はてなキーワード: 為人とは
こんばんは。
性について思う事、早くも4夜目になる。
最初はこんな事を最近訥々と考えるのだ、と云う程度の記載、つまりは日記だった訳だけども。年齢的に老いた所為である。と考えていた。
ちゆ12歳さんも復活したし、牛丼屋コピペも叩かれるこんな時代だ。老兵は消えて行くのだろうがそれでものんびり消えて行こうではないか。
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店に行くのも楽しいが、ダウンロード販売のお陰でエロゲ―や同人関係が買いやすくなった。
私もダウンロード販売も良く利用するし、ゲームのDLCを購入する場合もある。何せ部屋の本棚や倉庫を圧迫し続ける本やゲーム箱より、形は無いがダウンロード販売でサクッと購入できる方が簡易だし何より場所を取らない。同人誌もビュアーで見れば楽だし本をとっかえひっかえしなくて済む。これ程便利な事は無い。
勿論、対応OSが限られている作品は危険だし、飽きたゲームの売買や本を古本屋やまんだらけに持っていく事は今の所は出来ない。しかしそれも数%しか取り戻せない。
電子データに金を払うのが、と云うか、形の無い物に金を払うのが嫌いな日本人の理屈も理解出来るが利便性もぜひ考慮に入れて欲しい所だ。
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実際DMMのランキングを見れば上位にある作品はイイ感じにトンガっているし、私が気に入って購入しているサークル作品は現代の奴隷商人と云われているアレだが、ニッチと思っていた(実際絵柄は強烈に人を選ぶ)がランキング上位を占めていた様だ。大変めでたい。
今回はこの性的嗜好の対象。よく言われる性癖について話していこうと思う。
そもそも性癖と云うのはその為人であり、性的嗜好の事ではない。と云うのはご存知の方は多いだろう。しかし言葉の意味は変わる。変わって行く。
結局は大勢の意見が取り入れられ、現在は性的嗜好イコール性癖と言う言葉が指す様になってしまっている。
ここ最近、Twitterマトメで見たのだが、恐らくは男性だろうが。自分に自信が無いと云うか、若い人は賢すぎて感情移入が出来なくなっている者がいる様だ。
つまり、彼の性的嗜好と云うか恋愛の対象は○○と云うキャラクタなのだが、その創作物の登場人物に対して感情移入出来ない。と云う訳だ。
この思考について、私は。
1.二次元キャラクタが興奮している様が見たいだけで、抱きたい訳じゃないから自分以外で想像するね、と。AVやアニメ、創作物を見過ぎて第三者視点で無いと興奮出来ない性的嗜好であり、自分はカメラか壁で。と云う一面。
2.自分自身が嫌い過ぎて、自分よりキャラクタを性的に興奮させてくれるキャラクタを配置する事で、自分自身を精神的に守っているという一面。
3.感情移入先がそのキャラクタ自身なので、相手役は自分ではなれない。
他にもあるだろうが、こういった精神状態なのではないかと仮説を立てた。
1の仮説はあくまでも性的に興奮している様を見たい。映像で無いと興奮しないと云うタイプならこういう思想になるだろうし、2の仮説であれば凌辱物だろうがレイプだろうが、要は自分とはまったく関係なく”曇らせ”る事が出来る。まあこの”曇らせ”も後日調べてみたいと考える性的嗜好ではあるのだが。
3の仮説は男性だろうが女性だろうが起こり得る。まったく性的嗜好では無いタイプの相手役から暴力的に愛されたいと考える事もあるだろうし、好みのタイプを配置する事で疑似的に”愛されて、愛される自分”を構築する事も可能だ。
この様に、同じ様な性的嗜好でも、映像で見たい、感情移入先がヒロイン、自分を創作物の中に置きたくない、置けないタイプと無数にパターンが発生する。
なんだかんだ言いながら、その○○と云うキャラクタをやっぱり愛したいから感情移入先に完璧人間を設置するパターンもあれば、同性愛に走らせる場合もあるだろう。
また、この同性愛も参加したいのか天井裏から見ていないだけなのか。この様に感情移入だけでも無数のラベリングが出来、性的嗜好の対象をどう見たいのかどうさせたいのかととても興味深い。
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オタクのレパートリーと云うか、賢い、聡明な若い方も増えたし、グローバルと云うか無数のパターンが増えて来た事でラベリングの楽しみは尽きる事無い。
2017/06/26
2016年12月20日、日本のテレビ東京系のテレビ番組「開運!なんでも探偵団」で「衝撃的なニュース」が報じられた。番組始まって以来最大の発見として、世界で4個目となる中国宋時代の陶器「曜変天目茶碗」が発見されたというのだ。番組の中で、日本の著名な美術鑑定家の中島誠之助氏は、「12~13世紀の中国南宋時代に福建省の建窯で焼かれた『曜変天目』に間違いない」と述べ、2500万円の価値があるとした。
「曜変天目茶碗」は中国の宋時代に作られ、その窯は建窯と呼ばれた(歴史的には建陽窯とも呼ばれる)。現在の福建省南平市建陽区水吉鎮にある。この茶碗は釉薬が焼成の過程で流れ落ちて厚く溜まり、一部は凝集して滴を作る。この滴の周囲で特殊な窯変反応が起き、七色に輝く光彩を生じる。その輝きはまるで夢幻かあるいは変化する気象のようで、色鮮やかな霞をまとっており、神秘の小宇宙に輝く星空のようだ。この種の茶碗が焼けるのは極めてまれな偶然によるもので、一説には窯変過程でこのような効果が生じるのは数百万個に一個ほどと言われる。現在世界に存在する完全な「曜変天目茶碗」はわずか3個で、東京の静嘉堂文庫、京都の大徳寺龍光院、大阪の藤田美術館が所蔵し、すべて日本の「国宝」に指定されている。中国には現在「曜変天目茶碗」の陶片が1点あるのみだ。
