はてなキーワード: マーケティングとは
大学受験までは学部学科が偏差値で序列化されて、受験生全員がほぼすべての選択肢にアクセス可能に思える(もちろん学力に応じて)
大学に入学した瞬間から情報の非対称性は始まり、視野の広い人、情報にアクセスできる人、断片的な情報から論理的結論を導き出せる人の差がどんどん広がっていく
最高峰の学部・修士課程で所定のカリキュラムを修了したとしても、情報を持っているものと持っていないものの差は残酷なもの
たとえば灘開成のネットワークがあるとか大学教授の親戚がいるとかね
同じ学科の修士でも、情報をもってうまく立ち回りメーカーの研究所(事業部の研究・開発職じゃなくて)に就職する人と、システムインテグレーション部門でクソ上司、クソクライアント、クソ協力会社にHPを削られる職場に叩き込まれる人の差は、大学1年から始まっているのだ
とはいえ、修士卒の研究員では出世は部長くらいまでだろうから、SIでとんでもない営業成績を上げて役員になって経費使いまくりの地位にのし上がれば逆転のチャンスはある
GAFAMは・・・日本人だと日本でのマーケティングで貢献しないと出世できないんじゃないかな?経歴としてはマネジャークラスでも威張れるし給料も高いけど
私はメカ系?に分類される職場なのでいわゆる「理屈っぽい話」をする機会も多い。
マーケティングやプロモーションとか他のジャンルでも会話の構成は共通だとは思う。
(より広く言えば社会問題に対する世間話とかも同じ。原発とか表現規制とかでも噛み合わない事例の何割かはこのパターンな気がしている。)
→3.提案内容について、その数値を何らかの計算式で求めると目標を満たしています。
→4.同意、納得して下さい。(決裁者なら)GO出してください。
的な奴。
私の中の理論武装的なテクニックって主に3(場合によっては2の一部まで)に意思を入れて改変することだと思ってる。
ただ、世の中には会話中に1をコロコロ変える人が結構いるのだと最近気づいた。
(※理屈が全くないところに理屈を付加するのが理論武装で改変を含めるのは定義の拡張な気もするが、拡張したらその2つは同義として扱えそうなので以降はそのニュアンスで感じて欲しい。)
前者の私の定義の例だと
現実では「いつもと違う手法ですけど、この計算なら強度を満たしています」とか
「この理論で計算するとこれだけの広告効果が見込まれます」みたいに
小手先で"頑張る"こともあると思う。それについては全く気にならない。
それは上に書いた流れのスタートである1の内容に影響がないからだと思う。
後者を例えるなら、
儲かる新事業を考えてる場で「これ絶対儲かります」→「いや大損じゃね?」って流れになってから
「この事業は会社的には大損ですが、社会のためにやるべき内容です」なんて急に言い出したら
ドラマ等だとまだカッコいいかもしれないけれど、現実だと単に発言が矛盾してる&提案の場所を間違えている人になってしまう。
「何を目的と捉えているか」なので、要は最初から解釈不一致と言えばそれまでなのだが、
流石にそこは共通認識が欲しいし、(理屈っぽい話をしているなら)明示すべき要素だと思う。
もう少し例えるなら、
鬼ごっこをしているときに「バリアー」とか言い出すタイプ。これだと思う。
即興性で遊びたいなら最初からTRPG的なルールで遊べば良い。(もちろん、そういう雰囲気の時もある。)
いずれにしろ「校庭や公園でみんなで遊びたい」が根本のはずで、
一人だけ「他者に勝ちたい」駆動の人が混ざってるとやっぱり噛み合わない。
こちらが根本だと思ってる第一条件を二転三転させながら「ロジックを提示しているのだから論理的に話している」という態度を崩さない人は非常に扱いにくい。
こちらからしたら支離滅裂でしかないので当然同意出来ないのだが、
「この理屈のどこがおかしいんだ?」「〇〇さんはこの提案で大丈夫と言うのに反対なの?敵なの?」みたいに硬直化する人がいて、そのときは本当に参った。
誰が言っていることが正しいかは難しい問題なので、一概には言えない。当然私が変な事言ってることも多いとは思う。
