はてなキーワード: 奇特とは
グルーミング(性犯罪者が年下(もしかしたらそれに限らず?)との性的接触を実行段階に移す前段階としての信頼関係の構築を行う行為)への罰則をというニュースを見た。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_619f3793e4b044a1cc114845
ハフポストであるのでそこまで真剣に取り合う問題でもない気がするが、実際に行われるとしたら、社会全体が人間の発達期において、世代の上下をまたぐようなコミュニケーション全体を忌避するようになるのだろうか。
そのような環境が到来したときには、家族内部で解決できない、あるいはそこに起因する問題を抱えた子供を、血縁関係の外側にいる人間が個人や地域としてかかわるということは基本的に異常な行為とみなされ(今も?また基本的にそういう子供に“かかわる”人間は奇特な人間か異常者が多いのは確かかもしれないが…)、問題に対処する役割だということを国家が規定した施設や人物に問題を通告して、その後は関わらないのが正しい市民の在り方ということになるのだろう。
そうなったときにはおそらく今まで以上に児童相談所の役割は増大するのであろうし、そのために社会全体が経済的な負担をする必要があるが、果たしてそれを受け入れるのだろうか。
もしも負担なくして罰則を設けるということであれば、子供を取り巻く環境はかなり悪化するような気がする。
またうがった見方をすれば、国家が(あるいは何らかの共同体が?)家族の在り方というものにかなり深く干渉するきっかけとなりうる動きなのかもしれない。
しかしながら、民主主義社会にいる以上、声が上がったからにはその意見に対して真剣に向き合う必要があるのは確かであろうし、そもそもの問題として(グルーミングが)『性犯罪をおこなうのは見知らぬ通りすがりではなく、ある程度知り合った周囲の人間のほうが多い』という話とつながっている(顔見知りになり警戒を解いてから実行に移すので行為の成功率も高いし、発覚の恐れも少ない)のもたしかであろう。
外部の人間からすれば、「人間の記憶それ自体は内部・外部によって容易に操作され変質しうる(虐待や性犯罪の記憶は身体が捏造することもあり得る)」という事実のほうばかり向きがちで、実際に被害を受けた被害者の改革の訴えにはどうしても及び腰となるが、直接捜査や処罰の対象とはならずとも、発覚した性犯罪にたいして、完遂されたもの以外にも前段階にある性犯罪被害に対して罰則をという形であればある程度受け入れられやすいのではないだろうか。
ただし、罰則の追加や強化ははやり慎重に行われるべきであるし、加えて犯罪者となった人間をぶち込んで終わり、隔離して終わりという形の解決ではなく、被害者・加害者問わず治療などの防止策を含めて考える必要があるであろう。
再発の防止、被害の抑止という形での規制や改革は行われるべきであるが、性犯罪に限らず過去の被害の応報として社会の規則を定めたり変えたりということには少なくとも慎重であるべきだと思う。
昔から不思議だった。今もそうだ。みんな義務や責任感でしているんだと思ったらそうではなかったことを知ったときの衝撃は凄まじかった。
そもそも異性への嫌悪感が強い方で、どれだけ感じのいい人でも、自分を性的に見ていると分かった瞬間から気持ちが悪くて悪くて悪くて悪くて膝から崩れ落ちそうな気持ちになる。手を握るのもキスをするのも想像しただけで具合が悪いのにセックスのことまで考えられるはずもない。
たぶんアセクシャルなんだろうけど、これって悪魔の証明みたいなものだもんな、説明しても「まだ本当の意味で人を好きになったことがないだけ」って言われるだけなんだろうな、と思って、誰にも伝えたことがない。これには莫大な恐怖と絶望を感じる。あまりにも多くの人が「人を好きになることは当然」という前提のもとで話をしてくるという事実に、茫然としてしまう。
事故で足を失った人間が自分はサッカーは出来ない、と言えば、大抵の人はそれを肯定すると思う。でもアセクシャルの人間が自分は恋愛はできない、と言えば、多くの人がそれを否定する。そんなことはない。まだ時期が来ていないだけ。いずれする。必ずする。だってそれが普通なんだから。時々『変な』対象を好きになる人もいるけれど、でも好きになること自体は絶対に人間に備わっている機能なんだからないなんてことはあり得ないんだから大丈夫すぐに好きな人ができるからね。
マジで怖すぎる。狂人だけの村で生きているような気がするけれど、でも狂人は自分の方なんだろうな。
『アセクシャル 結婚』でググると色々な例が出てきて、中には『友達婚』なるワードもあったけれど、アセクシャルで友達婚を望むような人間は地方の田舎にはいない。ずるずると生きてきすぎた。今からどこかへ飛び出すことはもう出来ない。なんとか『普通』を装って、自分をよしとしてくれるような奇特な人間と結婚して、生きていくしかない。
