はてなキーワード: 齟齬とは
「46,200円」課金中w
君は本物のバカなのか。
それとも今更間違いを訂正すると恥ずかしいとでも思っているのか。
字をよく見ろよ。
君は誰に「課金中」なのさ。
女子力♡なんて本気で言っている頭がお花畑のオメデタイ人達と同じ。
何も疑問を持たず刷り込まれていることにも気付かない。
誤用を指摘された人は慣用されていれば間違いも正しいと反論するが
どこで慣用という判断をしているのか。
それに皆が使っているからといって染まるのだろうか。
今の時代、言葉の意味と使い方なんて手軽に調べられるのになぜそれをやらないの?
文字や意味の重なりに無頓着な「○○感を感じる」や「後で後悔」という表現。
「延々と」を「永遠と」
「吹聴する」を「風潮する」
「ご尊顔」を「ご本尊」
これらは本人に教養と思慮が足りないだけのこと。
どうしてその未熟さを一切指摘せず言葉は変化するんだと話を飛躍させ
教養と思慮が足りないバカとそれを利用する広告代理店やマスメディアによって
必要のない変化をさせられているという疑念をなぜ持たないのか。
この先、スムーズに利用できなくなるかも知れないと想像できないのか。
変化の実態が劣化とも気付かぬまま言葉を誘導され価値観まで刷り込まれる。
溝があるほど侵略のスキが増える。
「うるとらますた」とやら。
皆が使っているから君も使い続けるの?
動画配信している己を恥ずかしいと気付け。
そうしたら超高画質でしっかり見てやるよ。
読み取りたいことと、参照しているデータに齟齬があるから起きている現象ですよね。
とはいえ、元データ(https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa16/dl/03.pdf とか) を見ないで感想を書いている人が多いようには感じる。疑問に思ったら調べろよ
最近コレに悩まされている。
自分はまあいわゆる『自分をADHDだと思っている低スペ人間だけど、実際ちょっとADHDっぽいしASDっぽくもあるけどカウンセラーに言わせると「そういう傾向がちょっとあるだけで普通の人です。ちょっと鬱病気味ですけど気分が落ち込みがちになっている程度なのでまだセーフです」的なポジションにいる低スペ人間』っていう現代日本だと30人に1人ぐらいいそうな感じのアレです。
そんでまあ30人に1人ぐらいいるってことは50人ぐらいの職場で働くと「もう1人のボク」と対峙することになるわけです。
100人ぐらいの職場になると「もう1人のボク」が2人になります。
そんでまあ今本当にその状態で、そのうちもう1人は全く別の部署で働いていて悪い噂が物凄い勢いで耳に入ってきます。
その人の悪い噂を聞くたんびに「ああ……この人は遠まわしに私の悪口も言っているのだろうか……そうやって釘を差されたところで今更直しようもないものだというのに……」と気分が落ち込みます。
そこまではまあ耐えられます。
むしろ「まあそういう人でも働けているわけだしセーフじゃないの?」と思います。
ですが……恐ろしいことに……なんと私の直属の上司がもう1人のアレな人なのです……。
結果として私と上司はお互いが持つ低スペ人間パワーをぶつけ合いながら日々「何で当たり前のことができないの?コイツは?」と考え憎しみをぶつけあっています。
お互いの弱点が分かっているのだから手を取り合えばいいのに……周りはきっとそう思っているでしょうが、なかなかそうはいきません。
結局の所、お互いが今まで「普通の人」の善意や助力に甘えて生きてき続けてしまったせいで、相手も自分も低スペだった場合の対処方法が分からないのです。
中でももっと辛いのが『お互いにコミュ障なのでそれを補い合えない』ことです。
喩えるのが少し難しいのですが……(以下「ここまで」まで読む必要なし)
『もしもコミュニケーションというものがお互いのコミュ力の合計が10あればきちんと成立するシステムだと仮定して、普通の人の基礎コミュ力が8だとしてコミュ障の基礎コミュ力が4だとしましょう。
この時普通の人同士で会話をするとコミュ力の合計は14もあるので簡単に会話は成立しますし、多少お互いの認識齟齬や聞き逃しがあってもよほどの事がない限り10を上回るので最終的にはあっさり会話が成立します。
また、コミュ障と普通の人が可愛する場合でも基本的に合計は12ポイントあるので、なんだかんだ普段の会話は割と成立しますが、ちょとしたことで会話に齟齬が生じ始めます。スキあらば会話が迷子になる恐ろしい綱渡りとなりますが、まあコミュ障はこれぐらいの事慣れてます。
さて、コミュ障同士が普通に会話するとどうなるでしょうか……合計は8です……。普通にやっていては会話が……成立しません。お互いがまず相手に歩み寄り、そして互いが理解を共有できる分野を探して何とか会話を成立させます。会話が実は成立してないことも多いですが、そこを掘り下げあうと相手のコミュ力の低さを皮肉るような会話にすらなりかねないのです。一見話が通じているように見えて実は互いが全く別のイメージを浮かべていることに最後まで気づかなかったりする事がままあるのが、コミュ障同士の会話です
