はてなキーワード: 愛についてとは
この「愛」というのは文字どおり全ての愛のことを指す。家族愛師弟愛友愛性愛といったあらゆる愛の形がBLに含まれる。
「BLが好きです」という宣言自体は何ら恥ずかしいことではない。「愛について書かれた作品が好きです」と意味はほとんど変わらない。「男同士の」愛が好きと言うのは完全に当人の好みの問題である。
例えば「風と木の詩」や「BANANA FISH」は明らかにBLがテーマのひとつとなっているが、ではこれらの作品を好きだと言うことは恥ずべき行為になるのだろうか?
これはBLに限らず、GLやNLも含む全ての二次創作が「腐向け」にあたる。
腐女子が恥じるべきは「肉体関係にない二人組を性愛込みの恋人同士だと捏造・解釈する、他人のセクシャリティを勝手に決め付ける」その腐りきった性根であって、「男同士に萌えてしまう」という部分ではない。
そもそもこのような邪推は同性愛・異性愛問わず大変失礼な行いであることに異論の余地はないだろう。
したがって、公式カップル以外のカップルを捏造し、またそれを愛するオタクはNL・BL・GLといった嗜好に関係なく「腐女子」「腐男子」を名乗るべきである。
ユーリ!!! on ICEがすごく流行っている。
本格スケートアニメと言われてスケート好きな友人から薦められたのですんなりと入れたし、なにより某アニメの1話はすごく綺麗に見えた。
私はスケートにあまり詳しくないが、テレビでやっていたらスケートを見るような人間で、そのアニメを見ながらあの世界はこんな感じだったのかな?と思ったりもした。
3話までは純粋に楽しんでいた気がする。
けれど段々と恋人のような絡みが増えていく主人公とコーチが不思議で仕方なかった。
ロシア人だからといってなんとなく納得していたけれど恋人だのキスまがいだの結婚みたいだねなんて発言に、ずっと困惑していた。
楽しいよ、たしかに楽しいけれど、主役のスケート以外はカットされることも多いく、そのカットされた部分は主人公とコーチの生々しいやり取りに持っていかれる。
キスまがいのシーンでようやく
って気がついた。
で、なんですが。
主に
・これはそういうのじゃなくてLGBTについて深く踏み込んだ作品
みたいな感じに言われる。
BLだなんて〜と言う方はまだマシだと思う。
確かに愛がテーマだと言っていたし、所謂解釈違いというような感じだ。
正直あそこまでやっていると、愛がテーマと言われても……って感じなんだけど。
LGBTはすごくデリケートな話題であり、そしてもっと理解されるものだと思っている。
このアニメをLGBTに括りつけている人はこういう世界になったらいいね、しか言わない。
LGBTに踏み込んだ作品と言うよりはBL作品によくある優しい世界なんだよ。
……それで?
どこがLGBTに踏み込んでるの??
もしこれがLGBTに踏み込んだ作品ならばそれに対して何かしら悩む描写が入るだろうし、一悶着あるだろう。
でもそんなのはない。
特に悩みもしないで結婚だ!おめでとう!とはしゃぐ面々にいまいち理解できない。本当に夢みたいに優しい世界だね。
色々な障害を解決したり、できなかったり、そういう所があって踏み込んだ作品と言えるんじゃないか。
このアニメの公式関係者のツイートからそういう意見が増えたけれど、正直BLという言葉の代わりにLGBTって言ってるだけだと思う。
そういうことを言っている人は俗に言う腐女子の人が多いと思う。
このアニメをBLものと言うとすごく怒る人達は、そんな軽いものじゃない。恋愛よりももっと崇高な愛だ、という。
恋愛よりも崇高な愛って。
別に恋愛が1番上というつもりは無いけれど、わざわざ恋愛を下す必要はあるの?
正直、主人公とコーチのやり取りはごく一般的な恋愛としての流れだと思うんだけれどそこはどうなのだろう?
結婚指輪を買って右とはいえ薬指に付けるのは恋人くらいじゃないのか?
そしてこういうことを言うとすぐに「嫌なら見るな」という。
私はもう嫌だから見ないけれど、わかって欲しいことは一つだけだ。
なぜかこのアニメを見ている多くの腐女子の方は絶対にこの作品をBLと認めない。
(こういう風に言っている人が私の周りでは腐女子しかいないので、私は腐女子だけど一括りにしないで!という方がいたら申しわけない)
このアニメは崇高な愛について考えて作られたからBLなんかじゃないんだって。
けれどこれだけは言わせてほしい。
主人公とコーチは恋愛よりも崇高な愛のあるゲイ(LGBTって言っているのだからゲイ認定していいよね?)って同性愛を認めているわけじゃないでしょ?
