はてなキーワード: 混同とは
今やトンデモトランスアライとして著名な三名によるこの記事、今読むと興味深い。
高井ゆと里×能川元一×堀あきこ×松岡宗嗣「トランスヘイト言説を振り返る」
https://web.archive.org/web/20240329005755/https://wezz-y.com/archives/95807u
彼らは右派のトランス差別の主な主張として以下の三点を挙げている。
1つ目に、素朴な生物学主義を盾にとって、「生まれながらの性別は絶対である」と主張し、トランスジェンダーの実在性そのものを否認すること。
しかし現在の冷静な視点で見れば、どれも右派と何の関係もないし、むしろ科学的に妥当な批判でしかないことが分かる。
1.人間の生物学的性別が変更できないのは「素朴な生物学主義」ではなく、正当で妥当な科学・医学知識である。性分化疾患は存在するが、トランスジェンダーや性同一性障害とは全く異なる身体的な診断基準があり、これらを混同するレトリックはトンデモ疑似科学でしかない。
2.トランス医療に医学的根拠が不足しており、子どもを危険にさらしていることは、トランス先進国のイギリスで明らかになり、トランス医療の施設は閉鎖されることになった。また、上記のように医学的にトンデモな情報を子供に伝える教育は論外であろう。
3.人間の生物学的な性別は変更できない。しかし、性同一性障害では耐えがたい「身体的違和」の苦痛が存在すると考えられるため、やむを得ず性器を切除するなどの処置が正当化される。つまり去勢は治療として必要だから認める、というのがもともとの趣旨だ。身体的違和がないトランスの性転換に利用すること自体が問題なのだ。
『「IQの低い人たちは子供をたくさん産む」という主張は、統計データや社会科学研究の文脈で慎重に取り扱うべきです。このような議論は多くの場合、根拠が不十分であり、社会的な偏見や誤解を助長する可能性があります。以下に、信頼できる学術論文やデータをもとにこの主張を批判します。
この主張は、因果関係と相関関係を混同している可能性があります。相関があるからといって、因果関係があるとは限りません。例えば、IQと出生率の関係を調べる際、教育水準、経済状況、文化的背景など、他の多くの要因が影響を与えるため、単純にIQだけを原因とすることはできません。
教育水準や経済的要因が出生率に影響を与えるという研究があります。例えば、教育水準が高い人々は、一般的に子供の数が少ない傾向にあります。これは、教育が遅くまで続くことや、キャリアを重視する傾向があるためです 。また、経済的に豊かな地域では、子供にかかるコストが高いため、子供の数を制限する傾向があります。
社会経済的地位(SES)が健康やIQ、出生率に影響を与えるという証拠があります。SESが低い人々は、健康状態が悪く、教育機会が限られているため、IQが低くなる傾向があります。しかし、これは直接的な因果関係ではなく、複数の要因が絡み合った結果です 。
統計データの解釈には注意が必要です。例えば、特定の地域や集団でのデータをもとに一般化すると、誤解を招く可能性があります。データの収集方法や解析手法にも影響を受けるため、慎重な解釈が求められます。
「IQの低い人たちは子供をたくさん産む」という主張は、倫理的な問題を含んでいます。このような主張は、特定の集団に対する偏見や差別を助長し、人権を侵害する可能性があります。科学的な議論は、常に倫理的な配慮を伴うべきです 。
### 結論
「IQの低い人たちは子供をたくさん産む」という主張は、科学的根拠が不十分であり、多くの要因を考慮に入れていない単純化された見解です。このような議論は、統計データの解釈や倫理的な問題を慎重に扱う必要があります。
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: "Education and Fertility: Evidence from a National Family Planning Program in Colombia," by Melanie Morten and Atheendar Venkataramani.
: "The Impact of Women's Education on Fertility: Evidence from Uganda," by Oriana Bandiera, Niklas Buehren, Robin Burgess, Markus Goldstein, Selim Gulesci, Imran Rasul, and Munshi Sulaiman.
: "Socioeconomic Status and Health: Dimensions and Mechanisms," by Nancy E. Adler and Katherine Newman.
: "The Influence of Childhood Socioeconomic Status on Health in Adulthood: A Review of the Evidence," by Diana Kuh and Yoav Ben-Shlomo.
