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2020-07-19

anond:20200719184717

誕生日おめでとう。

隙自語すまんやが、俺には3.11誕生日の友人も1.17誕生日の友人もいて、発生時間前後になるとお通夜ムードになるからと思って俺はその二人だけは日付変わった瞬間にお祝いのLINE送ってる。

そいつらもそういう雰囲気を考えて、毎年日付変更と同時にツイートしてるし増田来年はそうしてみたらどうだ?

すぐ「ご冥福をお祈りします」ってよく言えるね。

最近だと三浦春馬さん、少し前だと志村けんさんや岡江久美子さんがニュースで突然の訃報が報じられましたが、

そのニュースに対してツイッターなどで「ご冥福をお祈りします」と締めくくる方を多く見受けられます

でもご冥福を祈るって、その人の死をちゃんと受け止められないと自分にはちょっと出来ませんし、

近親や友人知人の死でしたら、通夜お葬式が終わるころでないと、ちょっと言えないし思えません。

でもツイッター訃報第一報に対して「とても残念です、ご冥福をお祈りします。」

というメッセージを見ると、とてもあっさり受け入れてしまっているように見え、

ファンとか一緒に仕事をした間柄の人であっても、とっても冷たい人に見えてしまます

実際その人は冷たいとかではなくとても前向きな人なのなら、

人の死をスッと受け入れて、さ、次々!と思う人なのかもしれません。

それはその人の個性かもしれませんが、

もし訃報に対しては杓子定規的に「ご冥福を…」と言うもんだと思っているのであれば、

それはやめた方がいいと思います

とても心無い人に見えてしまます

三浦春馬さんの訃報で起こった心境の変化

私はツイ廃ツイッター廃人だ。

日中、暇があればスマホを握り、ツイッターを眺め、くだらないことを呟き、フォロワーと会話したり互いにいいねを付け合い馴れ合っている。

絵師でもない、

インフルエンサーでもない、

ただのひっそりとした非公開の愚痴垢だ。

そんな私は昨日の三浦春馬さんの訃報Twitterタイムライン上で知った。

別段三浦春馬さんにこれと言った思い入れはない。

演技の上手い美しい人で、

時折バラエティなどに出るとその真面目さや繊細さが目立つ素敵な人だと認識していたくらいで、

彼が出演している作品をチェックしたり映画舞台に足を運んだ事もない。

しかしたら出演していたドラマちゃんと見た事すらないかもしれない。

私にとって彼はそれくらいの人だ。

だが、それくらいの人のはずなのに、私はいま彼の死にものすごくショックを受けている。

今まで自分は軽くサイコパスなのではと思っていた。

三月の暮れ、志村けんさんが亡くなったときも「あぁ残念だな」と思った程度で、

志村けん訃報を聞いて泣いている」

「悲しくて仕事が/家事が手につかない」と言っている一般人の呟きやインスタのポスト理解できなかった。

もともと身内の通夜葬式でもお経の最中うたた寝をしてしまうくらいの人間なので、

私は今後芸能人訃報を聞いても対岸の火事という感じで心が揺さぶられることなどないのだろうと達観していた。

そんな私がなぜか今ものすごいショックを受けて、ツイッターで一切くだらないことが言えなくなっている。

なぜだろう。

昨日の音楽の日城田優さんの歌唱ももらい泣きしてしまった。

もちろん城田優さんのファンでもない。

Twitterを開く気になれずなんとなく5chの芸スポスレを見てみると、

志村けん訃報を聞いたときの私のように

ファンでもないのになんでそんなに悲しんでるの?」という書き込み散見していた。

今もモヤモヤは晴れず、なぜだかずっと落ち込んでいる。

有名人自殺の後には後追い自殺が増えるというけれど、

後追いなんかではなく、

ただ何の思い入れも接点もない私がここまで落ち込み引きずるんだから

これがトリガーになり向こう側へ自分もという気持ちになる人が出てくるのはわかる。

何の責任とか誰のせいとか、原因なんて本人にしかからない。

しかしたら本人もわかっていないかもしれない。

私が今理由がわからないまま落ち込んでいるように、

誰にも本当の事なんてわからない。

綺麗事を並べても、汚い事実を探し出しても、もう真実なんてわからないのだ。

いろいろな意味で、出来るだけ多くの人が早く日常を取り戻せますように。

私はこのままTwitterをやめてしまうかもしれないけど。

ある日の通夜のこと

引越しの準備をしていたら、昔のことを思い出したので、日記の代わりに書き残す。

その日は親族のみの通夜で、神式だった。

参列者も斎主も既に揃い控え室にいて、雰囲気は穏やかだった。

一つあったことといえば、斎主レイジ(位牌)に書く日付を間違えてしまい、今書き直していることくらいだ。

スタッフ葬儀担当者、司会の先輩、案内の私の3人。

そこは火葬場に複数併設された式場のひとつだった。

忙しそうな他の式場の様子を眺めていると、控え室にいた喪主が降りてきて「祭壇を見てもいいですか?」と言った。

神式の祭壇は、仏式とは雰囲気が違う。壇の上には鯛、生卵、生米、野菜乾物などのお供えが並び、白い陶器で出来たさまざまな神具。周りには花はなく榊が飾られている。

一頻り祭壇を眺めていた喪主が「あの中央の鏡はなんですか?」と聞く。

「あの鏡は御本尊のようなもので、一番大切な神具ですよ」

へー…この鏡が、喪主が祭壇と棺の狭い隙間に入った。

その瞬間。

ゴオッと音がし、「危ない!」と先輩の声がしたと同時に、物が壊れ割れる音が響き渡った。

顔を上げると喪主が倒れてきた祭壇と棺の間で潰れかかっていた。

慌てて駆け寄り祭壇を全員で押し戻す。神具と卵が割れ、供物や米や榊の葉があたり一面に散乱していた。

蒼白して辺りを見回すと喪主が「これ…」となにかを差し出してきた。鏡だ。

「思わず受け止めてました…一番大事なんですよね?」と言った。

開式20分前だった。


原因は、式場裏の搬入口を花屋が開けたことによる風圧だった。最悪だが、ままあることらしい。

喪主謝罪し控え室に戻ってもらった。

私はもう頭がパンクして事務所に送るメールのことを考えていた。

先輩が言った。「ご親族斎主に開式が遅れることを伝えてきますから、2人は式場を見れる状態にお願いします」

この人は女杉下右京みたいな人で、いつも冷静で優雅で、信頼できる人だった。この時も蒼白している私と担当者を尻目に、顔つきは変わらなかった。


掃除をしてわかったことがあった。

たくさんの細かな神具があるにも関わらず、割れたのは数枚の皿だけだった。

そして辺り一面は卵で汚れきっていたが、目の前にあった棺だけは何故かピカピカのままだった。

そして、本来ならもう置かれていたはずの位牌は、書き直しによりまだ斎主の元にある。

鏡も、喪主のおかげで無事だった。

そもそも、あの狭い隙間に喪主が入らなければ、祭壇は倒れ、棺は下敷きになり、ご遺体がどうなっていたかもわからない。喪主危険な目に合わせてしまったが、その可能性を考えたらゾッとした。


