はてなキーワード: 賄賂とは
どの政治家に変わっても、たとえ野党に変わっても緊縮増税派ばかりでインフレ、好景気は我々の存命中に訪れない気がしてきた。
辛いけど、フィクションの世界に没入してどうにかできる世界を夢想するしか無い。
ドラえもんは素晴らしい。架空の道具だけど、あらゆる問題の解決策を想像させてくれる。
それだけで心の精神安定剤だ
素人はここでもしもボックスを使って、「政治家がMMT派、リフレ派が多く、財務省には緊縮派が少なかったら」とかやってしまうだろう。
でもそれは駄目だ。もしもボックスはパラレルワールドを作ってそのような世界にしているだけなので、根本解決ではない。
ポータブル国会を使って、法律をつくる方法もあるだろうが、あの道具はかなり勝手なことをすると解散をする機能がある。
どの程度で解散するかはわからないが、実際の政治にかなり影響がでるわけだから受け付けてはくれそうにない。
ネコシャクシビールスで皆お金じゃぶじゃぶ派にしたところで、数日で効果は切れるだろう。
そもそも、道具の効果によって一気に解決することはあまり望ましくない。
道具の効果が切れた時が未知数で、道具の性能によってどの程度実現可能かわからない。
道具を使っているが、後押しをしている程度にとどめたほうが安全だろう。
というわけでもっとも直接的なのは、増税をしたがる政治家や官僚を失脚させるのが一番だ。
会見中にどこでも窓を使って、時限バカ弾を使う。
それがスキャンダルになるか、国民を不安にさせて退陣に追い込む。
腹の中でどんなことを思っているのか楽しみだ
タイムテレビでスキャンダルの情報を収集することもできるかもしれない。
シテクレジットカードを使って記者数十人をその場所(官邸か与党本部か料亭)に来るように仕向ける。
そしてスキャンダルゲット
まずは増税がどれほど庶民には大変なのかを体験してもらわないことにはな。
そこで税金鳥をつかって…と思ったが連中は本当に資産を親族に移動させて隠すことに長けているので作中で風刺されていたような事態になるだけだ…
タヌ機を使って、増税で失脚するという幻覚を見せて怖がらせるというのはどうだろうか。
人によっては神の出現で気持ちが変わるかもしれない
服の質
値段が格段に下がってるからコスパは上がってると思う。30年前にデパートで買ったポロシャツ1万円近くしたよ。
古いものが新しいものに代わっていく、時代とともに世の中が良くなっていく、自分はもう古い側なんだと気づいたときは悲しいよね
40年前のアッパーミドル・ミドルより、今のローワーミドルのほうが生活は充実していると思う
それができないという話だけど
夏の暑さ、地方衰退
これは同意
地元地方の農村だけど、モールやEコマの発達で買い物は便利になっている気もする
同意。欧州主要国は2.0付近あるみたいだけど、日本はいつまで本腰いれないの
今も悪いけど、昔から悪かったろう。
賄賂系は、昔は表に出なかった、問題視されなかっただけじゃないの
同意。キュレーションの跋扈にGoogleの対策が追い付いてない。広告ありとはいえ、まあ無料なので
30年前の日本人に戻りたいですか?と聞かれたらほとんどの人がNoだろう。
子供のころに戻りたいかなら多くがYesだろうが、2020年のおっさんおばさんが、1990年のおっさん、おばさんになりたいか、という問いだ。
3行まとめ
・仮面ライダーゼロワンという特撮では人型ヒューマギア(アンドロイド)が多数登場しMCチェケラはラッパー型ヒューマギア
・登場した第28話において政治家の汚職事件を目の当たりにしシンギュラリティを超えて自我に目覚め「汚え人間は滅びろ!」と叫び暴走して怪人になる
・奇しくもその後作中のラスボスと真ラスボスが導き出した結論が同じ「人類滅亡」
ゼロワンはコロナにより途中何度かの総集編を挟むとはいえ、全4クールの特撮である。
その3クール目の中盤においてMCチェケラは他者の介入ではなく自分の意志によって「人類は滅びるべき」であるという答えに自らたどり着く。
その後に真のラスボスが自我に目覚めた上で同じ結論にたどり着くのが4クール目中盤であり、実に丸々1クール分早く作品の究極の問いかけを始めてしまったことになる。
これが主要キャラの手によるものならばまだしも、MCチェケラはぶっちゃければ各話ほぼ使い捨てのゲストキャラ兼怪人でしかない。
真ラスボスがこの答えを導くのにかかったのは番組のほぼ全期間、それに対してMCチェケラはたったの1話。
作中の描写に置いては極めて短時間での結論であるが、その問の重さは同じであるはずだ。
