はてなキーワード: 自己肯定感とは
その時、たまに「クスッ」と笑われる。
低身長不細工汚い肌で痒みや痛みに耐えている苦渋に満ちた表情をしていたから笑ったのだろう。
他人からキモイと思われているんじゃないかといつもビクビクしているアトピーゾンビには、小学生の嘲笑は堪える。
親の優秀な遺伝子と恵まれた家庭環境という最強カードを持って生まれてきた勝ち組人生確定小学生たちだ。
そしてどこか勝ち誇った顔をしていた。
「自分たちは選ばれた人間なんだ。そこらの馬鹿な凡人とは違う。生まれつき頭がいいし容姿もそこそこ。親も温厚で優秀で金持ちだ。もちろんアトピーゾンビウイルスとかいうキモイ病気は持ってない。おらおら!どけどけ!エリート小学生様のお通りだぞ!」という表情をしていた。
虐待や体罰は、脳にダメージを与え、精神疾患にかかりやすくなったり、攻撃的な性格になったり、無気力になったりするという研究データがある。
アトピーゾンビと違って、虐待されず虐められることもなくアトピーゾンビウイルスの痒みや醜さに苦しむこともなく人生を楽しむんだろうな。
脳が委縮してないから、コミュニケーションも容易に取れるし、記憶力もいいし、精神疾患にもかかりにくい。
親が優秀だから、質の高い様々な経験や先取り学習をして人生を有利に進められる。
自己肯定感もたっぷり、親に散々甘えてきたから安全基地がしっかりあって精神が安定してる。
虐められてないから、対人不安はないし、鬱にもなりにくい。脳が委縮していない。
持病に苦しんで灰色の青春を味わうようなことはないんだろうな。
楽しい思い出を沢山心にしまって自信と親から与えられた教育で作られた脳をたっぷりもって成人するんだろうな。
健常者小学生は順調に人生の駒を進めて成人したとき、おっさんアトピーゾンビを見て、「きっもw努力不足!死ね!」と罵詈雑言を吐くのだろうな。最悪だ。
なんで生まれてきたんだろ。
オナニーの質を高めることだ。
人間の人生においてこれほど手軽に気持ちよくなれることは他にない。セックスも社会的成功もギャンブルもかかる手間とリターンの期待値を考えれば非常に効率が悪い。亀頭やクリトリスにローションを塗ってコスるだけでいいオナニーの圧倒的コストパフォーマンスに勝る物など人生にはない。
何より自分の手を動かすことが快感につながるのが非常に脳にいい。そんなことはないと茂木健一郎が言ってきたら頭のブロッコリーを引っこ抜いてやる。自分の手で自分を幸福状態に導く行為が生み出す自己効力感によって現代人に不足しがちな自己肯定感が補われ、脳が健全な状態に近づいていく事は科学的にも間違いない。
だが、そこに1つの壁が立ちはだかる。それはオナニーへの忌避感だ。人間の本能と社会文化は子作りに無関係な性行為を非生産的として敵視し続けてきた。そもそもオナニーという言葉自体が、膣外射精をしただけで天罰がくだるというくだらん言い伝えの副産物なのだから恐ろしい。人生に幸福を見出すことよりも、遺伝子に命じられるまま生むこと増やすことばかりを考えていた原始的な風習が今なお我々を苦しめているのだ。
我々はこの「オナニーは悪である」という考えを取り払わなければいけない。それによってオナニーの幸福度は高まる。心の何処かでそれをしている自分を否定しながらの行為というものは、何事であれ己に苦しみを与え脳や心を破壊し続けるものだ。だから我々はオナニーを気持ちよくするためにオナニーを肯定しなければいけないのだ。そもそも何故オナニーを否定する必要があるのか。余分な性欲を処理することは脳のリソース管理や家族計画を通しての人生設計において必要不可欠な物だ。前時代な前例主義に我々の世代までもが合わせる必要はない。オナニーを肯定しよう。そして屈託のないオナニーの快楽により人生を豊かにしよう。Let'sオナニーLet's自己実現
もう限界だ。
自己肯定感が低いのは確かにそうだ。
だが、客観的に見たスペックと社会が自分を低いカーストへと固定化しようとする。
それが嫌で嫌でたまらないのに、なぜそれを甘えというのか。
結局勝ち続けている人たちは負けている人から搾取する事をベースに考えている。
努力や能力を免罪符に自身を合理化し、負けた人たちは生活できるだけでもありがたいと思えという。
それはシステム上そうならざるをえなかっただけであり、システム自体に疑問を抱かない。
彼らの言う大人であるくらいなら、まだ堀江貴文氏のように問題提起をしてそれに立ち向かう人間の方が人間らしい。
そうすることすらできない自分の能力の低さと病気が生きる気力すら奪ってしまった。
でもそれはもうできない。
悔しい。
結局GDPを向上させるための消費装置を政府は失いたくないだけなのだろうか。
頼むから、この世に絶望し、死ぬ事でしか救われない人たちの負担を軽減する手段を模索してほしい。
中学の時に、アトピーゾンビウイルスと虐めと虐待が原因で、自己肯定感がゼロになり、対人恐怖がひどくなったため、一時期不登校になった。
すると、親が「こいつが不登校なのは、こいつの精神がおかしいからだ!」とか言い出して、アトピーゾンビは精神科に行くことになった。全部で十か所くらい行ったと思う。
正確には無理やり連れまわされたんだけど。
「不登校だとまともな学校は面接で落とすからろくな高校いけないね」と言ってきた余計なお世話だよ基地外。
俺、人の心が読めるんだよ、という顔をしながら「今こんな感じのこと思ってるでしょ?当たってるでしょ?(ドヤァ」ってやるだけのナルシスト基地外。
「不登校?甘えてんじゃないよ!みんな頑張ってるんだ!」と大声でキレる基地外。
「ふーん。とりあえず薬出しときますね」と、三分診療で薬だけ出す基地外。
「男なんだからしっかりしなさい!男なんだから!男なんだから!」と、そんなアドバイスなら俺でも出来るわって思わせてくれる、性別に執拗に拘る基地外。
「君、○○(有名人)に似てるね!」と、お世辞で患者のご機嫌を取り、リピーターにしようとする基地外。
「頑張って学校いきましょうね~」と、人を小馬鹿にしたような態度をとる女医基地外。
彼らを見て、「精神科医って糞だな。患者じゃなくてあいつらが治療の対象だろ」と子供ながらに思ったのであった。