必要なのは卵と米と皿だけで、最悪だが、事態を見れば奇跡的だと思った。

そうこうしているうちに先輩が帰ってきた。

親族にも斎主にも事情お話しましたが、のほほんとしてました。これ位牌です。"書き損じてよかったな〜"なんて言ってました」

続けて「あとこれ、卵とお米です。料理屋さんにお話ししたら、神式って聞いて一応持ってきたんだそうです」

驚いた。と同時に外のガラス戸が空いた。胸にネームプレートがついている。他の葬儀屋だ。

「大きな音を立てて、申し訳ありません」と言い出ると、「いえあの、祭壇倒れちゃったんですか?うちも今日神式なんです。余ってる神具します、言ってください」と言った。

今度は先輩も驚いていた。今は多くが仏式という中で、併設式場6つ中2つの式場で神式をやっており、更にこんな申し出をしてくれる可能性がどのくらいか


そういった偶然や、優しさが重なって、20分前あの惨状だったにも関わらず、その式は18:00定刻に始まった。

何事もなかったかのように、厳かに、そして和やかに終わった。

最後に改めて全員で喪主謝罪するとと「びっくりしたけど、父にも皆にも何事もありませんでしたから。直前に鏡の話を聞いていてよかった」と笑っていた。


帰り道、先輩が言った。

「びっくりしたわ。定刻に始められるなんて思わなかった。こんな大事な日にこんなこと。ご遺族から斎主からも大変なクレームになると思った。本尊も位牌も棺も無事、御供物も揃って、神具まで貸していただけて…こんなことあるのね」

続けてこう言った。

今日のお式には、神様がいらっしゃいましたね」

葬儀仕事をしている間、不思議なことはいろいろあったが、この日は特に不思議な日だった。

わたしはこの言葉が忘れられない。

2020-07-17

32歳腐女子ヒャッハー毎日

追記

読み返してみたら自分は例の32歳腐女子の方よりもだいぶ多角的に「痛い」し「ヤバイ人間だなと思った。なんらかの観測暇つぶしに役立てて頂ければ幸いです。(たぶん役立たないが)

【本文】

32歳腐女子の方の増田がちょいバズしてアンサー30歳腐女子の方の増田ちょちょバズするなど、なんだよ、今もしかして30代腐女子の波来てんの!?という感じで、我も32歳腐女子独身彼氏いたこと無し)の一人として、赤裸々な毎日告白してみたいと思いました(なんかこの祭りっぽさに乗りたくて)。何も益になることはない増田だと思うので肩の力を抜いて読んでね。

日記形式でいきましょうか。

【先週】

月曜日

バイト休みの日なので思う存分に寝ていたというか、体がほぼ動かない。こんなことってある!?と思うが、32歳の体力なし腐女子(っつーかとっくに女子って歳じゃねえよな、まあ元の意味から離れてる感じだから一応使うけど)ともなると、週6勤務の後にはもはや一日半の休息を必要とするのである。ガッデム。

ちなみに今は夜の街でのバニーガールバイトしかしていない。昼の仕事は、頭が痛すぎて6月に辞めてしまったのだ。えっ!?頭が痛いだけで仕事を辞める!?さすが32歳腐女子だな……32歳腐女子面目躍如、というところだが、まじで頭が痛すぎてもう勤務できなくなったのである。昨年12月初旬、突如いつもの肩こり頭痛に対して頼みの綱のEVEが効かなくなり、毎日毎日毎日毎日痛いのでおかしいなと思い病院へ。レントゲンを撮ったら、肩こり頭痛っちゃ肩こり頭痛なんだけど、首の骨が擦り切れてますぜ、ということだった。頚椎ヘルニアのように首の骨が突き出ているわけではないのでその治療はできない、薬と注射対処していくということになった。その後さまざま鎮痛剤のレベルを上げていき、注射(星状神経節ブロック注射)を続けたが、はっきり言って6月になってとうとう痛みに負けた。嘘だろ。約半年毎日死ぬほど頭が痛かった。どうにもならねえ。もう仕事限界であった。とうとう脳のMRIを撮ることになったが異常はなし。このままだと「線維筋痛症」という診断になりますと言われながらの血液検査。ここまでで検査費2万が吹っ飛んでいる。コロナ禍により収入激減の憂き目にあっていたため精神的にも死んだ(もともと双極性障害二型でもあるので、すぐうつにもなる。ドンマイって感じなのである)。ちなみに精神的に死んでも最長二日で回復する。32歳ともなると二日もあれば回復ちゃうである血液検査の結果が出て、どうやらMCTDという膠原病兆候があるらしく、膠原病先生の診察の日まで暫し待たれよ、と言われる。

膠原病先生膠原病じゃないですね。安心してください

オオオオオオイ結局なんなんだこの痛みは?(ちなみに、膠原病線維筋痛症を併発しやすく、線維筋痛症双極性障害との併発が多い)と思いながら、とりあえず線維筋痛症なのだろうと自己判断し、これは「もう痛くないのに脳が痛みの信号を出し続けてしまバグ」らしいので、つまり「痛くない」と思い込めばいいのでは?ということに気づいた(もはやどの鎮痛剤も注射も効かない状況)。

2日間、痛くても「痛くない」と友達へのLINEでもTwitterでも言い続けた。

まじで痛くなくなった。

イヤッホーーー!!!!!!というわけで、この前の週からバイトバニー)を本格的に再開していたのである。初っ端から長すぎる。ごめんね。

ちなみにこの日のTwitterを見ると、どうやら夜になって号泣していたようだ。これを「夜泣き」と呼んでいる。とくに何も無くても過去のこと(主に家庭のこと、病気のこと、非常に微々たる割合恋愛のこと)を思い出して唐突に泣き出すことがある、32歳腐女子はまだまだ赤ちゃんである

