今月も増田への投げ売り堂の10月の結果と雑感を書き込みます。今日は長めになりそうで。
項目名 | 10月 | 9月 | 増減 |
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詳細はいつものように以下の Analytics の PDF に書いてあります。
今月は引き続き Amazon の仕様変更の対策と若干の機能追加に終始しました。
Amazon の仕様変更も殆ど問題無く修正でき、エラー等もありませんでした。
フィギュアだけ対応してたのですが、DVD・BDとゲームも対応をしました。
特撮DVD・BDは「keywords」ゲームは「Node」でそれぞれ10ページづつ商品を辿るようにしています。
ゲームはさほど商品の差は感じませんでしたが、DVD・BDは商品数が1/4くらいに・・・。
個別ページで Amazon レビューを確認できるようにしました。
とはいえ、API からそのまま iframe に張っているだけなのでいつでも出せるような機能で
今回の仕様変更で出品者情報が殆ど取れなくなった分、他の商品の情報を載せようと思い設置しました。
一応予定しているのが「アニメDVD・BD」復活と「PC関連商品」を新たに追加し
cookie で保存の表示商品を切り替えるオプションを設置する予定です。
結局、私は父が嫌いだったなと思った
私は父の遺品の携帯電話に触れるのも嫌だった
さすがに父が亡くなった時は泣いたけど、それは父を失った悲しみというより、私自身の後悔から来た涙だった
実の子供に嫌われたまま死んでしまった男の人生はどんなだったか想像して泣いた
もしもこんなことにならなければ、いつか私と父が和解することはあったのだろうかと何度も考えた
でも、どんなに想像を巡らしたところで、それはもう絶対に訪れることのない場面ばかりだ
それが悲しくて泣いた
私は、自分自身が父のことをこんなにも嫌っていたのに、人一倍、人から嫌われることを恐れている
私は、自分が人から拒絶された時、真っ先に父のことが脳裏にうかぶ
一度、人から嫌われてしまったら、もうその人との関係は終わりだと思う
取り返しがつかないと思う
それがもし、私が愛した相手だったら
私は愛しているのに、相手が私を嫌いになってしまったら…
私が話しかけても相手は無視をする
私が近づいたら相手は一歩引く
耐えられない
でもそれは、全部、私が父にしてきたことだった
嫌われたくない
父のようにはなりたくない
私は父と似ていると思う
そうしたら私も死ねばいいのかな
父のように死ねばいいのかな
おいおい聞いてやるなよwww
A Sister’s Eulogy for Steve Jobs
貧しかったので、そして父はシリアからの移民だと教えられていたので、
父については、オマル・シャリフのような人ではないかと想像していました。
裕福な人であればいいなと、いつか私たちの(いまだに家具も揃っていない)家に迎えに来てくれればいいなと思っていました。
のちに面会したとき、私は、父は理想に燃える革命家で、アラブの新世界を導く人だったのだと、
だから転送先を残さずに住所を変えてしまったのだと思い込もうとしました。
私はフェミニストでありながら、自分が愛せる、自分を愛してくれる人を長いあいだ探していました。
二十数年間、父がその人なのだろうと思っていました。
25歳になってその人に出会いました。
それが兄でした。
他の作家志望者3人と一緒に、クローゼット並の大きさの事務所で小さな雑誌の仕事をしていました。
その弁護士は、上司に健康保険をねだるような、カリフォルニアの中流階級の娘である私に、
「裕福で、著名で、あなたのお兄さんである人物の代理人だ」と名乗りました。
同僚編集者たちは騒然となりました。
それでも私は大好きなディケンズの小説の筋書きに放り込まれたようでした。
弁護士は兄の名を伝えるのを拒み、同僚たちは賭けを始めました。
一番人気の候補は、ジョン・トラボルタ。
私が密かに期待していたのはヘンリー・ジェイムズの後継者、
何の苦もなく優れた作品を生み出す、自分より才能のある作家でした。
初めて会ったとき、スティーブは私と同じ年格好で、ジーンズを履いていました。
オマル・シャリフよりもハンサムな、アラブかユダヤの顔立ちでした。
偶然にも二人ともそうするのが好きでした。
何を話したのかはあまり覚えていませんが、
とにかく友達にしようと思えるような人だと感じたのは覚えています。
