はてなキーワード: 起爆剤とは
怖い夢で目が覚めた
俺たち6人は3人づつに別れてシャトルに乗り込み、敵に自爆攻撃をかけていた一つは起爆剤になるシャトルでもう一つは爆発物になるシャトル
俺は死にたくなかったが成り行き上乗らないとダメだったので乗ることになってしまった
でも本当に死にたくなかったので起爆剤側のシャトルが設定とは違うタイミングで爆発するように誤作動を起こすよう細工しておいた
違うタイミングで爆発されたら意味がないので引き返すしかないと思ったからだ
でも爆発物シャトルの船長は、こんなこともあろうかとミニ起爆装置を船体に積んでいて特攻をかけるという
わめいて止めたが結局特攻は成功して爆発に巻き込まれて俺は死んだ
というとこで目が覚めた
怖かったなぁ
各種グラフ→ https://f.hatena.ne.jp/Knoa/COVID-19/ 行動制限の解除などと違って、連休は原理的に連休中の感染機会の増加と休診明けの反動だけ。前週比90%の環境に感染者1万人を追加発生させても、翌週には9000人になるのが原則。
引き続き2週間前よりは確実に少ないので、増えて来たと言える状況ではない。あと3日で反動期終わるからとりあえず静観しましょう/連休の反動中の数字は「過剰に多い」はずですよ。報告までのタイムラグが伸びるから
すみません、『連休の反動中の数字は「過剰に多い」はずですよ。報告までのタイムラグが伸びるから』が、正直なところ、ピンと来ません。わたしのブコメへの補足なのか反論なのか、はたまたまったく関係ないのかもわかりません、すみません!
(しばし考える)
えーと、ひょっとして、わたしのブコメを「本来90%になるはずなのに、現実には本日前週を上回ってる!危険だ!」みたいな方向に受け取ってしまったでしょうか。(←という解釈もわたしの自虐指向でしょうか・・・?(苦笑))
もしそうだとすれば、それ、まったく逆です!わたしの真意は「連休明けは一時的に増加するだけで、連休のような単発のイベントをきっかけに恒常的な増加に転ずることはないよ」というものです。
ちょっとだけ書き換えてみた。文字数制限が足かせになってるけど、少しはマシになったかな・・・。
◆
実は、つねひごろ、単発のイベント(音楽フェスとか)で感染が増える、的なブコメが気になっていた下地がありました。そりゃ感染機会にはなるけど、それを起爆剤のようにして増加「傾向」に転じるというわけじゃないよ、と言いたかったのです。ある日にイベントが開催されるのと、ある日を境にイベントが開催できるようになるのとは、違うと。
やや地獄だった。
やや地獄、というのは、昨年の4月か5月か6月ごろの本当の地獄と比べれば一瞬に近いものだし、瞬発力はあったとしてもあの一か月と比べようもない。
しかし、しかしだ。この激情において、地獄はやはり地獄なのである。吸う空気は同じなのである。
さて何があったかといえば、冷静になりさえすればなんてことのない現象だった。
しかし、これであっさりと冷静になれるのであれば、今頃地球は欠け、人類は滅亡しているに違いないのである。
つまり、無理
不倫現場を目撃しただとか、目の前で知り合いが刺されたとか、そういう救いのない現象よりかは100000倍マシだ。
ただそれでもやや地獄だと表現するのは、案外真実は、目に見えた現実とイコールで結ばれている可能性があるからだ。
嘘だと言いつつ本当だとか、あえて真実をさらすことで誤魔化そうとしているとか、そういう可能性がないとは言えないからだ。
だから、やや地獄だった。全体的には些細なことかもしれないが、自分の境遇からすればとんでもない地獄だった。
間を取って、やや地獄。
まあ、これが着火点だとしたならば、人生の起爆剤となったのならば、ここまで生きてきた価値はあるだろう。
ああ、地獄だった。
これより臨戦態勢となる。
続け、未来。
私はここ二十年ぐらい共●党に投票している。ただし党員でもないし、積極的に支持しているわけでもない。一人の市民として「反・新自由主義」の立場だから、それを意思表示しようとすれば他に選択肢が無いので、仕方なくそうしているというだけのことである。しかし、これは私個人の選択と行動であって、他人に押し付けるつもりは全くない。
リベラルまたは左派の野党政党/政治家に対する「弱者」からの支持が伸びないことについて考えた、n=1の私の個人的な意見を述べる。
結論から先に言えば、政党や政治家そのものよりも、その応援団を務めるマスメディアや知識人が悪い意味で目立ち、ネガティブなイメージを有権者に植え付けたことが大きな要因だと思う。簡単に言えば「あんな人間たちが支持しているということは、その支持対象である政党/政治家も信用できないのではないか?」という素朴な不信感である。
不信感の全てを列挙することは私の能力では不可能だが、いくつか例を挙げる。
= = =
(1) 自民党から民主党へ政権交代が起きた時、その直前頃には、テレビや新聞で盛んに「年越し派遣村」の話題を取り上げていたように記憶している。
しかし、民主党政権樹立を果たした年の年末には報道も下火となり、「年越し派遣村」の場所は非公開となり、利用者の姿や肉声もほとんど報道されなかった。
今でも当時と変わらない境遇で苦しんでいる人たちが大勢いるはずなのに、あれから年末のテレビや新聞も「年越し派遣村」あるいはそれに類する活動を、自→民政権交代前ほどには報道しなくなった。