火曜日

同僚バニー(26歳美女)と上野動物園へ遊びに行く。整理券12時だったので、雨の中かなりタイトスケジュールで回る回る!つねにソーシャルディスタンスが徹底されており(おみやげやさんも入場規制していた)、トラさんなどは直接見えるゾーンが封鎖され、遠くからしか見れなかった。マヌルネコ達の館も封鎖されていた。がーん。しかし、大きな動物たちは見ることができ、キリンもゾウもシマウマシロクマも数十年ぶりに実物を見る私は大感動であった。動物園のあと、星乃珈琲オムライスを食べ、同僚の買い物(GU)について行ってはしゃぎ、帰ってくる頃には完全にエンストを起こしていた。体力がないというレベルではないのだった。死んだ。

水曜日

どうやらバイトに行ったようだ。よく覚えていないが恙無くこなしたと思われる。

木曜日

エアコンをつけようと思って窓を閉め、エアコンをつける前に寝てしまい、部屋の中で軽い熱中症になる。部屋の中で熱中症になるの何度目ですか。3度目です。これだから32歳腐女子は!!そのような自業自得をもってして、バイト体調不良ですとかぶっこいて遅刻して出勤する。コロナでお客さんが少なかったのでたまたま怒られないですんだ。ラッキー!(水商売では非常に珍しいことに、当店、遅刻や当日欠勤の罰金制度がない)

金曜日

どうやらこの日もバイトに数分遅刻している。お前遅刻しかしないのか。この日は金曜日なのでさすがに店も忙しく、洗い物をしていたら己の力を制御できず、掴んだだけでふつうのグラスを握り潰して割ってしまい、破片が刺さって流血が止まらなかったりした。しかし肌が強いので特に処置をすることな絆創膏をきつく巻いておいたら数日後にはかさぶたになった。普通は掴んだだけでグラスは割れないし、皮膚の下ガラスが入ったらもっと怪我するものかと思っていたが、意外に軽めのアクティティとして通過した。

この日あたり、ナガノさんの「なんか小さくてかわいいやつ」のLINEスタンプが発売されたり、ねこちゃんさんの動画日記更新されていたりしてご機嫌な一日だった。どちらも32歳腐女子にはすごくおすすめコンテンツです。癒しですわ〜。

土曜日

事件。「痛くない」と思い続けることで治まっていたはずの頭痛が、二週間の時を経て、俺の元に舞い戻ってきた……。それはさておき真田さん(おけけパワー中島漫画で一躍有名に)の漫画更新され、今回の子はいつ綾城さんに繋がるのかとわくわくした。バイト普通に出勤したが、「あたまがあたまがあたまがいたいのすけ」というツイートが残っているあたり、限界突破を感じる。店は早閉めだったので始発まで数十分眠り、何とか回復したようだ。

日曜日

冬コミが中止とのこと。英断というかもうどうしようもないよな、というTLお通夜ムード。せめて印刷所さんを潰さないために、俺たち本は出し続けようぜ、とTL上で固く誓い合うオタクたち。ちなみに私は字書きである真田さんは漫画の方なのにあそこまで字書きのヤバイ心性を緻密に捉えていてすごいなあと思う)。初めて書いたのは高一の時のテニスであるカップリング秘密ですが、ジュニア選抜とだけ言っておきましょう。いやごめんこんなこと言って何も面白くない、せんべでした(千石×跡部)。えっその2人って何?どこ?という感じですが、ジュニア選抜けが俺たちの生きるよすがだった。当時はなかなか人気で、湯キリコ先生も描いてくれたりしていたんだよ。その後高三あたりから本格的にサイト運営を始め、その頃は銀魂で、毎週ジャンプを買っては友達(同じ字書きにして奇跡的に高校が一緒だった、かつテニスを教えてくれ銀魂にも同時にハマった)と250文字メール(※docomo)を10通ずつ送り合い、一日のメール送信総数が50通を超えていました。250×50ですでに萌え語りだけで12500文字を超えているので、字書きというのはヤバイ生き物なのである。その頃から15年の時を経て、未だに私はちょいちょい小説二次創作をしている。小説を書くのは結構、かなり好きだ。書くことのカルマみたいなもの(人気に悩んだりとか)からはわりと自由性格なので、のんびりと活動できてラッキー、と思っている。

日曜日

連日のバイトの疲れが出たのか、またしても夕方まで寝ていた。12年来の付き合いの腐女子友達(30歳)とお互い体力が残っていたら会おうか?と言っていたのだが、そのようなものはお互い欠片も残っていなかったので「諦めよう」と即座に結論。30代腐女子たちは潔いのである

夕方になり、最近できたセフレ(たぶんセフレだと思う)から今日会う?」と言われたので人生二度目の白金台へ。でかいテレビでヒロアカの続きを視聴し、「やっぱりかっちゃん(爆豪さん)が好きだ」という思いを強くした。

月曜日

セフレ休日だと言うので、18時までごろごろして(正直私はごろごろするのは好きではないが、なんとなく別の部屋で原稿をしたり神に贈るお誕生日のお祝い絵を描いたりすることがマナーとして憚られたのだ)、疲労を感じながら帰宅

ちなみに日曜日から月曜日にかけてセックスは3回した。その内訳はこうである

1回目:前戯は丁寧だったものの、挿れた瞬間に「イきそう」と言われ、マジか!?と思ったが、まじで三擦り半くらいで終わった。おい!!!!!!!!

2回目:なんとなく手コキさせられ、まあいいかと思っていたら「舐めて」と言われ、フェラから前戯なしで挿入。またしても早い。

3回目:なんかまじで今回ちゃんとしたセックスしてなくねえか?と思ってイラついたので、とりあえずなぜかフェラ。何も言われないので「飽きた」と言ってやめたが、「入れて欲しい」と言ってみたら挿入になった。う〜ん。

結論相手早漏のためあまり合わない。

それと、お世辞なのかどうかよくわからないが、フェラうまいと今まで複数人に言われた。なぜだと思う?理由はもちろん32歳腐女子からですね。そこらのオンナとは違うんだよ、読んできたフェラシーンの数が。男が男にするフェラだけどな。だいたい二次創作18禁小説に書いてあるとおりに実践したらOKでした。別に他にネットで調べたりとかしてない。

彼氏いたことはないんですが、31までに処女を捨てようという企画バイト先で持ち上がり、私も二次創作18禁小説をよりよく書くためにはいっぺんセックスもしないとな、と思っていたので、その企画に便乗して誕生日の2日前に滑り込み処女を捨てました(おめでとう)。その後7〜8人?くらいセフレがいたので、というのも、これはけっこう個人差のある事なのでデータを集めないとだめだなと思い、実地でセックス研究した結果ですが、まあ今はもうしなくていいかなという気持ちです。でもいざセフレができると、やはりセックスについて貪欲データ収集しようとしてしまますね。快楽はそこまではないし、行為絶頂したこともないです。絶頂があればより受けの気持ちがわかるのに、とすこし悔しい気持ちですが、イくのには初体験から数年かかると同僚バニーから聞いて諦めました。また昨年、ほぼ初めての恋愛片思い)も経験したので、良い人生勉強になりました。

