はてなキーワード: 青年とは
公明党から出てきた政策で、これは良かったと思うものが無い。なぜなら公明党は「キモくて金のないおっさん」を避けてるからだ。
参照:「キモくて金のないおっさん」を救うために、本当の正義の話をしよう
https://bunshun.jp/articles/-/6945
公明党のポスターには「小さな声を、聴く力。」と書かれているが、いつも破り捨てたい気持ちになる。ポスターにいつも出てくるのは、子育てママと子ども、あとはせいぜい若い青年くらいだ。
自分が奴隷だと思えば納得できる。マルクス・シドニウス・ファルクス著『奴隷のしつけ方』によると、奴隷には結婚する自由も無ければ、財産を所有する自由も無い。もちろん救済する必要も無い。
リンカーンは奴隷を解放したが、公明党は長い連立政権で、奴隷を再生しただけだ。
「キモくて金のないおっさん」が倫理観を失うと「無敵の人」になる。宅間守や加藤智大や青葉真司みたいな事件がもっともっと起きることを願う。
ゾウとアリにたとえると、大きなゾウである公明党に対して、「キモくて金のないおっさん」なんてアリ一匹ほどでしかない。
けど、水滴にたとえると、一滴はやがて大河になると誰かが言ってた気がする。
実際に公明党の得票は年々減ってる。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/35099
https://www.sankei.com/article/20190728-5D6GASHOABNT5NMZKV66MHUTNA/
やっとお目当ての漫画を買えたし、Kindleでセールもやってたしで、ほくほくした気分で今月のお小遣い残金を一気に遣い尽くした。
あるところに、森の魔女に生贄として女の子を捧げる風習のある村があった。魔女ハンターのゴルダは村の青年に雇われ、魔女を狩るために森に入った。ところが、ゴルダの被る赤頭巾を見た魔狼達が、ゴルダを魔女の一味と勘違いして襲いかかる。
ゴルダは魔狼のリーダーであるフェンと利害が一致していることを知り、フェンに共闘を申し出るが……。
これは、シリアスストーリーと見せかけて、頭空っぽにして読む系のエンターテイメントwww 赤ずきんゴルダのキャラデザがとてもいい。性癖ぶっ込み過ぎなのに『魔法少女 俺』になりそうでならないところがいい。
BLには珍しく、攻めと受けと狼たち以外の殆どが女性キャラ。ゴルダ周りの女性キャラ達のにぎやかな掛け合いが面白い。
ストーリーには全然難しいところがない。とにかくゴルダのエッチで(胸ボタンが)弾けるワガママボディと人の心が無さすぎる言動を楽しむ漫画だった。ガチムチ好きな助平な人向き。
読みごたえがすごい(ページ数多い)
どうやら『アラジンと魔法のランプ』がモチーフであるらしい漫画。上下巻。
新井仁は東京の大学に行こうと思っていたが、受験に失敗。仕方なく地元の大学に入学した。高校時代まではいじめられっこだったが、大学に入ってからは痩せて髪も染め、パッとしないながらも平穏なキャンパスライフを送っている。
ところがある夜、通りがかりにふと目にとまった車のトランクから、どう見てもその筋の人っぽい、ガタイのいい男が飛び出してきた。男の腕にはガムテープで拘束された跡。どう見ても怪しい男に仁は財布を取られ、貯金も奪われ、家に居つかれてしまう。
しかしこの、「まーくん」と名乗った男、なかなかのスパダリで……。
朝田ねむい作品大好きと言いつつ、ずっと読むのを後回しにしていた、朝田ねむい先生の代表作。朝田先生は商業BL界のなかでメジャーかマイナーかといえばマイナーな方なんだけれども、本作は異常に人気があるので気になっていた。
読んでみてその人気に納得。まーくんのアントニオ猪木みたいな見た目とのギャップが凄まじい、スパダリ力のバリ高さがすごいのだ。朝田作品にしては珍しくハッキリとBLって感じだし。