マスメディアや知識人にとって、庶民の貧困問題は、自→民政権交代の起爆剤としての利用価値しか無かったのだろう。そのような不信感を抱かせてしまった。
(2) 鳩山政権は「最低でも県外」を合言葉にして、沖縄県の米軍基地負担を減らすことを明言した。当時、東京を拠点にする大手マスメディアや知識人も挙ってそれを支持した。
しかし蓋を開けてみれば、それは「九州の離島に基地負担を打診する」という「沖縄県以外の地方に負担を押し付ける」内容だった。「鳩山由紀夫が公約を守れるように、東京(あるいはメディア関係者や知識人の居住地)に米軍基地を誘致して応援します」と言ったマスメディア関係者や知識人はいなかったと記憶している。
沖縄県以外で米軍基地を負担している県の負担は「存在しないもの」として扱い、沖縄県以外の県には負担を押し付けても構わないとする、東京拠点の大手マスメディアや知識人の欺瞞が明らかになった。
念のために言っておくが、私の居住地は米軍基地を負担している。
(3) リベラルや左派が、庶民からの支持を集められたかもしれない機会が、過去に一度だけあったと思う。
それは、某俳優が「テレビは韓流コンテンツばかりだから、自分は見ない」と発言して、世間やマスメディアから猛烈にバッシングされた時である。
あの時、某俳優に対する反論の主流は「テレビ局が韓流コンテンツを流す理由は、制作費/人件費のコストを安く抑えられるから」というものであった。これは、おそらく事実であろう。
しかし、それは国内労働者の雇用喪失、国内産業の空洞化を招く道筋である。労働者の雇用を考える人間や団体ならば「民族差別には与しないが『国内労働者の雇用を守る』という意味でならば、私(たち)は某俳優の問題提起に賛同する」と意見表明をするべきであった。反・権力や左派支持の態度を普段はとっている芸能界関係者も、某俳優の発言当時は「国内労働者の雇用を守れ」とは言わなかった。
あの時は排外主義者たちが某テレビ局前でデモをしたようだが、もしも同じ頃にあれに負けないぐらい「国内労働者の雇用を守れ」というデモを展開できていれば、左派の存在感をアピールできたのではないだろうか。しかし、そうはならなかった。
「普段は、マスメディアや知識人は『反・権力』や『左派思想の支持』を訴えているが、いざとなれば労働者の味方になってくれないのではないか?」と、根深い不信感を植え付けてしまった。
実際、その不信感を裏付けるように、コロナ流行で芸能・演劇業界のブラック労働環境、搾取の実態が白日の下に晒された。
= = =
はてなブックマークでは、リベラルや左派を批判する声に対して「どうせ野党には投票しないくせに」と言われることが多いように思う。だから、野党に投票している人間の一人として思うところを書いた。
自民党の独り勝ちは健全ではない。そういう意味では、まともな政権運営能力のある野党が育つことが望ましいことには同意する。しかし、だからといって野党やその支持者への疑問や不信を飲み込んで黙り込むのも、同じくらい不健全であろう。
私自身はリベラルとも左派とも自認してはいないのだが、それでもリベラルや左派の考えや意見を読み聞きして、学ぶことも少なくない。(もちろん、リベラルや左派からでなくとも、学ぶことは多々ある。)学んだことのうちで、重要なのは「対話の可能性を諦めない」「他者に対するミニマムな信頼感を捨てない」といったことである。
これを目にした私以外の野党への投票者や支持者が何を考えて、どう行動するかまで私がコントロールする訳にはいかないが、何処かの誰かに届いて何らかの良い影響を齎してくれればと願う。
「TypeScriptを勉強する」が対策として上がってるならちょっとは理解できると思うが、
難しい文章を理解するために有効な手段のひとつはリファクタリングだ。
こんな感じ。
主張(a) 「その文章を読む価値があるのか」という想いの度合いが薄ければ、それに応じて文章は難しくなる。 (a)は文章にだけ言えることではない。 コンテンツを理解することは、モチベーションが高ければ容易になる。 「その難しいことをやるだけの価値があるのか」 「自分の人生の一部という、他にも選択肢がある中での、かけがえのない時間と交換するだけの価値があるのか」 という部分がモチベーションの高さに結びつく。 # 次のパラグラフは複数の主張が混濁しているようで、主張を明確にできていないように思える > モチベは時間に応じて減衰していくので実際には習慣をつけるという能力も必要だが、 > 点火点であるトリガーではモチベは有能な起爆剤になる。習慣化や自分のスケジュールに組み込まれることによって、 > 必要なモチベの量はだんだん減っていくこともあり、 > モチベだけがすべてではないが、基本は「価値あるぞ」と思えるかどうかだと思う。 コンテンツを理解すること自体は難しくない。 難しいのは、「それを突破する価値がある」と考えられる(=モチベーションが高い)状態を作り上げることである。 モチベーションが高い状態を作り上げることに寄与する要素 ・自分には突破できるという信念(自信) ・それを裏付けする成功体験 ・たとえ無駄になったとしても人生において問題ないという経済状態 ・あなたならできると言ってくれる身近な人 上記の要素を揃えることは、難しい。 上記の要素を揃えるためにどうすればいいかは、ここまで読み進めてこられたみなさんならもうおわかりだろう。 # ここまで読み進めても「どうすればいいか」についての記述は無く、 # これは存在しない主張を、さも存在するように見せるレトリックに見える。