なーにがLGBTだ。
都合のいいように耳ざわりがいい言葉を使うなよ。
匿名だから煽るくらい上から目線で書いてもいいだろう。本当はもっと謙虚に振る舞うようにしたいけど、皆に読んでもらうために気にしないことにする。
さて、俺は友人と話す時、どうやったら女性にモテるか、とか、今デートしている女の子をどうやったら落とせるか、という話をする。というのも、友人は女性の落とし方に精通しているのだ。高校卒業までずっと運動も出来ず、嫌みで嫌われ者で、ブサイクな上童貞だった友人は、好きな女の子に振られたのをきっかけにアンダーグラウンドな努力を重ねた。その結果、現在ではどんな女性でも口説き落とすことが出来る男に変貌していた。これはモテのテクニック云々の話ではなく、自分の人間的魅力を身につけ、加えてそれらを上手く見せることが出来るようになったからだ。大学生のうちにモデルや女優をナンパして口説き落とすことにも成功した。俺はこぞって友人のことを「この世で一番モテる男」という。だからその変貌の過程を見てきている俺は、友人とこの手の話をしたがる。相談を持ちかける。友人自身としても自分が最も熱心に打ち込んできたことに関する話だから、本当に楽しくその話に応える。
しかし帰り道になるといつも思う。これは友人が本当に話したいことではない。モテについて話すときの友人は薄っぺらいのだ。なにをどうすれば自分が魅力的に見えるのか、女性が惚れるのか、初対面の男性とSEXをしたいと思うのか、清楚とビッチのそれぞれの落とし方、なにもかもを知っている友人は、どんな話があろうとコンピューターのようにすぐに答えが頭の中に出てきてしまう。そしてその解答を言うだけだ。何も面白くない、こんな話をしていてももうなにも友人は得るものがないんだ。どんな恋愛本や恋愛記事を読んでも結局知っている話の焼き直しだと思うか、その恋愛記事の間違っている部分に気付くかのどちらかだ。友人はどんな女でも落とせるし、放っておいても毎週1人は新しい女性に告白される。そんな恋愛スキルはとっくに身に付けた。俺の彼女に惚れられてから、もう不必要にモテることもやめた。
じゃあ今の興味は何かというと、「愛」だ。愛する女性に出会い、うまくやっていく方法。幸せになる方法。今の興味はそこだ。語り合う相手が欲しい。全てをさらけ出して愛について話し合いたい。愛したいし愛されたいんだ。教えてくれ。生涯の伴侶となる女性と幸せな人生をおくりたい。愛に飢えている。大好きな彼女が欲しい。
・浮気をしないこと(俺のことを好きでいさせることは俺の役目だとしても)
・価値観が合うこと
友人はどんどんモテるようになり、時間の経過ともに交際する女性のスペックも上がってきた。そして、信じられないほど美しい女性とも交際をしたこともあるし、もう相手の顔が美人とか、そういう表面的なものはさほど大事じゃないと心が思うようになった!(以前は頭では理解していても心はそう感じていなかったのに!)
にもかかわらず、今の友人にはどんな女性も未熟なガキにしか思えないのだ。上記の条件を満たす様な成熟した女性に出会わなくなった。美人の彼女と別れてから1年近く立つが、それ以降交際したいと思う女性と出会うことはもうなくなった。これまで真剣に5人の女性と交際した。付き合ったときは好きだし好きになろうとしているし、相手にも幸せになってもらいたいと思っている。ところが自分の基準が高くなり過ぎて、結局満足出来なくなってしまうのだ。いったい友人はどうしたらいいんだ?頭がおかしくなりそうだ。もはやどんな女性にあっても付き合いたいとすら思わなくなってしまった。童貞時代一目惚れをしたような女も、高校時代好きだった女の子も、今や俺の基準に満たないのだ。もちろん愛は育んでいくものなのは知っている。とりあえず付き合ってみればいいのかもしれないが・・・
一人になるといつも発狂する。誰か救い出してくれ。
高校のころ伊藤整が愛について書いた評論を読まされたことがある。
十年以上も前のことだし記憶もあいまいなのだが、内容は「西欧(キリスト教)でいう無償の愛とかいうやつは日本では無理www反論ある奴はクソブス女でも愛せるのか言ってみろ!おらっ!」みたいなものだったと思う。
高校生だった自分は「ああたしかにそうだ」とえらく納得し、愛というものを絵空事のように感じて、男女間にあるのはただ性欲と情だけなのだという彼の論旨を素直に受け容れた。
大学に天使のような女の子が居たのだ。彼女は今でいうスクールカーストの上位層だったのだが、誰とでもわけ隔て無く接し、卑劣な裏切り行為をした相手に対しても幸福を祈るというような少女だった。
いま思えば彼女はクリスチャンだったんじゃないかと思う(そういえば名前も聖書に出て来る女性風の名前だった)のだが、当時の自分には彼女が全く理解できず、上述した伊藤整の評論の内容を軽く非難めいた口調で説いたりしていた。
いま思えば赤面ものの行為なのだが、彼女はそれをニコニコしながら聞いていた。
そして最近、キング牧師が愛について説いた説教を読む機会があった。
これも一読しただけでうろ覚えなのだが、要約すると「『愛』と『好きになること』は別物である。神が私たちに『敵を好きになれ』と言わず『敵を愛せ』と言ったことに感謝すべきだ。私たちは、憎む敵を好きになることができなくても、彼のために祈ることはできる」という趣旨だったと思う。
これを読んで今まで持っていた伊藤整流の「愛」観が崩壊した。伊藤整は通俗的な「愛」のイメージで問題を論じていたのではないか。
