はてなキーワード: 浮世絵とは
突然だが、私は外見にコンプレックスがある。
私は一重(ひとえ)、それもかなり腫れぼったいタイプの一重だ。生まれてからずっと、自分のまぶたを呪い続けてきた。
一重が嫌で仕方がないので、私はアイプチ(まぶたを固定するノリのようなもの)を利用して二重を装っている。
毎晩寝る前にアイプチを使って二重を作り、そのままの状態で寝て次の日はアイプチを落とし、さも生まれつき二重であるように装って生活を送っている。
この習慣を続けたおかげでまぶたにクセがつき、前日アイプチしなくても次の日も二重で朝を迎えることができるようになってきている。
※アイプチを使いすぎるとまぶたの皮膚が伸びて老後酷いことになるそうだが、数十年後にはもっと安く簡単に整形手術が受けられるようになっていることを祈って今はゴリ押ししている
…と、私の話から入ってしまったが、本題はもっと別のところにある。
「(若い)日本人のほとんどは一重であるはずなのに、テレビに出ている若い人のほとんど全てがキレイな二重なの、おかしくね???」
と思っている。悶々としている。
(1)歳を取るとまぶたの脂肪が落ちて皮膚が薄くなるため、生まれた時は一重の人物でも歳を取って二重になることは結構ある。つまり、年齢層の高い二重の人は多い(はず)
(2)男性の一重or二重が重要視されることは女性と比較して少ないので、テレビに出てる人でも一重の男性は結構多い。
(3)ただしジャニーズを見れば分かるが、女性ウケを狙う「若い」イケメン男子のほとんどは二重まぶたである。
ということをツッコミをさけるために先に断わっておく。
私はまぶたにコンプレックスがあるので、コンプレックスを意識し始めてからずっと他人のまぶたに注目して生きてきた。だからこそ言えるのだが、ほとんどの若い日本人はやはり一重まぶたなのである(ちなみに私は大学生なので、基本的に若い日本人のまぶたの傾向しか分からない)。これは男女両方に言えることで、どう考えても一重まぶたの人が多い。私の主張に疑問を持つ人は一度小学校や中学校の卒業アルバムの個人写真をざっと見てみればいい。化粧も整形もしていない少年少女のほとんどのまぶたは一重のはずだ。
それでもって若い女性の多くは私と同じようにアイプチを使って二重まぶたを装っている。言い忘れていたが、アイプチは完全な一重まぶたの人のみが使うのではなく、奥二重の人が綺麗な二重に形を整えるのにも用いられるので、今では結構多くの若い女性がアイプチやこれに準ずる化粧品を使っている。さらに、男性がこのアイプチを使うこともある。整形手術をせずとも誰でも二重まぶたになれるのだから、かなり便利(?)な世の中になったのだ。
別に独自に客観的な統計をとったうえで、その分析結果に基づいてこの主張をしているわけではないのだが、少なくとも女性に関しては間違いないと胸を張って言える。くらい明らか。
是非ともこの日記を読んだ方は、テレビに出ている人物が一重まぶたであるか二重まぶたであるかを意識してテレビを見てほしい。別にテレビでなくとも、電車の中の広告やSNSのタイムラインに流れてくる画像の人物のまぶたに注目してほしい。びっくりするほど二重まぶたの人物で溢れ返っているはず。
さて、ここまで読んだ読者にはきっと「そりゃあ多くの視聴者が見るテレビなんだからウケの良い(と思われる)二重まぶたの人物を多く起用するのは当たり前のことじゃないか」と考える人もいらっしゃるだろう。確かにその考えは至極真っ当で、私だって一重が嫌で二重に憧れてアイプチを使っているわけで、多くの人々が二重まぶたを美しいと感じているのは事実だろうし、テレビ番組は視聴率を取りたいわけだから一般に美しいと思われている二重まぶたの人を積極的に起用するのは理に適っている。その通りである。間違いない。
しかし一度立ち止まって考え直してほしい。
我々が「二重まぶたは美しい」と考えるようになるのは、幼いころからテレビや雑誌で二重まぶたの人たちばかりを見ているからではないか?
我々がもとから「二重まぶたは美しい」と考えるのではなく、メディアによって「二重まぶたは美しい」という選好を植え付けられているのではないか?
我々が日本史の授業で目にする平安時代の絵巻物や江戸時代の浮世絵の「美人」はみんな一重まぶたではなかったか?
我々が「二重まぶたは美しい」と考えるようになったのは西洋人が身近になった明治以降のことではないか?
そして私のように、一重まぶたにコンプレックスを抱き、様々な化粧品を試して必死に二重まぶたを装おうとしている人こそ一度考えなければならないのは
世の中のトレンドを作り出すことで私腹を肥やす薄汚いブタ野郎が、「まるでそれが普通であるかのような空気を作り出す」ことで、消費者の行動を一つの方向に導くことがある
ということだろう。ブタ野郎の手のひらの上では踊りたくないのはきっとみんな同じ。
普通に考えて、多くの日本人が一重まぶたであるにもかかわらず、二重まぶたの人ばかりが日本のメディアに出ているのは異常ではないか?