: "Ethics in Research: Protecting Human Subjects," by Eleanor Singer and Felice J. Levine.』
『「かつて日本で黒人奴隷を使うことが流行した」という事実は、歴史学の研究においては支持されていません。
* 「奴隷」の定義: 歴史学において「奴隷」は、所有者がその人に対する完全な支配権を持ち、人身売買の対象となるなど、非常に厳格な定義があります。
* 日本の歴史における人身取引: 日本の歴史において、人身取引は存在しましたが、それは現代の「奴隷」とは異なる形態であり、人種を特定して行われるものではありませんでした。
* 西洋の奴隷制との比較: 西洋の奴隷制は、大規模なプランテーション農業を支えるために、アフリカから黒人を大量に強制移住させ、生涯にわたって奴隷として酷使するものでした。日本の歴史における人身取引は、規模や形態において、西洋の奴隷制とは根本的に異なっています。
* 渡来人: 古代日本には、朝鮮半島や中国などから渡来人が多くいました。彼らは、技術や知識を持ち込んで日本社会に貢献しましたが、必ずしも自由な身分であったわけではありません。
* 出稼ぎや売買: 中世以降、経済的な理由などにより、人々が身売りしたり、出稼ぎに出たりするケースはありました。しかし、これらは現代の「奴隷」とは異なる概念であり、人種差別を背景としたものではありませんでした。
* 身分制度: 江戸時代には厳格な身分制度が存在し、武士、農民、工商人、そして最下層の穢多・非人などがいました。しかし、この身分制度は、人種ではなく、職業や家系に基づいていました。
なぜ「黒人奴隷」という誤解が広まるのか?
* 西洋史との混同: 西洋の歴史における黒人奴隷制の知識が、日本史にも当てはめられてしまうことがあります。
* 歴史認識の歪曲: 過去の出来事を意図的に誇張したり、歪曲したりすることで、特定の主張を正当化しようとする試みが見られます。
歴史学の研究に基づけば、「かつて日本で黒人奴隷を使うことが流行した」という事実は、事実無根です。日本においては、西洋のような大規模な奴隷制は存在せず、人身取引はあったとしても、人種を特定して行われるものではありませんでした。
』
id:lostnamer 岡美穂子の感想→「弥助の見た目は大黒天・八幡神っぽいかも」→X民「弥助はネ申」/マジカルバナナ/人は皆思い付きとその場の感想で喋るものだなあと/自身も長すぎて飛ばし読みしてたら誤読したので自戒を込めて。 ブコメ修正済
増田君の文章が長すぎるからid:lostnamerさんは、
「岡美穂子先生があくまで感想として述べたものを愚かなX民が早とちりした」
という話だと誤読したみたいだよ。
「マジカルバナナ」が何を意味してるかは分からないや。連想ゲームだよね?「伝言ゲーム」との混同かな?
まあなんにせよ、かわいそうだから短くしてあげなよ。
ちなみにこれは思い付きとその場の感想だよ。
新聞とかに取り上げられたので、今まで騒動を追ってない人まで、話題に入ってくるようになったみたいなので、なぜここまで炎上しているのか箇条書きで書いてみる。備忘兼ねて。
・ゲーム内容がフィクションでファンタジー色強めであるにもかかわらず、史実に忠実であることをインタビュー等で強調してしまったこと
→結果的にファンタジーを史実であると言った状態になってしまった
・リサーチをちゃんとしたと言ったにもかかわらず、杜撰な日本描写で文化に対する扱いが粗雑
→季節外れの農作物や、おかしな畳、変な屋敷や城、鎧兜のおかしな描写、神道と仏教の混同、家紋の上下反転 etc...
・コンセプトアートがGoogle画像をトレースしたかAIで作成したかのような奇妙な作りであること
→ガードレールや軽トラックを描写、中国の仏像を左右反転で使用、日本にいない尻尾の長い猿、江戸時代ではなく明治の写真のトレース etc...
・コンセプトアートが盗用をしていること
→実在の現代の団体の旗模様を使用しているなど著作権を侵害している
・ジャパンエキスポのアサクリブースでAmazonや中国ECサイトで買った適当なものを陳列
ttps://togetter.com/id/laymans8/t/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%BA
ttps://www.youtube.com/watch?v=FnYyYDpC00Y
ttps://www.youtube.com/watch?v=IgK8UsSZQ9c
ロックリー氏の発言はとにかく誇張が多すぎる上に、ロックリー氏があちこちで情報をばらまいているため収拾がつかなくなっている。
Wikipediaは言うまでもなく、BBC、CNN、Time、スミソニアン、日本在住の黒人Youtuberの動画インタビュー、ブリタニカ百科事典(Web版) etc..