焦って婚活をしてみるけれど、途中でどうしても気持ち悪くなってしまいシンプルに絶望する。マッチングして、数回会って、あっちがそういう雰囲気を出してきたら、そこから階段を上るように手をつなぐ、ハグをする、キスをする、セックスをする、というイベントをこなしていかなければならないと思うと発狂してしまう。今もしている。何度目かの発狂。繰り返していけば少しずつ前に進んでいけるのだろうか。みんなのようになれるのだろうか。
🐕️「奇特な方という印象」
多数を無言フォローしてた。大ジャンルは転出者含め200人くらいフォロー(雑食なので)。うちCPまで合ってる小ジャンルの同志さんはリストに入れて重点チェックしてた。あと転出ジャンルが好みじゃない場合はワードミュートで足りてた。みんな毎日元気にツイートしててよろしいなぁ~。
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急に絵師、しかも大ジャンルの古参だったらしきAさん(たまにまだアンソロに寄稿してるけど自発的にはもうこのジャンルは描かないらしい)にフォローバックされた。
けどまあお互い無言フォローだしエアリプでありがとっていう程度でいいか、2万くらいフォロワーのいる絵師にいちいちかまちょする文書きってウザイよな。とほぼ無視。
私のほうはオープン垢なのでリストにいれられてる気配はもっといっぱいあるけどフォローバックしてくれる人なんて50人もいないやで。奇特な絵師さんもいたものだ。
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急にAさんが「前にいた「小ジ●ンル」は態度がクソな人がいたのでジャンルから転出してよかった」とツイートしてるのみちゃった。典型的な後ろ足で砂かけですね。
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私は重点チェックじゃないリストにいれてフォロー解除しました。ブロ解まではしなかった。あと精神的に負担なのでそういう愚痴をいうひとはフォロー解除と一言かいといた。
えっクソって私のことですか???まだなにもしてませんが?
プフーw うちほんと弱小だからw 新刊アンケート1桁だからw 大絵師さま気にすんなよ~。
他社と契約したユーザーに向かって「今回は残念ながら我が社と契約とはなりませんでしたが、次回は是非よろしくお願いします」
と言うべきところを「我が社と契約しなかったお前はバカだ」と罵詈雑言。
そんなん「お前のところとは絶対契約しない」ってなるのは必至。
むしろそれでも投票する奇特な人がいることをありがたがるべきだが、それすらわかっちゃいなくて投票して当然とか思ってるんだろうね
一時期、具体的にはアメリカでトランプ旋風が巻き起こっていたころ反知性主義という言葉が流行った。
その概念は日本にも輸入され、主にリベラルが格好つけて馬鹿呼ばわりする時に使用した。
しかし反知性主義とは「反知性」主義(すなわち馬鹿)ではなく反「知性主義」(反エリート)というのがホフスタッターの論旨である。
参考:https://cruel.hatenablog.com/entry/2015/08/20/185544
わざわざ格好つけて言おうとした結果誤用にハマる という意味では「すべからく」と同じだ。
むしろ「すべからく」は単に格好つけようとして失敗しているだけだが、
「反知性主義」の場合は他人を馬鹿にしようとして失敗しているという、より恥ずかしい状況だ。
まともな神経だったら二度とこの言葉を使わないくらいには凹むと思う。
ここまでは単に誤用した人が恥ずかしいだけの話なのだが、問題はその時「反知性主義」呼ばわりされた人(被害者)だ
被害者の主観的には「賢しげなリベラルが知性を振りかざして馬鹿にしてきた。」と映るだろうし、実際にそのとおりだろう。
よほど奇特な性格でもない限り、馬鹿にしてきた相手には反感持つのが人間というもの
被害者は多かれ少なかれ「知性主義者」への反感を植え付けられてしまう。
まとめると「ASUS最強」。
中国を信用できるという奇特な人なら、シャオミが最強かな。OPPOも悪くないね。
社会の一般的な美醜の価値観で見たら「ないわ~」って見た目でも、本人たちの身内コミュニティーでは「イケてる!」であり、コミュニティー外にどう思われても気にせず、自分たちのスタイルを自己肯定感に繋げている感じが。
ヤンキーに限らず、原宿系の奇特なファッションとかでも良いんだけど。
個人的には、お洒落で一番大切なのは自分達の価値観の中でのイケてるを大切にすることだと思うから、別に否定的な意味で言っているわけではないんだけど。
社会的合意主義、そんな名前があるのか知らんけど、共産党に問い合わせた人の記事が流れてきたので読んでみたら、そんな感じの内容が書かれていた。
https://note.com/takahashishogo/n/nfcacb9ba354c
『確認をする限り、法規制の代替のように『社会的合意』を求めている状態だというのが私の率直な感想である。それが国政選挙という日本の重大な岐路において行われているためだ。』