シロクマとかいう奴がはてな界隈でブイブイいわせてるみたいだけど、こいつも奴らと同類なんだろうな。
精神科医達は誰一人として、アトピーゾンビと一緒にいた親をカウンセリングするということが無かった。
容姿が悪い奴は人を不快にする。不快なものは排除するという人間の本能があるから虐められるのは当たり前。虐められるのが嫌なら容姿をよくするしかない。
容姿が悪い子供は見てるだけでイライラする。だから虐待されるのは当たり前。
こんなキモイ奴が自分のおなかから出てきたのかよ。嫌悪感丸出しの扱いを受けるのは当たり前。
容姿が優れている美少女なら育てるのが楽しくて両親から優しくされるだろう。
容姿が優れているから好循環人生を送れる。容姿が悪いから悪循環人生になる。
美少女として生まれて来たら周りから大切に扱われて自己肯定感がしっかりはぐくまれて努力も希望が見えているから思いっきりできるし、精神障害者にはならないし、自信と希望に満ちた充実した楽しくて明るいキラキラした人生を送れる。
物心ついたときから虐待されてたし両親に。幼稚園の時からアトピーゾンビウイルスのせいで虐められてたし、自己肯定感が全くないから努力するのが怖い。
何かしたら何か恐ろしいものに暴力を振るわれるんじゃないかという恐怖が脳に刷り込まれてる。
自己評価も低いし、自己肯定感もないし、頭の中は他人にされた言動や、同級生からのいじめや、両親からの虐待でいっぱいだし、アトピーゾンビウイルスのとろろのような痒みでつらいし、きもいはだを見るだけでやる気がなくなるし、生きてるだけで疲れる。
愛着障害だし回避性人格障害だし対人恐怖症だし解離性障害だしアトピーゾンビだしで最悪である。
楽しいってなんだ?人生が楽しい?想像できない。人生は辛いことや嫌なことや怖いことや痛いことが百パーでそれ以外のものが入ってくる隙間はないというのがアトピーゾンビの生きている世界だ。
・自分が変われない理由、わかった気がする。それは、「自分の人格が否定されるのを極度に怖がる」からだ。
自分を変える、というのは、一種の自己否定的な側面がある。「今の自分はダメだから、もっといい自分になる」。前提には、「今の自分はダメ」というのが入る。
ただ、これはあくまで見方の一つで、「今の自分もサイコーだけど、もっとサイコーな自分になるために変わるんだ!」という見方だってできるわけだ。これなら、自己否定が入る余地はない。
では、なぜわざわざ自己否定をしてしまうのだろうか。それは、明らかに「自己肯定感が足りない」からだ。
「今の自分」「ありのままの自分」を認めてもらった経験が少ない、もしくは成功体験がなく、自己否定を重ねてきた人の場合、自己肯定感が低くなってしまう。そうなると、自己否定に過剰に敏感になってしまい、自己変革が抱える自己否定的な面に注目してしまう。
これを解消するためには、やはり成功体験を積んだり、他者から認めてもらったりして、自己肯定感を養うことが必要だろう。ただ、他者承認はコントロールすることが難しいので、成功体験を積む、ということの方に着目したい。
成功体験を積むには、やはり、ものごとを小さく始めて、小さい成功体験を重ねていくことが最初の一歩だ。モチベーションの観点から、自分の好きなことだとなおよい。とにかく、欲張らず、小さく、小さく始めることだ。
自己肯定感が低いと、どうしても「大きなモノを達成できないといけない」と、小さい成功を無視してしまうか、最初から大きいことを飲み込もうとして窒息してしまうことが多々ある。そうではなく、ものごとを小さく始めて小さく成功していく、これが、自己肯定感を得るためだけでなく、大きなものごとを達成することの一番よい道のりだ。
あと、小さいことでも、達成したら、ちゃんとその成功を認めること。自分を褒めること。どんなにショボいことでもいい。ちゃんとにその成功を、お祝いしてやること。
結論: 変わるためには、ある程度自己肯定感が必要。そのために、ちいさ〜くちいさ〜く何かをしてみること。達成できたら、盛大に祝ってやること。
余談: ちいさくやる、という点において、ポモドーロテクニックは有効かも。タスクを1ポモドーロというとても小さい単位に分割しているし、達成した記録がはっきりわかる。最初のうちは、1ポモドーロ分でもできたら成功、みたいにして、少しずつハードルを上げていけば、安定して成長できる気がする。
赤信号でも交差点に突っ込んでしまう人に、「信号をちゃんと注意してみろ」といってみても、「赤がススメ、青が止まれだと思っている」のであれば、いくら信号に注意する力をつけさせても状況は改善しない。
もちろん、「信号がよく見えていない人」に「青がススメ、赤が停まれ」と教えても、それは知っていることの繰り返し。
その人に必要なのは知識の教育でなく、信号がよく見えるための眼鏡。
それどころか、知識の無い人間に「お前、眼鏡買ってこい」と指示を出したり、眼鏡をかければ済む人間に「交通教本読み直してレポート提出」とか、時間労力とも無駄以外の何物でも無い。
下手すると「改善策をとったのに出来るようにならない」と自己肯定感の低下にさえ繋がるんだよなあ。
恋人と別れた。
原因は自分の裏切り。未だに自分では裏切ったつもりがないのが、自分の人間としての出来の悪さを思い知らされるようで嫌になってくる。
こうやって自己嫌悪する時点で結局自分は相手のことを想ってなかったんだと考えると、さらに嫌になってくる。
最初申し訳なさを2割って考えてたけど、増田に書きちらかそうとしてる時点で超自分本位だ。
以下本題。
ただ後悔だけはものすごい分量が自分の心の中に渦巻いてるけど、多分明後日には立ち直ってるだろうなと思っている。
忘れることはないだろうけど、自分のメンタルがこれでヤバイことになってしまうことはないと思っている。
というのも、運動、睡眠、野菜の習慣をつけはじめて以来、xevra氏のコメントに目がつき始めて、確かに精神状態調子いいなって思ってたから。決して逆ではない、影響された訳ではないとワザワザ付け加えたくなるのが氏の特徴でもあると思うが。
(まだ瞑想ってほどの習慣はつけてないのでなんとも言えないけど、運動後静かに頭を空っぽにする時間は瞑想に入るのだろうか?)
