はてなキーワード: 浮世絵とは
オリンピックのロゴの件でやたらと「黒は不吉な色で日本らしくない!」って意見を見たんだけど
本当かなと違和感を覚えた。
海外の人から見たら「黒」ってすごく日本ぽい色と思われているんじゃないだろうか。
日本人の髪の色は黒だし、習字の黒のイメージもあると思うし、浮世絵でも黒が印象的に使われている。
パリコレで衝撃を与えたコムデギャルソンやヨウジヤマモトのコレクションも黒一色だったし、おにぎりの海苔も黒い。
様々なデザインの中で、自分が「すごく日本らしいデザインだな」と思うのは日本航空のデザインで、
特に1980年代の塗装なんか、ザ・日本って感じがするんだけど、この塗装も「赤」「白」「黒」の3色でできている。
黒って、シンプルだけどミステリアスで、表情もあって、すごく日本ぽい色だと思うんだけど。
「黒は日本では不吉な色だからやめろ」という意見を振りかざすのは少し横暴なんじゃないかなと思う。
(桜の招致ロゴは評判がいいけど、あのやたらカラフルな感じが日本らしくないと思うのは私だけなのだろうか)
調べてみると、そもそも日本の喪服は昔は白かったのを、明治以降に欧米に倣って黒に変えたという話らしい。
別に今のロゴがすごくいいとは思わないけど、「日本の伝統=黒は不吉」を盾に批判をしてる人たちは、
やっぱりちょっとズレているんじゃないだろうか。
突然だけど、ビックリマンシールを集めるように、浮世絵を集めるようになってくれないかなと思う。
ビックリマンのなにがすごいって、ただただ美しいいからというだけでブームを作ったこと。
シールに遊び方があったというわけじゃない。
たしか「貼られたら貼りかえせ!」と書いてあったが、そんな遊びをしてるやつはいなかった。
コミックやアニメが展開したけれど、あくまでシールの人気にのっかっただけ。
今にして思うと、ビックリマンシールって、どうみても浮世絵の役者絵だと思う。
加えて、旧ビックリマンシールって、今の平板印刷じゃなくて、アキバ売られてるイルカの絵と同じシルクスクリーンだった。
インクの盛り上がりが気持ちいい、一種の版画だった。
余談だけど、浮世絵は大判が35×25だとして、ビックリマンシールが5×5cmとすると、大きさにして35倍。
ヘッドの封入率が約1/40 。
今売られている復刻浮世絵は、ヘッドシール以上に凝った細工がしてあるので、
35×40×30円=42000円
くらいまでは適正価格だと言えなくもない。
いや、4万もしちゃったら子供は買えないから、1枚1000円くらいじゃないと無理だけどさ。
特に現代木版画だと「限定○部」みたいな売り方してるけど、あれはやめたほうがいいと思う。
木版画って、ビックリマンシールと同じで、手にとって、生で見ないと美しさがわからない。
それでも、高級品として額にはめて壁に飾られたいのか?
それで本望なの?
でも、それって、希少だから貨幣価値が高まったというだけで、作品の芸術性が高まったわけではないでしょう?
手軽に聞けるウォークマンやラジカセが普及して、高級オーディオは衰退の一途を辿った。
結果は今の通り。
いい音を多くの人に届けていれば、そうやって品質をアピールしていけば、もしかしたら生き残れたかもしれないのに。
印刷技術が発達して、写真やディスプレイで見るぶんには区別がつかなくなった。
高級品として額に入れて紫外線をさけてアクリル板を挟んで飾ることを推奨するような売り方をする理由がわからない。
そもそも、市場は死んでる。
ネームバリューのある作家以外は、限定部数にしようがしまいが、ヤフオクでの値段は知っての通り。
財テクとして買うんだったら、絵なんかじゃなくて株券でも買うだろ。
常識的に考えて。
ビックリマンシールが廃れた原因が、公取委の指導でヘッドカードの封入率が上がり、レア度が下がったからという意見がある。
自分はそうは思わない。
レア度が下がったからではなくて、封入率が高くなったことで原価を圧迫して、シールのクオリティが低下したからだ。
流行りモノ好きが飽きたら、信者から搾り取るものがなくなったらそこで終了だ。
田中義剛が、
「発想の転換であえて少なく作る」
みたいなことを言っていたが、ぜんぜん同意できない。
ここ十年くらいは、
「品質がいいだけじゃ売れない」とかなんとかで、ブランディングが人気のように思う。
http://anond.hatelabo.jp/20150410101845
エウリアンにはついて行くな
秋葉原などの繁華街で絵葉書を無料で配っているお姉さんたちがいる。
しかし、ついうっかりお姉さんから絵葉書をもらってはいけない。
言葉巧みに画廊へと連行されて、気が付くと大して価値もない絵(というか版画)を、何十万ものローンを組まされて買う羽目になる(絵画商法)。
エウリアンにも新社会人にも全く興味はないんだけど、版画への冒涜は許さん。
君が代に過剰反応する左翼のように、どんな文脈だろうと、どんな事情があろうと、版画をdisられるとプッツんしてしまう。
エウリアンの売る版画というものがどんなものか知らないけれど、これだけは言える。
生でみなければ、版画の魅力はわからない。
否、
触ってみなければ魅力はわからない!