帰宅後は風呂してバイト。開幕テキーラ5ショットで死にました。

火曜日

テキーラその他の酒で死んだままバイト。なんとまたしてもテキーラが入る。

水曜日

ぼろぼろの状態で、大幅に寝坊バイトに2時間遅刻し、先輩(25歳)に怒られ&慰められて号泣し、その後お得意さんのお客様の連れてきた初めてのお客様店長の知り合い)に難癖を付けられてキレてしまい(キレるなよ)号泣し、最後は私にキレたそのお客様に慰められ、閉店後付き合いのあるお店の中華料理を諸事情死ぬほど食べて吐きそうになりながら帰宅ダイエットの数値がよかったのに全て終わった。店長と「友達有名人場合自分立ち位置」について熱く語った(私の友達の神絵師たちは漫画家だったりイラストレーターだったり、とにかく神なので店長友達国民ミュージシャン)の話に共感する所が多かった)。

木曜日

友達の家で友達小説原稿を下読みする約束があったのにまた寝坊。ほんと寝坊しかしねえな。友達は許してくれたのだがスタバのごろっとしたフラペチーノなどを買い、友の家へ。早く下読みすればいいのに求人応募の締切日だったため(当然何も準備していない)、謝りながら友達の家で自己PRと志望動機文章化し送信。やっと下読みを始めるも、疲労感により30ページでリタイアした。使えないにも程がある(ちなみに残り80ページ強)。持ち帰って拝読することになった。ちなみに、友達がその原稿イメソンとしていた、ßźの「LOVE PHANTOM」と、そのアンサーソング「HINOTORI」のライブ映像を見せてもらい、激しく感動する。稲葉さん、松本さん、やっぱパネェ演出パネェライブ円盤「HINOTORI」は最高のプロダクト。曲も何もかもいいし、私はここで初めて「LOVE PHANTOM」がオペラ座の怪人モチーフに取っていることに気がつくというアハ体験をした(32年目の気づき)。

このように、32歳腐女子毎日楽しく生きています全然原稿なんかしてません。いや、しろよ!とは思うのですが、健康問題労働により、「食べて寝て働き、Twitterを見る」が精一杯のところです。でも、動物園に行ったりセフレに会ったりしてたじゃん、と今思いました。いい加減にしろありがとうございました。

2020-07-15

死んだと言われたジャンル

自分もあそこで公式に殺されたなあと思って最近までずっと通夜ムードだったが半生が無かったことになるわけじゃないよね。

まれから五年位までのことがやっぱり好きだし完結してるから箱庭みたいなものでなんだかんだ創作欲も尽きず未だにジャンルに居続けてる。

新作も万が一出たら買うんだろうな。そしてまた無かったことにしてGOまでの記憶で好きなことを語って創作して行くんでしょう。

SD動画配信サイトのおかげで改悪に落ち込んでた気持ちも晴れてきた。やっぱりイナズマイレブンは生涯ジャンルだなあ。

2020-07-13

覆水盆に返らず

覆水盆に返らず

一度したことは、もはや取り返しがつかないことのたとえ。

自分は、小学4年生(10歳くらい?)の時に父親が女をつくり、家から出ていき、それから母方の実家高校卒業まで育ち、東京大学に進学した。


こういう話は今のご時世ありふれた話であるし、母子家庭で育って苦労しました…という話でもない。

母方の実家にある程度金があったので何も苦労することな大学まで出してもらったし、何なら大学生の時にアルバイトもほぼしなかった。

父親実家にもある程度金があったので、教育費をほぼすべてサポートしてもらっていたらしい(これは最近母親から教えてもらった)

仕事人間だった父親は土日もほぼ家にいなかったし、平日は父親帰宅するころには寝ていたか父親との思い出というものがほぼない。

土日に父親がいないことで家がたまり場になっていたことは内向的性格自分にとってはいちいち友達に声がけしなくて友達と遊べるからからありがたかった。

母方の実家に住むことで弟と別の子供部屋ももらえたし、叔父が残していった80-90年代の大量の漫画マスターキートンなど)などに触れられたこともラッキーだった。

母方の実家がもともと住んでいたマンション比較的近いところにあったので、通う小学校が変わらないこともストレスにならなかった。

ご飯祖母が毎回きちんとしたものを作ってくれるので、生活の質は全般的に向上したと思う。

学校が終わると亡くなった祖父と弟と夕方早めに風呂に入って、祖母が作ったバランスの取れた夕飯を食べて、夜は弟とポケモンルビーサファイアをするパラダイスみてぇな環境だった。


パラダイスみてぇな環境で過ごしていたある日、父方のひいばあさんが亡くなったと連絡をもらった。

そこで父親と5-6年ぶりに再会した。自分高校生になっていた。

母親は僕が父親接触することを嫌がっていたが、久しぶりに父親と会話するのは新鮮だった。

これからはこういう時代になるから大学はこういうところに進学したほうがいいとアドバイスをもらったが、的外れ意見だったのでシカトした。

自分父親が出て行ったいたことは正直に言うとあまり気にしていないと伝えると、安堵した様子だったことを覚えている。

だって父親と住むより環境が良いし、そもそも一緒に暮らしていないも同然だったので)


大学生になると年に数回は父親と会うようになった。

父方の祖父祖母家業を畳んだり、引っ越ししたり、老人ホームに入ったりとちょいちょいイベントがあったので、前よりも父親と関わる機会が増えていた。

父方の従兄弟と久しぶりに再会したり、父親粗相でなくなっていた親戚が一堂に会するみたいなイベントもこの頃に復活した。

父親祖母が嬉しそうだったので、まあこういう時間も悪くないななんて思ってた。


社会人になってからは会うというより電話することが多くなった。

老人ホームに入った祖父祖母怪我病気をしたりすることが多くなり、そういう情報を共有してもらっていた。

そして、老人ホームに入居して数年後に祖父が亡くなった。

父親からはお通夜のあとに一晩葬儀場に泊まるので、自分と弟も一緒にも泊まって欲しいとお願いされた。

自分は断った。面倒だし葬儀場にはシャワーがないらしく、朝シャワーを浴びることができないことは、現代人の自分には耐えられないと思ったからだ。

父親の弟(叔父さん)からは、父親自分と弟と一晩語りたいという思いがあるらしく、説得らしきものをされたが、断った。

別に恨んでいる訳でもないが、いまさら何を語るのか?不思議で仕方がなかった。

父親赤ん坊だった自分を抱っこしたときに、自分おしっこを漏らされた話でも延々するつもりであったのだろうか?

