はてなキーワード: 単純化とは
「プロマネと英語」とかいう量産型意識高いだけの人代表みたいなブログタイトルは変えたのか。
それにしても、とにかく「リーダーになる」ことが目的化してる人って何がしたいのかわからんなあ。
人を支配することで喜びを得るタイプなのかな?そういうタイプがいることは理解できる。
カリスマ性とか全く無い凡人っぽいし、だったらまずはチームの誰よりも実務能力で秀でることをしないとまともなリーダーになんかなれるわけねーと思うけど。
http://wiz7.hatenablog.com/entry/2014/11/15/000823
これとかやべーな。
お前は「担当部分」どころか何一つまともにできてないわけだけどそれについてどう思うの?って聞かれたらどう答えるつもりなんだろう。
「俯瞰」する「リーダー能力」があるからいいんだ!って答えるんだろうか。無いでしょ。リーダー能力。
俯瞰した気になってるけど間違った単純化をしてて全然違うもんを見てるだけ。
http://wiz7.hatenablog.com/entry/2014/04/10/125436
しまいにゃ小保方擁護とか言ってんのか。あまりにも頭が悪すぎる。
つうか全て釣りか。そうであって欲しい。俺はただ釣られただけなんだと思いたい。
数学がやや得意だった者だが、だいたい合ってる。
私のスペック:早慶。東大ほどではないが、何もしないでクラス1~5位ぐらいをたまにとったりする気まぐれ屋。
で、アドバイスしておくと、高校数学まではいくつかのパターンに反射しているだけで、ぶっちゃけ何も考えなくてよい。
下手に本格的な思考をする必要はないし、考え過ぎるのは場合によっては逆効果。
何故なら、本格的なことを考え過ぎると時間が足りなくなるから。
むしろ考えることを停止して最小限のパターンに順応するだけなんだよ。
これらも特定の場所のみに注目するもの(=抽象化するもの)で、いちいち全ては考えていない。
というかそんなことをしていたら時間がいくらあっても終わらない。
だから何処が急所なのかを考え、局面を単純化し、限定的な思考をする。
実際、羽生さんなどの将棋のプロ棋士は、目線を調べると、アマチュアに比べ、その目線がほとんど動かないらしい。
つまり頭のよい人は、全て読んでいるわけではなく、大事なところだけを深く見ているわけ。
なおかつ、何処が大事なのかを無意識に取捨選択している。そういうのに慣れているだけだと思う。
これも(サッカーなら)そろそろこのへんにボールが来るという抽象的なパターン認識をして、
体がそれに反応しているだけだと思う。
自転車に一度乗れるようになると、ずっと乗れるのに近い。
しかもスポーツの場合、コンマ何秒で決まる世界なんだから、深読みし過ぎると間に合わないという事情もある。
※ただし、いつまでもこの考え方で通用すると思っていると、大学院や社会で詰む可能性がある。
織田信長は「全国統一」をめざしたのか : アゴラ - ライブドアブログ
ここでいう「天下」とは何だろうか。われわれは無意識に「全国」という意味だと思ってしまうが、16世紀に日本という国家はほとんど意識されていなかった。
専門的な文献考証を省いて結果だけいうと、この「天下」は、京都を中心とする畿内のことと考えるのが妥当だ、というのが最近の歴史学の見解である。
いや、要するに「中原」でしょ。
畿内を制圧して天下人として認められれば、日本全国に影響を及ぼすことができた、ということだ。
中原の覇者を「豫州のローカルな君主」などとは言わないように、信長が「近畿地方のローカルな君主」をめざしていたとは言えない。
つまり中国が全域を統合する大統一国家だとすれば、ヨーロッパは主権国家を単位とする中統一国家の連合であり、日本は地域ごとの小統一国家の連合である。
借金の貸し手と借り手が同一の集団であるということ、より単純化して言うならば、自分自身からお金を借りるということは、よく考えてみればすごく奇妙なことではないだろうか。
簡単な思考実験をしてみたい。
ある男が、無人島に流れ着いたとする。そこで彼は、政府も国民もたった一人だけの、独立国家の設立を宣言するのである。無人島に流れ着いた時、たまたまこの男は大量のメモ用紙を持っていたとしよう。そこで彼の政府は、メモ用紙を使って1万円ぶんの「国債」を発行し(もちろん、複利の利子付きで)、それを自分自身へ貸し付け、その国債を裏付けとする1万円ぶんの紙幣を(自分自身に対して)発行するのである。さて、これでこの無人島には、都合2万円ぶんの新たな「価値」が生じたことになる。この時、国債(=紙幣)の発行前後で、無人島における彼の生活に何か変化が生じるだろうか?
