はてなキーワード: 末っ子とは
3人兄弟の末っ子の私、ようやく母親を許せるようになってきた。別に許す必要はなくて、一生恨んだままでもよかったんだけど、自分の心に折り合いを付けるために、ここに許すことに決めた。
ガキの頃から兄二人とはめちゃくちゃ差別されて生きてきた。兄二人は塾に入れたのに、私は塾に行きたくても「塾なんて行きたがって金のかかる奴」「勉強ばっかりして子供らしくない」「兄①が私立高に行ったからうちには金がない」など、意地でも私に金を使いたがらなかったし、、兄②が私立大に行ったら「お前を私立に入れたらうちの家計は火の車」「子供の教育にウン千万とかかっている」など本人には言わず私に言ってくる。まあ見てないところで言っていた可能性はあるが。兄が私に対して何言っても暴力振るっても「からかってるだけだから」「反応を楽しんでるんだからお前が反応しなければいい」「反応するからエスカレートする、お前が悪い」「何言われても先に手を出したほうが悪い、兄に謝れ」「(先に手を出したのが兄の場合)やり返したらお前が悪い、兄に謝れ」「もう兄二人には呆れてるから何も言わん、お前が我慢しろ」「お前に一つも悪いところはなかったのか、ないと思ってるならそれが悪い、あるならお前が悪い」「被害妄想」「自意識過剰」「社会で通用しない」など、全ては私が悪いことになってきた。
現在の親視点では、「え、塾行きたかったなら言えばよかったのに」「え、私立行きたかったの?」「え、悪口言ったらちゃんと叱ってたよ」「え、暴力を許したことなんてないよ」らしい。自分が言ったことすら覚えてないにも関わらず、「お前は被害妄想が激しくて暴力的だから」と、それだけは覚えていた。何百回と繰り返して言ったことは覚えておらず、呆れるほど悪口を言うわ暴力振るうわの兄は完全に不問どころか悪口暴力は無かったことにしたにも関わらず、私への評価だけは一貫している。
なお、これは被害妄想ではない。兄二人は何度も「俺はお前の反応を楽しいから悪口を言ってる、暴力振るってるだけだ」って言って母親がそれに同調して「ほらお前が悪い、反応するお前が悪い、社会で通用しない、被害妄想が激しい」って何百回も言われてる。それでも、今の母親は「え、悪口言ったら叱ってたよ」「え、暴力許してないよ」って言ってる。まあ黙らせやすい方を黙らせて喧嘩の仲裁成功!って満足して、「自分は正しいことをした」しか覚えてないから、今になって「悪口?叱ったはず」「暴力?もってのほか」って思ってるクズなわけだよ。なんの教育ポリシーもなく、言ったこととの整合性を取る気もなく、責任を取る気もなく、漠然と「自分は正しい」の人。
で、なんでそんな母親を許す気になったか。祖母が「お母さんはね、頭悪いなりに頑張ってるからね、許してあげて」って言われたから。
祖母にほだされたのではない。この言葉、私が母親に怒ってるとか、母親がおかしなこと言ったとかそういうタイミングで言われたのではない。なんでもない、普通に過ごしてるときに唐突に言われたのだ。ちなみに、「え、何いってんの?」って聞き返したら「許さないのは人でなし」「育ててくれた恩はないのか」って憤慨してた。
もう、遺伝と教育から、こうなのだ。「こいつはこう」って決めたらずっとそう。祖母にとっては「お母さんは頑張りが空回りするから周りに恨まれる、とにかく何があったかは知らないがウチらが悪いから土下座土下座で許しを乞うのが最適解」っていう。「よくわからないし知らないし知る気もないけどお母さんが悪い」「悪いんだからとにかく謝らないと」「謝ったんだから許してくれないならお前が悪い」なんだろうな。うちの家系はクズのサラブレッドだったわけだ。
さすがにうちの家庭の4/5がどう考えてもクズで、2代遡ってもクズなわけで。最後の一人である私がクズじゃないなんてのは確率的にもありえんので、私もクズ。博士号取得までの27年、なんやかんや世話はしてくれてるし、嫌味言いながらだろうと金は15年かけてくれてるし、母親の魚の煮付けはめっちゃうまい。なのに感謝どころか恨みしかないので私もクズ。まあみんなクズなわけよ。
これだけぎゃいぎゃい言いながら、家族のことそんな嫌いじゃないのはウケるが、まあ嫌いじゃないのよ。兄二人もなんやかんや結婚してるし、私から見たら「自分が愉快になるためなら他人を好きなだけ不快にしていい」って思ってるクズだけど、まあいいとこもあるんやろな。全員許してなかったけど、みんな違ってみんなクズ。許せるようになってきた。一族郎党みんなクズ。まあそれも嫌いじゃないよ。死んだら大笑いするけど。クズなので。私はこんなクズだけど、きっといいとこあるんじゃないかな。みんな死ねよ。
両親は共に49歳。書籍の書庫と漫画だけの書庫が1部屋ずつあるぐらいの本好き。
子どものころから姉と漫画の書庫に入り浸って片っ端から読んだ。
その中から、昭和の漫画で面白かった記憶のある作品を30作並べた。
作者が重複しないようにしたので、純粋な「最強順」ではない。
あと、30作並べた段階で、本当に昭和の作品なのかを確認したところ、完結が平成にかかっていたとか、よく考えてみればまだ連載中だったとかいった作品が4つあったので、昭和で完結した作品を4つ足して計34タイトルになった。許せ。
最初は父と母のどちらの蔵書かも書いていたのだけど、ごちゃごちゃするので省いた。
要はhttps://anond.hatelabo.jp/20220510105802の便乗だが、記憶をたどり、本当に昭和の作品かを確認するのにえらく時間がかかった。
32 きまぐれオレンジ☆ロード(まつもと泉)
30 闇のパープル・アイ(篠原千絵)
22 はっぽうやぶれ(かわぐちかいじ)
19 僕の唄は君の歌(柴門ふみ)
作者しばりで入れなかったもの
・愛のさかあがり(とり・みき)
作者のウェブサイトが見つかったのだけど、どうやら連載は昭和のうちに終わったものの、単行本は平成になってから出たらしいので除外した。
http://naomipro.com/manga-archive/asasuzume/
父と母が付き合ったきっかけがこの漫画って聞いた。確かにめちゃくちゃ面白いんだけど(実はヤヌスの鏡よりも好き)、こっぱずかしいので除外した。
【追記】
元ネタに合わせて1万冊のままにしたけれど、たぶん1万冊まではない。