「語る」だなんて、大学生の宅飲みじゃないんだから勘弁してくれと思った(しかも、となりの部屋には祖父遺体がある、実にスリリングである


父親と僕ら兄弟は紛れもなく親子である

ただ、父親20年近く前にした家を出る(家族を捨てる)という行為に対する、代償は確かに存在する。(僕ら兄弟がそういった行為に対して、大したダメージを受けていなくとも)

父親が僕ら兄弟とよくある親子のような関係を今になり望んでも、残念ながら、僕ら兄弟はそれを望んでいないのである

こういうことって端的に言えば、「覆水盆に返らず」になるかーと思い、人は太古から同じ過ちを繰り返すものだと身をもって理解することができた。


ただ、僕も年齢を重ねるように当時の父親が置かれている環境に同情することも増えてきた。

仕事をしてお金は稼がないいけない」「妻とは上手くいっていない」「子供にはなついて貰えない」。

そんな状況の中でリセット願望が出てきて、それを実行しちゃうって気持ちも正直わからんではない。

ただ、そういうことを実行した際には後に金を積んでも何をしても戻せないものがあるっていうことだ。


この記事がどれだけの人の目に留まるかはわからないが、きっといま20年近く前の自分父親と似た境遇の人もいるはずだ。

蒸発してしまう前に一度冷静になって欲しい。将来あなた子供に恨まれるのではない、子供にとって関心がない存在になってしま可能性があるのだ。

過激キリスト教徒女性曰く、「愛の反対は憎しみではない 無関心だ」だそうだ。

2020-07-05

塾の思い出

自宅で全く勉強をしない子供で、親が勉強しなさいと言うと椅子には座るが机に向かわず横に腰掛け教科書を読むだけだったそうな。小学校のうちは良かったが、中学に入るとさすがに親も不安に思ったのだろう、塾に行かないかと言われました。

私は塾というものがどういうもの体験してみようと思い、行ってみると素直に言うことを聞いて入塾試験を受けたのでした。このとき試験がそれまで受けたどの試験よりも難しくて全然解けない。英語以外は試験なんてもの簡単だと思っていた自分は、恥ずかしい話、文字通り悔し涙を流しながら試験を受けました。手掌多汗症で答案がベトベトになるのを防ぐハンカチが他の用途でも役に立つとは思わなかったです。

どうせ落ちたとふてくされていましたが、結果が届くと最上位のクラスに受かったとのこと。試験結果には納得しかねましたが、機嫌を直した自分は週2回塾に通ってみることにしました。

塾は思ったより楽しかったです。というよりも、私からすれば学校も塾も変わらず遊びの場でした。私が来る前までは授業は生徒の反応がなくお通夜だったらしいですが、私は先生質問されれば積極的に手を上げて答えるし、なんなら質問される前に質問を予想して答える有様でした。うざいと思っていた人もいるでしょうが、感化されたのか何なのか、授業は活気が出るようになったそうです。親は先生からそう感謝されたそうです。

そうして楽しく塾には通っていたものの、家で勉強をしないことに変わりはありませんでした。塾で勉強しているので成績が下がることはなかったですが、そのまま勉強の仕方を知らない状態高校に入ったことは、今思えばよろしくなかったと思います。でもそれは後の話です。

理系に進みましたが、国語がかなり得意で漢字の書き以外は好きでした。その国語の授業で先生動詞を挙げなさいと言いました。動詞格変化をたちどころに当ててみせようというのです。

私は先生を見ているとどうしても、禿げるだの光るだの抜けるだのという動詞連想されて仕方がありませんでした。勢いよく手を挙げてはそのような動詞を答えたものです。生徒たちは爆笑しましたが、先生は顔色一つ変えることな淡々格変化をすぐさま答えていかれました。さすがでした。

でも先生は凝りずに、今度は形容詞を挙げなさいと言います子供残酷です。皆さんのご想像の通り、薄いだの眩しいだのという形容詞が次々挙げられ、先生はやはり顔色一つ変えることな格変化を当てては、まだ出てきていない格変化があるとガキを煽ることすらしたのでした。

後日、他の先生から、お前たちの講義の後に先生が凹んでいたけれど何かあったのか?と訊かれたときは流石に申し訳なく思ったものです。が、それを伝えることができませんでした。

K先生、あのときは誠に申し訳ございませんでした。あの悪ガキは教鞭をとる仕事をするようになりました。

2020-07-03

なんか、未だにアレだね

2020-07-01

anond:20200701181251

パッパの通夜葬式のいろいろを考えててそれどころじゃなかったな

2020-06-26

岩手が県外から転入生の登校自粛要請批判されてる件

感情的になった方が負けなのはわかる。

でも、なんで岩手ばかりこんなに叩かれなきゃいけないんだ?

頑固で陰険県民ってレッテルまで貼られるし。

しかも、今はどうかわからんけど、2週間って潜伏期間の目安だろ。

いじめったって、転入側も、受け入れる側も慎重になるに決まってるだろ。

あいつ、コロナだろ?」って言う精神年齢は何処の小学生だって大差ないだろ。

こっちは幸か不幸か誰も発症しないか集団抗体も出来てない。

特効薬もない。

予防薬もない。

こんなん数か月前の東京と同じやろ。

これでクラスター発生したらどうしてくれんの?

数か月前のようなお通夜ムードを周回遅れでやれと?

