はてなキーワード: 作品性とは
『君の名は。』に色んな意味で心鷲掴みにされて、もう何度も何度も劇場に足を運んでいるのだけど、
この作品の大ヒットに関して、ブコメも含め様々な場所で個人的にちょっと気になることを目にしてる。
しかもそこそこな頻度で。
新海監督が、『君の名は。』で、「アーティストとしての作品性や作家性を捨てて、万人受けを狙った、そして売れた」って感じの意見ね。
いやいや、『ほしのこえ』当時からハマって追っかけてきたオタとしては、ちょっと待ってって思うのよ。
「作品性」や「作家性」って、新海監督は別に捨ててなくね?って。
『君の名は。』では新海監督の強いこだわりで魅力でもある画面のライティングや構図であるとか、
大きな力で引き裂かれる思春期(とそれ以後)の2人と恋愛と喪失だとかは、
何にも変わってないよね。
ボーカル曲に合わせてMVか!って感じで見せていく手法もそのままだし、
ナルシシズム漂う独り語りも、ロマン主義も、センチメンタリズムも、そういう作品の特色なんかも昔と同じ。
なんか、個人制作の『ほしのこえ』と、感動とトラウマを多くの人に植え付けた『秒速5センチメートル』っていう過去作のインパクトがあまりにも大きくて、
ああいうものこそが新海作品だ、万人受けしなくても、一部の人に響く強烈な作品やこだわりを志向するのが新海監督なんだ、
ラストで結ばれないものを観客に容赦なく突きつけるのが新海作品の本質なんだっていう考えを持ってしまった人が結構いるような気がする。
新海監督は「わかる人だけが自分の作品をわかってくれればそれでいい」という立場より、
「万人に受け入れられたい」そして「メジャーな規模で売れたい」という立場の自己顕示欲や願望のほうが、
昔からずっとずっと強かった人のように思うんだよ。
大ヒットでインタビュー受けまくってる姿なんて、ほんと昔から目指していたことが叶って嬉しい、って気持が、なんかありありと伝わってくるし、
『秒速』は見た人を励ますつもりで作って、「鬱だ」って反応が予想外だったって新海監督自身も言ってたし。
過去作だって、『エヴァ』とか、『最終兵器彼女』とか、ジブリとか、村上春樹とか…、とにかくメジャーで大ヒットした有名作品とかにそこまで寄せなくても…って思うくらい寄せてくるし。
『ほしのこえ』『秒速』みたいな作品は、ニッチな層にだけ強烈に響くこと意図的に志向して制作していたわけでなくてさ、
たぶん、単に個人制作・小規模制作で視野が狭かったり、監督個人のスキルが低かったり、お話の引き出しがワンパで、
(そして今作でも周りの大人たちやDQN客みたいなのは、相変わらずびっくりするくらい定型的でチープで、そことのやりとりも上手く描けないから省かれてたり)
決して『秒速』みたいな作品や、あの作品への反応みたいなものこそが新海作品の本質だ、作品性だ、ってわけじゃないと思うのね。
『君の名は。』はわかりやすいエンタメを目標にしたわけだけど、
そもそもが新海監督は、わかりにくいものや非エンタメ的作品を志向してたわけじゃないんだから、
描きたいこだわりを省いた、作品性や作家性を捨てた、と言うより、
周りのスタッフとの共同作業を通じてスキルアップしたって言い方のほうが正しい気がする。
川村元気Pから「新海誠のベスト盤を作って」って言われて、描きたいものを描いて出来たのが『君の名は。』なわけだし。
ともかくも『君の名は。』で、メジャー映画監督の仲間入りした新海監督だけど、
個人的には次回作も楽観視してる(『君の名は。』を超える興収をあげるかどうかは別にして)。
優秀なスタッフと関わることで成長していく可能性もあるだろうし、
逆にそこまで成長しなくて、また底の浅い引き出しからワンパターンな思春期男女の話を作ったとしても、
その時それは「ああ、今度のも新海さんっぽいねー」って言われてると思うの。
「ジブリっぽい」って言葉と一緒でさ、オタだけじゃなくて一般に広くそう思われるようになったら、
思春期のこの手の話をああいう絵力を交えて魅力的に見せれる作家って、実写含めて今は新海監督が一番だと思うしさ、
次回作が仮にワンパターンなものになってたとしてさえも、たぶん、きっと大丈夫。
それに新海監督は興収やら評判やらがしょぼくて落ち込むことはあったけれども、
とりあえず興収で一定の結果を残せさえすれば、庵野監督のように大ヒットしたのに深く苦悩する、そういうことに陥るような人とは実は違うタイプだとも思うから。
外っ面だけで判断して得意げに切り捨てる人間がネットには多すぎる。
その勿体無さ、残念っぷりに気づいてほしいから、そういう評をしたくなる。
中身は社会派だったり、リベラルでモダンな感性を描いたりする。
そういう実は意識高い・示唆深い良作だったりする事が最近の作品には多い。
ヒットしてる作品もだいたいは、
そういう普遍的な良さを備えてるから、老若男女に受けてたりするわけで。
個人的には、こうした「萌え」見下しを逆手にとった作品性の潮流は
まどマギの成功が端緒を開いて、ラブライブが一つの完成形を見せたように思える。
これは、根暗なオタクが絶滅していって社交的な若いオタクが増え始め、
情報ツールの発展も相まってカジュアルに感動を共有する時代になったことと
