はてなキーワード: 美術館とは
男性が相手であるときにはしないような内面への踏み込みの試みを、女性相手にしたことが何度もある。それはたとえば、偶然を装ったメールを送って会話を続けてみることだったり、一緒に街を歩いたり美術館に行ってみませんかと誘ってみることだったり。
同性相手でも、仲良くしたいなあと思う人にメールしたり外出の誘いをすることはあると思うんだけどそれとどう違うのか知りたい。
同性相手だと美術館に絵を見に行きたいと思って誘うが、異性相手に美術館に誘うときには絵なんかただの口実でどうでもええわいと思っているのか?
個人的には友情と愛情に大きな隔たりはなく自分のパートナーは配偶者であると同時に人生で最大の親友だと思っているから、この増田みたいに「異性相手だと同性相手とは全く違うムーブをキメる」と言う感覚がよく分からない
自分は数年前に結婚できた(元?)非モテ男性なんだけど、結婚したことで恋愛ゲームから降りられて本当に良かった、というのが、noteの某記事を読んでの感想。
女性をダッチワイフであるかのように眼差すホモソーシャル的な男の子ノリには小学生の頃からまったくついていけず、そうかといって、いわゆる女心の機敏みたいなものにも疎くて当然モテるわけもなく、周囲からはちょっと爪弾きにされたような感じで人生の大半を過ごしてきた。
でも、そういう立ち位置にあったって、自身の内側からは多少の性欲や孤独感が湧き出してくるわけで、そうした衝動にかられて異性と良い仲になりたいと思ったりもしていた。イケイケの男女の交際や恋愛を理想的に祭り上げる世の中の雰囲気や価値観もそうした衝動に一役買っていて、自分がモテないという事実に必要以上に焦っていたと思う。
性別を考慮するより前に相手の人格を尊重したいと思うのだけれど、そうした内外の圧力によって形作られた衝動がときどき理性を裏切り、あわよくばもっと仲良くなれないだろうかという感じで、男性が相手であるときにはしないような内面への踏み込みの試みを、女性相手にしたことが何度もある。それはたとえば、偶然を装ったメールを送って会話を続けてみることだったり、一緒に街を歩いたり美術館に行ってみませんかと誘ってみることだったり。
当時の自分としては、嫌なら断ってもらえれば良いし、という気持ちでそうした誘いを投げかけていた。けれど女性からすると、下心の透けて見えたかもしれないそうした誘いを投げかけられること自体が不快だったかもしれないし、男性から女性に対して絶え間なく押し付けられる性的なハラスメントに連なるものとして、忌避感を抱かれていたかもしれない。冷静になると、そうした男性としての自分の業に嫌悪感を抱き、異性にそうした迷惑をかけるくらいなら自分は一生ひとりで生きていくのだとも思う。けれど、内側から湧き出してくる性欲や孤独感が理性をたぶらかし、いつしかまた女性に「あわよくば」という誘いかけをしている自分を認め、自己嫌悪に陥るのだった。
今考えて唯一救いに思えることは、社会的立場が自分より下にある女性に対しては、そうした誘いかけをしなかった(と思っていたけれどひとつだけあった。業が深い…)ことだ。
恋人や配偶者などのパートナーが自身にいない状態では、内側から湧き出す衝動に突き動かされ、しかし獰猛な男性性を理性は拒否し、ダブルバインドの状態で女性に接することになる。自身の下心と格闘し、相手の心を読もうとし、自分がどう思われているか、好意を持たれ得るのか、メタにメタな視点を重ねて自身や相手のことを考えに考えるが、答えはどこにもみつからない。
こうした葛藤と心の読み合いの恋愛ゲームは本当に自分を消耗させる。もし自分がこうした煩悶なく、目の前の相手と性別に関係なく対等な人間として向き合うことができればどんなに良いだろうかと、何度も何度も思うのだった。
そんな時代を経て、私は運良く結婚することができた。そして、この恋愛ゲームから降りられて本当に良かったと思う。当時、パートナーも異性との駆け引きみたいなものに憔悴しており、お互いに早くこのゲームから降りたいということで、付き合いはじめてからすぐに結婚しようということになった。