』(ここまで読む必要なし)
つまる所、コミュ障同士で会話するとお互いの大いなる努力を持ってしなければ会話に齟齬が生じたままで終わりうるって事です。
日常会話や友達付き合いであれば「ばっかでー」で終わるのですが、仕事だとそうはいきません。
地獄です。
その地獄の中を業務のパターン化や、最終調整前の細かいやり取りで補うことで、ギリギリなんとか誤魔化すのが、コミュ障同士のビジネス関係です。
そして、その地獄に巻き込まれて周りは明らかに疲弊していきます。
そもそも2人の低スペ人間を抱えている時点で職場の戦力はダウンしているのに、更にソイツらの間でまともにコミュニケーションが成立しないから、一度でも伝言ゲームでそこを介したら一気に情報の信用度がガタ落ちするのですから、たまったものではないでしょう。
それを毎日毎日見ていると、どうしても「自分たちのような低スペ人間が社会に寄生するのはいい加減やめた方が良い。だが、低スペ人間同士が出会ってさえ居なければなんとかなるのだ」と考えてしまいます。
このような思考が脳内を走る日々の中で、受容の5段階に近いことが起きます。
否認、怒り、取引、抑うつ、それらのストレスから生まれるマイナスのエネルギーは自分と相手に向かいます。
眼の前にコミュ障が居なければ自分がコミュ障であるという事にここまで苦しまなくて済む、その事実は最初敵意となり、やがて同情となり、最後には「そもそも一番可愛そうなのは周りの人達だ」という気付きにたどり着きます。
さて、それでは、可愛そうな周りの人達を救うのに低スペ人間が出来ることは何でしょうか?
心は既に受容の5段階目を駆け抜けています。
ですが、どうにも上手くいきません。
方法を教えてください。
ちなみに会社と繋がっているカウンセラーにこの話をした所、「え?止めればいいじゃん?自動思考って自分で分かってるんでしょ?」っていう感じでした。
別にこれといった確証みたいなのは無いけど。あぁ、でもきっと降りるってこういうことなんだろうなぁ。私は最近それをゆるゆると実感している。あ、なんだこんなに呆気ないものなんだ。と思うと同時、こんなにも好きな気持ちを引きずるものなんだ。なんて、驚きと未練。いや、この気持ちを未練と呼んだら彼にかわいそうだ。私はきっとこれからも、この先も多分神山くんのことが好きだと思う。
素敵な人を所謂担当に持てたなと思っている。今でも。最初はどっちかというと、んん、ちょっと無いなって思ってた。なんていうの、インスピレーションというよりももっと単純な所謂第一印象。最初なんて軽く重岡くんから入っていったからね。そのまま重岡担になってたらどうなってたんだろう。今の一文を書くまで考えたことがなかった。けれども可能性は十分あったと思う。昔人に話したことがあった。私が神山くんを好きになったのはわりと確率としては低いもので。ありとあらゆる平行な世界線の中でも数少ない一本だと。友達、何言ってんの?って顔してた。うん、私もそう思う。でもそうなんだ。好きになった可能性を言葉に当てはめるとこうしかない。数ある世界線のうちの、一番可能性の低いものだと。
所謂自担くんがもう一人いるんだけど、その人はきっとわりとどの世界線でも好きになってたと思う。顔が好きだし。え〜!なんで今日もこんなに顔がかわいい?!っていつもおもってる。対する神山くんの顔は、綺麗だし、かわいいなーって思うけどめちゃくちゃ好き?って問われたら。んー…って濁すと思うなぁ。あ、でも世界で二番目に好きな顔がリバーフェニックス。顔の輪郭だけならちょっと似てる?……いや、似てないか。まぁそんなこんなで私はまずこの人の顔は好きになれないなって初めて見た時思った。
思ったんだけど!!!!いやー、人生何があるか分からない。だってさ、そう思った数ヶ月後ジャニショで写真買ってシングルの予約してるんだよ。神山くんが好きだからって。好きになる前までの少クラカットしてなくて良かったって自分に感謝した。
重岡くんの昔からのシンメって知って。(オタクあるあるシンメに弱い)ダンス見て、アクロバット見て、歌聞いて。その他諸々知って。あ、この人のこと愛さなきゃなって。