【追記2】
父が母におすすめの少女漫画を尋ねて、母が「金と銀のカノン」を貸したらドはまりして、それから本の貸し借りを頻繁にするようになったらしい。
3人兄妹の末っ子です!年の離れた兄が2人います!って言うと「可愛がられて育ってきたんだね~」って言われるの地味に引っかかる。
母は4人兄弟の長女だったから、兄の方を贔屓にしてる感じがあるし、私が今まで過ごしてきた学校生活や進学も、既に兄が経験しているからあまり興味が無さそう。
私が中学生になった頃には兄も就職や就活をしていたから、食卓の話は専らそういう話ばかりでついていけなかった。私だけいつも黙っていたと思う。
兄は兄で「年上を敬え!」とか言いやがるから、私は本音なんて今まであまり言えなかった。兄妹喧嘩がしたかったのに、言いたいことが言えなかったから、一方的な「説教」になってた。
今は兄2人とも結婚して家出てるから両親とゆっくり過ごせるけど、兄がたまに帰ってくると私の居場所って無いなぁって寂しくなる。
この前は、兄2人の幼い頃の話で盛り上がっていた。私は生まれていないから分からなかった。寂しかった。本当は泣きたかった。
私が幼い頃から兄たちは先に進むばかりでもどかしい気持ちだった。ゲームや競走も負けてばかりだった。勝った経験なんて片手で数えるくらい。
これが理由かどうかは分からないけど、今は親の年齢に近い人とお付き合いしている。私の中でやり直しているのかな。
数が多くて切りが無いし、私も知識が無いのと途中で疲れてきたのでごく一部しか挙げられません。こんなのもあるよって方は教えてくれるとありがたいです。今はこんな感じですが、気が向いたら付け足します
フランス革命期における山岳派による独裁政治。王侯貴族のみならず、農民、革命家すら処刑され合計4万人以上の命が失われた。
革命政府に監禁されたルイ17世は激しい虐待に晒されわずか10才で死去した。
ボリシェビキの秘密警察チェーカーによる弾圧。反革命派・貴族・聖職者など最大130万人が殺害された。
皇帝・皇后とその5人の子どもが虐殺された。末っ子のアレクセイはわずか13才であった。
赤軍パルチザンが尼港を襲撃、6000人以上の住人を虐殺した。
スターリンの命令によりウクライナ人から家畜・土地が奪われ1000万人が餓死した。
スターリンの命令により反体制派と疑われた国民が多数処刑された。犠牲者は1000万人にも上るとされる。
ソ連がポーランドに侵攻したにも関わらず、西側諸国はそれを黙認した。ソ連の占領下で50万人が投獄され、10万人が強姦され、15万人が死亡した。
樺太の郵便電信局職員がソ連軍接近の方を知り、9人が自殺した。加えてソ連軍の虐殺により10人が死亡した。
ソ連兵に強姦され続けた日満パルプの女性職員とその家族23人が自殺。さらにソ連軍に物資が奪われたため、冬になると87人が死亡した。
ソ連軍の攻撃で緊急疎開船3隻が爆破され、1700人以上が死亡した。
ポツダム宣言受諾後、ソ連軍が樺太に侵攻。民間人も犠牲になり3500人以上が死亡した。
日本軍の捕虜57万人がシベリアに連行され、過酷な強制労働に従事させられ、5万人が死亡した。
連合国によるドイツの戦争裁判。事後法によりドイツの政治家や軍人を裁き、連合国の残虐行為を無視したリンチ
ハンガリーが非スターリン化を進めると、ソ連軍は武力でこれを弾圧。1万人以上が死亡し、首相のナジ・イムレは処刑された。
ソ連がアフガンに侵攻したが、戦局は泥沼化し、アフガンの政治情勢を混乱に陥れた。
ソ連がアゼルバイジャンの首都バグーへ侵攻し、1満員以上の死者が出た
大躍進政策により失脚した毛沢東が大衆を動員して、政権を転覆させた。全国で1000万人以上が犠牲となった。
共産党がチベットを武力で制圧。その後現代に至るまで文化的・政治的弾圧を加えている
共産党がウイグル人に対して行っている虐殺、洗脳、不妊などの弾圧。死者は100万人も上る。現在も行われている。
共産党が党大会を強行したため、世界各地にコロナウイルスの感染が拡大。死者は400万人にも上る
共産主義者難波大助による裕仁親王(後の昭和天皇)暗殺未遂事件。侍従長が負傷
朝鮮学校閉鎖に反発した共産党と在日朝鮮人が各地で暴動を起こした
共産党が平警察署を襲撃。職員に暴行を働き、留置所に監禁した。
日本共産党が山や農村を拠点とした武力活動を企むも、支持が得られず、警察の取り締まりにとり挫折。
共産党軍事組織中核自衛隊のメンバーが警部を射殺。その後共産党の幇助により国外逃亡した。
共産党員及び在日朝鮮人が無関係の一般市民の家を襲撃、放火した
吹田駅・吹田操車場で学生・朝鮮人らが暴動を起こし、一般の乗客にも負傷者が出た。
共産党員および在日朝鮮人が警察署を襲撃、警官70人、消防士1人、一般人4人が負傷した
共産党員が地主と妻・家政婦・小学生3人を暴行、重傷を負わせ、金品を強奪した。
共産主義者が日本航空のよど号をハイジャックし、北朝鮮に亡命した。
沖縄でゼノストの警備に当たっていた警官が新左翼による暴行の末火炎瓶を投げつけられ死亡した
連合赤軍が山中のアジトで同志に対してリンチを行い、12人が死亡した内ゲバ事件
大阪城公園内で起きた新左翼の内ゲバによるリンチ殺人。1人が死亡した
東アジア反日武装戦線による爆破事件8人が死亡、376人が負傷した
岡山大学北津寮を拠点にしよと目論む新左翼が寮を襲撃、1人が死亡、多数の負傷者が出た
新左翼が大坂第二合同法務庁舎に大量の火炎瓶を投擲したが、幸運にも1本しか着火せず人的被害はなかった。
不良少年のグループが女子高生を誘拐、1ヶ月以上にわたり監禁と暴行を加えた末に殺害。主犯者の両親は共産党員であり、自宅で事件が行われていたにもかかわらず見逃していた。
新左翼が新しい歴史教科書を作る会の事務所があるビルに放火した。発見が遅れていれば大惨事に繋がっていた。
共産党支持者がマンションに侵入し、共産党のビラを配布、住居侵入罪で逮捕された。
厚生労働省職員が新聞あかはたを配布し、国家公務員法違反に問われた
男組組長が反差別ワークショップを開催した際、初対面の助成に執拗な痴漢・セクハラを行った
カンボジア国内でクメール=ルージュにより200万人近い知識人らが虐殺された
あー!私って女に生まれてよかった!