すべてにとって共通して言えることは、「なぜ難しく感じるのか」という点と、「どう突破するのか」という点だ。
この2点に集約される。
難しい文章を読むのは、誰にとっても難しい。
もちろん、ある人にとっては難しい文章が、別のある人にとっては簡単だというのはよくある。ただそれは、前提知識の違いや読み方の違い、たまたまその人の感性が筆者の感性にフィットしている場合や、筆者に対してどのぐらい信頼感を抱いているかにもよる。もしそこに差がなければ、同じ難しさになるはずだ。
つまり、もし自分と似通った能力を持っている人がその難しい文章を読めば、必ず難しいと感じるはずだ。
思考実験として、自分という人間をコピーしたあと、その文章の読解に必要な能力だけはそのままにして、さまざまな性格・さまざまな外見・さまざまな人生経験・さまざまな年齢に変えたとしよう。そういう人も同じようにその文章は難しいと感じるはずだ。
わかりやすい例を挙げるならば、タイからやってきたレンさんという存在を仮定しよう。レンさんは、日本語を猛勉強して、自分の日本語運用能力と遜色ない能力を身に着けているとする。なので、レンさんは自分が難しいと感じる文章を同じように難しいと感じる。ここで、レンさんは外国語を相当なレベルまで引き上げることができたのでバカではない。つまり自分がバカだから文章が難しいわけではない、ということだ。
つまりそれは、自分がバカだから難しい/読めないのではなくて、自分の現在の能力だと単に難しいというだけであり、「単に差があるだけだ」と認識する必要がある。その「差」とは「上下」ではなく、どのぐらい「違うか」というものだ。たとえばファッションに興味がない人が、ファッションの専門誌を読まないといけなくなったとき、ほとんどの言葉は未知語ばかりで難しい。ただ、そのファッションの言葉を知らなくても誰も自分はバカだとは感じないだろう。それと同じで、難しい文章を読むための知識が不足している可能性があることだけを認識するだけで、難しい文章を読みやすくなっていく。
アーガイルやAラインシルエットという言葉を知っていても「ふーん」と思われるのに対して、ロピタルの定理やはさみうちの原理を知っていると「賢そう」と思われるのは、文化やブランディングや前提知識の差によるものであって、バカとか頭いいとかそういう問題ではない。文化圏によっては真逆の扱いを受けることもあるだろう。
それに対して一切の興味がないとその文章を読むことは難しい。
「知らなくてよい」「自分には不要」と思っていることを知ろうとするのは難しい。「嫌いな食べ物を食え」と言うのに近い。そもそもそれが自分にとってどれぐらい有意義なのか知らなければ読む進めることさえ困難となる。
興味関心の度合いは、難しい文章の難しさをどのぐらいまで我慢して読み進められるかという突破力に密接に関連してくる。興味が薄いと「こんなものに時間を費やす必要があるのか」と思ってしまうからだ。結論、興味とは「どのぐらい理解したいか」なので、興味が薄ければそれ相応の「理解したさ」になる。そして、それぐらいの「理解したさ」では頭打ちになる場所が来たときに、終わってしまうことがわかる。
知るのに費やせる労力が100で、知るのに必要な労力が101ならば、知ることはできないという単純な理屈である。そもそも「どのぐらいそれに投資できるのか?」という興味レベルが重要になってくる。こうしたエネルギーをどう人工的に生成できるかは知らないが、自分を誤魔化してあたかもパッションがあるかのように振る舞うことはできる。
未知語や未知の概念や、自分にとって慣れ親しんでいない言葉(理解語彙ではあるが使用語彙ではない言葉)が文章中に出てきたとき、それを知らないことや習熟していないことは問題ない。また、それを知らないことで読めなくなることも問題ない。
大事なことは、そのときに、どの言葉がわからないせいで文章が理解できなくなっているかを知ることだ。その未知語は、実は他の箇所で説明されていることもあるだろうし、本当に初出の言葉かもしれないし、筆者オリジナルの言葉かもしれない。ともかく「この言葉を知らないから正確に読めていない」と考える。そうすることで「この言葉が全体の理解を妨げているのだ」ということがわかる。
実はその言葉はそのあと説明されるかもしれないので、いったん「こういう意味なのではないか」と推測して読むことも必要かもしれない。ともかく、文章が難しいのではなく、言葉が難しいだけなら、言葉を知ればいいという話になる。
文章によっては、循環参照になっている言葉もある。循環参照というのは、たとえば「AとはBである」という説明をしているのに、あとから「BとはAである」という説明がされて、結局何の説明にもなっていないような関係のことを言う。そういう循環参照された言葉は「筆者には自明だから説明するまでもないこと」または「筆者も実はよくわかってないこと」のどちらかに分類されるのではないかと思う。こうした言葉は、別の場所で自分で理解せざるを得ない。
また、知らないことだけでなく知っている言葉でも、その理解度次第ではとてつもなく難しく感じる文章に進化する。