楽しかったなぁ。神山担してた時。だいたい二年くらい?そんなんでこんなの書くなってツッコミ絶対あるだろうけど。これは初めて降りるという概念を肌で感じた一人の人間のメモです。好きになったらすぐおっきな舞台の仕事来て。えっ、脚本あのクドカン?!大手劇団?!座長生田斗真?!そんな中で演技するん?!夜中に見てビックリしてその後ベッドでごろごろ喜んだ。次の日寝不足だった。でも嬉しくて。その日の午後くらいにはチケット取れるか不安だったけど。ほんと〜にチケット取れるか不安だった。最初の方の抽選ことごとく落ちて。神頼みしてたのに。もう今後チケットが当たりますようにって神棚には頼まないことにした。これ見に行けないのでは??と項垂れてたらとりあえず一般取れて。やったー!って思ってたら大阪追加公演当たった。え、自分大阪公演行くの???とか思ってたら友達から急にLINEきて神ちゃんの舞台いける?って。行けるよー大丈夫!って返したら友達がチケット余らせてるんだけどって話で、行きます!ってもうすぐに言った。あの時の現在は濵田くん担の方ありがとうございます。話は前後するんだけど、神山くんを好きになったばかりの頃。ちょうどしんどいな〜って思う時期で。基本的に寝たら忘れるあぱー!みたいなタイプなんだけど、その時はまぁ今考えると病んでるみたいな感じで。家でも耳にイヤホン突っ込んで話し掛けないでみたいな雰囲気出して。後に母親から精神科連れてこうかと思ってたとか言われたりして。これ笑い話。でも神山くんも頑張ってるからと思うと自分もなんとかしようって。理想とは違う今だけどあの時自分なりになんとかしようと動いてこの生活があって。わりと人生楽しいから悔いはそこまでないよ。そうさせてくれた神山くんには頭が上がらないなぁ。いつも動画漁って、こんなに頑張ってるんだと考えると自分も。とか思っちゃうよね。で、話を戻して舞台の話なんだけど。三劇場で見れて。神山くんがどんどん成長していくのが見れて良かった〜!!いつも公演終わる毎にもう胸いっぱいで。掌痒くなるくらいに拍手してた毎回。この人のこと好きで良かったなぁとつくづく感じた。こんなにこの人のこと好きで良かったなぁと考えたの初めてだよ。
神山くんのこと好きになれて本当に良かった。ダンスが上手くて歌が上手くてアクロバットが出来て。料理も出来るし、メンバーに優しいって言われるし、挙げだしたらキリないよ。器用だから。器用貧乏みたいに言われることもあった。うるせー!!不器用より器用の方がいいだろ!!って。好きだなぁと思わせてくれることをいっぱい出来るし持ってる神山くんが好きだ。きっとこれからも好きだと思う。
でも、多分降りる、きっと。神山くんのことが好きだ。これまでもこれからも。これを読んだ誰かがそれは好きじゃないと考えればそれはそれで別に構わないけれど。でも私は声を大にして言いたい。神山くんのことが、これまでもこれからもきっと好き。
追い掛けるって言うのかな。それが出来なくなった。DVDやCDを買わなくなった。一応稼いではいる身なのでオタクとして最低限の費用は出そうと考えてオタクやってる。CDは全種類買う、Blu-rayは特典が被らない限りは初回も通常も買う。でも出来なくなった。お金が無かったわけでもないけれど。でも買わなくなった。ちゃんと見るかな。見ないなら買わない方がマシでは?と考えてしまい買わなくなった。シングルは、言ったら怒られるだろうけど音楽性がなんて言うか、買いたいなって思えなかったものが続いた。
グループは限りなく一本に近い平行線の集まりだ。自論。その線の集まりから抜け出すにはグループから抜ける他は方法が無い。個人担の人すごいなって思う。自分は絶対に自担を見る時にその後ろにいるグループも見るから。それらを全部引っくるめて飲み込んで咀嚼して。そしてようやく好きかどうか言える。グループが嫌いになったわけではない。神山くんが愛しているグループが好きだ。忘年会やろうって言って神山くんの家へ集まった。そんなグループが好きだ。でも、それだけでは私の心は追い掛けようという気持ちになれなかった。グループがやりたい方向性を肌で感じて、ようやくその人が好きでじゃあ追い掛けようとする私だから。
正月明け早々横浜アリーナに行った。westivalを見に。地元が笑えるくらいの悪天候でこれ間に合うかな?とか若干心配してたけど余裕で間に合った。ペンライトの電池忘れてたけど。(三十分前に思い出した)時間になって七人が出てきて。神山くんかわいいな〜!って思ってた。ちょうどバクステ側のアリーナだった。センターじゃないよ。バクステ側の席が好きだ。ちょうど構成が分かりやすく見えるから。おまけに横アリで言うアリーナだったので万々歳。自チケはその公演のみで、でもやっぱりまだ行きたいなって思ったら別の公演のチケット探そうって思ってた。探さなかった。
あぁ、多分もう合わないんだろうなぁ。って公演の途中から肌で感じてしまった。文句というより、不一致。それが文句だろうと誰かが言うのなら文句で良いです。私の中では不一致だけどね。彼らがやりたくてやろうとしていること。それが今の私には些か合わなかった。ううん、些かじゃないんだろうなぁ。七割くらい合わなかった。びっくりした。コンサートでこんなこと思うんだ!って。入ったことに関しては後悔ないよ。だって神山くんかわいいしかっこよかったし。でも、いつものかわいい!かっこいい!よりも盛り上がらなかった。それは好きな人が私とは合わないなと思うことをしていたからだ。何処がどういう風に。と明確に返すのは難しいけれど。兎にも角にも、少なくとも私はこういう演出や魅せ方を見たいわけではなかった。