はてなキーワード: どんでん返しとは
気づいたら全部スキップするようになってた。
飛ばせないタイプのムービーが来たらトイレ行ったり家事したり遠くを見て目を休めてる。
QTEが入るゲームだったら画面ウッスラ見ながらスマホ弄ってる。
移動や戦闘中にキャラが喋るタイプのゲームだったら話は大体わかる。
クエストの説明文だけは読むようにしてるので大まかな流れは知ってるけどオチでどんでん返しがあってそれがムービーパートだと完全に理解せずに終わる。
同じゲームの話をしてても「あのキャラのあのイベントいいよね」って言われても俺は飛ばしてるから知らない。
なんだろう。
「ルックバック」はどんでん返しに次ぐどんでん返しで、「衝撃の展開!絶対見逃せないこの夏イチオシの作品!」と呼ぶにふさわしく、ストーリー的なギミックがよく工夫されている。
コマの細部にヒントを忍ばせてみたり、わかりやすいくらい工夫に満ちて技巧的だ。
対して作中の犯人像は、なんの工夫もない。
100人中100人が描けるような安易な犯罪者を、安易に描いていた。
序盤で描かれる小学校時代の教師たちは、安易なステレオタイプでありながら、適度に工夫されて主人公の感情に馴染むように(あるいは馴染まないように)描写されている。
しかし物語の「裏の核」となる犯人には、その程度の工夫すらない。
あれは18禁同人でいう「竿役おじさん」のステレオタイプ並の解像度である。
そして主人公も、大切な親友を殺した犯人に対して湧くはずの怒りや憎しみを見せない。
犯人に対しては妄想の中でお行儀よく空手キックをする程度である。
なぜならもし主人公が犯人に怒り、感情を剥き出し始めたら、作者にとって「都合が悪い」からだ。
せっかくテクニック満載の誰もが驚く「うまい」話を考えたのに、キャラクターの感情を優先してしまってはテンポの悪い泥臭い話にしかならないからだ。
「ギミック満載の、作者が褒められるタイプのお話」にするためには、
決められた筋書きからはみ出さない物分かりのいい主人公と、適当な犯人描写でなくてはならなかった。
みんないかに作者を褒めるかを考えている。
こうして、主人公が当然持って然るべき感情は、作者の都合のために消された。
作者を天才と呼ぶ声が増えるほど、作品の空虚さ、軽んじられたキャラクターが浮き彫りになる。
正直、モチーフとなる事件が想像されるのだから、事件をあのようにしか扱えないで果たして「うまい」のか?
それはニュースサイト的な「バズりのうまさ」ではないのか?と疑問なのだが。
自分は、「ルックバック」を読んで「マイ・ブロークン・マリコ」という作品を思い出した。
同じく友人を失った女性の話だが、登場人物の心の痛みや迷いや悩みから逃げない作品だった。
それらといちいち向き合い工夫を凝らして描き、彼女を「殺した」犯人も嫌になるほど誠実に描いていた。
作者名なんかよりも「マリコ」、マリコを想い後悔に苦しむシイノのことが頭から離れない漫画だった。
理不尽に友人を奪われたシイノはすぐ泣いて鼻水を垂らし、無様に地面を転がっては起き上がってまた転んでいたが、
「ルックバック」の主人公は涙も見せず、絵的な収まりの良さをキープしつつ、バランスボールの上に座り続けるのだった。
比べるのも馬鹿らしいが、雲泥の差だと思った。
飴と無知
映画のワンシーンのような写真、絵のような写真、写真のような映画のワンシーン、写真のような絵、映画のワンシーンのような写真のような絵、写真のような絵のような写真、絵のような写真のような絵
米ソよりお世話になっております
失敗の非嫡出子
流石にスタン
コラソンアキノ/リンゴスター/マリアカラス/アーネストサトウ/ナオミキャンベル/ベアテ・シロタ
キレる仏図澄「このブドチンガ」
テジロ猿/ヤジロベイ
湯担保
ニューカレドニアはク活用形容詞の補助活用の已然形ニューク+逆説のド+連語のニヤ
豚を陸フグと呼ぶ人
サーターセンダーギー
想起ソバ
ワイヤレスイヤホンを洗っても壊さないことを売りにしている洗濯機
アンタレス↔︎ワタシモア
見ざる言わざるdismissal
禿げたフッサール
豪遊型リゾート
看取るネーム
鷹の爪の垢
四角い頭を丸くする→頭を丸める
忙しくない/忙しない
りんご/フラミンゴ/日本語/喃語/マンゴー/単語/援護/縁語
セヴラック/セノビック
絶賛デッサン中
大きいエスカルゴ→Lカルゴ
銃は社会の癌だ、ガンだけに
よりどり緑
エーゲ海↔︎悪い天上
能し力(抑止力)
隠された鷹の爪
don’t こい
likely きらいがある
singing 呻吟
break order 無礼講
スケルトン 透ける
へしくらまんじゅう
崇めムノン
ベートーベンの答弁
Unboxing Day
めちゃくちゃ覚えておいて欲しい人「記憶の中心にでも置いて頂ければ」
焼き討ちを見た人「ひでーじゃん延暦寺」
めくるめくの久留米
選りすぐりのリス
上手くいった人「計画が表目に出た」
蛸の価値は如何ほどに?