断言するけど、江戸時代の浮世絵から最近の現代作品に至るまでの伝統木版画、これを見たことがある日本人はほとんどいない。
そんなものは、世界の車窓からのDVDをみて海外旅行に言ったと言ってるようなもの。
和紙の質感!どんなに拡大しても粒子が見えてこない無断階のグラデーション!摺りによって出来た凹凸!
まず、床や机において窓から差し込む斜めからの光のもとでみて堪能。
テレビ番組の映像や、窓から差し込む車のヘッドライトが絵の面を瞬間的に照らした瞬間も美しい。
入ってくる光の方向、光の種類によって、表情が変わる。
そして、やっぱり手に持って鑑賞だ。
パンツが見えそうで見えないグラビアを、下から覗いてみえないはずのパンツを見ようとする、アレを浮世絵でやるとすごい。
ちょっとだけ見える。見えないはずのところが本当に見えてくる。
目の錯覚でしかありえないんだけど、紙のたわみと、光の加減で、ときどき本当にみえてくる。
うわぁぁんってなる。
ぶっちゃけ、浮世絵美術館、あんな一般展示なんかやめてしまえ!!
額やショーケース越しでしか見れないなら、触れないんなら、カラーコピーで十分だろ!
額装やショーケースに入れる職員の目しか楽しませられないなんて、時間も無駄!文化財の無駄!
触らせないんなら燃やしてしまえ!
よさが微塵も伝わらないのに飾ってみせる価値が有るのか?
1億円と書かれた小切手を飾って見てるようなもんだろ。
医学とか物理学とかは、100年前と今では大きく違うけど、絵は、たいした進歩してないだろ?
ぶっちゃけ、1万5000年前のラスコーの壁画と、そのへんの美大生の絵のどっちが上手いかって言ったら、芸術とかよくわからん俺にはどっちが上かわからん。
でもね、印刷という技術を手に入れた、触れることが出来る!その素晴らしさ!
俺ね、江戸時代の浮世絵の価値は認めるよ、でもさ、浮世絵のいいところって、ライブ感なわけ。
絵師が描く、描いた絵は板に貼り付けられて、その上から刀を入れられて紙ごと彫られてゴミとなってしまう。
絵師の絵を活かすも殺すも彫師次第。
それから、色の指定があって、色の数だけまた彫りがあって、そんで摺師が摺って、試しに作ったものに対して、あーでもないこーでもないっていうディスカッションがチーム内でされたわけ。
色の調節をして、時に柄を変えて、セッションによって出来上がる。
売りだしたあとの、町の人々の評判さえも取り込んで、みんなが主役のライブだったわけ。
俺、音楽はよくわかんないけど、たとえしょぼいバンドの小さなライブハウスでのライブでも、有名フィルの録音にも負けない感動があるでしょう?