でも、結論ありきの人が順当な論理的思考を装うのだけは受け入れられないなぁ。
(こいつ絶対悪い奴だ。絶対に犯罪してる)→「〇〇に違反しているので客観的に見てこの人は悪い奴です」
30歳過ぎたあたりで、突然気づいたんだけど
「意識高い系」を見かけなくなったなと気が付く。
なんというか、野球バカは野球する側から見る側になって、オタクはアニメ見ずにVtuberのラジオ聞いてるし、キラキラ系女子は子育てマウントに移行してる
みたいな「年取っていく過程で元気がなくなっていってる」という現象は見受けられるんだけど、
相も変わらず、野球バカは野球好きだし、オタクはかわいいアニメの女が好きだし、キラキラ女子はずっと誰かと何かと戦い続けているっていう根底は変わっていない。
けど、どうも大学3年生くらいに雨後のタケノコかってくらい湧いて出てた「意識高い系」がどこにもいない。
若さ特有の自意識に飲み込まれている感覚も、就活を終えて年を取ると同時に消えてしまい、何か特別だと思っていた自分は超ドドド級の凡人だと気づき、
クソみたいな上司に叱られながら「まあ、人生ってこんなもんだよな」とあきらめて、一般の人々に紛れていく。そんな過程をイメージしていた。
んだけど、たまには諦められずに生き残ってしまう人間というのもいるわけで、そういう人間とたまたま話す機会があった。
田端オンラインサロンとNewsPicksに課金をしつづける3X歳。
誰でも知っているあの有名なHから始まる広告代理店を新卒入社後3ヶ月で辞めて、弊社で5社目。
プログラミングスクールでRubyを習って実務経験はなし。ポートフォリオがうんたらかんたらでマーケティングがうんたらかんたらでサービスを作って世界を変えるらしい。
「へー、なんかこういう感じの人久々に見たな。キツ」と思ったらOJT担当から「『gemって何ですか?』って質問された...」とSlackが来た。
さすがにプログラミングスクールとか派遣でもやるんじゃないのかと思ったけど、俺は何も聞かなかったことにして、なるべく一緒の案件が振られないことを願った。
そんなこんなでコロナ禍がやってきて、人々はリモートで働くことになった。彼はというと、JIRAのチケットも特に割り振られることもなく、
全体のMTGでも特に何をやっているわけでもなく、Zoomでの進捗報告の場でも「本を読んでいます。今日は何章まで進みました」しか言わない。
「あの人大丈夫ですか」と上司に聞いてみたら、「gitの使い方が分からんらしいので自習してもらっている。今度人事と面談して部署替えを検討する」という話だった。
なんか不憫だな。。。と思っていたら、いつの間にかslackにログインしなくなっていた。定例ミーティングにも顔を出さないし、勤怠もつけていない。
人事から連絡はしたらしいが、連絡はつかなかったらしい。「3X歳なのにバックレとかないっしょw」と思っていたが、
4社とも1年続いたことが無くて、派遣で働いていた後にプログラミングスクール通ってうちに来た。という人だしな。。と思うと、何も意外性はなかったのかもしれない。
ある日、全体ミーティングで彼が退職した旨が部長から伝えられ、面接にコーディングテストが追加されたという話が同時にされ、部署内で爆笑が巻き起こった。
俺はなぜか笑うことが出来なかった。
まあ、冷静に考えると痛い中途が入ってきてバイトみたいな辞め方したってだけの話だと思うんだけど、
彼が会社に来なくなってから色々と考え事をしてしまうようになった。
会話のパターンが4つくらいしかない人だった。「H堂の話」「オンラインサロンの話」「落合陽一の話」「Googleの話」
落合陽一の本は読んだことないらしいけど、「天才だ」「天才だ」とあがめて、当時の博報堂がいかにヤバく、Googleがいかにヤバいのかを教えてくれる。主に年収の話。
率直な感想として、「コピペみたいだな」って思った。話も。人生も。
自分で語りえるものはなく、情熱をもって成し遂げることもなく、「一発逆転ストーリー」を純粋に夢見て行動を続ける彼は、まるでYoutube広告のコピペみたいな人生。