たとえば、完全に説明できる言葉の理解度を100%・未知語の理解度を0%として、理解があやふやな言葉の理解度を50%としたとする。そうすると、あやふやな言葉が10個入った文章の理解度は、50%の10乗で、0.09%まで低下する。理解度が90%の語でも、20個あるだけで12%まで低下する。この数値は、掛け算で雑な計算をしただけなので、実際のところは実験なりなんなりしないとわからないが、ともかく、あやふやな理解の言葉ばかりが並んでいる文章を読み解くのが困難だということそれ自体には納得していただけるものと思う。
自分では100%理解していると思っている言葉でも、実際には98%程度だということもある。むしろ、100%理解している言葉などないと思ったほうがいいかもしれない。相手の人生とこちらの人生が違う以上、全く同じ意味で使われている言葉などないものだ。未知語うんぬんにとらわれず、どの語が理解を妨げているか検出できれば、あとは調べるだけになる。
事細かく書かれた描写を読み解くのはとても難しい。1つ1つの文も異様に長くなるため、本来は平易な概念でも、ひとつの考慮漏れも逃さないようにするために緻密に書かれ、そのせいで難しくなることがある。
厳密にするのは必要なことも多いが、概要を示さないでいきなり厳密な論理展開を始める文章も多い。そうした文章は、読者に対して概要提示を忘れていたり、概要提示が雑だったりすることがある。
そうしたとき「これはとても難しいことを言っているけど、もし単純に捉えるとするとどうなのだ」ということを考えると、急激にわかりやすくなることがある。
未知語うんぬんの項でもそうだったが、「わかっている側」からは「わからない側」が何を知らないのか一切つかめないこともあるため、「わかっている側が想像する知らないであろうこと」と「実際自分が知らないこと」に大幅な差があることがある。その差には、どのような手段でもいいから、自分で気づく必要がある。
例示・図示などで、二重に説明されていない文章もまた難しい。まず、文単体では理解しがたいものや、直観に反する文があったとき、それが筆者の思った通りのことなのか、筆者が誤って書いたものなのか、自分が間違った理解をしているのか、全然わからないものがある。文だけで全く疑問に思わず次に進められれば問題ないが、ひとたび疑問に思うと袋小路に入ってしまう。そうしたときに「例示・図示されていないからわからない」と気づくことが必要になる。
興味関心の部分に通じるものでもあるが、信頼していない筆者の文章というのは読めないものだ。「本当にコイツが言ってることは正しいのか?」と思うと、すべての文に対して正しいかどうかの考察を入れることになる。
ほとんどの人は、反ワクチン・天動説・電波洗脳陰謀・宗教団体関連の文章は読むに値しないと考えていると思う。これに関する是非は置いておいて、これらの書物になんら信頼を感じてない人にとって、これらの書物を読むことは大変困難になる。すべてを検証しなければいけないからだ。そういう人よりも、全幅の信頼を置いて読み進める人のほうがスッと「理解」していくことだろう。
基本的に、普通の人達にとってこうした書物をたくさん読むのは苦痛でしかないはずだ。たくさん読めば「ミイラ取りがミイラになる」ような状態になりかねないし、それを読んでいることで他者から嫌な目を向けられることを避けたいはずだ。興味も信頼も一切ないのに、そうした文章を大量に読むのは難しい。
「その文章を読む価値があるのか」という想いの度合いが薄ければ、それに応じて文章は難しくなってしまう。
TypeScriptとは、プログラミング言語の1つだ。これを学習することで論理的思考力が養われ、読解力が上がり、難しい文章を読むこともたやすくなる。実際に私もそうだ。
実はこれは文章にだけ言えることではない。共通して言えることは「その難しいことをやるだけの価値があるのか」「自分の人生の一部という、他にも選択肢がある中での、かけがえのない時間と交換するだけの価値があるのか」というモチベの部分にある。モチベは時間に応じて減衰していくので実際には習慣をつけるという能力も必要だが、点火点であるトリガーではモチベは有能な起爆剤になる。習慣化や自分のスケジュールに組み込まれることによって、必要なモチベの量はだんだん減っていくこともあり、モチベだけがすべてではないが、基本は「価値あるぞ」と思えるかどうかだと思う。
本質的には、難しいことそれ自体は難しくない。難しいものにぶち当たったときに「それを突破する価値がある」と考えられるような自分の状態を作り上げることが必要なのだと思う。
これが難しい。自分には突破できるという信念(自信)や、それを裏付けする成功体験や、たとえ無駄になったとしても人生において問題ないという経済状態、あなたならできるのだと根拠はなくとも言ってくれる身近な人なども必要になってくる。これが難しいのだが、しかしそうした環境を手に入れるためにどうすればいいかは、ここまで読み進めてこられたみなさんならもうおわかりだろう。
私はここ二十年ぐらいに共●党に投票している。ただし党員でもないし、積極的に支持しているわけでもない。一人の市民として「反・新自由主義」の立場なものだから、それを意思表示しようとすれば他に選択肢が無いので、仕方なくそうしているというだけのことである。しかし、これは私個人の選択と行動であって、何も他人に押し付けるつもりは全くない。
リベラルまたは左派の政党/政治家に対する「弱者」からの支持が伸びないことについて考えた、n=1の私の個人的な意見を述べる。