少なからず連動していて、そういう時代に適応した結果だと思うね。
で、今その傾向をよく捉えたためにヒットしてるのが、君の名は。
決して嫌らしい下品な感じにはせず、男女どちらにも嫌われないラインを守る。
その上で誰もが感動できる物語を演出する。一種のリア充的バランス感覚。
まさに今時のセンスだと思うね、「男女両方に好かれる」ってのは。
押井守が宮崎駿がいるからああいうわけのわからん映画を作ったという発言
作品性を見るとなんだか遠いようでいて皆(宮崎も押井も冨野も庵野も安彦もみんなみんな)実は微妙に互いに気にし合ってそうな関係
これだけじゃなくて他にもいっぱいある。
冨野との対談で逆シャアを賞賛する庵野(そこでチラッと出てくる押井さんの名前
「夢と狂気の王国」で庵野の初対面の印象を「宇宙人が来たかと思った」とうれしそうに話す宮崎駿
庵野の隣で模型を手で動かしてインメンマルターンを再現する宮崎駿
俺はオタクじゃない→BOOOOOOOOM!!!!(※飛行機ごっこをする宮崎駿)というシーンに俺はなぜか泣いた。
なんてチャーミングなんだ。
風立ちぬのラストシーンが「来て」から「生きて」に変わった事を受け止めようとする庵野。
そして「ジブリはもう終わり」と言った駿が終盤で楽しそうに宮崎・鈴木・高畑で話しているのを見て最早俺の顔はグジャグジャだ。
シンプルだが、プリパラとラブライブの作品性の違いを言い表している。
ラブライブはプリパラ&プリティーリズムのライブ演出を担当した京極尚彦が監督を担当していることから、とりあえずラブライブを肯定的に捉える要素をあることないこと紐付けして論じたいラブライバーが京極尚彦は菱田イズムを継承していて~ラブライブは尊い~みたいなことを言ってるが、そんなことは無い。むしろ反面教師にしているというくらいに長所を捨て去った作品作り。
特に分かりやすいのは、この増田の記事のような、作品におけるキャラクター扱いの妙の差。
話数が大幅に違うので単純比較はできないにせよ、ラブライブも元々はスクールアイドルという誰でもアイドルになれる要素を謳ってる作品だったし、映画ではそのことを主題にしたりもした。しかし内容はそれに追い着いていなかったどころか、追い着こうとする気すらないような体たらく。
実際、そんなラブライブに失望したオタクがプリパラに救いを見出していくパターンも多い。
ただ、ラブライブは従来的な意味のキモオタに媚びた作品ではない。
従来のタイプのキモオタはラブライブみたいな面白みも萌えも何もない何の工夫もない欺瞞の塊みたいな作品にはあまり引っかからないし、ラブライブもターゲットにしていない(できていない)。
ラブライブは新型のキモオタを生み出し、それに受けたといえる。連中は似非ヤンキーで似非オタク。
ヤンキーみたいな薄っぺらい格好付けをするのが好きだがオタク趣味。オタク趣味だがオタクというほど作品内容について語ることができない。稀に語る奴もいるがもっともらしく語ってるふり(格好付け)であって妥当性は皆無。
適当にスタッフ名だの専門用語だのをぺらぺらくっちゃべって最後に尊いとかよさみたいなことを言っておけば連中の中ではわかりてわかりてとチヤホヤされるので満足できる連中。
辻褄が大間違いでも表向きいい話っぽければ満足する。
他人のことは好みだけで偉そうに叩くが、自分や自分の好きな作品のこととなると悪いことをしていても盲目的に擁護するしかできない。
仲間が自業自得で炎上や逮捕などされた際に何の根拠もなく「○○は悪くない」「良い奴だから」と言って擁護するヤンキーやDQNのようである。
http://anond.hatelabo.jp/20160413011057
正のエネルギーとは必ず正しいエネルギーたりえるでしょうか。仮にそうだとしても絶賛派の持つエネルギーはそれにふさわしいものでしょうか。
恐らくその根拠としては何事も賛美することや推進することこそが正のエネルギーだという思想なのでしょうけれど、悪事や間違いを推進することは正のエネルギーと呼べるのでしょうか。悪事や間違いを批判することも負のエネルギーなのでしょうか。
そしていきなりそのような立場に立ってしまうと、議論する物事の善悪や正誤の考察をする前提をすっ飛ばしてしまっているように思われてしまいます。そしてそのような所に絶賛派ラブライバーが宗教的だとか、盲目的で妄信的だと呼ばれる所以があります。
また、そもそも私的な体験の話をすれば、アニメ1期の時点では自分もアニメの内容の嫌な部分に目をつぶりながら作品全体の動向をポジティブに応援しようとしていたのです。しかし2期以降、先述のように作品展開の裏切りと汚染が加速拡大していくのを目の当たりにし、目を覚まして絶望するしか無かったのです。
とありますが、肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います。
アニメ版を叩くだけの負のエネルギーを注ぐのでなく、自分の好きな初期作品の素晴らしさをポジティブに語るべきでしょう。
自分の好きな作品を褒めるために他の作品を叩く行為は忌み嫌われることを増田もご存知のはず。増田が良いと思うものをポジティブに語る事で初期作品への注目も上がるのではないですか?
