はてなキーワード: 戸籍謄本とは
気に入ってた格好いい苗字からそこら辺にいそうなありふれた苗字になってクソ!!
マイナンバーカードに旧姓併記したいって言ったら戸籍謄本持ってこいという役所クソ!!!
運転免許証への旧姓併記もマイナンバーカードの後と言われるクソ!!!!!
じゃあ旧姓併記以外やってと言ったら本籍書いてある住民票持ってこいと言われるクソ!!!!!!
なんか忙しかったが、昼間は暇だったらしくて、大量の米飯と惣菜パンが余っていた。
バックヤードに置いてある大量の余りおにぎりは、オーナーが19時半に出勤してから出すから、それまで触らないでそのまま置いといてくれ、というのがオーナー命令だったらしい。が、シフトリーダーはそんなもん認められないって言って、売り場に残ってるのが少ないおにぎりだけ品出しをしていった。
シフトリーダーは今年の始め辺りから一層、オーナーの命令なんか真面目に聞いてられるか! 現場を知っている私の判断で仕事を回してやる! とやる気を高めまくっていて、一々オーナー命令より自分の判断が正しいんだ! とただのバイトの私にまでアピールしてくる。
本当は今日も17時台はフリーター女子バイトさんだけで店番をする時間だったのだが、シフトリーダーはそんなのあり得ないっていうので私が出勤するまで自主的に残業をしていた。まあ、若い女の子一人で、時々すごく忙しくなる時間帯の店番をするのは危険だからいいのかもしれないけど、オーナーに話を通さずに勝手にやることにシフトリーダーは拘るなぁ。
糞忙しい時間帯に、コピー機の使い方が分からないから教えてくれという電話がかかってきた。スマホで撮った写真を、写真にプリントせずに普通のコピー用紙に印刷したいのだが、どうやればいい? 知らんなぁ……。バイトはコンビニとATMの操作法を完璧に熟知していると思われがちなのだが、別に大した知識は持っていない。コピー機のことはお客様がセルフでやるべきことであって、ATMのことなどは法律上コンビニ店員が使い方を教えることさえ出来ない。なのであまりアテにしないで欲しい。……なんて言う訳にもいかないので、アプリにやり方書いてあると思います、などと適当なことを言ってしまった。
段々店が空いてきたなぁ、やっと一息つけそう、という時に、コピー機の使い方が分からないので来てくれと、お客様から言われた。免許証のコピーが出来ないという。なるほど。
ハガキ大? 免許証を何でハガキにコピーするの!? と思って聞いたら、免許証は小さいから小さい紙に印刷すれば紙の節約になると思ったそう。いや、そのボタンはハガキ大の紙にコピーじゃなくてハガキにコピーする用のボタンであって、しかもハガキがコピー機に入ってないからコピー無理です。と答えたら、
「あーやっぱりー。そうだと思ったんだよねぇー」
ですと。そうだと思ったんなら自分でリトライすればいいんじゃないかなあ。普通の白黒コピーをすればいいんだねってんで、お客様はすいすいとタッチパネルを操作していったが、用紙の大きさを自分じゃ選べないとか言い出したので、適当に「A4で良いと思います」、と答えておいた。で、レジに戻ってから気づいたけど、紙の節約がしたいんならB5にすればよかったんだな。
そのお客様はしばらく経ってからぷんぷんに怒りながらレジまで来た。なんでも、紙を印刷したら変な字が出て来た! とか。見れば、住民票か戸籍謄本か何かのコピーで、偽造防止の透かしが印刷されていたのだ。
「偽造防止の透かしですね」
と私が見たまんま答えると、
「じゃあこれは使えないってこと!? あっちがこの書類の“写し”で良いって言って来たのに!?」
と私を詰ってくるんだが、「あっち」とは誰なのか分からないし、住民票か戸籍謄本か何かの「写し」というのは今まさにお客様が持っている「それ」なんじゃないかなあ? と思ったんだけど、
「先方がそれでいいと仰るのならそれでいいのでは?」
と答えた。疲れた。
まず、すべての相続権者を洗い出すために大量の戸籍謄本が必要だが、異母、異父兄弟の戸籍には近づけないので、この時点で士業に頼らなくてはならない。しかも戸籍謄本の一覧をくれるサービスは無いので、全部一つずつ探さなくてはならない。一枚取得したら従前戸籍を確認してその自治体に連絡。下手すると日本中に散らばっている可能性すらある。
次に、遺産相続協議書に「全相続権者が同意して捺印しないと」遺産分割は初めてはならない。万が一遺書に「この人は戸籍にいないけど相続権者に追加する」とか書いてあったらまたさらに調べないといけない。
協議書についても、もめようと思えば何十年でももめられるし、その間に万が一死者が出たらその人の持っている相続権はその人の相続権者に散らばるので更に面倒くさくなる。その人に子供が5人とかいた場合は、その5人に散らばり、5人のうちの二人が子供を三人ずつ残してすでに他界していたらそれが三分割されて子供に行く。