誰かの配偶者という立場になることで、もう相手を探さなくていいのだという安心を得ることができ、他者からは「この人は下心を持って私に接してきているのだろうか」と思わせてしまう負担を減らすことができる。独身時代は、性別に関係なく人間として惹かれた異性に対し、もっと相手のことを知りたいと何らかのアプローチを試みていく際、下心を持って接してきていると思われていないだろうか、という恐怖が常にあった。たとえ結婚していても不倫などはあるからゼロにはならないものの、夫というステータスを手に入れ薬指に結婚指輪がはまっている現状、異性との人間関係を構築していく際、過剰な自意識に悩まされる場面はだいぶ少なくなった。
女性からすると、気持ちの悪い下心を振りまいておいて、贖罪もなしに自分だけ「あがり」になってまたこんな気持ちの悪い文章を書いているのかよ、ということになってしまうかもしれない。そんな人間がこんなことを言うのはまったくおこがましいかもしれないけれど、誰しも目の前の相手と性別に関係なく対等な人間として向き合うことができればどんなに良いだろうか、ということを心の底から思う。
上京して都内大学生だったとき大きいとこだけそこそこ回ったけど
回る時間帯平日お昼だとジジババサボリーマン比率高めであとわずかに大学生みたいな感じで書かれてる内容とだいたい同じだと思う(休日は混むからいったことない)
けど土日なら小中学生いっぱい来てたりするんじゃないの?自分は土日の美術館には行かなかったからもし行ってたら状況教えてほしい
障害者手帳を持っているので、東京にある国公立の美術館・博物館は無料で入れる。
よく田舎だと美術館や博物館がないから子供に文化資本が付かない、とか言っている人が多いが、
東京の美術館や博物館でも、中高生や小学生とかほとんどいない。
実際のところ、東京に美術館や博物館が沢山あっても、東京の子供は観に来ていないのだ。
東京育ちでも美術館に行ったりするようになるのは、大学に入って以降。
そういう意味では、美術館や博物館に関して、東京と地方の文化資本の格差なんて誤差程度なんじゃないか。
地方に住んでいても、家族旅行で東京に来て、上野の美術館や博物館を回れば、東京の子供と差はないんじゃないか。
東京住みでも文化資本低めの家庭なら、子供を美術館・博物館に連れて行かずに、ディズニーランドに行くだろうし
タイトル通り
本を読んで知識をつけたいんだけど、何を読めばいいかまったくわからんのよ。
なんかさ、映画とか観るじゃん?
こないだアマゾンプライムでゲットアウトみて、面白いなと思ったからアメリカにおける黒人差別とか南北戦争について知りたいなと思ったんだけど、そういうときにどんな本読んだらいいかわからん。
日本がジェンダー面で遅れてるっていうのはしってるけど、他の国が今どんなで、どういう風に解決したとか。
美術館いっても、絵みて綺麗だなーと思うだけで、ちょろちょろっと書いてる説明読んでも歴史背景がわからんからよくわからない。
キューバ革命、台湾と日本の関係、中国の歴史全般、新撰組って結局何、ルワンダ難民、さまざまな差別問題、日経平均が上がるとどうなるの、わからないことだらけ。
そういうわからないことを説明してくれる教科書的な、初学者向けの本の探し方がわからない。できれば偏った思想とかないやつ。
ラテン語は絶対にやっとけ。ラテン語できる大学も限られてるし。やっとけばヨーロッパ系の言語が楽しくなる。イタリア旅行に行った時にあっちこっちに書いてある教会の銘文だの碑文だのも読めるぞ。クラシックの宗教曲とかも楽しく聴けるし、美術館で宗教画にちょこっと書き込まれた文字とかも読める。他人と会話はできないが文化の解像度が上がって楽しい。
イタリア語もラテン語のついでにできる。もっと言えばフランス語もわりとついでにできる。ただ難点はむちゃくちゃ混ざる。
ちなみにイタリアでラテン語喋ってもそこそこ通じたけど、フランスでラテン語は通じなかった。あとラテン語には現代的な語彙がない。一応あるにはあるけど運用しないから覚えない。
どうせ学校や会社の外ではユニクロGUの服着てイオンシネマで映画見て、ブックオフとかツタヤで本買ってくら寿司食ってニトリのベッドで寝るんだろ。
上京して数年経つが上記は休日はいつも混雑してるし、30万人都市もそんな感じだったよ。
そこから差別化するとして美術館だの博物館だの言ってるけど正直苦しい。自分もその辺によく行くが、ある程度教養積んでからじゃないと、印象に残らないただの落書きとガラクタだろう。家で鑑定団とか見てる方が文化的だろう。実物を見たから自分が文化的だと思うのはあまりにも野蛮。
下北沢や神保町みたいな街は確かに田舎にはないね。カレー、コーヒー、古着…この辺は簡単に周りと差別化できるからアイデンティティを守れていいね〜。蕎麦打ちにハマってるおっさんとそっくりだよ。