オンラインサロンに通い、プログラミングスクールに通い、養分として過ごした自分に気づいたときには、元H堂のプライドが邪魔をしてもう抜け出せない。
じゃあどうすれば良かったのかってことも考えたんだけど、たぶん彼の振る舞いはある一定の時期においてはプラスに働くこともあったんだと思う。
よかれと思ってやっていたし、それがきっと良いことだとも思っていた時期もあるんだと思う。
多分、ピュアに彼は「世界を変えられる」って信じてたんじゃないかなと思うし、アクションはクソほど誤っていたけど行動はしていた。
それが深くアイデンティティと結びついた状態でなにも成長しないとああいうキメラが生まれてしまう。というのが事の顛末なのではなかろうか。
言動と能力は年々差が開いているなかで、年齢を積み重ねてどこかでまたクソ高い会費のオンラインサロンやプログラミングスクールにまた通うのだろうかと思うと、変な声が出そうになる。
そして、現在完了進行形で養分になっているのだ。この広い世界のどこかで。こんなにしんどい話があっていいのかと思うが、ある。
3X歳で突然Rubyを習い始めても、技術者になるのはかなり難しいし、隠れた才能が突然開花する! みたいな異世界転生ものみたいなことも起きえない。
きっとアイデンティティと結びついた、彼の行動を変えることはもう誰にもできない。
自分は広告とかマーケティング寄りの人間ではなく技術系なので知らなかったんだけど
ネット広告ってもうテレビCMと同じように不特定多数に向けた広告なんだね。
ネット広告が誕生した頃のイメージがあったから、検索キーワードに合わせて関心の高い人に向けた広告だと思ってたけど
メジャーなキーワードは入札競争が激化してるしキーワードと予算を絞ると広告が全然表示されない。
ネットを使ってる人も多くてキーワードを緩くすると無関係な人も沢山入ってくる。
けっきょく予算を大きくしてなるべく多くの人にリーチしてCACとLTVをギリギリまでチューニングするような運用が正解なのかな?
ウェブ編集者の中川淳一郎さんが、ついにセミリタイアするという。著書「ウェブはバカと暇人のもの」(光文社新書)から11年あまり。たまに「ウェブはバカと暇人だけのものではない」なんて言い張るジャーナリストを見かけるけど、現実のネットはより一層バカと暇人のものになっている。
「ウェブはバカと暇人のもの」は、終わりのない進化の過程にあるのだ。そこで、肝心の本は倉庫に預けて手もとにないままではあるのだが、記憶をたどりながら(詳細は追って訂正したり肉付けしたりすることを前提に)ざっと書いてみる。いろいろ突っ込んで事実誤認を補正してほしい。
実はウェブ、あるいはインターネットが「バカと暇人のもの」であったのは、中川さんが指摘するよりずっと以前の、それこそネット誕生のころからの性質だった。もちろん、バカと暇人の性質はずいぶんと異なる。
そもそもインターネットは、ロシアからの攻撃に備えた分散型情報ネットワークとして、アメリカで軍用に開発されたものであった。それが、冷戦終結とともに商用活用が検討され、90年代の終わりに民間に開放された。
そのころには、インターネットが将来どのような姿になるか、影も形もなかったのだが、その得体のしれないものに情熱を注ぎ、いまから考えれば信じられないほどレベルの低い機材を使いながら、インフラを整えていった人がいた。
学歴は高いが身なりの汚い若者が、寝る間も惜しんで延々と何やらやっていたのである。傍からは、何をやっているのかまったく分からない、バカなことをしている暇人に思えたのではないだろうか。
商用プロバイダのインターネットサービスが始まったとき、最初に飛びついたのはインテリだった。教養とは、何もないところでの楽しみ方を自ら思いつけることなのである。教養のないやつは、出来合いのエンタメでしか楽しめない。
インターネットを最初に遊び場にした人たちは、学歴は高かったかもしれないが、好奇心と遊び心のある「バカと暇人」だった。
さらにその中から登場したのが梅田望夫さんの「ウェブ進化論」(ちくま新書)だった。要するに「インターネットが世界を変える」という主張で、そこに新しい創造性の夢を抱いた人たちが増えていった。