一番有名どころだと、北斎あたりだと思うけどね、もうね、ヤバいの。
元々が天才でしかも努力もしまくったらこうなるってやつ。努力ってのが普通の努力ってんじゃないの。
だいたいにおいて、他派の画法を学んで破門されたあたりからだけど、もう何でもあり。
大和絵も漢画も銅版画も油絵も、手段を選ばず学んでるようで、見りゃ誰でもわかるんだけど、もうホントヤバい。
すべて独学で。本読んで覚えたってより、ひたすら描いて描いて描きまくって吸収したという感じで。
貧乏の理由が、お金を封筒でもらったまま中身の確認もせず、支払いの時には「その封筒からもってけ」くらいに無頓着だったからという馬鹿。
掃除をすれば、「ここにあった蜘蛛の巣どこ行った?(描きたかったのに)」くらいの馬鹿。
誰よりも自信家で、本が売れたのは俺の挿絵が良かったからだ!と言って作者と喧嘩する傲慢な一方で、猫がうまく描けないっていう理由で80歳で悔し泣きをする馬鹿。
30回画号を変えるってのがもうよくわからん。たとえば漫画家が30回名前を変えてデビューするとかないだろ。売れっ子が新人に戻るってことだろ。馬鹿かと。いや馬鹿だよ。
そんな絵中心のわけのわからない生活を、88歳で死ぬまで続けちゃうってのがもうね。
例えば、水木しげるが週刊少年ジャンプで週刊連載をしてて、CG(北斎はコンパスや定規やらも使いこなしてるようで、幾何学や製図も知ってる様子。当然おそらく独学)を使いこなし、ありとあらゆるジャンルを書き分け(春画から、行ったことのない中国の古典小説の挿絵まで)、30回新人デビューとかしてたら、人間じゃないだろと。
で、そんな北斎の線ときたら線の始まりから終わりまで、この線以外じゃダメっていうカンペキ。筆の入り、筆の終わり、太さ細さ、もうすごい。線が凄いってわかるってことは、彫師が凄い。フリーハンドじゃアリエナイような精密で、コンパスや定規ではありえないような強弱があり、油絵なら何度でも塗れるだろうし鉛筆なら何度も消せるし、CGなら何度でも書き直せるけど、最小限の輪郭線で森羅万象を切り取ってる。
写真を目指してたんじゃないだろうか。
写真というものがなかったので、目指してたというのは変な話だけど、露光時間調節やピントズレに近い表現があって、写真を目指し、写真を超えたなにか他のステージに足を踏み入れようとしてた、ように思う。写真なんかなかった時代に。
で、それがわかるっていうのは、彫師がすげぇ。
摺師がすげぇ。
俺がこの数ヶ月で買い集めた70枚ほどのほとんどは復刻だけどさ、復刻もまたライブなんだよ。
摺る工程を見せてもらったわけ。
濃い絵の具を数種類用意するだけで、都度混ぜて薄めて版木に塗り、摺る。
なんということだと思わないか?同じものをたくさん作るなら、同じ濃度に調節したプレミックスを作っておくべきだろう?
絵師と彫師と摺師だけじゃないの。
版木を作る職人、紙を漉く職人、紙にドーサを塗る職人、絵の具を作る職人、バレンを作る職人、数えきれない職人たちのライブが木版画。
だから響いてくる!
で、ライブが存続するためには、絶えず誰かが買わないとダメなわけ。
材木から板を作る職人は消えちまったそうだよ。ただ板を平らにするだけじゃダメらしい。
バレンを作る職人も消えかけらしい。
だからさ、エウリアンが木版画を扱ってるかどうかはしらんけど、なりふり構わず売るということは少し理解できる。
俺だって、1ファンとして、こんな見苦しく匿名掲示板で見苦しく宣伝してるけどさ、どうせ中の人だろ、ステマうぜえって思われてるんだろうけど。
日本中の浮世絵美術館が燃えることより、職人がいなくなることのほうが損失はずっとずっとずっとデカいんだよ!
復刻浮世絵なんて一万円そこそこで買えるんだよ!
数万円となった山桜の版木を何枚も使うわけだし、キャリア何十年の職人が一月かけて彫るだけで、いくらの人件費だ?
キャリア何十年の摺りの職人が、今では手に入らない材料で自作した絵の具で、人間国宝が作った紙に摺る。
一枚200枚やそこらは売れないと滅びるだろ。
お願いだから買ってやってくれよ。
俺がビルゲイツだったら、もっと買ってやれるんだけど、安月給なサラリーマンじゃこれが限界なんだよ。
財布に入ってる1万円札、あれに1万円の価値があるのか?あんな小さな銅版画にわくわくするか?
せっかくだから文句を言いたい。
千円札の富士山わからんでもない。写真を銅版画にするなら許せる。
5千円札、2千円札、屏風絵を銅版画にするとか、絵巻物を銅版画にするとか馬鹿なの?オマージュにしたって、もうちょっと工夫しろよ。
100万円札を和紙で作れ!木版画で作れ!一枚一枚違う味があって味があるだろ!
偽造されてしまう?
偽造けっこう!本物と見紛うような彫りと摺りの技術が世界中に溢れれば、日本銀行の信用がどうなろうと、人類の幸福の絶対量は増加する!
木版画紙幣の発行は無理でも、一つの可能性として、造幣局で木版技術に関わる職人を世話してやってはくれないだろうか。
造幣局に一人くらい、材木から板を作る職人がいたり、絵の具を調合する職人がいたっていいだろう?