山と川しかなくて、夏が始まると家の裏の川に蛍の光が点々と灯り、軽く運動場くらいの広さの駐車場があるコンビニまで歩くと10分かかるクソ田舎で生まれ育って、性別が女で、ほーーんとによかった!
だって、もし男の子に生まれてたら、きっととーーーってもワガママになってたもん!
8つ下の弟よ! 自分のヤバさに気付けるかどうかは、アンタの今後の人生でそのクソ田舎を出るかどうかにかかってるからね!
小さい頃から「女の子らしくしなさい」「しっかりしなさい」のオンパレード。
私がくだけたことをしようとすると「何?女の子が、その口のきき方は」「女の子がそんなことしちゃダメ」と必ず言われる。
私が何か賞を取ったりいい点を取ったりすれば「パパもそういえばこんな賞を取って…」と言い、私のよくないところを見つけると「そういうところはママにそっくり」と言う。
マザコン気味の私は母のことを悪く言われるのが心底嫌だったけど、祖母に言い返しても無駄だった。
「女の子が反抗なんかするもんじゃない」から始まる更に長い説教が待ってるから。
親戚の集まりに行ってもそうだった。
母は地元で「べっぴんさん」と有名だから、そんな母似の私も当然、幼い頃はちやほやされた。
ちやほやされるの気分いいだろうって?
「○○ちゃんはお母さんに似てべっぴんさんだね。お金もちのだんなさんと結婚できるね」
「いい年になったら俺たちのお酒の酌もしてもらわないといけないな」
私、小説漫画をたくさん読んでいて結構言語習得の早い子供だったから、大人の言葉もよくわかってた。
そして子どもながらに、この人たちの言うことは私には快適でないとはっきり感じていた。それでもにこにこした。
おしゃべりしてたら「女の子がぺらぺら話すとよくないよ」「おしとやかにしなきゃ」って言われちゃうから、おしゃべりも控えなきゃ!
父の親戚の集まりでは「女の子なんだからあなたのためを思って言うけど〜」と服装や食べ方を責められた。
内容自体はマナーの話だったから不愉快だった記憶はないけど、その横で寝そべってポテチ食べながらゲームやってる男の子を咎める大人が1人もいなかったことが納得できなかった。
私のためにそう言ってくれてありがとう!
そうこうして育っているうちに、我が家に待望の男の子が生まれた。
私と妹の下に。
祖父は弟を撮るためにカメラを新調した。私の名前を祖母に丸投げした父が、弟の名前は寝ずに決めた。
いくつも離れた弟だから、赤ちゃんの頃はかわいいと思っていたけれど、弟が大きくなるにつれて違和感が拭えなくなった。
弟に対して大人が甘すぎる。
アレルギーや摂食障害などではない、単なる好き嫌いでご飯を食べない弟に対して、食べないから代わりに○○(お菓子、パン)でも食べさせておこうとか、野菜を食べないならビタミン剤を飲ませようとか。週に一回買い与えられるトミカ。弟が興味を持ったコンテンツは、全て与えられた。
末っ子だから親が慣れていて、育てるにあたって雑になっているだけかと思っていたが、それは「男の子だから」ということが理由のすべてだと気付いた。
私が「女の子だから」と咎められていたことの全て、弟は許されている。
模試で疲れて帰宅した私にご飯の配膳をさせ、帰宅してゲームしかしていない弟には、祖母は「ご飯よ」としか言わない。靴を揃えなくても、洗濯物を出さなくても。こういうの全部、男に生まれてたら我が家ではできないまま育つんだと思うと怖すぎる。
弟はもちろん、どんどんわがままに育った。
県内で一番賢い高校に合格できる偏差値の私に「電車賃が馬鹿にならない。こっちの高校(家からは近いクソ底辺ジャングル高校)にしないなら勝手にしろ」と言った父は、片道1時間半の高校にノリノリで弟を進学させた。
自分がそう育てられたかったと何度も思ったけど、今思えばあんな育てられ方してたら目も当てられない痛いやつになってた気しかしない。うーん、やっぱいいや。ってなっちゃう。
ね?
私って女に生まれてよかったでしょ!
弟はもちろんかなりのモンスター内弁慶に育ってるけど、私、染色体の関係で長男に生まれてたらどうなってたかな!?
女の子に生まれた今でも、自分の人格形成に対する疑問や不満、たくさんあるけど、それでもなお女でよかった!