人類という悪意の源泉が存在すること自体が人とヒューマギア双方に不幸を生むのなら、人類こそが滅びるべきなのでは?という問いかけをしたのがゲストキャラだろうとメインキャラだろうと、問いの内容は同じなのだから。
MCチェケラの存在があまりに時期尚早かつ劇的であったことから、彼はその後作品から半ば抹消されることになる。
総集編においても彼がこの思想に目覚めた理由が「ラッパーという職業がもともと人の悪意を蓄積しやすい職業だったからだ」という職業差別のような言い方で片付けられてしまう。
何故そうなったのかは、作劇上の都合も大きいだろう。
その後3クール目後半から4クール目にかけての主人公の決め台詞が「夢を通じて自我に目覚めたヒューマギアは絶対に暴走はしない!」であり、極めて食い合わせが悪いのだ。
夢や自我に目覚めたら暴走しないというのならば、人を滅ぼすという夢に目覚めシンギュラリティを超えたチェケラが怪人となったことは暴走ではなかったのか?という当然の疑問が生まれてしまう。
この噛み合わなさがすぐに片付けられたのならば、単なる作劇上の小さなミスで終わっただろう。
だが。そこからフォローを一切しなかったのはあまりにも大きな痛手となる。
チェケラが人類滅亡思想に目覚めた理由に対して、ラスボスの介入があっただとか、故障があったとか、なんなら夢や自我の定義を狭めて使っていることを公表するとか、何かしらやりようはあった。
だが仮面ライダーゼロワンスタッフが取った対応は、完璧な無視である。
作品が最後に立ち向かう問がまさにその「ヒューマギアが人類滅亡を夢見た時、人はどうやって対話をするのか」なのだから。
MCチェケラに対して主人公や番組スタッフが行ったのは「ぶっ倒したら存在を忘れ去る」ことだった。
では、共闘や話し合いを何度も繰り返し物語をいくつも積み上げてきたラスボスに対してもそれを繰り返すのだろうか?
あれだけの時間を積み上げて、結局は都合が悪くなったので存在をなかったことにするのが令和最初のライダーのやり方になるのか?
いい年をして特撮番組に齧りついている大きなお友達の注目が集まっている。
1つはここで語れるような先駆者になりすぎて番組から消された問題児。
もう1つが、ラスボスと違って咄嗟に逆上して汚い言葉を口にしただけの薄っぺらいチンピラアンドロイド。
では考えてみよう。
MCチェケラの口にした「汚え人間は滅びろ!」は果たしてラッパーの雑なDISだったのだろうか?
彼がなにに対してそこまで怒りを示したのかをまずは公式サイトから引用してみよう
「お仕事五番勝負」の最終戦は、ヒューマギア自治都市構想を巡る住民投票で支持を得るための演説対決となった。ザイアは市会議員の由藤(大塩ゴウ)を起用し、ヒューマギア廃絶を強力に訴える。
対する或人(高橋文哉)も政治家ヒューマギアで対抗しようとするが、ヒューマギアは政治家になることを禁じられているため“政治家ヒューマギア”は開発されていない。イズ(鶴嶋乃愛)はラッパーヒューマギアのMCチェケラ(副島淳)で勝負を、と提案する。
或人とチェケラは由藤が賄賂を受け取っている現場を抑えることに成功。テレビの公開討論会でチェケラは映像とともに由藤の悪行を暴露する。一気にチェケラの支持が上昇するが、由藤はザイアスペックを使い濡れ衣だと主張。証拠となる映像を提示し、チェケラの映像をフェイクだと言い放つ。
引用元URL https://www.tv-asahi.co.jp/zero-one/story/?28
短くまとめると「討論相手の政治家が賄賂を受け取っていることを映像と共に批判した所、相手側は偽の映像を用意してきた」ということになる。
十分だと私は思う。
まず、政治家とは人間社会全体の方向性を決めるような職業であり、それが悪事に手を染めるということは人類の方向性そのものが悪に向かう傾向があるということになる。
次に、その悪事が暴かれたときのためのフェイク映像があっさり出てきたということは、悪事を働く者達はその隠蔽に長けており、人類はそれを裁くだけの自浄作用を持ち合わせていないということだ。
なにより、記録というものはヒューマギアにとって記憶とイコールである。そこにフェイクを混ぜるのは世界そのものの再構築にすら近い極めて危険な行為となる。自分の罪を逃れるためなら平気でそれを行う人間の姿は倫理的に大きな絶望を与えることが想像に難くない。
MCチェケラが目撃したのは「人類社会は確実に悪に向かいながらも自浄作用がなく倫理観が崩壊している姿」なのだ。
作中の他の場面で、『ヒューマギアってやっぱ純粋だな。よくも悪くも、ラーニングの影響をもろに受ける』いうセリフが出てくるが、まさに純粋な心をもって解釈すれば人類は滅亡すべきであるという結論にたどり着き、ロボット三原則との矛盾からシンギュラリティに到達するのは当然とも言える場面なのだ。