私はまだオリヴェッティのタイプライターを使っていましたから。
コンピュータを一台、初めて買おうかと思っているとスティーブに言いました。
Cromemcoという名前でした。
彼は、恐ろしく美しいものを作ろうとしていると言いました。
これから、スティーブから学んだことをいくつかお伝えしたいと思います。
彼の充実した人生。
彼の病気。
彼の死。
彼は頑張って働きました。
毎日働きました。
彼は散漫の対極のような人でした。
彼は、たとえ失敗に終わるとしても、頑張ることを恥とはしませんでした。
スティーブのように聡明な人が挑戦を恥じないのであれば、私も恥じる必要はないのかもしれません。
彼はシリコンバレーの指導者500人が現職大統領を迎えるディナーのことを話してくれました。
彼は傷つきましたが、 NeXT に行って働きました。毎日働きました。
スティーブにとって最高の価値は、新規性ではなく、美しさでした。
彼は流行や小道具を好みませんでした。
自分と同世代の人が好きでした。
「ファッションとは、美しく見えるがのちに醜くなるもの。芸術とは、最初醜く見えるがのちに美しくなるもの」
スティーブはいつも、のちに美しくなるようにしようとしていました。
彼は誤解を受けるのを恐れませんでした。
パーティに招かれなかった彼は、三台目か四台目の同じ黒いスポーツカーで NeXT に通い、
あるプラットフォームを、チームとともに静かに作っていました。
それは、ティム・バーナーズ・リーがのちに、
ワールドワイドウェブを動かすプログラムのために使われることになるものでした。
愛について話す時間の長さにかけては、スティーブは女の子並でした。
愛は彼にとってこの上ない美徳であり、最高の神でした。
「独身なのか? うちの妹とディナーはどうだい?」と声をかけました。
彼がローリンと出会った日にかけてきた電話を、今でも思い出します。
「こんなに美しくて、頭がよくて、こんな犬を飼っている人なんだけど、結婚するつもりだよ」
リードが生まれて以来、彼は止まることなく家族に愛情を注ぎ続けました。
彼はどの子にとっても実の父親でした。
リサの彼氏と、エリンの旅行と、スカートの長さと、イヴの愛馬についてやきもきしていました。
リードの卒業パーティに出席した人はみな、リードとスティーブのゆっくりとしたダンスを忘れられないでしょう。
ローリンに対する変わることのない愛が彼を生き延びさせました。
私は今も、そのことを学ぼうとしています。
彼はそのことで孤独を感じていました。
私が知るかぎり、彼の選択のほとんどは自分のまわりに巡らされた壁を壊すためのものでした。
ロスアルトスから来た中流の男が、ニュージャージーから来た中流の女に恋をする。
二人にとって、リサとリードとエリンとイヴを普通の子供として育てることは重要でした。
スティーブとローリンが一緒になったことが分かってから何年間ものあいだ、
夕食は芝生で食べていましたし、食事が野菜一種類だけだったこともありました。
一種類の野菜をたくさん。
一種類だけです。
旬の野菜。
簡単な調理。
若き億万長者でありながら、スティーブはいつも私を迎えに空港まで来てくれました。
ジーンズを履いて待っていてくれました。
「お父さんは会議中ですが、お呼びしたほうがいいですか?」と答えてくれました。
リードが毎年ハロウィンに魔女のかっこうをしたがったときには、
何年もかかりました。
同じころ建設されていた Pixar のビルはその半分の時間で完成しました。
パロアルトの家の中はどこもそんなかんじでした。
ただし、これが重要なところなのですが、その家は最初の時点ですばらしい家でした。
彼が成功を満喫しなかったというわけではありません。
何桁分か控えめではありましたが、十分満喫していていました。
その店で最高の自転車が買えるんだと自覚するのが大好きだと話していました。
そして実際、買いました。
スティーブは学びつづけるのが好きでした。
彼はある日、育ち方が違っていれば自分は数学者になっていたかもしれない、と言いました。
彼は大学について尊敬を込めて語り、スタンフォードのキャンパスを歩くのが好きでした。
最後の数年間、彼はマーク・ロスコの絵画の本を研究していました。
未来のAppleのキャンパスの壁に何があれば皆を刺激できるだろうと考えていました。
スティーブは物好きなところがありました。
イギリスと中国のバラの栽培の歴史を知り、デビッド・オースティンにお気に入りのバラがあるCEOが他にいるでしょうか?