もちろん、何の変化も生じない。
もしこの男が無人島で豊かな生活を送りたいと考えるのであれば、島に存在する動植物や鉱物といった資源を、彼自身の労働力を用いて、有用な食料や住居、燃料に変換する以外に無い。いくら紙幣を発行したとしても、豊かさの源泉である自然資源は増加しないし、自然資源を有用な財に変換するための労働力が向上することもない。貿易やら分業などを考慮しなければ、この男が日本人全体の集合であり、無人島が日本列島であると言えるだろう。
さて、この思考実験から、一般的な常識とは異なる以下の2点が主張できるのではないだろうか。
メモ用紙の紙幣の発行可能量は、いかなる物理的な制限をも受けることはない (ただし、筆記用具と紙の量は除いて)。発行した国債の償還期日が迫った時には、彼は利子の額をプラスした新たな国債を発行すれば良い。そもそもこの国債は彼が自分自身に発行しているものであるため、未来の自分が償還してくれることも確実なのだから、原理的にはこの過程はいくらでも継続しうる。
2. 国債が破綻することが無いという事実は、我々が豊かになれるかどうかには、ほとんど関係がない
たとえ、彼がどれほど大きな数字をメモ用紙に記入したとしても、紙の上の数字は、島の物理的な現実世界に対していかなる影響を与えることもない。彼の生活の豊かさは、根本的には無人島に基から存在した資源に由来しており、直接的には資源を財に変換するプロセスである労働の効率に依存している。資源の量と労働の効率が向上しない限り、交換媒体である紙幣量を増加させたとしても、彼の生活には何の関係もない。ゆえに、紙幣の発行量を小手先で操作することで、経済が成長を続け、我々が豊かな生活水準を維持できるかのように考えることは、誤りである。
ちなみに、批判があるかもしれないので予め答えておくと、この例では紙幣と財や労働力の「交換」という要素を意図的に省略している。けれども、たとえ無人島に複数の人間が流れ付き、全員がメモ用紙の紙幣を交換の媒体として使用することに合意したとしても、メモ用紙の紙幣の発行前後で、利用可能な島内部の財の総量が変化しないという事実に変わりはないはずだ。そもそも紙幣と交換される財が存在しなければ、交換の手段である紙幣は全くの無用の長物なのである。
野田元首相の発言がでてきたので、 知ってる人は知ってる話だが、思い出したことをいくつか書いておく。
尖閣国有化について、 中国人留学生の何人かと話したことがある。
彼らは中国政府の行動を基本的には支持していたが、その際にちょっと引っかかる部分がいくつかあった。
① 国際法上の領有と財産権としての所有の区別が充分に付いていない(情報として知っていてもまだ感覚で理解ができていない)
② 歴史的な関係性が、条約による合法性と同じ位重視されるのが当然と思っている。
③ 領有主張にも国際的に合意されたルールがある、という事を習っていない。
④ 本気で国有化を「挑発」だと信じていて、中国と石原の摩擦を避けるための配慮だったと知らない。
http://www.asahi.com/articles/TKY201310210580.html
⑤ ↑という視点が欠けていることに気がついていない。
あと南沙諸島問題と最近の日米の行動が関係しているって意識もあまり無い。
日本に来て日が浅いとはいえ、日本語は充分にできている社会科学系大学生でもこんな感じ。
留学生の審査が甘い中堅私大だから、宮廷クラスの留学生とはレベルが違うって言うのはあるだろうが。
こういう言い方はなんだけど、女性の就労が進まないのは、労働力として女性が男性に比べて「無能」だからだと思う。
「無能」って言葉悪い?単純化するために使ってるんで我慢して。
「無能」ってのはテストの成績がいいとか悪いとか、営業成績がどうだっていう話だけじゃなくて、全部ひっくるめてリスクの問題だからね。
ここんところを、女性のプライドを尊重してぼやかしているから本当の原因が曖昧になるんであって、女性が「有能」なら企業は女性を争って獲得しようとするから。
「女性の就労が困難なこと」と「女性が有能な労働者である」ことは両立しないんですよ。
男性の方が力が強い、体力があるということだって、女性はいまどき原始時代じゃないんだから力が強くたってと、軽視するけどさ、健康リスクとか、海外赴任が出来る出来ない(たとえば女性をナイジェリアに転勤させるってちょっと難しいでしょ?)、体調不良で休まれる頻度とか、残業の時、深夜に帰宅するリスクとかね、雇う側からしたら決して無視できないデメリットなんですよ。
それに妊娠リスク、子育てリスク、更年期リスクが発生するわけでしょ?