自らを愛し、そして世界を愛する。愛とは、全てを許し受け入れることである。
であれば、
人の負の面。例えば7つの大罪
傲慢(高慢)憤怒(激情)嫉妬(羨望)怠惰(堕落)強欲(貪欲)暴食(大食)色欲(肉欲)
なども、許し愛することができて、初めて本物の愛といえる。
口で言うのは簡単だ。
だがもし、自らや自らが大切と思う存在を攻撃された時に、私は攻撃してきたものを許し愛することが出来るのだろうか。
この問について、私は考えていた。
ハンムラビ法典の「目には目を歯には歯を」という言葉を思い出した。
これだ!とわかった。
そして、私があなたのその行為を邪魔し、私が私のためにあなたそのものを排除しようとすることも、同じように愛し許そう。
ここに私の愛は成熟した。
レジンキャストミルク (電撃文庫) 藤原 祐
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コーディングを支える技術 ~成り立ちから学ぶプログラミング作法 (WEB+DB PRESS plus) 西尾 泰和
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クリスマスに少女は還る (創元推理文庫) キャロル オコンネル
Three Essays on the State of Economic Science Tjalling C. Koopmans
The Elements of Style, Fourth Edition William Strunk Jr.
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11/22/63 上 スティーヴン キング
システム×デザイン思考で世界を変える 慶應SDM「イノベーションのつくり方」 前野隆司
追われ者―こうしてボクは上場企業社長の座を追い落とされた 松島 庸
グロースハック 予算ゼロでビジネスを急成長させるエンジン 梅木 雄平
To Repair the World: Paul Farmer Speaks to the Next Generation (California Series in Public Anthropology) Bill Clinton
☆社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書) 小坂井 敏晶
Making the Modern World: Materials and Dematerialization Vaclav Smil
高校教育のアイデンティティー―総合制と学校づくりの課題 (「教育」別冊 (9)) 小島 昌夫
☆名作はこのように始まる〈1〉 (ミネルヴァ評論叢書・文学の在り処) 千葉 一幹
グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 [DIPシリーズ] ニコラス サリバン
☆天涯の武士―幕臣小栗上野介 (1之巻) (SPコミックス―時代劇画) 木村 直巳
ぐいぐいジョーはもういない (講談社BOX) 樺 薫
LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲 シェリル・サンドバーグ
鬼畜のススメ―世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!! 村崎 百郎
男性論 ECCE HOMO (文春新書 934) ヤマザキ マリ
要するに会いに来てくれない彼氏が不満なの?
くわしい状況がわからんので仮定を元に話を進めるけど、
こうなってるのが不満という事かな。
では増田はどうなんだろう?
もしそうなら、
しかし、
もしこうなら、増田も彼氏もちゃんと費用対効果の意見一致してるんじゃない?
結婚まで考えているのなら、お金のことは感情的にならずに話し合ったほうがいい。
費用対効果にもいろいろな考え方がある。
結婚にそなえて貯金しておきたいという倹約家なのかもしれない。
増田に必要なのは結婚までの具体的なプランを彼氏と話し合うことだと思う。遠距離ならなおさら。
真の愛について考えるのはその時で十分間に合うはずだ。
博識な増田の民ならご存知だろうが、かの有名なスタンダールは愛について、「結晶作用」を提唱した。
万が一知らない人のために「愛の結晶作用」について記しておく。
スタンダールの『恋愛論』に記述がある。自分なりに解説してみる。
ザルツブルクの塩坑では、木の枝を廃坑の奥に投げ込み、二、三ヶ月たってから取り出してみると、まばゆく揺れてきらめく無数のダイヤモンドが手に入る。無論このダイヤモンドとは「塩」である。
これと同様に人は、自分の愛する人を千の美点=ダイヤモンドで飾るという。
この"結晶化"は、塩坑に枝を投げ入れるのと同様に、愛する人が目の前にいない時にこそ起こる。
例えば友達が骨折したとする。すると、「もし自分が骨折したら…」が始まり、「あの人はきっとこんなことをしてくれる、言ってくれる…」という妄想(!)に走り出す。
このように、自分に起こる事象全てを契機にして愛する人のことを思い出すという。それも、美化した状態で、勝手に期待してしまうのだ。
その実態が何であるかも分からずに。塩と小枝である可能性をすっかり排除してしまって。