天目茶碗は宋代に制作され、その生産は元時代の初期まで続いたが、以後は二度と作られていない。中国では明や清の時代に曜変の再現が試みられたが成功しなかった。日本では江戸時代から再現が試みられており、美濃や瀬戸で「白天目」などは生産されたものの、「曜変天目茶碗」の再現には至らなかった。1974年、日本の化学者安藤堅は48歳で、それまで定収入が得られていた仕事を辞め、高級住宅も売却して「曜変天目茶碗」を再現するための研究を始めた。彼は貧困の中で困難な研究を続け、ついに1977年に古代の「曜変天目茶碗」に似た最初の作品を焼くことに成功した。安藤に続いて、日本の陶芸家の林恭助、桶谷寧、長江惣吉や中国の人間国宝(国家級非物質文化遺産建窯代表性伝承人)である孫建興らが曜変に似た作品を作っている。
番組の放送後、徳島県教育委員会はこの茶碗を県文化財に指定するための調査を計画した。
しかしここで、日本の陶芸家や専門の研究者から「曜変天目茶碗である」という番組の鑑定に対して疑問が投げかけられた。愛知県で古くからの窯が多い瀬戸市に住む陶芸家の長江惣吉氏は家業の陶工を継ぐ9代目で、父親の曜変天目研究を継承している。彼は父の業績を引き継ぎ、「曜変天目茶碗」の再現に一定の成功を収めた。1996年以来、中国を28回も訪れて建窯の研究を行っている。中国では中国科学院上海珪酸塩研究所と連携して陶磁器の国際研究会にも参加し、中国の陶磁専門家に友人も多い。中国古陶磁の再現についても意見交換を行っている。その長江氏が番組に異議を唱えたのだ。彼はインターネットで、福建省周辺で作られた「曜変天目茶碗」の複製品を購入し、これが番組の認定した「曜変天目」と出所が同じだと考えている。
「この茶碗には顔料(スピネル顔料)が使われています。この顔料はヨーロッパで18世紀に発明されたもので、曜変天目が作られた宋代(12~13世紀)には存在しません。ですから、こういった顔料が宋代の茶碗に使われることはありえません。この顔料の主な成分は、化学的に製造されたコバルト、クロム、セレン、カドミウムです。これらの元素が多く含まれていれば、例の茶碗を分析すれば各々の顔料部分からこれらを検出できるはずです。これらの元素は完全に天然原料から作られた当時の建盞には全く含まれません。仮にこれらの元素が天然原料に不純物として含まれていたとしても、その量は 0.01% 程度にしかなりません」
「曜変の光彩はオパールのように、見る角度が変わると光彩も変化します。非常に美しく、人を魅了するものです」
「いわゆる「曜変」という言葉の意味は、輝きが変化するということです。(長江氏がネットで購入した茶碗を示しながら)しかしこの茶碗は、単に青・緑・赤の顔料が発色しているだけです。この種の茶碗の場合、釉薬の成分(リン酸)の関係で、顔料釉と白濁釉にわずかな光彩が出るのみです。曜変の明るい光彩とは比べ物になりません。私がネットで買った茶碗を番組の茶碗と比べると、赤色の内側部分がよりはっきりしていて白い部分はありませんが、これは顔料で描くときの方法の違いや白濁釉と顔料の濃淡の違いによるもので、実際のところはどちらも同じですよね?」
長江さんは後で筆者に述べた。
「あの茶碗は中国の福建ではどこでも見られる商品です。「曜変天目茶碗」に似ていると言う人もいるかもしれませんが、これは偽物として作られた物ではなくただの商品で、非常に安い値段で売られています。番組の中でテレビ東京はあの茶碗を宋代に作られた「曜変天目茶碗」だと説明しましたが、これは「鹿を指して馬だと言う」ようなものでしかありません。」
中国陶磁史と中国陶磁考古学の分野で世界的な影響を持つ権威である沖縄県立芸術大学教授の森達也氏も、筆者の取材に対してこう述べた。
筆者がその理由を尋ねると、森達也氏は以下のように述べた。
「1. 日本国内には3個の「曜変天目茶碗」があります。私は杭州で出土した「曜変天目茶碗」の破片も手に取って見たことがあります。「曜変天目茶碗」の外側にはテレビ東京の番組の茶碗のようなはっきりした模様はありません。
2. テレビ東京の番組の茶碗に見られる模様は雲のようですが、これは曜変天目の模様とは全く異なります。本物の「曜変天目茶碗」の模様は白くて丸い斑紋で、その周囲には虹のような色鮮やかな光芒が出ています。
3. テレビ東京の番組で鑑定された「曜変天目茶碗」には、茶碗の底に「供御」という二文字があります。確かに建窯の窯跡では「供御」と書かれた陶片が見つかっていますが、割れていない完全な陶磁器でこの二文字が刻まれたものは世界中で一つも見つかっていません。模倣品でこの二文字を刻んだものは数多く存在します。テレビ東京の茶碗は本物の「曜変天目茶碗」とは全く異なるものですが、最近中国で流行している模倣品とは非常によく似ています。」
「テレビ番組としては劇場的な効果さえあればよく、科学的な研究は要らないのです。あの茶碗が日本の3点の国宝と同じであるなどというのはナンセンスな話ですが、陶磁器科学の研究を行っている人々からすればこれは非常に残念なことです。」
この論争は中国にも広がっている。中華陶磁芸術設計大師の資格を持ち、国家級非物質文化遺産建窯代表性伝承人(日本の人間国宝に相当する)でもある建窯陶磁研究所所長の孫建興氏は、「曜変天目茶碗」を再現し建窯を再び曜変の産地とする事業に40年にわたって取り組んでいる。彼はこれまでに黒釉の天目茶碗や黄(赤・青・金・銀)などの兎毫盞、異毫盞、虹彩(金縷、白点)、鷓鴣斑、鐵銹斑、毫変、国宝油滴、金(銀、虹彩)油滴、黄天目、蓼冷汁、灰被、玳瑁、柿紅、虹彩、金(銀)彩文字、木葉、窯変、曜変天目などの一連の作品を作ってきた。彼が長江惣吉氏に送ったメールで、彼は述べている。
「これは曜変の偽物で、現代に焼かれたものです」
筆者も電話で孫氏と長時間話をした。彼は筆者にこのように述べた。
「テレビ東京で放送された茶碗はせいぜい数年前に作られたものです。」
