はてなキーワード: 下山とは
日本社会は表向き実力主義、成果主義を掲げつつ、未だ学歴主義体質が根強いと言われている(渡辺,2006)。そのような社会の中で、大学進学者の割合が初めて5割を超え(文部科学省,2009)、数十年前と比較して高学歴化が進んでいる。全入時代までは至らないが、志望大学に拘らなければ受験生の9割超が大学に進学できる時代となった。今後は大卒の肩書きのみでなく、大学の知名度や質を重視する傾向が強まり、受験競争はさらに激化するとも考えられる。ここで問題となるのが、受験という競争に伴う敗者と勝者の存在である。彼らが過剰な挫折感や劣等感、あるいは優越感に囚われた場合、学歴コンプレックスとして諸々の心理的、社会的な問題を引き起こす。しかし現状は、定義自体が曖昧であるため、研究者独自の概念や言葉で当問題が扱われている。そこで、今回は心理学分野での学歴コンプレックスに関する研究に注目し、考察と今後の展望を述べることとする。
学歴コンプレックスとは、不満足の原因を自己あるいは他者の学歴に関連づけることで感じる、劣等感や自尊心のこと(鷲田,1995)であり、学歴に対して劣等感を抱く場合と学歴への誇大な自尊心を抱く場合の2層に分けられる。両層に共通する主な特徴は、以下の3点に集約される。第1に、自己の実力不足や失敗を過度に学歴に帰属すること、第2に、自己だけでなく他者をも学歴で評価すること、そして最後に、学歴ばかりに囚われ学業という本来の目的を見失いかねないことである。これらの根底には、学歴が高いほど将来は報われると考える「学歴社会意識」(安藤,2007)や有名大学の進学のみに価値を見出す「学校歴主義」(野田,1996)といった学歴志向の存在が窺える。層別に見ると、劣等感層では上述の志向に加え、入試時に第1志望に落ちて仕方なく所属大学に入った「不本意入学」(伊藤、1995)がコンプレックスの主要因となっている。そして、不本意感から多浪や仮面浪人、退学を繰り返す再受験症候群や、国公立大の進学者を優遇する国公立大学至上主義下での私大進学者なども本層に含まれる。一方、誇大な自尊心層では、学歴社会の勝者であるがゆえに、学歴に比例して自己を過大評価する傾向がある。その裏には人柄や実力よりも学歴イメージが先行する、レッテルとしての学歴の影響が見られる。その他、学歴に見合った社会的待遇でないと受け入れられない学歴保証の希求や、就職時に多い高学歴者の挫折体験等の問題も挙げられている。これらの学歴コンプレックスに伴い、失敗感、挫折感からくる無気力や自尊心低下、不本意感に由来する不適応や抑うつ状態といった心理的問題に加え、充実感や生き甲斐の欠如、自我同一性拡散の深化など、生き方そのものに関わる問題の存在も示唆されている。また、学歴志向や進学観が親子間で継承される(吉川,2005)ように、親子間でのコンプレックスの継承や家庭内の学歴格差によるコンプレックスなど、個人のみでなく世代間に学歴問題が発展する可能性もある。
先行研究は、学歴コンプレックスを多側面から検討し、日本独自の学歴観や学歴の持つ意味、学歴が認知や思考に及ぼす影響について言及した点で、学歴問題の諸相と今後の研究可能性を提示した意義を有する。今後の展望としては、同じ状況下で不適応に陥る人とそうでない人との相違や学歴にまつわる不適応への対処法など、臨床実践に向けた研究を進めていく必要がある。
安藤聡一朗 (2007).学歴社会意識とスチューデント・アパシーとの関係についての考察 学習院大学人文科学論集,16,137-165.
池上知子 (2004).「学歴社会」に対する意識と大学の自己同一視との関係 愛知教育大学研究報告(教育科学),53,79-86.
伊藤美奈子 (1995).不本意就学類型化の試みとその特徴についての検討 青年心理学研究,7,30-41.
吉川徹 (2005).7-106間移動を考える.日本教育社会学会大会発表要旨集録,(57),44-45.
文部科学省 (2009).平成21年度学校基本調査.2010/02/02情報取得
野田陽子 (1996).学歴観の構良智 (学生とその親の学歴観の分析をとおして― 淑徳大学研究紀要,30(II),87-113.
鷲田小弥太 (2005).コンプレックスに勝つ人、負ける人PHP研究所渡辺山.