女性が労働者として「無能」なら、市場に任せるんなら、方策はひとつしかないわけ。女性の給与を引き下げることですよ。あと、企業の解雇権を絶対的に強化して、実質、どういう理由であれ解雇できるようにするとかね。そしたら、女性を雇うリスクは大幅に引き下げられるね。ま、でもそれは現実問題無理だね。
無能有能ってのは相対的だから、女性が男性と同程度には有能な労働者になれないなら、男性が女性と同程度に無能になるってのもひとつの手。たとえば妊娠リスクはともかくとしてさ、仕事か育児かの問題が女性の問題として捉えられてるってのはおかしいでしょ?大体の場合は、父親がいるわけじゃん。これが、子育て世帯と小梨世帯の対立になるなら分かるんだけど、男性と女性の問題になっているのは専業主婦になるのはおおむね女性だからでしょ?これは女性の専業主婦と言う形を許容しちゃっている政府の政策や世間の見方のせいもあるけど、一家を養う覚悟が女性にないのも原因だよね。
仕事の人間関係に疲れたら家庭に入りますなんて選択肢を持っている人と持っていない人、企業はどっちを雇いたいと思うのよ。考えりゃわかるでしょ。
「女を養う気がない男とは結婚したくない、だって女にはいろいろ大変なことがあるんですからねっ」
なんて言う言論を、そうだそうだなんて女性が言っていたらどうにもならないよ。少しはやせ我慢しようよ。
ま、でも仮に、ここらへんの世間の見方やら制度やら女性の意識やらが改善したとしても、女性の「有能さ」が男性に追いつくか、あるいは女性の「無能さ」にまで男性を雇用するリスクが増大するかって言ったらそこまではいかないでしょうね。だって生物としての設計思想が違うんだもの。
女性を男性と同じ条件で雇用することは無茶苦茶リスクがあるんだってことは、これはもう生物としての前提なんだからどうしようもないのね。いやそうじゃない、女性は有能だって言うならあなたが起業しなよ。起業して女性ばっかり雇用してみな。頭のレベルで言ったら男性よりもはるかに優秀な女性が男性よりも雇用しやすいんだから、「労働者として」女性が男性よりも有能なら成功間違いなしだよ。
女性が労働者として男性より無能なんだよ、ってことを無視しているか、分かっていても見て見ないふりをしているから、全然うまくいかないんだよ。日本よりはうまくいっているように見える欧米だって、やっぱり無理があるよねってことになってるから。国が背負うべき責任を企業に押し付けてるから逃げたもん勝ちになってるんだよ。
あなただって縁もゆかりもない障害児の面倒を見れと言われても困るでしょ。国が面倒みろよって思うでしょ。企業だって同じよ。ただかねもうけのために集まっているだけの私人なんだもの、企業なんてものは。
妊娠しました、育休とりました、また妊娠しました、また育休とりました、妊娠しました、なんてのを繰り返されてみ。5年も6年も席を空けておいてまあ、減額されてるけど給料払えって言われてみ。
女性はひとりでも少なくしたい、なるべく雇いたくないって企業が思うのは当然じゃないか。
この辺は国と企業のババ抜きだわな。どっちも負担を負いたくないわけ。
ま、だから「妊娠しました」のところはしょうがなくても、「育休取りました」のところはせめて男女が半々にならんといかんですね。男女と言うか、パパとママがね。体調悪かろうが、「ママ、おしごといかないでー」って子供に泣きつかれようが、乳がはってようが、一家の大黒柱になる覚悟をやっぱり女性も持ってもらわないとどうにもならんよね。金持ちのマダムがさ、自宅で趣味で英国風午後の紅茶の手ほどき教室なんてやってるのが女性のロールモデルになってるようじゃ、だめだよ。夫のカネでぬくぬく暮らして、あんたペットみたいなもんだねーと社会全体がそういうマダムをさげすむようにならんと、そこまで意識改革しないとどうにもならんですよ。
あと、やっぱり負担は国が主体になって負わないと。女性を雇用するリスクの部分は国が負いましょうってならないと、企業がよろこんで女性を雇用するはずがないじゃん。
たとえば血液型占いへのよくある批判で「性格をたった四つに分類してる」ってあるけど「内向的・外向的」なんて言葉はたった2種類にしか分類してないけど単純化しすぎてるなんて文句言う人はいないし、エゴグラムなんて何百にも人間の性格を分類してるけど、そんなに細かくわけて意味があるのか、そもそも正確なのかって思っちゃうしね。
ネットでオカルト批判が盛り上がってるときに批判してる側を見てると、まともな批判にまじって、ステレオタイプでしかも「それ理屈が通ってないだろ」みたいな低レベルな人でも、ドヤ顔で批判に参加していてモヤモヤっとした感じになる。
そういう人にツッコミ入れても、自分の理屈のおかしい所に気付くことはないしエキサイトしてこちらにオカルトを擁護してるみたいなレッテルを貼って煽ってくるだけで、話が通じることがないからもういちいち指摘しないでスルーするだけだけど。
http://b.hatena.ne.jp/entry/210522733/comment/kaitoster
バッカじゃないの?
不確実性へのヘッジと、定量化出来るリスクへのヘッジを両方同時に行うだろ。
金融商品の選別、株、先物、為替等々に「ヘッジする」レイヤーと
それらのリスクには定量化できないものが含まれている、という前提に基づいた
テイクリスクの総量へのヘッジのレイヤーの二層でやるのが常識だろ。
「定量化されて評価されたリスク」と「定量化できない不可視のリスク」は
それぞれの立ち居地や資産額に応じたやり方で、同時に両方をケアしないと話にならないわけで。
どっちも見て投資するし、その前提に立つ以上
それとも、あんたは「全てのリスクは定量化出来る」って前提で投資行動を行うの?