新聞や雑誌で真贋論争が過熱した後、この「曜変天目茶碗」の所有者は茶碗を奈良大学文学部文化財学科教授の魚島純一氏に渡し、分析を依頼した。魚島教授は蛍光X線装置を用いて茶碗表面の色の部分を分析した。
魚島教授は物質に含まれている元素を検出できる蛍光X線分析装置で、茶碗表面の各色にX線を照射して元素の種類と量を測定した。その結果、アルミニウムなど10種類の元素を検出したが、化学顔料に使われる元素については発色に影響しないほどわずかな量しか検出されなかった。
魚島教授は述べている。
「X線分析の結果、表面のどの色の部分かによらず、検出成分はほぼ同じであった。このことから、茶碗に使われている釉薬は1種類であると考えられ、この分析結果からは茶碗が偽物であることは断定できない。」(《德島新聞》,2017年2月28日)
一方、長江氏は筆者に対して次のように述べた。
「魚島教授は、釉薬の発色に影響するだけの量が検出されなかったため、判断ができないと言っている。であれば、魚島氏は最低限どれだけの量が含まれていれば発色に影響するのかを具体的に言った上で、分析の結果その最低量を下回っていたことを示さなければならない。しかし、魚島教授のデータには下限値の数値も書かれていないし、彼が分析で得た数値も書かれていない。よって彼の判断には根拠がない。」
日本の複数のメディアの報道によれば、その後、茶碗の所有者から茶碗についての資料が提供されないため、徳島県は文化財指定のための調査を中止した。
私自身、「開運!なんでも鑑定団」は好きな番組だ。自分も中国の古陶磁を蒐集しており、骨董の鑑定について10年近く独学で学んでいる。浅学ながら陶磁器の本や文章なども執筆してきた。私は中島誠之助さんの陶磁器鑑定、特に日本の陶磁器鑑定については相当の経験をお持ちで深い造詣を有していると思っている。
だが、中島さんと彼の鑑定についてはともかく一般論として、一人の鑑定士の鑑定範囲が日本だけでなく海外をもカバーして、なおかつ正確であることを求められるというのは、鑑定士にとっては間違いなく一種の冒険と言ってよい。陶磁器は全世界に存在し、最古の陶器は数万年以上の歴史を持っている。一人の鑑定家が古今東西全てについて完全に判定できて一度も間違えないなどということが可能だろうか? 一度間違えればその後も間違いの危険は存在するのだ。
「荘子」で述べられているように、「吾が生や涯(かぎり)有り、而(しか)も知や涯無し。涯有るを以て涯無きに随(したが)うは、殆(あやう)きのみ」(我々の人生は有限である。しかし人間の知は無限だ。有言の身で無限のことを追い求めるのは危うい)なのだ。
このことは、最も権威ある陶磁器研究者であっても忘れてしまうことがある。例えば、1959年、国際的に知られた陶磁研究の専門家で日本陶磁研究の第一人者でもあり、当時日本の文部省の技官として文化財専門審査会委員を務めた小山富士夫氏が、「永仁の壺」と呼ばれた陶器を日本の重要文化財に指定するよう強く推薦したことがあった。これを受けて同年6月27日、文部省は「永仁の壺」を鎌倉時代の古瀬戸作品であるとして重要文化財に指定した。
その後、日本の有名な陶芸家であった加藤唐九郎が海外に渡航した際に、唐九郎の息子である加藤嶺男が「いわゆる「永仁の壺」は自分が作った」と述べた。唐九郎の帰国後、彼はメディアが大騒動になっているのを目の当たりにした。1960年9月23日、唐九郎は「永仁の壺」は1937年に自分が作ったものであることを認めた。(真の作者が誰であったのかについては異なる見解がある。)「永仁の壺」が本物である証拠は、古瀬戸の「松留窯」で発見された陶片が「永仁の壺」の胎釉と一致するという点にあったが、実は「松留窯」自体が加藤唐九郎による捏造で、陶片も彼が偽造したものだった。
このようにして、「永仁の壺」を含む重要文化財3点が指定取り消しとなり、小山富士夫は委員会を辞職した。ゆえに、賢明な鑑定家は誰であれ、古物の鑑定には、異議の申し立てが容易に行えるように、議論の余地を残しておかねばならないのだ。
私は中島氏の鑑定が間違っていたと言っているのではない。第一に、私はこの分野の専門家ではない。この件で私が真贋を判断するのは無意味だ。第二に、厳密にいえば、文物の鑑定とは考古学、歴史学、美学、自然科学にわたる総合的な学問である。全面的に、かつ正確に古代の文物の年代を特定・鑑定する厳密な科学的方法は存在しない。言い換えれば、こういった議論で100%の是非を決める結論を得るのは難しい。
筆者は言いたい:このような重大な鑑定では、もっと広く意見を求めるべきだったのではないか?
確かにテレビ番組では、科学研究の場合のように「この品物が疑わしい」と言うのは難しいことだ。しかし、結論を出すのが難しい文物、特に「鑑定団史上最大の発見」といった結論や、「現存4個目の中国宋代の陶器「曜変天目茶碗」」のような鑑定については、中国建窯の専門家と日本の権威ある専門家の意見を求めるべきではないだろうか。筆者はテレビ東京の番組担当者に、この論争についての意見を求めて何度も電話をかけ、メールを送った。しかしこの原稿を執筆している時点では、彼らからの返答はない。「週刊ポスト」の報道によれば、この件についてのテレビ東京の見解は以下の通りだ。「鑑定は番組独自の見解であり、お答えすることはございません」(《週刊ポスト》,2017年6月23日,146頁)
だが、もしもっと広く意見を集めることができたら、例えば中国で初めて建窯の陶磁器の再現に成功した前述の孫建興氏のような専門家の意見を求めてはどうだろうか? 彼の「曜変天目」に関する研究と実験は非常に深いものだ。彼は考古学、鑑定、科学実験の各方面に非常に造詣が深い。こういった人々の意見には重みがあると言えないだろうか。もしテレビ東京がこのような人々にもっと意見を求めるようにすれば、論争は減るのではないか?
