はてなキーワード: ウェブはバカと暇人のものとは
ウェブ編集者の中川淳一郎さんが、ついにセミリタイアするという。著書「ウェブはバカと暇人のもの」(光文社新書)から11年あまり。たまに「ウェブはバカと暇人だけのものではない」なんて言い張るジャーナリストを見かけるけど、現実のネットはより一層バカと暇人のものになっている。
「ウェブはバカと暇人のもの」は、終わりのない進化の過程にあるのだ。そこで、肝心の本は倉庫に預けて手もとにないままではあるのだが、記憶をたどりながら(詳細は追って訂正したり肉付けしたりすることを前提に)ざっと書いてみる。いろいろ突っ込んで事実誤認を補正してほしい。
実はウェブ、あるいはインターネットが「バカと暇人のもの」であったのは、中川さんが指摘するよりずっと以前の、それこそネット誕生のころからの性質だった。もちろん、バカと暇人の性質はずいぶんと異なる。
そもそもインターネットは、ロシアからの攻撃に備えた分散型情報ネットワークとして、アメリカで軍用に開発されたものであった。それが、冷戦終結とともに商用活用が検討され、90年代の終わりに民間に開放された。
そのころには、インターネットが将来どのような姿になるか、影も形もなかったのだが、その得体のしれないものに情熱を注ぎ、いまから考えれば信じられないほどレベルの低い機材を使いながら、インフラを整えていった人がいた。
学歴は高いが身なりの汚い若者が、寝る間も惜しんで延々と何やらやっていたのである。傍からは、何をやっているのかまったく分からない、バカなことをしている暇人に思えたのではないだろうか。
商用プロバイダのインターネットサービスが始まったとき、最初に飛びついたのはインテリだった。教養とは、何もないところでの楽しみ方を自ら思いつけることなのである。教養のないやつは、出来合いのエンタメでしか楽しめない。
インターネットを最初に遊び場にした人たちは、学歴は高かったかもしれないが、好奇心と遊び心のある「バカと暇人」だった。
さらにその中から登場したのが梅田望夫さんの「ウェブ進化論」(ちくま新書)だった。要するに「インターネットが世界を変える」という主張で、そこに新しい創造性の夢を抱いた人たちが増えていった。
しばらくたつと、現実世界でイケてない非モテたちが、インターネットを新しい居場所として見出した。ネットは匿名で楽しむオルタナティブな現実となった。
参加者は好奇心が強く、知的水準も低くなかったが、STEP.2のインテリのように自分で居場所を作ったというよりかは、作られた居場所の中で傍若無人な振る舞いをしたバカと暇人といっていいだろう。
典型的なウェブは、2ちゃんねるだ。そこは素姓を隠しながら、ウンコの投げ合いのできるバトルロイヤルなリングだった。
その後、現在に至るまで、匿名での発信に対する批判が跡を絶たないが、ネットが非モテたちの限られた居場所であり、いまもそうであるという歴史を忘れるべきではないだろう。
STEP.3と並行して、一般の人たちがネットに流入してきた。「逝ってよし」だの「半年ROMれ」だの「ggrks」だのという言葉は、何も知らずに2ちゃんねるに入り込んでフルボッコにされた素人たちの存在を証明するものだ。
中川さんの「ウェブはバカと暇人のもの」は、こういう現実に対応したもので、3年前に出版された梅田さんの「ウェブ進化論」が仮想敵となった。
中川さんは少年のころにアメリカで過ごし、人間という存在がいかにバカでありうるかということを目の当たりにした。
そして広告代理店で働いたり、ネットでウンコの投げ合いを見たりして、匿名のネット空間で露わになる人間のバカさ加減に呆れたのだと思う。
言い換えると、ここからはネットだのウェブだのは関係なく、リアルの世界のある要素がネットによって視覚化されたという段階になる。ウェブ以前に、人間はバカで暇人なのであって、ウェブはそれを可視化したに過ぎない。
現実の人間は、梅田さんがいうような利口で立派な人ではなく、いかにそう見えたとしても、一皮むけばエロや美人や芸能人に目がなく、匿名のネットメディアでそういうコンテンツがウケるのは当たり前――。そういう身も蓋もない現実をあらためて提示したわけである。
ここまでは、ネットにリアルが侵食してきたときに、匿名という要素が、もともとあった人間の愚かな面を可視化したという段階に過ぎなかった。
次に現れたのが、ウェブあるいはネットが、人間のバカと暇人を加速する段階である。
中川さんの本に「インフルエンサー」という言葉が出てきたかどうか忘れたけど(ブロガーという言葉は出てきたような気がする)、インフルエンサーがなぜ成り立つかというと、そこに集る「バカと暇人」たるザコあるいはハエが存在するからである。
インフルエンサーは、自分に魅力があるから人が集まり、影響力を行使していると勘違いしているが、あれば「バカと暇人」がたかっているだけなのである。
だから「インフルエンサー・マーケティング」とか言ってるけど、そこで捕まえることができるのはウンコに集るハエのみであって、ハエを顧客にするビジネスでしか成り立たない。
試しに見てみればいいが、インフルエンサーの投稿に「なるほどです」「そうですね」「さすが」などと応じている“囲い”たちは、すべからくバカだ。そういうハエどもに集られて喜んでいるインフルエンサーは、ウンコにすぎない。
もうひとつネットが加速したのは、エンタメとしての反権力である。