アニメ版を叩き貶める事で初期作品が注目されるのでしょうか?むしろその行為はラブライブ!作品群の全体を貶める行為となっている事実に気づいてほしいのです。
と、絶賛派ラブライバーは最終的にとりあえず批判する奴が悪なんだという方向に持っていきたがります。そこがアイドルヲタクというよりジャニーズヲタク的で、女々しく感じます。
また、批判への批判ですら批判であることや、何かを肯定する時には別の何かの否定を孕んでいることが多いことも留意しなければならないように思います。
恐らく全てを好みの問題で済ませられると考えているから脳天気に、表立って批判する奴が悪いと言えるのでしょうが、盗作問題などをはじめとした不可解な部分、問題があると指摘した部分を深く検討していただけないと原案派への本当の理解や同情は難しいと思います。
悪い所があったり、悪いことをしていたりしてもそれを批判することは悪いことだという考え方にはぞっとするものがあります。まるで盲目的な自分達を認めてほしいから目を覚ますようなことを言わないでくれと言っているかのようです。
ただ単につまらない、嫌いというだけで批判しないで済む状態であれば態々大きく批判しなくていいかもしれませんが、そのような甘く生温い状況ではないことを2期以降に強く痛感したのです。その内容の説明は既に先の記事でも今回の記事でもしていますが…。
それと、乱雑な感情や論理から導かれる暴力的な賛美や批判と、真摯な感情や論理から導かれる賛美&批判を一まとめにして考えることはナンセンスだと思います。
そのような指摘をみても、やはりアニメと劇場版のラブライブや2013年以降の作品プロジェクト全体は、積み重ねや面倒臭い決め事を破棄して、表面的で浅いつながりで結ばれた妥協と馴れ合いの間に合わせで叶えた物語が好きな人に支持された作品だったんだなと思えてきます。
好きだからこそより高みを目指したい、好きだからこそ勿体ない部分を指摘する、批判するという発想がないのでしょうか。ラブライブはもはや好きとはいいがたい作品に成り果てましたが、自分は好きな作品でも問題のある部分については批判します。好きだからこそ正直で誠実に向き合いたいからです。その点の行動をするかしないかについては好みで問題ないとは思いますが。
あえて単純化して例えれば、ピカソのキュビズムの絵画に対して『もう少し現実に合わせてもいいんじゃないか』と主張するくらいナンセンスな議論なのです。
この点は先述のレストランの例えで説明もしましたが前提のズレがあります。ラブライブの場合、写実画というには写実的から程遠く、キュビズムの方向に傾かせたというには写実的すぎるという半端な状態です。それがいいといえばそれまでですが、それが悪いといえばそれもそれまでです。
そしてそれらが地味で不規則な所を見ると、ただのミスなのではないかという気がしてなりません。また、ラブライブは芸術作品という意味ではキュビズムの絵画と同じでも一枚の絵でも一つの彫刻でもありません。ストーリー作品、キャラクター作品、物語なのです。さらにあのアニメ内でも『みんなで叶える「物語」』などと言ってしまっています。
つまり、ラブライブという作品がキャラクター性や物語性の描写の在り方について審議されるのは当然ですし、ましてやそれを無視してしまうだけでなく、無視して見る方が正しいかのように主張する態度は、作品評価をする上で致命的な怠りがあるように思います。
増田の観たかったものは、キャラクターの内面をリアルに掘り下げたドラマ。誤解を恐れずに言えば、スクールアイドル版のアイマスじゃないのでしょうか?
アイマスといっても色々ありますが、本家のアイマスやシンデレラガールズ(一応双方アニメのとしておきます)などはアニメのラブライブよりはともかく、物語性などについても、キャラクターが多すぎることや、原作で主人公であるプロデューサーの存在が軸となりすぎていることもあって内面の掘り下げについて理想には少し遠い面があります。またアイマスは原作がギャルゲー風の育成ゲームで芸能界の作品ですし、そのような物語性やキャラクター性などの部分への描写を前提する要素がラブライブより少ないことがその部分において許されやすい部分はあるかもしれません。
ただ、アイマスは声優などの外部のネタをキャラや作品に持ち込む二次創作的な風潮がラブライブより強く、そこが支持されてもいますがそこは自分にあまり馴染まない部分ですし、そこはラブライブには真似してほしくなかったのですが結果的に追従するように似たような道を歩んでいってしまった印象があります。
それでも、アイマスの原作はゲームであるという絶対的な軸があり、キャラクター的にもその区分けを比較的大事にしているので、ラブライブよりはファンの棲み分けがしやすくなっているように思います。