多少脱線しましたが、そういうわけで、ちょっとだけエウリアンを擁護してみました。
終わり。
考えてみればライブって凄いよな、芸術家って、基本的に俺が俺がじゃないか。
当然だけど、絵も彫りも摺りも極めることなんか出来ない。
それが、分業制、買う客の声も含めて、一人一人が主人公、思いがけない方向に転ぶ面白さ。
今でも、現代作家が版画にするために専門業者に頼んだりはするけれど、基本は作家の意思が優先で、作家の作品という域を出ない。
やはり、売れないことには、ちまたに溢れないことには、あれがいいこれがいいと話題の中心が木版画にならないことには、木版画に未来はない。
音楽としてどうかはわからないけど、AKBの会いにいけるアイドルという路線は、一つ評価したい。
あれが、理想の姿。
巷に日々木版画が溢れ、あれがいいこれがいいと、皆が好きに意見を言う。
町の人々の意見を取り入れ、流行の先端を走り、絵師や彫師摺師が腕を振るう。
たまらんじゃあないか。
もちろんだけど、版画で見て欲しい。
でも、いきなり画廊にいって手で持って鑑賞するってのもハードルが高いかと思うので(実際はけっこうこころよく手に持って鑑賞させてくれるよ)、伝わる部分、伝わらない部分をすこし説明しようと思う。
例によって、少し長くなるけれど、お付き合い願いたい。
かなり落ち着いてきたし、ずいぶんと絵の勉強もしたので、前よりもわかりやすく説明できると思う。
まず、色について。
画集はおそらく現存するもので一番古いもののうち、一番いい色のものを採用していると思う。
復刻版の浮世絵の色は、初版、あるいは最も有名な版の摺りたてを目指して作るというものと、摺ったものの経年変化まで考えて作るというものの2通りのものがある。
摺りたてを想像して作られてる。
そういう復刻版は明治大正の頃に作られていたんだけど、当時なら50年100年くらい経った浮世絵の再現ってことで、意味もあったんだろうけどね。
いまそれやったら、ほとんど灰色になってしまってよくわからない古ぼけた絵を作るってことだからね。
色については、復刻版のほうが圧倒的に綺麗。
ただ、いくつかの色については、江戸時代の絵の具そのものは使えないらしい。
たぶん、鉛とか水銀とかのように、水道法や毒劇物取締法にかかったりするものや、天然素材が資源保護の都合上手に入らなかったりとかだと思うんだが、詳しくは知らない。
それを差っ引いても、色については復刻版から見るべきだと思う。
画集ではとても再現できない。
まず空摺り、布目摺りという紙へのエンボス加工。
空摺りというのは、色をのせずに摺ることで紙につけるエンボス加工
たとえばこれ、巻物の縁の部分と、着物の衿の部分に注目。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/utamaro063/utamaro063_thumb4.jpg
布目摺りというのは、布を押し当てて紙に布のような質感を再現すること。
たとえばこれ、たなびく布が、本当に布のようなエンボスになってたりする。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige175/hiroshige175_thumb5.jpg
これについては生で見ないととてもわからない。
スマホ画面で鑑賞するのに適した作品として、まず歌川広重の名所江戸百景の亀戸梅屋敷を挙げる。
寝る前によく眺めてる。
ゴッホが模写したとかで有名なやつらしい。
なれないうちは有名どころからいくといいよ。たぶん。
さて、画像検索すると、ピンク色に染まった空の一番上の部分が、ピンクから赤へのグラデーションのバージョンと、ピンクから青へのグラデーションの二種類がある。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige160/hiroshige160_main.jpg
http://www.gogh-ukiyoe-museum.jp/images/kameido.JPG
どっちが本物でどっちが偽物っていうわけじゃない。浮世絵って色の違う別バージョンが無数にある。
さて、それはさておき、俺はこの絵をみるときに、画面いっぱいに広がる梅の木の幹ではなくて、幹のあいだから見える、その向こうにいる人だかりを見てしまう。
というのは、画面いっぱいに広がる梅の幹の木肌が滑らかすぎるんだ。
木の幹は視界に入っているのに入ってない。
フェンス越しでも野球がみれるように、手前の木のピンぼけは、木の影から覗いてるという風に解釈してしまう。
ピンク色の空が幻想的で、幹と幹の間から見える遠くの人々の会話が聞こえてきそう。