「社会的合意の妥当な形成は可能か?」という疑問がこの記事の論述的な到達点なので、ブクマとか言及ではこの疑問について回答いただくのがよいと思う。
社会的合意主義、って、率直に言って「便利」そうな気がするな。
だって狭くは家庭内の躾けから、広くは意思決定の過程で「どうしてダメなの?」「素朴にみんなが悪いって言ってるからダメなの」で済むってことだよな。
当然「みんなって誰だよ」ってことになるんだけど、そこまで踏み込まれると「うるさい」って暴力が飛んでくるの。体罰・いじめ蔓延期の20世紀末に見た。
あと便利なのは「社会的合意でサンドバッグが出来上がる」のが便利。もちろん実力行使に出ちゃダメだよ。でも直接手を下さなければいいよ。
そうやって「対象」が決まる。まあ昔の子どもはアホなのでバンバン手も足も出すわけだが。今の子どもは手も足も出さないと思うけど、口は出しそう。
いずれにせよ息が詰まる世界が出来上がっていたように思える。
たいていは社会的合意がなされている、と喧伝するほうが強くて、そういう喧伝をするのは、ネタを売り込まれたマスコミとかの仕事だった。
昔の政治家は、なんか人が多そうだなあって思ったネタにしか食いついてこない。
(今の政治家は、自分の動きで人が動かせると分かったら、すごくよく働く。)
今はなんですか、ユーチューバー?みたいな人の役割になってるのかな。
狭い世界ならその社会の「実力者」ってやつ。あるいは喧伝することで何らかの社会的合意を形成出来た奴。
あとから「実力者」になるタイプね。今ならインフルエンサーって言われるんですかね。
ひどい話だと思わない? だってその後付けインフルエンサー気取りの奴から勝手に「おもしろい奴」「いじっていい奴」扱いされるんだよ。
そうなったらもう危険を察知して「どうぞここを殴って下さい」みたいな振る舞いでダメージコントロールすることを強いられることになる。
打たれ強くなると言えば聞こえはいいけど、まあ心を麻痺させて頑なになってしまう。
ありのままの心を守って、なんて贅沢なことは言ってらんなくなるよね。
そんな生き方にならざるを得なくなる。運ゲーってやつかもしれない。
そういう社会的運ゲーに巻き込まれると、だいたいそういう社会的理不尽から距離を置ける(と本人は思っている)分野に憧れを抱くようになって、
一方、評論家とかそういう輩は蛇蝎のように嫌うようになる、のかもしれない。なんとなく。今更ながらこのへんは隙自語が酷いかもしんない。
ここまで書いてみて、どうも自分は『社会的合意』とはどのように行われるものなのか? というところが分かっていないことに気づいた。
どうもこの元増田は「社会的合意? わからんなー、なんかいじめの対象決めるようなもん? みんながダメだって言っても文句言われないものを決めるようなもん?」としか考えられていないようだ。
なので、ここまでこれ読んだ奇特な人はもっと冷静に「社会的合意の妥当な形成は可能か?」という部分を論考してほしいと思う。
元増田は過去の経験が邪魔をしてうまく判断出来ない。分かっているのは「なんか危なそうだから回避しよう」くらいなものだ。
いたたまれない帰りの会を思い出すような、クラスのなんかうるさそうな奴らの匂いが鼻につく、そんな舌戦が、まあまあしんどい。
https://anond.hatelabo.jp/20211003125552
これへの言及とか見ても分かるけど同じオタクdisでもアラフォー以下の奴らのdisはとにかく軽い
まとめサイトのコメント欄でもよく見れるような雑魚い煽りばっかりだ
なぜそんな事になるかと言うと40代前半~30代前半は若い頃のネット上での経験に基づくイメージが強いからだ
この世代は若い頃にインターネットが普及し始めてオタクへのイメージはリアルよりネット上で出来たイメージの方が強い
リアルで見た経験に基づいてないのではオタクを強く想像する事も出来ないからオタクへの言及も軽くなる
「オタク」というものがどうしても「属性」としてしか語れないんだよね
一方で40代後半以上のオタクは若い頃はインターネットがまだそこまで普及してなかったから
ネット上の経験は少なく、一方でオフで会ったオタク達相手の個人的な印象の積み重ねに基づく部分が強く
そこで負の経験を持ってしまった人達は一生涯その強いイメージに振り回されてしまう
彼らは「オタク」が脳内に強い「負の存在」として残り続けるからオタク相手に奇特な行動をしてしまうんだ
可哀想だね
いまもjQueryをWebアプリケーションの大事なライブラリとして使っている会社は少なくないと思う。
jQueryを会社で使っていると何が問題なのかを語っていこう。独断と偏見によるものなので、jQueryを使っていても問題ない会社も当然ある。たとえばペライチのサイトを作る会社とか小規模サイトなんかでは全く問題ない。
採用困難で売り手市場になっている時代、そして「jQueryを触らなければならない環境 vs モダンフロントエンド環境」という選択肢がある中で、あえてjQueryを選ぶフロントエンドエンジニアは少ない。