しばらくたつと、現実世界でイケてない非モテたちが、インターネットを新しい居場所として見出した。ネットは匿名で楽しむオルタナティブな現実となった。
参加者は好奇心が強く、知的水準も低くなかったが、STEP.2のインテリのように自分で居場所を作ったというよりかは、作られた居場所の中で傍若無人な振る舞いをしたバカと暇人といっていいだろう。
典型的なウェブは、2ちゃんねるだ。そこは素姓を隠しながら、ウンコの投げ合いのできるバトルロイヤルなリングだった。
その後、現在に至るまで、匿名での発信に対する批判が跡を絶たないが、ネットが非モテたちの限られた居場所であり、いまもそうであるという歴史を忘れるべきではないだろう。
STEP.3と並行して、一般の人たちがネットに流入してきた。「逝ってよし」だの「半年ROMれ」だの「ggrks」だのという言葉は、何も知らずに2ちゃんねるに入り込んでフルボッコにされた素人たちの存在を証明するものだ。
中川さんの「ウェブはバカと暇人のもの」は、こういう現実に対応したもので、3年前に出版された梅田さんの「ウェブ進化論」が仮想敵となった。
中川さんは少年のころにアメリカで過ごし、人間という存在がいかにバカでありうるかということを目の当たりにした。
そして広告代理店で働いたり、ネットでウンコの投げ合いを見たりして、匿名のネット空間で露わになる人間のバカさ加減に呆れたのだと思う。
言い換えると、ここからはネットだのウェブだのは関係なく、リアルの世界のある要素がネットによって視覚化されたという段階になる。ウェブ以前に、人間はバカで暇人なのであって、ウェブはそれを可視化したに過ぎない。
現実の人間は、梅田さんがいうような利口で立派な人ではなく、いかにそう見えたとしても、一皮むけばエロや美人や芸能人に目がなく、匿名のネットメディアでそういうコンテンツがウケるのは当たり前――。そういう身も蓋もない現実をあらためて提示したわけである。
ここまでは、ネットにリアルが侵食してきたときに、匿名という要素が、もともとあった人間の愚かな面を可視化したという段階に過ぎなかった。
次に現れたのが、ウェブあるいはネットが、人間のバカと暇人を加速する段階である。
中川さんの本に「インフルエンサー」という言葉が出てきたかどうか忘れたけど(ブロガーという言葉は出てきたような気がする)、インフルエンサーがなぜ成り立つかというと、そこに集る「バカと暇人」たるザコあるいはハエが存在するからである。
インフルエンサーは、自分に魅力があるから人が集まり、影響力を行使していると勘違いしているが、あれば「バカと暇人」がたかっているだけなのである。
だから「インフルエンサー・マーケティング」とか言ってるけど、そこで捕まえることができるのはウンコに集るハエのみであって、ハエを顧客にするビジネスでしか成り立たない。
試しに見てみればいいが、インフルエンサーの投稿に「なるほどです」「そうですね」「さすが」などと応じている“囲い”たちは、すべからくバカだ。そういうハエどもに集られて喜んでいるインフルエンサーは、ウンコにすぎない。
もうひとつネットが加速したのは、エンタメとしての反権力である。
反権力は、もともと一大娯楽、エンタメではあった。朝日新聞が市場にしていたのも、反権力を生きがいとする人たちであって、新聞の内容も取材によって「問題の真のありか」を突き止めるジャーナリズムとは無縁のものだ。
反権力エンタメ市場は、ツイッターなどのSNSと非常に親和性が高い。中川さんはその点について「非常に意見が鋭いもの」「モラルを問うもの」という言い回しをしていたけど、ダイレクトに「正義」や「義憤」がエンタメになるとは指摘していなかった。
60~70年安保のころからそうだけど、反権力とか義憤をエンタメにするのは、バカと暇人だった。普通の人はそんなヒマもなく働いてるし、正義だけで世の中わたっていけるわけがないことを知っている。
まあ、主義とか理念とかを持ち出して、現実を問題化しなければ生きがいを感じられないというのも、ある種「バカと暇人」な人間の側面なのかもしれない。