グループの否定ではない。むしろ彼らが本当にやりたいことの答えがwestivalであるのなら。それを貫き通してほしい。貫くと言っても改良を重ねて。本人達にとって、より良いものになることを祈りたい。でも私には残念ながら合ってなかった。悲しかった。腹立たしかった。どうしてそうなの?って。なんでこんなに私の感性は捻じ曲がってるの?って。自分も見たものも、どちらにも納得は出来なかった。でも私一人なんかの我儘。そもそも本人たちの耳にまず届かないであろう声。それが万が一聞こえたとして。それだけで自分たちの信念を曲げないでほしい。絶対に。自分たちがしたいことをして、そしてファンを楽しませる。それが私の中のアイドルの理想の一つであって。あの日、後ろにいたまだ若い(高校生くらいかな?)女の子たち。楽しそうだったなぁ。ドラゴンドッグ歌うって時に、え、ヤバイヤバイ!みたいな。ヤバイの連呼で内心出川哲朗になってるよ><ってちょっと笑った。パラチャーの前の映像でめちゃくちゃキャーキャー言ってて。若いなぁ、楽しそうだなぁって。すっごい大きな声出してて。でも全然辛くなさそうで。むしろ楽しそうで。あぁ、彼らにこういう女の子たちのファンがいて良かったなとつくづく感じた。そしてあまり盛り上がれなかった自分。惨めだ。
それから電車乗りながら考えて。チケットは探さないこと。それと、多分もうコンサートは行かないだろうなぁ。なんて結論が出た。自分が合わないなぁと思うものの中でアイドルをする神山くん。どんな彼も好きではあるけど、応援し続けたいかと問われたら素直に首を縦には触れない。神山くんが、それらを自分のやりたいこととするなら口出しなんて出来るわけない。むしろ頑張れって言うよ。でもそれを追い掛けることは多分出来ない。残念ながらそこまで感性が豊かでないというか。神山くんをひたすら純粋に素敵と思う前に色んな邪念を持つだろうから。色々なものも買わなくなったし、ここら辺が潮時なんだろうなと。ぼんやり。帰り道、だんだんと地元に近付く景色を見ながら考えていた。
でもやっぱり神山くんのことは好きだ。彼の何がすごいかって、見る度に好きだなぁと思わせてくれる所。すごくない?見る度に私この人のこと好き!好きで良かった!と思えてしまうの。そんなアイドル、きっとなかなかいないよ。みんな心の何処かで大好きな人に対して多かれ少なかれ受け入れない部分がある。そりゃあ神山くんにそれが無いとは言い切れないけど。でも姿を見て、歌ったり踊ったりする姿を見ると好き!って感じてしまうのだ。好きって気持ちはサイコー。サイコーだけど、でももう応援することはしない。私が理想のしない神山くんの理想の中でアイドルとして彼は生きていくから。残念ながら私はその齟齬を飲み込めるほど心が広くない。もうファンでなくなってしまうなと同時に考えた。
それからちょっと楽になった。もう追い掛けないと決めたら、その前まで番組を見逃したりしてファンとしてどうなのと思ってたけどそれが無くなって。気持ちが軽くなった気がする。CDやDVDを買わない後ろめたさから解放された気がした。見たい時に見て、見たくない時は見ない。それだけでかなり楽になった。ちなみに今まで買ったものはまだ売りません。無意識のうちに楽じゃない好きを持ち続けないといけないって考えていたことに気付く。でも今は楽だ。もう降りるから。
ここまでつらつら書いたけど。もー文章支離滅裂でびっくり。担降りブログ書く人、よくもまぁあんな端的に且つおもしろく書けるよね。ジャニオタは文豪。一理ある。とりあえずは九月の舞台を見て。ちょうど九月がFCの更新時期だから。このまま更新せずに。そうしていずれメールが来なくなることを思い描いている。でも舞台には行く。一回くらい行きたいって思った。好きだから。最初に肉眼で神山くんを見たいのが舞台だから。それで舞台は見たいと思ったんだろうなぁ。チケットは本当にドンのケツって感じの一番後ろの一番値段が優しい席。そこで好き!とはなる。きっと。けれど、じゃあまた追い掛けよう!とはならない。気がする。どうなるか分からないけどね。でもとりあえずは舞台見て。神山くん好きだなぁとしみじみ思いながら降りる。でも好きだよ。これまでもこれからも。