不動産などがあれば処分することもできないのでひたすら税金を払う羽目になる(これは相続権者が法定割合に従って按分して支払う)。法定相続割合が決まってるのになんで?と思うかもしれないが、相続財産の半分が家、とかの場合どうするんだよ、とか、畑の場合はより収穫が望めるものを欲しいとかで揉める。絶対に揉める。そもそも持っていた不動産が売れない場合や、売却金額に納得できない人が一人でもいたら永遠に話はつかない。
非相続者が遺書で「全部この人に相続する」と書いても、最低限の割合(本来の相続権の半分)は他の相続権者に絶対に持っていかれる。
相続筆頭に立った人ばかりが働く羽目になるがそれによって相続権に色がつくことはない。
相続権に時効はないので、例えば、30年前に家を飛び出した前妻が突然子供を連れて現れた、なんて言うこともあり得る。
遺書なんか偽造しようとすればいくらでも偽造できるのに偽造できない仕組みを導入することはしない。
故人が借金を残していたりすると更に話がややこしくなる。財産は相続するが借金は相続拒否するということはできない。貸している側も法定ギリギリになってから急に言いに来たりする。できるだけ故人の死のショックが抜けないうちに来たりもする。ここでうっかり「はい」と答えたら相続確定、借金を背負う羽目になる。
1870年の平民名字許可令によって、誰でも名字を使って良くなった。これまでは平民は名字を使ってはだめだった。
1871年の戸籍法によって名字の登録が推進された。姓尸不称令によって名前は名字と名前になった
1875年の苗字必称義務令によって、名字を持つことが義務になった
1876年の戸籍法では夫婦別姓だった。そもそも慣習としては夫婦別姓だった。
夫婦別姓、と言うと少しニュアンスが違うけど、日本に於いては「親の姓を男女問わずに継いでいく」が基本だった。ただ、庶民には姓なんかないので、この辺は宙ぶらりん感がある
「戸主及ビ家族ハ其家ノ氏ヲ称スル、妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」
というように書かれているので、結婚したら妻(女性)は夫の家に入るので、名字は夫の名字になるというようになった。
夫婦同性、と言うよりは、嫁自動的に夫姓になる制度と言っても良い。
そういえば婿養子ってなんだよと思ってこっちも調べた所、男性が親と養子縁組を結んで、その家の娘と結婚する、と言うクソめんどくさい手順によっているようだ。
ここまで見てみれば(と言ってもほうぼうで見かけた情報ではあるが)、夫婦同性というのは明治時代に導入された制度だが、「平民も名字を名乗っていい、いや、名乗れ」からの流れの中で「結婚したらどうすんの?」という感じで「夫婦別姓でいいんじゃね?このほうが自然だし」からの「いややっぱ旦那の姓をなのれ」に変わってきたという結構不自然な家庭を経ている。これを伝統と言って良いのであれば、国家が国民に強制してきたことが伝統になってしまう。
テクニカルに夫婦別姓を考えると、データ管理の点でのコストがあるというのはある。
DBなんかで詳しい人は「姓」にその戸籍の参加者を紐付ける形で管理していたが、この「姓」が家庭の単位を表さなくなったときにどうやって国民の戸籍情報を管理するのかという問題がある。いつ生まれて、どういうふうに転居し、誰と結婚して、子供が生まれて、離婚して、死別して、みたいなすべての履歴データを新形式にコンバートせよという難題だ。明治時代とかの手書きの戸籍謄本は電子化したうえで、ID割り振りという苦行が待っているだろう。待っていないかもしれないがこの辺は考え方次第かもしれない。
戸籍謄本は直系尊属はいくらでもさかのぼって取得して良いというものがある。これは、自分の親、親の親、親の親の・・・というようにさかのぼって戸籍が取得できる制度になるのだが、仮に「姓」で戸籍情報を管理する場合、別の情報で戸籍管理をする必要が出てくる。過去の人にもさかのぼって。
もしこういうプロジェクトを立ち上げた場合にやりたい人っているだろうか、いやいるまい。
夫婦別姓をシステムとして導入するには以下のステップがいるだろう。
何よりもきつそうなのは、戸籍データが各自体で各々管理されている(総務省が何かしらの方法で一括管理しているかもだけど)ので、この辺のすべてのデータを統合する必要がある。しかもやっている間も粛々と人々は結婚し、生まれ、離婚し、死に、転出し、転入する。
そういうわけなので、なにかウルトラCを考えないと、システム側からの夫婦別姓はかなりの困難を伴うだろう。
もしこの辺がきちんとシステム化された場合、例えば遺産相続で非相続者が登場するすべての戸籍謄本を集めなくてはならない(法的に他に相続権者がいないかを証明する必要があるので)というクッソだるいイベントがあるんだが、これを非相続者のIDで申請したら一気に全部取得できるとかそういうのはできるかもしれない。