ということで、他にもあるかもしれないが、きょうはこんなところにしておこう。
言いたいことは「ウェブはバカと暇人のもの」(タイトルは天才編集者・柿内芳文との共同制作なのだろうけど)には、中川さん以前~中川さん以後の歴史があり、これからも進化を続けていくのだということだ。
いやそのへんもプロだろ。
マーケティングはビッグデータ分析みたいな技術研究面があるから別かもだが、企画のプロではある。
コミュニティの空気を読み、ネタを探し、視聴者を楽しませる企画や雑談内容を考えて、メンバーを決め、配信で表現する能力、それら全部ひっくるめた総合力が高いことで人気になるのがにじさんじのライバー。
まあそれはタイプの一つってだけで、ゲームの腕とか人柄で人気になってるやつもいるだろうがそれらは別の話。
にじさんじの奴らは、小説家やシンガーソングライターみたいな個人作家の集まりに近いんだよ。
編集から言われたネタを形にすることがメイン活動の、サラリーマン職人みたいなやり方じゃない。
会社に助言と相談をもらうことはあるだろうし、ライブみたいなクソ金のかかるイベントは会社主導だろうけど、基本は個人創作家の集まりに近いのがにじさんじ。
箱全体として盛り上がるべきっていう感覚がまずズレてる。
「にじさんじのファンだから○○も好き」じゃなくて「○○というライバーのファンであり、そいつはにじさんじに所属しているらしい」なわけ。
つーか「APEXのキルリレーという企画を立ち上げた」って、立ち上げたのは数週間前で実際に行われたのは9/5からで、増田が投稿された9/9の22時って五日間配信し続けて2434キル達成する頃じゃねえか。
なんなんだいったい。
ライバーは配信のプロであっても、企画やマーケティングのプロじゃない。
てか、箱のブランディングを踏まえた企画は、配信者とは別に専属の担当者ないしチームを設置して取り組むべきなのに、ここの運営はそういうのも全て配信者に丸投げしてんだよ。
これじゃ海外展開を視野に入れたようなブランディングどころか、飽きられてオワコン化するリスクすらある。
やたら人が多いだけで、実際何やってるか分からない烏合の衆みたいなイメージを放置して久しいし、それこそが多様性の負の側面なんだよね。
もちろん、ホロライブみたいに皆で箱を盛り上げよう!と一丸になるのも、一歩間違えると宗教じみて排他的になるという問題はあるので(ホロは今んとこ大丈夫だけど)、一長一短ではある。
創作含めたあらゆるワークは誰のためでもない自分自身のためにするものだ
いちいち交流だの承認だの言っている方がどうかしている(マーケティングとして意図的に戦略的に行っている場合は除く)
クリエイターはメンヘラが多いから拗ねて作品の制作や自分自身の命を投げ出されたら大変だから口にしないだけだぜ
ご機嫌取りはしなくても、作品に敬意を払って黙ることくらいは誰しもできる
顧客体験(Customer experience)の取り扱いを
「お客様は神様です」は、ゲームに限らず、フツーにマーケティングの話だし、大きくなればなるほど現実はサボってる
現場は給料が貰えれば怒られなければそれでよく、CX以前に顧客満足度(CS)がどうでもいい
批判的なレビューに関しても、明らかに営業妨害なら法務の仕事だし、
営業妨害以外なら、カスタマーサポート・営業・広報・製品担当の対応すべき仕事で
小規模事業者は、情熱や趣味の延長で仕事してるので、お客様は神様ですには絶対にならない
メンヘラアーティストも同様で活動を放り投げて引き籠るとか起こりがち
レビューアーは営業妨害以外なら自由にレビューする権利があるが、ファン的にはハラハラする
もともといずれは地元の地方都市へUターン志望ではあったけれど、
仕事は東京の方がおもしろいしどうしようかなと数年単位で二の足を踏んでいた。
30代前半になり、独身だし、このまま東京で転職でもと一瞬は思ったが、
やっぱりこの半年間で「地元だ!」という気持ちが一層強くなった。
(親の高齢化というのも大きい。私はお母さんが大好きなんだ)
