はてなキーワード: 自己肯定感とは
出会いは某2.5舞台だった。ずっと好きだった作品が2.5次元化され、舞台というものを初めて見に行ったのがその舞台だった。
まだデビューしたてで芝居はお世辞にも上手いとは言えなかったが全力で歌って踊りキラキラした笑顔のAを見て惹かれ、いいなと思いながら何回か通っていた公演中に客降りのハイタッチで満面の笑みでハイタッチをしてくれたAに転がるように落ちた。
初めて贈ったプレゼントが翌日に使われていたのを発見して狂喜乱舞して、その後調子に乗ってちょくちょくタオルやらTシャツやらパーカーやら贈ったけどほぼ全部使ってくれていた。その度に鍵もかけていないツイッターアカウントで大騒ぎしていた。今思うと死にたい。
その数ヶ月後初めての接触イベントで、今じゃ絶対やらないけど自分から名前を名乗ったら「あ〜〜!わかりますよ!いつもいつもありがとう!!プレゼントも色々ありがとう!!」と握った手をぶんぶん振りながら言ってくれた、本当に嬉しそうなAの笑顔に泣きそうになったのを覚えている。
その時上から下まで一瞥されたのも忘れられない。この頃はようやくhoneysを卒業してearthとarchivesとイーハイフンを着こなそうと奮闘している二次オタ上がりのおたくだった。察してほしい。
その後もAはトントン拍子に舞台に出続けていた。Aはどんどん芝居が上手くなっていっていたし、Aの芝居が本当に好きだった。Aは接触する機会がそこそこあったので、その中で完全に顔と名前を認知してくれていた。「いつもありがとう」と言われるたびに天にも昇る心地だった。
毎回ツイッターにリプライもしていたしブログにクソ長いコメントも欠かさなかった。公演ごとに半通すらできるかできないかの金なしおたくだったけど、回数入れなくてもAのことを一番大好きなのは自分だと信じ込んでいた。Aが私の世界の全てだった。ほぼリア恋だったと思う。
我慢できず同厨のツイッター等を見に行って病んでたことも多かったけど、何百枚と溜まっていくプレ着用写メフォルダを見て自信を取り戻していたちょろいおたくだった。
舞台で前列にいれば絶対にカテコで出席確認()をしてくれたし、月1以上で贈っていたプレゼントも8.5割は使用報告写真をあげてくれていた。手紙の内容にこっそり私信もくれていた。プレゼントしたものに関するネタをブログで言ってくれたり、リプライの内容に関する返信を文章に織り交ぜてくれたり。この時は推しのIDでツイッター検索をかけたりそれ以前のブログコメントで私以外に同じこと言っているファンがいないか血眼で探したのを覚えている。必死だった。
手紙の封筒もセンスがないなりに必死で作っていた。ただでさえクソ長い手紙を毎回書いていたので、自分で言うのもなんだが毎回大事に読んでくれているのは接触の時の会話でわかっていたけどせめて少しでも愉快な気持ちになって欲しくて始めた。機会があって本人に直接渡した時すげえ!可愛い!いつもホントにありがとう!って言ってくれたから調子に乗って続けた。
そしてこの頃から某黒い背景の掲示板に頻繁に名前を出されるようになった。
出待ちとか遭遇みたいな迷惑行為は一切してなかったけど公開アカウントでリア恋丸出しお花畑なのがいけなかったんだと思う。何をしても毎回ボロクソに言われた。ツイッターも鍵垢からリツイートされることが多くなった。ありもしないことを捏造されあたかも本当のことのように吹聴された。悪意の塊の掲示板が怖くてたまらなくて、でも何が言われてるのか気になって見てしまった。完全に悪循環だった。会場でもやたら視線を感じたし私を見てヒソヒソ話して笑っているのにも気づいていた。
自分は絶対にAにファンサをもらえると信じていたし、席も最前含め前方が多くてどんな楽しい舞台になるんだろうとワクワクしながら気合を入れてうちわも作った。
公演中、最前列だった日に推しが目の前に来る瞬間があった。すごくテンションが上がって、猛烈にアピールしたのを覚えている。
推しはその時こちらをふと見て真顔で何もせずに去っていった。私はあの時の顔が未だに忘れられない。
雷に打たれたような気分だった。その後の舞台はまともに見られなかったけど推しのことだけは辛うじて見ていた。そうしたら違うおたくに笑顔で手を振っていたのが見えてしまった。地獄だった。
今思うと気分屋のA的にはそんなに深い意味はなかったんだと思う。タイミングが悪かったのかもしれない。友達にも気にしすぎだとさんざん宥められた。それでも掲示板でdisられ続けた奴の自己肯定感を完全に打ち砕くには十分な出来事だった。
その後、降りはしなかったし舞台もイベントも頻度は変わらずに行っていた。封筒も作らないかつ以前ほど頻繁には書かなくなったけど手紙も送ったしリプライやブログコメントも続けていた。でも自分の中で何かが変わってしまっていたのはわかった。この頃から積んで前方席に入るようになった。段々Aの舞台に行く目的が見る<<<見られたいになってしまっていた。