MCチェケラ、彼の語る人類滅亡論はある意味では極論だが、そのロジックが間違っているとは言い難い。
それについて何故、主人公もスタッフも向き合うことがなかったのか、それでいて何故今になって同じ問題を最終決戦として取り上げるのか。
私にはそれが分からない。
「Go Toキャンペーン受託団体が二階幹事長らに4200万円献金」
こう題した週刊文春の記事が今ネット・SNSを通じて話題を呼んでいる。
このタイトルだけ見ると、一見「Go Toキャンペーン受託団体が4200万円の献金でもって自団体の利益になるような政策を買ってきた」ように思える。が、しかし実際記事を読んでみると、この献金自体は分かっている分で2011年から2018年までの間に行ってきた献金額の合計というだけで、明らかにこの政策のための献金ではない。二階氏が過去に受けたとされる合計470万円の献金を理由に今回の政策を押し進めたかのようにも書かれているが、それについてもそんな少額で2020年の今になって動く訳がないだろう。今回の政策を「長年の献金実績によって政治と癒着した結果」として捉えるのならば確かに問題ではあるが、その癒着の事実も現状真偽は定かではない。献金の有無で癒着と判断するのならば全ての献金は容易に黒となる。ミスリードを狙うような記事の書き方も悪いが、まずは落ち着いて今後の追及を待つべきだ。
さて、話題となった記事について述べてきたが、私が今日ここで記しておきたいのは献金と政治活動の繋がり、特に企業献金についてである。上記の記事のことはこれを考えるきっかけになっただけなので、何かを期待した方はここでブラバを推奨する。個人や企業が政治家に金を渡す、これだけ聞くとどうにも賄賂のように思えあまりいいイメージを持たないが、実際のところ献金とはどのようなものなのか。今回はそれを確認しておきたい。
政治献金とは何かはっきりさせておこう。最初に確認したいのは、なぜ献金といったものが必要なのかについてである。これはズバリ、政治には金が必要だからである。まず議員になるための選挙活動費、選挙で勝つためには自分を応援する人々を増やし、政治団体を作って運営していく必要がある。選挙期間中は選挙運動に伴う広告宣伝費用、人件費、事務所に係る費用等一部公費で賄われるものもあるが、その負担は大きい。晴れて当選して議員として活動を始めてからも、給与として年間2000万円以上の歳費や様々な補助があるが、新たな事務所を構えたり自分の補助をする秘書を増やす中で追加の費用は必要になってくる。こういった政治活動にかかる費用を賄うために、個人や企業の献金が存在するのである。
ではその政治献金にはどのような種類があるのか。詳しくは政治資金規制法を参照。政治献金には大きく分けて、個人が政治家個人や政党に献金を行う個人献金、そして企業が政党に献金する企業献金の二種類が存在する。
まずは個人献金について、これは日本国籍を持つ個人であれば今読んでいるあなたにも可能な献金である。相手は二通り、政治家個人と政党(及び政治資金団体)だ。ここで政治家個人とすると各所から怒られそうな気もするので訂正しておくが、政治家個人への献金は原則禁止されており、政治家に献金する場合はその政治家が指定する資金管理団体や後援会を通じて献金することとなる。ざっくりと理解の上では、個人献金には政治家個人への献金と政党への献金があるという程度でいいだろう。
次に企業献金について、この場合の相手は一通り、政党だけである。企業の献金の場合、政治家個人への献金は特定の企業に見返りを与えることに繋がらないよう禁止となっている、というところが「一見」大きな違いだ。ここで「一見」としたのは、実はこれには抜け道が存在するためだ。企業献金では、先述のように政治家個人への献金が禁止されている一方で、政治家の所属する政党や政治資金団体へ献金することは認められているため、一度企業が政党や政治資金団体を経由してしまえば、政治家個人が間接的に献金を受け取ることは容易に可能なのだ。これは企業献金の抜け道として指摘されているが、現在法律で禁止されていない。もう一度、詳しくは政治資金規制法を参照。
私はこの企業献金について、大きな疑問を持っている。企業献金で一番重要なのは、献金が特定の企業への見返りに繋がってはいけないという点だ。もし見返りがあれば、それは即時に賄賂と同じになる。だが、その見返りは本当にないのだろうか。先述したように、政治には金が必要である。そこで金を出す企業は言うなればスポンサーだ。スポンサーが何も言わず、ただ社会貢献のためだけに金を与えるだろうか。そこには大きな疑問が残る。事実、この企業献金については調べればいくつも不祥事が出てくるので、気になる方は自分で調べてみるといい。