5일
5日目
ゆっくり眠れる保証もないので、充分な睡眠時間を取れるのは昨夜しかなかったが、やはり眠りは浅かった。
釜山で迎える2度目の朝、疲れが取れているかどうかは疑わしいが、今日は名所観光やお土産購入、食べ残した釜山グルメなど、予定を詰め込んだので、直ぐに部屋を出た。
まず目指すのは、チャガルチの朝の名物になっているという、シンチャントーストだ。
まだほとんどの店が開店前で、人もいるにはいるがほとんどは開店準備の搬入や路地の工事。
本当にやってるのだろうか。
路地をクルクル迷いながら進むと、まだ閉店してい暗い店が軒を連ねるなか、30㎡程の縦に細長い店の前でコック帽に白衣のオジさんが黙々と店先でトーストを焼いている。
釜山の朝の味、シンチャントーストの前では、そこだけ行列ができていた。
卵とハム、チーズが挟まれたトーストは、洋食なのに滋味深かった。
シンチャントーストの御主人に支払いを済ました時に、残りのウォンが心許ない事に気付いた。
南浦洞は西面と並ぶ釜山の繁華街だが、土曜の朝9:30に開いてる店はほどんどなく、人もまばらだった。
手元の3000円を両替する。
ナヨンの時は実は数えてなかったが、ここでの両替は少額なので数えやすい。空港より明らかにレートが良かった。
南浦洞から引き返し、港町、釜山の顔が最も見える場所、チャガルチ市場に向かう。
広い市場では、いけすの中にカニやエビなどがひしめき、山盛りに積まれたサザエやホンビノスなどの貝類、太刀魚などの魚、イカ、タコ、ナマコに果てはエイまで、あらゆる海産物が並べられていた。
ここで海産物を買って、2階で調理してもらえるらしく、お母さんに声をかけられるが、既にトーストを食べていたので、固辞して、市場の棟の反対側に出る。
海が目の前だった。
海風にあたりながら、あたりを眺めていると、韓国語の演歌らしきメロディーが流れてくる。そういう音楽が韓国にあるかどうか分からないが、メロディーといい、コブシの利かせ方といい、どう聴いても演歌だ。
ここでもたくさんの海産物が売られていたが、端まで抜けると食事のできる店がある。
漁師や港湾労働者、仲買人などはここで食事をとるのかも知れなかった。
歩きながら日本と韓国で意見の相違のある日本海の呼称問題について考える。
このチャガルチ市場を埋め尽くす豊富な海の幸を見ていると、韓国の人がこの海を「東海」と呼びたいのもわかる。
目前にある日々の漁場が「日本海」では、借り物で漁をしているみたいだ。
日本人として韓国人の主張の是非や正当性は一旦脇に置くが、ナショナリズムじゃなく、釜山市民の生活者の実感として「ここは自分たちの海だ」とスッキリしたいという、その気持ちは理解できる。
市場を後にし、韓国旅行に当たって一番最初に決めた観光地、山間の民家をカラフルに彩った甘川文化村に向かう。
バスに乗るてもあったが、地図上では歩いて行けない距離とも思えなかったので、その足で向かった。
実際に歩いてみると、考えが甘い事に直ぐ気付いた。
市場に程近い有名観光地なのに、歩いて向かう人が殆どいないのもさもありなん、山道が結構急なのだ。
「実際に過ごしている人を見れるのも良い」と無理やりポジティブにかんがえたが、やっと観光客で賑わう村の高台に着く頃には、脚の疲れがえらい事になっていた。
甘いカフェラテが身に染みる。
デッキではカップルがロマンチックな風景をバックに写真を撮っていた。
辺りには、たくさんの国からやってきた観光客が写真を撮っていた。
実は釜山にきて見て気付いたのだが、この街で最もよく見かける外国人は「日本人」で、それ以外の外国人の存在が薄かった。
しかし、ここでは中国か台湾、ベトナム、ヨーロッパから来た人など、多彩な国々の面々が並ぶ。
韓国の民族衣装を身につけた3人組の少女、2人は明らかに韓国人ではない。
村の坂道や階段を行ったり来たりするうちに、「ギャラリー」の文字が。
興味をそそられて階段を上ると、登り終えてまだ続く坂道の上で、学生服の少女が同じく学生服の少年の写真を撮っていた。
ギャラリーは閉まっているらしく、腕章を付けた彼ら以外に周囲に誰もいない。
プライベートも極まる時間だろうが、輝く記憶を少しだけおすそ分けさせてもらった。
さすがに歩いて降りる気力がなかったので、バスを使ったが、山道を下るバスは運転が荒い。
座れてなかったら大変だった。
チャガルチから南浦洞への道すがら、行く手から派手な太鼓と鈴の音が聞こえてくる。
デモだろうか。
韓国社会はどうやらパレードが大好きで、到着2日目にも地下を歩きながら、実体こそ見なかったが、パレードの音を聞いた。
時節柄、ちょっと緊張する。
前からやってきたのは、釜山の対岸、九州からの踊り手達だった。