それは緩慢な自殺だと思うけど。
リスクの定量化への努力は当然最大限でやるけど、それと同時に定量化の限界も認識して
その両方の感覚をバランスさせて投資に挑まないと死んじゃいますよ。
昨日は忙しくて増田を書く時間がとれませんでした。すみません。
丁寧に読もうとしてくださって嬉しいです。
本来なら一つ一つお答えしていきたいのですが、説明のために単純化したり敢えて不正確な表現をしたりした点を捉えて批判のタネとされても嫌なので(無論あなたに、ではなく一部ブックマーカー等に、ということです)、核心的な部分についてコメントするにとどめさせてください。
feitaさんが悪いとかそういうことではまったくないと思っていて、彼に対して、何かを求めたり、あまつさえ押し付けたりしたことなんて無かった、ということですよね。
「私がfeitaさんに対してとった行動とは何か」。
「feitaさんのはてブが非公開になった後に」「feitaさんが悪いわけではまったくないことを強調しつつ」「自らの所感を述べた」
これだけです。
feitaさんに非がないことを強調した点ももちろん重要ですが、はてブが非公開になった後に、という点も留意していただけると嬉しいですね。
つまり、feitaさんのはてブ非公開化に対し、私は直接的にも間接的にも、一切の影響を与えていないということです。
本来ならば「私はなぜすがすがしい気持ちになったことに驚いたのか」「私がfeitaさんのファンであったことがあるのか」といったポイントの方が分かりにくく説明が必要だろうとは思うのですが、冒頭に述べた趣旨から省略します。申し訳ないです。
さて、いわゆる粘着増田についてどう思うか、とのご質問ですが、私はいわゆる粘着増田についてきちんと追っているわけではないので、彼に対する評価はできません。
ただし、一般論として、罵詈雑言を用いずとも批判したり意見を伝えることはできる、ということは言えると思います。
たとえば、「弁えるということ」(http://anond.hatelabo.jp/20140721234430)を読んでいただくと分かると思いますが、この文章では誹謗中傷の類と見うるような表現は一切用いていません。
私がその種の表現を排除するのにどれだけ注意を払っているかということは、私に対する罵詈雑言や品位を欠く表現の立ち並ぶブコメ群と対比すれば、一層明確になろうかと思います。
そして、その種の表現を用いずとも、人の心を波立たせることができる、ということは、当該記事についたブックマークの数が物語っているのではないでしょうか。
敵対する勢力の良いところは1つも取り上げずにひたすらケチをつけまくる人だらけ
1つの立場に自分を当てはめることで、本当は複雑で難しい利害関係を考える手間を省いているってことなんだろう
そうやって自分の立場から意見を述べる勢力を右翼と左翼と呼ぶとして、最近はもう1つ勢力が存在する
それが「ファクト勢」である
この勢力の人間が物事を判断する基準は、政治的立ち位置ではなく、事実か否かである
すなわち、右翼、左翼の人間が相手を批判する際に持ち出してきた出来事、ニュースが事実に基いているか?ということにしか興味がない
自分の意見を持っていたとしても、極端に偏っていることは稀である
極端な意見を持つ人間が複雑な現実を単純化することで物事を考えなくなるのに対し、
彼らは複雑な現実を複雑なものとして見てはいるものの、それ以上のことを考えるのは面倒で、結局物事を考えないタイプである
事実こそ正義であるから、デマや嘘を広めた人間に対しては際限なく批判して良いと考えている
敵に回すと厄介だが、味方にしても価値はない
こういった勢力が表に出てきたのは東日本大震災の頃からのように思える
震災や原発についてのデマや噂が飛び交う中、それを訂正するためのアカウントすらも幾つか生まれる中で、、
情報リテラシーが高く、広める前に裏を取ることのできる人間の一部が「ファクト勢」になっていくのを目の当たりにした
彼らにとっては右翼、左翼の両方が攻撃の対象であり、下手に考えが偏っていない分だけ攻撃性が高いとも言える
もし「ファクト勢」の方がこれを読んだなら、1つ思い返してみてほしいことがある
正しいことである
しかし確実に正しいと言える範囲で考えることをやめてしまってはいないだろうか
複雑な物事を読み解き考えた結果、間違えた意見を出してしまうことを恐れてはいないだろうか
それを恐れないことだ
全て野球に例えると、こうなる。
カウント0-0
松木「三振を取って欲しいですね!」
松木「三振を取って欲しいですね!」
松木「三振を取って欲しいですね!」
松木「三振を取って欲しいですね!」
真ん中低めのストライクからボールになるフォークを空振りで2-2
松木「三振を取って欲しいですね!」
真ん中低めのストライクからボールになるフォークを見逃し、3-2
松木「三振を取って欲しいですね!」
松木「三振が良かったんですけどね!いいですね!結果的にはいいですね!」
バンドシフトを敷くも、バッターが巧みにバスターを決めて一塁手を抜きチャンス拡大
松木「ボール捕れ!どうして捕れないんだよぉ!!!捕れるだろぉ!!!くぅー!今のは捕って欲しかったですね!!!」
1番 センター .271 16本 51点
松木「ホームランを狙って欲しいですねぇ!」
2番 セカンド .290 3本 30点
松木「ホームラン狙って欲しいですねぇ!」
松木「どうしてホームラン狙わないんですかねぇ!バントじゃなくて勝負して欲しかったなぁ!勝負だよ勝負ぅ!」
3番 レフト .327 55本 131点
松木「ホームラン狙って欲しいですねぇ!」
サッカーにも、「ビルドアップ」「緩急」「利き足」「オフザボール」「選手ごとの特徴」という概念は存在する。
日本代表のサッカー中継は上記の点を意図的に消して、出来る限りサッカーというスポーツを単純化し、選手がその場その場で何をやっているかは一切解説しない。
上記「三振を取って欲しいですね!」は、その場で言っても言わなくても全く意味がない言葉だ。単なるセオリーだ。
具体的に三振を取る為にはピッチャーとキャッチャーの配球の組み立てはもちろん、相手のバッターのデータを入れ、1球1球変化していく状況で何をすべきかを考える必要がある。
「シュートで終わって欲しいですね!」も単なるセオリーである。発言する必要は一切ない。
また野球においては、1点を取る為のセオリーとしては「先頭バッターが出て、バントで送り、タイムリーを打つ」という逆算を観客のほとんどができる。
ところがサッカーにおいて、実況や解説がシュート1本を撃つために、DFやGKがボールを持っているところから逆算した解説をしたことはあっただろうか?