夫婦別姓なんか「もともと何の問題もないので好きにしてください」位自由にできる。
氏名変更だってそんなに難しくない(しょっちゅう変えるとシステム的に良くてもみんな混乱するので何かしら規制は入るだろうが。)
父が亡くなって、いろいろ契約を整理することになった。
通帳やクレジットカード、保険契約、年金処理をしている中、謎の契約が見つかった。
このまま引き落としが続くのは困るのでドコモショップへ契約の解除をお願いしに行った。
「番号がわからないと止めようがないですね」
名前や住所で止められないのかと訪ねても、該当する契約は見つからないとの回答。
別の方の名義で引き落としだけ父のクレジットカードになっている可能性があるそうで、
その場合遺族の依頼であっても勝手に止めたりすることはできないらしい。
どうしたら請求を止められるか尋ねると、
「クレジットカードの方で止めていただければ」ということで、結局その日は帰ることに。
仕方ない、クレジットカードの方に連絡しよう……
「ドコモの請求について、クレジットカードのほうからお止めすることはできません。
すでに請求された分についてはお支払いしていただく事になってしまいます」
葬儀や他の手続きでもう気力がなくなっていたので、案内されたとおりに未納になっていた分をそのまま支払い。
納得は行かないがひとまずこれで終わった……
そうして一年以上経ってから、2021年1月以前分の料金が未払いになっていますという通知ハガキが届く。
この葉書には父の名前と請求金額とともに見覚えのない携帯番号が載っていた。
電話で問い合わせるも電話では対応できないということで再度ドコモショップへ
父は外でパソコンを使うという発想ができるほどITに詳しくはないし、家でのパソコンの使いみちはメールと麻雀だけだった。
契約した時期には既に光回線を契約していたはずなので、量販店の店員の口車に乗せられて契約とセットでノートパソコンか何かを買ったのだろう。
「契約が見つからなかったのが仮にこちらのミスであったとしても、
故人の口座でお支払いいただいた金額について、故人以外の方に返金することはできないということになっているため。
申し訳ありませんが、請求させていただいた金額についてはお支払いしていただくしかないとしか言えません」
悔しさと怒りと情けなさで頭がぐちゃぐちゃになりながら、「払います」としか言えなかった。
約2万円弱。延滞料金も含めて。
自分は人としゃべるのが不得手で、事前に頭で想定して置かないとまともに会話することすらできない。
人から見たら自分はどんなに無能に見えるのだろうと無力感を味わいながら帰宅した。
どうすればよかったのだろう
以下は日本での話。
アカウント作成後、本人確認を済ませることですべての機能を使えるようになるシステムだ。
本人確認には運転免許証かマイナンバーカードのどちらかが必要。
以下の鉤括弧内は要約。そのまま転載しちゃうのもなんかアレなので。
二重鉤括弧は原文ママ。少しでもニュアンスが変わるとまずい部分。
12月上旬、アカウント作成後マイナンバーカードで本人確認の手続きをした。
性別と臓器提供うんぬんを知られたくなかったので表面を撮影するときはプラスチックカバーに入れて、裏面はカバーを外して撮った。
しかし何度再撮影→再申請しても却下される。アプリ内のサポートチャットに問い合わせた。
「苦情申立がしたいので人間に交代してください」と言ったら人間に交代した。
私「マイナンバーカードの画像が不鮮明であるとして却下された。カバーを外したくないが、そのままでもできる?」
Revolut「今から本人確認する」「技術的な問題が発生したためだったが、解決した」
本人確認の部分で問題が発生するって大丈夫なのかな、と不安になりつつも、問題は解決したのでこれでよしとした。
当該家族はアカウント作成が得意ではないので、私が代行することになった。
家族のスマホでカバーを付けたマイナンバーカードと家族の自撮りを撮る。
案の定却下された。どうせ再撮影しても却下される気がしたから、いきなりサポートチャットに直行。
代行私「マイナンバーカードを撮影したが不鮮明として却下された。」
代行私「家族(=私自身)はカバーを外さずにできた。チャットで確認済み。臓器提供の情報が必要なの?」
代行私「家族は性別を情報提供せずに本人確認できた。なぜ性別が必要なのか。差別をするのか。」
Revolut「メールやアプリ内通知で適切に対応するために必要」
代行私「性別に対応する対応を変えることがあるのか? 本人が自己回答した望む性別ではなく、身分証明書に記載された性別の提出を強要するのはなぜか?」(=性別の情報が必要ならば、身分証明書に拠らず別途自己回答させればよくない?)