Aの態度が変わり始めたのもその頃からだった。
舞台でどんなに前列に入ってもカテコの時にもはや目すら合わなくなった。Aはカテコで上手から下手まで一人一人の客を見るタイプの人だったんだけど、左右にずらっと目線が動いてるはずなのになぜか一瞬たりとも目が合わない。最前立ち位置0ズレに座ってもだ。接触でもあからさまな塩対応になり、プレゼントも滅多に着なくなった。何万ドブに捨てたかは数えたくない。
最初からそうだったのならそういうスタンスの俳優だったんだなと思うし受け入れられたかもしれない。でも途中からこんな感じになってしまったら、あー嫌われたんだな、と思うしかなかった。私が変わったからそうなったのか、Aが変わったのかは未だにわからない。
この頃はもうファンをやってても何も楽しくなかった。
本当に惰性と意地で通っていた気がする。やっぱり推しはカテコでガン無視だったし、他のおたくには目線を合わせているのも見えてしまっていた。そもそもAはブログを更新しなくなっていたけど、私もブログへのコメントもしなくなった。
もう限界だと思った。
Aの芝居やパフォーマンスは大好きだったけれど、それだけで嫌いという意思を向けられているらしき人を応援し続けるのも、他のおたくから自意識過剰ではないレベルの敵意を向けられ続けるのも私には無理だった。
最後の接触イベントでも頑張って笑顔で話しかけたけどほとんど目すら合わなかった。最後に思ってもいないことを伝えてみたら、やっと顔を上げた。ありがとうって笑顔で言ってくれた。久しぶりに目の前で見た笑顔だった。それがAの前に姿を見せた最後の記憶である。
降りてから数年経ったけど、今Aの前に姿を現したらまだ私のこと覚えてるのかは少し気になる。記憶力はいい人だったから。
嫌なこともたくさんあったし泣いたことも多かったけど、それでもやっぱりそれ以上にAのことは大好きだったし楽しかった。
でも時間が戻るならAのことを応援していた時間と金を違うことに使いたかったと思う。
たまにツイッターとかブログは見に行っているけど、全盛期の1/5ぐらいに減ってしまったコメント数を見て彼が何を思っているのかは知らない。
多分私は若手俳優のおたくに向いていないタイプだと思う。何もかも一人に注ぎ込んで精神的に寄っ掛かりすぎてしまうし多くを求めすぎてしまう。Aに関しても勝手に暴走して自滅したのは私自身だ。
ロバート:吐血してたけど病気どうなった?カーソンよりロバート大丈夫か
コーラ:バリキャリモードでロバートいじけるも現場見た夫の理解を得て病院運営に携わることに
メアリー:レーサーの旦那が友人の事故でトラウマに陥り無職になるも復活でハッピーエンド
イーディス:恋人元鞘コブ付き承諾ハッピーエンド 義母とも悶着乗り越える 出版社も経営順調
ヴァイオレット:病院はコーラに任す 何だかんだでイザベルと良い感じの凸凹コンビ関係続く
イザベル:熟年再婚ハッピーエンド 旦那の病気は軽いものと判明 しかし義息子夫婦との関係は微妙
ローズ:なんか印象なかったけどとりあえずハッピーエンド 戦争と平和にも出てたな
カーソン:手の震えから執事引退もうあかんサヨナラ宣言もロバートの慰留を受けアドバイザーに就任
ヒューズ:カーソンと結婚し新婚旅行にもいく 最終回でカーソンをチャーリーと呼ぶ
バロー:自殺未遂を経て性格が軟化 ダウントンでカーソンが退いた執事の席に就くことに
トム:シビルの死を乗り越えメアリーの夫と中古車販売業を共に開業し夢いっぱい 子供も順調に育っている
ベイツ:警察からの嫌疑解消しアンナとのすれ違いも乗り越え子宝に恵まれハッピーハッピーエンド
アンナ:結婚後も終始Mr.Batesと呼び続けていたが最終回でついにジョンと呼ぶ
モールズリー:学識を認められ教師に採用され新たな住処も得る 最後には報われて良かった
バクスター:精神的な自立を獲得 モールズリーとは付かず離れずも良好な関係が続いてる
パットモア:宿屋始めて巻き込まれ波乱も乗り越えハッピー デイジーの義父となんか良い感じ
デイジー:アンディーとどう接すればいいか良く分からんけど少しずつ心開く 髪切ってドライヤー使う
アンディー:字が読めない劣等感で自暴自棄にもなったがバローのサポートなど受け徐々に自己肯定感を高めデイジーと距離縮める
クラークソン医師:微妙に重い責任のある微妙にストレスフルな立ち位置が続く イザベルとは友人関係のまま
自己像があまりに明瞭、というかシンプルすぎて、うすっぺらい物語の登場人物にしか見えない。
長々と自分語りを書いた最後に読者へ向けた説教入れるって、もしこれが実話ならナチュラルに傲慢すぎてやばない?