敷衍できない人、プエン
いたわる/板割る
めんどくさくなったキリスト教徒「あーめんどくさい」
揺れ過ぎてシンドバットになった
しちめんどくさいから。
同時進行する川→長良川
千客万来→万客千倍
匈奴人「オルドスにおるどす」
呵呵大笑と笑うとと(父)
仏陀をぶった斬る
ディーテイル/ディティール
前半で感動させ涙で目をにじませることを想定して、後半は適当に作画しているアニメ
電子卓上計算機は「計算機」の部分が大事なのに電卓と略されている
追い詰められるトランプ→弾劾絶壁
ちょっとバズってる池→プチバズの池
アリペイにいえば...
ガラガラヘビで賑わってる店
イキリ寿司
コドモオオトカゲ
票取るピョートル
黙って物々交換
2寸の虫には10分の魂
教室に窓がなかったので、卒業生が集まっても同窓会が開催されない学級
どっちか分からない人。タバコは吸いますか?すいませんが吸います。
みんなやめる政党→辞任党
吸えず運河
シモニデセ/シモニデセ/シモニデス/シモニデスル/シモニデスレ/シモニデセヨ
ポジティブな朱熹「老人は年を取りにくく、勉強も大変にならない」
麓で行われる頂上決戦
死んだ草間彌生→草葉彌生
円の下の力持ち→日銀買支え
それやるならやっぱり画面外の情報としての音は滅茶苦茶重要じゃん?
そこがすげー出来が悪いというか手抜きなので「これはいったいどれぐらいのリアリティラインのものとして観ればいいのだ?」って疑念が生じる。
まずしばらく聴いてると、
「教室の外の状況がどうなってるか」とか音から情報取ろうとか想像しようとかするだけ無駄なんだなってわかっちゃう。
そうするとこの後どういう展開が来てもそれはちゃんと情報提示してないズルだし
そもそも大した展開が来ないのではって嫌な予感がしてきちゃう。
次に、
一直線に外に逃げ延びた奴もいるはずなのに
モタモタと教室に逃げ込んでしばらくさまよってた主人公の通報が第一報ってありえないやん?
「ああそういうリアリティのレベルなのね、そこをちゃんと考えない作り手と受けての映画なのね、はいはい」ってなる。
で隠れ方も不真面目でさあ。
あの隠れ方でどういうチャンスを期待してるのかわからないけど
教室のドア開けてそこから一望して「いねーな」って帰ってくれる場合のみ助かるけど
それならあの目立つ色の頭を机の上に出すんじゃねえと。もっと身を低くするか寝ころべと。
そういうとこすらちゃんとやってくれないので
もしかしてこれはそういうリアリティは全然追求してないものなのかな?ってなってくる。
同じ状況に遭遇中の友人に電話してくるって意味ないしやたら余裕あるしマジで何?じゃん。
これは友達じゃなくて姉妹とかで、トビアスって言うのも兄弟だったりするのかって思うのは
そうじゃなかったらこの情報なんなんだよって言う悠長さだからなんだよね。
親との会話が始まるのも「お前が贔屓してた他の子はみんな死んだぞ!」みたいな話が始まる(それもだるいけど)のかと思ったら
特にそう言うのもなく、オーディション受けに来た?やつの話も何の関係もなく。
・見せたいのは何?