私はクリエイティブ職だ。
今の会社は零細企業だけれどもクライアントさんとの関係は良好で、
それなりに評価をされる機会も多く、仕事はやりがいを持ってやっている。
クリエイティブにしてはかなり珍しく残業もほとんどしておらず、
体調もすこぶる万全。ここ数年の毎日は本当に健やかそのものだった。
※過去に鬱病になったり体調こわしたりで体力もメンタルも本来強くない。
独身も身軽な感じが心地良く(今までは)この生活に特に不満がなかったんだ。
でも、いざ転職しようと思って気づいたのは「私ってなんのスキルも無い」だ。
いざ大手求人サイトで求められるスキルはなにひとつもっていない。
その会社にとっては「不足」だったのだろう。
それだけではないと思う。
私が足りないのだ。
私は、地元で「働きたい」と私が思う企業に歓迎されるスキルがない。
人事の経験もない。
大卒でもない。
PRの仕方もしらない。
デザインもできない。
給与計算もできない。
なんにもできねーじゃねえか。
今の環境はラクだし、楽しいし、忙しくないし、やりがいもある。
でも、40代が見えない。30代はまあこのままやっていけるかもしれない。
あああ、つらい。
コロナ鬱なのかもしれないし、30代になって今までのツケがきたのかもしれない。
なろうの取ってつけたような話以外でもそこそこあるけど
○ 糸満売り(10歳前後の貧困層の少年が、前借金と引き換えに沖縄本島南部・糸満の漁師のもとで年季奉公)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E6%BA%80%E5%A3%B2%E3%82%8A
生活環境は厳しく労働は長時間におよんだ。雇子達の中には粗末な食事しか出されず、親方から虐待を受ける者もいた。
また年季が明ける度にさらに売りに出される者もいた。さらに泳法の訓練も過酷なものであり、縄で括った上で舟から海へ放り込むようなものであった。
また実際に糸満売りとされた人物の証言によれば「ウムカシ(サツマイモから澱粉を取った残りの滓)が常食で、豊漁の時だけはイモがまともに食べられた」とのことであり、
なお年季が明けた(または戦後解放された)後は、幼少期からの過酷な労働により漁師としての技術を得たかつての雇子たちは、引き続き漁師として生計を立てていく例も多かった。
ただし少年期を過酷な漁業の場で過ごしたため、学校での正規教育を受けておらず文盲が多かった。
だが必ずしも非人道的なことばかりがまかり通っていたわけでもなく、預かった子をまるで我が子のように養っていたとの証言もみられ、
イオンの経営する病院で生まれ、⇒イオンモールに総合クリニックを開設~「ドクターランド船橋」
イオンの経営する保育園に預けられ、⇒イオンのゆめみらい保育園
イオンの経営する広告代理店の紹介で、⇒イオンマーケティング(株)
イオンの経営する会社で働き、⇒イオンエンターテイメント(株)
イオンの経営する結婚紹介所で出会い、⇒ツヴァイ (今はイオングループを離脱)
イオンの経営する病院で子供を産み、⇒イオンモールに総合クリニックを開設~「ドクターランド船橋」
イオンの経営する保育園に子を預け、⇒イオンのゆめみらい保育園
https://ssl4.eir-parts.net/doc/3930/yuho_pdf/S100IQ8D/00.pdf
この記事見てそういやはてなって上場してたなってIR情報見たら色々とやってて面白かった
はてなブログの有料プランの他はアフィリエイト広告がほとんどみたい
経緯がわからないけど一部のアドネットワークの接続が停止されていたが収益は堅調
BtoBストック型ビジネスとしてCMSである「はてなブログMedia」を展開
はてなブログMediaは企業がオウンドメディアを作成できるCMSだが
このCMSを採用したメディアが74件だったのが102件まで増えたとのこと
「受託サービス」とサーバ監視サービスの「Mackerel」など
Webマンガサービスに特化したマンガビューワ「GigaVIewer」を開発(受託でなく自社サービス?)