これを言うと陰謀論臭くなって嫌なのであまり言いたくはないし費用対効果の点から現実味はほとんど無いのだが、この状況、化粧品会社や美容外科業界、タレント業界とメディアが結託してしたりしないか?政治学には「非決定権力」やルークスという人が唱えた「第三の権力」という概念がある。興味のある方はぜひとも調べてみてほしい。
※私は「二重まぶたの人がテレビ画面を占め、それを見る我々一般人がそれを普通だと認識している」この状況が異常であると主張しているだけで、二重まぶたの人をテレビから引きずり出せとか一重まぶたこそが真に偉大であるとか言いたいわけではない
自分で書いていて着地点が分からなくなってきたのでこの辺にしておこう。
一重まぶたには一重まぶたの、二重まぶたには二重まぶたの良いところがあるわけだから、それぞれの良いところを認め合える世の中になればいいなぁ。
二重まぶたの女性しか出てこないテレビ、普通の人はおかしいと思わないのかなぁ。
普通だと思われていることに、常に疑問を投げかけられる人間(消費者?)でありたいなぁ。
ああ、二重まぶたになりたい。
―――――――――――――
追記
実はこの日記、私が初めて匿名ダイアリーに投稿したものだったのだが、予想以上に反応がきてとても驚いている。
読者の方のコメントを拝見して、なるほどと思うことも多かったので、いくらか追加で書き記しておこうと思う。
確かにこれは少し誇張が過ぎていた。あと、地域性によってまぶたのパターンが大きく変わることは恥ずかしながら考えてもいなかった。
北海道・九州・沖縄あたりでは縄文系の顔つきの人は多いだろうし、二重まぶたの人も多いはずだ。ちなみに私の居住圏は、恐らく弥生系が最も多いであろう関西地方である。そのため、私の脳内サンプルにはある程度のバイアスがあることは断っておかなければならない。バイアス絡みでいえば、私自身が「日本人の多くは一重まぶたである」と意識し過ぎた状態で脳内統計を取っているせいで、無意識的に実数よりも過剰に一重まぶたの日本人の数を計上している可能性もある。
ただ、これらのバイアスを考慮に入れた上でもやはり私は身の回りの人は一重まぶたが多いと思うし、テレビの中の人(特に女性)たちは二重まぶたが多いと思うのだが、これは私の頭がおかしいからそう思うのだろうか。
思った以上に一重の人口が少ない説を唱えるコメントが返ってきたので不安になってciniiとgoogle scholarで適当に論文を調べてみたのだが、一重or二重まぶたの人口比に関する学術論文は見当たらなかった。ということで私は正確かつ客観的な統計データを持っていないし、恐らく手に入れることが出来ない(一応文中でも断っているのだが)ので、断定的な主張をおこなうのはまずかった。一応お詫びしておこうと思う。
③二重の極みについて
このタイトルで日記を公開するわけなので、ある程度この反応があるであろうことは予想していた。
確かに彼女たちは一重まぶたである。もっとも、彼女らは膨大な女性芸能人の中のほんの一握りのケースであることは言うまでもない気がするのだが。さらに言えば、私は「テレビに出ているほとんどの女性」と述べているだけで、「テレビに出ている全ての女性」とは書いていない。
⑤私が本当に主張したかったことについて
コメントの多くが「一重まぶたの人はそんなに多くない」という趣旨のものだったので、私としては少しうーんといった感じ。譲りたくはないがあえて100万歩譲って、日本人の51%が一重まぶたで49%が二重まぶたであるとしよう。しかしテレビで我々が目にする日本人の多く、少なくとも半分以上は二重まぶたではないか?私が本当に主張したいことは、明らかに現実と乖離している風景がテレビに映っているのに、我々がそれを異常とも思っていないのはおかしくないか?ということだ。もうひとつ挙げれば、そのように異常なものを異常と思わないように世の中が動いていることが怖くないか?ということだ。
http://anond.hatelabo.jp/20160830190925
意外と多くのブックマがついた。
皆が浮世絵に興味をもってくれてうれしいような、浮世絵ではなくて浮世絵にハマってる自分を面白がってるだけなのでそんなに嬉しくもないような。
資料アップしてもいいんだが、どうせなら自分なんかよりももっと浮世絵にハマったとんでもない人間たちを数名紹介する。
最初は横綱級の男、何度かネットでも騒がせているイギリス生まれカナダ育ちの男性。
ネットで話題になったゲームキャラの浮世絵のプロジェクトで彫り摺りを担当した男性。
その経歴がすさまじい。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/cover/foreigner/080909_mokuhanga1/
簡単に言えば、ある日浮世絵にハマり、39歳で日本に移住して独学で浮世絵の復刻をはじめたそうな。