彼ら自身は踊ってないので、既に演目を終わったのだろう、しばらく歩くと、今度は韓国の民族衣装に身を包んだ踊り手達が舞っていた。
音は此処からだ。
そういえば、釜山であった日本人と少しだけ会話してみると、九州からの人が多かった。
岸の両岸では、それぞれの人々が交流している。
南浦洞では、韓国旅行で2番目に決めた目的、ナッツ入りバタードーナツのシアホットクを買い求める。
生地を大量のバターで豪快に揚げ、横に挟みを入れポケット状にして、蜜とナッツを詰め込む。
形状は平たい円形だが、なぜか平たく潰した紙コップに入れて供される。
しょっぱくて甘い味は疲れた体に沁みた。
でも、どうも日本に入ってくる韓国グルメは、1個流行るとそれ一色になっちゃうんだよなー。
さて、夕方前に一旦ホテルに戻るつもりだが、その前にここのロッテマートでお土産を買う。
出発直前までなかなかイメージが湧かなかった韓国土産だが、同僚の勧め通り、インスタントラーメンにした。
ホテルに戻って、明日朝の空港に向かうタクシーの手配をして、すぐ出発。
なんとか時間的に間に合いそうだ。
ここに訪れれば、今回の韓国旅行で行きたい観光地は大方回ることができる。
地下鉄を乗りついで向かうが、どうやらエネルギー切れで気力が切れてきた。
山道を歩き回ったのに、朝から食べたのがトーストとドーナツだけじゃ足りないのも当たり前だ。
とにかく何か食べないとまずい。海雲台駅で降りると、バーガーキングに吸い寄せられるように入った。
異国の地で、何が出てくるか想像できる上に早いジャンクフードはいざとなると頼りになる。
バーガーキングのカウンターの福々しいお姉さんは、言葉が怪しい日本人にも親切だった。
ちょっと迷ったが、海雲台駅から海東龍宮寺に向かうバスに乗車。
30分ほどの乗車で龍宮寺に到着した。
龍宮寺までの参道は曲りくねった階段なのだが、辺りは台湾の九份もかくやと思わされる人出で、細くて急な階段を歩くのが怖い。
しかも疲れている所に再びの山道なので、なんとか転ばないように慎重に歩く。
距離がなかったのだけが救いで、やがて海を望む龍宮寺が姿を現した。
既に夕方だったので、だいぶ光が赤く、海の青さはちょっとくすんでいたが、それでもなかなかの絶景を写真に収めることができた。
満足したので引き返してバスを待つ。
やってきたバスに乗り込んだが、ここで思わぬ苦労をする羽目になった。
椅子に座れず立ち乗りだったが、渋滞に巻き込まれてバスがなかなか進まない。
その上、運転が荒い。
外国のバスの運転は概ねこんなものだと思ってはいるものの、いい加減ヨレてきている足腰には辛かった。
このワイルドな運転にも韓国の若者は涼しい顔をして立っている。
どういう鍛え方をしているんだ、いや、これ自身が日々のワークアウトになっているのか。
ユラユラ揺れる自分も、友達や恋人と事も無げに談笑する韓国男子も、真反対の意味で慣れというのは恐ろしいものだ。
渋滞に巻き込まれた結果、1時間強の乗車となったバスを降り、海雲台の駅から地下鉄に。
釜山最後の食事は、牛の地を羊羹状に固めたソンジが浮かぶソンジクッパだ。
「ソンジクッパ ジュセヨ」席に座る前に頼むと、やがてグツグツ煮えたソンジと牛もつ入りの赤いスープがやってきた。
ごはんを入れながら食べる。
パッと見、キワモノっぽく見えるソンジだが、動物の地を固めてスープの浮き身にするようは食習慣はアジアでは珍しいものではない。
台湾にも猪血糕や鴨血などがあるし、タイにも類似の料理があるという。
四角く赤黒いソンジは、特に強い匂いもなく、レバーっぽい羊羹という感じで口に抵抗なくいただけた。
これで韓国旅行で事前に設定したタスクは全て果たすことができた。
個人的な旅行あるあるなのだが、なぜか海外旅行では額にして3000円前後の小さな落し物をすることが多い。
今回もカメラのレンズのアクセサリーリングが所在不明になった。
別に機能に致命的な影響が出るわけではないが、無くしたいわけでもない。
こういう時、何かの引き換えになったとでも考えるようにしているが、少しだけ残念だ。
3일
3日目
日本でいうところの令和2日目。
光州の朝は晴天だ。
香港で見た夢は習近平と麻生太郎が出てくるというぶっ飛んだものだったが、光州で見たのは同僚に「韓国旅行どうでした?」と聞かれて「良かったよ」と答えるという現実的なものだった。
今の所、インプレッションは上々だ。
今日はまず光州で起き、映画「タクシー運転手」のテーマにもなった民主化運動の記念碑が立つ、5.18記念公園に向かう。
オシャレだが簡素なhotel stay 53では朝食もない。
行きすがら何か食べようと、街を歩くが、朝9:30の光州では空いている店もまばら。歩いている人も多くない。