東京の大きい街は薄く延ばした田舎のデカいイオンモールでしかない。バーガーキングがないだけで店は一緒。バーガーキングが文化的資本だとしたら負けを認める。
文化資本論って絶対ウソだと思うの。母親も祖母も図書館や美術館が大好きでよく出かけてるけど、すこぶる頭が悪いもん。文化資本論って本を読むのが偉いみたいな感覚の延長にある気がするけれど、娯楽として大衆小説を読んだり絵画を見たりしてるだけならテレビドラマ見てるのと変わらないと思うの。実際韓国ドラマも暇さえあれば見てるし。
Twitterで校正紙の指示がすごいってのを読んで興味を惹かれて行ってみた。
久々の遠出、久々の美術館。
まず着いたら遠目から黒い人だかり。
120分待ち。
ちょっとは並ぶと思ったけど、
こんな状況になる前もでかい箱モノの美術館ってそんな行ったことないからわからん。
交通費払って来てるし、並ぶことを決意。
鍛えてない足は並んでいるだけで疲れたけど、
よい日光浴になった。
120分とかビビらせといて人減らして
(対策で閉まってるっていってもこの人混みで今更…と思わなくもないけれど)
チケット買えたと思ったら、入場までにさらに30分近く並んだ。
時間指定とかでまた待たされるのもヤだし、まあ良いよここまで来たら。
はい、やっと入れた〜。
中混んでそうだな〜と思ったら実際めっちゃ混んでた。
撮影禁止って書いてあるのに、展示室スマホ持った不届きもの多いな〜って最初感じちゃったけど
入ってからずっと年配の女性のインタビューっぽい音声がずっと流れてる。
カタカナ語が多いからなんだろうって思ってたら、石岡さんの声っぽい。
なんとなく情熱感じる。
これもQRコードで文字で読めるらしいから、ちゃんと聞き取ろうと頑張らず
とりあえずBGMにして展示を見ることにする。
(校正紙のに惹かれたのと、見たことないけど聞いたことある映画『落下の王国』の人、というのと
好きな映画『白雪姫と鏡の女王』の衣装の人、ということくらいしか知らないで来てるよ)
元々資生堂の人なのかっていうのも知らなかったけど、
反対とかされたのねじ伏せたのかな? 海外ロケの先駆けか〜はあ〜へ〜
実際のポスター、なんか赤い丸に細かい効果線?が効果的なのかな。
よくわからんけど、力強くて印象的だ。
日の丸とか桜とかいろんな図柄やら伝えたい意図、考えを落とし込んでいって
ポスターの形にしてたことが、たくさんのメモから伝わってきた。
おもろーこういうの見たかったんだよ! ってなった。
まずここで圧倒されたよ。
「鶯は誰にも媚びずホーホケキョ」
って一歩間違えれば意味わからんダサくなりそうな、でも力のある言葉を
ビジュアルで納得させられて格好良く感じる。
キャッチコピーの力も大きいけど、
肌の色が濃い人の美しさ? を全面に出してるの
当時鮮烈だったのでは? 今でも新しく感じるくらい。
むしろ今でも通じるというか、今こそ見たい感じもする。
見比べると仕上がりやっぱ良い。
指示怖いとかTwitterで書かれたの見てたけど、怖さは感じず
的確さ、仕上がりを追求する姿勢に圧倒された。
そんでまたまた圧倒されたのが
否が応でも刺さってくる、図のみでこれでもかと訴えかけてくる…
やば…と思ったらやっぱり説明文にD社と著作権で協議したって書いてあった。
でもわかってただろうにそういうの込みで発表した気概がすごいし、
その完成度もすごいんだこれがまた。
あきらかに校正紙と完成品のポスターで手をはじめ全体の立体感とかが違って
(途中エスカレーターとか乗って階変わってまだまだ見れるのか! と量の多さにびっくり嬉しくなった。
「風姿花伝」っていうのを出版して売り込んでくってのが格好良いなあ。
本も表紙だけでデザインセンスがあふれてることが伝わってくるよ。
企画とか舞台とか演出とか衣装とか色々な分野で活躍してたらしい。
石岡さんという方が自ら仕事を創り出せる、切り拓いていく方だったんだろうなあ。
着物の柄、生地、光沢、色合い惚れ惚れした。写真の見せ方も素敵。
舞台衣装、その舞台を輝かせるための舞台がある間だけのものだけど
こうやってじっくり見られるの嬉しいな。
グラミー賞とかトニー賞とか、詳しくない素人でも聞いたことのある賞を受賞されてることをここで知る。
いろいろ映像とかみてなんか暗幕くぐって次の部屋入ったら
床と壁全面金ピカで金閣寺があった。びっくり!