自分はラブライブを応援する以前にアイマスが好きだったのですが、アイマス2の騒動で距離をとるようになりました。あれも作品公式の運営への不信感を感じる騒動でしたけれど、その後アイマスは先述の区分けのおかげでなんとか致命的に沈み込むことはなく持ち直していったように感じています。また、当時のファンの多くが大きく問題視して糾弾したのも現状に対して盲目的で内容に興味があるのか疑問を抱いてしまうラブライバーの多くとは違う点でしたね。あまり高く評価するつもりはないのですが、結果的にはアイマスの場合はファンの意思がある程度「プロデューサー」として作用し反映されたおかげかもしれません。
対して、ラブライブに期待していた広い意味でのコンテンツの在り方は前回の記事http://anond.hatelabo.jp/20160330020728で言及した通りですが、そこでも述べた通り、ラブライブというプロジェクトはファンの意思や存在を「みんな」の中から排除したものだったという気がしてなりません。
京極監督と花田さんは物語性の軛からラブライブ!を解き放った。漫画や小説では表現できないアニメならではの特徴を最大限利用してアイドルを表現したのです。
アニメならではの特徴を利用したとしても、アニメでも表現できることを怠りすぎていたので批判されていることも考えていただきたいように思います。
物語性を「軛」と表現していますが、それは致命的な配慮の怠りで思い上がりですね。絶賛派は似たようなことを言うのである意味信頼できますが苦笑します。
別のとある絶賛派の人はキャラクター描写について批判する人をキャラクター至上主義はダメと批判したりしていますが、裏を返すと絶賛派は表現至上主義なわけです。
また、キャラクター性や物語性の描写の拙さを批判する人達は別にアニメの表現や演出のあり方を否定していません。
対して絶賛派はあの表現と演出さえあれば物語性やキャラクター性の描写は不要だ、ない方がいいくらに否定的に捉えているわけです。表現や演出をそれらの免罪符のように扱っているのですから。
しかし、先述の例えのようにシリーズアニメにおいて表現演出というのはキャラクターや物語性の拙さを打ち消す免罪符に足るものではありません。
まあメタ的に、「アイドルやアイドルファンというのは実はこんなに狂気的で下らないものだ」というのを、アニメ全体を使って表現したというのであれば、それはある種のテロリズム的芸術として評価できるかもしれません。
そういうものはオリジナル作品で勝手にやったのであればそういう作品性も面白い、有意義だと手放しでいえた可能性があったと思います。しかし、元々の作品の指針としてコンセプトが違う原案が存在する作品を預かりながらそれを行い、それらを生かしたとは到底言い難い状態にある作品となったので好き嫌いを超えた善悪の問題で批判しているのです。
超現実的であったり表現主義的であったりする要素を作品にあってはならない要素だとは思っていませんし、何度もいうようにそこを特別に批判しているわけではありません。
せっかくのシリーズアニメ作品で、物語形式だったのですからそのような最重要の部分を十分生かして欲しかったのです。
そして批判派の多くは勝手なミュージカルをするなとか急に踊り出すなとかいうのを言っているのではなく、そのような表現主義的な意図があるとは思えない単純な所でもただのミスではないかというような違和感を抱く描写があり、その点への指摘や批判すら絶賛派が、全ては芸術的な表現だからそれでいいんだというように無理矢理擁護してしまうためにうんざりしているのです。
仰っているような表現方法などに特化しただけのものでいいのならオリジナル作品や、またはそれこそ、PVだけ作っていてくれればよかったと思います。
それに対して「いやあの形のアニメだからいいんだ」と主張する場合の理由は、おそらく知名度が上がりやすく人気が出やすいからでしょう。
確かにラブライブというコンテンツは人気が出て欲しかったですし、知名度さえ上がれば元のままで高く評価されることが可能なポテンシャルは十二分にあったと感じていましたが、絶賛派が表現主義的に評価するアニメを、あの形でアニメ化しなければならなかったとする根拠を考えると、人気が出た作品のファンを名乗りたいという表面的な所に帰結していくように思います。
今となってはアニメ化せずに人気が出なくてもアニメPV付きシングルがもう何曲も出ていた方がただのファンとしてなら幸せだったなと感じます。
表現方法などが優れているとしても、前の記事でも言ったようにかつての作品の在り方とそれらの表現手法などは両立できたでしょうに、最初からしない道を選んだことを批判しているのです。
また、それがオリジナリティに溢れていたならまだしも、元々の原案に沿うことを拒絶しながら他の無関係の作品は平気で参考にして適当になぞらせるようにストーリーやキャラクター設定を(前回の記事で説明したような)稚拙な配慮の下に歪ませてしまったことが甚だしく受け入れがたい問題点なのです。
【S*】
【A+】
【A*】
【A-】プリティーリズムシリーズ(女性) ラブライブ!シリーズ(2010-2012)
【B+】けいおん!(劇中歌) SHOW BY ROCK!!