また、新人はもはやjQueryを学ぶことはない。彼らはES6以降のJavaScript / TypeScriptを書く。よしんばjQueryを学ぶことになった新人がいたとしても、それはただその新人が可哀想なだけで、現役なわけではない。ラガード(遅滞者)の仲間入りをさせているだけだ。新人でもキャリアをデザインできる新人は「jQueryはオワコン」という情報には触れているので、よほど就活で失敗しない限りはjQueryのところにたどり着かなくなっている。
そもそもバックエンドエンジニアでもモダンフロントエンドを書くような環境が増えてきた中で、2世代も前のjQueryだけでアーキテクチャに関する一考もないコードをメンテしなければいけないので、「jQuery」という言葉だけでフロントエンドエンジニアでなくとも入社を避けがちだ。(jQueryでアーキテクチャがしっかりしている可能性は低い。アーキテクチャがしっかりしているならばjQueryに依存しておらず、jQueryに依存していないのであれば簡単にjQueryから脱却できるはずで、簡単にjQueryから脱却できるならもう脱却しているはずだからだ)
メインストリームの部分はほとんどリプレイスが終わっているというでもなく、すべて現役でjQueryなのであれば尚更問題で、誰もメンテしたがらないコードの出来上がりだ。「弊社はCOBOLで書いてます!」とにこやかに言うようなものだ。
(ただし、さすがにjQueryだけでフロントをやっているという会社の求人をほとんど見かけることはない。無意識のスクリーニングで落としているのかもしれない)
jQueryを使っている会社には、フロントエンドエンジニアは一人もいないと言いきってもいいかもしれない。もしくは、今まさにjQueryをやめようとしているか、たまたま入ってきたフロントエンドエンジニアが今まさに辞めようと迷っているかのどれかだ。
「jQueryを使っていました」というエンジニアは、他社からはフロントエンドスキルが0とみなされる。つまり、フロントエンドエンジニアではないという意味だ。jQueryは、jQueryを使っている会社に対してしか武器にならないのだ(逆はできる)
jQueryを書ける人口自体は増えているだろうが、労働市場からは撤退し始めている。昔jQueryを書いていた人材の人数が上限で、そこから新たに学ぶ人の絶対数が減っているため、全体としては減っている。
私もjQueryは以前業務で書いていたが、もう数年書いていない。特にメリットを感じないからだ。遊びで、生のJavaScriptを書くことはある。
jQueryで入社するのは、昔からjQueryを使っている高齢のエンジニアか、なぜかjQueryを学ぶことになってしまった新人である可能性がある。
そのため、需要と供給に応じて、昔いたようなスキルレベルの人を今の市場で見つけようとすると費用がかかってしまう。jQuery書けますという人材が高年齢化しているのだ。そして世継ぎはいない。
リプレイスはハッキリ言って難しい。モダンなフロントエンドを学習するだけでは足りなくて、それを使いこなせた上でしかもjQueryを使用したカオスイベントコードも読めて、そしてアーキテクチャを考えてリプレイスしなければいけない。
時代が下るにつれて、そうしたハイスキル人材はより高価値になっていき、レア度も単価も高くなる。今そういう人を雇うという判断をしない会社が、どうして今後もっとハイスキルの人を雇えようか。
jQueryを使ったサービスがしっかり利益を出している点もリプレイスを難しくしている。全廃もできない。かと言ってコストに見合わなければリプレイスという経営判断も難しい。経営が困難な状態ならより厳しい。
何も理由がなくjQueryを使い続けたいという奇特な人は多くないはずだ。何か理由があってそうなっているわけだ。カッコよく言うと『ナッシュ均衡』という状態だろう。今会社にいる人材もいわゆる『jQuery人材』が多いため、そこを打破するのはとても困難な道だろう。
jQueryから抜け出すには、すでにいる人材がなんとかしてリプレイスするか、外から連れてきて改革するしかない。しかし大抵の場合、既存の従業員にとってはそんな大変なことをするよりも転職したほうが楽な道だ。(もちろん、「jQueryしかなかったサービスをモダンフロントエンドにした」というのが実績としてある人材はかなり魅力的な人材で引くてあまたなことだろう。その意味ではピンチをチャンスに変えるときの『チャンス』ではある)
ReactやVue.jsに変えたいと思ったとして「じゃあお前それですぐに利益出せんのかよ?」と詰められたら、その論争をクリアしてまで変えるのはほとんど無理に近い。通常、リプレイスそれ自体は価値を生み出さない。リプレイス後に運用コストが低下したり、人材獲得がしやすくなるために利益が出るのだ。リプレイスとは長期の投資であるため、短期的には必ず損失になる。経営が困難な状態でリプレイスしようとするのは、生活困窮世帯にリボ払いをやめさせるぐらい難しい。そのため、まず自分が身銭を切ってリプレイスするしかない。そしてリターンがあるかもわからない身銭は切りにくい。そして同僚は容易に『抵抗勢力』になる。