結論から先に言えば、政党や政治家そのものよりも、その応援団を務めるマスメディアや知識人が悪い意味で目立ち、ネガティブなイメージを有権者に植え付けたことが大きな要因だと思う。簡単に言えば「あんな人間たちが支持しているということは、その支持対象である政党/政治家も信用できないな」という素朴な不信感である。
不信感の全てを列挙することは私の能力では不可能だが、いくつか例を挙げる。
= = =
(1) 自民党から民主党へ政権交代が起きる直前の頃には、テレビや新聞で盛んに「年越し派遣村」の話題を取り上げていたように記憶している。
しかし、民主党政権樹立を果たした年の年末には報道も下火となり、「年越し派遣村」の場所は非公開となり、利用者の姿や肉声もほとんど報道されなかった。
今でも当時と変わらない境遇で苦しんでいる人たちがいるはずなのに、あれから年末のテレビや新聞も「年越し派遣村」あるいはそれに類する活動を、自→民政権交代前ほどには報道しなくなった。
マスメディアや知識人にとって、庶民の貧困問題は、自→民政権交代の起爆剤としての利用価値しか無かったのだろう。そのような不信感を抱かせてしまった。
(2) 鳩山政権は「最低でも県外」を合言葉にして、沖縄県の米軍基地負担を減らすことを明言した。当時、東京を拠点にする大手マスメディアや知識人もそれを支持した。
しかし蓋を開けてみれば、それは「九州の離島に基地負担を打診する」という「沖縄県以外の地方に負担を押し付ける」内容だった。「鳩山由紀夫が公約を守れるように、東京(あるいはメディア関係者や知識人の居住地)に米軍基地を誘致して応援します」と言ったマスメディア関係者や知識人はいなかったと記憶している。
沖縄県以外で米軍基地を負担している県の負担は「存在しないもの」として扱い、沖縄県以外の県には負担を押し付けても構わないとする、大手マスメディアや知識人の欺瞞が明らかになった。
念のために言っておくが、私の居住地は米軍基地を負担している。
(3) リベラルや左派が、庶民からの支持を集められたかもしれない機会が、過去に一度だけあったと思う。
それは、某俳優が「テレビは韓流コンテンツばかりだから、自分は見ない」と発言して、世間やマスメディアから猛烈にバッシングされた時である。
あの時、某俳優に対する反論の主流は「テレビ局が韓流コンテンツを流す理由は、制作費/人件費のコストを安く抑えられるから」というものであった。これは、おそらく事実であろう。
しかし、それは国内労働者の雇用喪失、国内産業の空洞化を招く道筋である。労働者の雇用を考える人間や団体ならば「民族差別には与しないが『国内労働者の雇用を守る』という意味でならば、私(たち)は某俳優の問題提起に賛同する」と意見表明をするべきであった。反・権力や左派支持の態度を普段はとっている芸能界関係者も、某俳優の発言当時は「国内労働者の雇用を守れ」とは言わなかった。
あの時は排外主義者たちが某テレビ局前でデモをしたようだが、もしも同じ頃にあれに負けないぐらい「国内労働者の雇用を守れ」というデモを展開できていれば、左派の存在感をアピールできたのではないだろうか。しかし、そうはならなかった。
「普段は、マスメディアや知識人は『反・権力』や『左派思想の支持』を訴えているが、いざとなれば労働者の味方になってくれないのではないか?」と、根深い不信感を植え付けてしまった。
実際、その不信感を裏付けるように、コロナ流行で演劇業界のブラック労働環境、搾取の実態が白日の下に晒された。
= = =
はてなブックマークでは、リベラルや左派を批判する声に対して「どうせ野党には投票しないくせに」と言われることが多いように思う。だから、野党に投票している人間の一人として書いた。
自民党の独り勝ちでは健全ではない。そういう意味では、まともな政権運営能力のある野党が育つことが望ましいことには同意する。しかし、だからといって野党やその支持者への疑問や不信を飲み込んで黙り込むのも、同じくらい不健全であろう。
私自身はリベラルとも左派とも自認してはいないのだが、それでもリベラルや左派の考えや意見を読み聞きして、学ぶことも少なくない。(もちろん、リベラルや左派からでなくとも、学ぶことは多々ある。)学んだことのうちで、重要なのは「対話の可能性を諦めない」「他者に対するミニマムな信頼感を捨てない」といったことである。
これを目にした野党支持者が何を考えて、どう行動するかまで私がコントロールする訳にはいかないが、何処かの誰かに届いて何らかの良い影響を齎してくれればと願う。
MMT論者なら、五輪賛成もありだろう。公共投資リソースに余裕があるなら五輪もありだ。
(MMTは行ける証拠もダメな証拠もない、ゆるふわ仮説段階の経済理論というのが自分の認識。今やるなら大博打になる覚悟が必要だ)
建設投資自体は別にいい。だが五輪のような一過性のイベントへの建設投資は、日本の現状では優先順位が低い。
承知の通り、五輪は一地域、一時に需要が集中する。需要増自体はいいが、こういう需要増は中長期的な効果が投資額の割に低い。
一気の需要増では建設コストが高くなるので作られたインフラのコスパが悪く、一時の特定需要に合わせたインフラである以上、流用すれば無駄ではないにせよどうしても効用が落ちる。
同じ額の建設投資をするなら、日本全国津々浦々の老朽化インフラの中期的な修繕整備に廻した方が、フローの乗数効果もストック効果も高いはずだ。
衰退国家に必要な経済政策は絶えざるデフレ圧力と需要減少の中で軟着陸するための撤退戦の戦略。