誤解されがちだがロックリー氏の誇張は上記のBBCやCNNなどのWeb版での影響が非常に大きい。
そのため日本版の書籍を見てもよくわからないことが多い(後追いで入ってきた人は日本版の書籍ばかり見ていることが多い。
例えばwikipediaが間違っていると言うと、BBCやCNNに元ネタがあるという突っ込みが来ることがあるが、そもそもCNNの元ネタもロックリーである。
■黒人陰謀論(黒人中心主義、アフロセントリズム)と日本文化の伸張
そもそもの問題点として昔から黒人が日本で活躍したという陰謀論は存在した。
坂上田村麻呂黒人説がそうだが、このデマは100年前から存在している。
また、こちらはあまり知られていないが「日本の諺に、侍が勇敢であるためには、黒人の血が少し入っている必要がある」というデマも存在する。
黒人蔑視やアジア人蔑視として始まったものだが、今では黒人中心主義者のネタに使われているようだ。
もともとこれらの陰謀論は小規模ながら連綿と続いてきたものだが近年の日本のポップカルチャーの欧米での急激な浸透により明らかに陰謀論が拡張している節がある。
特にディズニー+のドラマSHOGUNの大ヒットあたりから急激に増えている印象がありこちらも収拾がつかなくなりつつある。
■ポリティカルコレクトネスの矛盾とアジア人軽視への抵抗とアジア人の透明化
アサクリ騒動を日本だけおっていると気づかないが、周辺メディアの油の注ぎ方もすさまじい。
海外のゲーム界隈はもはや右翼と左翼の闘争の場と化しており過激な発言や争いばかり起きている。
実はそもそも以前に似たような炎上が発生している。それはバイオハザード5が発売された当初、白人キャラが黒人を殺しまくるのは非常に問題があるとい主張であった。
これはシェバという黒人女性キャラをパートナーとして追加することで一先ず炎上を沈下させた経緯がある(ただ言っておくとすでに10年以上前の話である)
それに対して最近IGNは5は黒人差別の文脈からリメイクできないと記事を作っていた。
ところが似たようなポジションのアサクリは問題ないとしており、これも炎上の要因であった。
欧米のメディアがこの手の人種問題を取り上げるとき、基本的にアジア人は白人と一括りにされマジョリティなのでお前たちも差別の責任を負うべきだという論調であることが多い。
しかし実態としては日本人ならわかるだろうが、アジア人は実際には差別されており事件が起こる。
アジア人はアメリカの人権擁護の隙間に入り込んでしまっており意見を無視されることがしばしばだ。
今回の件でもアサクリに文句をつけているのは"白人であり日本人ではない"という主張が大勢を占めておりほとんど無視されていた。
UBIが今回謝罪したことで初めて日本人が抗議していることを認めた人も多い(ちなみにまだそう主張してる人はいっぱいいる)
今回の炎上騒動はこれらの争点がひとまとめになった結果起きたもので一面的な情報を追いかけてもなぜ炎上しているのか把握できない(ていうか多分俺も全部把握できてない)
日本のポップカルチャーはまだまだ産業的に伸びる気配が強く、また弥助の件についてもハリウッド映画化やブロードウェイミュージカルが発表されており収まる気配はない。
同一のものだとは扱ってないよね、アホなのかな?