Revolut「性別を隠したいのであれば私は相談しなければならない。いい?」(ちょっと日本語が怪しいのは要約前の原文由来)
代行私「はい。私の家族は提供していない。前例がある。レインボーフラッグ色のデビットカードを発行しておきながら、このような対応には不信感を抱く。」
Revolut『性別によって対応を変えることはありません。アプリが言語が日本語に設定したら違いは全くありませんが英語にするとMr.かMrs.を使うことになります。 お客様の要望に応じて性別を調整するプロセスがあります。これは完全な解決策ではないことを認識していますが、私たちは電子商取引機関であり、政府が発行した公式文書で提供されているデータを使用する権利があります。』(後略、原文ママ)
代行私「政府が公式文書を提供していることを理由に差別を正当化するのはやめるべきだ。 その理屈だと、戸籍謄本を要求して本籍地や先祖の情報を要求することも正当化できる。性差別だけでなく部落差別や民族差別をも肯定しかねない発言は慎んだほうがいいと思う。」
これからしばらく待った。予想外の返答が来た。
Revolut「相談の結果、性別を隠したい場合は例外を設けることができる。今すぐ本人確認を完了させる。」
一つ言い忘れてた。
マイナンバーカードが必須なら性別が必要ってのも分からんでもないけど、運転免許証という選択肢がある時点で性別を見せなきゃならないのはおかしい。
差別云々は抜きにするにしても、不要な個人情報を収集するというプライバシーの観点からどうかと思う。
Revolutは性別を届け出ないのは例外だとやたら強調していたが、これが事実であるなら私には例外が自動的に適用されて、家族には自動で適用されないことになる。
氏名と顔写真に基いて、トランスジェンダーやノンバイナリーの類っぽい人間だと判断したら例外を自動適用してるのかもね。
邪推だけど、Revolutは差別をする企業だからそれくらいやってても不思議ではない。
もしそうだとしたらさらに悪質だなあ。
5ch や お悩み相談コーナーで見るな
親が犯罪者か犯罪者じみていなければ、分籍して連絡先を教えないだけで絶縁出来る
分籍は20歳以上なら他に条件は要らない
下記を役所に持ってくだけで出来る
親が犯罪者じみている場合は下記かね。お悩み相談コーナーでは姓を変えられないとかやってたけど
フツーに変えれた判例あるので実績ある弁護士さんにまずは相談してみて
あとは海外へ行くか
> 具体的には、親から幼少時に暴力行為、性的虐待などを受けた場合 など
本件申立人は、小学生当時に実兄から継続的な性的虐待を受け、その被害の影響が心に深く、
長期間にわたって残り、そのことを想起すると強い心理的苦痛を感じ、
激しい感情的変化や外界に対する鈍化や無力感といった生理的反応を示すようになっている。
そのため、精神的に安定した生活を送ることができず、定職に就くことも困難で、完全な社会復帰ができない。
申立人は、戸籍上の氏名で呼ばれることで、同じ呼称である加害者と被害行為を想起して強い精神的苦痛を感じている。
申立人が指名の変更を求めるのは、加害者ひいては被害行為を想起させる氏と、忌まわしい子ども時代を象徴する名前を変更して、
被害行為を過去のものとし、その呪縛から逃れて新たな生を生きたいと考えているからである。
上記の事実によると、申立人が氏名の変更を求めるのは、珍奇であるとか難読・難解であるとか、
社会的差別を受けるおそれがあるといった社会的要因によるものではなく、
「主観的な しかも極めて 特異な事由(申立人の上記のような心理状態は、心理学的に見てあり得ない事象ではないことが推認される)」である。
主観的事由ではあるが、「近親者から性的虐待を受けたことによる精神的外傷の後遺症からの脱却を目的とするものであり、
氏名の変更によってその状態から脱却できるかについて疑念が残らないでもないけれども、上記認定の事実に照らせば、
戸籍上の氏名の使用を申立人に強制することは、申立人の社会生活上も支障を来し、社会的に見ても不当であると解するのが相当」である として、
申立人が氏を変更するについて、戸籍法107条1項の「やむを得ない事由」があるものと認めるのが相当であり、
また名の変更についても、単なる好悪感情ではなく上記のような事由に基づくも のであること及びその使用年数等を併せ考えると、
同法107条の2の「正当な事由」があるものと解するのが相当であるとした。
http://www.crc-japan.net/contents/guidance/pdf_data/h17_bunken2.pdf
私が30歳の時に両親が離婚した。
その10年後、夫の後妻から連絡がきた。脳出血で倒れ、高次脳機能障害と静脈瘤を患い、あなたに会いたいと言っているから来てくれないか。
両親は長いこと仲が悪かった。あとから振り返れば「仲が悪かった」の一言で済むが、私が10歳の時から30歳になるまで、子供の前ではまともに口をきいていなかった。年金や借家の更新手続きなどはすべて娘を介してやりとりが行われた。娘の立場としては別れて当然だと思っていたが、よくある「妻が働くことをよしとしない夫」と「専業主婦を望まれて家庭に入り、まともに職歴のない妻」の組み合わせが崩壊すると、子供を養ってはいけなかったのだろう。
そして父には恋人がいた。愛人と称するべきなのだろうが、どうもなじまないので恋人とさせていただく。母によれば、口を利かなくなる前に、離婚歴があり一人で子供を養っていて立派だと、よく話していたそうだ。となると私が10歳の頃くらいには関係があったのだろう。私の前ではその人の話はしなかったから。