回り込むとなんか金閣寺割れてる。触れないように金閣寺中入れたよ。楽しい。
準備した人、企画した人大変だっただろうなー
展示の期間の終盤に来たけど、床きれいだった。
カンヌのなんか賞獲得したけど日本では遺族とか色々で公開中止で
流れてた映像ダイジェストだけど、ラブホとか神社の鳥居が沈んでるのとか
色々なんかひっかかったのかもねと思わされた。(実際はどこのせいかはわからんけど)
気づかないタイプだから、説明あるとちゃんと理解が深まった気がして嬉しくなる。
熱出した時に見る夢の不思議の国のアリスと孫悟空混ぜたおとぎ話の大人版みたいな?
シルク・ドゥ・ソレイユの衣装も手がけてたなんて
部屋入るまで知らなかった。
子どものとき、テレビで初めてシルク・ドゥ・ソレイユ見たとき、
あとシルク・ドゥ・ソレイユの現状ニュースで見たから
芸術家っぽかったのにできるんだ! って驚いたけど
変な形なのになんかスタイリッシュで、ポケット開いたらハートとか遊び心あるなあ。
色合いも今見てもなんかお洒落だ。
こんな活躍をされていたなんて!
たくさんの壁があったろうに、尊敬。
衣装は中国の伝統的な形を尊重しつつ、たくさんの人数が揃って舞うときの
色合いの美しさに思わず声が出そうになるくらい感動を覚えた。
(こういった光景は、もうしばらく、きっとこの先かなり長い間見られないんだろうと
思ってなんかまた切なくなってしまった。疲れてきたのか? 急に悲観的になってしまう)
白と黒のグラデーションのドレスとか、裾の色変わるのとか、素敵だった。
職人技見られると、無条件で嬉しくなるよね。
この映画大好きなんだよね。石岡さんの仕事で唯一ちゃんと知ってる作品。
布でこれでもか! と作り込まれていて、
見れて嬉しかった〜! 胸元の布の造形が細かくてすごいんだよ。
きっとここも意見取り入れたり試行錯誤した過程があるんだろうなあって見てた。
映画、面白衣装がたくさんあるけど、なんか納得させられるというか、
世界にあっているというか、むしろ素敵というか、説得力あるのが本当良いよね。
説明文でへーって思うところも多々あった。
高校生でこの色合いの絵! すでに実力とセンス光ってる! ってところも驚いたし、
世界に羽ばたくために当時にすでに英語で書いてたってのもびっくりだし、
叶うよ! というか、この方は、自分で掴み取って叶えたんだな。
はーほんと、格好いい人だな。
この人は人生をかけて時代や世界に向かってデザインし続けてたんだなあ。
筋肉とか赤とかいろんな作品を越えて所々で見られるモチーフを見ると
全体総括ではないけれど、この図がぴったりだったのかもしれない。
と、途中所々ベンチで座りつつ4時間近く展示を見て回ったよ。
ギリギリ楽しめるぐらい粘れた。
予想の4倍くらい展示量と濃い内容で大満足だった。
図録買おうかなって売店行ったら売り切れてた。かなり先の入荷だって。さすが。
石岡さんイメージのパフェがカフェとレストランで提供されていて、
久々に良い物、仕事見れたなあ、と大満足。
いつか美術館ができるはずの町
https://anond.hatelabo.jp/20210212190921
https://anond.hatelabo.jp/20210212214154
これらの問いに対して、人類が歩んできた歴史の視点からの回答が無いので、記しておきます。
お前らって本という物体に対してだけ異常に過保護じゃない?それにしてもお前らの「本を大事にしろ!本を傷つけるな!」的な反応は過敏で異常だよ。宗教なの?