今では確信を持って言える。不健康な生活は精神まで不健康にする。逆もまたしかり。
少なくとも自分はそうだ。
ただ、今はそれが少し怖い。
というより別の方向で不安になってきた。
氏は、上記氏のキャッチコピーの他に、謙虚さと反省を忘れないよう忠告するブコメも多い。
運動、瞑想、睡眠と野菜はメンヘルに陥らないための最低限の行為でしかないとも言っている。
ただ、キャッチコピーが与えてくれたものは、それとない自己肯定感だけだったと思う。
今謙虚さと反省に向き合う段になって、自己肯定感は罪悪感に変換されている。
すべきことはなんだったのか、そのあとどうすればよかったのか。
が、それより怖いのが簡単に自己肯定感が上回るだろうなということだ。
日々成長していくことを人生の目的に据えて生きているつもりなんだが、今は完全に詰んだ感がしている。
根だけ増やしているが枝の伸ばし方がわからない。
そしてここに及んでなお、自分のことしか考えていないのに唖然としている。
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それでも自分の今後のメンタルに安心を抱いている自分を感じて、
そういえば増田でxevra先生話題に出てたな。と思って思わず書いた。
今となっては逆にメンタルって何なのかと意味が解らなくなってる。
運動とかすれば死ななくて済むよ!生きるの辛くなくなるよ。
でも、生きるの辛くないのが辛い。なぜ辛く感じないのかが辛い。
なまじっか生きるの辛かった時期を過ごしたことがあると、辛くないのが変な気分になる。
好きな女のタイプの話をしたい。
二つある。
ひとつは、滑稽な女だ。滑稽な女はいい。高慢で、世間知らずで、調子に乗っていて、癇癪持ちで、やたらに自意識の高い女がいい。ずっと自分が十代のつもりでいるような女もいい。延々と中二病をわずらい続けていてくれたりすると、なおいい。そういう女を表面上全肯定しつつ、心の中でこっそり嘲笑うのが、俺は楽しい。嘲笑うたびに、愛が増す。
もうひとつは、卑屈な女だ。とにかく自己肯定感が低い。他人に人生を与えられて生きている。常におびえていて、おどおどしていて、こちらの顔色をうかがっていて、少し優しくするとすぐ騙されて、一度精神的にめげると一週間くらいは浮上してこないような女。あと、やっぱり癇癪持ちだとうれしい。そういう女を上手にあやしながら、時々梯子を外してやるのが楽しい。どんどん不幸になっていく様子を、横で慰めながら眺める。こっそりと心の中で愛でる。
基本的にはこっそりだが、別に声に出しても殺されたりはしない。大抵、こういう女は、口に出して嘲笑っても平気だ。ふんわりした頭をお持ちなので、言っても理解できない。そういうところも可愛いと思う。俺は、そういう女を嘲笑いながら愛でるのが好きだ。
あるいは、向こうも俺のことを嘲笑っているかもしれない。それならそれで、とてもいい。むしろ、それがいい。お互いに心の中で嘲笑いながら、馬鹿にしあいながら、それでも表面上は幸せな顔をして、じじばばになっていきたい。仮に世界中の誰もがたった一人の人間しか嘲笑うことができないのなら、俺を嘲笑うのは俺の愛した女であってほしいと思う。
俺は恵まれている。
幸いなことに、程度の差はあれ、世の中の少なくない女が上記二つのどちらかの女性像には当てはまってくれるからだ。全部の女がそうだという気はないが、通りで石を投げれば一人はヒットする程度にはいると思う。今までつきあってきた女も皆そうだった。そこがとびきり可愛いと思って、告白した。友人の評価はイマイチでも、俺にとっては世界一かわいい女たちだった。
おかげで、俺の人生は満たされている。神様がもし実在するなら、抱きついてキスしたい。よくぞこんな絶妙な世界を俺にくれた。世の中には、俺の好みの女があふれている。
若い頃のネガティブな自分に会ったら、思わずそう言ってしまうと思う。
大人になると、個人の力の限界や、他の人との差はそのなに大きなものではないと知る。
世間でいいとされているものは必ずしもそうではなく、感じ方もひとそれぞれで自分に合ったものを選択すればいい。
”今の記憶を持ったまま”若いころに戻れたら、どんなに素敵なことかと夢想する。
しかし、よく思い返したら、若いころはいっぱいいっぱいだった。
優劣の差が明確につけられるし、自己肯定感なんて無かった。
弱いと切り捨てられるから堪えるしか無かったし、外の世界も同じようなものだと思っていた。
自分が好きなものは好きだと思ってはいけないものだと思っていた。
感情を偽らなくちゃいけないから、道理で動かない人間に対して攻撃になってしまっていた。
今でこそ、外の世界に出たからこそ、子供時代が狭い世界であり、特殊な世界だと理解できている。
だが、狭い世界で生きている人間にそのことを理解させるのは難しい。
仮に、ある人物がいきなり現れ、
「この世界は実は仮想世界なんだ。今すぐ死ねば現実世界に戻れて、もっと生きやすいし楽しいよ」
そう言われて信じられるだろうか。
いじめに遭ったことどもに対して、「狭い世界だからもったいない」、「逃げればいい」、そうアドバイスする気持ちもわかる。
それも彼らにとっては信ぴょう性のない言説に過ぎないのだ。