もちろんご家庭によると思います、田舎だろうがなんだろうが、子どもの育て方っていうのは。
でもね!田舎って「男の子尊い族」がすごく多い!高齢の方が多いからかな!?
県外に進学して大学6年生の私が帰省して会った親戚、私に対してなんて言ったと思う!?
「早く戻って結婚して子ども産んで、親を安心させないとね」って言ったんだよ!!!!
私が勉強できるかどうか、どんなことがしたくて生きてるかなんて全然考えてねえの、あの人たち!!女の子だから子ども産んで親に孫見せて家庭を守るのが使命だって、ガチで思い込んでるの!!
唯一ありがたかったのは母が性別に対して無関心で公平であったこと。別に結婚とか出産とかしなくていいよ、したくなったらすればって。サンキュー。やっぱママとこういう仲の良さでいられるから、女の子でよかった。女の子は褒めると調子に乗るから褒めない、なんて言う思想の父と仲良くなってたらと思うとぞっとするわ。
別にフェミニズムがどうこうとか女性の権利がああだこうだと言いたくて書いたわけじゃなくて、休みの日にふと小さい頃のことを思い出して書いてみただけです。昇華用であり供養用。文章めちゃくちゃでごめんなさい。
長男長女で打ってないのは聞かない。
少なくとも、兄弟の中で打った打たないが混在する場合、未接種は末っ子。
私はこう考えます。
生物として兄弟は下へ行くほど、上の「スペア」的な意味が強まる。
下は上と違う行動を取ることで、スペアとしての役割を果たそうとする。
上がだめになったとしても、自分が生き残ることで、だいたい上と同じような遺伝子を残すことができる。
親元離れて10年以上経ってるのに未だに思い出してはイライラして、自分の幼稚さと親の自分が何言ってるかが分からない頭の悪さに胃がキリキリ痛む。本当にどうにかならんか。
3人男の兄弟で末っ子、兄二人が悪口大好き人間で、年齢的にも、口の達者さでも暴力でも勝てない。まあ好き放題悪口言うわ暴力振るうわで最悪だった。親は暴力は止めるものの、本当に一言名前を強く呼ぶだけ。
親の目の前で好き放題悪口をいう兄に何も言わず、私に向かって「からかってるだけ!」「反応しない!」「静かに!」って言う。それが面白いのか、兄は手を変え品を変え私が反応するまで悪口をいう。それに「からかってるだけだから!」って合いの手を親が入れる。私が怒ると「反応が面白くてやってるんだから反応すんな」「あれだけ止めたのに反応したお前が悪い」と私を烈火の如く怒鳴り散らし、私の反論は全部無視。
そんな親だが、「悪口言ったら叱っていた」という認識だと最近発覚した。
あの行動が「増田の反応を面白がるためなら好き放題悪口言って良い」「自分が楽しむためなら他人を不愉快にしていい」っていう肯定になってる、って気付けないのってなんでなんだろう。なんなら親の合いの手が楽しくて悪口言って、好き放題悪口言われた私が怒鳴られる、ってのが楽しくてやってたんちゃうんか。
どういう神経してたら悪口に合いの手入れる、悪口言われてる側を批難しておいて、悪口言ったら叱ってた、っていう認識になれるんだろう。本当に早く死んでほしい。
うちの近所には知的障害者同士の貧しい夫婦がいて、そこんちは五人の子供達のうち末っ子を除く四人に知的障害があり、しかも長女は統合失調症まで発症するという悲惨ぶりだった。
農家で、とりあえず働けて子供が産めればどうでもいいっていうんで誰も嫁にしたがらないような女を嫁にしたら産まれた子供が全員知的障害者で、夫が妻子に苛烈な虐待を加えているという家もあった。
名家は財産保護と繁栄のために名家同士で結婚しようとするが、そうすると相手なんか限られる為にだいたい親類同士で結婚した。つまり嫁も外から転がり込んだ赤の他人ではないので、夫とその家族は嫁でも無下には扱えないのである。いじめて親に泣きつかれたら家同士の喧嘩に発展するので。
三人姉妹の真ん中。小さい頃から母に「あなたは1人でも平気だよね」と言われていた。本当は平気じゃなかったけど、長女で父から可愛がられていた姉と末っ子で母から可愛がられていた妹に挟まれていた私は「自分は一人でも平気なんだ」と言い聞かせていた。それぞれが就職して家を出たあと、姉と妹が二人で旅行に行ったり、私抜きで家族旅行に行ったりしたことをあとから聞かされても、「そうなんだ」と気にしていないように振舞った。
最近仕事や人間関係で疲れてしまい、嫌なことばかりが浮かぶようになって、上記のことに急に苦しくなってきた。疲れて姉の話にうまく応対できない時、母は私を叱る。妹と母と出かけると、お姉ちゃんなんだからと妹の分の服を買わされる。母にとって私はいつでもニコニコ話を聞かなければならない人かつ財布なのだろうかと悲しくなる。たしかに私は姉妹の中で一番収入が高いけれど、それは家族に還元するためだけに稼いでいるわけではない。
こんな風に言いながらきっと家族からは逃れられないし、母に「頭がおかしい」と言われる度に謝り続けるのだろう。完全に縁を切るのは怖い。吐き出せてよかった。明日からも生きていきたい。
母さんは死んでしまった。
病院から様態悪化の連絡があってから一緒に病院へ行ったね。死の二日前だった。
あなたは会いたいというより義務感から僕に付いてきたという感じだった。
前々から気になっていたんだ。
嫁いでもう50年だもんね。そりゃあ、実家にいたときとは違って当り前だよね。
顔を見ても誰だか分からなくなってしまった母に会ってもしょうがないから......
しょうがなくてもしょうがなくなくても、心配してしまうのが血縁というものじゃないの?
忙しくてもつい気になって会いたくなるのが身内というものじゃないの?