スパダリといっても大枚をはたいてゴージャスな世界を見せてくれる系というよりは、朝ご飯に鮭を焼き夜ご飯には唐揚げを作ってくれる、そしていつの間にか液晶テレビを1ランク上のでかい液晶テレビに買い換えてくれていたり、部屋の掃除もしてくれるという、実力派のスパダリである。地に足の着いたスパダリ・まーくん。一周回って夢がある。
しかし裏では何をしているのかよくわからない、怪しい所がまたいいし、仁君に「おいていかないで」と泣かれて戻って来るのがまたいい。
まーくんの元彼の存在感が濃くて、下巻では現受けの仁君よりも元彼の方が前面に出てきがちなので、攻めの元彼絶対許さない系の人には向かない。
タイトルは一周回って「最高の」っていう意味になる系のスラング。竜人×人間 のバディもの。
亜人のアルフォンスは警備業界最大手「ライフディフェンス」社の本社総務部で働いていたが、休日に遭遇した銀行強盗事件を単身で解決してしまったことで左遷されてしまう。
左遷先は、社内でも回されたくない部署ナンバーワンと言われている「特殊害獣対策室」だった。だが室長のダンテはアルフォンスを亜人だからといって差別せず、バディとして対等に接してくれる。自由奔放で人たらしながら、繊細な気配りも見せるダンテに、アルフォンスは惹かれていく。
バディもの。現場でのお仕事シーン(害獣退治)は少なめ。それよりはオフィスでの同僚達との会話シーンとか、アフター5とかのシーンが多め。設定はファンタスティックだけど、正統派オフィスラブっぽい感じ。
これまたキャラクターデザインがとてもいい。アルフォンスのデザインは特に凝っている。
ダンテのお姉さんみのあるお兄さんなキャラクターがとてもよく、そんなダンテにアルフォンスが惹かれていくとこがすごくいい。
表紙絵からはそんなに甘々な印象はないし、電子書籍サイトやTwitterで無料公開されている第1話にはラブ要素が全くないんだけれども、2話以降はアルフォンスとダンテは始終イチャイチャし続けている。しかも「※付き合っていません」という注釈付状態で、これで付き合っていないだと!? という驚愕のイチャつきぶり。そしてアルフォンスの悩みっぷり。
これ、商業BL好きの腐女子向きというよりは、二次創作BL好きの腐女子向き。
「※付き合っていません」なのに果てしなくラブい……これ重要!!!!!
二次創作でBLを覚えて商業BLに手を伸ばしてみたものの、なんか思ってたんと違ってがっかりしたという腐女子におすすめの1冊。
本編もボリュームがあり、おまけ漫画まで沢山ついて来るので、お腹一杯になる。
が! この設定とストーリーでたった一巻で終わらせてしまうのは勿体ない! ぜひ続きを描いて欲しい漫画。
とりあえずググってみたら1890年代くらいの文章がたくさん引っかかった。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/776556?contentNo=219
然レドモ此ノ陰謀の最モ熱心ナル助成者ノ一人ハ「ノウゴロド」ノ大僧正「セッチン」ナルカ、「セッチン」ハ俗帝ニ反シテ其ノ管内ニ在ル所ノ衆多ノ法皇即チ道士ヲ煽動セリ
今回見つけた中では最も古かった。これはトーマス・ヘンリー・ダイアーの『History of Modern Europe』の翻訳で、原文では以下のようになっている。
But one of its most zealous supporters was Setschin, Archbishop of Novgorod; who incited the multitude of popes or priests in his jurisdiction against the "profane" Emperor.