ってなってるうちに「ああこれマジでどんでん返しとかなくこれだけなんだ…」ってなって終わる。
見終わったら一応一番の焦点はこの親子の確執の話なんだね。
集中できないし情報薄いけど。
「これは何か主人公が気付いてない恐るべき状況なのか??」と最初は思ったけど特にそんなこともなく作りが雑なだけで。
警察が突入してきてるのに乱射魔があんな悠長なことやってるのもわからないし
乱射魔はでかい銃振り回して走り回ってるはずなので騙そうとしたって一目でわかるはずだし
それどころかあんな風に落ち着いた呼吸で現れられる人間があの学校にいるわけない(一般生徒でも乱射魔でも変)のでもう純粋に変だし
あの中途半端な犯人のだまし討ちと親子の会話とどっちを焦点にしたいのかまたわかんなくなるし
不自然な友人からの電話はこれをやりたかっただけかーいってますます萎えちゃうし
アイデアと試みは良かったけど最低限が出来てないし要素もとっちらかってるよね?
1.音をちゃんと作ってリアリティラインをガン上げして迫真の臨場感と恐怖を与える
2.リアリティラインをもっと下げて臨場感なくして抽象的&お芝居っぽくして親子の話にきちんと焦点を絞る
3.犯人は顔見知りのうちの誰なのかというサスペンスをきちんと作ってメインディッシュにする
どれかにしてくれと言いたい。
主人公あの隠れ方で後から来た女にも犯人にも見つかってないので
この映画はリアルなスタイルではなく実は能みたいに見てほしいものなのかな?って捉え方をするなら2にいったらいいしね。
そういうことをしたかったのかね?
ラストシーンとか凄い雑に見えるの、普通に作りが雑なだけなのか舞台から降りてるって意味なのか、悪い意味で判断つかない。
トリックは自明でいつものように全部お見通しの上で犯人との掛け合いメインかと思いきや
なんかずっとハウダニット的な感じで進行していくんだよね
まあ劇中の人物はわかってないわけだからそうやって推理を進めていくのは当たり前なんだけど
最後のお約束の古畑の独白も「視聴者はわかってないだろう」って前提な感じがして
ホワイダニット的なところにどんでん返しがあるのかと思いきや「妹のように脚光を浴びて見たかった」ってそのまんま
まあいつものごとく古畑のキャラを楽しむ作品として見れば普通なんだけど無駄に思わせぶりでモヤモヤした
視聴者はバカと思ってたのかバカにはそういう楽しみ方もできる一粒で二度おいしい的なのを狙ったのかどうなんだろう
当時の感想とか読んだらやっぱりあまりにも普通だから最後に何かあるのかと思ったらそのまま終わってずっこけたみたいなのが多かった
20/100点
2といいつつ1.5的な感じ
ローカライズが不十分(吹き替えなし・不完全な字幕のみ)なこともあいまって、かなり評価が下がってしまう
ポスターとか落書きに字幕が出るかと思えばナレーションとかザコキャラのボイスに字幕なかったり
武器の切り替えはラクになったけど、そのぶん戦闘は激しくなった
ウザイ敵も増えた
タワーディフェンス要素がうざい
やたらマップが入り組んでて探索する気がなくなる
矢印が示す方向にただ進むだけ
1の強敵だったビッグダディになれると言う割にビッグダディ的な俺TUEEはできず人間と同じレベルのやわらかさ&弱さ&遅さ
パンピーっぽい女やら博士がローリング回避するのが違和感ありすぎ
主人公側はもっさり棒立ちなのに敵だけやたら俊敏でアクションも多様でストレスたまる
ステージは海中をときどき歩くくらいが新しいとこでそれ以外は1と同じかそれ以下でバリエーションがなくて退屈
ストーリーも1みたいなどんでん返し展開はなく淡々と言われるがままに進んで終わる
ハッキングのクソみたいな排水管ゲーが簡単なゲージ止めゲーになったのはよかった
やる頻度も多いのに毎回排水管ゲーなんかやってられっかこれくらい簡単でいいわ
やること同じでつまらない
以前に5chのコピペを元にして、メディアの絶賛は言葉が強すぎるのではないだろうかと言った増田があった
メディアと2ch界隈の断絶がより進んだだけじゃないかなーと思う。あと僕の文章勝手に大げさに改変して「言葉が強すぎるのでは」とか言われても困る
コピペは大げさに改変されたものらしいので、改変前の文章はどんなものだったのかを調べてみた
(3/14 いくつか元になったと思われる文章をよりそれらしいものに変更)
https://youtu.be/gTtbOwTrufs?t=444
↓
このゲームは買わないと駄目だと思います! 理由は、ヴァニラウェアという日本の宝のような会社を存続させるためにも1本でも多く売れる必要があると思います
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200111a
「狂気的に傑作過ぎる」
↓
狂気的に傑作すぎた
「他のあらゆる媒体の事例を踏まえても例がない多層的構造のストーリーテリング」
↓
本作の物語は、直線型でもフローチャート型でもない、多層型(立体的)とも言うべき構造になっており、その各層が密接に絡み合うことによって、物語を理解していく楽しみ、深さを作り上げている。これはおそらく、今までのゲーム……というか、他のあらゆる媒体の事例を踏まえても、なかなか例がない形なのではないだろうか?