【B*】アイマスミリオンライブ プリリズシリーズ(男性) 中川かのん(神のみぞ知るセカイ)
【B-】アイカツ!シリーズ プリパラ ラブライブ!シリーズ(サンシャイン含,2013-)
【C+】シンフォギアシリーズ マクロスF アイドルマスターシリーズ(ミリオン除) WUG
【C-】
※涼宮ハルヒシリーズ、神のみシリーズなどのようにキャラソン展開を幅広くしていたが主として音楽系で推してない作品性のものは枠外とするが、神のみ中川かのんの商品展開は一つの二次元アイドルコンテンツとして評価
http://anond.hatelabo.jp/20160330012910
自分はラブライブ!という作品の本来持っていた特別な魅力というのはアニメPVにこそあったと思う。
アニメ・声優系ソングでフルアニメーションを用いたPVというのは単発ですら未だに他には殆ど見当たらないし、定期的にリリースするとなると皆無といっていいくらいだと思う。
さらにラブライブ!のPVは内容的にアニメキャラというよりアイドルPVの二次元化であり、各アニメラブライブ批判記事にあったように実在のアイドルのように扱うための媒体としての描写が強く感じられた。
スクールアイドルのプライベートな描写は雑誌媒体にて堪能し、アイドルとして張り切った彼女達の本気の側面をPVなどから感じ取り、総合的にキャラの魅力を堪能した上で推しを決めたり、作品やグループ全体の作品性や雰囲気に酔いしれたりといった楽しみ方ができる。
現実の実在のアイドルと違って作られたキャラクターアイドルであるため、(アニメ版みたいに)作者が信じられないくらいの無能で失敗したりしない限り最初に好きになってくれたファンを裏切るおかしなことは言わないしスキャンダルなどもない。
しかし同時に実在アイドルと同様に実在人物であるかのような見方や応援の仕方ができ、展開もできる進化したアイドルの形がここから始まるのではないか。そういう期待をさせる要素がアニメ以前のラブライブ!にはあった。
そして、それこそが、本来の「現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像」の理想的到達点により近かったと強く感じる。
似たような企画は昔から何度も行われようとしたことがあるようだが、ラブライブ!のように本格的に質の高いPVと楽曲を用いての展開は他に類を見なかっただけに2012年までコツコツ積み上げてきた道が、各種媒体が急に横入りしてきたアニメ版の奴隷にように侵食され一本化される中で潰されてしまったことはあまりにも残念でやるせないとしか言い様がない。
メディアミックス作品であることや、声優陣の大半が声優以外の芸能関係の道からの出身者であることからも、自己顕示欲が強い者が多いために、声優人気が増したりした場合、大元の作品管理やキャラクター管理を怠ると作品やキャラクターのバランスは簡単に崩れてしまいやすく、それが重要であろうことは初期から容易に推測がつくことだったのだが、まさかこんなにお粗末に行われてしまうとは。
その結果、人気や売上は凄いみたいだが内容からは何も輝きを感じられない作品になり果ててしまった。
『みんなで叶える物語』のみんなとは誰だったのだろう。少なくともアニメ以前のファンはそこに含まれていないし、アニメ以前のキャラクターも含まれていないだろう。
TVアニメのファンブックの脚本家インタビューによると、大人の意思や悪意がμ’sの活動を阻害させないために芸能界やアイドルファンを作品に出さないことを決めたらしい。
芸能界を出さないことはスクールアイドル作品なので十分分かる範疇の話であるが、
「大人の悪意に邪魔させたくないからアイドルファンを出さない」という発想はアイドルファンを大人の悪意の象徴のように捉えてしまっていることの表れである。
実際アイドルファンにはいろんな人がいることは確かであるが、アイドルというのはどういう存在かを少しでも深く考えた人ならファンというのがアイドルにとってとても重要で価値がある存在だという見解に辿りつけるはずであるし、ラブライブ!というのは元々雑誌連載などにおいてもファンである読者との交流を前提とした読者参加企画である。μ’sという作品の根幹にも関わるような要素でもあるユニット名の名付け親が読者の1人だったことからも、アイドルファンという存在を軽視、ましてや蔑視などしていい企画ではないという最低限未満の理解や配慮すら、アニメ制作&出資側が把握できていなかったことには驚くばかりである。
そしてその結果、あのようなそれまで積み重ねてきた「みんな」のいない作品が出来上がってしまったのだなと思うとすんなりと悲劇的に納得できてしまう。
つまり、現在のファンすら制作運営側が想定する「みんな」の中には含まれていない可能性が高い。
アニメラブライブ!はみんなには特に何ももたらしてはくれなかったし、みんなという存在ごとみんなの叶えたかった物語を奪っていったのだ。
歌い方がキャラじゃなくなってる人も多いが元曲もなのかどうかは分からない。
個人的に日高愛が好きだから戸松遥の登場は嬉しかったが、戸松の歌やセリフも愛ちゃん感が弱まっていた。忘れてても仕方ないか。
ミリオンライブの楽曲は作曲陣がラブ×イブと被っているせいか、メロディアスな楽曲が多い印象を受けたし、良いかもしれないと思った。
(ラブ×イブ、初期の楽曲の質は高かった。アニメ化でキャラも曲も多様性も卓越性も消えて段々と死んでいった。)
対して765やシンデレラガールズの楽曲は楽曲として軽さがあって、音楽としての個人的な評価は低くなってしまう。
M@STER PIECEあたりはその典型で、劇場版の主題歌で必殺の楽曲のつもりなのだろうということは分かるし多くのPも絶賛しているようだが、
その点ラ初期の楽曲は好みだったのだが主にアニメ2期以降楽曲の方向性がアイマスに近付いていって唯一の長所も死んでしまった。
2期や劇場版の劇中歌は総じてなんとなく良い曲っぽいだけで刺さるものがない。こちらもライバーの多くが絶賛していたが以下略。