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799370?contentNo=128
「グドウィン・サント」ヨリ成リ世界中最モ不毛ノ土地ナリシ「フランダース」ノ「ペース・デ・ウエース」モ勤労ノ効ニ依リ豊饒ナル性質ニ変シ今ニテハ欧州中最モ生産多キ土地の一ト為レリ
こちらはJ・S・ミル『Principles of Political Economy』の翻訳で、原文は以下のとおり。
One of the barrenest soils in the world, composed of the material of the Goodwin Sands, the Pays de Waes in Flanders, has been so fertilized by industry, as to have become one of the most productive in Europe.
最初の「One of the barrenest soils」については「世界中最モ不毛ノ土地」と訳しているあたりに苦心がうかがえる気がする。
https://books.google.co.jp/books?id=y3ljPfzhz6EC&pg=PP11
加ふるに本書の主人公マコウレーは、著者が最も同情を表せる一人にして、其著作は著者が日夕誦読精通する所、其時代は著者が最も熟通せる所なりといへば、本書の著者が本書に置ける得意想ふべきなり。
竹越與三郎『マコウレー』は1893年刊行らしいので批評も近い時期に出たのではないか。「日本評論」は、後の日本評論社の雑誌ではなく、1890年から植村正久が発行したという同名の雑誌のことと思われる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871718?contentNo=235
されどすべての文字上にあらはれたる人心の形象を文学なりとして、新聞紙を最も重要なる文学の一つとせむは、文学の義をあまりに広く取り過ぎたるものにて、これがために青年文学会の進歩の多少障碍さらるべきは惜むべき事なり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993477?contentNo=128
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/809188?contentNo=11
「リーランド・スタンフォルド」大学ノ如キハ、千八百八十五年ニ「リーランド・スタンフォルド」氏及其夫人ヨリノ莫大ナル寄付金ニ依ッテ創設セラレタル大学デアルガ、今日デハ、米国ノ諸大学ノ中デ最モ盛大ナルモノノ一デアル
このように並べてみても、通説のとおり英語の「one of the most 〜〜」構文を直訳したものから「最も〜〜の一つ」構文が広まっていったように思える。つまり「誰が言い始めたの?」という質問に対しては「明治初期の翻訳家のうちの誰か」が答えになる。明治といえば、いわゆる言文一致運動があったように、まだ「近代日本語」自体が固まりきらず模索されていた時期であるし、またここに挙げた森鴎外・田口卯吉・竹越與三郎・外山正一などは、いずれも英語の使える教養人であるので、意識的に「直訳」的な表現を取り入れていったのだろうとも思われる。ちなみに、そもそも「〜〜の一つ」といった言い方自体が、英語の「one of 〜〜」から多用されるようになったという話もあるらしい。そうした文体は「欧文脈」「欧文直訳体」だとか言われて研究対象になっているので、気になるなら本格的に調べてみてはどうだろうか。
つい先ごろ、薬物の利用をした。以下で具体的にどの薬物をどう利用したかを書くことはない。また、その瞬間における体験がどのようなものであったかについても書くつもりはない。私が書くのは、翌日以降に残った薬物の影響と、そこから感じた「政治」についてだ。
「それ」からしばらく経ってから、PCチェアでうたた寝した。それ自体はしばしばあることなのだが、ある夢の最中で「これは夢ではないか?」と思い、そこに居合わせた人に自分の頬をつねってもらうように頼んだ。痛みを感じたので無事夢ではないことがわかったのだが、それは結局夢であることをPCディスプレイを目の前にして知ることになる。