家に来るとあなたと母は大声でしゃべり合い、大声で笑い合ってた。
同じ町内だもの。嫁いでからもいつも実家に来て明るい性格な者同士でそりゃあにぎやかだったよね。
同居の義父母の世話は完璧だったのに。
毎日、病院へ行って本当の親子みたいに尽くしてた姿が脳裏にある。
でも、あなたは実母の世話は1年に2~3日でも多い方だった。
それも僕が頼んだ時だけ仕方なくという感じで。
実母の世話の優先順位がかなり下の方にあるのに気づいた時はショックだったのを覚えている。
何回も見損なったものだ。
そして見損なうたびにあなたとの心の距離は離れて行ってしまった。
取り返しのつかないくらいに。
でも、変わってはいけないもの、忘れてはいけないものがあると思うんだ。
でも、いい方向に変わりたいよね。
僕にとっての母は、自分の次に大切な人だった。
あなたにとっての母は、おそらく7番目か8番目に大切な人だったんだろうとは思う。
死を前にした母に対面するとき思ったんだ。
同じ温度差の人と一緒に対面しないとしらけると。
あなたは、衰弱してしまった母を見て、よそのおばさんでも見るようによそよそしかった。
そして、いよいよ危篤となったとき、あなたは電話に出なかった。
父の時もそうだったね。
そりゃあ、深夜にスマホで起こされて病院へ駆けつけるなんてしんどいさ。
そして電話があったら飛び起きて駆けつけない?
僕は、深夜、ひとりで母親の死と対面した。
父の時もそうだった。
(どうしてひとりかって?)
-----------------------------------------------------------------------------
姉は僕がゲイなのを知っている。
(親にもカミングアウトしたけど、なんかイマイチ理解できなくて困惑した。大正生まれだもんな。でも姉の世代なら理解できていると思ってたけど違った。
今後、あなたが結婚するかもしれないからとか訳のわからないことを言っていたね)
そして僕が母を一番大切な人だと思っているのも知っていると思う。
長女が死に、長男が死に、末っ子次男として生まれ、田舎の農家の跡取りとして大事に育てられたのにゲイで結婚できないという悪夢のような現実。
------------------------------------------------------------------------------
葬式の時、あなたは悲劇を一手に背負いながらも気丈に振る舞うという女優を演じきった。
仏壇のお花も四十九日の法要もご香典も誰かが見てる前では完璧に良い娘を演じきった。
でも、本当に大事なことはそういうことかしら?
本当に大切なことっていうのは、生きているうちにしないと意味がないのよ。
生きているうちにいっぱい会って、いっぱい話して(ボケててもいいから)、いっぱい介助しないと意味がないのよ。
死んでしまってからいくらお花を飾っても、いくら拝んでも、いくらお金を積んでもなんにもならないのよ。
でも、あなたはそのことを後悔しないのよね、たぶん。
忘れてはならない大切なものとして兄弟ふたりで共有していると勝手に思っていた。
でも違った。
そのことが残念でならない。
もらった愛情の半分も返せなかったけどね。
それが心残り。
ジ・エンド。
母さんは死んでしまった。
病院から様態悪化の連絡があってから一緒に病院へ行ったね。死の二日前だった。
あなたは会いたいというより義務感から僕に付いてきたという感じだった。
前々から気になっていたんだ。
嫁いでもう50年だもんね。そりゃあ、実家にいたときとは違って当り前だよね。
顔を見ても誰だか分からなくなってしまった母に会ってもしょうがないから......
しょうがなくてもしょうがなくなくても、心配してしまうのが血縁というものじゃないの?
忙しくてもつい気になって会いたくなるのが身内というものじゃないの?
家に来るとあなたと母は大声でしゃべり合い、大声で笑い合ってた。
同じ町内だもの。嫁いでからもいつも実家に来て明るい性格な者同士でそりゃあにぎやかだったよね。
同居の義父母の世話は完璧だったのに。
毎日、病院へ行って本当の親子みたいに尽くしてた姿が脳裏にある。
でも、あなたは実母の世話は1年に2~3日でも多い方だった。
それも僕が頼んだ時だけ仕方なくという感じで。
実母の世話の優先順位がかなり下の方にあるのに気づいた時はショックだったのを覚えている。
何回も見損なったものだ。
そして見損なうたびにあなたとの心の距離は離れて行ってしまった。
取り返しのつかないくらいに。
でも、変わってはいけないもの、忘れてはいけないものがあると思うんだ。
でも、いい方向に変わりたいよね。
僕にとっての母は、自分の次に大切な人だった。
あなたにとっての母は、おそらく7番目か8番目に大切な人だったんだろうとは思う。
死を前にした母に対面するとき思ったんだ。
同じ温度差の人と一緒に対面しないとしらけると。
あなたは、衰弱してしまった母を見て、よそのおばさんでも見るようによそよそしかった。
そして、いよいよ危篤となったとき、あなたは電話に出なかった。
父の時もそうだったね。
そりゃあ、深夜にスマホで起こされて病院へ駆けつけるなんてしんどいさ。
そして電話があったら飛び起きて駆けつけない?
僕は、深夜、ひとりで母親の死と対面した。
父の時もそうだった。
(どうしてひとりかって?)
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姉は僕がゲイなのを知っている。
(親にもカミングアウトしたけど、なんかイマイチ理解できなくて困惑した。大正生まれだもんな。でも姉の世代なら理解できていると思ってたけど違った。
今後、あなたが結婚するかもしれないからとか訳のわからないことを言っていたね)
そして僕が母を一番大切な人だと思っているのも知っていると思う。
長女が死に、長男が死に、末っ子次男として生まれ、田舎の農家の跡取りとして大事に育てられたのにゲイで結婚できないという悪夢のような現実。
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葬式の時、あなたは悲劇を一手に背負いながらも気丈に振る舞うという女優を演じきった。
仏壇のお花も四十九日の法要もご香典も誰かが見てる前では完璧に良い娘を演じきった。
でも、本当に大事なことはそういうことかしら?