もう一つの問題は、文物の鑑定に自然科学が介入するという話だ。実際、今のところ文物を科学的に鑑定する完璧な方法というのは存在しない。多くの人が挙げる放射性炭素年代測定法は、自然界に存在する炭素14という同位元素を使ってもともと生きていた動植物の年齢を決める放射年代測定法だ。動植物が生きている間は生物の新陳代謝によって生体内の炭素14の量は一定に保たれる。生物が死ぬと体内の炭素14は崩壊して減り続ける。だが磁器・陶器・青銅器などは無機物だ。しかも時代の古い文物の場合、炭素14年代測定では年代の上下の誤差が大きい。一方で、1000年から2000年前という比較的新しい歴史的文物の場合、基本的には炭素14鑑定は使えない。
また、熱ルミネッセンス法と呼ばれる鑑定方法もある。陶磁器が焼かれるときに500℃以上に加熱されると、外部から吸収した輻射エネルギーが放出される。その後、焼成から年月が経つと、年月の長さに応じた量の輻射エネルギーを再吸収していく。熱ルミネッセンス法の原理は、古陶磁の内部に蓄えられているこの輻射エネルギーの量を計ることで年代を測定するものだ。誤差範囲は一般的に±20%程度で、相対的には正確な方だ。
しかしこのような報道もある。
「数年前、北京の二つの有名な博物館がそれぞれ六朝時代の陶器を古物市場で20万元で購入したが、後にそれらがすべて贋作であることが判明した。これらの品は河南省の某博物館の下で作られたアンティーク工芸品であったが、なぜこれらが北京の潘家園旧貨市場に流れたのかは分かっていない。ある古物の専門家が古物市場を訪れ、そこで売られている品物を熱ルミネッセンス法で調べると、約1600年前という測定結果が出た。そこで誰もがそこの品物を買った。買われたことが知られると、同じような品物が古物市場にどんどん出現した。そこで国家文物局がすぐに公安部に通報した。公安部の担当者は、「墓が荒らされて大量の遺物が盗まれる事件が発生している」と説明した。警察が現地に到着すると、地元の住民が自宅で贋作を作る作業をしているのを発見したという。彼らは六朝時代の墳墓から盗掘したレンガを削って粉にしていた。この粉を贋作に使えば、熱ルミネッセンス法にかけても墳墓の中で長年溜め込んだ輻射を出すので贋作を判別できなくなる。また彼らは、こうして作った粉で六朝陶器を偽造するための特別な装置も使っていた。このようにして、熱ルミネッセンス法での検査は失敗してしまうのだ。」 (《鑒定家VS造假者》,新華網,2005年03月15日)
魚島教授が蛍光X線分析を用いた点に関して、森達也教授は私に述べた。
筆者は魚島教授にも、蛍光X線検査について質問を行った。彼は言う。
「私はあくまでも顔料部分の元素を調べる目的でこの装置を用いました。私が調査結果を発表した際に、茶碗が偽物であると考える人たちから非難を受けましたが、私は真贋鑑定をしたわけではありません。」
筆者:
―― それはつまり、あなたの検証結果は、この茶碗には18世紀以降の顔料は使われていない、ということですよね。
魚島教授:
「それは新聞がいい加減に書いていることです。私は18世紀以降云々といったことは言っていません。私はただ、現代のものと考えられるような種類の顔料は検出されなかった、と言っているだけです。」
筆者:
―― 言い換えれば、18世紀以降に発明された化学顔料は使われていなかった、ということですよね?
魚島教授:
「これらの顔料が使われているから茶碗は偽物なのだと主張する人々もいますが、私はただ、そのような顔料は検出されなかった、と言っているだけです。私は陶磁器鑑定の専門家ではありません。あの茶碗が偽物だと主張する人々は、化学顔料の元素が茶碗に含まれているはずだ、と言っています。私は単に、その元素があの茶碗に本当にあるかないかだけを調べたのです。どの時代に作られたものか、という調査をしたのではありません。ただ、あなた方が言っているような元素はありませんでした、と言っただけです。」
筆者は質問した。
―― 例えば、もちろんこれは(例の茶碗のことではなく)仮定の話ですが、誰か現代の人間が、今回指摘されたような元素を含む現代の化学顔料ではなく、昔の顔料を使って茶碗を作ったとしたら、あなたの検証方法では今回と同じような結果が出ますか?
魚島教授:
「その可能性はあります。」
しかしながら、中国では古代の陶磁器を偽造または模造する際に化学釉薬を使うことは多くない。中国の多くの地方には陶磁器の偽造工房があり、こうした工房の多くには専門技術を持った人間がいるわけではない。地元の農民が、数千年間にわたって埋まっていた陶土を掘り出し、古代の方法で焼いているのだ。匿名で語ってくれた、中国で著名な建窯の研究家や考古学者、鑑定家たちが筆者に述べたところでは、現在中国には建窯産品のコピー品工房が1600以上存在する。その多くは偽造品を作りたいわけではなく、単にアンティーク風の品や旅行土産を製造するのが目的だ。もちろん中には偽造品の製造を目的とする人々もいるが、偽造品の製造方法はどこにでもあるような手法だ。科学的な鑑定が困難になるように、古い器の底の部分だけを新しい器に接合したり、古い胎土に新しい釉薬を使ったり、古い胎土に古い釉薬を使ったり、その他いろいろな方法を使っている。
このことは、古物鑑定が文化や歴史年代、改竄や継承といった問題と関わっていることを示している。加えて社会的な影響や国際的な影響も大きい。今回の鑑定やテレビ東京の件は別にしても、日本の博物館や歴史研究部門では、中国の文物を鑑定する際に同じような問題に直面しているはずだ。それゆえ、重大な結論に至るような場合には、我々は注意深くなる必要があり、広く意見を求めるべきなのだ。
張石 略歴:
1985年、中国東北師範大学外国語言文学系研究所卒業、修士号を取得。1988年から1992年まで、中国社会科学院日本研究所助手研究員、 Permalink | 記事への反応(0) | 00:35
技術職でデスクワークな為人と喋る機会がほとんど無く、休日もほぼゲームや映画などを見て一人で過ごしている。
他人とコミュニケーションを取る機会といえばほとんどがネットで、2chやはてブの煽りエントリを読んで攻撃的なコメントを書き込むことがほとんど。