それ以降はいわゆる「金縛り」状態を2~3回ほど繰り返した。自分がPCデスクの前に座っていることは分かっていて、半分夢の中にいるせいで体が動かないことも分かっているのだが、何もなすすべが無いのである。何度起きようと試みても無駄だった。金縛りの最中に、おそらくは夢由来の幻聴も知覚した。ひた、ひた、と自分の後ろ側を何者かが歩いている音がするのである。幻聴であること自体は比較的すぐ看破したが、それで音が消えてくれる訳ではないし、「万が一もし本当だったら?」という恐怖や不快感も続く。
その時はたしか「これが金縛りという医学的現象とそれに付随する意識低下に基づく幻聴だと分かっていても怖いのだがら、そりゃ枕元に誰かが立つという話が山ほど作られるわけだ」と金縛りと幻聴に苦しみながら考えていたように思います。結局その後何かの拍子に金縛りが解除されベッドに飛び込み、ぐっすり眠りました。
翌日。昼過ぎですかね、PCチェアに座っていると唐突な眠気が襲ってきました。そしてまた金縛りに。今度は周りが明るいのもなんだったらディスプレイに何が表示されてるのかも分かるぐらい意識がはっきりしているのにもかかわらず(まぶたを開けたまま寝てたのか、記憶がまぶたの裏に焼き付いていたのかは判然としません)、腕をアームレストから引き剥がすことが出来ないのです。この頃になると結構夢世界のルールが分かってきていて、ある程度は現実世界らしく振る舞うが、度が過ぎると初期配置にリスポーンする。
目覚めようと色々試してみました。体が動かないので叫んでみたり(今でも実際に声が出ていたのかどうかは分かりません。一応壁厚いし昼間だからまあいいかと思って叫びました)。どのようにしてか体重のバランスを変化させ椅子ごとすぐ後ろのベッドに飛び込むことは出来ましたが、いつの間にかまた普通に座らされていました。右手だけがある程度自由になったので手元のガラスのコップを放り投げました。ガシャンという音と女性の悲鳴が聞こえてきました。奇妙に思い都合良くもう一つあったコップをまた投げてみました。また同じくガシャン、キャー。効果音の使い回しだな、と思いました。このあたりからどうでもよくなってきて、右手でロジクールの無線マウスを開けて電池を取り出し、口に入れてみました。その電池はソフトキャンディのように柔らかく噛み切れ、口の中には電気の味が広がりました。金縛りが解ける気配もないし、せっかくだから現実じゃ出来ないハチャメチャなドエロいことをしようと思ったが勃たない。
飽きに飽きたところでようやく両腕が本当に自由になったので(この時点ではまた両手だけ動かせても意味ねーよと思っている)、なんとなしに首の裏で組んでみた。そしてまたゆるめの金縛りに戻るのだが、今度は指先を動かそうと念じると実際動き、首の裏の神経が反応するのである(あたりまえ)
その辺りから徐々に体の操作権を取り戻し、ついには金縛りから脱するに至った。どうやら1時間ほど金縛りの中にいたようです。その後も軽微な「自分の手が自分の手に思えない」現象などはありましたが、今は元気です。
挙げた種々の現象はおそらく離脱症状のあらわれであったと思われる。現状のニートのままであれば、まあ用法用量を守って数日おきに刹那的に楽しみ離脱症状は当然の報いとして受け入れる、という選択肢が有望に思われる。
しかし仕事に就こうと思えばこうした薬物からは距離を取らなければならない。なぜなら、楽しい休日の次が必ず丸1日潰れ増田に長文を投げるぐらいの仕事しか出来ませんでは困るでしょう。
こう考えていると、薬物緩和肯定派がよく言う「政府は国民の幸せなど全く考えず、いかによく働かせ税金を搾り取るかという観点から薬物を禁止している!」といった主張へも、多分緩和派とは別の意味で同意できるように思うのです。この程度の薬物(=歴史に悪名を刻んでいない薬物)ですらこうなのだから、より作用が強い物はより翌日以降の影響もより強かろう。それを規制しようとするのは政府としては極めてまっとうなことであるように思われる。俺が総理大臣でもそうする。