その前から何度か日本を訪れては木版画用品を買い漁ったり職人のところに突撃を繰り返していたらしいが、居てもたってもいられずに日本移住というあたりが凄い。
日本に移住して最初の本格的な作品は、100枚揃いの浮世絵を、10年かけて彫り、摺りあげたというぶっ飛び具合が桁が一つ違う。
ちなみに、上の記事は浮世絵に捧げた彼の人生のうち、過激で記事にできないところを上手に隠している。
記事のなかのあんな思慮深く落ち着きのありそうな男ではなく、かなり沸点が低い。
まず、彼はコレクターでもある。
彼は浮世絵とそれに続く伝統木版画を気持ち悪いほど愛しているが、オリエンタリズムには興味がないし、歴史も興味がない。
美術品としてのいくらの価値があるとかいうことにも興味がなく、単純に「綺麗だから欲しい」、その延長でコレクションをしてる。
不思議なもので、「浮世絵が好きで、職人になりたい!人生を捧げたい!」という人はけっこういるのだが、そんな人たちが浮世絵を買ってるかというと、ほとんど買ったりしていない。
版画作りが楽しいから入った人、彫りや摺りの技術に感動した人、という人が多いような印象である。
一方で、浮世絵を買っている層はというと、描かれているものの歴史的な背景について熱く語ったり、江戸の文化風俗について興味があるとか、あるいは一種の財テクなのか有名な絵だから買うという人が多い。
単純に、絵の美しさだけに心奪われて、おかしくなってついには技術面にも興味が出てしまったのは、彼と自分くらいかもしれない。
2年ほど前のある日、雷にうたれたように浮世絵にハマって、それから半年くらいは俺もそうだった。
少しでも食いついてくれたら、チャンスと思って布教活動してた。
いま考えるとかなりキモいが、布教用のプレゼンのパワポ資料をタブレットに保存して持ち歩いてた。
「面白いね!」
と好感触だったら、次の資料、次の資料、と出せるように複数作ってあった。
ちなみに、全9種類。
だいぶ友人を失ったと思う。
オタクに悪気はないんだ。
許してやってくれ。
追記
間違いなく、ネットにあがってる浮世絵まとめのどれよりも、方向性が多岐にわたる資料だ。
ジブリと浮世絵を絡め、まどマギと浮世絵を絡め、細田守と浮世絵を絡めてアニオタにアプローチ用の資料。
マッキントッシュとジョブズと浮世絵を絡めて、アップル信者用の資料。
浮世絵を買い漁り(復刻含めれば100枚はある)手にとって色んな角度で鑑賞し、匂いを嗅いだり目立たないところを舐めたり頰ずりしたりするくらいハマった。
枕元に立て、眺めながら寝た。
資料作りをやめたのは、浮世絵の魅力を伝えるつもりで資料を作っていたはずが、なんとか説明しようと資料を作るうちに新しい魅力をわんさと見つけてしまい、
「ダメだ、こんな薄っぺらい内容じゃ半分も魅力が伝わらない!」
たまにこういうハマりかたをする人がいるらしい。
https://www.youtube.com/watch?v=sk6uU8gb8PA&feature=player_embedded
ダサい。
センスの欠片も感じられない。これが評判良いってマジかよ。
批判は大袈裟であり、大勢のアスリートが出てくる中に制服姿の女子高生もいるだけなのかな?と思っていたけれど
女子高生が思いっきり最初に出てきて一人だけフューチャーされてるのね…。
特に性的な目で見ようとしなくてもパンチラするんじゃないですか?
それを避けたのかもしれないが小さすぎてよく見えないし。
しかも女子高生だけじゃなくアーチェリー選手と思しき女性も顔が前面に出ていますね(もしかして椎名林檎本人だったり?)。
男性選手は後ろ姿だったり逆光だったりして顔は目立っていないのに。
胸に日の丸をつけて踊ってる女二人とか、敢えて狙ってやってるのかもしれないがやっぱりダサい。
新幹線とか橋とかが映ってるパートはまあまともかも?と思ったけど
どうせなら東京と言っても都会だけじゃなく下町の人情的な部分もあるんだと見せた方がよかったんじゃないか(スカイツリーや雷門だけでなく墨田区のうんこビルまで出てくるのに)
ただのよくある都会っぽくて、東京ならではって感じが全然しないんだよなあ。
首都としての東京の歴史が始まったのは江戸時代からなんだから浮世絵とかアピールすればいいのに、どうもこの動画は明治維新以降しか描く気が無いようだ。
一方ロンドンオリンピックのプロモはその街らしいしかっこいい。
舛添のあれなんて、収支報告書のなかにいくつも公費を私的に使ったんじゃないかという疑惑があるだけで、それら数万から高くても100万程度のものがチラホラでしょ?
説明の通りお土産に使った報告がないから虚偽記載といわれてるだけで。
そもそも収支報告書に1億円も記載漏れの使途不明金あって、領収書はないし全部秘書のせいで細かいことはハードディスクがドリルで破壊されたからわかりません!って人をみんな忘れてませんかね?
大臣は辞任したけど議員は辞めず、また当選したから有権者には許されたことになったドリルクィーンです。
使途不明金1億ですよ?
虚偽記載含めると3億超でしたよね?
あいついいの?