TwitterやFacebook等のSNSは他人のハッピーな書き込みが多いため嫌気がさしあまり見なくなった。
他人と意見を交わすことといえばほとんどがネット上の煽りと反撃で、それにともなって普段仕事中に考えることも過去の嫌な記憶と戦っていることが多くなった。
以前久しぶりに職場の人間と飲みに行ったんだが、酔った勢いで自分が発した言葉に後から自分で驚いてしまった。
他人の揚げ足取り、他人の話に割り込んで強引に長々と自分の話をする、そういうことばかりしていたため職場の人間の会話が時折固まり、徐々に自分に対する冷たい目線を感じるようになった。
ネットでの煽り反撃のやり取りが自分の思考に組み込まれていたため、知らないうちに現実世界でも同じようなことをしでかしてしまっていた。
このままでは性格がどんどん悪くなってしまう。どこかで止めないと歯止めが効かなくなると思ったが、今更習慣となったネットの煽り反撃の快感から離れられずにいる。
旅にでも出たほうがいいのかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20150805211536
2014年 11月05日 20時28分提供元:J-CASTニュース
関東を中心に、携帯電話ショップ「もしもしモンキー」を運営する「株式会社もしもん」が、社名を「8文字」から「137文字」に変更して、話題を集めている。
変更の理由は、「経営理念を浸透させ、お客様にも同一のメッセージを届ける」ため。ネットでは、「長すぎw」「手書きの領収書はどうするんだ」など、話題沸騰だ。
「経営理念を社名にしちゃえばいいじゃん!」
旧「もしもん株式会社」の代表取締役CEO、栗原志功氏が、自らのフェイスブックにアップしたところによると、変更後の社名は、
「株式会社あなたの幸せが私の幸せ世の為人の為人類幸福繋がり創造即ち我らの使命なり今まさに変革の時ここに熱き魂と愛と情鉄の勇気と利他の精神を持つ者が
結集せり日々感謝喜び笑顔繋がりを確かな一歩とし地球の永続を約束する公益の志溢れる我らの足跡に歴史の花が咲くいざゆかん浪漫輝く航海へ」。
はてなブックマーク - 内定辞退、修羅場でむき出しになる人事の本性 :日本経済新聞
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nikkei.com/article/DGXNASFK2802Y_Y4A420C1000000/
https://esf.nikkei.co.jp/form_tantei20140430/
もぐらさん、60歳代男性
最近の企業は、就活生にやたらに余分なことばかり押し付ける。リクルート企業の金儲けに同調しているだけで、大学生の教育や勉強などを考えていない。人事にふざけるなと言いたい。企業経営者のレベルの低下だろう。
どちらかと言えば、恫喝する企業サイドこそ品がないと言わざるを得ません。就職は相互の合意に基づくものであって、職場を選ぶ権利も学生を選ぶ権利も双方に平等にあるはず。誓約書に法的拘束力が無い以上、常に辞退者がでることを想定していないとするとリスク管理がなっていない証拠です。学生諸君には、まず真摯にお詫びをしていただき、もしそれでぶち切れるような会社があれば、そんな会社には行かなくて良かった、将来転職するような機会にも陰湿な引き留めや嫌がらせに遭遇するような会社だったな、とポジティブに考えて欲しいです。
現状の就活では「御社が第一志望です。」と言うのが「お約束」になっている。正直に「第二志望です。」と言っては先に進めない。この「お約束」が誠実さとは無縁であることは採用側も知っている筈ではないか。
60歳代男性
採用人事課に見る目がないだけ
複数の内定をもらっている学生がいる以上、内定辞退が出てくるのはいたしかたないでしょう。要は、内定辞退が出てくる前に、学生との良好な関係が築いておくのが大切なことでは?
怒るような度量の小さい会社は辞退して当然。寧ろ辞退を撤回させ無理やり入社させた揚句に早期に退社するほうが双方にとって損失。そんな企業は、将来その人が自社の取引先、顧客になる可能性を全く考えていない。
辞退されるということは、自分の会社の魅力を学生に伝えられなかっただけのこと。採用担当者は自社という製品を扱いそれを学生に売り込む営業マンであるという意識を持つべきだと思います。
企業側の担当者がそんな発言をしているとは信じ難い。普通にきちんと謝っている学生にはしないはず。本当にそんな採用担当がいるなら、内定辞退したことが正解だし、苦情電話を入れてもいいレベルですね。今の時代、インターネット等でそういう企業名がブラックリスト化されてもおかしくない。学生相手にそのような対応しかできない企業は底が知れている。
「企業が怒るのも無理はない。就活生は誠意を持った対応を」などという結論は、傲慢というより他ない。面接の段階でふるいにかけておいて、いざ自分たちがふるい落とされると腹を立てるのは論外である。就活生はむしろ「ざまあみろ」と馬鹿にする気概を持つべし。
就活生としては、選考で学生を落としまくる企業が、内定を辞退されたところで文句をいう筋合いはない。それこそ、貴社のご発展をお祈りしますと嫌味を込めて言ってやりたい。
50歳代男性(その他)
雇用契約を結ぶ前であり、そもそも“内定”という曖昧な表現を使っている企業サイドに狡さがある。フラれた恋人に仕返しをする情けない人間と同じ。
辛辣な言葉を吐くのは、人事担当者が相手を学生と思い舐めているから。より良い条件を提示し、学生を説得するのが筋。その価値が無いなら、去ってもらえばいい。通常仕事で相手に罵声を浴びせる事なんてありますか?
怒る企業は、辞退した学生が将来「Customer」になることをわかっていない。。「辞退した理由」を調査して今後に生かすべき。
50歳代男性
人事が無能すぎるのがここにきて露になっているだけ!。どれだけ理不尽な内定取り消しや、採用停止をしてきたことか!!「人事」(「ひとのこと」と書く)もそろそろ本当のプロになれ!
誠意のない辞退には、社会人の先輩として喝を入れるべきだが、恐喝紛いの対応をする人事やリクルーターは、その人の仕事の程度や為人が知れる。ブチ切れている人は、当然内定を蹴ったことがないんですよね?