薬物論争においては常にやり玉に挙げられる酒タバコも、翌日への引きずりかたが比較的軽微であるというところで、許可されてきたのではないでしょうか。二日酔いはたいていの場合本人の無茶な飲み方が問題と考えられているし、タバコの離脱症状はより些細である(あくまで外から見る分には。タバコが切れてナイフを振り回した人を俺は知らない)
例えばアルコールやタバコの年齢制限だってそうだ。われわれは未成年の酒タバコは成長に良くないと思っているが、一度でも根拠となる研究のタイトルとか要約を聞いたことがあっただろうか?(同じ理屈で同じく根拠が示されずコーヒーや炭酸やマッサージ器を禁止された人は多そうだが)結局の所われわれは未成年の酒タバコを、将来健康な青年として税金と年金を納めてもらえるように禁止しているようなものだ。
「政府は国民の幸せなど全く考えず、いかによく働かせ税金を搾り取るかという観点から薬物を禁止している!」と俺も思うが、俺は政府は正しいことをしていると思う。これは愚行権の問題で、もはや俺の手に負える問題ではない。『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください――井上達夫の法哲学入門』というクソにも程があるタイトルの本が実は、日本を代表する法学者による一般向けの本の中では相当高いレベルにあるのでおすすめです。
愚行権の話はおいておくにしても、ひとつ問題がある。われわれは、「政治」が嘘をついているとき、その嘘を暴くことが「政治批判」になると思ってきた。先に挙げた「政府は国民の幸せなど全く考えず、いかによく働かせ税金を搾り取るかという観点から薬物を禁止している!」というのも、一聴すると「市民に自由を!」とシュプレヒコールで答えたくなるが、では月曜日に離脱症状でうっかり自殺したり「サーセン、副作用で動けないんで有給…はもうないんでしたっけ、まあとにかく休みます。…ツーツー」といった事象が多発するような社会に住みたい人間などいないのである。
こんにち、嘘を嘘と見抜くだけでは批判にならないのです。では…
続きは気が向いたら書きます。
これはガチガチのガチにルッキズムの話になるので誰もおおっぴらにしたがらないが、
フェミ議連が揃いも揃って若くて綺麗だったら、あの要求は通っていた。みんなあの集合写真を見た時点で「あ、こっちに道理はない。たぶん」と直感して引いていった
ラーメン評論家と店主の件も外見が逆だったらまた違った結果になっていた
若いころの小山田圭吾は目がクリクリとして可愛げのある青年だったから、毒を吐いても許されたが、今は目がクリクリして気持ちの悪い中年だから何をしても許されない
北守さんがクボユウスケくらいの顔だったら、いや、せめて平林緑萌くらいの顔だったら、もう少しみんな彼の言うことを聞いていたし、彼も今みたいな社会的立場ではなかった
KuTooが一応の成功を収めたのは、石川優実が若くて小綺麗だったからだ
芸人でも156cmのちっちゃいオッサンは風俗堕ちを楽しみにしただけで半殺しに遭ったが、イケメン芸人は売春防止法違反でも活動できている
スポーツ解説者でもNHKは見栄えのまともな人間を使いたがる。サッカーなら中田浩二や福西崇史。良い顔から発せられる言葉には説得力が出るからだ
池江璃花子は若くて美人、、、なのに色々言われてたな。まあそういうこともある
「…といいますと?」
「隆という名前の方は既にこの世にいるんですよ。なので別の名前でお願いします」
息子の出生届を提出しに来た僕は、窓口の青年の説明に面食らってしまった。
「うーん、じゃあ隆雄にしようかな」
「じゃあ隆治は?」
「少々お待ちください。………ああ、被ってますね。隆治123-ta-ka-321とかなら大丈夫そうですね」
「それ人の名前として変じゃないですか?」
「最近は結構こういったお名前つける方も多いですよ。もしあれでしたら広辞苑貸し出してますんでお名前は後でも結構ですよ」
ここから先は考えてない
5年前くらいにショートショート作家目指してたとき思いついた設定ふと思い出したから書いてみた
パクッていいよ。なんか賞取ったら賞金半分ちょーだいね
これだけ日本でバッシング受けてても精神的に全然ダメージ受けてなさそう
普通ならおそれ多くて男性側から婚約破棄する状態なのに日本を敵に回しても眞子さまとの結婚を諦めない
これだけメンタルが強い男なら眞子さまと結婚してもこの先も安心なんじゃない?