バントシフトを敷いて来たところにバスターをかけて強襲すれば、一塁手は捕れないだろう。一塁手がボールを持っていない段階からシフトを敷いて逆を突かれたのだから。
サッカーでボールを持っていない選手の動きを解説したことはどれだけあったか?
野球から「配球の組み立て」「緩急」「利き手」「守備シフト」「選手ごとの特徴」を消すと、以下の様な論争が起こることが予想される。
「日本は野球なんて向いてないんだよ!!!とっとと帰ってこいや恥さらし!」
「選手はよく頑張った!!!日本のために頑張ったよ!胸を張って帰ってこい!」
「やっぱり時代のトレンドはストレートなんだよ!!!155km/h投げられないピッチャーなんていらねーんだよ!!!変化球とか投げてるから日本は弱いんだよ!!!」
「ホームランさえ打てりゃ点取れるのになんでホームラン狙わないんだよ???またバントバントバント。国民性だね!日本人はもっとホームランばっかり打つ練習すべき!!!」
「野球って、なんだかよく分からないけど、道頓堀に全裸で飛び込んでる人たちが観てるようなスポーツでしょ?怖いよね。近づきたくない」
今、ネット上で散見されるサッカー談義のほとんどが、こんなもんである。
これが日本のサッカーのためになっているか、私は知らない。好みの問題である。
が、胸に手を当てて、本当にこの中継を続けることが日本のためになるのか、今一度考えて欲しい。
シナリオはムービーで進めちゃって、実質プレイヤーの仕事は敵を倒すだけだったりとか
仕掛けでも、もともと昔は、ここに洞窟見つけた、何だろう、その洞窟を探索してるうちに別の出口に着いた、ここに通じてるのか?
見たいなのだったけど
今のゲームで出て来る仕掛けは小手先と言うか、明確に仕掛けの部分と道と分かれてて、道なりに進んでると、突然仕掛けが出て来る
道を進んでると行き止まりについてそこに木箱が詰まれてて、この木の箱を積んでバランスを整えると道が開いて進めるとか
ひどいのになると道を進んでると例によって行き止まりに当たる、そこに数独見たいなのが設置されててそれをといたら次に進む道が出て来るとか
もともとの仕掛けとかは、ここに穴が付いてる、この穴はどこに通じてるのかな?見たいなのとか
広いフィールドを隅々まで調べると隠された入り口が見つかるとか
それか、狭い密室を隅々まで調べると、いすの裏とかベッドの裏とかに鍵とかが出てきてとか
向こう岸に色の違う花が咲いてる、とりたいな~どうしよう、こうすれば向こうにいけるんだ、とか
自分のとりたいものや探し物を探すのに苦労する分には面白いけど、突然行き止まりに着いてそこには数独とかといたら次に進めるといってもただ無駄な苦労にしか見えない
進んでると突然行き止まりについて、そこに落ちてる木箱を積み上げて橋を作るとか、そんなの一目見れば完成図(木箱で橋を作る)分かる
それなのに、態々苦労して問題を解かなきゃいけないと言う
でも、向こう岸に見える洞窟に入る為に色々探索して足を棒にして歩き回るのは楽しい
開かない扉の鍵を探して部屋中を物色するのも楽しい
借り物競走とかが廃れないのは何故だと思う?
鍵はどこかな?と探す過程
何をやっても殺される、どうしたら殺されないかその過程
向こうに見えるお花、そこにたどり着きたい、どうしたら良いのかを探すその過程
今のゲームのただ道なりに進むのも自分の意思じゃないし、行き止まり地点での仕掛けを何とかするのも自分の意思じゃないから
それを進化していない、見慣れてきたんだ、と思うなら、現代の人は何も分かってないと思う
隠された色々な物(道とかルートとか、鍵とか、階段とか、隠されたストーリーとか)を全体を使って見つける
作ってる人とやる人のだまし合いを楽しむ
何でこんな簡単な事を現代人は出来ないのだろうか?
今普通にごっこ遊びとして行ってる物だけど
ゲームとして作るととたんにそれを出来ない
まるで才能が無いような感じ
また明日
「ガンダムUC」の最終話ついてちょっと書きたい(ネタバレあり)。
最初に立場を明らかにしておくと、増田は、典型的な富野信者であって、ガンダムプロレスにはあんまり興味がもてない人間だ。バイアラン・カスタムとかシュツルム・ガルスのトコとか、こんな意味ねーシーン全部削って、会話に尺まわせよと怒っていた。そーいう面倒くさいやつが書いたもんだという前提で読んで欲しい。それと後半は電波。富野信者なので。
で、この「ガンダムUC」、MSチャンバラについては絶賛されているが、ストーリーの方は賛否両論がある。だが私は批判することに意味があるのかと当惑している。こーいうのは、主張者が主張した内容をマジに信じている、という前提がなければ、なりたたない。私は、そこが信じられないのだ。
「UC」最終話を劇場で見て愕然とした。「送り手はこの物語のメッセージをまるっきり信じていないのではないか」と衝撃を受けた。この作品に対して、茶番だの陳腐だの説得力がないだのただの二次創作だなどと言うのはいいが、それを一番、自覚しているのは送り手自身なのではないか、という疑念をぬぐえずに今に至っている。
どういうことか。
「ガンダムUC」というのは「ラプラスの箱」という秘密を廻る物語だ。
これはほとんどマクガフィンに近く、中身は実はどうでもいい。とにかくこいつが連邦の中枢により隠蔽されたことで、宇宙世紀の歴史(とニュータイプ思想)は歪み、1stガンダムから「逆襲のシャア」まで続く戦乱の歴史が巻き起こることとなった。しかし歪んでいようが何であろうが、百年続けば、それは秩序の一部となってしまっている。
既存の秩序の維持するため、「箱」を隠蔽するか? 混乱を呼ぶとしても、「箱」を公開するか?