やっぱりノンビリした街だなぁ。
韓国ではキャッシュカードやT-money、普及中のバーコード決済でキャッシュレスが進んでいるという。
光州の街は人口で言えばちょうど京都市と同じくらいなのだが、緑が多さと人口密度の薄さを考えると、札幌市の印象に近い。
しばらく歩くと公園に到着した。
民主化運動の聖地というが、緑豊かな市民の憩いの場という感じで、丘状の公園の中腹にある人場では、設置された宙に浮いて足踏みをするタイプの運動器具でオバちゃんが健康づくりに励んでいた。
予想外に日常的で平和な光景に少し驚いたが、公園をグルリと一周すると、3人の男性が宙に手を伸ばす民主化運動のモニュメントに出会った。
筋骨隆々としていて、さすがにちょっと理想化されてるんじゃないかと思ったが、その自由を求めて闘う表情には迫力があった。
中に入って一瞬目を見張った。
この闘争で亡くなった人か。
平和な光景の地下に、この日常を目指して亡くなった人たちの記憶が眠っている。
さすがに空腹になったので、近くの店に入ってソルロンタンで昼食をとる。
オバちゃんの指摘は優しく控えめな感じだった。
エネルギッシュな印象のある韓国人だが、光州の人はどこか柔和な感じがする。
8000ウォンを支払い、歩いて行けそうなカラフルな集落、「青春発散村」に向かった。
20分ほど歩くと、川沿いの坂道にカラフルな集落が出現した。「青春発散村」だ。
坂道に張り付くような民家がカラフルなペンキアートで彩られている。
らしいと言えばらしいのだが、パステルカラーの家々ではどう見ても普通に生活が営まれており、どでかい少年のコンクリ像のすぐそばの家からは小学生程の少年が飛び出してくる。
学習塾か何かだろうか?
メルヘン大盛りの集落で少年時代を過ごしたあの子達は、どういう記憶でこの日々を振り返るのだろう。
路線番号518
当初の予定には無かったが、時間的に間に合いそうだったので、光州事件の犠牲者が眠る5.18民主墓地に向かう。
外国の市内バスは何が何だかわからないのだが、このバスに限っては間違いようがない。多数の路線の中でただ1つの3桁ナンバー、ズバリ518なのだ。
緑豊かな山の上に、モニュメントが建っている。
天を衝く槍のようなその下に、民主化に立ち上がって倒れた人々が眠る墓があった。
仄暗い空間を見渡す限りの壁一面に、額に入った遺影が並べられていた。
歩いたし、衝撃も受けたので腹も減っている。
コーヒーでも飲みながら友達とSNSで話そうかと思ったが、夜に早い光州のこと、急がないとまた行きたい店が閉まってしまう。
バスを降りてすぐに光州松汀駅に向かった。
途中、T-moneyカードをチャージしよう思ったが上手くいかない。
身振りぶりで行き先を示すと、切符の買い方や乗るべきホームまで教えてくれた。
相手が何語だろうと自国の言葉で臆せず押し切るのは、万国共通のオバちゃんフォームなのかもしれなかった。
俺は一体この旅行記で何回「オバちゃん」というワードを書いたのだろう。
店に入っても日本語メニューなどは無かったので、壁のハングルを指差して注文、相手はもちろんオバちゃんだ。
やがて、10皿ほどの小皿おかずと、牛モツ煮込みスープ、山盛りの青菜がやって来た。
やがて焼きたてのトッカルビがやって来た。
小皿のキムチなどをつまみながら、トッカルビを青菜に包んで食う。
トッカルビは肉の味なのか、一緒に練りこんだ調味料の味なのか、少し甘い。
いい意味で見た目通りの味がする。
そしてキムチは辛い。
全羅南道のキムチは辛いと聞いていたが、辛さのアタック力が日本で売られているキムチとは違うし、もっとシンプルな味がする。
韓国人からしたら、日本のキムチは辛くない上にしつこく感じるだろう。
テーブルに乗せられた料理は一瞬圧倒されそうな量だったが、空腹のためか、ついでに頼んだビールの作用かどんどん食い進めることができた。
食の都といわれる光州、これだけ食えば上出来だ。
田舎に住んでたことがあれば分かるよ。ソフトバンクは基本つながらない。
あと登山や山道旅行するのが好きだと、Docomo一択。妥協してAu。ソフトバンクは基本つながらない。
何故かって人口カバー率をあげるだけなら都市部に絞って回線網作るほうが効率的だからね。ソフトバンクは人口密集度の高いところしか投資しないからクソ。
そりゃーDocomoさんは元国の事業なだけに、プラスエリアとかマイナー電波使えば田舎の数人しか住んでいない限界集落すらターゲットとしてるからね。偉いよ。
ちなみに、弊社新入社員研修で訪れる田舎の工場の寮はソフトバンク繋がりませんでしたね。。。同期が電話するために毎晩下山してた。。。
別府ん湯って最高やろ?