それは「図書館」っていうシステムが原因だと思う。なんで本だけ特別視されて、自治体が無料で貸出しなくてはいけないのか本当に謎。
これは人類が、本そして情報を手に入れる為に、血みどろの歴史を歩んできたから。
その歴史の教訓によって培われた共通認識を ”宗教” と呼ぶならば、そうかもしれないが。とりあえずは、なぜこうなったのかを紐解いてみましょう。
古来、文字や書物(パピルスや木簡など)は特権階級の軍人や貴族や宗教家のものでした。なぜ特権階級が独占していたかというと、文字を記す為のパピルスや木簡の製造コストが高かった事や、地図や軍事情報など機密に関する内容が記されていたなどが理由です。庶民の識字率も低く、市民が文字を使うとしても帳簿や資産管理としての利用が長年続きます。
しかし15世紀にグーテンベルクの活版印刷機の発明により状況が激変します。書物が大量複製できるようになり、庶民に知識が行き渡るのです。
これまでの世界において、知識や文化とは、口伝や継承によって高いコストをかけて伝承されていく特権階級のものだったのが、複製された本を手に入れることでも誰でも知にアクセスできる時代が到来しました。
当時の特権階級の宗教家達の心情を記した言葉が残されています。
教皇は知識と印刷術を廃止しなければならない。さもなくば、印刷術が最終的には教皇を廃位に追い込むことになろう。
From the Days of Great Dedications - John Fox's Book of Martyrs
印刷術による本の普及により、知が民衆化した。それにより特権階級だったカトリック教会の力が弱まる。
そしてゆくゆくは18世紀にヨーロッパ市民革命に繋がり、ついに貴族の統治する時代が終焉し、民主主義が産声を上がった。
それまで特権階級が保存していた、価値ある美術品や博物品は、市民の手により Museum として共有される事になりました。(英語の Museum が博物館と美術館の両方の意味を備えるのは、貴族から奪った貴重品をいっしょくたに展示した為、美術品や史物の区別をつけなかった事が定着したからとも言われている) 一方、図書館は革命時代より一足はやくに制度化が進んでいたため、 Library という名前で普及していく事になります。
概ね図書館および本という存在が、市民の地道な活動により普及し、普及した成果がさらなる民衆の活動を促した。という見方ができるといえます。
日本図書館協会の「図書館について - 図書館を支える理念」を引用します。これこそが、図書と書籍の歴史を端的にあらわしています。
図書館は、それを生み出す社会の特徴や条件を色濃く反映してきました。戦時下では国家の思想を広める役割を果たすこともありましたし、一方では社会的マイノリティーの権利を守るために働くこともありました。社会の変化の中で、図書館はさまざまな状況におかれてきましたが、いくつもの波にもまれながら、いかなる状況の下でも、すべての人たちに情報を提供するのが「図書館の自由」(Intellectual freedom of libraries)なのだという理念を獲得するに至ります。アメリカでは「図書館の権利宣言」(Library bill of rights、1948年採択)、日本では「図書館の自由に関する宣言」(1954年採択)です。これはあらゆる種類の図書館が守るべき自律的規範として、広く支持を得てきました。また、この原則を守るための専門職の行動規範として、「図書館員の倫理綱領」(Code of ethics for librarians)があります。
私のシンプルな記述だと物足りず不満に思う人もいると思います。興味がある人の為に、図書館の歴史と近代ヨーロッパの歩みについての書籍を紹介するので、それで理解を深めてください(と逃げさせて頂く)
書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで
まあ総括して言える事は、本が重要だと長い歴史の中で認められてきた為、今の扱いの重さに至ってるって事ですね。
同じ理屈で、他の疑問にも答えられる。
米とかもそういう節がある気がする(平均的な食品の大事にされ方を遥かに超越して大事にされてる)けど、どういう心情からそれが発生するわけ?