私が大学に入ると、恋人の子供の家庭教師というアルバイトの口があてがわれた。子供は親同士の関係を知ってか知らずか、どの教科を教えても手応えはなく、頭がいいのか悪いのかもわからなかった。家庭教師として恋人の自宅にお邪魔すると、その両親が出迎えてくれる。おやつと飲み物と軽い雑談、成立しない家庭教師役、私はうっすらと事情を察した。恋人の両親はよく父を褒めていた。頭が良くて、気が回って、本当に立派な人だ。どこの世界の人だろう、と思った。家では無口で、たまに自分を連れてファミリーレストランに行って。もっと小さい頃の思い出はたくさんあるが、10歳以降の思い出は数えるほどしかない。思えば自宅で風呂に入らないのが不思議だった。そうか、この家で風呂に入っているのか、と考えた。もちろんラブホテルの時もあっただろう。私は当時、まるで子供だった。母はアルバイトに対していい顔をしなかったし、その家で食事を勧められることをいやがっていた。今考えれば当然だと思うが、私は両親の中が悪いことは知ってはいても、両親の心境にはとんと疎かった。考えるのをシャットアウトしていたのではないかと今なら思えるが、何を考えているのかわからなかった、不可解だったというのが正直なところだ。
大人同士の機微を読むのが面倒になって、勉強が忙しいからという理由でアルバイトを辞めた。
就職し、家にお金を入れ始めるようになった頃、父親が月に1回手渡してくる生活費の額ががくんと減った。バブル期でも不景気な時でもあまり額の変動はないようだったが、バブル期にはかなり儲かっていたらしく、自分の親戚にみかんを送る箱の数を間違えて発注し、4箱のはずが14箱届いたという電話を受けたことがある。父は子供に話すわけにもいかず、ましてや母に話せるわけもなく、一人でぷりぷり怒っていた。かなり面白かった。そんな状態だったから、額が増えても減っても母と私にはどうすることもできなかった。生活費がない月もあった。その頃から、父は何を思ったか、子供がいない時に外から家によく電話をかけていたという。私は母の証言しか聞いていないが、母に働けと言ったり、お前が浮気をしているのは知っているんだと怒鳴ったり、大変そうではあった。母は事態をかいつまんで話してはくれたが、父は何も言わなかった。ますます、何を考えているかわからない両親だなとしか思えなかった。母が浮気をしていたかどうかは私にはわからないが、一度ぶっちゃけどうなの、と聞いた時には、本当に父親一人しか知らない、他の人に好意を抱いたことはあったが子供が生まれる前だった、と言っていた。真偽はどうでもよかった。なぜか父の恋人が家を訪ねてきて「あなたも働いたらどうですか」と母に説教してきたそうだ。私から見れば、母の化粧や外出、外で働くことの検討を嫌がっていたのは父の方だった。私にとってはすべてが藪の中だった。ただ、このままの両親が年を重ねていくのなら、私がずっと生活の面倒を見るんだろうという覚悟だけがあった。
私が30歳になる頃、父母の電話での言い争いは激しくなったそうだ。どこまでも伝聞だ。母は不毛な言い争いに疲れ、離婚届を準備していた。証人欄ふたつのうちひとつには私がサインした。特に感想はなかったが、これで父が恋人と再婚すれば、将来の面倒を見るのは母一人でいいのか、助かった、と思った。
父は離婚届にサインして、いくつかのアルバムだけ持って家を去った。私への連絡はなかった。携帯の電話版号も、メールアドレスも知っていたのに、特に娘に伝えたいことはなかったのかと、不思議だった。不思議ではあったが、謎の両親の電話――本当にそういうやりとりがあったのか、私は知らない――で二人で決めたのなら、私は意見も文句も言うまい、夫と妻の間の話だ、と思っていた。
それから10年間、父からの連絡はなかった。戸籍謄本から辿れば現住所が分かることは知っていたが、特に話したいことはなかったし、非常時にはいくらなんでも連絡くらい来るだろうとたかをくくっていた。結婚した時も報告しなかった。子供ができていたら連絡しただろうか?幸か不幸か、子供はできなかった。「仲の良い夫婦とその子供」というサンプルを知らない私には子供を持つのは厳しいだろうと思っていたが、ごく自然にできないままだった。
10年経って、父が脳出血で倒れたという連絡をよこしてきたのは、一度だけ親族の葬儀で顔を合わせた父方のいとこと、父の恋人の兄だった。Facebookで探し当て、メッセージを送ってきたそうだが、Facebookのメッセージを受け取る範囲を絞っていたので、気づいたのは倒れてから約半年後だった。死んでいればさすがに親族から母に連絡があってもよさそうなものだったが、そういう話は聞いていなかったので、母には何も言わずにメッセージに返信した。手間をかけてすまない、父の具合はどうか、非常時にはこの電話番号とメールアドレスに連絡をくれ、いざとなったら先方に伝えてもらっても構わない。それくらいの簡単なものだった。
ところが、携帯電話にかけてきたのは父の恋人だった。私は瞬時に、失敗を悟った。留守番電話に残されていた最初のメッセージは「連帯保証人になってくれ」だった。SMSには再婚したこと、病状、娘に会いたいと言っていることなどが断片的に送られてきていた。どう出ればいいか迷い、しばらく自分からコンタクトを取るのは控えておこうと思った。
次の日、会社の始業時間から終業時間まで、というのは単なる偶然だったのだが、1時間おきに着信があった。これを書くのは本当に恥ずかしいが、狼狽した私は電話と留守番電話の通知が恐ろしくなり、不安障害を発症して心療内科に通うようになった。簡単に連絡先を教える自分がばかだったし、想定できたはずだったのだ。1日考えて、父の後妻(結婚したことがわかったのでこう書く)の番号を着信拒否にした。着信拒否にすることで逆上されかねないとも考えたが、このままでは自分の生活が壊れると思った。夫には全部ひとりで決着をつけたいと言った。
次は父の携帯電話から着信と留守番電話があった。さすがに1時間おきではなかった。留守番電話を聞くのに心の準備が必要だった。何を言われるんだろう、何をふっかけられるんだろう、本当に怖かった。父よりも後妻の方が怖かった。留守番電話は2件あり、1件目は「ほら、◯◯ちゃんよ」という後妻の声の後に父が「◯◯◯◯(父のフルネーム)です、こんにちは、どなたですか」と言った後に電話が切れた。2件目は直接父が発言したようで、「◯◯、元気か。会いたいな。子供はいますか、元気ですか。連絡くれるとうれしいです」という、私の主観では「何かを読み上げた」ような内容だった。