酸性硫化水素と鉄を含んだスカイブルーの湯は「これが温泉です」というイメージを具現化した様な姿だった。
素晴らしい湯をしばらく堪能した後、併設の食事処で再びとり天とだんご汁を頂く。
そこら辺は味のレンジに幅があるのかも知れないが、これも美味い。
下山する前に、「地獄」と呼ばれる湧泉池のひとつ、「海地獄」を訪れる。
ここは入湯施設がメインではなく、景色を見る事を主としたいわば温泉のテーマパークだ。
受付を済ませて建物を通り抜けると、98℃の熱湯を湛えたコバルトブルーの池からモウモウと湯気が上がっていた。
訪れた人が思い思い写真を撮る。
ここではよく広東語が聞こえてきた。
地元が温泉どころで、温泉リゾートが生活に根付いている台湾の人がこの地を目指してくるのはなんとなく納得していたが、香港の人も別府に多く訪れるらしい。
まだ1件いける。
市街を海に向かって下る。
地図を見ながら歩いて行くと、周りに肌も露わなアゲ嬢たちのディスプレイが。
竹瓦温泉は元々遊郭を改造したものらしが、当地は今でもバリバリ現役の風俗街だった。
歴史ある見事な佇まいの門をくぐり、入湯料を払う。
100円。
どういう価格設定だ。
男湯の暖簾をくぐると、脱衣所と一体になった空間にいきなり登場する湯船。
風俗街の真っ只中に建ち、脱衣所と浴室の仕切りも洗い場もなく、お湯は熱湯風呂。
別府最後の温泉は、東京ではなかなかできないハードコアな体験だった。
海の生き物と山の仏
本殿を参拝した後、茶室のテラス席で甘味を頂いたり、宮島を散策したりしていたのだが、少し寒くなって来た。
少しだけ屋根のある休憩所で一休みしたあと、案内に沿って宮島水族館を訪れることにした。
ここでに足湯とはなんと気の利いた事だろう。
そう思って近づいたが、すぐに「水族館で水に足を突っ込む施設」がある事の意味を理解した。
ドクターフィッシュだった。
テレビなどでその存在は知っていたものの、自ら進んで魚に角質を食わせたいと思った事はない。
ぬるま湯を気ままに泳ぎ回っている彼らは、足を突っ込むや否や一瞬の逡巡もなく群がって角質をついばみ始める。
痛くはないがくすぐったくてしかたない。
トルコやドイツではこれが肌の健康の為に医療行為として認められているそうだが、ゴツい大男(偏見)が魚に足をくすぐられてどう言う顔をするのだろうか。
ドクターフィッシュの他にも種々の海獣、ペンギン、カワウソ、色とりどりの魚やクラゲなど、意外と言っては失礼なくらい見所の多かった宮島水族館を後にして、周囲を散策すると「宮島ロープウエー」の看板が。
普段なら「一人で登っても」と思うところだが、島の位置関係を体感できそうだったので乗ることにした。
ロープウエー乗り場への道すがら、坂道に建つ旅館の前に設けられた、今度こそ本当の足湯でひとときリラックスして、乗り場に向かう。
出発の紅葉谷駅から展望台のある獅子岩駅まで往復で1,800円。
小型のゴンドラを中腹の榧谷駅で大型に乗り換えて、展望台にたどり着くと、薄いミルク色がかった青空の下、瀬戸内海に浮かぶ島々が眼下に広がった。
こう言った光景は見た事がないので、興味に従って正解だった。
多少物足りない気もするが、眼福だったし戻ろうかな、と獅子岩駅に戻ると、傍に「弥山山頂」への掲示が。
小一時間で往復できるという。
ボルダリングを趣味にしてる割には登山はそれ程得意ではないので、アップダウンの多い山道は意外と応えるし、足を踏み外したらなどと思ってしまってちょっと怖い。
気をつけながら歩いていると、斜面のヘリと登山道を隔てるロープの外にある一枚の看板に目が留まった。
「平成17年9月6日の台風14号の土石流により、歩道が流出しました。立 入 禁 止」
弥山本堂までたどり着いて16:50分。
弥山山頂の展望台はもう間に合わない時間だし、折り返しの山道を焦って走りたくなかったので、すぐ傍にあった聖火堂で今度はやや自分に関する割合の高いお祈りをした後、獅子岩に引き返す事にする。
再びアップダウンの多い細道を歩くこと30分ほど、17:10、最終便には少し余裕を持って乗り場に到着した。
まだ数本あったものの、最終に近い大型ゴンドラは満員で、おそらくこういったすし詰めに慣れてない(いや、慣れているのもどうかという話だが)外国人が駅員に詰めて乗る事を促されていた。
こういう時に外国人と話す機会があったらどういうのがいいのか。
「Easy, japanese anybody love raid in crowded car.」
とでも言おうか。
外国人はジョークを求めている筈だという無意識の思い込みがあるのかもしれない。
降りのちょっと怖いくらいの絶景を見ながらロープウエーに揺られ、紅葉谷駅で降りる。
歩き通しでさすがに少し疲れていたので、すぐ近くのバス停から桟橋付近まで送迎してくれるバスに乗った。
もちろん満員だった。
大鳥居を見て帰るだけなので昼過ぎには帰って暇を持て余すかな、と考えていた宮島だが、行ってみると見所は多く、帰りのフェリーに向かう頃にはすっかり日も暮れている。
フェリー乗り場のある桟橋に向かう途中、夜の水面にライトアップされた大鳥居が朱に輝いていた。
過去の道迷いによる遭難事例などhttps://toyokawa-ac.jp/map/map_sounan