こちらは集英社など11サービスで搭載されWebマンガのデファクトを目指して売上は堅調
またKADOKAWAの依頼で「カクヨムの収益還元プラットフォーム」「魔法のiらんどのリニューアル」などを開発してすでに検収済み
Mackerelはエンジニアなら知ってると思うけどなんか堅調らしい
BSとかPLの読み方がわからんから今後はわからんが、はてブ以外にも色々やってるのがわかって面白かった
増田なんか多分数あるうちのサービスでIR的に結構どうでもいいんだろうなって感じがした
ということでおやすみなさい
凄く優しく、丁寧な言葉でお話を書かれる方で、何度読んでも幸せになる。
1か月ほど前にその推しの文字書きさんのついったアカウントを見つけた。
プロフィールを見た時にフォロー数が少なくて驚いた。こんな素敵な作品を書かれる方ならもっと沢山の人がフォローしてそうなのに。
始められたのがつい最近のようなので、皆気付いてないのかな。と勝手に結論付けてフォローした。
頻繁に呟かれる方ではなく、作品を上げた報告のツイートに+1.2ツイートだけされるような方だ。
数日前、その方が新しいお話をしぶにアップされた。
TLを眺めていたので「新しいお話だ!」と嬉しくなったのだが、
『自分の作品に需要が無いことを分かっているが、自分の書きたいものを書きたい』
その文章を見て、苦しくなった。
私が今ハマッているジャンルは、3年程前にリリースされたソシャゲだ。
幸運な事にそのゲームはまだ人気の作品で、沢山の人が遊んでいる。コロナが無ければイベントも開催される予定だったし、舞台化したり、ゲームのストーリーも更新されている。
ただ、個人的にしぶの作品数や投稿者数だけでなく、閲覧者数も減っているように感じた。
リリースされてから1~2年の内に投稿された作品のいいねの数は4桁を超えている物も少なくない。(小説作品で)
しかし最近の作品のいいねを数を見ると、多くても200人からいいねを貰うか貰わないかくらいの物が多い。
これは勿論リリース直後から今までずっと作品を公開していた事によるいいねの蓄積数だと思うので、そんなほいほい4桁を超えるいいねが付くとは思っていないが、今200くらいいいねを貰っている作品があと1年後、2年後に1000いいねを貰えるのかと言われると多分無理じゃないかと思う。
ここ数年でしぶの立ち位置が、新作を投稿する場所だったのが、ついったーに上げたものをまとめて投稿する場へと変わっている。みたいなツイートを見かけたことがあるし、実際そうなんだろう。
ただこれは絵描きさんの話で、文字書きさんは新作であっても大体しぶになるんじゃないかと思っている。というか私はそうしている。
しかし閲覧者数で考えれば小説より圧倒的にイラストや漫画を見る人の方が多い。小説だけ好きな人ってあんまりいないと思うので、イラストや漫画で検索をかけるタイミングであわせて小説を見るんじゃないだろうか。だとすれば、しぶを閲覧する人が減ってしまうのは当然のことだと思う。
あとはリリースから3年経ったことで推しカプのクラスタも変わっているんだろう。新しい作品はどんどん出てくるので、ジャンル移動(勿論その作品が嫌いになった訳でなく、移動というより沼が増えた状態なのだろうけれど、作品を更新していないという意味で「移動」という言葉を使う事にする)している人はたくさんいるだろう。しぶにおススメされた作品を見たらドストライクだったのでその人のプロフィールに飛んだら最近の更新が全く別作品だった。なんてことも珍しくない。
推しの書き手さんの作品のいいねが以前はどれも3桁を超えていたのに対して、最近の作品には50~60くらい、場合によっては30くらいの時もある。
私の推し文字書きさんの作品は、最初に書いたようにとても優しくて丁寧だ。最初から最後まで読んで温かい気持ちになる。
ただ物は言いようで、悪い捉え方をしてしまうと「起承転結が無い」と思う。
どの作品も攻めが受けの事を大事に思っている描写があるが、告白して両想いになったりとか、何かハプニングが起こって2人の関係が進むようなことがない。
私はそういう話も大好きなのだが、人によっては「推しカプがくっつくまでの過程が見たい」とか、「推しカプのエロい話が読みたい」とかそういう人もいるだろう。