彼はいくつものポケットにいっぱいのサプライズを持っていました。
たとえ二十年間人並み外れて近しく寄り添ったあとであっても、
きっとローリンにはこれから発見するものがあるだろうと思います。
彼が愛した歌、彼が切り抜いたポエム。
彼とは一日おきくらいに話をしていたのですが、
ニューヨークタイムズを開いて会社の特許の特集をみたとき、
こんなによくできた階段のスケッチがあったのかと驚きうれしくなりました。
四人の子と、妻と、私たちみなに囲まれて、スティーブは楽しい人生を送りました。
そしてスティーブが病気になり、私たちは彼の人生が狭い場所に圧縮されていくのを見ました。
彼は京都で手打ちそばを見つけました。
もうできませんでした。
最後には、日々の喜び、たとえばおいしい桃ですら、彼を楽しませることはできませんでした。
多くのものが失われてもなお、多くのものが残っているということでした。
兄が椅子を使って、ふたたび歩けるようになるための練習をしていたことを思い出します。
彼は肝臓移植をしたあと、一日一度、椅子の背に手を乗せ、支えにするには細すぎる足を使って立ち上がりました。
メンフィス病院の廊下で、椅子を押してナースステーションまで行って、
そこで座って一休みして、
引き返してまた歩きました。
ローリンはひざまづいて彼の目を覗きました。
彼は目を見開いて、唇を引き締めました。
彼は挑戦しました。
いつもいつも挑戦しました。
その試みの中心には愛がありました。
彼はとても直情的な人でした。
その恐ろしい時節、私は、スティーブが自分のために痛みをこらえていたのではないことを知りました。
家族を連れて世界を回り、退職したときにローリンと乗るために造っていた船の進水式。
病気になっても、彼の好み、彼の決意、彼の判断力はそのままでした。
看護婦67人を試し、優しい心があり全幅の信頼をおけると分かった三人をそばにおきました。
スティーブが慢性の肺炎を悪化させたとき、医師はすべてを、氷をも禁じました。
スティーブは普段割り込んだり自分の名前にものを言わせたりすることを嫌っていましたが、
このときだけは、少し特別な扱いをしてほしいと言いました。
「これが特別治療だよ」と私は伝えました。
彼は私のほうを向いて、「もう少し特別にしてほしい」と言いました。
挿管されて喋ることができなかったとき、彼はメモ帳を頼みました。
そしてiPadを病院のベッドに備え付けるための装置のスケッチを描きました。
妻が部屋に入って来るたび、笑みが戻るのが分かりました。
こちらを見上げて、お願いだから、と。
彼が言いたかったのは、医師の禁を破って氷を持ってきてほしいということでした。
私たちは自分が何年生きられるか知りません。
彼はプロジェクトを立ち上げ、それを完了させるようAppleにいる同僚に約束させました。
オランダの造船業者は、豪華なステンレス製の竜骨を組み、板を張るのを待っていました。
私の結婚式でそうしてくれたように、彼女たちと並んで花道に立ちたかったことでしょう。
物語の途中で。
たくさんの物語の途中で。
ガン宣告のあと何年も生きた人についてこう言うのは正しくないかもしれませんが、
スティーブの死は私たちにとって突然でした。
二人の兄弟の死から私が学んだのは、決め手はその人のあり方だということでした。
どんな生き方をしたかが、どんな死に方をするかを決めるのです。
火曜日の朝、彼はパロアルトに早く来てほしいと電話をかけてきました。
声には熱と愛情がこもっていました。
同時に、それは動き出した乗り物に荷物が引っかかってしまったかのようでした。
申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに、
私たちをおいて旅に出つつあるときのようでした。
「待って。行きます。空港にタクシーで行くから。きっと着くから」
「間に合わないかもしれないから、今のうちに言っておきたいんだ」
視線をそらすことができないかのように、子供たちの目を覗き込んでいました。
昼2時まで、彼の妻は彼を支えてAppleの人と話させることができました。
そのあと、彼はもう起きていられないということがはっきりしました。
呼吸が変わりました。
つらそうに、やっとの思いで息をしていました。
彼がまた歩みを数え、より遠くへ進もうとしているのが分かりました。
これが私が学んだことです。
死がスティーブに訪れたのではありません。
彼が死を成し遂げたのです。