自己肯定感の低い者に対して、可能性なんてものは自分をがっかりさせる得るギャンブルに過ぎないのだろう。
結局のところ、若いからなんでもできるかどうか、それを理解するには時間がかかってしまうのだ。
もちろん個人差はあるだろう。
しかし、落ち込んでいる若者に、「若いからなんでもできる」と言うのは戯言でしかなく、
彼らを励ますという目的を達成するのであれば、それは説得力はなんたるかを考える必要があるのだ。
たけを
ネットでは日々様々な議論が行われているが、アウフヘーベンまで昇華しているものは稀で
ほとんどが、それぞれの主張をして、自分だけが正しいという信念を持ったまま何も変わらずに終わり、
なぜネットではそのような不毛な議論が行われるのだろうか。今回はそれについて書きたい。
「ヤバイ」という言葉はシチュエーションや言い方によって幅広い意味を持ち、人によって解釈の幅がある。
にもかかわらず、ネットでの議論はこうした言葉の定義に厳密さを求める姿勢が少なく、
それぞれが自分なりの解釈、時には都合のいい解釈やレッテル貼りをすることで議論がかみ合わなくなる。
そうした結果、相手をバカと認定することになり、各々がバカと過ごすのは時間の無駄と結論づけられる。
例えば「青森」という単語を出したとしよう。それは青森県全域を示しているに他ならない。
しかし、人によっては「青森=東北」と解釈し、東北という意味で捉える。
青森はりんごがおいしいよねと話していても、そうとは限らないとか、きりたんぽの方がおいしいなどという答えが返ってくる。
また、その抽象化した概念に関連したレッテルに置き換わることがある。
「青森=東北=福島=原発」くらいまで飛躍してしまう人もいる。
青森の話題を出しているのに、東京電力が!放射線が!という突飛な単語が出てきてびっくりすることもあるだろう。
彼らにとっては「言葉の厳密さよりも、自分がその言葉から何を連想したか」の方が重要で、それがその言葉の本当の意味になってしまっているだ。
これが、実態を持たない形而上の議論というのはこういうおかしさを確認するのがむずかしくなる。
例えば一橋自殺の事件に対するコメントでも、ゲイに対するそれぞれが持つレッテルや常識が客観的な議論を妨げている。
彼らの中での常識に反している=異常=排除すべき のような流れになっていることも少なくない。
彼らは言葉の定義や自分たちの解釈の「揺らぎ」について把握しようとしない。
指摘をしたとしても実態をともなわないため、図で示して明確にまちがっているということを表現しづらいのだ。
ネット上では愛知県を東日本と考えている人と西日本と考えている人がその違いを把握しないまま、東日本の県の数はいくつなのに
あいつは数も数えられないのかと憤慨しているのだ。
しかしながら、こういう「揺らぎ」を理解しようとするものは少数派だろう。
そもそも「定義付け」なんてものは現実世界の日常会話で行ったら気持ち悪いと思われるのが関の山だ。
ネットとリアルの境界線が曖昧になった今、そんなことをしようものなら気持ち悪いやつというレッテルを張られ、
「定義付け」自体も気持ち悪いやつの行う気持ち悪い行動となり、
彼らをまともな議論に導くことは困難になるだろう。
結局、授業でディベートなどを導入し、言葉の「揺らぎ」を自覚させ、定義付けの重要さを頭がこり固まる前に刷り込ませるしかないのである。
それまでは、ネットでの議論なんてものは不毛で、一部のまともな人の間でしか生産性を持たないのである。
ーたけを
繰り返しですが、僕は自己中心的で、さらに自分の立ち位置を自分で決めることのできない情けない大人です。
他人との関係にパワーゲームを持ち出し、好かれたいと思っていた人にいざ好かれると、それで目的を達成した気になり
他人に愛を与えたことのない僕は、そこで関係を投げ出してしまいます。
少し経った頃に、寂しくなってその人に連絡を取ろうとしたりします。アホですね。
原因を色々と探ってみましたが、アダルトチルドレンというもののチェックリストがあり
大半が当てはまっているようでした。
もちろん、この手のリストは「回避性人格障害チェックリスト」「軽度のうつ病リスト」などに
1つの「可能性」として、幼少期に形成された自分の性格に目を向けると
やはり「親に良い成績を取るのが当然だと思われ、褒められたことがない」
「可愛げのある姉弟は些細な事で褒められ嫉妬し、さらに親に反感を覚え素直になれない」
「教師には怒られたりしたくなく、真面目に振る舞うが、上辺だけで結局やんちゃな子の方が好かれている」
のような、愛情不足、承認欲求の渇望といった感情が小さい頃からあったのだと思います。
アダルトチルドレンの改善(というのが正しいかわかりませんが)に、インナーチャイルドとの対話というのがあるようです。
小さいころの自分に話しかけ、素直な気持ちを聞き出し、「今の自分」が「小さい頃の感情を」認めて愛してあげるという趣旨のようです。
昨日、30分ほど書け、小さい頃の思い出を思い出すと辛いこと、悲しいことばかり浮かび情けないながら泣いてしまいました。
http://anond.hatelabo.jp/20160806123148
>カムアウトって誰のためにするの?