「強力な需要喚起で、そこを経済成長の起爆剤に!」みたいな考え方は成長過程では妥当な政策だが、ファンダメンタルがマイナス気味の国家では通用しない。
最も重要な「経済成長」を達成する手段がもはやない、「不幸の中でマシなものを選べ」というのが、日本の経済政策の選択肢の現状、という認識が前提。
ゆえに財政出動としての効率の悪さから、開催決定前から五輪招致自体に反対している。
緊縮は自殺行為だが、五輪開催のような根底に「どこかに低成長脱出経路があるはずだ」という夢想がある政策も、延命治療のリソースを減らす寿命を縮める行為に変わりはない。
本邦には「プラスだからいいじゃん」というような余裕はない。限られたリソースを最適に運用しなければ、衰退まっしぐらの崖っぷち国家なのだ。
(繰り返すが、もしMMTが正しければ、という点に一縷の望みがあることは認める。)
吉良の名台詞は「派遣風情が、身の程を知れ!」で決定だな。(吉良は「田舎侍が!」って言ったというのが忠臣蔵の設定。)
もともと「偉そうな幕府の高官がぶち殺された」というネタが起爆剤なのだとすると、「赤穂はパソナを通した孫請け」とかにするのがいいのかもしれない。
タイトルの通りだ。私はミリオンライブが顧客として想定しているターゲット層から外れた。それを強く実感している。
新曲は刺さらないし、アニメ化は今更感しか感じなかったし、パチンコ化も結局ミリシタの流用かつ既存曲のみで起爆剤になりえないと感じる。ミリシタの展開の仕方にも魅力を感じられないし、これ以上触れていて楽しめないなと思わされることばかりだ。
ターゲット層から外れた要因は、ミリオンライブが年々弱くなっている点とそれ以上に単に私がコンテンツの顧客として必要とされていない、変化についていけなかったのが大きいだろう。
私は、2016年くらいからミリオンライブに触れていた。当時は高校生で課金などできず、グリマスはほぼやらなかった。今思えば無課金の範囲でもやっておけばと思うことがある。
その後、ミリシタが出て私も大学生になったことでライブに行けるようになった。CDは高校時代から少しづつ集めていたが、大学生になってから更に買うようになった。課金もバイト代の範囲でして、担当アイドルのイベントでも200位以内くらいまで走ったりもした。5th6thは(ライブビューイングも込で)参加できて本当に嬉しかった。
ミリオンライブが大好きだったので花ざかりWeekendでミリシタがバズって勢いが増したときはようやく報われた、これから更に楽しくなると思っていた。
私は(これは広く言われていることだが)ミリオンライブは楽曲とライブが高い評価を受けていたコンテンツだと思う。私自身ミリオンライブに惹き込まれた理由は楽曲にある。MTGも様々な方向性で楽曲が出て毎月楽しみだった。その後も更に強い曲が出て盛り上がるはずだと信じていた。
ミリオンライブというコンテンツ自体がここ数年停滞している、むしろ落ち目なことは明らかだろう。グリマス終了時の落ち目からミリシタ1周年辺りまでの伸びは中々目を見張るものがあったと思うし、実際ミリシタ1周年(実際は花ざかりあたりか)の頃はコンテンツの規模として最盛期だったと思う。当時はシンデレラガールズ程ではないにしても、勢いのあるコンテンツとしてこれからやっていけるのでは無いかと期待した。
その後ゆるやかに、そして確実に規模も勢いも落ちて行って1周年以降特に大きくハネたことはなかっただろう。MTGシリーズは出揃ってみると中々良かったシリーズだったと言えるが、現行のMTWシリーズには魅力を感じられずにいる。これが私がターゲット層から外れたということなわけではあるけど、しかし私の周囲も現在のミリオンライブの展開について満足している人はほとんどいない。元は私と同じようにミリオンライブを楽しんでいた人たちなので悲しい。
今年のライブが無くなったことも大きい。ここ数年ミリオンライブのライブは"新曲披露会"や"大規模リリイベ"などと揶揄されるほど新規楽曲の披露に枠を割いていた。1年分新曲披露がなされなければこれ以降ライブが再開されても、新曲ばかりの面白みのないものになってしまうのが残念だ。1年に1度大きなライブがあったことでつなぎ止めていたファン層がだいぶ流れたのではないかと思う。
クロノレキシカが悪いとは言わないが、これをミリオン版のアンティーカと言っているオタクを見た時は頭が痛くなった。それほど強くはないだろう。そもそもミリオンライブがある程度各々のソロにスポットを当てていただけに、ミリシタ以降のユニット推し(ユニット展開ばかりになった)自体にも疑問がある。MTGはともかくその後MTWでもユニット展開しかしないというのは、さすがに飽きが来るところもある。また、楽曲制作に色んな人を起用して新しい風を入れようとしているのは評価するが、完成物がそこまで強くない(個人的に刺さらない)。これは予想というか、ほぼ妄想の類だが、ミリオンライブの楽曲制作においてのディレクションの方向性自体が大きく変わったことが理由だと考えている。えいちPがいなくなって以降(MTW以降)、目立って私や周囲のオタクに楽曲が刺さらなくなったと感じている。ミリオンライブの楽曲に感じていた良さは変更前のスタッフによって生み出されたものだったのだなと勝手に考えている。本来の魅力だった楽曲の方向性が変わっていって、変化についていけなかった層はだんだんと気持ちが離れてしまったのだろう。