企業担当者は不採用だった学生に対して「礼」を尽くしていますか?彼らに「非礼の数々」の対応を行なっていれば、内定辞退者に怒る権利は無い筈です。自ら襟を正すことが先決です。
採用側の理由で恫喝紛いの事を行うのはもっての他。まっとうな社会人のやることか?そのような恫喝紛いの事が横行しているならば、断りを入れる際に、全て録音しておいた方が良い。
辞退の連絡があった際、内定をとるまでの言動との乖離が大きいほど担当者の怒りは大きくなると思う。例えば、「御社が第一志望です」と明言しているケース。学生とはいえ、自らの発言には責任を持ってもらいたい。
50歳代男性
10年後20年後も考えて募集人員を決めている企業も多いのです。他社の動向を見据えつつ、欲しい人材を確保する人事も大変な思いをしている。記事の例のように3社を一ヶ月以上ホールドするなんて言語道断です。
60歳代男性(その他)
内定を受諾した後に辞退するという倫理の退廃が若者に蔓延したことを看過すべきではない。日本のリーディングペーパーとして、貴紙がキャンペーンを張って大いに警鐘を鳴らしてほしい。
推薦書や誓約書を提出したのであれば,怒るのは当然だと思う。
日本では何事にも弱者救済の概念が公平性を越えてしまう。また、精神論が経済原理を越えてしまう。ここも典型的な例。学生と企業が対等になっていないし、経済原理を無視した採用ルールになっている。学生の内定辞退は自由、でも企業側の内定切りは自由ではない。片方だけに制限を課せば、片方だけに経済的ダメージが発生し、問題になるのは必然。企業側も学生と同様、自由に内定切りをしていい、ということになれば、内定辞退者を見越して、多めの内定も出せる。内定辞退を言われてもお互い様だから、罵声にもならない。何事にも経済原理を踏まえた公平性が肝要だと思う。
50歳代男性(その他)
●その他
就活は企業と学生の戦い、お互いに腹の読みあいでしょう。学生にとっては一生の問題。人事は人を見る目を試されるまさにプロかどうか問われるところ。まあ、腹がたっても、内定辞退されたら負けを認めなはれ。
どのような事情があるにせよ学生側が「約束を破る」ことには変わらない。絶対に認めない会社もおかしい。でも一番おかしいのは内定を出す時期が早すぎること。例えば「就職日の半年前から」などにするべき。
70歳代以上男性
70歳代以上男性
気持ちは分かるが内定の辞退は許されているはず。ただちゃんとしたけじめは大切だよ!とアドバイスをしたい。真っ当な人生を送るためにも……。
これはビジネス。企業はもっとえげつない事をやってます。学生は何も気にすることは無く、誠意をもって事実を伝えれば良いと思う。企業は学生から選んでもらえなかった事に対し真摯に対応し次に繋げるべき。
一般論として、求人側・求職側何れも未成熟であり、無責任ではないでしょうか。記事内にもあるように「文句を言う」のは自己の評価の保全であり、要は自己中心的な発想が伺えます。「辞退」というと聞こえはいいが、ある意味労働契約の不履行であり、何らかの法的制裁等も覚悟して臨むべきだと思います。ただ、辞退を簡単に考えている学生を採用しても、恐らく、自己アピールほどの能力は有していないでしょうし、企業側から見れば、金銭的損失はあるものの、最小限ですんだと考えるべきではないでしょうか。
学生が一生懸命記入したESを出しても音沙汰なし、また面接の結果も音沙汰なしの企業があり。こういう企業がある以上学生側が内定を無断で蹴ってもお互い様の状況になっていると思います。
内定の時まだ就活を続けたい、認められないなら内定取消で構わないと正直に言ったら内定状態で就活を続けさせてくれた。最終的に辞退時に謝りに行ったら就職祝い食事会までしていただいた。必ず将来恩返しをしたい。
痴漢や強姦の被害を受けた女性でも、加害者がイケメンであれば許すしブサイクなら即通報するものだ。
それが、日常的に行われている性的なスキンシップであったり恋人同士や夫婦間の営みの最中であってもだ。
気持ちが良ければそれで不問だし、気持ちが悪ければ訴える。ごく自然の行動だ。
さて、日本の世の中では不倫は悪しきものとしているが、実際はどうだ?
ある元アイドルの不倫報道では浮気相手の男がイケメンだったため周囲の反応は意外に良かった。
一方、大鶴義丹やそのまんま東の不倫はどうだったかというと、女性陣から総スカンを喰らっていた。
この事からも分かるように、日本社会では理不尽といっていいほどイケメンが優遇されブサメンが不遇な扱いなのだ。
よって、日本社会では、イケメン無罪ブサメン有罪が適用されていることが証明されただろう。
採用基準に顔判定というのがある。
履歴書やエントリーシートに顔写真を貼らせるのは、為人を見るためでも今後の選考用だからでもない。
その人が美形であるかどうかを見るためだ。
例えば、受付嬢の募集で必ずと言っていいほど美人が採用されているが、顔採用を行っているためだ。
それは会社の顔を決めるためであり、篩に掛けられるのは顔かたちが整った人間であることが前提だ。
学歴なんてものは、社会生活に全くといっていいほど役に立たない。
世の中には学歴採用を謳っている会社はごまんとあるが、その内情は顔採用のついででしかない。
日本社会では、まずイケメン無罪ブサメン有罪が適用されていることが前提だ。
例えば、会社説明会や他社へのプレゼンで顔の整った人間と、そうでない不細工な人間ならどちらが説得力があってその会社が素晴らしいと感じられるか、である。
内容が多少稚拙でも、イケメンであれば許されブサメンであれば許されない風潮はあながち間違いではない。
マスメディアは、道端の人間で近くの不細工よりも遠くの美形の意見を尊重する。
それは、そういう人の意見の方が視聴者に正しい先入観を与えられると考えての行動だからだ。
逆にそうしないマスメディアがあれば、それこそ物事を正しく公平に周囲に左右されず客観的に捉えられていると言えるが、
そうでない事が多いのはまずメディア自身がそれを恣意的に行うためである。
彼らは、日本社会では、イケメン無罪ブサメン有罪という前提があって初めてジャーナリズムをかざすことができるのだということを理解している。
こうして、彼らの印象操作が巡り巡って日本社会の循環を担い、結果的にイメージ戦略が出来上がるという仕組みを手伝っているのだ。
「名は体を表す」ともいうし、実際キレイな字だったら、その字を見た人の印象は決して悪いものではないと思う。
ただ、それだけ―字が綺麗というだけで性格が良いとは必ずしも言えない。
逆に、汚い字であれば、例え高学歴の人であっても印象はあまり良くない。
それは地頭が良く学力があっても本質的な部分が伴っていない、すなわち性格面が捻くれてるという風に見えてしまうから、
やはり字の丁寧さは大事だと思う。その人の印象によるが、少なくともキレイな字を見て悪い印象を持つという事はないと思う。