そういう人たちにとって私の推し文字書きさんの作品はつまらないのかもしれない。
反応が無いことで筆を折る書き手さんがいる。それを自身の承認欲求から書いているとは思わない。
「褒めて貰いたくて書く」のと「書きたいものを書いた結果貰ったお褒めの言葉が嬉しい」は別物だと思っている。
今まで貰えていた誉め言葉やいいねが減った事に焦燥を覚えたり、「自分が書くものはつまらないんだ」と感じる気持ちも分かる。
私も文字書きをしていて、ブクマ数は多いとは言えない。100いいねされれば良い方だ。作品によってはいいねの数が10に満たない時もある。
でも私は「自分の書きたいものしか書かない(書けない)」と思っているし、いいねが少ない事に不満や悲しみはない。ニーズと私の推しカプイメージがずれているんだろうな。と思うくらいだ。
前はブクマ数が伸びない事に落ち込んだりしたこともあったのだが、最近は自分の書きたいように作品が書けると満足している。
それにプラスして毎回いいねしてくれる方もいるし、たとえそれが一桁であってもいいねしてくれる方がいる事が嬉しい。
貰えない「いいね」を嘆くより、貰えた「いいね」に感謝をする方が楽しい。
多分これは私が書き続けるために手に入れた「気の持ち方」だと思う。
文字書き仲間で沢山の方からいいねを貰う方がいた。その方の作品が好きだった。
幸運にもその方と仲良くなって相互フォロワーになり、SNS上でお話をするようになった。
一度その人と他のフォロワーさんと食事に行ったことがある。そこでその方は作品の投稿時間に気を付けている。という話をされた。
「金曜日の閲覧数の多い時間帯に投稿する」「有名な方が作品を投稿された週は投稿しない」
「なるほど、一種のマーケティングをしながら投稿してるのか。凄いな」と感心したのだが、その一方で「そこまで評価されたい気持ちが強いのか」と驚いた。
その方がSNSで「作品が評価されない」という呟きを見る度に何とも言えない気持ちになった。
「謙遜ではなく事実だ」と言っておられたし、おそらくその方は本当にそういう気持ちで呟かれていたのだろうけれど、私としてはとても悲しかったし、正直腹が立った。
100人以上からいいねを貰っているのに「評価されない」というのか。その100人の評価は何だと思っているのか。
その人にとっての「評価」に「いいね」は含まれていなかったのかもしれない。
100人からのいいねよりも、自分の憧れた絵師さんや文字書きさんから「いいね」と言われたかったのかもしれない。
イベント前に「誰かご飯行きませんか」と呟かれた時に「行きたいです」と返事をしてくれる人が欲しかったのかもしれない。
(これは私が友達が欲しい。と苦しんでいた事だ。今となっては「馬鹿な事で苦しんでいたな」と思う)
こういう理由で作品を書いている人もいるんだろう。悪い事だとは思わないが、しんどいだろうな。と思う。私がしんどかった。
結果として私の周りの人はその人から離れていった。私もフォローを外した。
最初はみんなから「私は〇〇さんのお話好きですよ!」というリプライが来ていたが、次第にそれもなくなった。
だって伝えたってそれを「評価」だとしてくれないから。届かないなら空しいだけだ。
あの人の書いていたお話が好きだった。でも今あの人の作品を読もうとするとあの人の事が頭をよぎって作品を楽しめない。
悪いのは作品と作者を切り離せない私だ。それでもあの人の作品をまた読みたいとは思えない。
今好きな人も自分の作品が評価されないことを嘆いている。筆を折ることも考えている。
自分に出来ることは感想を送る事だけで、その感想がどうかその人を傷つけないものであるようにと願いながら匿名で感謝を伝える。
ただ何となく、私の匿名の感想だけでは多分、この人を救うことは出来ない気もしている。
その人は30人から「いいね」が付いた作品を「需要が無い話」だと判断しているので、誰か分からない相手からの感想を「書く糧」にはしてもらえないかもしれない。
それが分かってこの人を嫌いになってしまう前に私はこの人のフォローを外して、こっそりと作品がしぶに上がる日を待とうと思う。
頭の中がぐちゃぐちゃでうまく書けなかったな。