改行なくしてまくし立てるようにしたり、どうでもいい予防線を連打したり、とにかく自己肯定感を守ることに必死であることを醸すための演出が過剰すぎる。
まず趣味の筆頭にアニメを持ってくるやつはパソコンに金をつぎ込んだりしない。
http://anond.hatelabo.jp/20161203200232
一般的な正しさにもゆらぎがあるんだけど、増田にとっての正しさは、自分が幼少時代から積み重ねてきた価値観のコレクションでしかないと思う。
そういうものに苦しまされている同じような人に向けてのエールだと思うが、
増田自身、自分の正しさに対する見方の狭さと、自己肯定感が低いがゆえに正しさに自分の価値を求めてしまっている視点の狭さ、
想像力の弱さについて言及していないので、別の依存先を見つけてしまうのではないかと危惧。
一番使えない兵士は真面目な無能とあるように、考える力が弱い人の真面目さってのは時には暴力にも害にもなり得るので、
増田が今後すべきことは想像力の強化と正しさについて考えることだと思う。
私はとても真面目だ。制服のスカートを折ったことも無いし、メイクをして学校へ行ったことも無い。課題は確実に出していたし、授業中自分から話したり、先生に横暴な態度を取ることも無かった。
私は母子家庭で育ったが、祖母と兄と母と一緒に暮らしていて、親戚同士の仲も良好だったため、たくさんの人に愛されて育ってきたと自負している。小学生の頃いじめられ、中学校に入ってから全く学校に通えなくなった時も、母が私のためを思い「どうして学校に行かないんだ」と怒られたことがあるこそすれ、無理やり学校へ行けと怒られたこともなく、なんなら「中学三年間なんてこれからの人生に比べれはちっぽけな時間なのだから、ゆっくり休めばいい。好きなことをしなさい」と言ってくれたおかげで、私は無事に高校へ進学した。
多少の家庭問題はあれど、それでも余るくらいに私は愛されてきた。ひきこもろうがどんなに反抗しようが、それでも常に私の心配をしてくれる人が周りにいて、私は本当に幸せ者だと思う。
だが、私は自己肯定感が低い。自分に自信なんて全くないし、取柄といえば真面目なところくらいだと思う。
こんなに愛されてきたのに、どうして私は自己肯定感が全くと言っていいほどないのだろうと、ずっと考えてきた。そして出た答えが、「真面目であること、そして正しいことを幸せだと思っている刷り込み式の考えにある」だった。
私たちは皆、努力すること、我慢すること、気を遣うことが美徳と学んできた。私も小さい頃からそう思って生きてきたし、うちはマナーにも非常に厳しい家庭だったため、それが当たり前だと思っていた。
確かにそれは素晴らしい考え方だし、共存に必要なことであると思う。けれど我々は、その考え方にとても苦しめられているのではないだろうかと、今となっては思うのだ。
私は言いたいことを言わないと気が済まない性格で、物事をはっきりと言っている。喧嘩をするときもそうなのだが、いくら怒っても、いくら自分の気持ちを吐露しても、なんだかすっきりしないことに気が付いたのだ。
言いたいことは言っているし、きちんと相手にも伝わっている。「私はこれが嫌で、こうだからあなたがどうしてそういうことをしたのかがわからない」と、自分の意思を伝え、相手も「そうか、わかったよ」と言ってくれているにも拘らず、気持ちが晴れない。伝えた直後はすっきりしていても、後々「あの時自分はこう伝えたけれど、本当に自分はそう思っているのだろうか」とまた思い直し、そうしてまた、相手が改善してくれたことも、「やっぱりそれは違う」となり、それを延々と繰り返し、問題が全く解決しないのである。
これについて私は、本当に長い間悩んでいた。「相手はちゃんと私が言ったことを受け止めてくれて、改善もしてくれたのに、どうして私は満足できないのか」と、常に自己嫌悪状態で、本当にこれだけで死にたくなるほど悩んだ。
悩んで悩んで、どうしたらいいのかと頭を抱えて悩んでいたある日、答えはふっと降りてきた。
「いくら気持ちを伝えてもすっきりしないのは、本音を伝えていないからだ」と。
そりゃそうだろう、と思われるかもしれないが、そこで出てくるのが、「正しいことを幸せだと思っている」なのである。
すぱっと言ってしまうと、私たちは常に正しさを基準に生きている。そしてそれこそが一番の問題なのだ。
本音というのは、自分の本当の気持ちのことだ。喧嘩をし、自分の気持ちを吐き出してもすっきりしないのは、「一般的な考えを踏まえたうえでの本音」だからなのだと思う。
私たちの中には、意識的にしろ無意識的にしろ正しさが基準として根付いていて、「本当はこう思っているけれど、それを言うことは正しくない」と、どこかで自然にセーブをかけているのだ。そのせいで、本音を言ってもすっきりしない、だって「本当はこう思っているけれど、それを言うことは正しくない。だからこう言ったほうがいいし、そのほうが幸せ」なのだから、という謎現象が起きてしまうのである。
そしてそれが起こる原因は、「真面目さ」にある。真面目な人は、全てのことを正しいか正しくないかで判断してしまう。それは、自分の気持ちですらその天秤にかけてしてまうのだ。