アイマスもラも途中まで好きだったのに失望させられる出来事があって距離を置くことになってしまったのだが、(アイマスは今も嫌いではないがラはほぼ嫌い)
アイマスは好きだった頃も特に楽曲の質については評価してなかった。
恐らく作品性の問題もあるのだが、アイ×ツ、プリ×ラ、ラブ×イブ(アニメ)、W×Gはアイドルが主人公ということもあってファンもアイドル目線。
あとアイドルが作詞作曲や自己プロデュースを自ら行ったり、楽曲の内容と作中ストーリーの間の関連性が強かったりする。
そのために、キャラクターソングとしてもアイドルソングとしてもただの挿入歌ではない味が出ている。
アイマスは原作であり核となる作品であるゲームで基本的にプロデューサーがプレイヤーで主人公という目線だったり、最初から用意されている楽曲を選んで歌わせる形式なため楽曲とアイドルとのマッチングの意味合いは捏造的な想像しかしにくい。
アイドル自身が主人公でそれぞれが主体的に動かざるを得ない状態の4作品と比べると、アイマスはアイドルがP含む大人の操り人形のように与えられた機会で与えられた楽曲を歌うという感が強いので楽曲やライブシーンが作品やキャラから乖離した挿入歌っぽくなる。
一方、アイドルマスターDSはアイマス作品の中では異例のアイドル達が主人公の作品で、オリジナル楽曲とアイドル自身のストーリーとの関連性も強いのだが、楽曲自体は軽さがある。
しかし、ゲームをプレイすると作品のストーリーと相乗効果で心に染み入るものがあった。
その他、アイマスライブはどうも作品ライブというより声優ライブとしての色が濃いしファンもキャストを声優として見ている点も大きい。
声優に興味や愛着がないとライブへの感動が半減どころではない。
その点でいえばラやWなどはキャラクターと同様にフォーメーションを用いたダンスパフォーマンスを行うためによく分からない人が見ても凄さや良さを察するものがあるが、ラはその影響で故障者が出たりしているのでダンスを専門としない人がやるにはハードすぎる部分もあるのかもしれない。
声優の身の丈に合った範囲で理想のイベントを行うとしたらアイドル作品ではないがサクラ大戦の歌謡ショウが究極的な理想だ。
映像でしか見たことがないが何故ほかの作品はあれをやれない、もといやろうともしないんだろうか。
豪華声優陣が声優としてではなく最初から最後までキャラクターとして演じ通し、観客もキャストをキャラとしてのみ扱い持て囃す。キャラクター作品イベントとして完全に完成されたイベントだと思う。
昨今はアイドル作品が増えているが、どちらかといえばアイドル声優がアイドルを演じるアニメ作品が増えている。
ライブイベントもキャラクターを片手間として演じつつ主にはアイドル声優としての私(たち)をチヤホヤしてほしいというスタイルで、売り方もそうなっている。
そんな状態だから、一度声優ライブの人気がついてくると作品の出来が悪くてもバレないし影響もあまり出ない。声優ライブやっとけば売れるから…。
アイカツ、第一期(星宮世代)は人気商売としての「アイドル」を描いたとするならば、第二期(大空世代)は誰かがつくり上げる芸術のために生きたファム・ファタルを描いている、とは言え内科。ファム・ファタル(運命の女)である大空あかりは、日本におけるアイドルという大衆性を生きたのではなく、特定の誰かのための女神として生きていることを描かれた。アイカツは2015年に売上を落としてしまったという。それは2期ではさもありなん。売上を作るための女児アニメに必要な大衆性を得難い作品性ではあったのであろう。大空あかり世代の売上不振は、圧倒的カリスマとしての星宮いちごと、芸術のディーバ・特定の人間のために生きる(本人は望んでないかもしれないが)ファム・ファタルとして描かれた大空あかりの限定的なカリスマ性が要因なのではないだろうか。大空あかりは、彼女を支援するファッションデザイナー:瀬名翼のファム・ファタルである。大衆の欲望を受け止める「アイドル」ではない。アイドルになろうとし、多くの人の心を射止めたが、それは創作の域を出ることはなかった。演出上の必要性として、大衆の心を得たとしか描かれなかった。アイカツ第二期は、大衆の夢としてのアイドルではなく、創作の女神として誰かの心を占める女を描いている。だからアニメーションキャラクターとして感じることの出来る「かわいい」だけでは乗り越えられない鬱屈と魅力を迸らせている。星宮いちごは、その圧倒的な求心力により「かわいい」だけで多幸感を得られる存在になり得ていた。しかし、大空あかりは万人には受けないが、誰かのトラウマになる刃として影響を与え続けるのではないかと思う。
あるんだろうか?
もちろん、描く側とすれば発表する場が必要なのは分かる。しかし、買う側はどうだろうか。
なぜオリジナルのエロ同人を買わなければならないのか。エロの目的は抜くためだ。そこに作品性を求める人もいるんだろうが、極論エロは抜ければいい。それ以上の価値はいらない。
エロとは難しいものだ。これは良さそうだと思って買ったものも全然抜けなかったりする。5冊エロ漫画の単行本を買えば、ガッツリ抜けるのは1冊か2冊ぐらいじゃないだろうか。
大半は自分のちんこには訴えかけてこないのだ。だから、エロを買うときはヒット率を上げたい。なるべく高品質のモノを求めたい。
だから、オリジナルのエロ同人を買う理由があるのだろうかと思う。オリジナルならば商業誌でいい。
同人にしかないようなニッチなジャンルなら分かるが、DMMやDLsiteで売れているエロ同人のオリジナルは良くも悪くも普通である。
売れている作品は確かにエロい。エロいのだ。しかし、コスパが悪い。商業誌の方がコスパがいい。
だから、ヒット率を上げるためにオリジナルの同人を買うのなら、商業誌の方を買ったほうがいいのではないかと思う。
何か異論があるだろうか。
ぼちぼち来春の就業を控えている学生さん達が、社会人装備を揃える時期に近づいているし、