少年たちは後者を選ぶ。たとえ波乱の未来を到来させるとしても、「不正義による秩序」より、勇気を持って「正義による未来」を選ぶ。物語が描くべき正しい選択、正しい若者のあり方だと思う。
かくして宇宙世紀は箱の呪縛から解放される。人の革新=ニュータイプ思想のもと連邦とジオンの戦いが形を変えて繰り返される不毛な連鎖から解き放たれる。これはもちろん、終わることを許されず、次々と続編を創ることを余儀なくされたガンダム産業の比喩でもあり、だからこそガノタの胸に響く。
もちろん、我々ガノタは、その選択の先に待つ「F91」や「V」の時代が、必ずしも希望に満ちた未来でないことを知っている。だが、そうだとしても、「これまでと同じことをひたすら繰り返すだけ」より「失敗覚悟で新しい世界を創る」ことを選択した若者たちの決断は、とても尊いものとして描かれる。
それを見届けて、シャアもアムロもようやく成仏する。一年戦争の呪いから宇宙世紀が解き放たれた瞬間である。
富野信者が、勝手なことしやがってと怒るのはわかるが、しかし、ともかく、それがこの映像が発したメッセージなのだ。
だが、恐ろしいことに、劇場で上映されたこの作品は、実に4年間、7巻かけて書いた結末を、直後にみずから全否定するのだ。スタッフロールが終わり、何が始まるか。
突然に、1stガンダムのリメイク、「機動戦士ガンダムORIGN I」の予告が始まるのである。
http://www.gundam-the-origin.net/
「一年戦争の時代」からの解放をテーマにした物語のラストで、唐突に「一年戦争」がリメイクされますよーと嬉々として宣言されるのである。よーやく成仏できたシャアは30分待たずに現世に呼び戻される。この予告編は意図的に、映画「機動戦士ガンダムⅠ」の予告に似せて作ってある分、余計ループ感は強い。
唖然とした。個人的には「UC」7話はそこまで引き込まれるものではなく(イデオンネタは超大喜びしたけど)、「及第点」ぐらいの印象だったが、それでも感動を返せ、という気になった。本篇終了後即座に全否定される映画なんて聞いたことがない。一体、原作者や監督やスタッフは、どうしてこんな暴挙を認めたのか。本当にそれでいいのか。このあたりの意思決定の構図はよくわからないから、とりあえず「送り手」と一緒くたにする。ともかくこの送り手が、自分で発した「箱の解放」とか「一年戦争の呪縛の終結」とか「歪んで腐敗した旧体制から混乱覚悟で新しい時代へ」なんてメッセージをまるで信じていないし尊重する気もないことだけはあまりに明らかだ。
新しい時代なんて創るつもりはないよ。
え? じゃあ「UC」はなんだったのって? ほらわかるでしょ、本音と建て前ってやつですよ、おたくもニュータイプだったら察してくださいよ、ねぇ。ほら、キュピーン! って。
これはそういう宣言だ。
ハルトーシ少年は継承した「富野の箱」を手みやげにサンライズ財団の重鎮となり、バンダイム・エレクトロニクスのガンプラを売る人になりました……それが4年かけた「ガンダムUC」の結果です、と言っているのだ。おかしいですよ晴敏さん! そんなの富野信者の晴敏さんの言うことじゃないですよ!