物理的な都市化の度合いでいっても、文化的な都市化の度合いで言っても30年前の東京より今の秋田のほうが都市化してないだろ、たった数年前秋田でのプロジェクトあっていくつか事業立ち上げとか関わってたけど東京じゃ俺が子供の頃にはほぼ存在しなかった「町村内ヒエラルキー」に支配されてくそ陰湿だったぞ。
元々侍と武士は同じ意味だったが、時代を経ると侍は高位の武士の意味になってる。
侍(さむらい、サムライ)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。
「侍」という言葉は元来は、朝廷の実務を担い有力貴族や諸大夫に仕える位階六位下程度の下級貴族(官人)を意味した
武芸を仕事内容とする技能官人である武士が発達すると、「侍」は武士を指すようになった。
さらに、武士階層の裾野は広がり貴族に連なる支配階層に加え、本来は百姓身分である地侍や徒士、卒、足軽なども武士に含まれるようになると、「侍」は武士の中でも比較的高い地位にある「騎馬戦闘の権利資格を有する階層以上の武士」を指すようになった。
足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。
概念によっては、雑兵(雇い兵)と混同されることが多いが、足軽は正式に登録された下級武士であり、雑兵は戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵のことである。
弥助が侍かどうかの話があるが、そもそも侍の定義を明示してないと話が始まらない。
足軽だったとしても下級武士であり武士=侍の時代の定義に従えば足軽も侍と言うことも可能なので議論する上で当たり前だがそもそも言葉の定義についてはっきりさせておく必要がある。
別に男に生まれたからって男らしくいる必要は無いけど、男らしさを捨てる分他の魅力をより磨かないと他人に魅力的だと思ってもらえないのは当たり前だよな
「男らしくない権利」なんて既に誰でも持ってる
「自分の魅力を磨く気が無いのにパートナーを見つけられる権利」なんて存在しない。
他人に「魅力的なパートナーだ」と思って欲しいならそうあるべく努力する義務がある。
その魅力が「男らしくあること」でなければならないなんてことは無い。
男らしくなくてもパートナーが見つかってる男は沢山居るよ。
男らしさではない他の魅力でパートナーを引きつけたわけだ。
「優しい」なんて男らしくても男らしくなくてもそういう人は沢山居る。
それでも「優しい」を武器にパートナー見つけたいなら、「自分の優しい」が「他の人の優しい」と違うという見せ方をする必要がある。
「大した魅力の無い自分をそのまま受け入れてくれるパートナーが欲しい」ってんなら「なんの魅力も無いパートナーを受け入れる覚悟」がセットで必要だが、そんな覚悟持ったヤツ見たことないね。「他人に選り好みするなと言っておきながら自分は選り好みする」ってのはクズの所業だよ。
まぁ、もしそんな覚悟があるヤツがいたとして、それでもパートナーをさかすのは大変な作業だ。
それは男らしさを武器にパートナー探してる奴だって味わってる苦労だ。
男らしさ以外の自分の魅力を探したり、無ければ磨いたりする気も無いんならパートナーを探すの諦めろ。
オレはそうした。
ただ、「自分を変える気がないクセにパートナーは欲しがるワガママボウヤ」と混同されて今更パートナーあてがわれると迷惑なので「パートナーあてがえ」って喚くのも止めてくれ。
変に喚かず自分の魅力を探すなり磨くなりしてろ。
「世の中に不満があるなら自分を変えろ」なんていう話じゃない。
ジジェクの韓国語コラムが微妙なのは英語版を改変してるからだと言ってる人がいたけど、英語版も微妙やんね
単に賞味期限切れだろこの人…
https://english.hani.co.kr/arti/english_edition/english_editorials/1149192.html
現在の右翼ポピュリズムの再興について最も重要な点は、この再興がその支持者によってどのように認識されているかということです。異なるバリエーションで繰り返し現れる単一の修辞的な図式が見られます。新しいポピュリストは、企業メディアや極左による暴力的な強制に対抗して穏健な正常性を擁護しています。「LGBT+イデオロギー」の絶え間ない圧力により、自分がただの普通の「シスジェンダー」の女性または男性であるだけで、何かしら罪悪感を感じるようにさせられ、「バイナリー」であること自体が抑圧の行為であるかのように感じること。過去の発言や行動が急に禁止され、どのルールが自分を責め立てるか事前にはっきりと示されないため、何か行動や発言をする際に「キャンセル」されるという絶え間ない脅威。人種差別や性差別がただの自分の特性ではなく、自分の存在そのものに刻まれているかのように絶えず自己卑下を強いられる衝動。これらすべてが、多くの周縁的で「破壊的」とされるアイデンティティを十分に享受するように促されるのとは対照的に、停滞して息苦しい雰囲気を効果的に生み出しているように見えるのです。