思い込みが激しく、妄想力が高く、相手が真に正しいわけないと分かっていながらもどんどん心惹かれる。なんて自分は愚かなんだろう!と思ってたけど、これ、人間が恋愛をする上での当然のセオリーだったらしい。
相手がしてくれることに勝手に期待して、してくれなかったら勝手に裏切られたとか思い出して、いやー本当に、勝手だよな。
そもそも相手はそんなことしてくれるなんて約束してないのにな。
結晶作用が起こるから恋愛なんて無駄だという話でも、どうせ人はみな小枝と塩ですよって話でもない。
人はそう言う所があるよね〜ってだけ。
私がなにか悩みを相談するとしたら、それは、自分が悩み足りないと思っているからだ。そのことについて十分考えたと思えないからだ。このままで考えるのをやめたら後で後悔しそうだと思うから、中途半端な悩みであったり、未熟な考えであることを承知のうえで見てもらおうとするわけだ。もっと悩みたいけれど、そのための知識や道具や勇気がなくてこれ以上潜れない。だから同じように悩んでくれる人を、もっと悩めと後押ししてくれる人を求めてる。自分よりもっと深く悩んでた人の話を聞きたい。オマエは考えがたりない、もっと悩めとなじられたい。そうやって、自分なりに悩み尽くして、今からは上がるだけだ、と思ったら、そこから何をするか考える。「これ以上悩みに沈んでおらずに、ここからは浮き上がっていこう」というメッセージはしごく全うだと思うしそれが望ましいことはわかっている。他人から見たら、悩んでるより、そこから解放されたほうが楽しいと感じることもわかる。しかし、それはそれとして、自分ではまだ潜れると思っているし、潜りたいのだ。それを無理やり切り上げられると、せっかくの親切だとはわかっていても、私にとってはその行為は嫌がらせでしかなく、せっかくのいい人なのにその人のことを恨んでしまうかもしれない。
私は最近「すべてはモテるためである」という本を他人から薦められたので読んだ。途中までは楽しく読んでいたのだが、「私はこの本を必要としてない」と思って投げ出してしまった。途中から吐き気がしていた。この本は、岡田斗司夫の本とよく似ている。まずはじめに人を数パターンに分類し、それぞれのタイプに処方箋を発行するというものだ。その分類が網羅的かというとそういうわけではないのだが、大多数の人間はカバーできているだろう。だから、どこかのパターンにあてはまると思った人間は、一生懸命話を聞く。この本を崇め奉るだろう。しかし、私はどの分類もピンとこなかったのだ。 すごく小さな問題を大げさに語っているようにしか思えなかった。みんなが悩んでるのってそんな話なのかと呆れてしまう。
この本はいろいろ書いてあるが、結局のところ「自分から人を愛すること」「自分から相手に合わせること」がなければ問題解決はしないという強固な前提にたっている。そのために頭を使え、それ以外は自意識過剰だと切り捨てる。その気になれば、訓練すれば、誰だってそれができるという話をしている。もっともなことだと思う。きっとこの本は多くの人を救うだろう。だが、私にとってはこの本は必要なことを提供してくれない。
私の悩みは「人を愛せない」ということだ。この悩みに対して、この本の扱いはあまりにライトである。その原因については真剣に考察しているとは思えないし、かなりの偏見がある。「愛せないのではなく愛さないだけだ」といろんな理屈を用いて論破してくるが、その部分についてこの本で語られていることは、私には全然刺さらなかった。その悩みを非常に軽く見ているからだ。そんなことは重要ではないと言われるとこちらは黙るしか無い。そして、この人にとって私は人間ですらないのだなと思うだけだ。
私は一般的な基準ではモテている部類にはなるのだろうが、人を愛していると思ったことはない。如才無く付き合ってはいるがそこに喜びはない。同性愛なのかと疑ったこともあるがそういうわけでもなかった。どうでもいいのだ。どうでもいいから余裕が有る限りは相手のことを受け入れるだけだ。そして、どうやら周りの人間よりは余裕がある人間ということになるらしい、それで相対的にモテているだけなのだ。 ただ、女は私のそういった事情を考慮してくれない。必要のないものをいろいろ押し付ける代わりにいろんなことを要求してくる。その結果余裕がなくなったり、過度に求められると拒絶することになる。そうなった瞬間に、なぜか愛という言葉を持ちだして様々な恨みごとをいってこちらを責めてくる。そういう女性の情緒不安定ぶりが心底患わしい。 私は最初から愛してないし、勝手に愛があると思い込まれ、勝手に愛が失われたと言って怒り、最初から最後まで私のことを理解するつもりがないじゃないかと嘆きたくなる。しかしそれ以上に、私は彼女を愛することができないし、愛そのものが理解できない。愛という言葉はこの上なく陳腐で実態がない便利な言葉だと思うだけだ。
こういう悩みに対して、この本は愛とはなにか、という点について全然掘り下げていないと感じる。ただこういう考え方はモテない、こういう行動は慎むべきだ、それは愛ではないというだけだ。それでいて人を愛せという。愛については考えなくてもわかるだろうとでもいのだろうか。馬鹿馬鹿しい。私はこの本に全く愛を感じることができなかった。
この様相は大変よろしくないと思う。
何故ならオランダなどの欧米やイスラム圏では10歳代での結婚が認められているし、日本でもペドは無理でも高校生以上の年齢16歳以上なら結婚も認められてる。
それなのにリアルでは連れだって歩いてるだけで不審者とか声掛け事案とかが横行してしまってる。