てなのがあったので、やってみる。
ニュース解説系増田の中でもかなりブクマを伸ばしたエントリ。内容もさることながら文が上手い。この増田には時々でいいからまたこの分野のニュースの解説を書いてほしい。
ショートショート。増田に創作は案外少ないが、清涼な印象を残した一編……だったと記憶していたのだが、今読み返してみたらちょっとどろっとした感じあるな。だけどそれもまたよい。
増田本人の障害をカムアウトするエントリなのだけど、なんか妙にあっけらかんとしてて前向きなのが逆に救われる印象。
プリンプリン物語を例にサブカルチュアのアーカイヴの意義を説く、はてならしい好エントリ。
ばかばかしいことを真面目にやるエントリは意外と少ないが、その中で心に残った一編。男ってばかねえ(主語の大きい個人の感想です)。
今年の夏の一大トピックだった新国立競技場について、設計と積算の観点から一言。こういう視点がひとつあるといろいろ応用が利きそうに思う。
同増田には「列管理の難しさとコツ」という四桁ブクマの名エントリがあったが、これはその続編。トラバがないのでもしかすると読んでない人もいるかと思いこちらをとりあげた。コミュニケーション力と文章力を併せ持つ逸材で、またなにか書いてほしい。
わずか21文字で400以上のブクマを稼いだ怪物エントリ。一文字あたり実に22ブクマである。割ってどうするんだという話だが。元増田からのこれは天才としか言いようがない。ブコメも面白かった。
仮称浮世絵増田。昨年いきなり浮世絵に目覚め、時々浮世絵エントリを投下していく人。詳しい人から見てどうなのかは判断できないが、知識のない身で読むと単純に面白いし、なにより楽しそうなのがとてもいい。トラバ先にも同増田の別記事があるのでそちらもどうぞ。
短いが心に響くスポーツ賛歌。文体もよくて、読点の代わりにカンマを使っているのが独特の乾いた印象を残す。今読み返しても最後から二段落目で涙が出そうになる。
以上です。
はっきり言ってしまえば、虐殺器官のトリックもハーモニーのアイディアも、SF的観点からするとさして目新しいものではない凡庸なものだ。
にも関わらず、「夭逝の天才作家」として祭り上げられる以前から○○おじさんを含むめんどくさい連中に評価されている理由は何かと考えると、ディティールの積み上げる圧倒的なリアリティにあるのだと思う。
虐殺器官に出てくる心理的マスキング処理、ハーモニーに出てくるアマゾンめいた個人評価のスター、これらは今現在からの延長線上の未来として演算される現実的なもので、一部の組織や企業内では既に現実のものとして実装されているものであろう。
彼の死から早6年、彼の最後の作品である屍者の帝国が、Project itohの最初の映像作品として公開される、それも彼が最も愛した映画という形をとってだ。
6年間、それはあまりにも長い時間でした。僕らの好きだった計劃さんは、どうしようもなくめんどくさい(そして愛すべき)はてダの映画おじさんという存在から、いつの間にかに「夭逝の天才作家」という世間を騒がすアイドルになっていてProject itohなるものが始動してしまう始末。
それでも、それでも、Projectに苦虫を噛み潰したような表情で立ちすくむ○○おじさんたちも、御大の小説が映像化されることには公開される前は素直に喜んで胸のときめきを抑えきれなかったはず、そう公開される前は。なんなんですか、いざ公開されたとなればハダリーたんのおっぱいとか階差機関に対する言及はあれども映画そのものに対しては皆口をつぐみ、挙句の果てに「地獄はここにあるんですよ」と指差す始末。
はっきり言おう、○○おじさんたちは生前の計劃さんから何も学んでいないと。
映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブに溢れる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。
批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「〜が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。
だから、こいつは映画批評じゃない。まさに印象批評的で、規範批評的で、それはすべて、ぼくが紹介する映画を魅力的に見せるためにとった戦略だ。
このページでいろいろ書いていることは、結局そういうことだ。
「おかえり、フライデー」
人間は死亡すると、生前に比べて21g体重が減少することが確認されている。それが霊素の重さ、いわば魂の重さだ。我々は魂が抜けた肉体に擬似霊素をインストールすることによって死者を蘇らせる。
原作は我らが伊藤計劃、そして円城塔。といってもたった30枚の遺稿は映画化にあたってオミットされている。メディアミックスなるものは今日当たり前のものになりつつあるのに、なぜかこと映画化に関しては地雷であるという評価が当然のものになりつつある、特にマンガやアニメの原作付きのものに関しては顕著だ。本作もその類に漏れず、○○おじさん達から大変な不評を買ってしまっているが、伊藤作品の映像化という観点からすれば私は十二分に楽しむことができる傑作だと思った。
原作付き映画に何を期待するかは人によってそれぞれ違うが、原作のストーリー通りに話が展開するだとか、セリフを忠実に再現するだとか、冒頭の30枚を残すだとか、少なくとも私はそういったことには重みを置かない。小説には文字の、映画には映像の文法がそれぞれあるのだから、単に忠実に再現するだけでは翻訳として成り立たないし、少なくともメディアミックスとしての価値はない。それは原作ファンを称するクラスタに向けた言い訳に過ぎず、怠惰な姿勢だと思う。