Ⅴ-2-2 なぜ沢を下ってはいけないのか
① 「あれっおかしい」と思ったが、「何とかなる」と思ってそのまま進んだ。
② 途中で道がなくなり、戻るにも藪が深く、自分がどこにいるのか分からない。
③ 自分がいるところが分からないので、同じところをウロウロし、体力がなくなり、日が
暮れた。
④ 喉が渇き、沢の音にひきつられ、いつの間にか沢を下っていた。
⑤ 滝が出てきたが、無理を承知でそのまま降りた。
⑦ 動けない。
道に迷っても沢に降りてはダメ!(登山初心者用)https://www.yamareco.com/modules/yamanote/detail.php?nid=698
道に迷ってしまったらhttps://www.sangakujro.com/%E9%81%93%E3%81%AB%E8%BF%B7%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%89/
さて、山で道に迷ったときの最悪な行動パターンといったら、沢を下っていってしまうことである。樹林帯に比べ、ヤブなどがない沢は歩きやすく、しか も下へ向かっているため、「このまま山麓まで下っていけるのではないか」と錯覚して、ついふらふらと入り込んでしまいたくなる。しかし、下っていくうち に、やがて崖や滝や堰堤に突き当たって進退窮まるのが沢というもの。それを無理やり下ろうとして転落しまう事故が後を絶たない。どんなに歩きやすそうに見 えても、絶対に沢は下っていかないことだ。
山口・周防の行方不明になっていた2歳の男の子が無事に見つかったことは本当に良かったと思う。
しかし警察や捜索隊が3日間かけても見つからなかった男の子を簡単に探し当てた78歳のボランティアの方はすごいよね。
警察や捜索隊は、男の子を抱えて下山したボランティアの方を当初は誘拐犯扱いしていたという報道もある。
てめーらが3日間かけても見つけることが出来なかった子を、他県から来た土地勘もない人に手柄を取られたからって、それはないだろう。
今日の朝と昼のワイドショーは全部、このボランティアの男性の話題で大賑わいである。
この男性の話し方とキャラクターが、人を惹きつける魅力があることも手伝って、メディアは面目丸潰れの警察や地元捜索隊は完全に無視なのが笑える。
いやあ、久々に胸がすっとするニュースだった。
初の増田投稿でいきなりホッテントリ入ってビビっている「富士山というコンテンツの異常性」の元増田です。(増田ってなに?と思って適当な投稿したことはあるので厳密には初ではない)
ありがたくも後日談希望とのブコメがあったことと、補足説明しておきたいことがあったので投稿します。
心配してくださった方ありがとうございます。
彼女からはちょくちょくLINEきていたのだけれど、増田の予想を裏切って意外にも余裕そうだった。(常時電波が入るのは、ほんとに富士山のいいところだと思う)
そしてここからが少し考えさせてられる話になったのだが、彼女は山頂に立つ余裕を残していながら、9合目で軽い高山病でダウンしてしまった友人の付き添いで9合目に残ったのだそうだ。
彼女尊いと思った。20代のうちにやりたい夢だといい、良い悪いは別にして行った富士山なのに、友達に付き添って9合目に残る判断ができるなんて。そんなんできひんやん普通、そんなんできる?
一方、他の男どもはそんな彼女たちを置いて山頂に向かったという。
それを聞いてと彼女を褒めた。優しいと。偉いと。そしてその男どもの行動を軽く咎めた。
そして、はっとした。
男どもへの批判はブーメランとなり増田に返ってきた。実は増田も6月に富士山に行った際、一緒にいった先輩に軽い高山病の症状がでてしまったのだ。
そんな先輩を置いてお鉢巡りを満喫しホクホクしていた増田にとって、このエピソードには心を打たれた。(無論、先輩と増田は10年来の登山仲間でお互いに十分な信頼関係があり、一定の技術を有している)
まさか彼女に、自分にはできなかった登山においてどんな技術よりも重要なことを教えられるとは思わなかった。
そのせいもあり、彼女は御来光を9合目でみることになったようだ。それを彼女は悔しがっていたが、彼女から送られてきた9合目からの御来光の写真は、増田が今までに見たどんな山頂からの御来光よりも価値あるものに見えた。
そして嬉しいことに「富士山に再チャレンジしたい」「増田と他の山にも行きたい」とも言ってくれた。全俺が泣いた。
彼女のような富士山の登り方を行う大勢の人達や、コンテンツとしての富士山に対する批判的な見方は依然変わるものではないが、改めて山への向き合い方を考えさせられる出来事となった。
本当に山では何が起こるかわからない。
以下、もらったブコメについて補足事項です。長いから読んでも読まなくてもいいよ。
まず言っておきたいのが「一緒にいってないのかよw」ってブコメね。うん、確かにそうだ。でもこれね、行けないんだ。
ことの経緯を説明しよう。
彼女からは1ヶ月位前には富士山いくかもとかなんとか聞いていた。しかし実際に行くことが決定した事実と具体的なスケジュールを聞いたのは先週だった。
平日だし、いくらなんでも急すぎるだろう。君たちなら有給とってでも付き添うだろうか?