当り前だけど何も中年男が所帯持ちでないという保証はないし、ただの親戚の子とか友達なだけかもしれない。
にも拘らず日本ではこうした日常風景が事件化するケースが多すぎる。
一方ドラマなんかでは普通に30~40代のおっさんが幼女と手を繋いで歩いていてもフィクションだからと容認されている。
リアルでは何がいけないのか、倫理上の問題だというのは感情論に過ぎないのではないか。
肝心な事は誰も彼も分からないのにリアルでは事件だ何だと騒ぎ立てている。
そして実際に事件が起こると、それ見た事かとアニメバッシングが為される構図であるのは昔から何も変わっていない。
アニメや漫画の描写には細心の注意を払わせようとするのに、一番リアルに近いドラマでは演出だからの一点張りで聞く耳を持たないのも問題である。
リアルで事件が起きるとしたら、それはもっぱらドラマのせいである。
昔魔女の条件という女教師と生徒の関係や神様もう少しだけ、高校教師などに代表される男教師と生徒の禁断の愛については芸術ないし耽美路線とされるのも不思議な話である。
こういったドラマがあるから犯罪が助長されているのではないか、と思えてならない人も少なからずいるはずである。
リアルで一度でも事件が起こると中年男性が女子校生に接しただけでこうした事案が生じるのであれば、もはやドラマこそ規制すべきだと考えるべきではなかろうか。
事実二輪は18歳にならなくても運転できますし。じゃあ、恋愛などにも二輪に相当するステージなどを設けて、どんどんフリーにしていくべきですね。
車やバイクの運転は直接死につながるので、恋愛だとかそういうのとは別に、国がきちんと許可を与えてます。
ただし、一定の年齢までは判断能力、経済能力、責任能力などを考慮し、いくら知識技能があっても免許は与えられません。
また、これには、一方で、親の保護下にあるので、例えば移動には親が車等で面倒を見てくれて、
自ら大きな荷物を持って長く移動したりする必要がない、ということも言えるでしょう。
(持ちろんいくらでも例外はありますが、一般的には十分通用する話しです。)
小児愛についてもそう。一般的に、12歳程度では判断能力に欠ける。
それを許可して発生するリスクの方が、一斉に禁止して失う機会損失よりもはるかに大きい。
そしてその判断能力を平等に測ることは今の時点ではどうやっても不可能。
それは車の免許も同じ。
車の免許に対して、判断能力、と言った点で年齢以外にさらなる審査を入れようとすれば、それは同じこと。
年齢の部分では、直接的な技能などとはまた別の判断能力を測ってます。
http://anond.hatelabo.jp/20131105121052
この増田さんは以前にもいたね。うまくいってよかったじゃん。
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匿名だから少し煽るくらい上から目線で書いてもいいだろう。本当はいつももっと謙虚に振る舞うようにしているけど、今回は気にしない。
さて、友人は俺と話す時、どうやったら女性にモテるか、とか、今デートしている女の子をどうやったら落とせるか、という話をする。というのも、俺は女性の落とし方に精通しているのだ。高校卒業までずっと運動も出来ず、嫌みで嫌われ者で、ブサイクな上童貞だった俺は、好きな女の子に振られたのをきっかけにアンダーグラウンドな努力を重ねた。その結果、現在ではどんな女性でも口説き落とすことが出来る男に変貌していた。大学生のうちにモデルや女優をナンパして口説き落とすことにも成功した。俺の友人はこぞって俺のことを「この世で一番モテる男」という。だからその変貌の過程を見てきている友人は、俺とこの手の話をしたがる。俺自身としても自分が最も熱心に打ち込んできたことに関する話だから、本当に楽しくその話に応える。
しかし帰り道になるといつも思う。これは俺が本当に話したいことではない。モテについて話すときの俺は薄っぺらいのだ。なにをどうすれば自分が魅力的に見えるのか、女性が惚れるのか、初対面の男性とSEXをしたいと思うのか、清楚とビッチのそれぞれの落とし方、なにもかもを知っている俺は、どんな話があろうとコンピューターのようにすぐに答えが頭の中に出てきてしまう。そしてその解答を言うだけだ。何も面白くない、こんな話をしていてももうなにも俺は得るものがないんだ。どんな恋愛本や恋愛記事を読んでも結局知っている話の焼き直しだと思うか、その恋愛記事の間違っている部分に気付くかのどちらかだ。俺はどんな女でも落とせるし、放っておいても毎週1人は新しい女性に告白される。そんな恋愛スキルはとっくに身に付けた。友人の彼女に惚れられてから、もう不必要にモテることもやめた。
じゃあ今の興味は何かというと、「愛」だ。愛する女性に出会い、うまくやっていく方法。幸せになる方法。今の興味はそこだ。語り合う相手が欲しい。全てをさらけ出して友人と愛について話したい。教えてくれ。生涯の伴侶となる女性と幸せな人生をおくりたいんだ。大好きな彼女が欲しい。
・自分の頭で物事を考えることが出来ること
・浮気をしないこと(俺のことを好きでいさせることは俺の役目だとしても)
・価値観が合うこと
俺はどんどんモテるようになり、時間の経過ともに交際する女性のスペックも上がってきた。そして、信じられないほど美しい女性とも交際をしたこともあるし、もう相手の顔が美人とか、そういう表面的なものはさほど大事じゃないと心が思うようになった!(以前は頭では理解していても心はそう感じていなかったのに!)