それはとても恐ろしいことだ。どんなに嫌なことでも、ただ「正しくないから」「正しいから」と、そのふたつで判断されてしまう。この恐ろしさを、私たちは皆持っているのではなかろうか。
真面目な人が鬱になってしまうのは、これが大いに関係していると思う。仕事を辞めたくても、どんなに体調が悪くても仕事をし、学校に行き、頑張ってしまうのは、それが「絶対的に正しいこと」と思い込んでいるからだ。かくいう私もそうだったので気持ちはとてもわかる。自分では気付かないうちに、自殺という選択肢しか残らないところまで自分を追い詰めてしまうのだよね。
だらだらと書いてしまったので結論を書くと、「正しいことが幸せなのではない。正しくないことが不幸せなのではない」ということである。
以前母と話したときに、私が「ホームレスを見ると悲しくなる」と言ったら、「案外あの人たちは幸せなのよ。縛られることもなく、気楽に生きていけるから」と言われ、そうかと思った。自分が思っているよりも、他人は不幸せなんかじゃない。本当に心の底から辛い人なんてそうそういないのだ。
「正しさを基準に判断し、他人を不幸と決めつける人」に言いたい。
正しいことが、必ずしも幸せではないということ。正しくない人が全員不幸なんかじゃないということ。自分の「幸せである条件、または物差し」――たとえば死に物狂いで頑張ることとか――から外れている人が不幸だなんて、そんなことは絶対にない。
元増田です。
はてブでホットエントリ入りしていてびっくりした。皆さん読んでくれてありがとう。
少女漫画男子がこんなに現れるとは思わなかった。何となく白泉社が人気かと思ったらやっぱりそうなんだ。自分は他の雑誌社だと生々しい女子高生が出てきて苦手なことが多い。白泉社だと現実離れした女子が多いから、男性でもとっつきやすいのかも。
そもそも少女漫画が好きな人と現実で会う機会が、女性を含めても今まで本当になかった。だから、今、ネットと現実との落差に驚いている。コミケに行った時も、少女漫画ブースがBLに比べて活気がなくて残念だった(BL、百合の同人活動は男子も女子も活発だった)。
id:natsukitchen この増田とお見合いしたいです。なお123の条件が揃ったヒロインでいえば秋里和国『花のO-ENステップ』と清水玲子『輝夜姫』をオススメします。むしろ既読だったら結婚したい。
そこまで言っていただけると恐縮です。その二作は読んだことが無かったので読みたいです。
id:TokiMaki わかる。私はつねにヒロイン側に感情移入して読んでいるので、安易なパンチラやラッキースケベのある作品はあまり受け付けない。少女漫画の方がどちらかと言えば《萌え》の波長が合う。あと百合漫画も好き。
まったく同感ですね。ただ『山田くんと7人の魔女』のパンチラは許せます。女性作者の魔力でしょうか。
私も百合漫画好きです。最近だと『citrus』『捏造トラップ』読みました。『恋愛ラボ』も大好きですが百合ではないか……宮原るりのファンでもあります。
id:tokidokioh 僕も少女漫画大好きなんだけど、少女漫画のヒロインって残念美人、自己評価の低い子が多くて、自己肯定感の低い面食い男オタクからすると理想のタイプなのではと思っている
己の駄目な部分を指摘されたようで、一番堪えるコメントでした。私の自己評価の低さは自認してます。
ただ、自己評価の高い子もタイプではあります。むしろ「私って何の取り柄もない女の子なのに……」と思っているようなヒロインは苦手です。キャラが自分のコンプレックスでヘコんでいる姿に、萌える人がいますが、私は共感出来ないです。モデル体型が好みですが、「貧乳コンプレックスフェチ」はまったく持っていないです。
id:ata00000 萌え漫画の女性キャラは記号的というか自我のないロボットみたいに見えることがある。そういうのは苦手だ/理解できない人には、少女漫画の男キャラが好きと言われるとどう思うかを想像してもらえば理解されるかも?
私は萌え漫画の女性キャラは記号的であると同時に男性的でもあると感じます。逆に少女漫画の男キャラは中身が女子であることが多いですね。『ラストゲーム』は柳が女子っぽいので、半分百合として読んでましたwww
id:ruka98 私は漫画全般好きだけど特に少女漫画が子供時代から一番読んでるから嬉しいですし身近にいたら話したいですけどね。その辺り読んでる世代なら清水玲子さんとか知ってますかね?/谷川史子さんとか好きですか?
お二方の名前は知っているんですが読んでないです。申し訳ないです。私は20代半ばなので、その年代の有名作家がすっぽり抜けています。花の24年組の時代の作家は母の蔵書を借りてよく読んでいました。『輝夜姫』読まないと……
id:etr “花ゆめいと”では無いことだけはわかった。
下野さんと島崎さんのラジオですか?最近存在を知って、ちょくちょく聴いてます。確かこの前男子リスナーのお便り読まれてましたね。数少ない仲間かと思っていました。
id:pyhu 同じく少女漫画男子。男が少女漫画読むのキメエってなる風潮が辛い。増田よかったら俺のブログ見に来てよhttp://tekitounakansou.hateblo.jp/
ありがとうございます!参考にさせていただきます!
