ですら存在したwww
最近の若者も知ってそうな人だったら、「愛のむきだし」の園子温や「カツベン」の周防正行などなどwww
そんな感じで由緒あるピンク映画界隈だけれども、最近は廃れつつあるらしい。
ちょっとググってみたのですが、かつて200本以上の製作本数を誇ったピンク映画ですが、2010年には50本近くになってしまったとか。
どことなく漂う昭和の残り香は消えゆく文化の残滓。跡をたどって、DVDなどで新しい世界を覗いてみるのもオツなものかもしれません。(「成人映画館」自体はかなり敷居が高い印象・・・)
父は後期前期高齢者なりたて。
自分で買いに行けって話だけど、
一昨日具合悪くして夜間救急まで行っちゃって、
家の中ですら真っすぐに歩けないので、外出したら道端で倒れるレベル。
救急車呼ばれたらまじ困る。
ハンター連載再開したらジャンプ買ってやるんだと希望を持ち続けて、はや一年。
仕方がないから父にポイントカードと電子マネー託して、買ってきてくださいってお願いしたわ。
うまくいくだろうか。母なら心配ないんだけど。
30オーバーの娘に60オーバーの父がコンビニでジャンプ買う。
嫌がらずに引き受けてくれた。
ありがたいったらありがたい。
間違えずに週刊少年ジャンプ買ってきてくれた。父有能。
ハイキュー滾り過ぎんだろ
コミックス派の知り合いにも今回の話だけは読ませたい
「理解の出来ない他者」としての親、そして「愛情」という名の甘やかな「支配」について
他者論という観点から見れば、「誰にも否定されない絶対的な真理」を作り出すことは不可能である。一方で「他者」は、単に真理への到達を妨害する忌むべき存在というわけではなく、「私」を自己完結の孤独から救い出す、「無限の可能性」でもある。いかなる哲学、科学、数学を作り出しても、必ずその外部から「違う」と叫び叩き潰してくる、理解不能で残酷な「他者」が現れる。「他者」が現れるからこそ、自己は自己完 結して停滞することなく、無限に問いかけ続けることができる。
レヴィナスによると、「他者」は「理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである」とされ、「所有を、私のさまざまな権能を拒む」とされている。すなわち「他者」は、「私」(自己)の内面を切り崩し、空にし、「私」として安住することを辞めさせ、「私」を超えたものを求めざるを得なくさせる。
最後に、くり返しになってしまうがまとめておこう。他者はいつでも私にとっては「理解できぬ不気味な存在」でありえる。その不気味さが同じチームのなかで突然浮かび上がることがあるし、理解という手法でそれを解決することはできない。むしろ、その「理解できなさ」こそが、一種の救いなのだ。他人の心に踏み込んでいったり、他人と自分を同じ存在だと思ってしまったりすると、正常な距離は失われることになってしまう。
だから、互いに「理解できない不気味な他者」として関わり、そしてそれゆえに「共にいる」こと。わたしたちはそうした関係に満足しているべきだし、そうした関係にこそ価値がある。
――ティッシュ専用ゴミ箱2 「女児向けアニメで描かれる「他者の理解できなさ」について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか。-『プリティーリズム』『プリパラ』を一例にして」
友田は、折々に「ブライアン氏」が「真空」、すなわち、独りの状態になる必要があると言及していることに着目しました。対するセラピストは、その度に、中立または否定的に、これに応じています。セラピストは理論上は、非指示的であり続けましたが、一般の西欧のセラピストと同様、孤独な状態もしくは真空の状態の治療効果について非常に熱心だったわけではないようです。
友田の見解では、「人間というものの真の飛躍もしくは成長は、完全に一人ぼっちであるときに生起する。個人の飛躍もしくは成長を確かなものにするのは、何らかの人間関係においてか、もしくは現実の世の中においてである。がしかし、真の成長がおこるのは、現実の人間関係においてでもなければ現実の世の中においてでもない」
友田はさらに、「このことはまた、禅の真理である。(中略)カウンセリングに関して言えば、ロジャーズ派の技術の真義は、それらの技術がクライエントを援けて完全に一人ぼっちである状態になるようにすることである。」と続けます。
―中略―
母性的尽力的配慮は相手を甘やかしたり、子ども扱いするものですし、父性的訓育的配慮は相手を支配したり、奴隷化するものでしかないわけです。第三自我形成期(第三反抗期)を超えてレベルⅢの人格に到達することは、本人にとっても周りの人々にとっても、大変難しい困難なことでもあります。
理不尽な強制としてこの世に生を受けた幼子は、若者となり、己の意志でもう一度生誕を決意する。
自分が何者であるかを胸に刻み、望んでこの世界に生まれた二度目の赤子として自分自身の人生を歩み出すのだ。それは神聖なる契約であり、人はそうして連なってきた。それが人をいままで繋いできた。
にゃん太はそれを守るためならば、我が身を灰にしても構わないと思った。ロンダークがそれを知ってくれるのならば、どんなことでもしてやりたいと思った。
世界、つまり親による絶対的かつ暴力的な侮辱によって、人は育っていく