お米は長らく税として徴収されてきた歴史がある。つまりお金と同じ価値でした。
宗教なの?
同じ理屈で返すなら、あなたの財布に入っている一万円札。これはただの紙切れなはずですが、破いて捨てないのはどうしてですか。社会的・歴史的に一万円札の価値と通念が形成されてるから、大切に扱うわけでしょう。ただの紙切れなのに。
本も、米も、お金も、同じことです。
図書館基準で考えるなら、体育館の施設利用自体も無料にしてほしい。図書館は法律がそうだからというのは理解している。それなら体育館もそうすればいいのにってこと。オリンピック的な勢いでそうならないかなぁ。運動する人のことも考えてほしい。
図書館にも有料のものも多くありますが、まあ置いておくとして。この理屈は分からなくはありません。
しかし図書館と同じように、社会に必要とされる意味合いが重くなるなら、きっと体育館も無料になるでしょう。
実は歴史の上でも先例が多数あります。オリンピック繋がりでスパルタの例を紹介しましょう。
古代オリンピック発祥の地にも近い、ギリシアのスパルタ。7歳になった子供はスパルタ国家の寮で生活し、毎日運動がさせられます。費用はもちろんスパルタ国家が全部負担してくれます。無料です。立派な運動教育のすえ、子供は屈強な戦士としてスパルタ国を守る存在となりました。めでたしめでたし。
これはスパルタ教育という言葉で現代にも伝わっていますね。大げさな例を出しましたが、このように社会に必要とされ価値が認められれば、無料になる例には事欠かないと言えます。
日本も高齢化社会が進んでいますし、健康寿命を気にした予算投入も珍しくありません。スパルタ国ほどオーバーな例はないにしても、無料になるところは今後増えると思いますよ。社会に必要とされていますから。
こちらへの投稿は初めてで、また自分は作文が得意ではなく、ただの(夢女子の)戯言といえばそうかもしれない。でも「王様の耳はロバの耳」の如く、吐き出して心を整理しなければ心が死んでしまうところだったので許してほしい。
自分はとある刀剣のゲームが好きなアラサーである。ゲームそのものは元々ブラウザのものであるが、自分のゲーム歴はスマホ版が出てしばらくしてから始めたので4年半くらいだろうか。始めたきっかけは同じ県出身で好きなイラストレーターがキャラクターデザインをしていたことだった。ただし当時は期間限定登場キャラクターだったため、始めた頃にはそのイベントは終了していて、それを知って崩れ落ちたのだが。
さて今年はゲーム開始6周年、そのゲームの存在は6年前の当時はちらっと知っていた程度ではあった。でもどうしても擬人化というのに対しては色物だからと苦手意識があった。テレビで刀の展示が特集されて「会いに来たよ〜」とか言って映っている女子も苦手だった。だがこの辺りは同族嫌悪なのかもしれない。自分も元々漫画などが好きなオタクで、マスコットやキーホルダーなど好きなものを鞄や携帯にジャラジャラ付けたい収集癖のあるオタクではあったのだが、人型イラストのないイメージグッズならともかく、ひと目でわかるキャラクターが描かれたグッズには抵抗があった。
そんな折、まだゲームも始めていない頃、地元の本屋で刀の雑誌を見かけた。キャラクターが全面に押し出されたものではなく、有名な刀剣を扱った図鑑だった。今引っ張り出したらゲーム実装刀の名前が表紙にズラっと書いてあるし、発行年月日も2015年6月とあったからゲーム開始直後に出た本といえばそうなんでしょう、審神者(ゲームプレーヤーの総称)を狙ったといえばそうかもしれない。その本で、運命の出会いがあった。
でもピンナップとして取り上げられるくらい、綺麗な刀だった。
自分の生まれ月が名前に入る、名の響きも姿も、美しい刀だった。
また刀工も同じ県だというのもあって、気にならないわけがなかった。
1番美しいと評判なのは別の刀だけど、刀に興味を持つきっかけになったのは間違いなくこの刀だった。