文字とはすなわち情報であり、映像もすなわち情報である。その違いがどこにあるかというとtxtファイルとwmvファイルの容量を比べるまでもなく、圧倒的な情報量にある。つまり同じシーンを描写するにあっても、映像化のためには不足する情報を画面に徹底的に描き込まなければならない。では不足する情報をどこから補ってくるかといえばやはり原作であるのだが、単に帰納的演算に基づいて情報を付加すると、あたかもjpeg画像を拡大したように荒く違和感を感じるものになってしまう。そこで映像化にあたっては、原作を入念に読み込み世界観を理解したうえで、原作に存在しなかった情報を加えることでディティールを明確にする。一方でその情報量が過剰であるが故に、人は文字を3時間追うことができても、映像を3時間観ることは困難なのもまた事実(現実的には予算だとか尺の問題だが)。そこで行われるのは物語の圧縮である。先に述べた情報の付加と異なり、如何に情報量を減らさずに短い時間に収めるか、如何にディティールを残したまま圧縮できるかが肝になる。
こうして完成した映像作品は、個々人の頭の中に存在する「原作」とは違ったものとなっているので、ほぼ確実に違和感を与えることになる、場合によってはそれが不評の原因になるかもしれない。だが、ここであえて言わせてもらえば、その違和感こそがメディアミックスとしての醍醐味であって、映画を見る楽しみの観点であろうと。
私はかつて植民地だった地域によくある上海の租界のような場所が好きだ。それは現実の宗主国の建築物を現地にある材料で模したまがい物に過ぎないのだけれども、望郷の念からか過剰に演出されたそれらの建物は本物のフランスやイギリスの建物より本物らしく見える。例えるなら歌舞伎の女形が女性より女らしいようなものだ。
映像化された屍者の帝国に、私は原作より原作らしいもの、あるいは書かれることがなかった、この世界線には存在しない真の原作の面影を感じることができたと思う。
ボンベイにたむろする屍者の労働者、○○おじさんにも大好評だった圧倒的なディティールの階差機関、白く荒涼としたカザフスタン、目黒雅叙園に相撲の浮世絵ジャパン、映像化に際して付加された情報量についてだけでも映画として申し分ない。かつて彼が愛していた世界観型の映画のように、産業革命の時代に屍者技術なるものが存在した場合どんな世の中になるかというSF的観点なif、たったひとつの嘘による世界構築がなされている。
「あなたにもう一度逢いたかった、聞かせて欲しかった、あなたの言葉の続きを。」
原作ではフライデーが円城塔で、ワトソンが伊藤計劃にあたる。彼が残したテキストを読み足りない情報を補って、作家伊藤計劃を脳内にエミュレートして続編を書くという行為を考えれば当然の配役である。小説のエピローグで、彼岸に渡ったワトソンを思ってフライデーは自らの意思を持ち動き出す。一方、映画ではその立場が逆転して、ワトソンが円城塔でフライデーが伊藤計劃にあたり、旅の目的は伊藤計劃の復活である。映画の文法としては旅の目的の明確化だが、○○おじさんにとっての不評の元凶となる改変だ。BLだノイタミナだとdisる気持ちもわからなくはないけど、ヴィクターの書記を手に入れて伊藤計劃を復活させるという話が映像化第一弾として公開されることに意味を感じる。
冒頭にも書いたが伊藤計劃の小説は言ってしまえばそんなでもないし、同じようなものを書ける人は出てくる。けど、彼の映画批評のような愛と薀蓄に溢れた文書を書ける人はもう出てこないような気がする。それでも彼がもし生きていればこの映画をどう評論しただろうか、死んだ彼がこの映画を見たらどう評論しただろうか。
例えば、抗生物質の開発というのは、細菌には毒性があって、ヒトや動物には毒性がない物質を探す作業。
細菌とヒトは、生物としての仕組みがかなり遠いので、そういう物質を開発することは楽ではないがけっこう見つかる。
種類によっては飲み続けるといろいろ副作用があるという程度。
でも、寄生虫と哺乳類の違いは、大腸菌と哺乳類の違いに比べるとすごくすごく近い。
ヒトと大腸菌に比べたら、ヒトと単細胞生物のアメーバでさえ、代謝の仕組みは相当似てると言っていい。
マラリアの薬がすごく副作用が大きいというのは、そういうこと。
まして、寄生虫に毒性がある物質は、まずまず間違いなくヒトや動物に毒性がある。
回虫とかぎょう虫とか、ああいう細い糸みたいな虫どもだけ皆殺し。
ウネウネ系の虫だけじゃなくて、ダニまで殺す。
でもヒトには安全。
奇跡だろ?俺もそう思う。
で、オンコセルカ症というのは、そういうウネウネ系の虫が目に入って失明させる病気。
ウネウネ系の虫の病気というのは、胃や腸だけじゃなくて、変なところに入り込む連中がいて、たとえばリンパ管をつまらせて強烈にむくむ、巨大なチンコになる病気なんてものもある。
ビジネス用語にカタカナが多い理由 - Chikirinの日記 という記事を読んで、何となく説得されそうになった。
「ビジネスやITでカタカナ用語が多いのは、それらの分野で使われている概念の多くが日本では生まれなかったから。
カタカナの用語が多い分野ってのは、日本で遅れている分野なんだよ。ちゃんと日本語にしろなんて言ってる奴ってバカじゃね~の?」
といったところだ。
なるほどねえ。確かにそうかもしれないなあ、とは思ったのだが、
でも、「そんじゃーね」と、思い付きを言い放ってブクマを拒否するようなブログの言い分を鵜呑みにすると、足元すくわれるような気がしたので、
自分の頭で考えてみた。
性で使われている概念の多くが日本では生まれなかった・・・なんてことはあり得ないわけで、
むしろ、江戸時代の浮世絵から、現代の世界ではまれに見る性風俗産業の多様さに至るまで、
もろもろ考えてみるに、この分野で日本が遅れているとは考えにくいのだが、
現代の日本では「まぐわい」とか「性行為」より「セックス」という言葉を使うのが普通だ。
一々例を挙げることは控えるが、この分野の用語は一般に、カタカナを使うことのほうが多い気がする。
で、乏しい脳みそで考えてみたのだけれど、やはり、日本語を使うと生々しく聞こえるからだろうか?