>自分が楽になりたいだけだよね?
>自分が楽になれば、それを聞かされた人が思い悩んでもいいの?
>そんな自分勝手な理屈がいつの間にか「正しい行為」として推奨され、
カムアウトは自分のためにする行為だと思う。それは間違いない。
ただ、誰彼構わずカムアウトしているわけではなくて、信頼関係ができてきた相手にのみする人が多いのが多数派だと思う。
これは同性愛に関わらず、一般的にマイノリティである秘密を打ち明ける場合にも同じ。
言うことで相手に負担をかけてしまうかもしれないけど、親密だからこそ言えるというね。
それと、カムアウトすることが正しい行動として推奨されているわけではないよ。
彼らがパレードをするのはそれを推奨するのではなく、マイノリティが身近であることを主張するためであり、
>あなたが男性だった場合、それは「あなたのチンポをしゃぶりたいんだ。
>できればあなたのケツにも入れたいんだ。
>(もしくはあなたのチンポをケツに入れて欲しいんだ)」を意味するのですよ?
それに対し、そういう下衆な表現に置き換えるのは悪質であり偏見を助長するものでしかない。
女性に告白する場合、「あなたのマンコをなめ、できればマンコに挿入したいんだ」を意味するかといえば、
そういう短絡的な人間も少なくないだろうが、否定する人間も多いだろう。
>世間に理解が浸透していくんだろう」みたいなこと書いてる人がいた。
>捨て石のように考えてるんだと思ってゾッとした。
これを捨石と捉えるのは曲解に他ならない。
物事には様々な側面があって、そのブコメはある1部分にフォーカスしたにすぎない。
たった100文字のコメントでどこに焦点を当てるかは人によってことなるが、
そのブコメの意見はまちがっていると思う人間がどれだけいるだろうか。
確かにゲイ文化の中にカムアウトを推奨する人たちがいるのも事実。
彼らもまた短絡的に自分がうまくいったという経験則を、似ている人間と集団になることで強化し自己肯定感を得ているだけの人間も少なくないだろう。
彼らは精神的に追い詰められやすく、通常では耐えられることも自死の引き金に感じてしまう場合がある。
私は間もなく30歳を迎えるシングルマザーで、4歳の女児を育てている。その娘が今夜熱を出した。もともと体の弱い子で、熱を出すのは珍しくないのだけれど、今夜の彼女はうんともすんともつらさを口に出さず、寝かしつけようとして体に触れるまで、彼女が発熱していることに私は気づけなかった。
娘の体は本当に私によく似ている。体型や肌や顔も似ているし、周囲の感情に敏感なところ、音の刺激を嫌がるところ、その反動か、自分の想像の世界に静かに沈むのが好きなところ。彼女を見ていると、お世辞にも上手に渡れているとはいえない自分の人生を、同じように繰り返してしまうのではないかと怖くなることもある。
私は、「こういう親になりたい」という模範像を持っていない代わりに、「なるべく毒親になりたくない」というのを考える。血を分けた娘が一番の理解者であるように感じてしまうけれど、配偶者がいない心細さを娘にぶつけたくない。かといって必要以上に距離を置いたり突き放したいわけではない。自分は離婚の際に性嫌悪気味の感覚をもってしまったけれど、それを無意識に娘に継がせてしまいたくはない(ああ、でも、きっと彼女はもう知っているのだろう)。
生きていくのは怖くない、楽しみをもっていいと自己肯定感のある子に育って、いつか私が先に死んだ後も幸福に、自信をもって暮らしていってほしいといつも願っている。
今日、増田に書かせてもらおうと思ったのは、娘の体の痛みを同じ感覚で理解できる自分は、自分だけは、何があっても彼女の感覚を否定しないであげようという感じが、急に降りてきたからだった。どうしても感じてしまう痛みやつらさが今ここに紛れもなくあると、そこを撫でてやること、文字通り「手当て」をすること、きっとそれが私の仕事なんだと思った。どんなに忙しくても疲れていてもそれだけは必ずしようと思った。今夜の娘は夏風邪なのだけど、もしかしたら彼女が10代にさしかかる頃には、私がそうであったのと同じように、婦人科系の不調や自律神経の不調をきたすかもしれない。そのときの自分の仕事はまず手当てだと思った。
私の家は両親が共働きで忙しく、長子だった自分は小さい頃からきょうだいの世話役をすることが多くて、寂しい気持ちがなかったと言えば嘘になる。高熱の娘を撫でていると、なんだか寂しかった子どもの頃の自分にも手当てをしてやっている気持ちになる。これでいいかな、いいということにさせてほしい。仕事に家庭に、精一杯だった母も、あれでよかった。
書いていて思い出したけれど、自分も母も甘え下手というか、必要以上に苦労性の部分がある。娘には、遊んだりさぼったり誰かと助け合ったり、そういうことを自然としてほしい。きっと口で言うだけではなくて、母親の自分が自然にそういう姿を見せられないと、なんだかいけないことのように感じてしまうのだろう。子どもを産んでからずっと張りつめた気持ちで過ごしてきて、暮らすのに精一杯という感じだったけれど、もうちょっとやわらかに生きたっていいのかな、自分も。
1人の人間をこの世に送り出した責任、すさまじく重く感じてしまうのだけど、あんなにやわやわだった赤ちゃんを数年間生かしてこられて、本当によかった。「幸せにする」なんて傲慢かな〜と思いつつ、娘が幸せそうにしているのをこれからも見ていられるように、私自身も笑えるようにしよう。子どもの頃の自分は「ママ笑って」とよく思っていたから。