id:twikkun 放浪息子が少女マンガだと……という下らないツッコミは置いといてさおりん最高クソメガネ滅びろ/挙がってるの最近の作品が多くて現役バリバリ感ある。僕は量は読めてないけど吉住渉先生の作品が大好きです
志村貴子は言われてみると連載誌が青年誌ですし、少女漫画とちょっと違うかもしれませんね。夏目房之介の説に引きずられていました。でも表現方法からすれば少女漫画でいいとは思います。
千葉さんが二宮くんを選んだのは多くの読者の欲望を裏切るものですが、千葉さんの視点からは現実的な判断だと感じます。明らかに作者が読者の欲望を意図的に裏切ったのだと思いました。『青い花』の杉本先輩の変貌も同様の意図なのでしょうね。読者の欲望をあえて否定することが、志村貴子作品が他の恋愛マンガ(特に百合)と一線を画す点かもしれません。
id:yokoshimauma 支援!!少女漫画男子大歓迎!!男子目線での新しい発見がありそうだから語り合いたい。/漫画のジャンルわけは便宜上で、少女漫画→少女のためのものってわけじゃないと思う。少年漫画好きの女子もメジャーだし。
ありがとうございます。語り合える場所があったらいいですね。
ただ、少年漫画と少女漫画の非対称性はあると思います。女性→少年漫画は多くても、男性→少女漫画が少ないのは、多岐にわたる構造的な理由がありそうです(恐らく読み方の文法の違いに起因するかと。また少女漫画の流行の後を少年漫画が追っているという、宮台真司の論考は読んだことはあります。それも関連しているかも)。
ASDと診断された、と言ってもうつ病の薬をこれ以上飲まないために検査を受けただけで、世間一般に言うほどめちゃくちゃ人間関係に困ってる、ということはない。
失感情が原因かもしれないが"生きづらさ"みたいなのはないし、子どもの頃から変な部分も「特性である」と理解してくれる友人に恵まれてイジメとかも受けたことがない。
学生時代はステージでの活動や時代錯誤な校則を変える活動なんかをしていて、実際に校則を変えたし、部活動でも優勝経験がある。
まず上の前提を読んで「IQ120とか自慢かよ」「結局自慢かよ」「ナルシストかよ」と思った人がいるかもしれない。
私は事実を脚色なく述べたまでであって「自慢をしよう」「他の人にマウントを取ってやろう」という気持ちで書いてるわけではない。
実際に指摘されたことがあるので、今は「ああ、これは自慢に見えるんだな」と思うことができる。
ASDや失体感・失感情をイベントを主催したりする上で障壁になるため、告白したところよく知らない人に「病気自慢かよ」と言われたこともある。
私も「コミュ二ケーション障害」と聞いて「普通に会話もできるし、一般的に"コミュ障"って言われてるようなことはないから、当てはまらないな」と思っていた。
でもそれだけじゃない。
こういう「これ書いたら自慢に見えるかな?」と思うことができない「他人から自分の発言がどう見えるか?」が分からないこともまたコミュ二ケーション障害らしい。
対面での会話時は逆に表情やジェスチャーが加わるので、誤解されることが少ないと思う。こちらもまた誤解することも少ない。
先の「それ取って」(http://anond.hatelabo.jp/20161104204321)なんかは日常生活では問題なく分かるし会話にも困らないけれど、私にはコミュニケーション障害がある。
一般に言う「コミュ障」はただの口下手であることが多いと思う。実際にはそれよりも広い意味があると理解してほしい。
「コミュ二ケーション障害」「コミュ障」は会話によるコミュ二ケーションが困難なこと、も含まれるがそれだけではないということ。
「私コミュ障でさー」とカジュアルに使われるほど一般的になっているけれど、そういう時に言う「コミュ障」と実際の「コミュ障」は別物であるということ。
先にも述べたようにだいたい「口下手」か「人見知り」に置き換えられると思う。それは「コミュニケーション障害」じゃない。
もし「いつも喋ってると言いたいことと違った風に解釈されて困る」っていうならコミュニケーション障害を疑ったほうがいい。
私のように自閉症特性は強めだけど、何も困っていない(実際は眠る時間がまちまちだったり、偏食があったり、感覚過敏があったり、前述の失体感で慢性の肩こりがあって突然倒れたりもするけど、まあ困ってない)人もいるんだし、もうちょっとカムアウトしやすい風潮になるといいな、と思った。
いつか自分のブログに載せたいな、と思っていたけど「病気自慢かよ」がネックになってアップできないでいたので、便乗してここに書いておく。
そういう心配なく、自由に「自分はこう思ってたんだけど、世間一般的にはこれが正しいらしい!」とか驚きを感じたことが書きたいなあ、と常に思ってるんだけど、元々趣味の方面で目立ってしまっているので、最近は自粛してる。
これもひとつの特性らしいけど、みんな仲良くしたほうが誰に取っても得だと思うので、誰かの特性を指差して笑ったり、さげすんだりせずにいてほしいなと思う。
最近特に思うけど自分の気に入らないことを見つけて「なんだとー!」って怒るのは、怒ってる方も疲れるんじゃないかな。
「自閉症特性は治すものではないので困ってないなら病院に来なくてもいいですよ」
困ってる人は病院へ行こう。