こっちは予防してきたのに。

どうせ、今度は岩手からの移動制限するやろ。

絶対手のひら返して、助けようともせんだろ。

それどころか、改善ムードに水を差した事で批判するやろ。

悲しいわ…

2020-06-18

3年前、祖父が亡くなった日の日記

じいちゃんが旅立って6日が経った。

お葬式が終わって2日が経ち、数日前までに比べてじいちゃんが死んだんだという実感が湧いてきた。

昨日まではじいちゃんがいないということが信じられなかったし、じいちゃんがいないことが当たり前になることが怖かった。


じいちゃんが亡くなる直前の土曜日に会いに行った時は、意識もしっかりしているように見えてまだまだ生きられるんじゃないかと思った。

その前の週にお見舞いに行ったときはすごく苦しそうにしてたから、元気な姿を見て安心できた。

から24日に病院からじいちゃんが亡くなりそうという連絡を受けた時はとても信じられなくて、全然実感がわかなかった。

通夜葬式遺影になってしまったじいちゃんを見て、やっとそれを実感できた。


じいちゃん葬式中はパパの葬式のことをすごく思い出した。

パパの葬式ときにはじいちゃんスーツを着て出席していて、

どんな顔をしていればいいかからなくて、ふざけて笑ってた私と弟に、何笑っとるんだぁ〜と一緒に笑いながら声をかけてくれた。


通夜の日の夜は、じいちゃんがいなくなってしまたことが寂しくて寂しくて仕方がなかった。

翌日の葬式で、出棺するときにおじさんがじいちゃんによく頑張ったねと声をかけているのを見て、また泣いてしまった。

お葬式が終わって、疲れたママと二階で寝ていたら、窓からみえるすごく空が青くて、おじいちゃん24日の日に置いて、自分だけこのまま未来に進むことが寂しくてしょうがなかった。


翌日、弟とママと土岐のアウトレットに行った。

家族と居られる時間にも限りがあると思うと、やっぱりなにか思い出をつくっておきたかった。土岐は生憎の雨でつまらなかったけど、3人で居られる時間ができてよかった。

その日の夜、みんなが寝てから1人で車庫にある古いアルバムを見に行った。

じいちゃんとばあちゃんとパパとおじさんの思い出が残っていて、私がじいちゃんと一緒にいた時間なんて、じいちゃん人生のほんの一部だったんだなと思った。

じいちゃんが長くないかもしれないという報せを聞いた時、私はママ延命措置をしてほしいと伝えた。

ママやばあちゃんは、じいちゃんはそれで楽しい延命措置なんて必要ないと言って、その時の私はその意見は冷たいんじゃないかと感じた。

正直、正論だということは頭でわかっていたから、余計に悔しくて、そんなテンプレ正論じゃなくてもっと本気でじいちゃんのことを考えてほしいと、悲しい気持ちになった。


じいちゃんが死んでからばあちゃんが気になってしょうがなくなった。

ばあちゃんも数ヶ月前に比べて、最近はベッドで寝てる時間が多い。認知症も進んでいる気がする。

昨日と今日はばあちゃんに色々声をかけてみた。腰が痛くて座っていられないから寝ているらしい。舌に口内炎もできていた。

そんなばあちゃんをみてたら、じいちゃん延命措置はしなくても正解だったかもしれないと思い始めた。

胃に直接チューブをつなげば食べ物を流せるけど、口の中に常に管が通ってるなんて異物感がすごいし苦しいだろうなと思った。

私はばあちゃんにもじいちゃんにも長生きしてほしい。

でもやっぱり人には寿命があって、周りがどれだけ手を尽くしたって無理な時は無理なんだと思う。

ばあちゃんに昨日、東京オリンピックまで生きようと声かけたけど、首を横に振られてしまった。ばあちゃんは以前から自分長生きをしすぎたからということをよく言っていた。


ばあちゃんの痛みが少しでも和らいで、穏やかに残りの時間を過ごしてほしい。

ここ2週間くらいずっと雨だったけど明日からはやっと晴れるらしい。腰痛の人は雨の日に腰が痛むと聞いた。

から晴れたらまた数ヶ月前みたいに、庭を散歩くらいはできるようになってほしい。


ばあちゃんの痛みが楽になりますように。

ばあちゃん東京オリンピック閉会まで元気で生きられますように。

パパとじいちゃん私たち家族最期まで見守ってくれますように。

2020-06-11

祖母が亡くなった時の話

しか7、8年前の話だ。

4月の頭、曾祖母の体調が悪いとの連絡が母の実家からあり、一家4人で急いで向かった。当時自分小学校低学年で詳しくは知らされなかったが、おそらく危篤だったのだろう。地元小学校ではその時期にお祭りがあり、行けなくなったことが不満だったのを覚えている。三回忌の際に同じことを母に言ったら、何か言われた記憶がある。怒ったのか悲しかったのか、多分両方正解だが、何を言われたかは覚えていない。その程度の記憶だと認識してる自分気持ち悪い。

車が母の実家に着いたのは夕方と言うには遅い時間だった。曾祖母リビングの隣の部屋で、介護用ベッドに横たわっていた。家に着いてすぐに風呂に入らされ、間もなくベッドに潜り込んだ。風呂から入る前に「寝る前にひいおばあちゃん挨拶しておきなさい」と父に言われた。

祖母の元へは行かなかった。

兄と間違えられるのが嫌だったからだ。今考えたら、見分けがつかないどころか言葉を返すこともできなかったかもしれない。ただ父にバレて怒られないか不安だった。

次の朝、曾祖母は死んでいた。6時頃に息を引き取ったそうだ。あまり苦しむことは無かったそうなので、良かった、と思った。あまり悲しくは無かった。物心ついた頃から祖母はかなり衰弱していて、話すことが少なかったからかもしれない。だから、昨晩話しかけなかった事に対して罪悪感を覚えることはあっても、曾祖母申し訳ないという気持ち(視点?)は無かった。悪い事だとは思っているが、今でもその気持ちは湧いてこない。

その後、「きちんと挨拶はできたか」と聞いてきた父親に、できたと嘘をついた後のことはほとんど覚えていない。通夜だか葬式だかで出てきた刺身が美味しくて、母の分までねだった事くらいだ。

こうやって書いてみると、随分と酷いことをしていたと思う。当時はまだ幼く、他人気持ちや人が死ぬということを微塵もわかっていなかったからかもしれない(今となっても分かっているなどとは口が裂けても言えないが)。今同じことがあったら、絶対に、絶対にこんなことはしないと言い切りたい。年齢のせいにしたいからだ。この悪行を風化させたいからだ。

この話を誰かにするつもりは無い。親には言えるはずも無い。友人には、もしかしたらどうしようもなく不安になったら(つまり所謂メンヘラになったら)同情欲しさに言ってしまうかもしれない。そんな自分にはなりたくないが、もうなっているかもしれない。この日記を書いたのは、もしかしたら自分はあの時のまま、失礼で最低な人間なのかもしれないという、思春期特有漠然とした恐怖が拭えなかったからだ。

もしここまで読んだ人がいるのならありがとう。年端も行かない子供の、言葉遣いも中身も拙い文章を読んでくれたことに、感謝します。

軍隊小唄」の謎。「一ぜん飯」とは何か?

いやじゃありませんか 軍隊

カネのお椀に 竹のはし

仏さまでも あるまいに

一ぜん飯とは なさけなや

ご存じ「軍隊小唄である政治的な主張はさておき、よくわからない箇所がある。「一ぜん飯」とはなにか?