にもかかわらず、この年齢で誰も経験していない様なレベルで経験を積んできた俺は、どんな女性も未熟なガキにしか思えないのだ。上記の条件を満たす様な成熟した女性に出会わなくなった。美人の彼女と別れてから1年近く立つが、それ以降交際したいと思う女性と出会うことはもうなくなった。いったい俺はどうしたらいいんだ?頭がおかしくなりそうだ。どうすべきかも分かっているのに、条件もはっきりしているのに、全ての女を惚れさせるスキルもあるのに、俺の要求が無意識のうちに高くなり過ぎたせいで、付き合える女性がいなくなってしまった。きっと付き合ってうまくやっていくことに関しては達観していないから、とりあえず付き合ってみればそれなりにうまくいくのだろうか?
一人になるといつも発狂する。誰か救い出してくれ。
匿名だから煽るくらい上から目線で書いてもいいだろう。本当はもっと謙虚に振る舞うようにしたいけど、皆に読んでもらうために気にしないことにする。
さて、俺は友人と話す時、どうやったら女性にモテるか、とか、今デートしている女の子をどうやったら落とせるか、という話をする。というのも、友人は女性の落とし方に精通しているのだ。高校卒業までずっと運動も出来ず、嫌みで嫌われ者で、ブサイクな上童貞だった友人は、好きな女の子に振られたのをきっかけにアンダーグラウンドな努力を重ねた。その結果、現在ではどんな女性でも口説き落とすことが出来る男に変貌していた。これはモテのテクニック云々の話ではなく、自分の人間的魅力を身につけ、加えてそれらを上手く見せることが出来るようになったからだ。大学生のうちにモデルや女優をナンパして口説き落とすことにも成功した。俺はこぞって友人のことを「この世で一番モテる男」という。だからその変貌の過程を見てきている俺は、友人とこの手の話をしたがる。相談を持ちかける。友人自身としても自分が最も熱心に打ち込んできたことに関する話だから、本当に楽しくその話に応える。
しかし帰り道になるといつも思う。これは友人が本当に話したいことではない。モテについて話すときの友人は薄っぺらいのだ。なにをどうすれば自分が魅力的に見えるのか、女性が惚れるのか、初対面の男性とSEXをしたいと思うのか、清楚とビッチのそれぞれの落とし方、なにもかもを知っている友人は、どんな話があろうとコンピューターのようにすぐに答えが頭の中に出てきてしまう。そしてその解答を言うだけだ。何も面白くない、こんな話をしていてももうなにも友人は得るものがないんだ。どんな恋愛本や恋愛記事を読んでも結局知っている話の焼き直しだと思うか、その恋愛記事の間違っている部分に気付くかのどちらかだ。友人はどんな女でも落とせるし、放っておいても毎週1人は新しい女性に告白される。そんな恋愛スキルはとっくに身に付けた。俺の彼女に惚れられてから、もう不必要にモテることもやめた。
じゃあ今の興味は何かというと、「愛」だ。愛する女性に出会い、うまくやっていく方法。幸せになる方法。今の興味はそこだ。語り合う相手が欲しい。全てをさらけ出して愛について話し合いたい。愛したいし愛されたいんだ。教えてくれ。生涯の伴侶となる女性と幸せな人生をおくりたい。愛に飢えている。大好きな彼女が欲しい。
・自分の頭で物事を考えることが出来ること
・浮気をしないこと(俺のことを好きでいさせることは俺の役目だとしても)
・価値観が合うこと
友人はどんどんモテるようになり、時間の経過ともに交際する女性のスペックも上がってきた。そして、信じられないほど美しい女性とも交際をしたこともあるし、もう相手の顔が美人とか、そういう表面的なものはさほど大事じゃないと心が思うようになった!(以前は頭では理解していても心はそう感じていなかったのに!)