これは、単純にストーリーテリングのあり方だけをとってみても、本作がとんでもない挑戦をしている作品だということを意味している。
「アドベンチャーゲームのまったく新しい新種」
↓
アドベンチャーゲームのまったく新しい「新種」なのでは?と思うほどだ。
↓
(これはアドベンチャーゲーム全体の話で、十三機兵のみの話ではない)
「ゲームというメディアでここまで作家性が溢れ出ている作品がいったいどれほどあるだろうか」
↓
商業のタイトルで、しかも集団制作物であるゲームというメディアで、ここまで作家性が溢れ出ている作品が、いったいどれほどあるだろうか?
https://jp.ign.com/jyusankiheiboueiken/41091/opinion/
↓
アドベンチャーゲームがこれまで行ってきた正当性の担保を保証しないことが、この物語を正当化させた。『十三機兵防衛圏』とは、はじめから長いトゥルーエンディングそのものだ。これは紛れもない革新であり
「本作がアドベンチャーゲームの歴史において優れている理由」
↓
本作がアドベンチャーゲームの歴史において優れている一つの理由だと筆者は思う。
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「顧客満足度99%」
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↓
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やらない人は人生の五分の一ぐらいは損してる。
https://news.denfaminicogamer.jp/news/200127i
「SFの要素がごった煮で最後にどんでん返しが起きるストーリー、我々の知っているガジェットが詰め込まれている」
↓
SFの要素がごった煮になっていて、最後にどんでん返しが起きるストーリー、我々のよく知っているガジェットが詰め込まれている。
↓
https://note.com/tekken8810/n/n4c56ae99adff (これがねとらぼ副編集長の記事)
「ゲーム・映画・小説などなどあらゆるメディアを見渡してもここまでの衝撃を味わわせてくれる作品には出会えない」
↓
ゲーム・映画・小説などなど、あらゆるメディアを見渡してみても、ここまでの衝撃を味わわせてくれる作品にはなかなか出会えないんじゃないかと思う。
「まだこんな物語表現ができたんだ!と素直に感心してしまった」
↓
https://dengekionline.com/articles/22754/
「10年は語り継がれる」
↓
ということをずっと考えてたけど、ネット上では同様の意見が全く見当たらないので書いてみる。
当然ネタバレはするのでご注意。
オリジナルのひぐらしでは、殺人を犯す側に転落しても踏み止まっても、登場人物のパーソナリティ自体は一貫していた気がするんですよ。
こいつは残忍な殺人鬼だけど、同時に愛すべき人間である、みたいな。
うじ湧き病の特効薬を寄越せと叫んでレナを撲殺し、梨花ちゃんの脳を啜る圭一に愛すべき人間の要素あるか?
同時に、オリジナルにあったテーマを否定しているのも気になる点。
鬼隠し編は「自分を信じてと言ってくれたレナをあんな形で疑ってはいけなかった」というのがテーマになっていると思うけど、新ひぐらし見ると、そんな信頼にはレナは値しないし。
村のためと言って梨花ちゃんをボコボコにして沼に沈めることも厭わない喜一郎は正しく、目明し編の詩音が考えた悟史くんの仇じゃないの?