眞子さまが落ち込むことがあっても、「大丈夫!!俺がついてるよ!!」ってずっと無敵の状態で支えてくれそう
ただ、眞子さまの結婚問題で眞子さまはずっと日本で矢面に立ってて、小室圭氏は外国にずっといて、眞子さまのことを日本に帰国して守ろうとしなかったね
「でも幸せならOKです」の青年はいま何をしてるんだ?眞子さまの画像をスマホのロック画面にしてお守りにして大学合格したらしいが
「待てえええええ!!!!眞子さまのことをこの世で一番愛してるのは俺だ!!眞子さまのことを一番幸せにできる男は俺だ!!さぁ、眞子さま、俺と逃げましょう!!」って言って眞子さまを連れ出してほしい
その場面の映像を見ればわかること考えればわかることを、
主人公の男の子の心の声でベラベラとひたすら説明してるのなんなの??
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81647
この記事にも「息が苦しい」の場面のこと書かれてるけど…
息が苦しい、肺が痛い。前に進め、もっと足を動かせ。→見て想像したらわかる
雪で助かった。→見たらわかる
禰豆子、穴を掘ったのか。妹がネズミみたいになってしまった。→見たらわかる
そしてすごく顔をしかめている!→見たらわかる
首がもげてるのに動いた。→見たらわかる
なるほど仕掛けがあるのか→見たらわかる
俺はダメなのか、くじそけそうだ。→見たらわかる
手を切っても少ししたらまた生える→見たらわかる
外した!逃げるのが速い!→見たらわかる
苦しい、早く上がらないと→見たらわかる
寝てる、血も止まってる→見たらわかる
これが都会か、夜なのに明るい→見たらわかる
このマンガが少年少女向けだとしても、説明しすぎじゃないかなああ。
むしろ少年少女向けだからこそ、行間のある作品を見て想像力を育てるべきなんじゃないの。
戦後おじさん、遅れて来た青年おじさんだからそう思うだけなのかなああ。
話によると作者さんのつくったネームが主人公が寡黙でストーリーがわかりにくいっていう理由で
そのときに主人公は寡黙なまま、心の声がやたら饒舌になったのかもしれない。
「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる」って言ってるけど、
みんながこういう説明過多の演出を許容してるってことだものな。
1話見ただけで不要な説明多すぎて脳がオーバーフロー起こした。
すぐ見るのを止めたしまったくストーリー知らないからこれはネタバレじゃないけど、
ラスボスってひょっとしてお父さん?
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
承認欲求の管理については、幼少期は承認を強く求め、少年期からは承認を強く求めすぎるとコミュニケーションへ難が出ることを学習して抑えるように努めるんだけど、ある程度の人生経験を積んだ青年期に入れば承認されるには努力が必要で承認されるために努力する者は素晴らしいと理解する。
つまり、少年期の「承認を強く求めすぎるとコミュニケーションへ難が出ることを学習して抑えるように努める」段階にいる人は他者の「承認されるために努力する」という行為が自分の今の承認欲求の管理の段階に合わなくて嫌悪感を持っちゃうことがあるんだよ。
これは言ってみれば、サンタさんが存在するか否か?みたいなもんで、幼少期はサンタさんは居ると主張するし、少年期に入るとサンタなんて居ねーよと言うが、青年期以降は”幼少期の子のために”サンタさんは居るよって言う段階を踏んでいくのと同じ現象。
少年期のサンタさん理解では青年期以降がなぜそんな発言をするか理解できないだろう。
人間はいきなり大人になるわけではないので「承認を強く求めすぎるとコミュニケーションへ難が出ることを学習して抑えるように努める」という段階にまだ居る人が居たら優しい目で見てあげて、それとなくヒントを与えるのが青年期以降の大人の役目なんじゃないかなぁと思うよ。