2件目を聞いた時に、高次脳機能障害というのはこういうことなのかと腑に落ちた。私のことがわからない父も、私に会いたいという父も両方混じっている。人前でしか出さない、機嫌のよい時の父の声で「どなたですか」と言われたこと。この10年一度も親から子への連絡をしなかった父が、私の10年を何も知らずに「子供はいますか」と無邪気に尋ねること。一瞬気が遠くなった気がした。そして私のことをきちんと認識している父はもういない。いなくて当たり前だ、10年かけて私の中でゆっくり父の不在から父の死へ変化していったのだから。私の中で既に父は死んでいた。正確には「死んでいたということがわかった」。私はもう父の家族に、といっても後妻しかいないけれど、一切関わるまい。そういう決心をしながら、そういえば私が家庭教師をしたあの子供はどうしたんだろう、という思いがちらりとよぎった。
父の番号を着信拒否してから、1年に1回ほど、後妻からメールが届いた。「賢くて頼りになるお父さんのことを思い出します」。頼りになる? あなたにはそうだったんだろう、私にとっては違ったけれど。いとこからもメールがきた。「今度静脈瘤の手術をするので連絡してあげてください。私の母が死んだ時にお世話になったから、恩返しをしたい」。つまり私にとってのおばがこの10年の間に死んでいて、私に連絡がこなかったのだから、親族扱いされていなかったのは私の方では? 誰も彼も何を言っているんだろうと思った。怒りはなく、ただ不可解さだけがあった。両親がなぜか電話で意思疎通(といっても口げんかだったそうだけど、私は聞いていないからよくわからないままだ)していたこと。すべてにおいて排除されていたのは私ではなかったのか。そして父が死にそうな時にだけ連絡が来る。不可解だった。どのメールにも返事をしなかった。
最初のコンタクトがあってから4年後、おそらく戸籍の附票からたどったと思われる封書が後妻から届いた。ざっくり言えばもうそろそろ死にそうだから、面会に来てほしい。相談したいこともあるから連絡してほしい。会っていなかった10年を埋めることもなく、ただ死にそうだという連絡だけが来る、それがなんだかおかしかった。
そのさらに1ヶ月後、今度はいとこから、父が死んだこと、告別式の日時と場所の連絡があった。私は即座に相続放棄の手続きを開始した。お金について計画性があったとは思えないので、相続手続きをしたところでたかが知れている。相続手続きには相続人全員の承諾が要る――つまり後妻と私は何らかのコンタクトを取る必要性があるだろう。弁護士を挟むにしても。私は一切後妻と連絡を取りたくなかった。分かり合える何かがあるとも思えなかった。年を取ってからの再婚なんだからそういうこともあるだろうに、なぜ死んだからといって関係性が生まれるのか。丁寧に必要な書類を集めて回り、家庭裁判所の相談員の人と会話をして、「よくご存じですね」と言われた。そのことだけが、この一連の騒動の中で、本当に感情を動かされた。つまり、うれしかった。誰も彼もが私を都合良く(といってもきっと善意なんだろうけど。地獄への道は善意で舗装されているのだった)使おうとする中で、事務手続きを挟んだ人だけが、私のことを褒めてくれた。
父の名に大きく×がつけられた、後妻の名前も入っている住民票を見て考える。父にとって私はなんだったのか。かわいがってもらった記憶も、愛情をかけてもらった記憶もあるにはあるけど、空白の10年間、私が気を遣って父にコンタクトを取るべきだったのだろうか。いやそんなことはないはずだ。父は父の意思で私を家族から外したのだと思いたい。私が一連の話の中で一番ショックだったのは、面識があったはずのおばの葬式に呼ばれなかったことだったのだから。
父と母と私の欄に「除籍」と書かれ、後妻の名前が連なっている戸籍謄本を見て考える。一番コンタクトを取りたくない相手の名前が、同じ書類の中におさまっている。後妻の生まれた日も、両親の名前も、続柄も、再婚した日も書かれている。そういえば再婚したという報告すら父からはこなかった、それは当たり前だろうと思う。別の誰かとの再婚ならともかく、母との婚姻の継続中に家族の中に割って入った人。割って入ったことすら気づくのが遅れた人。
家庭裁判所から送られてきた「相続放棄申述受理通知書」と「相続放棄申述受理証明書」だけが、私にとっての宝物だ。家庭裁判所の人はやさしかった。見知らぬ私のために、書類についてあれこれ教えてくれて、印紙が売られている一番近いコンビニエンスストアまで紹介してくれた。人のやさしさってあるんだなと思えた。
長くなりました。読んでくださってありがとうございます。
少し前まで人事関係の部署にいた地方公務員だけど近いものを感じた
部が変われば転職するレベルでやる事が変わる中、活きる人もいれば本人や周囲に取り返しがつかない事態を招いてしまうこともあるし
あとうちも未だに採用試験時に戸籍謄本の提出を求める組織なのでそのへんよく似てる
私はあなたよりずっと年も下だし、人事の一部分に携わったのはたった4年だったけど、あと1年居たら精神面で病気休暇取ってたか辞めてたと思う
もちろん向き不向きあるだろうけど、人事は長く居るような所じゃないと身をもって学んだよ
職員から退職したいと言い出される、前日まで元気だった職員が突然病死、職員の子どもが亡くなった、職員同士で結婚する、子どもができて休暇を取る、子どもが生まれて引っ越しをしたので手当の内容を更新する、採用試験を受けたいけど災害のせいで日程が合わなくなってしまった、色んな話が毎日やってきて、最後はつらい話もおめでたい話も全部衝撃がやってきたとしか感じられなくなった、
あなたは私なんかよりかなりの長期間たくさんの問題とか職員からの質問とか相談とか抱えてきたんだろうなと思うと、その心労は想像に難くない
お疲れ様でした
私も自ら人生を終わらせることについてよく考えていた時期があった
自分で思っていたよりまともにやれなていないという申し訳なさが本当に強くて、合法的に円満に逃げられないならどうにかして終わらせたいと思ってた
元気がある時はハンターハンターの最終回を読むまではどうか生きるのを許してくださいと誰かにお祈りしてた