クリスマスだの年末年始の実家だのでもプレゼントで貰ったりするかもしれないので、
リア充爆発しろ。じゃなかった、装備品でも特に高めの腕時計についてちょっと言っとこう。
高いから良いものではないし、その装備品はオプションだよ、という点についてね。
まず、「これは高かった」という話が下品だっていう感覚は、持っておこう。
次に「高いから良いものだ」という発想は、骨董品でダマされる爺さんと同じだと言うのも基礎になる。
tpro business
腕時計はもはや実用品ではない。宝飾品は値札に価値があるのであって、安くしたらダメ。
qESstTkj
機械式腕時計なんてもんはもはや高いから意味があるもんであって、安くなったからといって需要が増えるとは思えんねえ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/ascii.jp/elem/000/000/939/939920/
この手の「宝飾品は値札に価値がある」という価値観は、セールストークであって「売る側の都合」というのは抑えておこう。
例えば、ダイヤモンド。
3.0カラットのカラーがHで、VS2クラリティとなると、おおよそ200万程度の価値がある。
これが、4.0カラットになると、400万ぐらいだ。
(VS2は、一般人がお目にかかれる最高レベル程度。I3なんかだと4.0ctでも150万くらいだったりする)
つまるところ、金の延べ棒なんかと同じでインフレ・デフレと無関係な、一定の価値を持つ資産としての意味合いだ。
突如政変が起こりました中央銀行の都合でインフレします、みたいなのに影響を受けないための、防衛的な意味合いの資産。
一般人にはあまり関係がないが、客観的な価値は知っておいても良いかもしれない。
有名なところで言えば、シータが身に付けていた飛行石のペンダントだろう。
魔除けであり、王家の証としても意味を持っている。(劇中ではもっと他の価値があるけど)
例えば軍人は略章・略綬として、「勲章を持っている」事を示す小さなリボンをつける習慣がある。
大抵の軍隊では左胸に付けているが、これには金銭的な価値は無いしファッションでもない。
アメリカにおけるパープルハート章の様に、その授与歴は名誉を示すものだ。
まあ、十字架のネックレスやミサンガ等なら、馴染みもあるだろう。
簪や櫛、カフリンクスからネクタイピン、メガネマフラーベルトに手袋と、
そのカテゴリーとして宝飾品がある。
これは権威を示すのでも魔除けでもなく、センスを示したり何かを表現する為に身につける。
腕時計がもはや実用品ではない、というのは一定の説得力がある。
まあ、メッカの方角を示すクォーツ時計なんていうヒットした実用品もあるし、
スポーツウォッチなんかの実用品として使われている分野もあるけど、
腕時計というのは、宝飾品として位置づけられていると言って良い。
では、先の3分類のうち、どれだろうか?
現代の一般的な日本人は、ファッションアイテムか、権威の誇示のどちらかだろう。
(私は魔除けとして水晶の腕時計を身に付けている!と言う人は少数派だろう)
ここに不幸な逆転があって、特に日本の男性社会人にとって、権威を価格に求めることがある。
腕時計には宝飾品としてではなく、芸術作品としての側面もある。
美しい機構があり、それを組み立てる職人が居て、その作品性を買う、というパトロンがいる。
これは、布に塗料を塗りたくった「絵画」に価値を見出す人間がいるのと同じだ。
みんな大好き『なんでも鑑定団』の中島誠之助さんは、値段が低かった壷や皿に対しても、大事にしてねと言う事がある。
粗悪なコピーや露骨な偽物には嫌な顔をするが、数が多い人気がない市場で売れないものに対しては愛を持って接する。
これは、「良いもの」と「市場価値があるもの」とに差があることが解っているからだ。
同じように、本来「良い腕時計」と「高価な腕時計」とは、独立の概念のハズなのだ。
ファッションアイテムとして、スーツに似合うベルトや盤面を選び、他の装身具(カフリンクスやネクタイピン)との調和が大切であって、
品質が良く手入れが頼みやすく、好みの形があるからという理由で「結果的に」高価であることがある、というだけのハズなのだ。
湿度が高く夏暑いから皮ベルトでなくメタルにしようと考えた時点で、それは実用品なのだ。
同じように「社会人なら10万円以上の腕時計は付けないと」みたいなバブルを引きずる親父の意見は無視して良い。
さっき、ファッションアイテムとして選ぶと結果的に高くなるという話をしたが、実はファッションは外見なので、クォーツで良い。
なぜ「機械式」なのかという理由は、それが「嗜好品」だからだ。
チチチと着実に動き、秒針がスムーズに流れ、週に数分ズレたとしても、その歯車の塊を腕につけることが楽しい。
冠婚葬祭と接待の時に、古い知り合いからもらった昔のオメガを付けることがあるが、やはり場にすんなりと馴染む。
油を挿そうが調整しようが日に3分はズレる時計だし、中古でも大した値段じゃないが、自己満足できる。
その意味で、実用的な品質で、つけていて楽しくなるような機械式腕時計が手頃な価格で手に入るのであれば、それは喜ばしいことだ。
物心がついたときから、俺はずっと絵や漫画を描き続けてきた。俺にとって絵や漫画を描くというのは、
何かにインスピレーションを得てストーリーを書いたり、遊びの一環としてやる程度のもので、
何か特別なことでもなく、ましてや高尚なわけではなかった。
ただ、自分がいわゆる「オタク」かと言われてみれば、オタクとみなされれば利益を害する状況であるかどうかは
関係のない状況だとしても、そうです、とは言い切れないだろう。なぜなら、俺はいわゆる「オタク」の行動が、
全く理解できないからだ。
描く絵柄もかわいいし萌え絵を取り込んだ部分もあるから、世間一般からすれば俺はオタクかもしれないけれど、俺は
オタクの行動、思想というのが全くといって理解できない。というかオタクに対しては忌み嫌っている側面さえある。