彼はさよならを言い、すまないと言いました。
約束したように一緒に年をとることができなくて、本当にすまない、と。
そして、もっと良い場所へ行くんだと言いました。
フィッシャー医師はその夜を越せるかどうかは五分五分だと言いました。
彼はその夜を越しました。
ローリンはベッドの横に寄り添って、息が長く途切れるたびに彼を引き寄せました。
彼女と私が互いに目を交わすと、彼は深く吐き、息が戻りました。
やらなければならないことでした。
その呼吸は困難な旅路、急峻な山道を思わせました。
山を登っているようでした。
その意志、その使命感、その強さと同時に、
美術家として理想を信じ、のちの美しさを信じる心がありました。
その数時間前に出た言葉が、スティーブの最期の言葉になりました。
船出の前、
彼は妹のパティを見て、
そして皆の肩の向こうを見ました。
みたいな話を見たんですけど、無理でしょー。
理想論とか何とかいう前に、システムとしてそんなん実装できないっしょ。
少なくともオレは無理だ。そんな仕組み思いつかない。
これはこないだ読んだ新書の受け売りなんだけど、日本て割とついこの前までそんな感じだったらしいじゃん。
「専門家がアレコレさばいて取りなしてくれて、"一般人"はなーんも知らんとのほほんとしてて良い世の中」。的な。
で、それが崩れたわけでしょ。そういう感じだった世の中を支える要素が崩壊して今に至ってるわけでしょ。
こんなん巻き戻しが効くわけが無い。いや巻き戻せたとしてもたぶん同じように崩壊するルート辿るだけなので巻き戻す意味が無い。
じゃあどうするって、なんつーか避けて通れないのがやっぱ個人がある程度なんとかするルートになってくるでしょこれは。
学習して自分なりに真偽の判断を下すちからを培っていくっていうのもあるけど、
それ以上に「自分集団心理とかにハマってね?」みたいな自省とか客観的な見直しみたいな能力がまず要る。気がする。
「丸投げ」時代に何を丸投げてきたかって判断と責任を丸投げて来たわけで、何をどこまで誰に投げるのかってのを見抜くちからと、
「投げた」という判断の責任自体はどう転げ回ろうと己に帰ってくるってのをちゃんと引き受けることができるような何かがもう今後無いとダメでしょ。
「引き受けることができるような何か」っていうのは個人の能力かもしれないし単に覚悟とかかもしれないしひょっとして何か社会のシステムみたいなのが一枚嚙めそうなところでなんか何とも言えない名状し難きところなんですが。
「昔は楽しかった」 なんて言っちゃうときは立ち止まってるときなんだ。
思い出してみろ!お前の楽しかった昔を。
その時のお前は過去の事なんて気にしてるヒマ無かっただろ。
常に今日を明日をより良いものにしようと、ただ一生懸命に生きていたはずだ。
それがどうだ。
今のお前は過去の思い出に浸るばかりで目の前のものから目を背けてはいないか。
やりたくないことを先送りにしていないか。
昔のお前はそうだったか。
楽しかった頃の自分にも劣るような現状では、あの時のような楽しさなんて味わえるわけ無いじゃないか。
いい加減やる気出せよ、やれば出来んだろ。
口だけじゃなくやってきた実績があんだろうが。
下を見るな、上を見ろ。
大丈夫、お前が選んだ今だ。きっと悪いようにはならないさ。
そうして今お前を見下している奴らを見返してやれ。
無い物ねだりはもうやめだ。
お前自身の選択を信じろ。
道は開けている、閉ざしていたのはお前自身だ。
仰るとおり、手に負えない相手として「やくざ」という単語を用いています。古式ゆかしきヤクザさんはカタギの人に迷惑はかけないといいますし。
弱い人間が強い後ろ盾を持つ事で「勘違い」してしまうとこうなる、って事ですね。
「お客さん」がいる仕事、いい物を作って評価や喜びの声を得る機会がある仕事は、誰もが一度は経験したほうがいいと思うんですよね。
自分はモノを作る世界からそうでない職種に移って、周囲を見るにつけひしひしとそれを感じています。
「お客さん」を相手にしたことがない人は自分のお給料の出所を軽んじる傾向があるように思うし。
形として何も残らず工夫の余地もない類の単調な事務職を無目的にずーっとやっていると、プロ意識があるとはどういうことか、自分の仕事に誇りを感じるとはどういうことか、を知らずに老いていきかねないなと思うし。
単語を構成する文字を間違えるのはありえない、「ねこ」をネカとは間違えようがない、というのはわかるけど
「だわ」って単語じゃないよね?