神山くん担してて楽しかった。ラキセはギリギリ行けなくて。次のなうぇすと入ったらドラマと被って髪が黒かった。もしかしなくとも黒髪の神山くんを肉眼で見れてしまう?案の定そうで。本人は黒は子供っぽく見られるからと言うけど、私は黒も大好きだよ。茶色も、金も、たっくさん他の色も。そう、なうぇすとでさ、トランペット吹いてたじゃん。一応音楽齧ってて、そんな自分の耳で聞いた神山くんのトランペットの音はもうとびきり柔らかくて優しくて。ちょっと荒削りなところがあって。こんな優しい音を出せる人が好きなんだ。そう考えると誇らしかった。自担すごいでしょ、って。あと先陣切って花道歩いてたのもかっこよかったなぁ。あとタオル落とした人に対して落としたタオル拾って、汗拭ってから返してた。返された人、崩れ落ちて。あと頭にリボン付けてたのもかわいかった。ええやんけェ!だ。私が珍しく振り付け覚えたやつ。あと、あと、そう。七人で並んだ時ね、重岡くんと神山くんが隣で。前の曲の余韻でちょっかい出す重岡くんを神山くんが柔らかく笑いながら、ちょんっと押し飛ばしたの。それがもう二人の世界で。見ちゃったな、なんて気分になって。それと同時に胸がきゅうっとして、見れてしまったことが幸せだった。神山くんを好きになるきっかけ(?)である重岡くん。神山くんに対して普段ちょっと遠慮がち(?)なのに。ああいう時には二人だけの世界になっちゃってさ。見てて幸せだったよ、ありがとう。
あとドラマ。日曜日、楽しみだった。同じクールで他に好きな人もドラマ出てて。今年の冬終わらないでって三月に入ってからずっと願ってた。こぐちゃんかわいかったよ。特別目立つわけではないかもしれない。でもちゃんと存在感があって。この子はどんなキャラクターなんだろ?って視聴者に印象付けするのが得意な人だなと思った。全話通してかわいかった。だから偉い人お願い、円盤出して。今からでも遅くないよ。それは買うから。ここで言わずに手紙書こうね自分。
他にも色々と書きたいことあるだろうけど。とりあえずは浮かばないからここまで。これまでもこれからも、きっと神山くんのことが好き。そうでいたいな。そしてこれは単なる我儘だけど、見るたびに好きと思える神山くんがずっと続きますように。
あと遅くなったけど誕生日おめでとう!
2017.7.15
一口にSEと言っても業務内容はいろいろで、大雑把に分けると開発・構築・運用に分類でき、更に開発だと組み込み、SI、Web系という具合に細分化していく。
そして業務によって当然視点の違いは多かれ少なかれあるのはSEに限ったことではないだろう。
しかし、そうは言ってもここまで違うのか…というのが、開発と運用。
もはや見ている物どころか、生きている世界が違う。
「それくらい説明しなくても分かるだろという部分まで、悪い意味でシステムの詳細を質問攻めしてくる面倒な奴」
に映る。
「まともに動くのかすら怪しい代物を作り逃げ・置き逃げする、いつも何言ってるのか分からない奴」
となる。
この齟齬の原因の一端は
「運用設計を作るためのリソース(時間的にも金銭的にも)が全く考慮されていないマネージメント」
にあるのは間違いないが、基本的にそこまできちんと考慮された天国案件など希少だろう。
ともかく、そんな事情もあって、双方の話していることが同じ日本語だとは未だに認識できない。
というわけで全く問題解決能力のない筆者であるが、だからこそ教育係とか管理職なんて面倒な話が回ってこないで済んでいるので、別に気にしていない。
みんなデザインってものをデザイナー様が適当にオナニーするだけの仕事だと思ってるのかも知れないけど、決定権は依頼主にあるからね。
ツタヤ図書館のときはデザイナーよりも武雄市長に非難が集まったでしょ。本来そういうことよ。
糞みたいなデザインは、ある種依頼主が糞を望んだ結果だとも言い換えられるわけ。
少額のデザインなら成果物をいきなり提出されて依頼主は不本意、ということもあるだろうけど、何億もかかる図書館の建築でそれはない。
普通のデザインですら何度も打ち合わせを重ねて、意見交換や認識の齟齬がないか擦り合わせる。依頼主がOKを出してないのに勝手に作っておしまい、なんてことはあり得ない。
つまり、この話の一番の問題は、最高学府たる大学が、本を探すことすら困難で勉強しにくい糞図書館であることを「知っていながら」許可したっていうこと。大学が学問を否定するような施設を無駄に作ったのですよ。馬鹿さ加減ではデザイナーの比じゃない。
もしデザイナーに任せっきりで騙されたんだとしたら責任感がなさすぎてあり得ないし、図書の分類と表示は基本要件なので知らなかったはずがないんだけどね。
普通は馬鹿で糞なデザイン案が出されても、提案時にぶん殴って却下すればそれで終わる。大学側は当然そうすべきだったのに、本なんて探せなくても構わないでしょ使いにくい図書館でも別にいいじゃん、とOKを出したことの方がどう考えてもヤバイわけ。
デザイナーだけを叩くなっていうのは、スケープゴートにされてこういう背後の問題が見えにくくなってしまうから。
まず、左右されるのは読者のコンディションではなく人間性に、である。そしてこれは小説に限らずすべての創作物において表現者と観衆の間に存在するものである。
自分の最初の発言はこちら。「そういうちいさなコレジャナイが堆積してくと作品への没入感は失われ読まされてる感が激増するよね」
次に、
>意識的に違和感を補完しながら読むと面白く感じたりするものだけど、