jQueryを今も使っているということは、裏を返せば「これまでリプレイスをしてこなかった」「リプレイスしようとしたが無理だった」という実績にもなる。
jQueryを使っている会社は、昔からあるコードをもとに書いているため、今もES6以前の文法で書いている可能性がある。そうしてどんどんと情報が少なく、古く、現代で通用しにくいものになっていく。
bundlerを使っていない可能性が高いし、もしかするとCI/CDも無いかもしれない。そうすると、モダンなインフラエンジニア(もしくはモダンなインフラ知識のあるエンジニア)がいないかもしれない。SREという概念がないかもしれない。
世間一般から見ると会社の中が古いのだが、古い会社にいると「自分が古い」とはなかなか思えないものだ。太っちょの集まりの中にいたら「自分はそんなに太ってない」と思うのと同じことだ。
すべては憶測なので、実際は違うかもしれない。
さんざんdisってきたが、そもそもjQueryは何も悪くないし、大変優れたライブラリだ。ちょっとしたプロトタイプを作るときには良いものであるかもしれない。しかも今もjQuery自体はメンテされている。そのため、状態管理さえうまくできていればjQueryだろうがなんだろうが問題ない。
問題は、jQueryというライブラリを使ってきた時代からアーキテクチャが前進していない点にある。何年もずっとその状態だということだ。そこを今日に至るまで誰1人として変えられなかったということだ。特に経営陣は何の問題視もしていない可能性が極めて高い。そうした社内のしがらみが反映された結晶体、それが『使用技術: jQuery』という言葉になっているのだと思う。また、ヤバさは、jQueryのバージョンに反比例する。
jQueryを使っているアプリケーションには、jQueryが担保していなかったアーキテクチャ部分に問題があることが多い。また、どこから呼ばれているか誰もわからない複雑なイベント、SPAもクソもないページ遷移ごとのリロード、誰もどこもテストできず、HTMLにベタ書きで書かれたJavaScriptコード、その場しのぎでデタラメに書かれた関数、無視される変数のスコープ、サポートが終わったライブラリ、ドキュメントを見つけるのすら困難なよくわからないライブラリ、高齢者しか知らない伝説の機能・伝説のハック、などもある。これらはモダンフロントエンドではほとんど発生しないものだ。
そのため、一定の基準として「jQueryを使っているかどうか」で、フロントエンドエンジニアとしてのやりがいがあるかどうかを判別できる。
そうして、フロントエンドエンジニアというのはもうjQueryに見向きもしていない。書けるけど書きたくない。パラレルワールドのようなものだ。
そういうようなことを「使用技術: jQuery」という文言から感じ取ってしまうのだ。
(そしてこれは、実際の仕事の中身が違うかどうかは関係ない。jQueryとは、そういうふうなブランドと化しているのだ)
jQueryを使っている会社からしたら「そんなことはわかっている」という部分で、「じゃあどうすればいいのか?」という部分が気になるところだと思う。
そこで、後編では「どうやってjQueryを全廃すればいいのか?」「実際にどのように全廃したのかの事例」について、だいたい来週ぐらいに書くつもりだ。
お楽しみに!
針小棒大な記述がなされた文章を読むことほど困難なことはふつうの人生の中ではなかなか見つけられないかもしれない。一般的に、文章は読み易い方が良しとされがちだ。けれども、文章を読み難くすることによって自分の好ましくない人々がアプローチしてくることを阻害することができるというのは、低質な文章の読解困難性を逆手に取った、なかなか興味深い技術でもある。また、相手に渡す必要がある文章なのだが何らかの事情で内容を読まれるのを回避したいという場合に、相手の蒙昧さをうまく活用して本来指摘すべき問題について問題提起させないというようにすることすら可能だ。読み難い文章を提示することで読者層の足切りに使うこともできる。無意味に複雑な文は、内容など碌に見られないために本来炎上すべき過激な発言ですら炎上しないことがある。たとえば侮辱するときの語をバーバリアンという言葉に切り替えるだけで炎上の発生確率が低下する。こうした衒学的な文や文章によって人を容易に遠ざけられることに関する確かなエビデンスを提示することは残念ながらできないが、ここではヒューリスティックによる、どうすれば読み難くなるかの方法をいくつか紹介していきたいと思う。予め断っておくが基本的には敵対するための類のものであり、重用すべきものではない。まず第一に、段落分けや箇条書きまたは句読点などそもそも読みやすくレイアウトするという理解を促進させる技術を使わないことが肝要で、一般的に読みやすくする技術の逆を行うことで一気に読み難い文章ができあがる。