そんなわけで「UC」の内容についてまともに批判することの意味を私は見失った。だって送り手が、自分の語った物語を信じてない、それどころか一番ひどい形で全否定を行ってしまっているのだ。今更何を言っても単なる死体蹴り、いや、それどころか、そのような批判こそ、送り手はむしろ望んでいるのだとさえ思えてくる。
つまりこういうことだ。
メチャクチャ単純化すれば「UC」での賛否両論というのは、ガンプラオタクと富野信者の対決である。前者はとりあえずMSVが一杯出てくれば喜ぶし、後者は富野神の書いた聖典に他の誰かが一筆書き入れることなど許さぬと批判する。ガンプラオタク濃度が濃いヤツは「UC」肯定するし、富野信者濃度が濃ければ「UC」否定という話だ(繰り返すが、メチャクチャに単純化すれば、である)。
だが、両者は本当に対立しているのか? 前者の主張は「ニュータイプ思想とかどうでもいいから新しいMSV一杯出せ」であり、後者の主張は「下銭な二次創作者如きが富野神のニュータイプ思想(宇宙世紀史でもいいが)に手を触れることなど一切まかり成らん」である。
この両者は必然的に「永遠に一年戦争の外伝だのリメイクだのを作り続ける」という結論に帰結するしかない。前者は積極的に、後者は消極的にそれを肯定する。そして送り手もまた、それこそを望んでいるのはすでに見たとおりだ。
そうしてガンプラオタクは送り手の造ったMSVのプラモを買い続る。富野信者は彼らを嘲笑うことで「自分こそ富野神の思想を守り続ける孤高のニュータイプ」という立場を確保できる。
しかし、私は富野信者として、そこに安穏とすることはできぬ。そんなことをすれば脳内カミーユ・ビダンが「あなたはいつも傍観者で、人を弄ぶだけの人ではないですか!」とスイカバー突撃をかけてくるからである。散っていたお禿様の髪に顔向けできぬからである。富野信者であるということは、富野を聖典とすることではなく、富野のように生きることだと信じているからである(だから、今度の「Gレコ」だけが本当のガンダムなんですよ、という立場にも私は立つことができぬ)。
(大人しくガンダムを卒業すればよいのはわかっている。それができれば苦労はしないのだ!)
ガンダムはロボットアニメでありサブカルチャーである。ガンダムはビジネスとの兼ね合いの中でしか生まれこないし、それこそがガンダムの強さ、ガンダムの同時代性の源であることは、絶対に否定できない(ガンプラ売りに徹した「ガンダム」は嫌だが、押井守映画のような文学モドキの「ガンダム」なぞもっともっと嫌だ)。
だからハルトーシ少年だって、私が↑で書いたことは百も承知かもしれない。きっと彼は叫ぶだろう。
「やりました、やったんですよ、必死に! その結果がこれなんですよ! 映画の「ローレライ」(と「戦国自衛隊」と「亡国のイージス」)がコケて、右傾エンタメ作家の席は百田尚樹に奪われて、今はこうして富野の二次創作を書いてる! これ以上、何をどうしろって言うんです! 何と戦えって言うんですか!」(註1)
私は、彼に答えるべき言葉を持たない。こんな時は、富野神に還るしかない。神は言っている。
"Century color Million color" ――せいきの色はまんこの色であると。
違う。
ターンAターン、だと。∀だと。全肯定であると。
送り手が自分のメッセージを一切信じていないなら、それを批判して何の意味があるだろう。逆だ。有効なのは、相手が信じていないメッセージを、こっちが文字通りに全肯定してやることだ。つまり∀UCだ。
バナージが何も考えずに箱を開けた、その蛮勇を評価するように、富野のニュータイプ思想を継ぎ、「逆シャア」の先を書こうとした覚悟は評価する。
駄作も愚作も一杯出来るのを承知で、宇宙世紀のその先が語られるのを心から望む。
できるかぎり応援する。
それしか、ガンダムに対し、緊張感を持って向きあう=富野的である方法は、ないような気がするのである。
むろん、それは、終わりのないディフェンスである。
ガンプラオタクからはそっぽを向かれ、富野信者の罵倒に耐えねばならぬ。
しかし、それでも、えんえん一年戦争をリメイクし外伝を造り続けるよりマシだと信じる。
その向こう側に何もなくても――いや、しかも脳波コントロールできてしかも手足を使わずにコントロールできるマシンにセシリーが触手レイプされ、バイク戦艦が街々を踏みつぶし、カテジナさんがオデロもシュラク隊も鏖にして、月光蝶でみんな灰になったあと、全人類が無限力に溶け合って何もかもが因果地平の彼方にスペースラナウェイする哀しみが待っていたとしても――、かまわないのである。
STAND UP TO THE VICTORY!
註1:いや、もちろん田母神俊雄と戦ってくれればよい。ついでに百田も撃てばよい。実は「ガンダムUC」の小説版には、田母神論文事件を露骨に批判した箇所が存在する。詳しくはこちら → http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-388.html。小説版が出た頃には、ただの右のヤバイ人だった彼が、若者の支持を受ける保守系政治家候補となってしまった現在こそ、福井の田母神批判はアクチュアリティを増している。
警察発表、国の発表をそのまま垂れ流すようなマスコミじゃいけないっていうのは、そりゃそうなんだけど。だからって、何でもかんでも疑問を挟んで、反対スタンスで報道すりゃいいってこたぁ無いんじゃないの?