しかし、個人的には、違和感を補完してしまうと、「作家が本来訴求したかった内容と齟齬が起きてしまうかもしれない。」「作品が描いている世界と自分の主観が混ざり合いすぎてフレームがこわれてしまっているかもしれない。」「ひょっとして邪推だろうか?」などといろいろと考えてしまい、なかなか冷静にページをめくることができなくなってしまうのです。没入感が失われるとはこういうことも含まれます。
わたし個人的には、作品の世界観にどっぷりつかって没入したいタイプ。
ともなって、作品の世界観、時代、時勢なんかのバックボーンが整合性をもっていてリアリティがあり堅牢でなければ没入できないタイプ。
すなわち、わたしは読者自身気付いていない深層意識や無意識下にすらアクセスしては息づくような匂い立つようなリアリティをもってセンテンスを紡げる作家をこそよい作家と感じます。個人的にです。あなたにこれを求めることはしません。
最後に、「当方の読書姿勢の気に入らない点」を指摘することによって増田の「こいつは嫌な読者」という感想を正当化するような嫌な増田になってるから気を付けた方がいいよ。
どういう状況で落ち着くか、楽しいか、辛いかなんていうのは固有のものであって、後天的に変えられないものも多い。
一人でいることで落ち着く人もいるし、悩みを見せないことが悩みを見せることよりもストレスが少なくなる人だっている。
増田は、増田の人生の中で培って養成した独特の恋人とはこうあるべき像を持っていて、それを相手に押し付けたくて仕方ないように見える。
でも、家族になる場合を考えた時、どういうスタイルだろうが、どういう規範を持っていようが、
実質的にお互いのストレスが少なく、楽しいと思えるスタイルを2人で作り上げることの方が重要じゃない?
増田が掲げる恋人のあるべき姿というのは、相手にとっては負担でしかないんだと思うよ。
恐らく増田も「一般的にはすべきだけど、どうしてもできないことや達成できないこと」は1つや2つあるでしょ?
それを押し付けようとしてくる人が近くにいたらやっぱり辛くない?
本当に長いこと一緒にいると決める間柄であれば、自分から見た相手の欠点や価値観の齟齬すらも受け入れて強要しないことも必要だと思うな。
ミクロとマクロで~ みたいな話で同じ事柄が言い方や見方で違うとか自分の都合のよい話にもってこうっての見かけるけど
視野とか距離感とか観察対象の最小単位の切り方で全部別物なので「ミクロとマクロがおなじ事柄について語ってる」て事自体が存在しないので
別物であるから同列にならないので「ミクロ と マクロ」という別個の二つになるはずのものが
「ミクロとマクロで 同じものが二つの意味をなす」みたいに「同じもの」扱いするのがおかしい
意味や質が変わった時点で別物なので 同じなのに違っている みたいな言葉遊びをするから 同じものだと思っちゃう人がでてくるし
同じものなのに違うのはなんでとかいう意味のわからない質問をしてくる人もでてくる
あなたのもってるコップの水と私のもってるコップの水とみんなのもってるコップの水の成分がまったく同じだったとしても
全部の意味と用途と価値は別物で「同じ水だから」とか「同じ水なのに」などとは言えず「合成の誤謬」などという言葉で同一系統に並べられるべきものではない
スケールの違うものでそれぞれ単位「1」が違うのに「1」という単位で言えばと逆算することに意味はない 誤謬というレベルでもない
個人の主観に落とし込んで体感的に理解しやすくその齟齬を表現しようとしたものだとは思うがミクロ・マクロといった形容をそのまま説明に使ってくる様子は滑稽
だったら、自分だけ辞書的な意味に固執して周りの人と齟齬をきたすのは、本末転倒だ
これが不特定多数の目に触れるブログのような文章なら、また話は別だよ
そういう場合に、ある言葉の「もっとも広く使われているであろう用法(誤用であっても)」を採択するか
あるいは「あくまでも辞書的な意味での用法」を採択するかは、考え方の違いだと思う
でも日常会話だったら、目の前の相手に通じるかどうかが全てじゃないか
まあ実際には、そうと分かっててもどうしても気になっちゃったりするんだけど、
本末転倒なのが分かっていても気にせずにいられないとなると、今度は頭の良し悪しというか何かの障害めいているな、と自分で思う
「文学部」という言い方はやや雑だが、要するに「食えない」専攻ということ。
こういうところを卒業した男子学生は、自分の知性に対してプライドが分不相応に高い。
しかし、社会に出て10年、20年と経てば知性や生活力、人間としての魅力・価値に占める「学歴」の割合は微々たるものになっていく。
高卒やFラン卒の40歳男性(上場会社勤務・課長級)の方が彼らよりも世間知、人間に対する洞察力、協調性、年収等々要するに人間的魅力の全ての側面で優れているということはごく普通にありえる。
その現実を受け入れないまま、無駄なプライドを堅持し続ければ、現実との齟齬はやがて人間の理性が処理できない水準に達する。それが低能先生なのだ。人間として無価値な奴のくせにプライドを捨てられなかったのだ。彼は。そして彼のような欠陥品を製造し続ける九州大学文学部こそがその社会的責任を問われるべきだ。