自分は、趣味の合う友人達とTwitterのグループDMでひたすらに騒いでいた。キャラクターのデザインもまぁ悪くは無いなと思っていた。ひたすらやかましかったので申し訳なかったとは思う。
でも後にキャラクター紹介の文面を見てびっくりした。別の方がはてなブログに書いてらしたように「なぜそんな内容をピックアップした!?」とは思った。自分がリアルにそのお刀と対面できたのは1、2年ほど前のたった1回、現在収蔵の美術館がある県の外に住んでいる関係もあって自分はろくに美術館周回もできてないので、その投稿者の方ほど熱狂的かというとそうでもないかもしれない。でも同じ美術館にある別の刀との回想など楽しみにしていたのもあって、実装後すぐには無かったので残念ではあった。そのあたり今後あったらええなとは思っている。
さてそのお刀であるが、つい先日、ミュージカル出演というのが明らかになった。ゲームで最近登場した、同じ刀工で別のお刀の姿もお披露目された。
周りがキャーキャー騒ぐ中、自分はというと……本当は、来ないでほしかった。
このようなゲーム発のミュージカルや舞台はいわゆる2.5次元と言われ、最近ではTVにも出てくるようになって発展が目覚ましいといえる。こうしたものから名前が知られてテレビ番組にも出てくる俳優の方も増えつつあると思う。間違いなく見目も整ってるし、こうした俳優さんの活躍は嬉しい。
ミュージカルの方は先日5周年を迎え、記念のミュージカルが上演された。このコロナ禍の中、運営側も感染対策をしっかりして、またライブビューイングや配信など、ファンに向けたサービスをよくやってくださった。ただ残念なことに現地では、今回はいつもある客降りがなく、また来場者も声出しができずにペンライトを振ったり拍手のみだった。きっと皆さんもっと騒ぎたかったことだろう、愛を叫びたかったことだろう。
━━ただ申し訳ないのだが、おかげで自分は今回、安心して配信を視聴できたのである。
書き方が悪く、性格悪いなという自覚はあるが、自分は客降りでのファンサービスやファンの歓声が苦手だ。観劇の上で、自分以外の存在があるのが苦手なのかもしれない。ライブビューイングや映画における応援上映なども行けず楽しめない、強火な同担拒否勢なのである。まぁひょっとしたら騒ぐのや人の目があるのが苦手と言うだけかもしれない、でもアーティストのライブは平気だったりするので本当になんなんだ自分、メンヘラなのか。
……まぁ刀剣絡みではないのだが、リアルでは自分の推し(ただのシスコンなので申し訳ない)である妹が「実家に彼氏を連れていく」とか言っていたのもあるので、正直荒れている。自分に浮いた話もない癖に年齢が年齢だけあって焦っているのかもしれない。ただ自分は、信頼していた既婚者大学OBと一緒に出かけたタイミングで突然キスされたのが原因で人間不信と男性恐怖症になったので、もう普通の恋愛はできないとは思っている。ごめんね、家族。ほんまはちゃんと自分の子に自分の愛すべきお刀を代々伝えてってほしいと思っていたが、結婚もできなさそうでまして子供なんてと思うので、自分が死んだら妹の家に相続してもらうとしようか。多分あっちの家の方が家柄もしっかりするだろうし、美術系好きな血筋ではあるから、しっかり守ってくれるさ。とりあえず自分が今後障害になりそうだったら、姿消すなりして迷惑かけないようにしようと思う。ま、生きてる限りはしっかり守り刀してもらうつもりですが。
もう行け、僕は少し泣く。
……話が逸れてしまった。救いといえば、どの作品でも「とある本丸」と明記していてくれることだろうか。よそはよそ、うちはうち。ましてただのゲームといえばそうなのだ、ただのフィクションなのだ。ならば自分の役目は、フィクションはフィクションなりに、その物語ごと愛すことだろうか。自分は周りと同じように楽しめないかもしれないけれど、今後ますますの発展、お祈りいたします。
通勤中イヤホンでランダム再生で近侍曲を聴いていることも多いのだが、同じ美術館所蔵の短刀の曲が流れると、やっぱりあの刀を思い出す。
長文乱文失礼しました。