物事を単純化しすぎなんだよ。「権力者は悪で、それに対抗する市民運動は正義で美しい」「科学は人を蝕む存在で悪い、自然はとにかく良いものである」「大量生産は人間性の放棄で、手作りは温みがあって素晴らしい」みたいなドグマに則った報道が多すぎ。だから、中核派のフロント団体NAZENの推薦人にインタビュー取って放送したりしちゃうんだろうに。
『美味しんぼ』という漫画の内容に、批判を越えた糾弾と言えるような声を上げる方が多いようです。一部は研究者や医療関係者のようですが、彼らの『科学的』にあり得ないという論を元に一般の方や政治家も糾弾しているようです。
根拠の無いデマを広げる無知蒙昧な人間を、正義感をもって成敗しようとしているように見えます。そこで自明のように語られる科学的知見とは何でしょうか。
管理された実験室での放射線と、無秩序に飛散した複数の放射性物質の影響を同列に扱えるはずもありません。従来の原発事故や大昔の原爆の調査の知見は、規模や内容が違いすぎて十分とは言えないのです。
ある方は粘膜への影響が『噴飯もの』と表現されていました。ごく微細な放射性物質の粘膜への付着による影響などどれほど研究されていたのでしょうか?ましてや人体への影響などそもそも実験が不可能です。また『放射線は量の問題です』と単純化することで、実際には距離と時間と種類によって変わる事が見えにくくなります。
以前一部の方々はプルトニウムの飛散などは物理的に絶対にあり得ないと一笑に付されていましたね。しかし現実には飛散していました。机上の想定を越える事実が本当に多いのです。
そもそも微細な放射性物質の飛散の影響は十分な知見が得られていない上に影響が小さいですので、個人差が大きい事が予想されるのです。タバコを吸っても長寿な人がいるのと同様です。生死や遺伝など重大な影響の可能性は極めて低いでしょう。しかしそれだけに軽視されがちなのです。
私は漫画の内容の正否をここで述べたい訳ではありません。問題なのは噴飯ものと一笑に付し、問題提起する者を糾弾する事が『科学的な姿勢』であるかのように振る舞う事です。
そのような事例は過去の公害事件を例に出すまでもなく何度も繰り返してきました。目の前に症例がありながら偶然・精神的問題・虚言などとし調査を怠りました。このような問題提起を口にする事すら糾弾されるのであれば、一体誰が調査研究できるのでしょうか?
私たちは微細な放射性物質による健康への影響について一刀両断できるほどの知見を得ていないのです。人体はあまりに複雑です。致死率やガン発生率以外の、一見して分かりにくい健康上の問題は動物実験では発見が難しいのです。まして人体での実験は不可能です。
それを簡単にアウトだセーフだの言えるはずがありません。根拠など簡単に分からないのです。それを探求する事が科学的姿勢なのですから。本件を健全な批判ではなく、ことさら糾弾するのは科学的姿勢とはいえません。それは科学的な姿勢とは正反対の、ある種のイデオロギーに縛られた姿勢だと思います。
※私は関係者でも何者でもありませんが、現在の状況を考えると実名では生活に支障をきたす可能性があり匿名での投稿としました。
今朝、バスの運転手が混雑した車内に「妊娠している方以外の若い方はお年寄りに席を譲ってください」と放送し、あまつさえ〈年配ではない〉特定の乗客を指して「席を立って譲ってください」と呼び掛けていたが、これはマナー・気遣いの啓発を超えた、行き過ぎな指図だと思った。
座席は満席、揺れて不安定な足元、圧迫感のある車内で、年配の方に配慮して席を譲るのは「よい行い」で「必要なこと」であることは否定しないが、〈年配ではない〉乗客が、立っていられない事情を抱えて路線を利用している可能性を、運行主に否定してほしくない。
「お年寄り(に見える人)に席を譲る」のは、あくまで〈年配の〉乗客が〈年配ではない〉乗客にくらべて、体力や体調などに不安要素を抱えていて立つのが大変である可能性が高いからであり、またその可能性を想定しやすい(外見的特徴として分かりやすい)からだと私は考えている。
けれど、例えば車内で急激な腹痛に襲われていたり、低血圧だったり、パニック障害などの精神的な不安要素を抱えていたりで、〈外見的には何の問題も無いように見える〉が、立つのもやっと、或いは、立っていられない状況の乗客は、年配であるか否かという基準に関係なく存在する。というか、今日、自分が突然そのような状況になるかもわからない。
(実際に、車内放送で呼び掛けられた〈年配ではない〉特定の乗客が、「昨日、大きな手術を受けたばかりだ。タクシーを呼べないから(バスに)乗っている」「何度も言われて座っているのには理由があるのだ」と返答していた。)
この路線に乗って長いが、今日のようなアナウンスを聞いたのは初めてだったので、それが運行会社の新たな方針なのか、その運転手個人の主義に基づく主張なのか不明だが、釈然としなかった。
立って乗車する余裕のある人が立つべきだとは思う。けれどそれは、あくまで立つ余裕のない人に対しての、個人から個人への配慮ではないのか。
「高齢者⇒席を譲る」「妊婦⇒席を譲る」という図式的な徳目は、根拠から行為のプロセスを単純化することで、その配慮行動(席を譲る)を誰もが深く思い悩まず実践できることに、寄与している。
しかし、思考を硬直化させ、想定以外の可能性を考慮しなくなることで、その配慮の本質は形骸化してしまう。形骸化した配慮行動を上から押し付けることで、見えにくい困難を抱える人を排除しないでほしい。
お色直しはやった方がいいと思う。
このAとBは、両方ともモノは残らない。ということは、20万円をかけて得られるのは単純化して体験・思い出といえる。
女性の価値観 結婚式は小さいときからのあこがれ。人生一回こっきりの大勝負。
女性の価値 B それ以外は比較不可能(c.f.一生に一度の晴れ舞台にケチ臭いことを言う男、にされてしまった。)
→数ある海外旅行一回我慢すればお色直しできたのに!!!一回しかない結婚式が台無しになった!
10年後の効用を考えると、お色直しを実施した方がマイナスのリスクが少なそう。
http://anond.hatelabo.jp/20140508022218
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E5%BC%95%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E4%BE%A1%E5%80%A4