僕は何のスキルもなく頭も悪いコミュ障でデブで不細工でまさにゴミクズなんだけど、自分が売ってる商品のことはとても好きだ。
色々出来ないことも多くて不便なとこもあるけど、すごいことが出来る商品なんだ。
僕はゴミクズの自分自身の代わりに自分の売っている商品を自分自身として思い込んで、そうして人生ではじめて自己肯定感を覚えることが出来て、本当に毎日楽しかった。
すごい商品だけど色々出来ないことも多くて歯がゆい想いをしていた。「出来ないこと」はいつも同じだからだ。この点をクリアしたらもっと売れるのに、もっと使いやすくなるのに、って。
僕が入社した当時の上司は、商品の改良をほとんど諦めていた。そんなコストがかかることを口に出せる空気ではない、と上司は思っていたように記憶している。
だから僕も、改良は出来ないという前提でいた。僕の上司も辞めてしまって、たくさんのひとがいなくなって、結果的に、僕みたいに何にもできないクズでもそこそこの裁量権を持てるようになったんだけど、大幅な改良は出来ないと思い込んでいたし、でも何か変えなければいつか時代遅れになって全く売れなくなってしまうだろう、という焦りが常にあって、僕はそれをとても恐れていた。僕にとっては、やっと意味を持ち始めた僕自身の価値が再びゼロになることと同義だったからだ。
だから、改良に着手出来ることが決まって、僕は本当に嬉しかった。本当に嬉しかったんだ。
そして、そのプロジェクトが取りやめになってしまった今、僕の毎日はまた無価値なものに戻った。
取りやめになったのは、僕がやっぱりコミュ障で仕事ができなかったことが原因の1つ。いや、僕ごときが経営判断の材料の1つになったなんておこがましいか。あなたが担当でなくても取りやめていた、と偉いひとは僕に言った。それは自暴自棄になった僕を慰めるために形式上発せられた、発することを強いられた空虚な言葉だったような気もするし、結局のところお前に出来ることなど何もなくお前の存在はまったく影響を及ぼさないのだ、という正当な評価あるいは本心からの感想だったような気もする。
いずれにしてもプロジェクトは取りやめになった。僕はお情けで仕事を辞める猶予をもらって、まだ仕事を続けさせてもらっている。
作業自体はプロジェクト開始前と同じなんだけど、だからこそ、毎日地獄だ。
すごい商品だけど色々出来ないことも多くて歯がゆい想いを毎日するんだ。この点をクリアしたらもっと売れたはずだった、もっと使いやすくなるはずだった、と、僕にもっと価値があれば実現出来たはずの未来を想いながら、自分自身の無価値さを思い知らされ、それらすべてを押し隠し、笑顔をとりつくろってクライアントに惰性で商品を売り込む。なんとむなしいことだろう。無価値な僕にはぴったりな仕事かもしれない。
そもそも無価値な僕に認められたのは、仕事を続けることではなく、仕事を辞める猶予だ。来年の5月納品の案件について、担当欄に僕の名前を入れて見積書を作る。その頃たぶん僕はこの会社にはいないが、たぶん商品自体は存在するだろうから問題はないだろう。
あのとき仕事をやめたくなかったけど、やめないことで僕に何か出来ると勘違いしてたみたいだ。
ただでさえ仕事が出来ないくせに、このところずっと仕事が手につかなくて、なんでこれで給料でてんだろ、って、いっそ不思議だ。
あのとき辞めてた方が、この商品にとってもよかったんだろう。僕がいなくなれば、もっと頭の良いひとが受け持ってくれてきっともっと良いものにしてくれるに違いない。
無価値な僕自身から目をそらして、思考を停止させた社畜のまま死にたかった。
なんて贅沢な苦しみなんだろう、さっさと死ねばいいのに。
頭と心を整理するためにここに書こうと思います。
毒親と連絡を断って一年が過ぎたのだけど、最近になって、毒親から、わたしの旦那と旦那実家へのコンタクトが増えてきた。
着信拒否をしてくれ、と何度も話したのだけど、旦那としては「時間が解決してくれるだろう」という期待があるようで、わたしが実親と連絡を断っていること自体は責めないでいてくれるのだけど、一方でつながりを完全になくしてしまうことには抵抗があるらしい。
旦那がそうなので義母にも連絡を断ってくれなどと言えるはずもなく、遠方なのでお中元お歳暮のやり取りぐらいだが親どうしの交流は続いている。
そんで毒親がこないだ義母に切羽詰まった様子で泣きついてきたようで、義母はやはり同じ母親としておおいに共感するところがあったらしく、わたしに対して「なんとかほどほどの距離感で付き合えないものなのか」と説得をしてくるようになった。
これがなかなかにしんどく、まあ子持ちの友人とかから内容自体は言われ慣れていることなのだけど、義母から言われると動揺する。
今は旦那がわたしの側に立ってうまくかわしてくれるからまだ救われているのだけど、その「ほどほど」が通じない人達だから手の届かないところまで距離を置いているのだということをどうすれば理解してもらえるのか、理解は難しくてもまあうるさく言わず黙っといてやるかぐらいに思ってもらえるのか、しかしまあ要するにわたしに連絡がつかないのに周りに連絡がつくから連絡してくるのであって、それで周りが困惑するのも当然であって、周りからすれば、お前んちの親子喧嘩に巻き込まれても困るんだけど、ってなもんだろうし、でも着信拒否はしないということで、わたしはどうすればよいのか悩んでいる。毒親の過去の悪行などを訴えると、そのときは「なるほど」と言ってくれるのだが、それこそやはり時間が経てばそのときの印象も薄れるようで、そのたびに彼らがいかに付き合うのに難儀な人種なのか具体的なエピソードとともに訴えることもできるにはできるが、「でも、親子なんだから」論者にはそれもいずれ効かなくなるように感じている。