「目の覚めるような新鮮な空気が、窒息するようなウォーク主義の圧力に一時的に流れ込んだ極端な事例は、アメリカのハイデガー主義者であり、アレクサンドル・ドゥーギンに共感するマイケル・ミラーマンによって最近提供されました。彼は最近、YouTubeで『なぜ普通のものすべてがファシストと呼ばれるのか?』というタイトルのポッドキャストエピソードを公開しました。彼自身の立場の要約は以下の通りです。
『「私が嫌いな人はみんなヒトラー」という現象はどうしたのか?奇妙ですが、理解できないわけではありません。戦後のリベラルな熱狂(左翼の反ファシズムと結びついて)により、多くのことが「極右」としてコード化され、禁忌となりました。しかし、それらの中には、政治と人間の生活をよく理解するために必要な重要なことも含まれています。』
また、ミラーマンのポッドキャストに対する多数の反応にも注目すべきです。これらは文脈を明確にしています。『彼らが私をファシストと呼ぶなら、それは私が正しいことをしている証拠だ。』『私の友人は多様性と包摂の原則に基づいて外科医を選びました。彼女は亡くなりました。』『WW2前のすべての普通の人は「ファシスト」だった。血と土、自分のものへの愛、他者への警戒心は私たちに組み込まれたものであり、完全に健康的なものだ。』『イスラム教を公然と批判してイスラム教徒をやめたためにファシストと呼ばれた。』『すべての普通のものがファシストなら、ファシズムは...』『「極右」の最良の定義は、間違っていないものすべてだ。』
マリーヌ・ルペンや彼女の周囲の人々は、この論理に大いに依存していますが、彼らは自分たちがネオファシストであることを断固として否定します。彼らは、健全な常識をファシズムと混同しているのは左翼リベラルだと主張します。しかし、この論理を徹底的に追求する人もいます。『すべての普通のものがファシストなら、ファシズムは普通だ。』
7月4日の選挙で労働党が圧勝し、保守党をほぼ壊滅させたとき、多くのリベラルは、英国がこの傾向に対する明るい例外を示したと考えました。しかし、ナイジェル・ファラージのリフォームUK党が400万票以上を獲得したことを過小評価すべきではありません(ただし、英国の投票制度のため、これが議会議員5人に翻訳されました)。保守党が事実上弱体化する場合、その位置を占めるのは、より公然とした人種差別的でポピュリスト的な新しい右翼運動である可能性があります。
新しいポピュリズムの広範な魅力をイデオロギーのミスティフィケーションと操作に帰するのはあまりにも簡単です。事態はもっと微妙です。新しいポピュリストの台頭は、私たちリベラルな「啓蒙された」者たちが無視している不満の層が存在することを示しています。この層は、深く埋め込まれた伝統的な人種差別に還元されるものではありません。
したがって、新しいファシズムを「非自然化」または非正常化する必要がありますが、そのテーマをただ拒絶するだけではいけません。愛国心や自分自身の特定の生活様式への愛着には本質的に虚偽や「ファシスト」なものはありません。ジョージ・オーウェルの英国のパブの称賛を思い出してみてください。これは労働者階級の生活様式の具現化です。新しい右翼ポピュリズムが行っているのは、愛国心に偏執的なねじれを与えることです。自分自身のコミュニティを自信を持って楽しむのではなく、外部の脅威(外国人や「逸脱した」性的習慣)に対する嫉妬と憤りに焦点を当てています。
いわゆるTERF(トランス排除ラディカルフェミニスト)の問題は、彼らがこの多様な流動的なアイデンティティに反対する方法が、アイデンティティ政治の枠内にしっかりと根付いていることです。彼らのターゲットは、トランス女性であると主張する男性であり、TERFの見解では、女性としての密接な物質的プロセスに実際に参加することなく、女性であると主張する男性です。要するに、TERFは女性のアイデンティティを望まない侵入者から守ろうと必死になっています。
それが、新しいポピュリスト右派が一様な形成ではない理由です。彼らの愛国心は偽物であり、自信がありません。ここで最初のパラドックスに出会います。新しいポピュリスト右派は、愛国心が強すぎるのではなく、愛国心が足りないのです。これは、グローバル資本主義への抵抗の神秘化された形態であり、経済的にもイデオロギー的にも、いわゆる普通の人々の大多数がエスタブリッシュメント(国家、大企業、メディア、教育)から圧力を受けているという事実に反応しています。新しいポピュリストは、エスタブリッシュメントに対して普通の労働者の声として、自分たちを明瞭かつ卑猥に介入させています。新しいポピュリスト右派は確立された秩序に対する急進的な抵抗を装っていますが、トランプのイデオロジストであるスティーブ・バノンでさえ自分をレーニン主義者と呼んでいますが、実際にはそれには程遠いのです。多くの億万長者によって支持されているため、資本主義の基本的な構造は手つかずのままです。