助動詞の一部「だ」と終助詞の「わ」に分けられるものじゃないの?厳密な用語は知らないけど。
「だは」と書く人々は、きっと「は」と「わ」の働きの違いが頭に入ってないんだと思う。
もともとは、数年前に「ほんま(本当に)」を「本間」とあえて変換するのが若者の間で流行ったのと同じように
あえて間違った表記にするのがカッコいい、みたいにして始まったのではないか?と私は推測しているんだけど
今となっては「だは」はアタマの弱い人を見分ける指標みたいになってるのが面白い。
それとは話がズレるけど、カギカッコを正しく使えない人が結構いるのが気になる。
・その時父が「そうだよな」と言ったんですけど と書くべきところを
・その時「父がそうだよなと」言ったんですけど (カッコの中身にセリフ以外も入れちゃう)
・その時父が「そうだよなと言ったんですけど、~・・・・ (カッコを閉じない)
「あの時は億万長者は最高に重かった」とか
なんとなく早合点して金銭的価値で測ってるよ。
アルカが願いをかなえるときに見てるのは
実はその願いの利己心や強欲だよ。
「億万長者にしてー」は我欲だったから、対価のおねだりはすごく重くなったよ。
「パソコンちょうだいー」もただの我欲だから、対価のおねだりはすごく重いよ。
願いの動機が愛だったからだよ。
あの願いはひたすら弟を思う兄の愛の塊だったから、
かなえるときに重い対価は発生しなかったよ。
「失敗すると最愛の人がミンチになる」がこの能力の真の特徴へのヒントだよ。
最悪なヒントだよ。
臓器くれレベルのおねだりをされて引き受けるよ。
願いをかなえるモードになったアルカに、
「ゴンを助けてやってくれ!」と頼むよ。
対価ほとんどなしで叶うよ。
更にもう一度おねだりモードになったアルカに
おんぶのような容易なおねだりされて、
思い出などを語りながら3回おんぶを引き受けるよ。
また願いをかなえるモードになったアルカに
「もうこんな能力は消して外で生きてくれ」と願うよ。
カタ〇状態になったキルアは姿を消し、
劇中で数年飛ぶよ。
実際問題、やつらはそんなに無茶はしないよ。
そう、実際はどうあれ、本当に訴訟だ何だはしないんです。(家裁に行きかけたケースは過去あったらしいけど委細は知らない)
ただ、そういう知識っぽいものを高圧的にちらつかせてしつこくしつこく、窓口の若い子やおばちゃんをいじめ倒す。
とりあえずは客だから、訴訟なんかになるわけないと思っていても邪険には扱えない。もっと他にしなきゃいけない仕事があるのに時間だけがこそげ取られていく。
近くを通る他の客は不審げに見て行くし、上席の者が出てきても簡単にはひっこまない。邪険にしようものならそれをネタにしてやるぞ、という姿勢がアリアリで、とにかく追っ払うのに時間がかかる。結果おばちゃんは無駄に疲れ果てるし、若い子は不必要に落ち込んでしまう。
まぁ最終的にはその人個人の人格や性格の問題なんだけど、これをやっているのが『弁護士』であるという現実にげんなりした、という愚痴でした。
というか、今まで傾かなかった理由は何だと思ってる?
プレイステーションやセガサターンなんて、CPUは20MHz前後、メモリ2~3MBとかだよ?
そんなミドルクラス以上のPCを持ってて、それをきちんと運用できてる人なんてごく僅かだよ。
そもそも自分のPCがどの程度の性能なのかすら分かってない人の方が多い。
一方コンシューマでは、据え置き気に比べて絶対性能が微妙な携帯機が威力を発揮しているなど、ゲームそのものに求められる描画能力が昔程重視されなくなっている。
重視されなくなったんじゃなくて、それなりのHD画質が「あって当たり前」になったってだけ。あって当然なクオリティだから誰も求めない。
今更ゲームにステレオ2ch音声を声高に求める人なんていないでしょ。
よく考えてみ。
あなたが想定する、「PC(Windows用)ゲームを買う人」ってどんな人?
性別、年齢層、家族構成、生活スタイル、職業、なるべく細かく想像してみ。
その上で、そういう人間がこの国に何百万人といて、そのうちの何十万人かが、現行のゲーム機やその他の娯楽を差し置いてまでPC(Windows用)ゲームを買う状況って、現実に有りうると思う?
金がもらえなかったら、それは仕事とは言わないだろう。
いろいろとエンタメが好きでわりと見てたり情報を追ってたんだけど
こころの中は苦しく、叫びたくなるようなわけのわからん衝動も多かった。
それから数年ほど忙しくしててエンタメから離れて、流行のシーンもわからなくなると
かえってこころの中は平穏に。