汚い字はやっぱり親の教育の問題だとか、地の文が出来てないだとか、熱意が伝わって来ない。
多少稚拙であっても、丁寧に書こうとする意志が見られれば、例え汚くても丁寧さが見えてくる。
綺麗さっていうのは、丁寧さも大事だけど、走り書きでない事が望ましい。
一字一句丁寧にというけど、やはり履歴書の場合書き疲れることもしばしばある。
走り書きって特に締切間近等で急いでいるから、そのようになってしまう。
第三者から見て、走り書きっていうのはすぐ分かるし、急いで書いたというのはその人の性格がせっかちだとか、締切ギリギリということで優柔不断だとか
と見られがちだ。それはそうだ。履歴書を書いている人のその時の気持ちと、履歴書を見る審査員(採用担当者)の目や経験や勘では一致しないからだ。
良い印象を持たれるためには、例えば採用される人の決め手というのは、面接等でいうと第一印象が大事だということがとりわけ挙げられるが、
履歴書一つを見ても、やはりそこだけを見て次の選考を考えるわけだから、見た目の第一印象で躓くのは可哀想だ。
履歴書はその為人を知る上で最も大事なパーソナルデータであり、名刺代わりでもある。
それだけに手書き履歴書の綺麗さがその為人を表すというのは正しいと私は思う。
勿論、昨今は応募者の増加によって企業側が効率性を重視してパソコン上からのエントリーシートで応募する事を推奨しているが、
手書き履歴書が駄目って訳ではないし、たまに手書き履歴書で送ってくる人がいると、とりあえず会ってみようかという気持ちになるものだ。
そういう例は極めて稀のケースだけど、逆に審査側の被雇用者の性格を知る術が効率化によって失われたから、手書き履歴書の存在がありがたいと感じる審査員(採用担当者)も少なくない。面接回数が多いというのはイコール会社が効率化を優先するあまり、古き良き手書き履歴書の意義を見失って本当にその人が会社に入りたいのかという部分が見れなくなったためである。つまり、効率化によって手間が増えたということだ。
案外、パソコン等によるESで回す会社は大きい割に小さい性格の会社だと思う。
問題は、採用する側の為人だろう。その意味では、ESを導入している会社は損をしていると思う。
しかし、手抜きによって、手書きの有難味に気付かされるとは何とも皮肉な話ではないか。
手抜きを効率化としている時点で、多くはその皮肉にも気付いていないのだろうが。
昨今はより単純明快で文章量も10年前の700字程度から300~400字程度に収めるよう指導があり、人気の参考書でもこの点がクローズアップされている。
社説の要約と同じで内容の簡単さやまとめ方で勝負しようという意見の他に、何百何千という自己紹介文を見るのに苦心した人事担当者の苦肉の策という意見もみられる。
ここに語彙力やプレゼン能力、文章力は必要とせず、ただ内容の面白さや明快さで勝負しようということで、よりその人物像を明らかにしようという試みだ。
しかし、人物像がたった300字~400字程度で見えてくるものなのか。
大抵はパソコンによる作成が一般的ながら日本税理士会や検定協会、大手国際特許事務所、翻訳センター等、文章をより多く扱う場では自筆で書かせる事が多い。
その文章量も800字から2000字と小論文程度の要領で自由に書かせたり、中にはテーマを決めてそれに沿って書かせるといった試みもある。
恐らく文章を扱う仕事でなければないほど、簡単な文章量で勝負するのかもしれない。
殆どの場合、文章を扱わない仕事でよく使われるのは頭脳ではなく体力、すなわち肉体労働による所が大きい。
そのため文章試験ではなく実技や中卒から高卒程度の簡単な常識問題で勝負させるに留まっている。
また、面接をたくさんこなす人物採用に重点を置き、より就活生との意思疎通を図ろうとしているのかもしれない。
そこに就活生が仕事へのマッチング・ミスが発生しないか量るという意味合いももしかしたらあるのかもしれない。
その時その場合に依る所が一番占めていて、文章量の多い・少ないはやはり仕事の種類に大きく左右されているようだ。
この不況下、景気がやや好転しているといっても人事担当者ひいては会社全体が二の足を踏むのに躊躇しているので一つ求人が出ると物凄い数の応募書類が殺到するのも分かる。
その中でとりわけ文章量の多い志望動機書ないし自己紹介文はその人の熱意が伝わってくるけど、熱意と内容の構成や綿密さ、起承転結がしっかりなされているかも重要な判断材料になっているのは違いなく、ただそれだけでその人のアイデンティティが把握できるはずもなく、実際その通りの人物であるかどうかを見るため面接を行うのだ。
その過程では、あくまで志望動機はその為人を知る一つの参考資料でしかない。
尤も、サボりたいがためという理由で志望動機書を短くさせているのならば、人事担当者は見る目がないし就活生にとって時間の無駄この上ない。
面接なんて1回で十分。
どうせ受かる受からないは偶然の産物だし学生にスペックを求めたらそういう人間しか来ないのが分からないのか。
だから、人物評価のち採用後、数年以内で辞める人が多いのは人物採用できてない訳だ。
プロの人材コンサルタントなら一回の面接、10分程度の会話からその為人が分かる。
言動、仕草でどんな人物か猫被ってないかすぐ分かるものだ。そういう人間を何百と見てるからだ。
三者面接では挙動不審でないか等を見てるけど面接なら誰だって緊張するしそんな物怖じしない完璧な人間が欲しいならそういう業界にいる人を採ればいいだけの話で、
人材採用には多くの予算が動くし、一人採用するのにも金が動く。
だから慎重になるのは分からんではないけど、人物採用と位置付けていて3回以上も費やしてその為人が分かるものかと思う。
回数が多くても見る側の判断で、例えば人事・役員・社長と大きい会社の各々の裁量で判断される人物採用だけど、その時の彼らのモチベーションで以って評価される。
モチベーションというより、顔判断、学歴コンプ、縁故(コネ)に加えてロボット並のマニュアルブックによって判断される。
それはモチベーションの有無で判断されるので人物を評価するとは必ずしも言えない。
また面接採用マニュアルがあって、志望動機or自己紹介をロボットのように声出しで復唱させてもその為人が分かるとは思えない。それどころかマニュアル通り過ぎる。
更に会社オリジナル基準の、各々にとって都合の良い採用マニュアルが存在する。
果たしてこんなものが人物評価に繋がるかというと、人材コンサルタント(コーディネーター)をしてプロでない会社員の素人判断の人物評価が必ずしも完全でないので
人物採用を謳って採用面接してる人がどういう人物評価をしてるか非常に疑問に感じる。
マニュアル通りの面接が優秀な人間、真面目な人間を採れないことは採用後即辞める人=第二新卒が増加してる事からも明らかだ。