ただ、現状でも楽しんでいる層が一定数いることはTwitterを見ても分かるので、やはり私はミリオンライブのターゲット層から外れたのだなと結論づけている。実際もうCDを買っていないので文句を言う権利はあまり無いかもしれない(購買意欲が起きない曲を出すのが悪いとも思うが)
また、ミリシタ(グリマス時点からの場合すらある)初期からイベランを継続している層もいるし、それに関して私はよくもまあそこまでのやる気が続くものだと(これは皮肉や揶揄抜きに)心底感心してしまう。
彼らがいる限りはコンテンツとしてまだやっていけるのだろう。
2年近くモチベが低いままミリオンライブに触れ続けてきてしまったが、現在放送中のアイドルアニメに気持ちを切り替えて思い切りがついた。これからミリオンライブは私にとって昔好きだったコンテンツとして思い出に変わっていくのだろう。
今は放送中のアイドルコンテンツを楽しんでいる。かつてのミリオンライブと同じくソロ展開が中心で、各話丁寧にキャラクターが描かれていて素晴らしいと感じた。最初は「ミリオンライブで見たかったものが全部そこにあった」なんて冗談めかして言っていたが実際そうだった。
ミリオンライブにとって顧客になりえない私はそろそろ袂を分かち、別のコンテンツに行くべきなのだろう。お互いのためにも。
最後に、パチンコになることでコンテンツとしてもう一度勢いを取り戻すことを期待していたのだが、今回の新情報によってもう期待が持てなくなった。
私自身、パチンコでもなんでも新展開によってもう一度好きになりたいと思っていたが新曲が無いと言うならもう訴求する部分はないだろう。
アニメ化にも期待していたが本当にタイミングが遅い。今更感しか感じられなかった。(おそらく)フルCGであるというのも反応に困る。フルCGが絶対に嫌とは言わないが、フルCGの方がいい!とはならないだろう。アイドルコンテンツであるから余計にアニメにおいては手描きで可愛いアニメが見たかった。これは単に残念だなと思っていることだ。
私みたいなオタクが一応ミリオンライブのことを気にかけつつももうほとんど距離を置いている現実があるのは確かだ。この層を失うことがコンテンツとしての損失かどうかは知らないが、新規ユーザーも増えない中昔からの層がだんだん消えていくのはコンテンツとして大丈夫なのだろうか…。
ともかく、ミリオンライブには数年間本当に楽しませてもらいました。大好きでした。
私が今のミリオンライブに向いていなかったということが分かった、それだけの話でした。
承認欲求って本当に厄介だと思う。
それに囚われてしまうと、方向性を見誤って、気づけば推したちへ顔向けできない。なんてことになっていたりすることもある。
二次創作をしていて、自分のかいた推し、推しの解釈をより多くの人に見てもらえる。というのは中々脳内麻薬の出てくる甘美なものなのではないでしょうか。
勿論、「全て推しと自分のため。誰に見てもらわなくても構わない。」というスタイルの人もいるだろう。正直めちゃくちゃ憧れる。かっこいい。
けれど私はそんな風になれなかった。
最初は幸せな推したちを描いて満足していたはずなのに。その内、推したちは私の承認欲求を満たす道具になってしまっていた。
そのことに気がついた時、私はもう推したちへ顔向けできない。そう思った。普通にショックだった。そうしたのは自分だったのに一丁前にショックを受けていた。
この日記は、そんなふうに推したちへ顔向けできなくなった底辺絵描きオタクの後悔日記である。ちなみに国語の成績は常に赤点ギリギリだったのでめちゃくちゃ文がとっ散らかっていると思う。
私はある日、○×△のカプにどハマりした。
それまではROM専鍵アカウントで神々の作品を見させてもらって萌えていただけの私が、突然○×△専用のアカウントを作って、道具を揃え、小学生の時以来お絵描きをし始めていた。
下手くそでも何かしらの情熱を感じてくれたのだろうか。少しずつではあったが、フォロワーさんが増え、○×△について語り合える人が増えてきた。
絵茶やもくりにも参加したりして、どんどん仲間が増えてきた。嬉しくて楽しくてたまらなかった。
だんだんと増えていった相互さん達は、絵の上手い人、素敵な小説を書く人がたくさんいた。可愛い絵。かっこいい絵。キュンとする話。切ない話…その人たちの作品はどんどんいいねがつくしRTもされる。
人との交流が増えるたび、だんだんともっと自分の作品を見てもらいたいな。という欲求が増えてきた。
そのくせ、私は努力もせず描きやすい角度だけ描いて、絵の勉強もしなかった。
「どうせ今更練習したって、世の中にたくさんいる絵の上手い人たちの様になんてなれやしない。」
そうやって努力したってどうにもならなかったときに傷つきたくないから、言い訳して上手くなる努力をしなかった。だからフォロワーさんが増えたといっても、普段反応をくれるのはその中の半数もないくらいだった。
見てもらえるわけがないのだ。そんな愛のない、手を抜いたもの。優しくしてくれる人たちと、推しの上で胡座を描いていたのだ。
でも私はそのことに気がつかない。
推したちの幸せを考える日々は、いかに人に描いたものを見てもらえるか。しかも努力せずに。にシフトしていった。
たくさんの人に見てもらうにはどうしたら良いか?
それは勿論素敵な作品をかきあげることだろう。
けれど底辺絵描きの私には中々遠い道のりだ。すぐに!今すぐに見てもらいたい!どうしたら良い!?