第二に、仮に無意味だろうがなんだろうがとにかく内容が薄くてもいいから長く長く書いて、一目見たときに長いと思うほど文を長くすることも必要だ。長さは重要なファクターであり文章の長さというのは真剣さの表れとして見られることが多い。実例をあげるなら、好きだよ。だから今日うちのホスクラに来て、という言葉と、俺さ、最近ずっとお前との将来のことを色々考えてて、本当にこの先このままずっとやっていけるのか不安なんだよね。これあんまり言っちゃいけないんだけど今の俺の実力だと店でも実はそんなに売上立ってないし幹部にもなれないから、このままだとお前を幸せにできないかもしれないって毎日考えてまじでずっとつらい。もちろん俺が考えてることは薄っぺらいって思うかもしれないけど、でも少しでも信じてくれるなら今日うちのホスクラ来てほしい、という言葉では意味は等価でも後者からは真剣味を感じられる人が多いことだろう。長い文章というものは一生懸命考えたのだと思われる傾向がある。また長文は重いので、重さを感じさせることができる。人は鈍重な文章を好んで読みたがりなどしない。実際に長い重そうな文を見てここまで明瞭な理解度を保って読んでいる人はほとんどいないだろう。その証拠に、ここまでの文の中に「ちんぽ」という言葉に準ずる言葉が入っているのだが、誰か気づいただろうか。むしろ目が滑ったりはしなかっただろうか。これが第三の、初出の言葉を既出であるかのように振る舞う技術だ。高難度の用語を文章に散りばめてそれについて何も解説しないといったケースも似たようなもので、相手を逆戻りさせ、わざわざ必要ではないことを調べさせる類の技術である。また、初出の言葉をその出現からしばらく離れたところで解説するなどしても良い。ともかくわからずとも全てを読むという技法を持っていない人を全員排除することができるテクニックだ。ちなみにご存知の通り、先の言葉に準ずる言葉はこの文章のどこにも存在していない。このような手法でテクニカルタームや難しい語彙または外来語や外国語をなんの前置きもなく使用することによって読者人数のEliminationを行うのは造作もないことだ。シンプルに高難易度のボキャブラリーを使うだけでそれがどれだけ相手にとって不都合なものでも承認されることがある。実はよくわかってないけれど、これだけ洗練された高度な文章なのだから大丈夫であろうという推定のもとに内容が承認され、その結末はなかんずく小気味良いものだ。逆に文章の末尾に初出の言葉を記述してもいい。人は理解できないとき逆や裏を考える癖があり、後ろから推測されることがある。この文章にも囮の一環として最後に無関係の文を追加しておいた。それからこのように読み難い文章では意外かもしれないが、誤字脱字を消すことも必要である。誤字脱字は絶対にあってはならない。誤字や脱字というものは文章に求められるクオリティが正当で重要になればなるほど、許されなくなる。逆に誤字脱字が無いか著しく少ない文章はそれだけで内容の如何に関わらず品質が高いとみなされる。文章が公的な性質を帯びれば帯びるほど、読みたがるような奇特な人物の数は減る。たかが誤字脱字で全体の評価が落ちるのは読み易い文章のときでも同様だが、本質的に相手に価値をもたらさないまさにこのような文章の中に誤字脱字を入れ込んでしまうと致命的になり得る。第五に、例示しないことも重要だ。最後に、ページを跨がせ、ある1つのトピックを中途半端な位置で複数のページに分割することで、相手にページの往復を強要させることができる。ページの往復作業は憂鬱な作業であり、ページ間の往復で情報が消えやすい。2つ同時に見せるとわかりやすくなってしまうようなものは、必ず分けるようにする。図などは至高の素材であり、10ページ目に14ページの図を使った説明を書くなどすれば、それだけで大半の人間は理解を放棄する。他にもいろいろとあるがこのぐらいにしておこう。大変読みにくかったことだろう。だから私はワクチンに反対だ。
なぜ日本男子は世界で唯一、女性より幸福度が低くなるのか?|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
記事の著者は"ネガティブ感情度"を幸福の指標として使っているためそれに倣う。
そうするとこれのデータから言えるのは「日本人男性はOECDの中でもトップクラスに幸福で、日本人女性はそれに輪をかけて幸福である」ということになる。
ネガティブ感情度の計測方法は元記事にも書いてある通り「調査日前日の感情状態についてネガティブな回答(怒り、悲しみ、恐れなど)がポジティブな回答(くつろぎ、喜び、笑う、など)を上回っている割合」である。
この数値、日本はかなり成績がいい。男女合算の数値では日本は2010-2012年のデータで1位、2016-2018年のデータで僅差の5位と、OECD中でも上位の幸福度を誇るのだ。
「いいや待ちたまえ。それは男女合算の数値だろう。男が超不幸で女が超幸福だったとしたら?」と言うかい?