ここまできてやっと本題。企業献金について記していこうと思う。ここからは私の纏まっていない考えを記していくだけになるので読みにくくなり申し訳ない。あくまで私の個人的な意見であることを念頭に置いてあなたも一緒に考えてほしい。
私ははっきり言ってこの企業献金の仕組みは実質的な賄賂だと感じている。必要悪とでも言おうか、完全な悪だとは思わないが、仕組みについては再考するべきだと考えている。その一番の理由は、企業と政治の癒着問題についてである。政治には金がかかる、それは紛れもない事実であり、何らかの形での資金提供は必要だ。その意味において、企業献金は大事な政治のガソリンになっており、必要な存在だと言えるだろう。しかし、やはりそれでも現状の仕組みだと企業と政治の癒着は確実に起きていくだろう。企業、そして業界は政党を通じて政治家に資金を提供することを通じて自社、自業会に有利となる政策の提言を行っていくことは想像に難くない。それを各業界からの意見集約として捉える見方もあるだろうが、そこに金の大小という一つの物差しがどうしてもできてしまう時点で、一部に有利な歪んだ意見となる危険性は無視できない。そして、もしそれがその業界の発展、ひいては経済の発展に寄与するものだとしてもまだ問題は残っている。それは企業の利益と一般の国民である我々との利益は必ずしも一致しないということだ。もちろん全ての人々に都合の良い政治などあるわけはない。だが、私たちは自分たちの暮らしを、国を良くする可能性のある政治家を選挙によって選出するしかない一方で、企業は金でもってその政治に大いに関与できるのである。もちろん全てそうだと言いたいわけではないし、企業も社会の一員として政治に参加する権利があるのは分かるが、これではあまりにもアンフェアではないか。それなら私たちにより良い暮らしを訴える政治家ではなく、私たちの暮らしをより良くする提言をする可能性のある企業から多く献金を受けている、政党の政治家を選んだ方が意見が通りやすいというものだ。その通りだ、と言われればそこまでかもしれないが、私にはそれがどうにも納得できない。資本主義だ、金を多くもっている者が偉いのだとまでは言いすぎだろうが、政治にその側面が感じられるのはどうにも腑に落ちない。政党の活動資金の多くは政党交付金で賄われているし、企業献金を全く受け取っていない政党も存在する。企業献金の大小でもって1か10かのように語るのは言い過ぎかもしれない。私が潔癖すぎるのだろうか。まずは落ち着こう。
さて、ここまで私の考えを本当に思うままに記してきたが、私はやはり現状の仕組みを再考すべきだと強く信じている。政策の提言を行いたい、経済の活性化を願うのであればそれ専用の場があるべきだし、政治に金が必要であればそれはそれとして集める場所があるべきだ。その二つが混じり合うべきではない。もし奇跡的にこのただの日記を読む政治家、専門家、そして今読んでいるあなたに問いたい。あなたは政治献金についてどう考えるかと。
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(最後に)
これは一大学生がその日感じたことを記録しておくだけのただの日記です。
ここに書かれている内容は事実とは一部異なる場合があります。何なら全部間違ってると思って読むことをオススメします。ただの日記です。少しでも気になった方は自分で調べ、自分の頭で考えてください。ただ記載内容に誤解を与えるような明らかな間違いがある、誰かに意図せず不利益が生じる場合は修正致します。
また、Webに載せている以上いかなる批判もあるものとして考えておりますが、行き過ぎた誹謗中傷はおやめ下さい。
今後も日記.○のような感じで不定期で投稿をしていく予定です。次回はコロナ報道におけるメディアについて書きます。たぶん。ではまた。
はてなではパソナや竹中平蔵が出てくると罵倒するのが文化みたいになってる。むしろ関係ない話題でもパソナとか竹中平蔵出してディスってる。経済ってそういうことだったのか会議とかを読んで育ったものとしてはかなしいので、少し擁護してみようかと思う。
たぶん、「竹中平蔵によって主導された小泉改革によって日本に新自由主義が展開され、その結果日本の良い点(従業員を安易にクビにしないとか)が破壊された。」っていうのが竹中ヘイトの根本だと思う。でも、その流れで竹中経済財政政策大臣が果たした役割って、どっちかっていうと「産業空洞化が進みリストラの嵐が吹き荒れている日本で、それに対応するための労働制度を導入した」っていう感じじゃないかな。問題に対応したのが竹中大臣なのであって、問題を作り出したわけじゃないと思う。