少なくとも、現代の日本では、性行為に関する話題はあまり直接的には口にしないというか
ぼやかして語るべきとされている。
良く知っている日本語で語るより、外来語を使ったほうが、直接的な感じがしないのは確かだ。
とすると、ビジネスやITでのカタカナ語の氾濫はどうだろうか?
昨年急に浮世絵に目覚めた人です。
http://anond.hatelabo.jp/20150815210249
これに対して、
http://anond.hatelabo.jp/20150816024827
こんなエントリを返してみたのだが、風景画などに比べると、人物画は、少なくとも浮世絵というジャンルにおいては、日本は独特の様式で進化してるように思う。
ここで、それについて説明していきたい。
日本人のアイデンティティに関わる部分が多く、絵だけでなく、できれば安保やSEALsにも話を展開できればなんだが、とりあえず筆にまかせて書き綴っていく。
ここで、見てもらいたいのは、ルフィが市川猿之助に似ていないこと。
なぜだろう?
「なにを言っているんだ?」「ワンピースの絵でありゃよくて、役者に似せる必要などないだろ」
その通りだ。
ワンピースであることが大事であり、尾田絵であることが大事であり、役者の顔など関係がない。
ナミもロビンもオッサンが演じるわけだが、オッサンにする必要はないのだ。
役者絵とは、舞台看板に由来するため、元来似せる必要がなかった。
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狭い意味で言えば、鳥居派の絵こそが公式な絵、ワンピースで言えば尾田の絵であり、この後隆盛を誇る勝川派や歌川派の役者絵は、非公式なアンソロジーみたいなものである。
絵はすなわち、歌舞伎の様式美、世界観、江戸の空気を体現したものではならない。
ゆえに、役者絵に描かれる人の顔は、あのように似ていなかったのである。
似絵、似顔絵という、役者に似せた絵にたどり着き、2人の共著の一冊の絵本は世界を変えた。
勝川春章
この二名のうち、勝川春章のほうは歌舞伎の世界観、様式美との調和に成功し、商業的にも成功、多数の弟子をとり、勝川派という一派が出来る。
http://data.ukiyo-e.org/aic/images/95101_482279.jpg
顔のみならず、肢体まで正確なデッサンを基本に描いているのがよくわかる。
歌舞伎の雰囲気をそのままに、デッサンは正確、一世を風靡する。
彼は印に「画中造化」(造化とは造物主、天地の法則のこと)を用い、絵の中に神を宿すという気概があったんじゃないかと俺は思う。
ちなみに、葛飾北斎は勝川春章の弟子であり、若い頃は勝川春朗を名乗っていた。
面白いことに、この顔を対象に似せて描くというムーブメントは、男性の顔に対してだけである。
http://ginjo.fc2web.com/208sanoyama/tanikazw_otaki.jpg
歌舞伎の女役ならば、オッサンにするわけにいかないのはわかるが、町娘書く場合であっても、テンプレ顔。
正確にはテンプレ顔のなかにも表情はあるのだが、男性がデッサンを基づく顔で、立体造形は可能なのに対し、女性の顔はおそらく3D化できない。
スネオの髪型やカイジのの顎ほどではないが、この顔は立体造形が難しい。
女性の顔については、この後に続く喜多川歌麿については外すことができないのだが、こんかいのエントリでは男性の顔に主題を起きたい都合上、また別の機会にかかせてもらう。
続いては、やはり東洲斎写楽と歌川豊国について触れないわけにはいくまい。
先に写楽に触れよう。
東洲斎写楽、聞いたことはあってもなにがどう凄かったのかを説明できる人は少ないと思われる。
http://data.ukiyo-e.org/aic/images/97845_505370.jpg
http://torinakukoesu.cocolog-nifty.com/blog/photos/uncategorized/2010/03/13/sc153602fpxobjiip1.jpg
Webで調べると、「強烈なデフォルメ」と表現されるが、簡素な線は実は正確に人の顔を捉えている。
小鼻の膨らみから、顎の厚みから、少し線を書き足すだけで全て補完可能で、輪郭線の修正は必要ない。
芝居小屋の闇を表現したかのような黒バック。この黒バックは光を当てるとキラキラと光る仕様になっていて、芝居小屋の闇の中で白塗りの人間にスポットライトがあたったような臨場感を醸し出している。
実際、写楽は売れなかったらしい。
なんの実績もないし素性がわからない新人が豪華なデビュー、しかも大コケしているにも関わらず次々と新作発表。
よくみると上手いのにぱっと見で下手、よくみると下手なのにぱっと見では上手い、正確なデッサンの部分があるのに、全体だと崩れた感じ、当時の常識ではありえない色彩感覚、いまだに正体は謎である。
ところで、写楽は商業的には失敗だったが、画家たちへの影響は確かにあった。
写実とデフォルメの高次元の融合、舞台化粧、舞台の緊迫感を受け継いだのは、たとえば
歌舞妓堂艶鏡
http://nichibi.webshogakukan.com/yorozu/kabukido_350.jpg
http://dejimashoten.sakura.ne.jp/bookimages/359787.jpg
歌川豊国の役者絵とは、ひらたく言えば二次元絵、アニメ漫画の絵の祖になる。