本当に大切なことっていうのは、生きているうちにしないと意味がないのよ。
生きているうちにいっぱい会って、いっぱい話して(ボケててもいいから)、いっぱい介助しないと意味がないのよ。
死んでしまってからいくらお花を飾っても、いくら拝んでも、いくらお金を積んでもなんにもならないのよ。
でも、あなたはそのことを後悔しないのよね、たぶん。
忘れてはならない大切なものとして兄弟ふたりで共有していると勝手に思っていた。
でも違った。
そのことが残念でならない。
もらった愛情の半分も返せなかったけどね。
それが心残り。
ジ・エンド。
嫌なら見るなで済む話。
他の人のツイートも見ながら自分の思考をまとめていった感じなので流されてる部分もあるのかもしれないけど、もやもやの正体が分かってきた。本当に複雑ではあるが気持ちを整理したい。
まず当初は、よく考えてなかったというよりも、好きなものと好きなものが合わさってくれて嬉しいという感情が大きかった。だから無条件に受け入れることができた。もし当時私が彼らを好きじゃなかったら(なんで実写やんの?)とアンチになっていただろう。今思えばアンチになって「こんなの観ねえよ」と切り捨てられていればどんなにラクだったかと思う。
公開が決まったとき、キャラのビジュアルとかが出て、一体どんな映画になるんだろうと純粋にワクワクしてたし、すごく公開が待ち遠しかった。配役もまぁ理解できた。このアイドルグループの性格とか関係性とかも知っていたのでそれとも関連付けて、なるほどと思った。(といっても自分の推しに関しては、地球上のいかなる人間にも実写化なんて出来るはずないと思っているので、この時点で既にキャラと演者を切り離してはいたのだが)
またこのコラボはレコード会社の策略だと分かってはいたが、何せ好きなもの同士の共演なので私は積極的にお金を落とす気でいた。
これもまだ嬉しかった。各々のセリフとか表情とかが断片的に出て、どんな形であれ彼ら兄弟の概念が具現化されたものを見れるのはいい事だと思った。
確かこの辺りでストーリーも公開されたと思うのだけど、私は過去の2.5舞台のこともありシナリオには全く期待していなかったので、(ふーん)と流し読みする程度だった。唯一ネックだったのはj'sが演じるに当たってキャラの1番大切な設定である純潔と無職がなかったことにされるのでは?という点だったが、ちゃんとニートで童貞と書いてあったので安心した。(まあアイドルが演じてる以上無職童貞感なんて1ミリも漂っていないけど、設定があるだけマシだと思った)
先月くらいからの情報解禁。兄弟それぞれがピックアップされ、前回よりも映画の内容に迫った感じだった。
まず推しのセリフはめっちゃ笑った。しかしそれは私の推しキャラのセリフではなくて、推しのとある要素を(申し訳程度に)あてがわれたいちアイドルのセリフでしかなかった。この時にはもう完全に彼のことは推しの名前だけつけた別人として認識してる。
三男に関しては、情報解禁した頃から既に(当時は冗談で)「解釈違いだわ」と言っていたけど、彼の演技を見て冗談じゃなくなった。キャラの面影すらない。この人は同じ演技しか出来ねぇのかよと思った。お前の引き出しにある演技だけで三男を表現できるとでも思ったのか?と憤りを感じた。まだ本編見てないから早とちりなだけかもしれないけどさ。
四男は、配役はいいなって思ってたしセリフとかも他に比べたら別に違和感ないんだけど、キャラ本人としては見れない。それだけ。
五男を演じた彼は原作を好きでいてくれてるから、ちゃんとリスペクトを感じるんだけども、うん、頑張ってねと言うことしか出来ない。
末っ子は、可愛くてずるくてあざといところもわかるんだけど、そもそもアイドルとして小生意気キャラのイメージついて大丈夫そ?と心配になる。ただでさえ天狗とか言われてるのに事務所はそこ平気なのか?って思う。
そして今日予告を見て、キャラ改変はシナリオ上どうしても不可欠だったんだと強引に自分を納得させた。(筋肉とかホストとかね)
こうでもしないと見に行くモチベが立たない。
予告後半の意気込み映像は意味がわからないと思った。要らねぇだろ。
そしてパブサして、ああこの作品は利用されただけだったんだなと確信して悲しくなった。
今このアイドルへの熱が冷めてるからこんなことを考えてしまうのかもしれない。でもこれ以上彼らの情報を入れたらほんとに嫌いになってしまうから、映画を見に行くのがこわくて仕方ない。見なきゃいいじゃんって話なんだけど、この原作の名のついている物はチェックしておきたいし、このアイドルのことも好きだから彼らが主役を張っている姿を見たいという気持ちも大いにある。
しかし正直しんどい。レコード会社が思い直して「やっぱやめ」って言ってくれない限りどうにもならないのがしんどい。
唯一の救いは、アイドルのほうの推しがこの映画だけのオリキャラであることだ。ここはもう腹を括って、オリキャラを演じる彼の勇姿を見るためだけに映画館に通おうと思う。
父親はコロナは大したこと無い派の人でとりあえずつけろと言われて仕方がなくマスクを付けているような人
今年妹が大学受験で共通一次試験を当日受けることが出来なかった
試験の一ヶ月前から家でもマスクをつけるよう父親に説得したが聞き入れられず
二週間前くらいから度々くしゃみをしていて検査をお願いしてもただのアレルギーだと突っぱねられ
母親も発症していたが家族全員無症状とまではいかないまでも微熱と倦怠感で済んだのは不幸中の幸いだった
しかし妹は必死で勉強してきたのにも関わらず当日試験を受けることが出来ず
詳しくは端折るが父親とは絶縁すると、大学進学で一人暮らしをすることになった
私は父が大嫌いでした。
末っ子の私は末っ子あるあるなのか、あまり幼少期の写真もなく、家族で旅行に行ったのもベビーカーで東京ディズニーランドに行ったのが最後だった。シンデレラ城の前で撮った古びた写真を見せられ、ほらみんなでディズニーランドに行ったんだよ。なんて母に言われても覚えているわけもなく、羨ましいという気持ちが膨らむばかりでした。