にもかかわらず、今の友人にはどんな女性も未熟なガキにしか思えないのだ。上記の条件を満たす様な成熟した女性に出会わなくなった。美人の彼女と別れてから1年近く立つが、それ以降交際したいと思う女性と出会うことはもうなくなった。これまで真剣に5人の女性と交際した。付き合ったときは好きだし好きになろうとしているし、相手にも幸せになってもらいたいと思っている。ところが自分の基準が高くなり過ぎて、結局満足出来なくなってしまうのだ。いったい友人はどうしたらいいんだ?頭がおかしくなりそうだ。もはやどんな女性にあっても付き合いたいとすら思わなくなってしまった。童貞時代一目惚れをしたような女も、高校時代好きだった女の子も、今や俺の基準に満たないのだ。もちろん愛は育んでいくものなのは知っている。とりあえず付き合ってみればいいのかもしれないが・・・
一人になるといつも発狂する。誰か救い出してくれ。
バイトがさっき終わって、帰りにコンビニで冷凍ピザとかっぱえびせんとウーロン茶を買って、家に着いたらピザをオーブンで焼いてPS3つけてトルネで録画してた今週のプリキュアを出来上がったピザを食いながら見た。
プリキュアシリーズは今期から初めて見たのだけど、面白い。魔法少女物っていうと最近見たまどまぎも面白かったけど、普通の子供向けアニメの、プリキュアも面白いじゃないか、というわけで毎週録画して楽しんでいる。
びっくりしたのはプリキュアってこんなわかりやすい道徳アニメだったのかということで、誰にでもある自己中心的な部分との折り合いの付け方について、どういうふうに決着をつけるのだろうかと興味津々。というのも俺自身もどうするのがベストなのかさっぱりわからないからだ。22にもなってそんなのもわからないてのが大問題だと自分としては思っていて、周りのみんなは自分の自己中的な部分とうまく付き合って深刻にならずに生きているわけで俺はその付き合い方に問題があってヤバくなって最終的に無差別殺人とかしたり近所で有名な騒音オジサンとかそういう"愛を忘れた悲しい増田さん"になってしまうんじゃないかとヒヤヒヤしている。
"愛"とは思いやりだと思う。そして思いやりとは何かを良くすることのできる唯一のエネルギーだと思う。何をどうすればよくなるのかってのはケースバイケースで考えていくしかないから絶対的な答えはなくてその人が正しいと思う"良くなる"働きかけを実行しなければならない。実行した結果、良くなるとも、相手に愛が伝わるとも限らない。失敗して他人のせいにしたら愛は失われてしまう。自分の責任を放棄せずに"良くなるための働きかけ"を実行するというのは大変だ。それを支えるエネルギーが愛だ。
つまり愛とは頑張って働いて手に入れることのできるお金みたいなもんで深く深く悩んで考えて生まれるエネルギーでネガティブな感情の反対にあるもので…プリキュアを見ているとなんかそういう汗くせして獲得するっていう感じがしなくてチートだよなーとか思ってしまう。リアリティにかけている。子供向け作品にそういう変なリアリティはいらないんだろうけどさ、いったいどれくらいの人が胡散臭いと思っているのか。どういう作品なら子供でも愛について深く考えることができるのかはわからない。見る人にとってリアリティは重要なはずだ。つまり何が言いたいかというと、ブサイクが活躍する話を作ってほしい。美談美女ばっかり活躍する話はもういい。ある価値観をぶち壊すような、そういうむちゃくちゃで泥臭い話を作ってほしい。ブサイクでも尊敬できる人っていっぱいいるし。でもルックスがいいのは得だ。どの時点でそういう美的感覚って決定されるんだろう?みんな目が見えなければルックスとか関係ないよねと思う。でも盲目のレイチャールズは手首を触って美人かどうか判断してたっていうから別な器官でまた美しい醜いの判定がされるんだろうから意味無し。この間「外人」というワードでgoogle画像検索したら9割エロ画像で「白人」で検索したら7割で「黒人」で検索したら3割位だった。チクショー俺は黒人でも白人でもみんな平等に抜く。平等に接する。俺の愛の深さは外見なんて要素で変わったりしない。だからみんなも不細工だからって冷たく当たらないでほしい。
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、
父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。
裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。
のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、
だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。
私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。
二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。
25歳になってその人に出会いました。
それが兄でした。
他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌の仕事をしていました。
その弁護士は、上司に健康保険をねだるような、カリフォルニアの中流階級の娘である私に、
「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。
同僚編集者たちは騒然となりました。
それでも私は大好きなディケンズの小説の筋書きに放り込まれたようでした。
弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。
一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ。
私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズの後継者、
何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。
初めて会ったとき、スティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。
オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブかユダヤの顔立ちでした。
偶然にも二人ともそうするのが好きでした。
何を話したのかはあまり覚えていませんが、
とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています。
私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。
コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。
Cromemcoという名前でした。
彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。
これから、スティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います。
彼の充実した人生。
彼の病気。
彼の死。
彼は頑張って働きました。
毎日働きました。
彼は散漫の対極のような人でした。
彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。
スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。
彼はシリコンバレーの指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。
彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。
スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。
彼は流行や小道具を好みませんでした。
自分と同世代の人が好きでした。
「ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの。芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの」
スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。
彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。
パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーで NeXT に通い、
あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。
それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、
ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。
愛について話す時間の長さにかけては、スティーブは女の子並でした。
愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。
「独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。
彼がローリンと出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。
「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」
リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族に愛情を注ぎ続けました。
彼はどの子にとっても実の父親でした。
リサの彼氏と、エリンの旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。
リードの卒業パーティに出席した人はみな、リードとスティーブのゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。
ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。
私は今も、そのことを学ぼうとしています。
彼はそのことで孤独を感じていました。
私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。
ロスアルトスから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。