これも勘違いがあるけど、一般的に「コミュニケーションに問題がない」と言われているのは、自閉症スペクトラムの中でもアスペルガー症候群の人であるということ。当事者の人も勘違いしてることが多い。
なぜなら言語IQが高いのがアスペルガーの特徴で、動作IQが高いのが高機能自閉症の特徴だから。
これも広く知ってほしい。よって口下手な人や人見知りの人に向かって「アスペかよ」というのもまた違う。
(もちろん症状は様々なので、コミュニケーションに問題があるアスペルガーの人"も"いるとは思う)
個人的な意見だけど、実際に会ったことのあるアスペルガーと診断されてる人は外国語ペラペラだったり弁がたつ人が多い気がする。
困ってないカジュアルなASDは黙ってろっていう風潮もよくないと思う。同じASDなら仲良くしよう。
困ってるか困ってないかの分かれ目は、自己肯定感の有無だって聞くよ。
ASDはメンタルの病気じゃないので、メンタルヘルスを病まないように心がけよう。
ちなみに「対人関係で困らないように生活する努力」は子どもの頃からしてる。自分の場合は反発も多いけど、親の躾が厳しかったのも功を奏してる気がする。(就活や転職、アルバイトの面接でも落ちたことがない)
困ってないASDを見て「楽しやがって」って怒るのは違うと思う。それはうらやましいからだよ。
全然楽じゃないけど、何かを頑張って結果が出ると嬉しいから色々試行錯誤する。
うらやましいと思うなら頑張ろう。私は今困ってないのはその分頑張ったからだと思ってる。
「生きづらさ」がもし社会的エチケットに起因するものなら、頑張って身につけるべき。
アンガーコントロールだってできる。視覚過敏も聴覚過敏も対策できる。
それ以外は適当でも構わない。頑張りすぎるのが我々の特性でもあるんだから。
「IQが高い=頭が良い」というのも勘違い。世の中の「これが解けたらIQ○○以上!」っていうのに毒されすぎだと思う。
IQっていうのは器用さみたいなもんで、普通の人が普通にするようなことができないから、それを補うために上がってるらしい。
だから標準が最善と考える私にとってはIQが高いのは恥のような感覚がする。
学歴だけの話をすれば、数字が上手く記憶したりできないからめちゃくちゃ頭悪いよ。
普通に生活できるならそんなものは必要ないと思うし、何か恩恵を受けたこともない。
余談だけどIQを上げる塾、みたいなのも世の中にはあってIQだけ上げたいなら訓練すれば上がるらしい。同じようなテストを受けたことがあるかどうか聞かれるのはそのため。
あと全発達障害者や全ASDが人間関係に困ってないといけない、みたいなのやめよう。
(これを自分の中で「かわいそうマウント」と呼ぶことにしてる。かわいそう、かわいそう、と言いながら相手が困窮してる状態を望んでいる様。)
繰り返しになるけど、困ってるのなら病院に行くこと。
「生きづらい」と思うことがまず普通の状態でないということを知るべきだし、まずメンタルを治してから生活習慣を身につけたり何やりするべき。
自分の居心地のいい環境を作ることは普通の人と違う異常なことじゃなく、ASDにとっては「普通」と思うことが大事。
普通の人と同じことが出来なくても気にしない。
人に話しかけられたらニコッと挨拶するとか、行儀礼節をわきまえるとか最低限のマナーを守るぐらいでいい。
上に書いたみたいに、突然倒れたりすることがあるから特性を周りの人に知っておいてもらいたいのに、なまじ普通に見えるおかげか言ったところであまり正しく理解されない。
最近流行りのASDや発達障害の家族をコンテンツにした当事者以外の人によるイメージ操作もある気がする。(特別視しすぎ・失敗をネタにしすぎ)
もうちょっと発達障害者やASDに優しい世の中になってもいいんじゃないだろうか。
シロクマ先生の言葉を借りれば「よく発達した発達障害の人」といえるのかもしれない。
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20161018/1476751839
本当にここをこう直してという事以外に何も書いてなかった。ぶっきらぼうというか冷たさみたいなものを感じた。結構頑張って仕上げたものなんだけど、それをその冷たい質素なメールでサクッとレビューされたものだから、何となく、ああ、私はあまり期待されてないのかなとか、こんなところ間違えるとか何考えてんだとか思われてるかなとか色々考えてしまった。
あとで会社ですれ違ったときに、xxxさん、先のパワポだけど概ねOKで良かったよー!ホント助かるわ!あ、悪いけどメールしたところだけでいいから修正お願いね!と言われた。冷たさなんてものは一切感じられなかった。
別にこの件だけじゃないけど、いつもこんなようなことを考えてしまう。どうしても行動の裏に何があるのかを考えすぎてしまう。大体考えすぎてしまうときは「自分はダメだな、誰にも期待されていない」みたいなことを考える。これは行間を読みすぎるというか、自分以外の人間は全員敵だというような考えを元に行動しているからそういう考えに傾きがちなのか。自己肯定感みたいなものが足りなすぎて、他者評価を元にすべての行動を決定しているから、行間を変に読みすぎて妄想っぽくなってしまうのか。一体何のせいなんだろうか。
自分が書いたのかと思った…!