だがしかし男女別のネガティブ感情度は日本人男7.9%で女6.9%。OECD平均が13%なので、結局男女とも幸福である。
「男は幸福だけど女がもっと幸福だから地獄!」という奇特な人(「男は不幸だけど女はもっと不幸」な方が良かったりするんかいな?)でもなければ、ネガティブ感情度のデータから日本人男性の苦しさだとかを見出すことはできない。
著者は何故か実際の数値ではなく男女の相対的な比に着目することで「男性の不幸を示唆し」ているが、実際のところ両性とも幸福と言うのが実態だ。
繰り返すが「日本人はネガティブ感情度を幸福の指標とする場合、OECDでも上位の幸福度を示す」その上で「日本人女性の幸福度は男性のそれより高い」と言うのがOECDのHow's lifeから得られる結論である。
いやしかし、ブコメにはアレ読んで日本は男性にとって如何に地獄か熱弁をふるっている人達がいるけど、あれだね。
GGGI※振りかざして「日本は女性にとって地獄!」「日本男性の意識が低すぎる!」とか抜かすアホの同類。
※グローバルジェンダーギャップ指数。あれで日本の順位が低いのは政府の怠慢のせいであって、それから国民の意識が低いだとか女性にとって住みにくい国だとかが導かれたりはしない。意識や住みやすさが反映されてるならそれらがクソクソのクソであるインドその他途上国の後塵を拝するわけないだろうが。
需要ある価値や商品を買い占め、本来有り得ないほどのプレミア価格を上乗せし、利益を貪るものだ。
今は逆にテンバイヤーのノウハウを売り、弱者を騙す情報商材の方がメインの商材らしい。フェミニストはこの情報商材屋である。
本題に移ろう。
フェミニストはよく言う。
だから妥協せずにその価値ひとつで富豪を手に入れよう。安売りはするな。」
能力はナマモノだから寝かせれば寝かせるほど価値は毀損される。
プレミア価格を狙って寝かせれば寝かせるほど本来は安くなるのに、本人は価値が上がったと考えて値段を吊り上げる。もう売れないのに。
これで誰が得をするか。
騙された人お疲れさまでした。
私はもう産めません。
某大臣にデマ呼ばわりされた言説を吹聴している御大の番組を作っている。
色眼鏡で見られることも多いので、この御大の番組に携わっているとは周りには言っていない。
周りの人間(特に視聴者)は、共演者やスタッフなど一緒に仕事をしている人間は、考え方や思想、倫理についてこの御大と全く同じだと思っている向きがあるが、仕事だからやっているだけで、そんなことは微塵もない。
むしろ、Qアノンやロシアあたりから出てきた周回遅れの眉唾な話を鵜呑みにしているこの爺さんのことは軽蔑さえしている。
にも関わらずだ、視聴者の多くは、我々スタッフがこの爺さんの思想やら言説に心酔して一緒に仕事をしているとでも思っているらしい。
そういった奇特な人も中にはいるのだろうが、少なくとも私の周りにはいない。(と思う。)
動画のコメ欄には、制作会社、共演者宛に「動画が消されても頑張ってください。言論弾圧許せませんね。応援してます。」など、一見、励ましや労いのコメントをもらうが、気持ちはありがたいものの、「あー、いっそのことアカウントごとバンされねーかなー。そしたらこの爺さんも諦めるだろう。」というのが正直な気持ちだ。
最近になって、この御大も我々の心の機微に薄々感づき始めたらしく、先生、先生と持ち上げてくれる他の制作会社の番組に出る機会が増えた。
家族や友人に言えない仕事をするというのは、思っていたよりもダメージが大きい。
最近になってせっかく作った番組がどんどん消されていくので、近いうちにこの御大の居場所はなくなるだろう。
実家は埼玉にあるんだけど,通学に1時間半かかるから正直遠すぎて帰りたくないのね.
10-23時に研究室にいるのよ.帰ったら日付回っているのよ.帰りたくねぇよ.
でもさすがに実家があるのに一人暮らしは金銭的に許してくれなくて.
実際週2くらいで研究室に泊まって床にマットレス敷いて寝ているんだけど,正直寝心地悪いし,他の学生にも迷惑だし,お布団で寝たいのよ.
という訳で,そういう学生を住まわせたい奇特な人はいないかなぁ,という妄想.
【条件】
・めちゃくちゃ贅沢言うとシャワーも提供してくれると嬉しい.なかったら研究室のシンクを使うだけなのでまあなくてもいい.洗濯は実家でするので不要.
・私が着くのが23-2時(日による),出るのが8-9時(もっと早い時間がいいなら応相談)を許可する.
・平日に不定期に2-3回くらい勝手に入って勝手に寝て勝手に出ていく状況が理想.
・金もあまり持っていないですが出せなくもないです.月3万くらいが限度.
・その他もろもろ応相談.
書いて思ったが貸す側が得するものが一切ないな.どうしようかな.何かあるかな.
どこで募集するのが一番いいのかなぁ.
【追記】
爆サイだな?言ったな?掲示板は増田しか知らないから爆サイとはどんなものか全く知らないが,これで反応が無かったらお前のせいにするからな???