ひぐらし既修者の意表を突くことにばっかり気を取られているように見えてならないけど、正直ひぐらし既修者の立場では、何があっても驚かないんですよね。
登場人物の見ている視点とは違う裏の世界で何が起きているのか、そこに納得行く辻褄はあるのか知りたいだけで、惨劇が起きること自体にはピクリとも驚かない。
しかし主人公サイドのパーソナリティがここまで崩壊してしまうと、もうどんな真相があったとしてもキャラクターへの愛情と信頼感は取り戻せないんじゃと思ってしまう。
と言って納得行く真相があったらすごいけど、ひぐらし本編レベルのどんでん返しじゃ失われた信頼は取り戻せないぞ。
今回は解決すべき真相の方にメタ世界(ループとか、うみねこの魔女設定とか?)が絡んでくるのかもしれないけど、それは自分はノーサンキューだなあ。
○ご飯
朝:なし。昼:ベーコンエッグ。人参の炒め物。夜:寿司。間食:プリン。
○調子
むきゅーはややー。お仕事はじゅうれんきゅー五日目。
やられた!!!!!
作者お得意のドエスな女性の肉体や洋服にまつわるクドイ描写に隠された絶妙なロジックには参った。
前作や前前作、シリーズ違いの他の作品などで、ずーーっとドエスな女性の太ももや足や胸や制服の描写を特に意味もなくし続けていたのは、この明かされて見たらなんてことないシンプルなロジックとトリックを隠すためのカモフラージュだったんだろう。
これが一般的な他の作者だった場合、間違いなく真相へはあっさりたどり着けただろう。
けれど相沢沙呼だけは違う、相沢沙呼の女体描写に意味があるなんて思ってもなかった。
これが叙述トリックやサプライズ系のどんでん返しなら気付けたのだろうけど、犯人特定のロジックと物理トリックに使われると流石にやられた。
途中の多重解決じみたパートも読んでいて楽しいし、シリーズキャラたちの魅力的なシーン(特に今回は満を辞しての登場となる小西さん)も数多く、早く続きが読みたい。
若干ハーレムもののように取り巻きの女性キャラが増えてきているが、主人公の気持ちが一途なのも読んでいて安心できた。(欲情はしてるけど、気持ちはね)
○グラブル
次はどの武器を集めようかなあ。
武蔵大学北村紗衣先生のディストピア文学の読み方が話題になっている。「ディストピア文学を自分の住んでいる日本に結び付けないのは問題」が話題になるのも当然で、数多くの専門家が北村紗衣先生の教えに反しているためである。
フィクションに限っては、人はユートピアよりもディストピアが好きだ。その心理は、ホラー小説や絶叫マシンを楽しむ心理に似ているのかもしれない。エンタテイメントとして「死」を疑似体験することで、私たちは命の価値を噛みしめ、平凡な日常の輝きを見つめ直すことができる。それと同じメカニズムで、「お話」としてのディストピアに浸ることによって、自分が身を置いている現実の良いところを再確認し、フィクションのディストピアが未来の現実にならないようにするには何を心がけるべきなのかと考える機会を得る。(書評 ディストピア・フィクション論…円堂都司昭著)
自分が今いる良いところの再確認(「日本はディストピア作品みたいになってない(これからもならないようにしよう)」)は、ディストピア作品が自分のいる場所を描いているとして読むことの真逆である。
「こうなったら嫌だな」とは思いつつも、現実感はありませんでした。ただヒトラーやスターリン下の世界では、こういうことが起こり得るのかなとは思いましたが。(社会人になって1984年を読んだ感想)
フランスの作家による新たなディストピア小説の出現だ。(略)終盤で一度ならぬ“どんでん返し”がある。本作はある種、現在のアメリカ、あるいはアメリカに象徴される利潤追求第一の物質的競争社会に対する、シビアな警告と挑戦状ともいえるだろう。(『透明性』/マルク・デュガン 書評)
(小川洋子著)『密やかな結晶』(英題The Memory Police、スティーブン・スナイダーさん訳)も「神話のような響きがあり、寓話(ぐうわ)でも、ディストピアでもある」と評された。帽子、リボン、小鳥、様々なものが消滅していく島で、秘密警察が消滅が滞りなく進むよう監視の目を光らせる物語だ。
日本では1994年に刊行された作品だが、選考委員は「何年も前に書かれていながら、あまりにも現代的で目を見張らされた」と驚きを口にした。米トランプ政権下などでフェイクニュースが横行して真実が失われ、コロナ禍で人々が集まる様々な活動が控えられる現実が作品世界に重なった。(興野優平)=朝日新聞2020年9月2日掲載(ブッカー国際賞、「ディストピア」がキーワード 小川洋子「密やかな結晶」も最終候補)