増田さんが、ご自身で呪いを解き始めていて読んでいて泣きそうになってしまった。ちょっとだけ自分語りさせておくれ。
小学生の頃ストレートパーマ全盛期(辻加護ちゃんの直毛ヘアがブームだった)だったんだけど、わたしはくるくるの天パ+ふくよかな体型だったから、当時はブロッコリー・おばさんパーマ・天パがうつるだの男女問わずめちゃくちゃにイジられて、心のバランスが取れなくなった結果道化するようになった。
「くるくるビーム出すぞ!ワァー!」とかふざけて返すようになってから、自然といじりも収まり、クラスのおもしろキャラに昇格した。めでたしめでたし、のように思えるけど、その時強烈に「自分はみんなと同じスタートラインに立つにはふざけないといけないハンデがあるんだ。おしゃれしてはいけない側の人間なんだ。可愛い女子グループには一生入れないんだ」と思ったんだよね。実際ピエロ役をやめようとすると「キャラじゃない」「突然どうしたのw」など女子たちに揶揄されまくって、心がボキッと折れたのもある。
変われたきっかけは増田さんと全く同じで、社会人から一人暮らしを始めたら周囲に容姿を揶揄する人がいなくなり、自炊をしたらげそっと痩せた(標準体型になった)。あれ、これはおしゃれしても許されるかもしれないと思った。世間で天パがゆるふわと呼ばれ始めて市民権も得たのも大きかった。紆余曲折あって今はアパレル企業で働いている。あんなにおしゃれが怖くてお店に入るのすら憚っていた人間が、まさかお店の中の人になるとは思わなかった。(販売員ではないんだけどね)
一度極端に削り取られた自尊心というか、自己肯定感はなかなか埋められないし、私の場合つい癖でピエロをやったり自虐をやったりしてしまうのだけど、幸いなことにいじってくる人のいない・容姿をよく見せようとする努力を素直にいいね、と言ってもらえる環境に身を置いてることで、少しずつ傷は癒えていると思う。増田さんも、いい人たちの中で仕事ができているようで良かった。増田さんのお人柄もあると思うよ。もう、ブスという呪いはといていいんじゃないか、と思う。わたしは、徐々に自分の髪型も、体型も、自分自身もちょっとずつ好きになれてきているよ。
自分に対しても不寛容で批判的で、要は自己肯定感が下がりまくるんだな。
逆に他人に寛容になろうと努めたり、他人を褒める方向に意識を向けるだけで、どういうわけか自己受容も捗るんだな
よく「他人に優しく自分に厳しい」のが理想的な人間として語られるけど、たぶんそれは無理。
良いとこ取りはできない。優しさと厳しさはトレードオフだと思う。他人に対して厳しいと、自分に対しても厳しくなる。
他人に対して優しいと、自分に対しても優しくなる。他人は自分の鑑とはよく言ったものだ。
というより、人間は他人に対してふるまうように自分を扱うんだな
たぶん子育てなんかも同じだと思う。親が子に接するように、子は親に接するようになる。
脳にはミラーミューロンとかいう部分あるそうで、そこで他人の行動を自分のことのように感じるんだそうだ。
そんな風に人間の脳には最初から他人との相互作用がプリインストールされてるんだから、
他人にした行為を自分へ引き付けて考える機能があっても不思議じゃない。
あなたが他人を批判する習慣があったら、たぶん自分のことも無意識に批判する思考の癖がある。
色んな宗教で「他人に優しくしろ」というのも、実利的または社会的側面だけじゃなくて、
実はその態度自体がそっくりそのまま自分に対する態度に返ってくる、と昔の人たちが知っていたからじゃないんだろうか。
鬱で退社する前の自分は他人にも自身にも異常に厳しかった。自縄自縛になって精神を病んで社会をドロップアウトした。
環境が変わり、社会復帰してからは以前のように他人に厳しく接するのをやめた。
すると、当然他人からの扱いも変わったし、何より自分自身を無駄に追い詰める癖も抜けてきた。
何が最善なのかは今でも分からないし、不安だらけではあるものの、もう他人を批判し続ける生き方からは距離を置こうと思っている。
仕事をしたい分野が国内で盛んではなく、すでにいる研究者でなんとかなっている現状。
若者にはパイが回ってこないと諦めて別の分野に転職しようかなって思ったけど、とある募集を通れば海外でその仕事ができる可能性が出てきた。
その結果が今日出る。
ここ2週間くらいずっとドキドキしていた。食事も喉を通らない。
「自分の人生を左右するドキドキ」は、だいたい受験とか就活の時に経験する。
まぁ受験や就活は落ちても、まだ若いし後から挽回すればいいじゃんって気持ちに切り替えられるけど、
きっと落ちたら死にたくなるくらい落ち込むんだろうなぁ。
受験や就職でで第一志望に受かったことはないから、人生で成功したことはほとんどない。
勝ち組とか負け組とかそういうのじゃなくて、とにかく勝って自分を信じたい。
緊張しすぎてさっきからずっと水を飲んでいる。
仁村ヒトシさんの本で上のようなことを蕩々と説かれショックを受けた。
じゃあどうやって自分を愛すればいいの?