スキルは様々。
毒入り抹茶Lv.10、フェミ隠しLv.5、鼻くそ弾Lv.20、茶柱Lv.55、茶柱手裏剣Lv.15、応接スマイルLv.0(固定)、灰皿クリーナーLv.20、給湯座談会Lv.98、陰口Lv.70、観葉植物への水やりLv.30、ゴミ箱のビニール交換Lv.10、辞表の理(ことわり)Lv.60。
ちなみに鼻くそのスキルレベルが低いのは、自分自身相手のお茶に鼻くそを入れることに生理的嫌悪があるからだ。
高圧的な取引先に対して茶柱手裏剣を見舞って転倒させたこともある。
私はフェミだけどイケメンは別口だ。イケメンなら最悪服従してもいい。
そう思っているせいでフェミ隠しもそんなにレベルが上がらない。
しかしN上司の依頼は、バーコード頭のYにもお茶を入れてくれというものだった。
Yには鼻くそ爆弾を何発か見舞った程だ。スキルにはない鼻毛を入れて怒られたこともある。
他ならないNの依頼とあってはしかたないと思い、片方の茶には鼻くそを入れ、もう片方は茶柱を発動して事に臨んだ。
彼女は私が入れたお茶を自分が渡すと言ってぶんどってしまった。
ウェーブはその持ち前の鈍さを遺憾なく発揮して鼻くそ入りをNの前においてしまった。
茶柱が立って喜ぶY。
しまったと思ったが、もう遅い。
私はNの口元に茶が運ばれる前にスキル「観葉植物の水やり」「灰皿クリーナー」を合成してお茶の鼻くそを浄化した。
すかさず聞こえてくるNの声。
「うわなんだ、これ。水じゃないか」
ウェーブは赤っ恥をかき、Nはただの水を飲んだが事なきを得て、Yはホッコリ顔で仕事に励んでいる。
しかしただでは済まない。
ウェーブはブチ切れて給湯室で私に詰め寄ってきた。
何やら喚き散らすウェーブを尻目に「応接スマイル」を連発し、「ゴミ箱のビニール交換」スキルを使ってストッキングを半脱ぎ状態にしてみせた。
ウェーブは転倒して叫び声を上げ、その上に「鼻くそ弾」の直弾、「茶柱手裏剣」が追撃を加えた。
ウェーブは意識を失ったせいで私の弁解タイムはそれなりに確保された。
それ以来スキルは誰にも気づかれていない。
観葉植物の水やりが一瞬んで終わることも、お茶がなんとなくクリーンなことも、全く気づかれることがない。
ただ、私はLv.99だ。なにかかが強いわけではないが、お茶くみの世界では最強だと思う。
しかし、お茶くみの世界で最強、という称号になんの意味があるのかと問いかけられると心細くなる。
そうやってデパ地下で一人心細くなっていると、弁当を入荷している業者さんの荷物――おそらくオキニの牛とろ弁当――が今まさに崩れようとしているのが目に入った。
商品は高価だし、私はお得意様だし、業者さんがリカバーに入ろうとしているのがスローモーションで飛び込んできた。
私の目が光った。
「鼻くそ弾――!」
高速で射出された鼻糞が弁当の底面を滑らせ、高速回転する。
良かったですね、と私は「応接スマイル」を発動。
業者さんは、
「後でお礼したいのでせめて名前だけでも」
そう思うと気が気ではなかった。
大層奇特な面を持つOLとして私は帰宅し、9時台のドラマを見て就寝した。
Lv.99だが特に便利なところはない。睡眠が時短できるわけでもなければ、お給金が上がるわけでもない。
そして、レベル99であることにほぼ誰も気づかない。いや、デパ地下の業者さんも意味不明だろう。
そういえばLv.99ってなんだろうと寝る前に考えた。
予備校の講師をしている関係で、ブックオフにはよく出入りする。参考書が大量に必要になるけど、経費で買えないから、安くあげるしかない。問題集とか、とくに最新である必要がないのもあって、黄色チャートとか、古くても問題は同じだったりする。そういうのを買う。
買ってもすぐに使うとはかぎらなくて何年も眠らせていることもある。昨日もずいぶん前に買った数学Ⅲのチャートを開いて媒介変数のちょっとややこしい問題のわかりやすい解説がないかなあと調べてた。そのとき、モノクロの写真っぽいものが落ちた。ページのどこかに挟まってたようだ。
拾い上げてみると、それが胎児のエコー写真だということはすぐにわかった。うちの子が産まれる前にも、こういうのを病院で渡された。だから最初は、うちの子のエコーだと思ったぐらいだ。けど、考えてみたら、もう成人して家を離れた彼女がわざわざ親の所持品の中に古い写真を挟み込むわけはない。もちろん、私自身がわざわざそんな古いのを栞に使うわけはない。そもそもこの本は、買ってからずっと使ってなかったんだし。
ということは、前の持ち主だろう。自分が胎児だったときの写真を栞に使うとは奇特な生徒がいたんだなあと思った。さて写真をどうしたもんだろう。持ち主に返したくても、きれいな古本で、他になにも手がかりはない。名前が書いてあるようなこともないし、だいたいがほとんど使われた形跡がない。参考書類の古本は書き込みがされてることも多いのだけど、なにもない。筆跡さえわからない。
もちろん、胎児の写真から顔がわかるわけもない。そう思ってもういっぺん写真を見て、気がついた。撮影日が、10年ほど前なのだ。この本がどれくらい私の手元で寝ていたのか、さらにその前、どのくらいブックオフの書棚で店晒しになっていたのかわからない。けれど、本の発行日とかから考えたら、持ち主が使っていたのはやっぱり10年ぐらいより前だろう。ということは、この写真は、持ち主本人の写真ではない。
私は混乱した。わけがわからなかったけれど、とりあえず気持ちを落ち着かせるため、デリヘルを呼んだ。別にそういう話をするつもりはなかったのだけれど、やってきた嬢に言うともなく、一部始終を話してしまった。すると、嬢は突然、仕事の手をとめ、その写真を見せてくれないかと言う。見せてやると、しばらくじっと見たあと、写真に向かって手をあわせ、なにやら念仏のようなものを唱えはじめた。私は余計に分けがわからなくなった。が、しばらくその柔らかい声を聞いているうちに、どこか納得する気持ちがわき起こってきた。なるほど、回向写真か