反権力は、もともと一大娯楽、エンタメではあった。朝日新聞が市場にしていたのも、反権力を生きがいとする人たちであって、新聞の内容も取材によって「問題の真のありか」を突き止めるジャーナリズムとは無縁のものだ。
反権力エンタメ市場は、ツイッターなどのSNSと非常に親和性が高い。中川さんはその点について「非常に意見が鋭いもの」「モラルを問うもの」という言い回しをしていたけど、ダイレクトに「正義」や「義憤」がエンタメになるとは指摘していなかった。
60~70年安保のころからそうだけど、反権力とか義憤をエンタメにするのは、バカと暇人だった。普通の人はそんなヒマもなく働いてるし、正義だけで世の中わたっていけるわけがないことを知っている。
まあ、主義とか理念とかを持ち出して、現実を問題化しなければ生きがいを感じられないというのも、ある種「バカと暇人」な人間の側面なのかもしれない。
ということで、他にもあるかもしれないが、きょうはこんなところにしておこう。
言いたいことは「ウェブはバカと暇人のもの」(タイトルは天才編集者・柿内芳文との共同制作なのだろうけど)には、中川さん以前~中川さん以後の歴史があり、これからも進化を続けていくのだということだ。
『ウェブはバカと暇人のもの』という本を思い出した。
ま、据え置きゲームもいいんじゃね。
ただ、それだけに没頭している人は、少し勿体ないとは思う。
最近何を見てもイライラしてたが、Twitterや他のSNSと関わる時間を減らしたらものすごくストレスが減ったし、現実世界が充実するようになった。スマホは使ってるけどアプリは消した。Twitterなんてでかい口を叩くだけのアホと有名人ばかりが幅を利かせてるし、2chまとめブログなんかゴミみたいな内容ばかりで全く見るに値しない。ネット住人はテレビを叩くけど、そいつらと何も変わらない。むしろ責任を取らないだけネットの方がゴミだらけ。「ウェブはバカと暇人のもの」という本が出たり、「日本のWebは残念」という発言が出るのが今だとよく分かる。俺のような超鈍感なバカでも日本のWebが劣化してるのはよく分かる。
こんなところに書いてもしょうがないけど。
そんなことを、最近思うようになった。
ネットというのは、本当に凄まじいツールだ。数回のキータッチとクリックをするだけで、必要な情報を必要以上の量で出力してくれる。
出力された情報全てが有用かつ無害なものなら、これほど便利なものは無い。しかし、知っての通りネットの情報は玉石混淆。いや、比率としては石の方がはるかに多い。
見ず知らずの人のどうでもいい日常の記録。ペット写真。料理写真。
問題は、今やネット上のあちこちに蔓延るネガティブな書き込みだ。
非コミュがどうのこうの。韓国がどうのこうの。売国がどうのこうの。あの作品は薄っぺらい。この作品が好きな奴は頭がおかしい。DQN。キョロ充。真面目系クズ――。
いつの間にか、Twitter、Mixi等々人の多いサイトは所謂2ch的な空気が支配しつつあり、その影響かこういう無駄に攻撃的だったり自虐的な書き込みが、どんなに避けようとしても目につくようになった。
断言する。これらの書き込みは、間違いなくメンタルに悪影響だ。特に他人の目線が気になる性格の人……まぁつまりほとんどの日本人にとっては。
これらの書き込みは、ただそれだけを見れば何でも無い、馬鹿馬鹿しい意見に過ぎない。
厄介なのはその量の多さだ。こういう書き込みに限って何故だかやたらと量が多く、ちょっとググればすぐに似たようなネガティブ書き込みであふれた2chスレッド、コピペブログ、知恵袋のリンクがわらわら出てくる。とにかくほんとに量が多い。
こういう数の暴力をモロに受けると、段々冷静な思考ができなくなる。
その意見は単に声の大きい少数派が喚き散らしているだけかもしれない。またはその意見に影響された普通の人が、特に考えも無く気軽に書き込んでいるだけかもしれない。
そういう思考を、ふと忘れてしまう。
ただ書き込みの多さが単純に賛同者の数として目に映ってしまう。
書き手の本気さも、情報の正否も、悪意の有無も、思考の歪み具合も関係なく。数が多いと言うだけで、それが一般的な意見だと錯覚してしまう。
これでは、よほど確固たる自分を持っている人以外、少なからず影響を受けてしまうだろう。
「これらの書き込みが多数派とは限らない」と頭では分かっていても、無意識に刷り込まれるのを避けるのは難しい。
集合知とかいう言葉もあるが、集団で出した答えが必ず正解とも限らない。
また、ある作品に対する評価など、感性に頼る部分が大きいものついては、しばしば多くの人の評価と自分の評価が対立することがある。
自分の大好きな作品が、ネット上のコミュニティではボロクソに叩かれていた。そんな経験をし続けたら、自分の感性に無用な不信を抱くのは時間の問題だ。
ネットにどっぷり浸かってから、それまでの趣味が純粋に楽しめなくなったという人は結構居るのではないか。かくいう俺も、そういうクチだったりする。
文章にまとまりがないが、とにかくこんなような事を色々思って、タイトルのような事を考えた。自分のこれまでの経験的に、まるで見当違いな事は書いていないと思う。
もちろん、こういう問題はネットだけの問題ではないのは分かる。リアルでも、他人の影響というのはかなり受ける。が、現状のネットとリアルを比較したら、まだリアルの方が無駄にネガティブな意見は見続けないで済むのではと思う。
『ウェブはバカと暇人のもの』というタイトルの本がある。これはまさにその通り。