もちろんイスラム文明研究とか大事だよ。だけどそんなもんを専攻した結果ラーメン屋のバイトに甘んじて世間への憎悪を育んでその結果犯罪に走るなら高等教育の意味がない。そういう学問は、ラーメン屋のバイトをやってでも研究を続けたい情熱を持っているひととか、大金持ちで食えない学問をやってても食えるお坊ちゃんがやるものだろ。低能先生みたいな覚悟も情熱も足りない低能がやるべきものではない。
殺害されたhagexさんは誠にお気の毒。低能先生のような低能な害虫は駆除されるべき。そして低能先生製造装置はその存在意義やあるべき姿を問い直されるべき。それが今回の一件に関して私がもった感想だ。
今回はとなりのヤングジャンプでも読める、シンマンGP2018のエントリー作品。
主人公の秘密は、ストーリーものに慣れている人が警戒して読めばすぐに見当がつくから、前半すぐに明かしたのは割り切ってるなあ、と思った。
プロットとしては、読み切り作品だと定番な「隠された力を持った主人公が、土壇場になって奮起する」みたいな話。
その隠された力が、敵側の力だっていうのも今日び珍しくないかな。
本作はそのことについて前半であっさりと明かされる構成だから、どちらかというと主人公がそのことで葛藤するのと、取り巻く環境(世界観)について楽しむ感じだろうか。
主人公の葛藤については、死が怖いからというよりも、周りからのプレッシャーや、自分の隠された力を使うことで人としては死ねない、といった具合にちゃんと練ってあるのは好印象。
ただ、まあ、話の軸となっているのが主人公の葛藤になっているのは良くも悪くもって感じだなあ。
結果、他の鬼殺隊の活躍する描写が皆無に近くて、妙に設定とか作りこんである分、無駄な情報を羅列された印象を与える。
話の構成上、善戦させたらダメだってのは分かるし、前半で語られた背景と齟齬があるわけでもないけれども。
まあ、批評とかそういうの抜きにして、単純に今回の企画を楽しむ(期待する)上で、エントリー作品のレベルの高さを見せるスタートダッシュとしては申し分ないと思う。
タイトルで察しがつくけれども、いわゆる“ナントカ系女子○○さん(ちゃん)タイプ”の漫画。
常識人の男子と、特定の知識やスキルに特化した非常識な女子が主役ね。
プロットの都合上、絵の動きが少なくなりがちだから、主役の女子に「サバイバル」という要素を付与したのは良い判断。
おかげでアクションシーンを描く理由が出来て、作者が画力をある程度見せることに成功している。
女子が披露するちょっとしたウンチクとか、奇抜な言動によって発生する嬉し恥ずかしのイベントとか、コレ系の漫画の要所は抑えているし。
強いていうなら、主役の鯖井の言動がやや悪目立ち気味かなあ。
作中での主役、目立たせるのは女子のほうってのは分かるんだけれども、男子が紋切り型の巻き込まれ役って感じなのもマイナスポイント。
まあ、全体的な印象としては、作者の力量を見せつつ無難にテーマをこなしたかなあって印象。
うーん、こういうのって判断に困るなあ。
本作がシンマンっていう、「連載権をかけた賞」という土台に乗ってなければ、もっと評価したいんだけれども。
なにせシモ・ヘイヘを題材にした漫画って時点で、話の骨組みとしての面白さ自体は担保されているわけで。
素材が良いから、作者がよほど無能でもない限りは、そりゃ面白いだろうっていう。
本作のストーリーが面白かったとしても、それは作者の手柄だとは言い切れなくなる。
もちろん表現力とか構成力とか、そういったところでの評価は出来るけれども、そこと完全に切り離すのって難しいよね。
題材選びも含めての作家の実力と割り切るなら、まあ面白かったかなあ、と。
絵やコマ割、演出などの表現力の面では小奇麗でもそれだけって感じだし、テーマもそこまで深くないしね。
ただ、感想書くときに改めて読み直してみると、中々にあなどれないとも感じた。
話は主人公とヒロインの学生生活での表面上の関係性と、プライベートでの秘密の関係を対比させつつ描いている。
で、この「プライベートでの秘密の関係」というのも、学生生活とはベクトルが異なるだけで同じく表面上のもの。
けれども、ここに主役同士の対立を軸にすることで、話を展開させつつ関係性が深まる理由付けをしている。
で、合間合間にちゃんと主役二人の設定や現状を説明しつつ、自分自身のポリシーや、互いのことをどう思っているか、というのも描いている。
そして最後には、二人の関係が初めの頃とは違い、少しだけだが確実に深まったことが分かる描写で終わる。
正直、ラストまでの展開は予定調和気味というか尻すぼみではあるけれども。
キャラクターの関係性に説得力を持たせる上で必要なドラマを丁寧に描いている構成力は、特筆して褒めるような作家の個性ではないにしろ、ここをしっかりこなしたことは個人的には評価に値すると思う。
いろいろと事実関係が間違っているので指摘と補足をしておく。