旦那と義母のやり取りをよくよく観察すると、お互い結構きつい口調で言いたいことを言い合っているのだけど、なんというか、ちょっとした言い方とかにイラッときてもお互いすぐ流せてる様子だし、ささいなことにこだわらないおおらかな愛情があるんだなあ、というのがしっかり感じられる。羨ましい。うちの毒親は、そのちょっとしたイラつきを毎回徹底的に掘り下げて相手の人格を否定するタイプなので、幼少期からいかんなくそれを浴びせられてきたわたしは自己肯定感駄々下がりな半生だったのである。
そういう圧倒的な環境の差異を見せつけられたのちに「あなたを産んでくれた親なんだから」などと言われると本当にダメージがでかい。
追記
その義母とも「ほどほどの距離感」で付き合えばいいんだろうけど、実はもうじき義母と同居を始める予定だ。義父が他界しており、一人暮らしの義母を我が家に迎え入れようという話をしている。わたしも毒親の親であるところの祖父母を介護し最期を看取った経験から老人介護のなんたるかはわかるし、時期が来たらプロに任せるべきであるという持論も旦那と共有している。普段あまり自己主張しない旦那が、義母を呼び寄せたい、と話してくれた気持ちを大切にしたいし、元気なうちに少しでも親子の時間を持ってほしい。それは本心だ。嫁としてはそりゃ面倒だけど、でもまあ、毒親の件さえなければ、嫁姑としてはそれこそ「ほどほど」でやっていけそうに思っている。中学生のころから実家を出るまでも三世代同居だったので、実際同居が始まってから、予想もしてなかったような悩みやトラブルがいろいろ噴出してくるのもわかってるんだけどね。やはり問題は毒親の件だ。旦那と義母が連絡を断つことに積極的でない以上、わたしがどうにか処理するしかない。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。でもどうすればいいのかわからない。わたしにとって彼らはストーカーと同じなので、ストーカー被害のように警察に訴えることができたらどんなにいいかと思う。でも、まだ警察に相談したことはないけど、まともに取り合ってくれるわけがないというのはさすがにわかる。毒親相談窓口とかないんですかね。あるいは、娘そっくりの人工皮膚をかぶせたペッパー君を送りつけるのでもいいと思う。数百万で済むなら喜んで依頼する。「なんだかんだ言っても、親なんだから」と言う人は頼むから、少しでいいから、世の中には一見普通に見えても実は裏で大変な思いをしている人もたくさんいるんですよということを考えてほしい。
追記
毒親ネタ大好きなはてなで全然話題にならず寂しいので、小町なトラバへの返信でも書いて見ようと思う。
・友達の中で説教をかましてくるのは、既婚子持ちの、さらにごく一部の人たちです。
いずれも学生時代からの友人だが、当時はグレておかんを泣かせていた人達に限って今のわたしを非難してくる。
わたしは家を出るまでずっと親の期待通りに育ってきた、いわゆる「いい子」ですよ。
でもまあ、幼少期のわたしをそういう見せかけの「いい子」に仕立て上げたのは彼らだしな。
自業自得なんじゃね。
・ペッパー君を買うための数百万はわたしは自分で稼いだお金から出しますよ。
いや買わんけども。
なんかしらんけど、このトラバの人、偏見とか思い込みがすごいよね。
何がそんなにこの人の逆鱗に触れたのかわからんが、よほど現状に不満が溜まって心に余裕がない状態なのでしょう。
気の毒だと思う。
そんなふうにならないためにわたしは自分に害をなす人からは極力距離を置くことにしています。それがたまたま親だったというだけの話。
スマホで増田しようと思って1時間くらい書いていたら操作を間違えて消えてしまった。悲しい。うんこ漏らしそう
そんな話はさておき、ここ最近の増田諸氏ホッテントリを見ると、少し安心してしまう自分がいる。
多かれ少なかれ、他人同士が一緒に暮らす訳だから、色々と問題はある。我が家も例外ではない。
そんな中でも比較的一般的なキーワードとしてセックスレスが挙げられると思う。
実は自分は元々最低な夫で、付き合っていた頃から浮気を繰り返し、子供ができて、結婚して、まだお腹の中にいる時にも外で女とイチャコラしてた。
その頃の自分はバカだったので、性欲からくるセックスと、充足感、自己肯定感、軽い依存による多幸感など、諸々ないまぜにした結果の愛しあう行為としてのセックスを履き違えていた。
だからこそその当時はセックスレスとか良いパパやってバレないように外で女作るか風俗とか行けば余裕wwwとか草を生やしていた。
本当にバカだった。その当時離婚しないでついてきてくれた嫁には感謝している。
そのための贖罪、いやほんとに言い訳として、それまでプラプラしていた自分を改め、非正規派遣とは言え大手の会社に入り、先々を見据えて頑張ろうと誓った。
元々自宅で引きこもっていた時にプログラミングやインフラ周りをやっていたこともあり、一般人よりは出来ると思っていたが、ここの会社の某超有名なエンジニアのブログを見ていると外の世界はこんな技術じゃボコボコにされる、マジコエーとも思っていた。
で、外に出てみたら意外とそんな事なくて、むしろ適当に仕事してる人より出来る事がわかった。あ、いやでもまだまだ読者諸氏には全然敵わないのでこれからも勉強させていただきます。どうぞよろしくお願いします。