誕生日ひとつとっても、兄達は母手作りのアンパンマンのケーキと一緒に写った写真も残っていてズルい。私の誕生日なんて写真どころかケーキがないことだってあった。それも全部、父が悪い。父がギャンブル好きで借金まみれなのが悪いのだ、と思っていました。休みの日は寝るかパチンコか競艇か。たまに家族サービスをしてくれることもありますがそれは稀なことでした。
そんなこんなで家計は火の車なので私が小学校中学年の頃から母は働きに出るようになりました。最初は日中働いていた母も、稼ぎが足らずホテルの厨房の夜パート、更にスナックと職を変えていきます。父も泊まりや一日仕事が多かったので兄妹だけで夜を過ごすことも多くなりました。それに比例するように両親の喧嘩が増えていきます。何度も母の携帯を逆パカ(死語)して破壊したり、服を切ったり、暴力を振るったり、果ては首を絞めて兄妹で警察を呼んだこともありました。祖父母の家から電車で1時間以上かけて小学校に通うことも何度もありました。
なんで離婚しないのかと兄妹で何度も言いましたが、ひとり親で兄妹5人も育てられる福祉のサポートも無く、余裕がないから我慢するしかないと言われ続けました。
そうして半引きこもりになった私は高校受験の時を迎えていました。レベルを下げまくった公立高校すら内申点の悪さで落ち、さらに下の公立の二次募集も落ちました。父からは私立にやる金なんて無いと言われ、もう中卒で生きてくからいいわ!と喧嘩していたところを母の説得で私立に進学することに。(兄は私立に行ったのになんで私は駄目なのかという思いもありました)
そして在学中のバイト代は完全母管理。バイト代を自身のお小遣い代としているバイト仲間が羨ましくなることもありました。若かったので。
やってきました修学旅行。私立あるあるなのか、私達の旅行先は海外でした。授業でも楽しくどこを観光するか話し合っているうちに班長に決まり、ワクワクは最高潮。ですが、修学旅行の積み立てを崩し、父が遣いこんでいたことが発覚しました。
ひととおり泣いて暴れた後に全てを諦めました。もう行けないんだ、どうでもいいやと。母が知り合いからお金を借り、行けるようにしてくれましたがそんなお金で行くのも嫌でした。行かせようとする母と行かない私で揉めに揉め、結局無理矢理タクシーに乗せられた私は集合場所に遅刻して現れました。こんな話出来るわけもないので、寝坊して迷惑をかけてごめんなさいと謝り普通の顔をして修学旅行に参加しました。先生とも一悶着ありましたがいい思い出になりました。
その後も両親の喧嘩は何度もありましたがそれもいつも通り。出席日数は足りてないはずでしたが先生方の温情で無事に卒業の日が来ます。奨学金も借りられず、高卒フリーターになりました。成人式の振袖ももちろんお金がなかったので諦めていましたが、小学生の頃に亡くなった祖母が私の為に着物屋さんにお金を掛けてくれていたので素敵な振袖を買うことができました。本当に祖母には感謝しかないのです。
なんやかんやで父も年を取り、それにつれ性格が丸くなりました。仕事に行かなくなってからは毎朝のように私を職場に送ってくれました。両親と私でいきなり日帰りで温泉に行くこともありました。父が私にたくさん話しかけてくるようになりました。ですが返事だけで会話をすることはほとんどありませんでした。どうやって接していいかもわからないし、今までのことを無かったことにされるのも嫌だった。だから冷たくするくらいが丁度いいと思っていました。
今は誰も住んでいない祖父母の家に家族が集まりました。夜は皆で近くの焼肉屋さんで食べて、父は発泡酒ではなく、大好きなビールをしこたま飲んでそれはご機嫌でした。祖父母の家に着くと一足先に父は横になりました。たまに母に水を持ってくるように頼んでいましたが、私達兄妹はそんな父を気にすることなく、リビングで兄妹水いらずでテーブルゲームをして遊んでいました。すると、父が急に雄叫びのような大きな声をあげました。その時に、相変わらず寝言がうるさいなぁなんて言わずに、確認をしに行けば良かったと後悔しています。
30分後、気づいた時には父は動脈破裂で亡くなっていました。
父がまさか亡くなるなんて。晴天の霹靂でした。思春期の頃は死ねばいいのにと何度も思っていましたが、本当に死ぬとは思っていませんでした。憎まれっ子は世に憚ると思っていたんです。どうせ母のが先に亡くなるだろうから老後の面倒見るの嫌だなーと思っていたんです。震える手で救急車を呼んだり、警察の方に事情を聞かれたりしましたがあんまり記憶がないです。ただ、あの時に気付いていれば父は助かっていたんじゃないかということばかり考えていました。
最近は姪っ子を可愛がったり猫を可愛がったり車を出してといえば出してくれたりして、実は好感度が上がっていたのです。冷たくしたり、母と一緒にふざけてお尻を叩いたりして、少しずつあの頃の仕返しをしていたのです。結局逃げられましたが。畜生。
何年か経ちますが今でも父への思いはあまりまとまっていません。嫌いなような好きなような。まあ素直に好きと言いたくないだけなのでしょうけど。
あんなにあんなに憎んでいても時が流れると絆されたり、むしろ後悔したりすることがあるんだよ。ということです。ちなみに兄の中には未だに父を許していない人もいます。なのでまあ人それぞれですね。でも亡くなった人のことを悪く言っても仕方がないし、良くしてもらったこともあったのでその事を覚えておこうと思います。天国に行けたかはわからないけどイッヌと仲良くしてて欲しいな。
母と久しぶりに父の話をしていたらお互いに涙が止まらなくなったので書いてみました。
私は父が大嫌いでした。