調べてみると、仏前に備える通夜の枕飾りとして、一杯盛り切りの食事を置くことに由来する。死者のこの世との別れの食事である。そして、米を食べるときには一杯だけだと仏前の食事を想起させて縁起が悪い。よって、少量でいいのでお代わりをする、とある

自分は驚いた。そんな話など初耳だったからだ。箸を茶碗に立ててはいけない「立て箸」なら知っていたが。

六十代の両親に確認したが、この風習にはなじみがないそうだ。しかし、「軍隊小唄」が流行していた以上、こうした風習がある程度広がっていたはずである

父も母も、あまりこうした風習は気にしないたちだというせいかもしれないが、謎は深まるばかりだ。

2020-06-09

社員の身内の不幸情報が集まってくる部署にいるんだけど

最近立て続けに社員の親とか祖父母まり高齢者バタバタ死んでる

昔の弔事連絡書には死因を書かせる欄があったけど今はそんなのないから分からない

急に暑くなったからなのか緊急事態解除で市中感染煽りを食ってしまったのか

あと喪主の欄「逝去者との続柄」って書いてるのに理解できてない奴多すぎ

祖父が亡くなって祖母喪主】なのに【逝去者との続柄祖母】とか

90近い爺ちゃん祖母喪主とかすげえな120歳くらいで喪主できるくらい健在なのかよバラエティ番組取材してもらえよ

それから手続き上は会社からの弔電とか花とか全部不要にしてもらえると助かる

名前出したからって威張れるような会社じゃないし何より手配がめんどくさい

頭のおかし社員だと親族が足りないから総務が通夜の受付やってくれとか誰か参列しろとか言ってくる

知らねえよお前がやれ

2020-05-28

こんな御時世ですから

黒澤明「生きる」を是非ご覧になって頂きたい

市役所市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民陳情市役所市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこっていた。

ある日、渡辺体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師から軽い胃潰瘍だと告げられた渡辺は、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。不意に訪れた死への不安などから、これまでの自分人生意味を見失った渡辺は、市役所無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。そんな中、飲み屋で偶然知り合った小説家の案内でパチンコダンスホールストリップショーなどを巡る。しかし、一時の放蕩も虚しさだけが残り、事情を知らない家族には白い目で見られるようになる。

その翌日、渡辺市役所を辞めて玩具会社工場作業員転職していようとしていた部下の小田切とよと偶然に行き合う。何度か食事をともにし、一緒に時間を過ごすうちに渡辺若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分胃癌であることを渡辺がとよに伝えると、とよは自分工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」といった。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだできることがある」と気づき、次の日市役所に復帰する。

それから5か月が経ち、渡辺は死んだ。渡辺通夜の席で、同僚たちが、役所に復帰したあとの渡辺の様子を語り始める。渡辺は復帰後、頭の固い役所幹部らを相手に粘り強く働きかけ、ヤクザから脅迫にも屈せず、ついに住民要望だった公園を完成させ、雪の降る夜、完成した公園ブランコに揺られて息を引き取ったのだった。新公園の周辺に住む住民も焼香に訪れ、渡辺遺影に泣いて感謝した。いたたまれなくなった助役など幹部たちが退出すると、市役所の同僚たちは実は常日頃から感じていた「お役所仕事」への疑問を吐き出し、口々に渡辺の功績をたたえ、これまでの自分たちが行なってきたやり方の批判を始めた。

通夜の翌日。市役所では、通夜の席で渡辺をたたえていた同僚たちが新しい課長の下、相変わらずの「お役所仕事」を続けている。しかし、渡辺の創った新しい公園は、子供たちの笑い声で溢れていた。

父が死んで最初の月曜だ

これは嘘松から安心してほしい。

5年の介護の末、父が死んだ。今日は忌引きで休みだ。先週末にかけて通夜葬儀とおわり、遺産整理やら名義変更やら自治体通知やら法的対応は山ほど残っているが、こうして増田をかける。

痴呆症だった。最後は日に数分起きる暮らしに落ち着いた。最後最後は目を覚まさず、ただ、呼吸をやめた。自宅での見取りとなった。それが父の希望にかなったのかは、介護の間からわかりえなかった。ひとりの老人を死ぬまで生かすために、大勢大人と多額の資金と、終わりがみえなくてもおれない心と、無限のような時間必要だった。人と金以外は自分で用意するしかなかったのがもっともつらかった。

そして、父は死を恐れたのだろうか。痴呆症の彼は死を知覚、認識できたのだろうか。明日死ぬ、午後に死ぬ、五分後に死ぬ、もう死ぬと迫ってくるのを理解したのだろうか。

僕も最後痴呆症になりたいと願った。死ぬのを理解しなくていいのなら、もっとも気軽に死ねるのではないだろうか。介護をしながら、父のその最後にあこがれた。もう、彼の時間は止まってしまい、主観的には死んでいたのかもしれない。あれは何が生きていたのかもうよくわからない。ただ生かさなければならない、その社会要求に、僕が答え続けただけだった。偉そうに。

ただ、本当に、心底、とにかく、痴呆症死ぬのは、人類が得た進化のかたちなのだと痛感した。

死を意識して生きるのは人間にはできない。

2020-05-25

anond:20200525173809

古くは昭和から障害は不幸ではないと各団体声明を出し続けている。

最近ニュース番組ドキュメンタリーでも、知的障害のある中年の子供をかいがいしく世話をする家族が何組も取材を受けている。

生きているだけでいい、不幸なんかじゃないと。

なのにこの元増田についているトラバブコメは何だ、揃いも揃って不幸不幸と。

完全にお通夜ムードではないか

当事者家族言葉がこれほどまでに届いていないとは。

2020-05-15

人生初の寿司屋名前を覚えている

俺の場合かぶ寿司という店。チェーン店でも回転寿司でもない、郊外普通の店。店に行ったことはなくて寿司桶でしか知らない店。回覧板広告しか店舗の姿は知らない店。

本家筋で集まりごとがあるときはいつもその寿司屋の出前が昼に出た。そのころはナマ物に抵抗があったから、巻き寿司箱寿司くらいしか食べるものがなかった。と言っても巻き寿司が苦手で、箱寿司のみを食べていた。

いとこ達と遊ぶことは楽しかったが、食事に関しては特別楽しい思い出はない。酒を飲んで楽しげな周りの大人たちの雰囲気の中に俺の居場所はなかった。酒に対して苦手意識めばえたのはその時が最初のように思う。