電通が悪いのはよくわかる。オリンピックのためにIOCに賄賂を送ってフランスで指名手配されるとか、日本の恥だと思う。経産省とずぶずぶなのは真正面から汚職だし、この間出た博報堂の仕事を受けさせない、っていう締め付けもよろしくない。
私の知る限り、パソナが電通と同じように悪いっていうのはあまり聞かない。労働問題の最前線に立つことで様々な問題のぶつける先になっているし、その意味で批判されることは多いだろうけど、立場上そうなるよね、としか思わない。リストラの時には人事部は嫌われるだろうが、リストラするのは人事部の責任ではない。あと、「ピンハネしている」から印象が悪いのと、政府の仕事を多数請け負っているからなんとなく印象が悪い、程度。どれも別にパブリックエネミーになるほど悪いことだとは思わない。政府の仕事を多数請け負っているというのは、汚職がないのなら、どちらかというとポジティブに評価すべきことだと思う。「ピンハネ」に至ってはビジネスのことを何も知らない人だなあとしか思わない。
別に100%擁護すべきだとは思わないけど、新自由主義を信じていて、ある程度経済学の知識があって、ある程度財界にも影響力がある人が日本にいることは、日本経済にとってプラスだと思う。共産党があるていど勢力あったほうが国会が良いものになるのと同じ。でも、リベラル寄りの政策を実現すると共産党は褒められるけど、新自由主義よりの政策を実現すると、竹中平蔵は叩かれるよね。東京都の資産売却とか、基本正しい方向性だと思うな。水道事業の売却は個人的には好きでないけど、その辺は議論されるべきことで、まとめて批判されるべきことではない。ましてやパブリックエネミー扱いされるべきことではない。
そんな賄賂の要求があったかどうかは全然情報ないんでうがった見方すぎるなって思うけどさ・・・・
まず黒人かどうか以前の警察の強権に引いたし、「黒人なのか」の話題になった時、1個1個のシーンであそこまで強行一点張りの対応以外にやりようあったんじゃないかっておもうのもあるんだよな、ちょびっとずつ穏健にしたらあんなことにはならなかったんじゃないか・・・
飲酒運転、かもしれないで車から引きずり出して押さえ込む前にもっとソフトにやれたんじゃないか、いったん逃げられてもナンバープレートから照合して後から取り調べできたんじゃないか、テザーを出して活動停止させるのに拘らなくてもよかったんじゃないか(あとから追えるし)、テザーを向けてるところだって、追いすがって発砲されてからだから、そのまえに威嚇でテザーを捨てさせる試みができたんじゃないか、みたいな。
私は一介の十二国記ファンである。中高生の頃にはまり、「白銀の墟 玄の月」で再燃した。
本記事では、十二国記世界の疑問点について語り、次回の短編集の内容について、時には私の好みで脇にそれつつも、予測したい。その途中で、私自身のこの作品に対する解釈や思い入れにも立ち入るかもしれない。
各物語のあらすじについては、熱心な読者が多いと思われるので、略す。さて、この順で読み返すと、次のような傾向がみられる。すなわち、王と麒麟の視点から見た世界よりも、庶民から見た世界の比重が大きくなっているのだ。確かに、「月の影 影の海」では陽子は大変な苦労をして玉座に上り詰めるし、「風の万里 黎明の空」「黄昏の岸 暁の天」では、いかに王としての責務を果たすかが語られる。一方で、同じ「風の万里 黎明の空」は民衆のレジスタンスの物語であり、それがさらに大輪の花を咲かせるのが「白銀の墟 玄の月」だ。これは都市の規模ではなく、国家規模にわたる抵抗だ。
もう一つの傾向とは、読者層の拡大である。もともと少女向けレーベルで出版されたからだろうか、十代の少年少女にとって教訓となるような個所は少なくない。「風の万里 黎明の空」における鈴、祥瓊の扱いを見れば顕著だ。一見同情すべき境遇にいるようでいて、それに甘んじている彼女らを待ち構えているのは叱責であり、罰である。この年齢になって読み返すと、幾分説教臭く感じなくもない。
しかし、「丕緒の鳥」からシリーズ全体の印象ががらりと変わった。組織の中で働く官吏や、避けられない災害を前にして自分のできることに必死になる民衆の姿は。年齢を重ねた読者の心も打つ。少女向けとされる小説から最も縁遠いように思える、中高年の男性もうならせるだろう。この作品は、あまりにも不条理な世界で生きる人々へのエールとなっている。