勝川派の始めた写実の路線から、再び二次元絵に舵を切ったとも言っていい。
http://data.ukiyo-e.org/ritsumei/images/Ebi0124.jpg
歌川派の役者絵は、わかりやすく言えば、たとえ横顔だろうと、正面から見た顔のパーツをつける。
http://data.ukiyo-e.org/mfa/images/sc214417.jpg
この流れは、幕末までずっと加速し、圧倒的な作画量を誇る国貞(実質の三代目豊国、自称二代目豊国)、幕末の豊原国周まで続く。
末期がどんなになったかといえばこんなだ
http://data.ukiyo-e.org/mfa/images/sc169830.jpg
さてさて、文明開化で圧倒的な強さを誇っていた浮世絵の様式、というより歌川派の様式の人気に陰りがでる。
人物画にふたたび写実との間でゆれうごく。
最後の浮世絵師と言われた彼の晩年は、西洋画の技法を消化し、浮世絵にした。
晩年ともなると、このような感じ。
http://data.ukiyo-e.org/scholten/images/48cf87c54075046c12f9df3e790f5dd9.jpg
http://data.ukiyo-e.org/metro/images/1594-C051.jpg
絵の上半分の人物の顔は、見えるであろうその通りに描かれている西洋式の絵。
下半分の人物の顔は、正面から見た目や口を横顔に貼り付ける歌川派の様式。
どちらかと言えば、下の絵のほうに力強さ、人間らしさを感じるならば、我々はなんだかんだいっても二次萌えの血が流れる日本人である。
劇画調の漫画は、写実から離れ、劇画という絵のジャンルが出来る。一見すると写実的なようだが、立体造形は不可能。
人物の描き分けも出来ているようで出来てない。あるいは意図的にしない。例を上げるとシティーハンター。
デフォルメしつつも、デッサンもしっかり、例を上げるとドラゴンボールか、であったが、デフォルメだけを受け継ぎ、骨格はデタラメOKになる。
人物はデフォルメでも、背景描写はパースを重視するのも浮世絵的。
っと、ここまで書いてみたものの、安保につなげられる気がしねぇのでここまで。
ちゃんとした美術史や絵の解説書から学ばずに、webの知識と年表と絵の印象だけで語ったんで、間違いもあると思うんで、指摘してくれると嬉しい。
たとえば北斎も肉筆だと
http://fast-uploader.com/file/6995210605446/
こういう写真かよ!っていう絵を描いているんだ。
なんで生首?
うーん、ほら、生首の絵の扇子で扇いだら涼しくなりそうじゃん(笑
単体ならっていうのは、透視遠近法みたいな絵がないっていうことかな?
有名な冨嶽三十六景は70代の作品だが、30代で既にたとえばこんなやつがある。
http://fast-uploader.com/file/6995210740539/
カンペキだね。
これと似たような構図を年代順にならべてやる。
http://fast-uploader.com/file/6995211010479/
70代
http://fast-uploader.com/file/6995211188891/
これ、よくみると、消失点が1点にならない。
左右の橋の梁の平行線を伸ばしてぶつかる消失点は水平線の彼方、両脇の屋敷の屋根の平行線を伸ばしてぶつかる水平線は橋の下かその少し奥。
これが、忠実な一点透視だったらつまらない作品だったとおもわん?
絵の中に動きがあるのは、ちょっと崩れてきてるおかげ。
80代
http://fast-uploader.com/file/6995211441686/
ぱっとみ同じ構図の一点透視のようで、二点透視にも見え始め、仰ぎ見てるようにも見えたり見下ろしてるようにも見え、ってことは三点透視かとおもいきや、そもそも透視図法(平行線がいつか交わる)じゃなくて投影図法(平行線はどこまでも平行)なんじゃないかと見える。
一番手前の人物にフォーカスを合わせるとそういう絵になり、その奥の人物にフォーカスを合わせても絵としてなりたち、人物を辿ってるうちに奥に奥にと視線が誘導され、そのたどる先には富士山。
多重視点というのは、「ピカソの絵は右から見た絵と正面から見た絵が合成されていて」みたいな説明をされるあれ。
ピカソの作品はそれだけじゃなくて、いろんな意味で工夫させすぎてて、話が脱線してしまうので、わかりやすくキリコ
http://www.geocities.jp/syu_58jp/we2/1.JPG
この絵のようなやつ。
http://www.geocities.jp/sakushiart/bizu/251.JPG
線遠近法的に忠実に描くと、
http://www.geocities.jp/sakushiart/bizu/252_4.JPG
こうなる。
人物やモノ画中にたくさん配置して、奥のモノ、人物は小さく、手前の物を大きく描くことで絵の中の遠近を表現するっていうのは、基本ではあるが、
それをやめて、横一列に均等に配置することで、絵にリズムが生まれる
これについても、似たようなことを既にやってる北斎
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-94-64/otyaken_suki69/folder/1050996/44/47018044/img_8?1382279701
なんというリズム感。
これ、どこがおかしいかわかる?