次第に集まりへ顔を出すことも億劫になった。家族そろって寿司屋へ行くこともなかった。俺以外の家族で行ったことは、きっとあるのだろうけど。

寿司はついに好きにはなれなかった。

初対面の人に苦手な食べ物を問われたとき寿司も酒も苦手で・・・と答えると、「まんじゅうこわい」な冗談と思って大いに笑ってくれるのだが、実際はこんななのだ

かぶ寿司はずいぶん前に潰れた。あの店がもし回転寿司だったら、子供だった俺の寿司へのイメージもまた違ったものになったのかもしれない。

そんなことを先日思っていた。かつて寿司を注文してくれていた伯父の通夜の場で。食事は桶に入った寿司だった。かぶ寿司とは違うその高そうな寿司に、俺は箸を伸ばすことができなかった。

2020-05-03

コロナ時代こそゼロ

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000028599.html

ゼロ葬とは、宗教学者島田裕巳氏が2014年に出した著書「0葬 あっさり死ぬ」(集英社)の中で提起した葬法。

冠婚葬祭なんてよくわからず年長者の真似をしてそういうものだとなんとなく学び、特に葬式なんて葬儀屋やお寺の言うままアレコレと準備してホイホイお金を支払って終わらせる人が多いと思う。

葬式、お通夜なんてしなくていい、お盆の時期に墓参り掃除必要ない。そう言うと年長者は目を剥いて怒鳴り散らすか困惑したまなざしこちらに向ける。

私事になるが小生の嫁は昨年祖母見送り、今年祖父が後を追うように亡くなった。両者コロナではなく大往生だった。

身重の妻はコロナへの感染を恐れ葬式に行くことをかなり悩んでいた。

結果、かなり配慮してもらった様なので参加してた。

そもそもコロナが無くても、葬式なんてするべきものだろうか。

妻とよく話すのは「葬式は亡くなった人への生者の配慮」であり、感情問題とよく伝えていた。

から妻には交際から高齢祖父母とはよく話し相手の生きざまを聞くようにと言い聞かせていた。「彼らの価値観選択の仕方を今のうちに聞いておけ。そうして何か問題が起きた時に彼らならどういう答えを出すか、それが分かるまで話した方がいい」と。

妻はのちに「あの時はそんなもんかなと思って話してきてたけど、いざ居なくなった時にも寂しいけど心がだいぶ楽になった」と言っていた。

葬式というのは、精神的にお別れさせるための大掛かりなセレモニーなのだ

千の風になってという歌の歌詞

「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません」とある

本当にその通りだ。

そこには厳しい言い方だが愛する方の残骸しかないのだ。

場所によっては遺骨の引き取りも断れる。遠方で、もう高齢で、など様々な理由で墓に行けないことで罪悪感を感じずに済む。亡くなった人に今後の人生を拘束されなくて済む。

もちろん選択するか否かは一族の考え方もあるし価値観もある。小生は永代供養より墓そのもの葬式という儀式のものからの脱却をしてもいいんだという知識が広まればと思い書いている。

僧職なんですが、ね。

2020-04-22

おばあちゃんが死にそう 【追記】亡くなりました

少し気持ちが落ち着いたから今書く。亡くなった後だと書けないだろうから

おばあちゃんが大好きだった。長男教のジジイと違って自分に優しかった。両親共働きで寂しいときに遊んでくれたのはおばあちゃんだけだった。お手玉したり神経衰弱したりしてた。料理も作ってくれた。

おばあちゃんは常に癇癪起こしてるジジイの横にいて諌めてたりしてた。おばあちゃんジジイより先に老人ホームに入ったんだけど、ジジイしょっちゅう会いに行ってた。その時にジジイがおばあちゃん好きだったってようやくわかった。

おばあちゃん幸せだったのかな。田舎農家に嫁がされていびられるは夫は癇癪持ちフォローしなくちゃいけないわ、孫は一人も結婚しないままだわ…「孫が結婚するまで死ねない」って言っててすごく長生きしたのに本当にすみません兄弟全員モテないんです。

老人ホームに週一で面会行って親戚の人含めたら週三で面会行っててすごく元気だったんだけど、コロナのせいで面会行けなくなって元気なくなったみたいで入院になった。入院中も一切会えなかった。

今日にとうとうってことで電話きてようやく面会に行けたけどもう話せなかった。でも電話より実際は元気だからーってノリですぐ帰されたのに夜にまた電話かかって本当にヤバイことになった。会いに行ったけど常にアラーム鳴ってた。

悲しいことに生きてるおばあちゃんに会いたい人達は皆高齢だったり免疫低下する薬飲んでたりで、この時期に病院には来れない人しかいなかったから誰も面会に来ない。

親もコロナにかかってるかもしれないので病院迷惑かけられないから泊まれないで帰った。葬式するにしても超家族葬になる。家はど田舎から葬式盛大にやる地域だしジジイの時もめっちゃ大変だったけどジジイは喜んでるだろうなとは思った。

面会もされず、葬式にも人が来ないっておばあちゃん寂しいだろうな。本当にごめんなさい。

でもコロナにかかってたら葬式どころか最後の面会もなかったし、そもそも医療崩壊起きてるのかみたいなときコロナでもない90代を入院受け入れしてもらえるか疑問なので恵まれてたのかもしれない。コロナ家族亡くした人達に本当に悪いけど、そう考えなきゃおばあちゃんが可哀相すぎて嫌になる。ごめんなさい。おばあちゃんがそんなこと考えてるわけないから完全に自分エゴです。ごめんなさい。

書いてて辛くなったけど本当に死なないでほしい。コロナ終息するまで生きてほしい。親戚苦手だけどお通夜葬式も49日も一周忌も頑張るから迷惑じゃないから。100歳まで生きてよ。

本当にコロナさない。寿命だろうがなんだろうか知るか。おばあちゃん本当にごめんなさい。

9:45追記

葬儀の手配が終わりました。本当はこれを書いた30分後には容態が急変して病院に呼び出しされてたので、すぐ消そうかと思ったら1ブクマついてて残してました。今落ち着いて見たら優しい言葉たくさんついていてびっくりです。ありがとうございます

おばあちゃん増田やってるなんて言ったこともちろんなかったけど笑 今日はおばあちゃんにたくさん言葉もらったよって話しかけてみます

親父はおばあちゃんはあえてコロナの時期に亡くなったのかもよと言っていました。気を使う人だったので、家族葬だったり親戚呼ばなくていいこのタイミングを選んだのかも、と。そうかなー?

最後にすごくしょうもないことを書くんですが、葬儀屋さんが一番コロナ事情通なんですね。斎場同じなのは聞きたくなかった…

2020-04-17

お祝いで始まった令和が一年経たずにお通夜ムード

なの悲しくね?

俺は悲しい。

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