愛情という名の「自己犠牲」、それと表裏一体の過干渉という、そのさらに裏にある「自己憐憫・自己満足」は人を根腐れさせる
あなたと私は違う
だから、あなたは世界からの期待に応えなくても良いし、応えても善い
あなたの両の目が見て、耳で聞いて、触れ、脳内で像を結んだものだけが「世界」に過ぎない
それ故に、あなたが何と対峙するかすらもあなた自身の問題である
@Gesu_Masuda
私も今7週目で鬱です。
6週目までは余裕だったんですが、今週に入ってからつわりの症状が出ています。ずーっと胃が重くて、飲み過ぎた次の日の状態が続く感じ。加えて、出血もあって心労がひどいです。
仕事にはもちろん支障が出ています。書類の締め切り間近なのに、ゆっくりのんびりしています。妊娠初期なので、職場にも伝えにくいですし(切迫流産が起こりやすい時期です)、自分のペースですることにしています。
私生活はとっ散らかっています。洗面台は汚れているし、料理も作りたくない。お弁当作るのもやめて、よい景色の見えるカフェで昼食をとっています。食事を摂らずにジュースで済ませたりもします。家に帰ってからは、洗濯するので手いっぱい。
普段よりよく寝て、ゆっくり働くことを自分に許して、なんとか生きています。
妊娠もつわりも知らなかった頃は、妊娠初期になるべく避けた方がいいことや、ダメなこともしてしまいました。
だけどもう気にしないことにしました。
最も重要なことは、自分自身が健康で生きていることです。赤ちゃんも大事だけれども、今ここにいる妊婦さんが一番大事です。
憂鬱で、体が動かない時も多々あります。私には守ってくれる夫も親も近くにいませんのでまだ気楽ですが、元増田さんはまだ周囲に気を遣って暮らしている段階なのでしょう。そんなものはどうでもいいので、逃げ出したっていいので、とにかく元増田さんが生きやすい環境で過ごしてください。ワガママになってもいいんです。とにかく、毎日辛いですが、生きぬきましょう。
辛かったらここに何でも書いてください。
許して泣きぬれてそして愛されて
就活は難航したが、運よく一部上場企業のの人事とか総務とか経理とかやってるようなところに滑り込むことが出来た。
晴れて働き始めて4か月ちょっと経つことになる。
ただ、なんというか、会社とか社会に絶望しちゃってる私がいて辛い。
だから変わった形とはいえ社会人と話す機会が他の女子大生よりはあった、と思う。
長年働きぬいた落ち着いたお爺さんは嫌味なく昔どれだけ一生懸命働いていたかを教えてくれた。
電車でよく見るような普通のサラリーマンも、キャストそっちのけで仕事について
熱く語ることがあった。
就活が始まってからも、説明会では社員の人は「やりがい」とか「充実したことぉ」をよく語ってくれた。
働くことはきっと大変に違いない。
でも、同じくらいやりがいがあって、頭と心をフル回転させて、夢や目標を持ってやっていけるものなんだ!と私は思っていた。
内定をもらった時は、
「この会社で全力で頑張ろう!」と誓い、大学の卒業式後から入社式の間までは、
社会人のマナー、社会人の心がけ、新入社員の鉄則…そんな本やネット記事をたくさん読んで、大変だけど頑張るんだ!と張り切った。
そして働き始めてからは、
「今私に出来ることは何か、プラスアルファで出来ることはないか」を常に考えながら仕事に取組み、
出張の時は交通ルートはもちろん、コンビニやトイレ、美味しいお店のリサーチも欠かさない…
まあとにかくとにかく全力だった。
そして自分から仕事を見つけ、上司に頼まれる前にやっておいて、頼まれたときに「実はもうやっておいたんです」と言って上司が喜びながら驚いているのを見るとすごい達成感だった。
とにかく暇なのである。
しかも他部署がめちゃくちゃ頑張って残業してそれで稼いできた利益の上にあぐらをかいて、私の部署は暇なのである。
最初はエクセルで文系のくせしてマクロを組んで便利な表を作ってみたり
でも。
左では上司が「暇だなー」「帰りてえなー」と言いながらネットサーフィンをしている。
前では一回り上だけどめっちゃ美人な人がだるそうにネットサーフィンをしている。
こう書くと、重苦しい雰囲気の中皆が無言でパソコンいじってるようなイメージを抱いてしまうかもしれないけど、みんなすごいいい人だ。部の皆でケラケラ笑いながら雑談したり、飲み会も全然嫌じゃない、むしろ楽しみ。
めっちゃ話しかけてきてくれるし、話していると楽しいし、人間関係は本当に恵まれたとおもってる。
でも、働く、ってこんなことだったの?って。
やりがいなんかなくて、ただどうやって暇をつぶすか。
定時になるのをひたすら待つだけ。
このままだと、私はタイピングとファイリング、ちょっとだけのエクセル入力しかできないまま25歳くらいにまでなっちゃうんじゃないかって。
転職サイトを見ても、いいなって思った会社は「前の会社で○○の経験があること」っていう条件付きがおおい。
一般事務みたいなことしか経験がなくて、しかも初めての社会人経験がぬるま湯な職場の私は大丈夫なのか、ってたまに穴におっこったような気分になる。
でもずっとここにいたら、本当にただネットサーフィンして給料もらってるだけの、本当に馬鹿の置物になる。頭も心も使いたい。
それとも私が夢見すぎてただけか?