シャチホコってさ、近くで見ると当然巨大じゃん。そうしたら、本当は
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0a/The_Great_Wave_off_Kanagawa.jpg
波をシャチホコに置き換えたら富士山はこのくらい小さくないと絵としておかしい。
この構図になるのは、望遠レンズでズームで覗いてるという設定の絵だっていうこと。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201011/22/10/b0111910_1061561.jpg
http://tenkijuku.com/qa/kisyoudai/hugoku.jpg
当然もう残っていないけど、百二十畳の巨大な紙に、高いところからみないとなんだかさっぱりわからん巨大な絵とか描いたっていうんだ。
そういう高いところからみないとなにを描いているんだか本人もわからない絵というものは、「この座標でこの角度で線を曲げて」っていう座標の概念がないとどうやっても描けないわけで。
北斎というと、80過ぎてるのに110歳くらいまでの人生設計(当然自分の画力について)を立てる貪欲さで、当時の平均寿命の倍くらい生きてるのに死ぬ間際に「まだまだ描きたりねぇ(意訳)」といって死んだというエピソードが有名なので、描いて描いて描きまくったというイメージが強い。
しかし、その実際は、それプラス、数学も物理も幾何学も絵に応用して、古今東西、みたこともないものだろうと文献調査だけで描き(中国くらいならまあ、古代インドとかどうやって描くんだよ!!見たことないはずの象を右からも左からも正面からも後ろからもかけるとか、どうかしてる。)、漫画の効果線やトーンのかなりを発明し、その後の絵画の歴史で発明された技法をその100年前に実験しつくし、鎖国の時代なのに西洋の銅版画や油絵の解説書をつくり、中国画の技法も日本画の技法も操り、いうなれば、異星人。
まあつまり、線遠近法は北斎より少し前の時代に入ってきたんだが、カンペキに理解をしたのが北斎。
自在に使いこなし、それを捨て去り、違う境地、もう前衛芸術の実験のようなレベルに高めたのが北斎。
その後は幕末、文明開化で西洋画が入ってきて、もう一回遠近法ブームが起きて、
みたいなムーブメント。
油絵が始まり、浮世絵(版画)の絵師たちもそれに近い木版画を作った。
初めてやったのは小林清親って人で、水彩画風の版画、ついには油絵風の版画まで辿り着くが、結局彼の画風はいわゆる浮世絵的な絵に戻る。
写実的(性格な遠近法、陰影表現)ってのは、いちどはそれに熱中する麻疹みたいなもの。
その後の時代だと、吉田博、川瀬巴水とかが水彩画のような木版画で有名だが、小林清親は浮世絵の構図、モチーフを水彩画の手法、油絵の手法で再構築した感じなのに対して、吉田博、川瀬巴水は洋画を木版画にしましたって感じだから、浮世絵や日本画の子孫じゃあないと思う。
吉田博
浮世絵しかわからないので、浮世絵がいかに衝撃的だったか、どう世界を変えたか、ちょっとだけ。
ところで、少し脇道から入っていくが、まずこの写真をみて欲しい。
http://img.allabout.co.jp/gm/article/20016/image2.jpg
俺はすっかり大人になっていて、南国にはこういう景色、すなわち澄んだ空と海、強い日差しがあることを知っているけれど、もしもこれを予備知識なくみたならば
「なんて美しい場所だ!本当にこの世なのか?」
と思うと思う。
これをみて、「海と小屋が映ってるだけだろ。なにが綺麗なのかわからん。」
という人はそれでけっこう。わかりあえないので、この先は読まないでいい。
これを西洋人が初めて目にした時の衝撃は、たぶんそれに似てる。
「なんと澄み切った空!見たこともないブルー!ただ青が広がるだけの空がこんなにも美しいのか!影が映らないほどの明るさ!」
「澄み切った水!そして水面がキラキラと光ってる!」
しばらく、その美しさにトリップしたあとに、正気に戻ってみてこの美しさはどこから来るのかと絵を探るといろいろと気付くのだ。
「見たこともない構図だぞ!風景を上から見下ろして描くなんて!!」
「紙が布のようだぞ!紙そのものが上等なシルクのような輝きを放ってる!」
「波打つ水面は、ただ紙に描かれているのではなくて、エンボスになっているぞ!」
「遠い異国の景色であるのに、聖書の物語の一節でも歴史の一部でもないのに、馬を引く人や船を漕ぐ人のドラマが頭のなかで再生されるぞ!」
「表面にインクは残っていない!触ってもインクが手に付かない!光に透かせば光を通し、光に当てれば輝く反射!ありえない!ありえない!ありえない!」
「日本という国では、カラー印刷が一般的なのかッ!!!包み紙に使うほどにッ!!!貴族でも大商人でもない一般庶民が、絵を楽しむというのかッ!!」
「こんなにも簡素な表現で、こんなにも訴えかけることができるのかッ!!!いや、極限までエッセンスを削ぎ落としたからこそ心のドアをノックするのだッ!!!」
「絵とは魔法だ!丸に点を二つ描くだけで、顔に見える!そこに手足を描くだけで動いて見える!我々は見えるものを見えるままにキャンバスに閉じ込める術を手に入れた。しかしどうだ?心をノックするために、見えるものを見えるままにキャンバスに閉じ込める必要などあったのか!?
日本人は、我々が陰影、凹凸、光源の方向、そんなことに執着して、方向を間違えている間に、一瞬の煌きや感動を絵に閉じ込める術を手に入れていたッ!!!」
例えば、もしも浮世絵がなかったら、テレビドラマや映画は登場人物の会話を真横から映し続ける退屈なものだったろう。
それまでの舞台を描いた絵も、物語を描いた絵も、常に真横からの構図だ。
仰視、俯瞰、物陰から、登場人物の一人称視点、あらゆるカットで切り取っていくのは、浮世絵のアイディアだ。
葛飾北斎が「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインしたのは、そういう理由だ。