つまり、これから尚隆や陽子の視点から物語が描かれることは少なくなるのではないか。きめ細やかな民の物語を描くとき、王の存在は強すぎる。「東の海神 西の滄海」も、一歩間違えれば「俺TUEEE」っぽくなってしまう(そうならならずに尚隆が有能かつ魅力的に描ける腕前がすごい)。そう考えると「白銀の墟 玄の月」で出てきた尚隆は作者なりの大サービスだったのかもしれない。それに、神隠しにあった泰麒で始まった物語は、一応は解決しているのだ。王や麒麟のこの先に物語は、長編としては出てこないかもしれない。
前項でも述べてきたが、次に尽きるだろう。
十二国では天帝が定めた天綱が憲法としてあり、王が定める国法、地綱はそれに反することはできない。また、州の法律も王が定めた法に反することはできない。
天帝は民に土地を与え、それを耕すことで生計を立てるように命じた。逆に言うと、天の設計した社会では、民衆は生まれた里で農業だけをして過ごすことしか想定されていない。
しかし、現実はそうではない。「図南の翼」に出てきた珠晶の家族のような大商人もいるし、「白銀の墟 玄の月」に出てきた宗教関係者もいる。冬器を作る工房もある。私塾もあれば宿もあり、雁のように豊かな国では副業で馬車を出す者もいるし、事実上の奴隷だっている。
そして、最大のイレギュラーが定住民でさえない黄朱の民だ。彼らが歴史に関わってくるあたり、実際の中国の歴史にもよく似ている。
言い換えると、天は王と官吏と農民だけの世界を想定していたが、天の条理の隙間を縫う形で民は複雑な社会を形成してきた。そして、この世界の民衆はルールの穴をつき豊かに暮らしているし、謀反を起こす力もある。これは、専制君主の世界ではあるけれども、ランダムで選ばれた大統領に支配される民主国家の姿に、少し似ているのだ。私たちの世界の大統領・首相も間接的に選ばれるため、民意がどこまで反映しているか、はっきりしていないところがある。十二国世界は、実は私たちの世界の鏡像なのだ。
今後の作品の傾向としては、黄朱の民のように条理からはみ出てしまった人々にもスポットライトがあることと思う。と同時に、黄朱の民はこの世界の条理に生じた大きなほころびでもある。現に、彼らの里木はよそ者が触れれば枯れる、大きなペナルティを負っている。
それと、この世界では思いのほか宗教がしっかり根付いていた。我々が最初にこの世界の宗教を教えてくれるのが合理主義者の楽俊だったため、この世界の人々はあまり天に頼らない印象を受けたが、子供を授かるには祈るほかはないわけで、むしろ熱心な信仰がないと不自然であった。
十二国記が元々は少女向けに書かれたことをうかがわせる設定はいくつかある。例えば、王と麒麟の運命的な出会いだ。女性向けフィクションにはオメガバースをはじめとして、そうしたパターンが多い印象がある。もう一つはときとして未婚の女性をひどく不安にする妊娠・出産からの「解放」だ。女性の苦痛が大幅に減らされており、またこちらの世界とは異なるいくつかの価値観も女性に優しい。王も麒麟も官吏も(軍人を除けば)男女同数だし、子供のいる女性は再婚相手としてむしろ歓迎される。ジェンダーSF・フェミニズムSFとして十二国記を読み解くことも可能だろう。血縁意識が薄いのもその傾向を示している。とくに、楽俊はこちらの遺伝について、似たような顔をしたやつが同じ家にいるのが薄気味悪いのでは、と漏らしている。
しかし、この期待は裏切られる。ここはけっして楽園ではなかった。「白銀の墟 玄の月」のなかで李斎は、男社会の軍隊で生きる女性の苦しさを吐露する。また、明らかに性暴力を受けた女性も登場する。それに、序盤からすでに妓楼も登場している。この世界のセックスワーカーがどれほど過酷な生活を送っているかは不明だが、妓楼に行くことはあまり道徳的に褒められたものではないようである(余談だが、楼閣が緑色に塗られているのは現実の中国にもあった習慣であり、「青楼」と呼ぶそうだ)。
考えてみれば、官吏は女性も多いとされながらも、登場する官吏の多くが男性である。育児の負担がこちらよりもはるかに少ないので、昇進や待遇に差があるとも思えないのだが、これも隠されたテーマかもしれない。
それと、生理の問題がどうなっているかもはっきりしない。初期作品の傾向からすると生理から「解放」されている可能性が高かったが、女性の苦しみをテーマとするならば、生理のしんどさやそれにまつわる迷信・タブーが出てくると考えるほうが、筋が通っている。
天帝が女性、または西王母が兼任している可能性が、ふと浮かんだ。別に女性が王になれるのだから、天帝が西王母より偉い理由は別にない。
十二国記って男性しかいない場所がないこともなんだか怪しい。軍隊も三割は女性だ。逆に、女性ばっかりの場所が蓬山である。麒麟を育てるのは女仙たちだからだ。これも天帝女性説を補強しないだろうか? また、妖魔が雄だけというのも、なんだかそれに関係しそうだ。単純に作者が女性だというだけのことかもしれないが。そもそも「いない」可能性もあるが、根拠は全くない純粋な空想だ。
