心底どーでもいいんだわ。
究極俺に関係ないところならば社会がどーなったって構わないんだよ。
たとえば、俺が死んだ後とかな。
社会の役に立つんじゃなくて、社会を俺の役に立てることしか興味ないんよ。
自分が得することを享受し、損することを回避できりゃそれで万々歳。
みんなだってだいたいそーだろ。
損失をしょいこんでも社会に奉仕したいやつなんてそうそういるもんじゃねえ。
だから、ご立派なべき論ばっか打ち立てられても社会の大多数たるところの俺みてーなやつは動かんのだわ。
利得を貪り損害を回避したいフツーのやつがその欲望の通りに行動しただけで、それが自動的に社会にとって望ましい行動になってるように法を設計すんだよ。
俺らみてーなやつを社会のために行動させたいなら、そうする以外の方法は一つとして無え。
でもさ、ご立派なべき論打ち立ててる奴ら、そういう方向性の活動はやんないだろ?
法を作ったり、ルールを作ったりだよ。
だって自分がそれするだけ損だもんな。結局、人ってそういうもんなんだ。
だからこの社会は永久に動かねえ。動くのは、何千人にひとりしかいないであろう損得度外視で全体のこと考えられる馬鹿みたいな博愛主義者が、たまたま運が良くて活動を成功させた時だけだ。