愛してんだろ?いけよ。
なるほど、たしかに。
「今週末は天気が良さそうだ」という理由で間際に山に行く決定をしたことなど何度もある。急遽、有給とってでも彼女に付き添そうべきだったのかもしれない。
しかし同行しなかった最大の理由はこれではない。これは次の問題からしたら大したことではない。なんと今回の山行は、彼女の職場の仲間への誕生日祝いで催されたものだった!
((誕生日祝いに富士山に登る!?山ってそういうんじゃねぇから!!))←心の声
そう今回の登山はその職場の仲間達と計画された楽しい誕生日祝い富士登山なわけだ。
そして、そこに颯爽と登場する自称登山経験者の彼氏!みんなの登山中の安全を見守るよ!
いや、無理だろ。誰だよこいつ。やばい。図々しい。
ご理解いただけただろうか。これが一緒に行っていない理由だ。増田も山で暮らしていたならこんなしがらみはなかっただろう。しかし人間社会で生きる以上、心配しつつも送り出すしかないときがあるのだ。
誤解のないように言っておくが、自分の得意領域に入ってくるやつに対してマウント取りにいって、上から目線で批判するやつは増田も嫌いだ。
みんな好きにやったらいいと思っている。自分だってそういう時があったはずだし、その時期が一番楽しいのだ。
余談だが、増田は無類のジョジョ好きであり、全スタンドを作中の時系列に沿った登場順でそらんじる特技がある。(作中では時系列が前後したりするので意外と難しいのだ!)
しかしこの増田に「ジョジョが好き!」と公言するアニメしかみてない勢に対してマウントを取りに行くことは決してない! と思っていただこうッ!どのスタンドが好きとか、何部が好きといった初心者向けの話題を4部までに限定して立ち回るのだ。
(なお同じレベルの人と話すと作品考察と批判は当然のこと、荒木飛呂彦論にまで発展する)
とにかく作品を好きな気持ちはみな同じなのだ。マウントを取る意味はない。だから彼女には口酸っぱく注意喚起はしたが、直接的に今回の山行について否定的な言葉はかけてはいない。
ただ人間どうしてもそういう感情がでてしまうから、感情のやり場として元増田を書いたわけだ。そのせいもあって元増田にはマウントを取りに行く感がでただけだ。
とはいえジョジョと違って命の危険も伴うこともあり、彼女に対して若干のイライラ感がでてたようにも思う。楽しく行こうとしてるのをいちいち注意してくる口うるさいやつという印象になっていたかもしれない。
ここが命の危険が伴わない趣味と、そうでない趣味とを分ける難しい部分だ。前者は好きにやらせたらいい。破滅はあるかもしれないが死にはしない。だが後者は駄目だ。いくら楽しい気分でいる人の気分を害すこととなっても行動を諌めなくてはいけない時がある。(それが身内ともなればなおさらだ!)