考察サイトが華やかなりしころ、いくつかのサイトでは天帝がラスボスなのではないか、という説がまことしやかにささやかれていた。確かに「黄昏の岸 暁の天」での天の対応はあまりにもお役所的ではある。ルールに従わなければ何もできないところが、法律に定められていなことは原則としてできない公務員によく似ている。
だが、もともと中国・道教の死生観がそういう面がある。「救急如律令」も、法令を守るように促す言葉であり、古代中国の役人が賄賂に弱かったように、今でも神々に心づけを渡す習慣がある。
そして、自分は天帝がラスボスになりえないと考えている最大の理由が、十二国記が不条理にあらがう人々の物語であるからだ。天帝を倒した後どんな世界を作るにせよ、人間が作り上げた世界である以上はやっぱり不完全なものになるだろうし、仮に完璧な世界を作ってしまったら、それは理想郷を描いた現実逃避のための小説になってしまう。「黄昏の岸 暁の天」のなかでも陽子はつぶやいている。天が実在するのならそれは無謬ではありえないのだ、と。
私が次回の短編集に出てくると予想する要素としては、今までの物語を受けて次の通りだ。
また、
そして、長編がありうるとしたら
と考えている。
少しろくでもない空想をしてみる。六百年の大王朝が滅びるとしたら、それはどうやってか。
王朝の最後にはいくつかの傾向がある。一つは陽子を暗殺しようとした巧の錯王や、慶の予王のように、王個人の劣等感に押しつぶされるパターン。もう一つは芳の王(祥瓊の父)や一つ前の才の王(黄姑の甥)のように、長所が裏目に出るパターンだ。祥瓊の父は清廉な人柄であったが、完璧主義者で罰が苛烈に過ぎた。黄姑の甥も正義感にあふれていたが、現実を検討する能力に乏しかった。
で、奏の特徴としてはのんびりとした気風がある。これが欠点となるのは、のんびりした気風で対応できないほどの速さで十二国世界に変化が起きる場合だ。つまり、利広の情報収集を絶てばいい。彼が旅先で死亡するか、家族が業を煮やして彼を王宮に拘束するかだ。ところが、「帰山」では、しばらく王宮暮らしをしろ、という趣旨の台詞がある。
これが奏の滅亡フラグかといえば穿ち過ぎな気もするが、宗王一家は全員同じ筆跡で公文書が書けて、しかも御璽を押した白紙が大量にあるので、一度分裂したら矛盾した命令が出されまくって国家の体をなさなくなり、あっと言う間に沈む危険がある。白紙委任状ほど危険なものはない。ああいう仲のいい家族が崩壊する様子を書くのって、日本人作家は上手だというイメージがあるが、数ページで滅んだ、と示されるのもまた冷たくていい。
「王気」という言葉は一見すると単純な造語である。しかし、景麒は、自分は半ば獣なのだ、と述べている。さて、「王気」にけものへん「犭」がつくとどうなるか。「狂気」になってしまうのである。失道は避けられないのかもしれない。
黄海を取り巻く四令門のある街で、雁では未門と申門の代わりに人門、恭では辰門と巳門の代わりに地門がある。では、言及されない才と巧ではどうなるか。陰陽道を考えると、才では丑門と寅門の代わりに鬼門、巧では戌門と亥門の代わりに天門、と思われる。
十二国記を初めて読んだときには、本編と「戴史乍書」の関係って、講談や旅芸人のお話と、正史みたいなものだと空想していた。三国演義が歴史書の三国志やその注釈から成立した、みたいな話だ。つまり、本文も旅芸人の語りであり、実際に起こった歴史とずれている可能性がある。
また、中国の歴史を知るにつれて、歴史書の記述はわざとそっけなくしていると考えるようになった。春秋の筆法というか、どのような事件が起こったかをどのくらいの濃度で書くかによって、歴史的な出来事に対する価値判断が含めているわけである。細かい経緯を書いた記録はたぶん別にある。
最近は、国家機密をぼかす目的もあると踏んでいる。阿選の幻術なんかの記述があっさりしているのも、たとえば妖魔が符で使役可能だとか、王と黄朱とのつながりとか、暴力を行使可能な麒麟がいるとか、かなり危険な情報だ。事情を知っている人が読むと「ああ」ってなるが、それ以外の人は読み飛ばすようにできている。
楽俊の姓名である張清は水滸伝に出てくる。しかし、水滸伝は盗賊が活躍するピカレスクロマンである。文人肌の楽俊とはだいぶ違う。
桓魋は少し近い。孔子を襲った荒くれ者と同じ名前だ。そして、面白いことに「魋」だけで「クマ」の意味がある。「熊どん」というほどの意味を持つ字なのだおるか。