二人にとって、リサとリードとエリンとイヴを普通の子供として育てることは重要でした。
スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、
夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。
一種類の野菜をたくさん。
一種類だけです。
旬の野菜。
簡単な調理。
若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。
ジーンズを履いて待っていてくれました。
「お父さんは会議中ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。
リードが毎年ハロウィンに魔女のかっこうをしたがったときには、
何年もかかりました。
同じころ建設されていた Pixar のビルはその半分の時間で完成しました。
パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。
ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。
彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。
何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。
その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。
そして実際、買いました。
スティーブは学びつづけるのが好きでした。
彼はある日、育ち方が違っていれば自分は数学者になっていたかもしれない、と言いました。
彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードのキャンパスを歩くのが好きでした。
最後の数年間、彼はマーク・ロスコの絵画の本を研究していました。
未来のAppleのキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。
スティーブは物好きなところがありました。
イギリスと中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッド・オースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?
彼はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。
たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、
きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います。
彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム。
彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、
ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集をみたとき、
こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。
四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブは楽しい人生を送りました。
そしてスティーブが病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。
彼は京都で手打ちそばを見つけました。
もうできませんでした。
最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。
多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。
兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。
彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。
メンフィス病院の廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、
そこで座って一休みして、
引き返してまた歩きました。
ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。
彼は目を見開いて、唇を引き締めました。
彼は挑戦しました。
いつもいつも挑戦しました。
その試みの中心には愛がありました。
彼はとても直情的な人でした。
その恐ろしい時節、私は、スティーブが自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。
家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。
病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。
看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。
スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき、医師はすべてを、氷をも禁じました。
スティーブは普段割り込んだり自分の名前にものを言わせたりすることを嫌っていましたが、
このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。
「これが特別治療だよ」と私は伝えました。
彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。
挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。
そしてiPadを病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。
妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。
こちらを見上げて、お願いだから、と。
彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。
私たちは自分が何年生きられるか知りません。
彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。
オランダの造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。
私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。
ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、
スティーブの死は私たちにとって突然でした。
二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。
どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです。
火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。
声には熱と愛情がこもっていました。
同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまったかのようでした。
申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、
私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。
「待って。行きます。空港にタクシーで行くから。きっと着くから」
「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」
視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。
昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。
そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。
呼吸が変わりました。
つらそうに、やっとの思いで息をしていました。
彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。
これが私が学んだことです。
死がスティーブに訪れたのではありません。
彼が死を成し遂げたのです。
彼はさよならを言い、すまないと言いました。
約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。
そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。
フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。
彼はその夜を越しました。
ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。
彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。
やらなければならないことでした。
その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。
山を登っているようでした。
その意志、その使命感、その強さと同時に、
美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。
その数時間前に出た言葉が、スティーブの最期の言葉になりました。
船出の前、
彼は妹のパティを見て、
そして皆の肩の向こうを見ました。
議論してもしょーがねー
もしくは程度の問題。
前者の例えとして、うーん、、
「愛について」だとか?
あと、「国益」とか
後者については、
「数学は暗記だ!」「答えを見る前にじっくり考えろ!」とか。
数学は暗記の部分した方が効率がいいこともあるが、そうでないことも多い。
(っていうか何をもって多いなんだか…)
じっくり考えろ!って、どのぐらい考えればいいんだか。
つーか、考えるってのも一体何よ。
結局、大抵のことは定量化できないわけで。
なんてこと考えていたら、いろんなことに言及するのがバカらしくなってきたもので。
つか、つか、こんなことをネットにアップしている私は一体何だ?
何のためにこんなことしてるのかわからなくなってきた。