ここを間違うと栗城と同じ末路となる。(余計なこと言ったかなwこの議論はまた別のところで)
このバランスが難しい。
富士山だし大丈夫だろっていう気持ちはあった。しかし山であることも事実で、その葛藤が元増田を生んだわけだ。
山だけに。
無事に下山して来ればいいけどな……
こんなことは散々言われ尽くされているだろう議論だし、今さらおれが言うことではないのかもしれないが身近なところでこの異常性を感じたので記録しておく。
富士山という山の異常性については、ずいぶん前から認識はしていた。
登山に親しくない人々にとって富士山は登山の対象ではなく、「富士山」というコンテンツである。と
富士山には極端な例で言えば、Tシャツジーパンスニーカー雨具も持たない連中が登る。
これは十分に整備された登山道と十分な山小屋のある富士山だからこそまかり通る狂気だ。
またTシャツジーパンスニーカー野郎は論外としても、富士山のために装備を1から揃えて行く大部分の「富士山に登りたいだけ」の山に縁のない人々にも個人的には悲しさを感じる。
その登山道具は、登山のためではなく「富士山に登るセット」なのだ。
そして富士山に登ったら最後「もう2度と山には登らない!」と言い放ち(まるで登山全てがそうであるかのように!)、その高価な装備は使われることは2度とない。
初めて登る山が富士山でなければ…。
山の素晴らしさを知っている人間からすると、そう思わずにはいられないのだ。
しかしまぁ幸いにもしっかりとした登山コミュニティに身を置いてきた増田の身近にはそんな人はいなかったので、富士山はそういうもんだ、そういう人はコンテンツを楽しんでんだからいいんだよ、と割り切っていた。
とまぁ前振りはここまでだ。
そんな考えを持っていた増田に3ヶ月前に彼女ができた。とても笑顔の可愛い愛すべき女性である。
彼女について説明しておくと、全く運動しない、増田が筋トレ、ランニングに誘うも一緒にやったことは一度もない、そもそもスクワットとか腕立てをやらせてみても1回もできない、お腹周りもぷよぷよといった具合だ。
(こんなこと本人には絶対言えない)
また登山道具一式も先週買ってきたので、富士山に行く前にどこか山に行って靴を慣らそう、せめて平地でいいから慣らそうと言っても全て断られた。
そのくせ、たちが悪いのは「20代のうちに富士山に登ることが夢だった」とか言い出したことだ。(彼女は29歳)
((はぁ!?夢だったならそれに備えた準備するんじゃねぇの?夢なのにぶっつけ本番?それ東大入るのが夢とか言って勉強しないで受験するやつだからね!!))←心の声
止めた。すぐ止めた。そりゃ止めた。
でも夢だから行くと。
増田も6月の頭、山開き前の富士山に行ってきたが相当にしんどかった。普段山に行っている増田でさえも辛いのだ。彼女に登れるわけがない。
まさか身内に嫌悪すべきコンテンツとして富士山を登る奴が現れるとは!!
困惑した。
今5合目にいる。7/9 21:53現在だ。
リアルタイムだ。
一緒に行った連中もみな初心者で、唯一の経験者も富士山しか登ったことがない。
ギリギリまで注意喚起をして、ヤマテンで天気を調べてあげた。幸いにも晴れ予報である。
ただ局地的ににわか雨が降ってるらしいので気をつけるようLINEをした。
ここまで彼女のことはボロクソ書いたが心から愛しており不安で仕方がない。
しかも今5合目にいて、御来光をみるだとか言っている。
お前、何時に出発すればいいんか分かってんのか!?
おれはてっきり今日は8合目あたりの山小屋にいるんだと思ってたぞ!!
そんな怒りと不安をぶつける先がなかったのでここに書き殴りました。
彼女が無事下山してくれることを祈りつつも、彼女は下山後こう言うに違いない。
「もう2度と山には登らない!」と。
アルピニスト・野口健は、産経新聞の書評で2014年、次のように言った。
https://www.sankei.com/life/news/141018/lif1410180018-n2.html
10年ほど前の出来事だが、僕の元に一人の青年が訪ねてきた。「野口さん、エベレストを単独無酸素で登りたいのです」と。短い時間であったがピン!と感じるものがあった。これまでにも何人もの青年たちが僕に同じような事を伝えに来た。しかし、彼らの多くは僕に宣言した目標のごく一部を達成したところで満足してしまったのか、または就職活動といった現実に背を向ける勇気もなかったのか途中で放り投げてしまう者ばかり。だったら最初から僕に宣言などしなければ良かったのに。
https://www.sankei.com/life/news/141018/lif1410180018-n2.html
栗城氏も三度(みたび)エベレストに挑戦し、いまだに登頂は成し得ていない。前回のエベレストでは遭難し手の指を9本凍傷により切断。登頂できない彼に対し誹謗(ひぼう)中傷は酷(ひど)かった。「下山家」とも罵(ののし)られた。
僕は世の中の応援に対し時に「無責任だなぁ~」と感じる事もある。応援する側の多くは何となく応援している。そして結果がでないと時に梯子(はしご)を外したかのように批判に回る。そんな風潮の中、途中で夢を諦(あきら)めていく若者も多い。
しかし、栗城氏は指の大半を失いながらもエベレスト単独無酸素を諦めていない。今夏、彼は8千メートル峰であるブロードピークに無酸素単独挑戦し見事登頂を果たしたのだ。初めて彼と会った時に「この青年は違う」と感じていたのは間違いではなかった。来年、彼は再びエベレストに向かう。「弱者の勇気」、この彼のメッセージには生きる上でのヒントが多く込められている。
彼が亡くなった今、なにかを成し遂げずに途中で中途半端に放り出して、諦めることができること、ここにこそ、生きるヒントがあるように思う。
諦めずに続けるには、それが好きで好きでたまらないか、よほどの才能が必要だと気がついたのは最近のこと。
責任感が弱く根気がなくて、何事も続かなくて、業績もぱっとしない。やばいと思ったらすぐに逃げる。助けを求める。無理をしない。一人で頑張らない。