イギリスの文学賞選考委員であるが、ディストピア作品をアメリカと関連付けている。
身も蓋(ふた)もない本音で支持を集めるトランプを見て個人的に想起したのは<3>庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫・497円)だった。(略)「感性」がつぶしにかかる戦後民主主義ひいては人間の文明という「知的フィクション」を守るために薫くんは戦っているのである。だが勝ち目は見えず、敗北すなわちディストピアの到来が覚悟されて終わる。「知的フィクション」に、たとえば「ポリティカル・コレクトネス」(差別や偏見を含まない言葉遣い)などを代入すれば、トランプ危機との近しさが見えるだろう。 (ディストピアの予感)
日本を舞台としたディストピア作品をアメリカと結び付けている。
果たして今後、世界はどうなっていくのか。世界情勢とともにディストピア小説の動向を追ってみると、新たな発見があるのではないでしょうか。(【ディストピアとは?】「監視社会」や「行動の制限」などの“あるある”から徹底解説。)
ディストピア作品を世界情勢に結び付ければ発見があると書いている。
トランプ氏は、メキシコ国境の壁、難民やイスラム圏からの入国制限など過激な政策を進めているが、「独裁者を彷彿(ほうふつ)とさせる姿がこうした小説を連想させるのかもしれません」と山口さんは推測する。(好調ディストピア小説 トランプ政権誕生で脚光!? 小松左京さん「アメリカの壁」も電子書籍で)
文芸春秋では「小松さんはSF作家であると同時に優れた文明史家でもある。小松さんの鋭い洞察に触れることで、米国でいま何が起きているのか考える契機になるのでは」と話す。(同上)
批評家の佐々木敦さんは「トランプ氏の存在自体が戯画的。以前は考えられなかったようなことが起こっている」と指摘。「現実がフィクションを超えてしまった。今を知るための手がかりとしてディストピア小説が読まれているのでないか」とみている。(同上)
(北村紗衣先生の教えでは、間違った解釈や浅薄な解釈となる)日本以外に結び付けるというディストピア作品の解釈は、学生だけではなく、書評の専門家にも多く蔓延していることが実例で明らかになった。「アメリカはディストピアだ」と言っておけばよいといった間違いで浅薄な解釈が、日本のみならず、イギリスの文学賞選考委員にまで広がっていることは、驚愕すべき事実である。数々の専門家も間違えている、「ディストピア作品を新しく、深く解釈するために、自国に結び付けることを常にしなければならない」というディストピア作品解釈の素晴らしい方法を公にされた武蔵大学と北村紗衣先生に感謝し、世界中の人にぜひとも広めてほしい。
鬼滅の刃の最終巻を読んでちょっとネタバレについて思うことがあったので書く。ネタバレにならない範囲で書いたつもりだけど、ネタバレだと思うラインは人それぞれなので適当に引き返してね。
最終巻を読んでて思ったんだけど、「これが最終巻です」っていう情報=作品の尺ってわりと重要なネタバレだよね?
最終巻でわりと衝撃的などんでん返しがあった。「これどうなっちゃうんだろう」とドキドキする反面、「でも最終巻だからすぐに決着がつくんだろうな」とも考えてしまった。
雑誌でリアルタイムで読んでいた人は「もしかしてここから第二部として新たなストーリーが始まるの?」ともっとドキドキしたんだろうなと思うと、なんだか残念な気分になった。
映画を見てても「まだ残り時間があるしもう一展開ありそうだ」と考えてしまうし、尺を知らずに楽しむ方法ってないのかな。映画だと何時までかかるかわからないと動きづらいから無理かもしれないけど。
三島由紀夫没後50年という事で、三島由紀夫の短編集『真夏の死』を2編読んだ。
「三島由紀夫は実は〜」などとよく言われるが、「実は〜」なんてもんじゃない。
大人になり、あどけない少年からおっさんになってしまった三島由紀夫は、
鏡の中の自分に抱かれる事で自分を慰めることを見出したのかも知れない。
『煙草』で三島由紀夫の性癖を分かったつもりになっていたが、『春子』ではその認識を覆された。
「なるほど、おねショタ性の目覚めモノね」と読み進めると、TS願望、変則NTRと来て、そしてクライマックスのどんでん返し...とM方面への性癖レーパートリーが広い。
「年下の女単体には興奮しない。自分に惚れてる年上の女が見ている前で年下の女とイチャイチャして年上の女が嫉妬するシチュエーションに興奮する」という部分はS面が出ていたけど。