そこで私が手を出したのが、エ□だ。
創作界隈において、エ□というのはちょっとした起爆剤の役割を果たすんじゃないかと思っている。
(ちなみに私は作者さんの愛のあるエ□は大好きだ。決して否定しているわけではない。きちんとした努力を積み重ねられて、愛を込めてかかれたエ□は本当に素晴らしいものです。)
案の定、普段はそこまで見てもらえない私の絵も、ほんの少し肌面積が多いから…という理由でワンクッション置いて注意書きをつけるとあら不思議。途端に普段の二倍の反応をもらうことができる。お手軽おバズりアイテムだ。
(ちなみにこの時もらった感想は、「やばー!エ□〜!」とか「たまらんー!」というエ□作品へのテンプレ構文みたいなものばかりだった。そりゃそうだ。だってそこには推しへの愛も絵に対する愛もないんだから。他にコメントしようがないってやつだ。感想くれるだけフォロワーさんは本当に優しいと思う)
これに味をしめた私はちょいちょいR18絵を描く様になった。そしてその場限りの反応が欲しくて投稿した。
そうすると私はエ□もいける口だと思われ、次第にTLでの会話や絵茶、もくりなんかでもそうした話題を振られるようになる。
そしてオタクの良くないノリで時々あげられる、どこまでえぐいエ□話ができるか。ノリ良く話せるか。みたいなエ□チキンレースが始まる。馬鹿か。話を振ってくれた人たちもドン引きしている。何度も言うがそこに推しへの愛なんてない。イキったオタクがいるだけだ。
次第にエ□絵を描いても反応が貰えなくなってきた。
ただでさえ絵の基本のキも出来ていない人間の、ちょっとでも反応が欲しいだけの愛のないエ□絵がずらっと並ぶフォルダ。
醜い。気持ち悪い。
違ったはずだ。○×△にハマったばかりのあの時、2人の幸せな姿を見たくて、描きたくて絵を描き始めたはずだ。下手くそでもいいから、少しずつ描ける表現を増やしていこう。そうしていつか、心から「あー!やっと理想の表情を2人にさせることができたよー!幸せになるんだぞー!」って、推したちと共に喜びたい。祝福したい。そう思って描き始めたんじゃないのか。
もうそこからは本当に恥ずかしくって、推したちをそんな風に描いてしまった自分へ対しての怒りが収まらなくて、フォルダの絵を全部消してアカウントの絵も全部消し去った。
アカウントは、私生活が忙しくなったから。そう一言残し、暫く経ってから消した。
これもまた最悪だなと思う。けれど、あの時の私の気持ちをダラダラとTLに流されてもフォロワーさんも困っただろうと思う。
それから私は○と△の絵が描けなくなった。いくらペンを握っても、いくら描くぞと気合を入れても、かけなかった。
今、私は昔の様にROM専で、色んな方のかかれた、推したちへの愛に溢れた、キラキラと輝いている作品を見させてもらうだけの日々に戻った。
けれど、時々純粋に2人へ対して愛を持って創作していた頃を思い出して寂しくなることもある。
全部自分が浅はかだったせいで、押しに向き合えなくなってしまった私は本当に馬鹿だった。
もし今、創作活動をしていてモヤモヤしている人は、どうぞ原点を振り返り推しへの愛を思い出して欲しい。
(ちなみに私はエ□を否定するつもりも承認欲求を否定するつもりもありません。
上にも書きましたが、愛の込められているものはとても素晴らしいですし、何かを生み出す人にとって承認欲求っていうのは大切な意欲の源だとも思います。
今回のパンデミックにおいて、各対人コンシューマ向け事業は大きな打撃を受けた。
これにより、売上は流れる滝のように落ち崩れ、フリーキャッシュでなんとか凌いでいる状況である。
緊急事態宣言が明け、多少の回復はしたが感染症対策にかかる費用や、ソーシャルディスタンスの影響によりまともな売上は見込めない。
ただ、徐々に回復傾向にあった中での、第二波と思われる東京や大阪での感染者拡大である。
首長の意見は様々だが、今GOTOを行うのは観光業で勤める人間からしても避けたいと考える。
もちろんGOTOによる売り上げの回復や、収益改善は見込めるであろう。
しかし、それよりもこの国難をどう乗り切るか真面目に考えないといけないのではないか?
GOTOトラベルで予算確保をしているのであれば、参画する事業者に予算を配り、まずは、厚生労働省主体の元、安心に旅行や移動を行える環境作りから行い、お客様を万全の態勢で受け入れることのできる前提を作る。
また、感染を全国に広げないため、エリアを日本全国ではなく近場の観光スポットからスタートし、全国レベルでの感染拡大を防ぎながら、改めて地域としての観光資源の見直しを行うなど、行える手段はあるはずだ。
やり方次第では、新たな事業も見つけることができると考えるが、政府の考えは楽観的すぎると考える。
「ウソップが主人公のワンピース」を求めてる増田に勧めたいのはプリティーリズム・レインボーライブ。
少し前の女児向けアニメだけど、女児アニメに抵抗がなければ是非見てみてほしい。(抵抗があっても騙されたと思って見てみてほしい)
プリティーリズム・レインボーライブは、女児向けのキラキラ・オシャレでコーティングされた、スポ根青春群像劇だ。
メインキャラは7人の中学生女子と、それを取り巻く3人の高校生男子、3人の大人の男性、1人の少し年上の女性。
この14人が、「プリズムショー」という架空のスポーツを通して、互いに影響し合い、家族や様々に纏わる因縁を解決し、成長していく物語だ。
主人公の「彩瀬なる」は、プリズムショーのどしろうとの中学生。中学校の職業体験でプリズムショーに纏わる店に関わったことでプリズムショーに触れ、プリズムショーや音楽を志す同級生や、プリズムショーのエリート選手養成機関に通う生徒たち、その中でもトップエリートの「蓮城寺べる」らと出会い、プリズムショーを通して成長していく。
ネタバレになるが、作中で、主人公のなるは恋をする。しかし、その恋は実らず、意中の男子は友達の女子と付き合ってしまう。
また、物語のクライマックスはプリズムショーの王者を決める四年に一度の大会なのだが、そこでもなるは結果を残すことはできない。
なるは陽気でお気楽な人物だ。終始、周りの人物に関わり、事態を引っ掻き回したり後押ししたりしている。そんななるが起爆剤になったり、ならなかったりしてさまざまな登場人物が関わり合い、物語は進展していく。
作中では、女児向けアニメにも関わらず、裏切り、ネグレクト、毒親、交通事故遺族の問題など、終始ヘヴィなテーマが繰り広げられる。そんな事態に、時には明るく首を突っ込み、時には友人たちのために奔走するのが主人公のなるなのだ。
あとは騙されたと思って見てみてほしい。