末っ子の私は末っ子あるあるなのか、あまり幼少期の写真もなく、家族で旅行に行ったのもベビーカーで東京ディズニーランドに行ったのが最後だった。シンデレラ城の前で撮った古びた写真を見せられ、ほらみんなでディズニーランドに行ったんだよ。なんて母に言われても覚えているわけもなく、羨ましいという気持ちが膨らむばかりでした。
誕生日ひとつとっても、兄達は母手作りのアンパンマンのケーキと一緒に写った写真も残っていてズルい。私の誕生日なんて写真どころかケーキがないことだってあった。それも全部、父が悪い。父がギャンブル好きで借金まみれなのが悪いのだ、と思っていました。休みの日は寝るかパチンコか競艇か。たまに家族サービスをしてくれることもありますがそれは稀なことでした。
そんなこんなで家計は火の車なので私が小学校中学年の頃から母は働きに出るようになりました。最初は日中働いていた母も、稼ぎが足らずホテルの厨房の夜パート、更にスナックと職を変えていきます。父も泊まりや一日仕事が多かったので兄妹だけで夜を過ごすことも多くなりました。それに比例するように両親の喧嘩が増えていきます。何度も母の携帯を逆パカ(死語)して破壊したり、服を切ったり、暴力を振るったり、果ては首を絞めて兄妹で警察を呼んだこともありました。祖父母の家から電車で1時間以上かけて小学校に通うことも何度もありました。
なんで離婚しないのかと兄妹で何度も言いましたが、ひとり親で兄妹5人も育てられる福祉のサポートも無く、余裕がないから我慢するしかないと言われ続けました。
そうして半引きこもりになった私は高校受験の時を迎えていました。レベルを下げまくった公立高校すら内申点の悪さで落ち、さらに下の公立の二次募集も落ちました。父からは私立にやる金なんて無いと言われ、もう中卒で生きてくからいいわ!と喧嘩していたところを母の説得で私立に進学することに。(兄は私立に行ったのになんで私は駄目なのかという思いもありました)
そして在学中のバイト代は完全母管理。バイト代を自身のお小遣い代としているバイト仲間が羨ましくなることもありました。若かったので。
やってきました修学旅行。私立あるあるなのか、私達の旅行先は海外でした。授業でも楽しくどこを観光するか話し合っているうちに班長に決まり、ワクワクは最高潮。ですが、修学旅行の積み立てを崩し、父が遣いこんでいたことが発覚しました。
ひととおり泣いて暴れた後に全てを諦めました。もう行けないんだ、どうでもいいやと。母が知り合いからお金を借り、行けるようにしてくれましたがそんなお金で行くのも嫌でした。行かせようとする母と行かない私で揉めに揉め、結局無理矢理タクシーに乗せられた私は集合場所に遅刻して現れました。こんな話出来るわけもないので、寝坊して迷惑をかけてごめんなさいと謝り普通の顔をして修学旅行に参加しました。先生とも一悶着ありましたがいい思い出になりました。
その後も両親の喧嘩は何度もありましたがそれもいつも通り。出席日数は足りてないはずでしたが先生方の温情で無事に卒業の日が来ます。奨学金も借りられず、高卒フリーターになりました。成人式の振袖ももちろんお金がなかったので諦めていましたが、小学生の頃に亡くなった祖母が私の為に着物屋さんにお金を掛けてくれていたので素敵な振袖を買うことができました。本当に祖母には感謝しかないのです。
なんやかんやで父も年を取り、それにつれ性格が丸くなりました。仕事に行かなくなってからは毎朝のように私を職場に送ってくれました。両親と私でいきなり日帰りで温泉に行くこともありました。父が私にたくさん話しかけてくるようになりました。ですが返事だけで会話をすることはほとんどありませんでした。どうやって接していいかもわからないし、今までのことを無かったことにされるのも嫌だった。だから冷たくするくらいが丁度いいと思っていました。
今は誰も住んでいない祖父母の家に家族が集まりました。夜は皆で近くの焼肉屋さんで食べて、父は発泡酒ではなく、大好きなビールをしこたま飲んでそれはご機嫌でした。祖父母の家に着くと一足先に父は横になりました。たまに母に水を持ってくるように頼んでいましたが、私達兄妹はそんな父を気にすることなく、リビングで兄妹水いらずでテーブルゲームをして遊んでいました。すると、父が急に雄叫びのような大きな声をあげました。その時に、相変わらず寝言がうるさいなぁなんて言わずに、確認をしに行けば良かったと後悔しています。
30分後、気づいた時には父は動脈破裂で亡くなっていました。
父がまさか亡くなるなんて。晴天の霹靂でした。思春期の頃は死ねばいいのにと何度も思っていましたが、本当に死ぬとは思っていませんでした。憎まれっ子は世に憚ると思っていたんです。どうせ母のが先に亡くなるだろうから老後の面倒見るの嫌だなーと思っていたんです。震える手で救急車を呼んだり、警察の方に事情を聞かれたりしましたがあんまり記憶がないです。ただ、あの時に気付いていれば父は助かっていたんじゃないかということばかり考えていました。
最近は姪っ子を可愛がったり猫を可愛がったり車を出してといえば出してくれたりして、実は好感度が上がっていたのです。冷たくしたり、母と一緒にふざけてお尻を叩いたりして、少しずつあの頃の仕返しをしていたのです。結局逃げられましたが。畜生。
何年か経ちますが今でも父への思いはあまりまとまっていません。嫌いなような好きなような。まあ素直に好きと言いたくないだけなのでしょうけど。
あんなにあんなに憎んでいても時が流れると絆されたり、むしろ後悔したりすることがあるんだよ。ということです。ちなみに兄の中には未だに父を許していない人もいます。なのでまあ人それぞれですね。でも亡くなった人のことを悪く言っても仕方がないし、良くしてもらったこともあったのでその事を覚えておこうと思います。天国に行けたかはわからないけどイッヌと仲良くしてて欲しいな。
母と久しぶりに父の話をしていたらお互いに涙が止まらなくなったので書いてみました。