まず、「基本的に矛盾がない」という元増田の見解については完全に間違っているので最初に指摘しておく。
最も大きな矛盾点は、選手が会見で明らかにした反則行為に対する指示と言動を、監督コーチが会見で否定している点である。
選手が「憶えている」と明言した具体的な言動を、監督・コーチは、「言っていない」と全否定している。
このはっきりとした矛盾の発生を前提に、引き続き、事実関係の認識が間違っている点を指摘、補足していく。
>・学生は日頃のコーチとの関係から「潰せ」を「怪我させろ」という意味しかないと受け取り、その通りに行った
選手が反則行為に及んだ経緯は選手自身が会見で明らかにしている。
選手の陳述書には、「関学との定期戦が無くなってもいいだろう」、「相手のQBが怪我をして秋の試合に出られなかったらこっちの得だろう」とコーチから言われたこと、
また監督から「やらなきゃ意味ないよ」と言われたことが記されている。これによって、反則行為は「潰せ」という指示に対する解釈の齟齬から生じたのではなく、
あきらかに反則行為を意図した監督とコーチの指示言動の結果であることが明白になっている。
監督・コーチは後日行われた会見でこの発言を否定している。しかし、その一方でコーチは、「選手が会見で嘘をついたということか」と質問された際には、
「間違っているとは思いません。彼が昨日発表したことは、合っていると思います」と選手の発言を認めている。
ここにもまた、はっきりとした矛盾が発生している。選手が発表したことは合っているが、選手が発表した指示はしていないと言っているのである。
さらに、この会見においてコーチは「潰せ」という言葉のほかに、「壊せ」という言葉も使っていたことを補足しておく。「壊せ」はより具体的な結果を示す言葉である。
>・コーチは「潰せ」と過激な言葉は使ったが「怪我させろ」とは言っていないし「怪我させろ」という意味ではなかったが、自分の発言が反則行為を導いてしまった
>・監督は「潰せ」も「怪我させろ」も言っていないが、相手を「潰す」ような「強いタックル」のプレイは許容範囲
これは監督の会見での発言内容からするとそういうことを主張したかったのであろう。
>コーチの言いたいことは「笛が吹かれてプレイが止まった後であんなあからさまな反則行為で潰すとは思わなかった」というものだろう。
>これはコーチが監督に嫌われた愛弟子の学生のことを思って学生に監督が好むような「潰す」プレイをするよう指導してしまった忖度案件。
はっきりさせておきたいが、これは忖度案件ではない。反則をうながす指示と言動が選手の会見によって明らかにされている。
そして、だからこそ、監督コーチは選手の会見の内容を否定しているのである。
以上 事実関係の間違いを指摘した。
「当然彼氏彼女ができてしかるべきみたいな程度」なのに非モテであるほうが、絶望・怒りは大きいと思う。
例えば風呂に入らない・髪切らないなんかは自分でもわかるくらい、明確に世間とはずれてて、ウィークポイントが明らか。
「これを直せば」っていう希望が持てる。
でも、最低限のことをきっちりしてて、周囲とも齟齬なく会話できる「当然彼氏彼女ができてしかるべきみたいな程度」の非モテは、
直すべきウィークポイントが見つかりづらい。
だからこそ、「選ばれてもおかしくない」からこそ、「選ばれない」絶望や異性への怒り・憎しみが大きくなるのではなかろうか。
現に、例のインセルの奴も特に外見上からわかる問題点はなかったじゃん。
清潔感?もあったように思う。
「フィールドでの全てのプレイは監督の指示下のものだと思っている。」等と、
初動の一手としては、事態がどう推移しても次の手の邪魔にならないような一手であることが大事。
同時にパッと聞きで世間に好印象を与えるコメントであり、選手を安心させるものであればベスト。
「行き過ぎがあったとしてもタフなスポーツであり若い選手のやったこと」
「彼の姿勢を否定したくなかったし、相手から非難があれば私が矢面に立つということを言った」
問題を
「アメフト観」
「教育観」
にして立場をそこで堅持する。
「改めて映像を見たら現場では気付かなかった行き過ぎが確認できた、そこはお詫びする」
「責任のすべては彼に欠けた積極性を指摘し発奮を促していた私にある」
「選手を責めないでほしい」
「いま一番苦しんでいるのはお互いの選手」
引き続き、教育上の行き過ぎ・ミス・監督のアメフト観という問題にしておく。
こうすれば内部の意思疎通が焦点になり、追及することが選手を叩くことにも繋がり追及しづらくなる。
もちろん選手には「お前のことだけは守るからな」「おかしいのはあいつらの方だぞ」などと因果を含めておく。
これなら最悪のケースでも
「男らしいマジキチ」
あたりで収束していただろう。
コーチのビデオの件も微笑ましく受け止められていたかもしれない。
まとめると
・後詰の姿勢を明確にし部下の動揺と離反を抑える
普通だね。