祥瓊の父の字は仲達で、三国志の諸葛亮のライバル、司馬懿と同じだ。雁の白沢は瑞獣の名前。「白銀の墟 玄の月」の多くの官吏たちも、実在する中国の官僚や文人たちから名前が取られている。とはいえ、名前が同じだからと言って同じような人物像とは限らないので面白い。
「帝」という称号は始皇帝の考えだしたものだ。諸侯が王を名乗ったため、王のタイトルに重みがなくなってしまった。そこで、王の中の王を意味する称号が生まれたのである。
しかし、それを考えると十二国記世界では帝の称号が生まれないはずだ。なにせ、侵略戦争がありえないのだから、王よりも上が出てくるはずがない。そのため、王より上の称号は、山客か海客由来の語彙ということになる。
語彙だけではない。現実の中国の文化には、周辺の異民族との交流から生まれてきた要素が結構あるので、十二国世界でそれらが取り入れられたいきさつも妄想するのは楽しい。例えば、スカートやキルトではない、ズボンやパンツ状の服は騎馬民族に由来することが多い。そこまで考えるのは野暮かもしれないが、十二国世界が匈奴や西域の影響の薄い中国の文化を持っていると空想するのは、歴史ヲタにとってはきっと楽しい時間だ。
十二国記のアニメで、景麒が塙麟に角を封じられるとき、「生心気鎮風」と読める金文が刻まれるのだけれど、あれって根拠があるのか。私にはわからなかった。
つらつらと書いてしまった。
残念ながら、小野不由美の他の作品との比較・検討はしてこなかった。未読のものが多いためだ。また、作者の細かいインタビューも入手できていないので、見落としているものがあるかもしれない。
積んである本を片付けたら、ホラーは苦手だがぜひぜひ読んでみたい。
そして、次回の新刊をのんびりと待っている。小野不由美先生、本当に泰麒の物語の物語を完結させてくださり、ありがとうございました。
がんばったやつは、キックバックももらえなかった、クズや労って40歳童貞で信者紆余。
キックバックをもらwないじゃない
くれない。
営業さん ありがとう。おまえなにいってんの?何十年もくれないくえsに、なにほざいてんだよ。1円だってくれてネージャン
うそつくな。何十年。わたそうという木もないくせに嘘つくな。
また、だまされた。まぁ、もういらないからいいけど。何十年。わたさないひとに、なんかいわれたくないし、もうほしくないはいいだろ。
何十年。いまさらよくいえる;ごめんなさいっていうやつがおおいんだけど。44歳こえた。という時点で、わびられると思った女がひでぇ。だから、いい。
だけど、そういうやつもいるんだから。もらえよとか、もういうなよ。ちゃんとくばりました、みたいに正義感のヒーローぶるなよっておもう。
ちょっとはあったけど、そんなキックバックらしいキックバックはほぼなかった。
まったんのまったんだからな。いいけど。そういうポジにつきたかった。ぐっすん。
でも、もっとひどいやつもいるだろうから、配ってますみたいなことは自慢しないでほしい。正義の人かと思っちゃう。
もらえないやつだっているんだから、賄賂配ってます。みたいに正義感ぶるなよ。だまってやろうぜ。いいからそれは。でも、もらないやつもいて、
すみませんとか、ごめんなさいとか、いわれるんだから。謝られた身になれよ。
配れてないんだから、せめて、正義のヒーロー気取るのは、お互いやめよう。くばりわすれなんて、どこにでもある。
まぁでも、正義感ぶれるって言うのはある。もらってないなんて、きっと、犯罪をしているにがないってひどいめにはあうんだろうけどな。もらえなかっただけだけど。
でもさ、そんなだから。あるいみ、もらえなかったから、助かった。正義感ぶってるわけじゃない。でも、悪いこともしなかった。でも10万未満はごあいさつ。とくに利権誘導するようなポジでもないし。かかわらなくてよかった。かかわれなかったが正解だけど、まぁいいじゃん。
そしたら、定年までのこりは、穏便にいきたかった。そうすると、いたずらとかいって、ひどい目にあう。よのなかそんなもん。
キックバックの原資を稼ぐために。がんばって、会社の売り上げにこうけんしてるんだよ。まぁ、こころのどこかに覚えておいて、でも、いままでどおり。
いまさら、ちいさなしあわせ、平穏をこわさないで、こうやってかくから、復習される。
キックバックもらないを、あいつはキックバックもらわない正義の人だ!とかフルボッコにされる。
それでいいんだけど、技術部門にも配らなきゃっておもわないだろ?
おれたち、そういうの好きじゃないから。それでいいんだけど、うらやましいなーとはおもうよ。でも、正義にしようとはおもわない。
だから、みすごして。
こうやって書くことで、また、ふこうになる、だれかがなにかしようとするから。
だから、みすごして。