プロのコンサルタントなら瞬時に人物評価が出来るため会社では人事部ではなく経営コンサルタントや人材コーディネーターを雇い、彼らに任せるべきだ。
尤も人物評価に関して客観的に総合的に判断できる人間であれば、会社の人間で問題ない。
素人面接官に分厚いマニュアルブックを読ませて嘘だらけの新卒面接会を開催した所で、自分を綺麗に飾り立てる学生の嘘の実態を図ることは出来ない。
これは普段本業のプロとして活躍してる人に全くはたけの違う話なのだから人物評価も素人目になるのは仕方ない。
だから学生におべっかを使われて嬉しくない人間なんかいないので、その為人を正確に判断できず上辺だけの評価に終わるのは結局人物評価が出来ていないからだ。
すなわち素人が何度面接をしたところで人物評価が出来ないし、それで採用してもその為人が嘘っぱちだからその人の判断で数年以内辞職、という事になる。
筆者は合同コンパ(a.k.a 合コン。普段は仕事に重きを置いた生活をする20代、30代が、視野と交友関係を広げるため、知人の紹介によって様々なバックグラウンドを持つ人々と交流する会合の総称。異業種交流会とも言われる)
に今年のGWに初めて参加し、それ以降2月に1度程度の頻度で同様の会合に参加してきた。幹事を務めたことさえある。
筆者は特にそこからMaking Affairできたことはいままでない。
それどころか合コンで知り合った人物と友人としての関係を築けたこともない。
言うまでもないが我々に残された時間は有限であり、今後すれ違うことのない出会いを繰り返すことに意味は無いし、もっと自分にとって大切な人々と過ごすほうがはるかに有益だ。(筆者友人の同僚談)
では筆者はなぜ合コンに参加するのか。それは未だ見ぬ素敵な出会いを求めるからであり、友人の紹介する人々はその友人の為人(ひととなり)によって担保されているからに他ならない。
先述した通り筆者は合コンに可能性を感じつつも、これまでコンパ時間を漫然と過ごしてきた。
「おれは...反省すると、強いぜ...」(音石明/ジョジョの奇妙な冒険)
筆者は合コンに臨む姿勢に至らない部分があるのではないかと反省している。
このエントリでは合コンで何を目指し、そのために具体的に何を達成すれよいかを明らかにし、今後の活動に反映させていきたい。
現状:
合コンは「会話」「お礼のメール」という2パートに大きく分けることができる。
思うに(あるいはこの主観にすでに間違いがあるのかもしれないが)、筆者がこれまで経験してきた合コンは会話自体は難なく続いている。
それなりに盛り上がっている状態だ。しかし、クリティカルな盛り上がりには欠ける。(ここで言うクリティカルとは「今後も交友関係を築きたい」と思えるほどの、という意である)
また、筆者は相手に対して合コンの「お礼のメール」を書くことが苦手だ。それはクリティカルな深さまで会話を掘ることができていないからではないだろうか。
目的:
男女関係もしくは今後「バントを打つ」土壌となる交友関係を構築する。
(「バントを打つ」とは次はその相手とともにさらなる合コンを開催することである。ある種の有限を無視すればねずみ算式に出会える計算になる)
戦略:
「お礼のメール」のための「会話」
お礼のメールの中で、次回の個人面談にもっともスムーズなかたちで進める文章を盛り込む。
ご存知の通り合コンの間に何かが始まることは稀で、多くの場合、その後の個人面談などによってことが進む。
そのための試金石となるのがこのお礼のメールである。お礼のメールでお互いの興味や共通点が合致した内容を盛り込むことで、その後の進展が期待できそうだ。
実行:
ありきたりで非常になさけないのだが、一言で表すと「きどにたてかし衣食住」に沿った会話となるだろう。または自分の得意な分野に引きずりこんでも良い。
き・・・季節
た・・・旅
て・・・天気
衣・・・衣類
食・・・食事
ここで注意すべきは漫然と会話するのではなく、常に共通項目を探し、次回につなげるアウトプット(お礼のメールにおける個人面談への誘い文句)を考えながら会話することだ。おそらくマイナーな趣味ほどハマるのではないだろうか。
また、相手がおよそどのような属性を持っており(出身、故郷、年齢層、職業...etc.)、どのような指向(趣味、興味、服装、性格が外交的か内向的か...etc.)などを類型分類しながら把握できると少ない情報から相手との共通項をより多く発見できるかもしれない。
・相当ゲーマーらしいですね。モンハンで今度温泉行きましょうよ。
反省:
補足:
もしお互いの共通点が全くない場合はどうしたらいいのか...!?
それはこの本が教えてくれるでしょう。旬やシチュエーションに合わせたデートを演出してくれるはずである。(まだ実践できていない以上エントリがまとまらないので付け足した冗談ですが、旬の食材や風物詩をきっかけに女性を誘い出す手法には目からうろこが落ちる。物語のちからを強く感じる一冊。)
元増田です。
http://anond.hatelabo.jp/20120805180532 を読んでちょっと泣きました。
見事に言い当てられてる。たしかに「誘ってくる男は頭がおかしい」と思ってしまってる。
自分で自分のことをどうしても好きになれず、そんな自分を好きになるとか、意味がわからないのです。
容貌とか、体型とか、収入とかだけを欲していると思って、気分が悪くなってくる。
他人のせいだと言う気はない。周りの人間が私の過去とか心の中にまったく興味がないのも勿論承知している。
だからこそ、よけい気持ちが悪くなる。
確かに、言う通り、呪いなのかもしれない。
一生解けないかもしれないし、一生独りきりかもしれないけど、とりあえず研究と仕事はできるから、
それで世の為人のためになれば、あとは死んだらいいのだと思ってます。
もうそれだけがかろうじて私の生きる価値だ。他に何の取り得もないけど、研究の才能があってよかった。
私も、何の根拠もなく自分に自信が持てるように生まれたかった。
あと、これについて
http://anond.hatelabo.jp/20120806100302
物心ついた頃には太ってて、そのまま推移して痩せるきっかけもなかった。
大学に入った頃には樽というほどではなくなってたけど、それでも太かった。
敢えて言うけれど、「何故痩せない?」は「痩せられて当然」ということで、
だから太っているだけで過大なプレッシャーがかけられるのだし、
痩せてスタイルがいいだけでちやほやされるのではないだろうか。
妹は「何故痩せない?」の声にこたえて、10代の頃にダイエットを始めて、
拒食症から過食嘔吐に移行して、心身をぼろぼろにして、何年も何年も地獄だった。
「何故痩せない?」は、「カースト底辺と、過食嘔吐で生死の境をさまようのと、どちらを選ぶ?」というのと
本当に残酷な問いだと思う。