その本にそこまでの答えは載っていなかった。
他人が愛してくれない辛さ、自己肯定感の低さ、自己肯定感をどうにもすることができない辛さで負のスパイラルのようになる気持ちはわかる
。
やっぱり、原因を突き止める他ないのかな、とも思う。
それができないからやっぱりつらくなるんだけれども。
ここ最近つらい。
人間関係がまるでだめ。どうしてこうも上手く行かないんだろう、悲しい思いばかりするんだろうとずっと考えている。
なんだかぼろぼろになってきて、認知療法の本まで買ってしまった。心療内科に通うほど追いつめられてはないが、疲れている。
あの時よりはまし、なんて誤魔化しながら生きてる。
失敗するといつもこの状態にぶちあたる。
今回のきっかけは失恋だった。いや、いつもきっかけは失恋だった。つまらないな。
なんで自分はこうも自信がなくて、人と話すのが苦手で、頑張っていても自分の魅力を伝えられなくて、
誰かに笑われるのが怖くて、恥ずかしくて、苦しくて、一人で閉じこもってしまうんだろう。
多分自分を好きにならない人を選んでいる。
私の事なんてみる隙が無い人にわずかな希望を持っていて、たとえそれが上手く行ったとしても
薬物中毒の人だから、離婚暦があるとか、日中デートしてくれないとか、幸せになれない理由をあげて悩むんだろう。
だめなんだよ、違う人を選んでいるんだよ、相手のせいじゃなくて、自分のみる目が腐っているせいなのに。
自分は何で誰にも選ばれなくて幸せになれないんだろうってそればかり考えてしまう。
理由、理由、理由、夜眠らないで考えてたんだ。ほとんどが検索だけど
恋愛出来ないのは親のせいじゃないよ。
自信が無い人は愛されないって検索したんだ。
そうしたらアダルトチルドレンのコラムが出てきてチェック項目もあった。
人のせいにする訳じゃなくて、アダルトチルドレンの状態にぴったり当てはまってしまったから、そこから抜け出してまずは自信を持ちたい。母を恨むんじゃなくて、アダルトチルドレンの状態に向き合いたい。もしかしたら根拠の無い自信の無さから抜け出せるかも知れないだろう?
他者から愛されれば自信が持てるかもしれないと思い、もしかしたら無理に人を好きになってのかも。でも何故いつも叶わない人を?と疑問だが、それも自信の無さの現われのように感じる。自分を認めなくないんだ。
認められたいのに認めたくないんだ。認められないようにしてるんだ。考え方に矛盾があって現実的じゃないんだ。
ちゃんと自信を持つように訓練して、自分も他者も認められるようにならないと人間関係は構築できないのではないかと一晩中考えた。
だからとっても気分が悪い。
散々話題になってる電通での東大卒女子社員の自殺についての話を聞くたびに若いころは名うてのバックラーだった人間として、バックレこそは労働者の命と名誉を守る誇り高い行為であるという確信を深めるに至った。彼女がバックレという選択肢を知っていれば、いや、彼女だけではなく普く労働者が理不尽な扱いに対する選択肢としてのバックレを知っていれば、世のブラック企業は淘汰されるハズだ。労働者を粗末に扱えば相応のしっぺ返しを受けるということを企業に対して知らしめなければならないのだ。お行儀よく円満退社するのではだめなのだ。残された社員が困る? 文句ならそんなことを誘発する会社に言ってくれ。バックレは癖になる? バックレは癖に流されてするものではなく、断固たる決断の所産だ。
そこで、俺は提案したいのだが、政府は一度目に限ってバックレに対して前職の給与と同じ程度の手当てを支給してはどうだろうか。これによって労働者の「会社を辞める」ということへの心理的抵抗感と罪悪感を軽減し、転職活動の時間がないほどに酷使されていても安心して逃げることができるという一石二鳥の効果が見込める。ブラック企業は淘汰され、企業は労働者の顔色を窺わざるを得なくなり、労働者の待遇は改善される。
かつての貴族たちは王や皇帝の理不尽に対してたびたび反乱を起こし、抵抗してきた。王や皇帝がこんな傲慢不羈な貴族たちの顔色を窺いつつ、ちょっとずつ集権化を成し遂げていったのが中世から近代にいたるまでの歴史だ。この傲慢なまでの誇り、自尊心、自信、自己肯定感、果断さ、勇気。現代の我々に欠けているこれらの貴族的美徳を取り戻させるのがささやかな反乱、すなわちバックレなのだ。
朝。
目が覚めても、そしてかろうじて朝食コーンフレークを食べても、
数日前。ためしてガッテンで、言っていた。
脳は一日に約18万の項目を考えているんだって。
なのに今日1日を過ごすことに怯えていて、怯えている自分をつくってきた今までの人生を後悔して、それに耐えるだけで4時間が過ぎた。
ためしてガッテンの言うとおりだ。
けどそれは「お勉強」についてであって、頭はすこぶる悪い。
人生がまったく自分の望む方向に進んでいないと感じた20代前半、
自分を見つめなおして新しい方向へ歩みはじめた。
新しい方向への歩みは、順調であると感じていたし、
進んでいた数年間は自己肯定感を持てていた。
と思ってた。
現実はどうだ。
任されたことがうまくできなくて、乗り越えられない。
乗り越えられないから、無力感が高まって、無気力になっていく。
新人なんだから、周りを頼ればいいだろうと2年前の私は言うだろう。
いま、人を頼れない。頼れるようになったはずだったのに・・・
職場環境にも原因はあるだろう。
昔から、自分で環境を変えるよりも、自分のあう環境で力を発揮する性格だったように思う。
けれど・・・
自分を見つめなおしたというよりは、環境を変えたかったんだろう。
違う環境への道を切り拓いたのは、自分のことながら凄まじいエネルギーだった。
努力の結果、環境が変わったことで、満足してしまったのかもしれない。
そもそも、運動音痴で、頭も悪くて、
それでも認めてくれる人もいるし、どうにかして幸せに生きていけるって
思えていたのだけれど。
もう前に進む以外道がない。
なのに前に進むエネルギーがわいてこない。
いったいどうしたらいいんだ。