でも一番自分で終わらせるのをやめようと思ったのは大事な友達であり職員だった子のお葬式に行ってからだったよ
その亡くなった職員の退職手続きをしたときに、私がこうなるのは出来るだけ先送りしようと思った
大正生まれの祖父は、坊主頭でメガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子である父から聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。
対照的に祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。
祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父の遺影はインテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真の遺影の人でしかなかった。
そんな祖父の遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父へ政府が贈ったものだ。戦後、日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父は戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。
去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父は戦後も抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎の山中にある村で、家業は農家という典型的な家だった。時代が時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。
その頃から興味が沸いていたんだと思う。
遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。
私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日、実家で終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。
兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父は陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要なものは、対象者が故人の場合は申請者との繋がりがわかるための除籍謄本と戸籍謄本といった、役所で簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。
まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父の戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言の事実のみであるのだから。
当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。
読み解いてまず驚いたのが、祖父は1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州で国境警備をしていたらしい。大きな作戦や戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。
次に驚いたのは1944年2月、祖父は除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父が満州で終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父の人生はガラリと色を変えた。
千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。
千島列島といえば、日本の降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島(ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵、終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。
お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島にソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前で漠然としているだけで、よくわかっていなかった。
どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。
祖父のいた部隊は結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。
得撫島はもとより、千島列島は自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい、今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空からは米軍の攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれて沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。
得撫島はラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意の戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずにはいられない。