あとは引きこもっていたせいで世の中知らなさすぎて、大手の仕事の本質は基本的には調整業務が主で、だからこそ新卒至上主義なのかなーとか、未だに考えは巡らせることはあるけど、それでも上から下まで見てこれたのは割りとラッキーなのだと最近は思っている。
主題からそれすぎて何の話か読者諸君はそろそろ忘れている頃かと思うが、すまない、自分も忘れていた。
まぁようはキャリアの転換期で、そういう時には家庭の問題が色濃く反映される訳だ。
嫁とは不定期にセックスレスになる時があり、長いと半年以上していない時もあった。
増田しているあたり今日もそうだったのだが、唐突に気づいた事があった。
先に書いたとおり、元は仕事していない浮気するとクズの代表格なような自分だったが、そういった行為に走っていたのは結局のところ、求めていたのは嫁のように愛してくれる存在だったのだ。
数年前からその事に気づいていたはいたものの、うまく言語化できていなかったので、昔遊んでいた知人などに誘われてもうまく断れずにいた。
確かに外で女を作るなり、風俗に行けば性欲は満たされる。だが心が埋まるわけではないので、余計に身体と心が乖離してしまい、また同じ事を繰り返す。バカの典型だ。
だけど、気づけた。気づけたからこそ、主題のセックスレスの問題が出てきた。
愛してくれる嫁と、そのために頑張っている自分に酔っている、まぁ依存なんだろうか、まだ掘り下げて考えられていないが、その嫁とセックスすることで、性欲以上の何かをいつも勝ち得ていた。
セックスレス期間中は童貞に戻ったかのようにオナニーをしまくっていたが、ここ最近はそれも疲れてしまった。断れる度に傷つく心を騙すための自己満足の行為とその自己満足の行為に走った自分に。
元々性欲は強い方で、10代は本当に俺=猿というようなもので、今は落ち着いたとは言え、それでも毎日したいくらいだ。
だからこそ誘えるかどうか、顔色伺う機会も多くなるのだが、嫁は家事に育児、その他家の雑多なことを全てやってもらっているので、基本的には我慢していた。
我慢していたが、それももう本当に限界だ。
喧嘩のトリガーとなるのはいつも自分からなのだが、普段頑張ってもらってる分、不満を言わないようにしている。
のだが、セックスを断られる事で不満が爆発してしまい、言われ慣れてない嫁はいつも泣いてしまう。
泣いている嫁は見たくないからまた我慢して、セックスを断れる事でまたトリガーとなってしまい・・・と悪循環なのだ。
普段から言えていれば良いのだろうが、付き合っていた期間から考えると10年以上、未だに嫁が本当に言われたくないことを泣かせずに言える方法がわからずにいる。
嫁が求めているのがお金を稼いで優しい良いパパでいてくれる事なら、もう離婚すべきと考えてしまう。
確かにそれが理想なのはわかるが、スタートラインが底辺な自分にとってはもっと上を目指したいし、世の中の役に立ちたいと思ってる。
結局のところ、自分は自分のことが可愛くて大好きで、だからこそこういうことを思ってしまうんだと、それは良くないことだと自分を戒めてきた。
だけどここ最近の仕事の状況もあり、人間追いつめられると理屈ではなく、子供の頃の夢とか、理想とか、自分のことになってしまうのだと気づけた。
うまく折り合いを付ければ良いのだろうが、生まれ育った土地を離れたくない嫁とは着地点が見えてこない。
単身赴任はあくまで仲の良い夫婦だから出来ることであって(そうでないケースもあるかもしれないが)、我が家の場合はイコール別居、離婚となるのが見えているから嫁が反対しているのだと思う。
なんだか冷静になっているようで文章を見返すと支離滅裂で結構ダメダメだなぁという感じで非常に申し訳ないが、聞きたい事は下記のとおりである。
離婚したら喪失感や孤独感でそれこそ鬱になりそうなものなのだが、幸い自分には仕事があるので、一時気を紛らわせるという打算はある。
かたや、ここまで尽くしてくれた嫁に対する仕打ちなのか、禊はどうしたと己の良心に問いかけるものがないわけではない。
だが、ここ最近はその良心に付け込まれているだけなんじゃないかと猜疑心しか出てこないのだ。
子供のことを考えると離婚すべきではないと思う。今までの子供との接し方を見る限り、色々な選択肢を奪われてしまう結果になると予想される。
そういう意味では親権を取りたいが、現実的には難しい事だと理解している。確かに自分から見たら色々ありえないが、ネグレクトまでではない。
自分はコンプレックスが強いから、子供への期待や、接し方などおそらく厳しいものだろうから、そういった意味ではバランスが取れているのかもしれない。
が、嫁の育ってきた環境などを考えると、シングルマザーになったら一番の被害者は子供になる。それは避けたい。
そう思ってここ何年かはやり過ごしてきたが、それも限界だ。
ぶっちゃけ自分も家庭環境は相当酷かったけど、結局のところ本人の気持ち次第でどうにも変えられると思ってる。
すまない、今日も断られて頭の中がグチャグチャで、読者諸氏は支離滅裂な文章をお見せして申し訳ないと思っている。
だがここまで読んでくれた寛大な読者諸氏、どうか感じたこと、考えたこと、テメーもっと嫁と話し合えよとマサカリを投げること、なんでも良いのでコメントを頂けないだろうか。
副題として離婚があるが、あくまで主題をセックスレスにおいたのはそれが一番のきっかけだと感じているからだ。
だとすると、気心の知れた友人、知人には話しづらい内容でもある。