もちろん、俺のオタクのセルフイメージ自体、マスメディアの偏向報道によって事実とは違うものも多分に
含まれているという可能性も否定できないと思う。でも、それでも所詮二次元の、自分が描いたわけでもないような
美少女に(いい歳してるかとか容姿の良い悪いかは別にしても)たくさんの愛情を注いで、愛でるようなことをする、
二次元の美少女を「嫁」と称したりするような、そういう入れ込むような行為は、(口は悪いけど)はっきり言ってキモいと思う。
どうしてキモいのか?と聞かれても、俺ははっきりは答えられない。ただただ、キモい、と感じるだけだ。
ましてや(程度の差はあれども)グッズを買ったりアニメイベントに参加するために生活費を切り詰めたりするような連中となると
それこそ本当に理解ができない。アニメで漫画が原作なら漫画やBD、DVDを買うために生活費を切り捨てる、というのなら
まだ理解できる。でもグッズを買ったりイベントに参加するためだけに生活費を切り詰めたりするという話になると、全くといって
その価値観が理解できないものとなる。たかだかそんな物、事のためにお金や時間を消費するという事は、本当に理解できない。
だから俺はそういうオタクの価値観は持ち合わせてはいない。はっきり言ってそんな物より服の方が大事だ。
興味もないし理解もできない。
理解できないといえば面白いアニメを見終えれば、すぐに二期を作れ、続きを作れという作品性そのものを
無視したような、おかわりをねだるような行為も理解できない。確かに面白ければ続きをずっと見ていたくなる気持ちも
わかる。だからといって(続きがあったり続かせる気があったなら別だろうけど)すぐにおかわりをねだるような行為。
これも本当に理解できない。下品だ、作品を単なる消費物としかみていないんだ、とそういう意見は忌み嫌ってしまう。
というか書いてて思ったんだけど、食べ物を食べるだけのようにただ消費だけをする、という連中が本当に
理解できない。
というか、ただ消費をするだけと書いたのはおねだりをするように続きをねだったり絵や作品をかけといってくるような
といっても全てが理解できないわけではないと思う。二次創作をやるのは俺がインスピレーションを得たから
何かを描くのと大して変わりはないし、今後の作品作りに活かすためにアニメや漫画を細分にわけて分析したり、なぜ
面白いのか、魅力的なのかだとかの考察を加えてみたりするような事もある。だからそういう行為は理解できる。
話はそれたかもしれないけど。だから、俺は上に書いたような理由で、(あくまでセルフイメージではあるけれど)
オタクは理解できないし、精神的にさえ「オタク」には成りきれないと思うし、成りきれない。
ものすごく大雑把に要約して書くと、俺はオタク的行動が理解できない、だから精神的にさえオタクには成りきれない。
成りきれないし、忌み嫌う節さえある。
だから結局のところ俺のそういう感情を理解してくれる人は、俺と同じようなかく側、作る側の人間でしかないわけだし、
オタクの世界じゃ俺の居場所なんてない。一時期はサブカルや芸術に身を置く側の人間のように振る舞おうともしたものの、
俺は自分の描く絵や漫画はサブカルや芸術を志向したものでもないわけだし、あくまで漫画や絵は娯楽としかとらえていないし
そうとらえた物以外を作る事には興味すらないわけだから、だから俺は結局サブカルや芸術に身を置く側の人間にも
なれなかった。
そんなんだから、絵は萌え絵を取り込んでいるような絵柄にも関わらず、精神的にさえ「オタク」にもなれない、
少し文意が捉えにくかったので、要約した。
違ってたらすいません。
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http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51880843.html
多くの人々にそれを配給することを求められている「製品」としては許容できない点がある。
それらは天才であるが故の「甘え」というキーワードによって表現できるだろう。
監督や関係者の「作品」であることの追及が、多くの人々の価値を毀損している。
それを許容されるだろうという「甘え」の上で成立しているのがこの作品だ。
「風立ちぬ」の中で感じた「甘え」は次の5つだ:
1. 「技術・夢・子供に対する甘え」 = 夢の中とは言え、子供とは言え、飛行機にリアリティがない点
2. 「歴史に対する甘え」 = 30年前まで存命だった人物を史実と異なる形でネタにした点
3. 「女に対する甘え」= (割愛)
4. 「天才に対する甘え」= 庵野監督と言う天才を別のステージに立たせ、さらしあげた点
5.「現実に対する甘え」= フィクションでなく、自伝的な現実の話であると見せている点
他の天才(庵野や堀越)を愚弄している(カリカチュアライズしている)作品となっている。
そして、それに気づかずにいることを免罪符にしているように感じられた。
http://anond.hatelabo.jp/20090308152436
ちょっと前にゲーム業界で働く友人と日本でゲーム性の高い洋ゲーが売れないのは何故だろうねぇ?
ということを飲みながら話をしてたときに友人がいったのが、
「日本人はゲーム性なんか求めてないから、求めてるのはキャラクター性」
音楽もそうだよな。重要なのは音楽性じゃなくてキャラクター性。
リア充は、羞恥心みたいなキャラクター性、オタクは、初音ミクみたいなキャラクター性で音楽を買う。
中田ヤスタカのcapsuleは売れないけど、Perfumeは売れる。
その差はやっぱりキャラクター性がたってるかたってないか。音楽性は求めてないの。
小説だってライトノベルが流行して売れるのはキャラクター性があるから。
アニメでもヒットするのはストーリーよりもキャラクターに魅力があるかどうか。
同人が、あそこまで拡大したのもキャラクターを中心としたもの。