しかし、新しいポピュリスト右派に抵抗する人々は、まず自分たち自身を批判的に見つめる必要があります。彼らも同様のパラドックスに陥っているからです。ウォーク主義的な左派は、実質的には支配エリートによる操作として正しく経験される、破壊的な超自我体制を押し付けています。彼らは(性的、人種的、経済的に)排除され、周縁化された人々の保護者として自分たちを提示しますが、その活動の形態自体が深く抑圧的であり、したがって彼らの公式の目標を損なっています。「キャンセル文化」に浸透しているのは「議論なしの立場」です。人や立場が排除されるだけでなく、その議論自体が排除され、排除に対する賛否両論の対立が排除されます。
ヘーゲルはここで、ラカンが呼んだ、述べられた内容と発話の基盤となる姿勢の間のギャップを動員するでしょう。多様性と包摂を主張しますが、自分たちの定義する多様性と包摂に完全に同意しないすべての人を排除することで、それを行います。結果として、常に人々や立場を排除し続けるだけです。このようにして、包摂と多様性のための闘争は、いつあなたのプライベートな発言が公の場からの排除につながるか分からないような、スタージのような疑惑と告発の雰囲気を生み出します。
ここで、最後のカニバルを食べるというジョークの極端なバージョンを見ているのではないでしょうか?「我々のグループには多様性と包摂の反対者はいません――最後の一人を除外したばかりです...」このようにして、唯一の楽しみは、自分の超自我の抑圧者に同一化することです。他の誰よりも厳しくなり、超自我の規則に従おうとすればするほど、ますます罪悪感を感じることに耐えるしかありません。「ついにやり遂げた、今はリラックスして自分らしくいられる」という瞬間は決して訪れません。
新しいポピュリスト右派の基本的な動きは、「リラックスして、自分が何者であるかに誇りを持て」と言うことです。これをはっきりと言うことで、膠着状態を打破し、状況に新鮮な空気をもたらすように見えます。しかし、ポピュリストたちは支配的な既存の生活様式を維持したいと考えていますが、今日の現実である動的な世界に対しては、強引に介入せざるを得ません。一方で、ウォーク主義的な左派は急進的な変化を提唱しますが、彼らが想定する変化は「何も実際に変わらないように、常に物事を変える」という古い知恵に完全に適合しています。
したがって、二重のパラドックスで結論を出しましょう。新しいポピュリスト右派は愛国心が足りず、ウォーク主義的な左派は急進的ではありません。新しいポピュリスト右派は公然とユーロセントリックですが、ウォーク主義的な左派もその形態自体がユーロセントリックです。彼らは特権的な層のように振る舞い、周縁化され排除された人々を保護しています。彼らは後見的な方法で行動し、被抑圧者にとって何が利益になるのかを被抑圧者よりもよく知っているふりをし、被抑圧者があるべき行動を取らないときには何の制約もなく叱責します。要するに、「政治的に正しい」ウォークの言説は、最終的には被抑圧者に対して彼らが真に何者であるかを伝え、彼らをイデオロギー的宇宙の中の適切な場所に配置することです(たとえその場所が無場所として提示されていても)。そのため、被抑圧者はヒステリックな反応を起こします。「なぜ私はあなたが言っているような人間なのか?」
このようにして、新しいポピュリスト右派とウォーク主義的な左派を結びつける深い共謀があります。彼らは同じコインの表裏であり、今日我々が直面している巨大な問題を回避する二つの方法なのです。どちらも、今日のグローバル資本主義の核心に刻まれた対立を無視しています。
古今東西どこもかしこもやることは同じだからか次々と出てくるが、似たような事しか言わなくなったので終了
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現代社会において、生成AIはその革新的な技術で多くの注目を集めていますが、その影響力を懸念する人々も少なくありません。私たちが目にするSNS上の活動やキャンペーンの背後には、影響力を行使しようとするフリーランスのイラストレーターたちがいます。彼らは、生成AIの使用に対する反対意見を広めるために、さまざまな群衆心理を操作する手法を駆使しています。今回は、その中でも特に顕著な手法について詳しく見ていきましょう。