「やりがい」とか「仕事が楽しい」なんて一部の経営者とか運よく素敵な会社とか仕事を見つけられた人だけが感じる特権で、皆内心「帰りたいな」って思いながら働いてるものなのか?
説明会でニコニコ話していた人たちは、内心「そんなことねーよ」って思いながら話してたのか?
業務中はしっかり頭使って、関わる人すべてに貢献して…
そんなこと考えていたんだけど、それは社会を知らない子供の夢見がちな妄想だったのか…
それとも偶然この会社がぬるすぎるだけ?
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追記:
まずびっくりした。
ここまで反応を頂けるとは思わなかった
口開けて餌が来るのを待ってるそのスタンスをやめろっていう意見
すごい心に響いた
確かに最近は心の中で愚痴ってばかりで、自分から何か能動的に行動しようと思ってなかったから、またなんとかその心を取り戻せるように頑張るよ
大学時代、英語を専攻しててTOEIC800点越してたんだけど
会社で全然使わなくて今となってはポンコツだからまた勉強してみようと思う
コメント見ながら「自分が身につけるスキルはなんだろう」って考えてたら案外英語好きだったこと思い出した、ありがとう
やっぱり会社に期待しすぎてたんだね
社会人になれば全部劇的にかわる、って思い込んでたんだと思う
シーズンって単語には味付けって意味もあることを今日知りました。
暑いわね。
おはようございますに次いで多いって話しよ。
でもたまには休日にはそんな時間の使い方というか味漬けもいいかなと思いつつ。
いい加減にしないと
今日はしっかりお部屋を片付けて
遊びに行く準備をしてどこかに遊びに行きたい気分よ。
うかうかしてる場合じゃないわ。
貴重な夏が終わってしまうし、
本腰を入れて過ごさないとね。
お出かけしてくるわ。
近所のマーケットに行ってくるのよ。
お買いものして帰ってきてお片付けして、
気が向いたら残暑見舞いも書くわ。
なんかこの残暑見舞いの書く感じが
年末のお年賀を書く時みたいに迫り来てプレッシャーを掛けているところが
なんとも言えないところね。
いつになったら搭載されるのか分からない休日のこういう増田を書くときは不便ならないけど、
背に腹は変えられない腹が減っては戦はできぬ感漂わせつつ、
よく分からないけど、
まあそんなところよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
明日の健康診断に向け、便を2日分採取せよ、との通達が届いた。
いつ催しても良いように検便キットを鞄に忍ばせ職場へと向かうが、待てども待てども門番は固く閉ざしている。便通が良くなると信じ大して好きでもない緑黄色野菜を食べる。数日前は門番に賄賂を渡しながらなんとか駅間隔8分のdeathトレインを凌ぎきったのだ、検便はすぐに終わるはずだ。
なのに、なのに、ヤツはぱたりと気配を消してしまった。
こうなっては2日分どころか一度も採取できぬまま当日を迎えることになってしまう。検便キットを手に職場のトイレに篭城を決め込む。出ろ、出ろ、と念じる。となりの個室に人が入っては出る音を聞きながら待ち、5回転ほどが過ぎても何もない。暇つぶしに持ち込んだスマホには上司から「どこにいる?」という旨の連絡が届いている。まさか検便中だとも言えず、無視を決めこみ、尻に意識を集中させる。祈りが通じたのか、そのうちひとつだけ、コロリ、と落ちた。
トイレットペーパーを尻にはさみ、慌てて立ち上がって便器を覗き込んだ。ウヰスキーグラスに収まりそうな美しくなめらかで丸いヤツがいた。検便キットの取手をとり、そっと表面をなぞり、ミッションコンプリート… のはずだったが、コロリとしたヤツは鋼のように硬く、なぞるどころか検便キットの先を差し込むことすらできない。焦っているうちにヤツは無残にもコロコロ、とトレールペーパーの隙間をすり抜け、海溝に飲み込まれていった。
私にはもう、なにも回収できなかった空の検便キットと、力みすぎてイボ痔になりかけている尻しか残っていない。