兵籍簿には、祖父の召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的な情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。
古ぼけた紙は語っていた。戦争は8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ、祖父は戦後も長らく闘い続けていた。自分の血縁者である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父の存在への深みが増した。
シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気が流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ。戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。
祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去な抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父は日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷の山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。
ここでは政治的な話はしない。
兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父の存在がぐんと近づいた。存在そのものを実感した。祖父はちゃんと生きていた。過酷な時代を生き抜いた。ドラマや映画の主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷な環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和な世界でツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。
兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分の流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。
仏間へ行き、再び祖父の遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影は漠然とした無機質なものではなく、凄惨な時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。
親権停止させよう
○ 民法
第820条 親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。
第822条 親権を行う者は、第820条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。
第834条 父又は母による虐待又は悪意の遺棄があるときその他父又は母による親権の行使が著しく困難又は
不適当であることにより子の利益を著しく害するときは、家庭裁判所は、子、その親族、未成年後見人、
未成年後見監督人又は検察官の請求により、その父又は母について、親権喪失の審判をすることができる。
ただし、二年以内にその原因が消滅する見込みがあるときは、この限りでない。
(1)申し立てできる人
親権喪失の申し立てを行うことができるのは、次の立場にある人です。
(2)必要なもの
親親権停止の申し立ては、次の書類等を揃えた上で、子どもの住所地を管轄する家庭裁判所で行います。
親が犯罪者か犯罪者じみていなければ、分籍して連絡先を教えないだけで絶縁出来る
分籍は20歳以上なら他に条件は要らない
下記を役所に持ってくだけで出来る
> 具体的には、親から幼少時に暴力行為、性的虐待などを受けた場合 など
本件申立人は、小学生当時に実兄から継続的な性的虐待を受け、その被害の影響が心に深く、
長期間にわたって残り、そのことを想起すると強い心理的苦痛を感じ、
激しい感情的変化や外界に対する鈍化や無力感といった生理的反応を示すようになっている。
そのため、精神的に安定した生活を送ることができず、定職に就くことも困難で、完全な社会復帰ができない。
申立人は、戸籍上の氏名で呼ばれることで、同じ呼称である加害者と被害行為を想起して強い精神的苦痛を感じている。
申立人が指名の変更を求めるのは、加害者ひいては被害行為を想起させる氏と、忌まわしい子ども時代を象徴する名前を変更して、
被害行為を過去のものとし、その呪縛から逃れて新たな生を生きたいと考えているからである。
上記の事実によると、申立人が氏名の変更を求めるのは、珍奇であるとか難読・難解であるとか、
社会的差別を受けるおそれがあるといった社会的要因によるものではなく、
「主観的な しかも極めて 特異な事由(申立人の上記のような心理状態は、心理学的に見てあり得ない事象ではないことが推認される)」である。
主観的事由ではあるが、「近親者から性的虐待を受けたことによる精神的外傷の後遺症からの脱却を目的とするものであり、
氏名の変更によってその状態から脱却できるかについて疑念が残らないでもないけれども、上記認定の事実に照らせば、
戸籍上の氏名の使用を申立人に強制することは、申立人の社会生活上も支障を来し、社会的に見ても不当であると解するのが相当」である として、
申立人が氏を変更するについて、戸籍法107条1項の「やむを得ない事由」があるものと認めるのが相当であり、
また名の変更についても、単なる好悪感情ではなく上記のような事由に基づくも のであること及びその使用年数等を併せ考えると、
同法107条の2の「正当な事由」があるものと解するのが相当であるとした。
http://www.crc-japan.net/contents/guidance/pdf_data/h17_bunken2.pdf