遠くで友達が花見をしてる、それに混じりたいのに出て行く勇気がなくて遠くから覗くしかない俺、っていう架空設定をついつい脳内に作ってしまったりする。
さて、これだけでも手品みたいな画面効果だっていうのに、広重ときたらもう一つ仕掛けをつくってる。
次に、白梅の花に目を移してみる。
そうすると、白梅がとびだしてきやがるんだ。
さっきの野球の例えだと、フェンス越しに野球をみてて、ふとフェンスに焦点をあわせるとフェンスがブワァって飛び出してくるような感じ。
そんなこんなでまたいずれ。
とんでもないものに出会ってしまったとしか言えない、凄い衝撃であったことは間違いない。
科学技術については日本は西洋に劣っているが、アートについてはヨーロッパは日本が上だと言ったのは誰だったろう。
ヨーロッパ人が土人に敗北宣言するというのは凄いことだ。
もう、周回差つけるくらいぶっちぎってたということだ。
絵とか興味なかった俺でもわかる。
北斎、広重に比べたら、ダヴィンチもフェルメールもレンブラントもぜんぜん勝負にならない。
そんな浮世絵が、茶碗の包み紙として新聞紙みたいな使われ方をしてたのだもの、ヨーロッパ人は驚くわな。
版画だよ?木版画。
それが、油絵をぶっちぎった。
さて、それがさ、今でも復刻版が1〜2万で買える。
破格に安い。
わかりやすく例えると、川瀬巴水の大正昭和の作品を買うと100万する。
ところが、版木が残ってるので、本人の死後に最近摺ったものもある。
これは超安い。
2万くらい。
色褪せがないし、大正昭和の染料顔料は今でもだいたい調達出来るし。
初期のほうが版木がへたってないからなんとやら、というけど、あれは嘘。
新版画は1000枚以上摺ることを前提の浮世絵の技術で作ってるんだ。
そう簡単には版木へたらん。
オリジナルの100万と後摺りの2万の差額の98万は、歴史ロマンの差が97万くらい。
まず版木をつくるのが高い。
職人が一カ月かけて彫らないといけない。
摺りも当然職人。
そこまで手間暇とお金をかけて、巴水なんかよりずっと安い。
超お買い得だし、買ってあげることが、彫りの職人を後世に残すことにつながる。
江戸時代当時の作品なんか集めたって、職人の技術の継承には伝わらない。
買いまくるしかないだろう。
フェルメールもレンブラントも過去の人にしてしまった、浮世絵という芸術の頂点を、手元に置くことが出来る素晴らしさ!
と、いろんなところで熱弁をふるってみたんだが、なかなか伝わらない。
そうそう、こないだ、
「(国立新美術館に)いっしょにルーブル美術館展観に行きませんか?」
って誘われたんだ。
フェルメールの有名な絵がきてるとかで。
おい、女、こないだ印象派が好きとか言ってたじゃないか。
なんで今更フェルメールなんだよ。
iPhone6ユーザーが今更ブラックベリーみにいくようなもんじゃん。
と言いたかったが抑えた。
それから、浮世絵の摺りの実演会と、CLAMPの原画展が隣接して催されていて、CLAMPの原画展のほうに行きたいとかいう女もいた。
目、大丈夫か?
と思ったんだが、その時も抑えた。
どうしてみんなわかんないの?
では、無宗教なあなたにオススメしたいのだが、浮世絵をみたらどうだろう。
まず、復刻版を数枚買え。復刻版で十分だ。いや、むしろ復刻版のほうがいい。美術館にある江戸時代のものは色は褪せてるし紙は黄ばんでしまっているから。
なんという、なんという躍動感。
なんでも、例のあの富士山をバックに巨大な波の絵、神奈川沖浪裏ってんだけど、あの水しぶきは1/5000秒のシャッタースピードで撮った写真と酷似らしい。
そうだよな、たしかにHD画質をよいしょしてた頃の、スローで水泳を写したりする映像が流れまくってたけど、あんな感じだよな。
どんな絵より、躍動感があるんだよ。
ドガのエトワールなんかより、北斎漫画の雀おどりのほうが躍動してる!
あんな線描なのに!!陰影もつけてなければパースも狂ってるに!信じられない!
もう、描いて描いて描きまくって辿り着いた境地なんだろうな。
富嶽百景っていう絵本、本編よりあとがきが有名なんだけど、「110歳までの絵を上達してみせる」っていう人生設計を宣言してる凄まじさ。
実際、90歳まで長生きしてたのに、その臨終の際の言葉も、「あと10年、せめて5年、」っていうまだ描き足りないという未練を残してるそうな。
そういう人格面は話が逸れるからさておき、画家はここまで、こんなにまで時間を切り取れるのかと。
一瞬を永遠にすることができるのかと。
カメラというものを知ってる僕らには、驚きは薄いのかもしれない。
はっきり言って、当時の人たちからしたらとんでもないよ。
プロゴルファー猿でショットの時の効果音が「ギャンギャンギャン」だったり、ジョジョでキスの時の効果音が「ズキューン」だけど、北斎を見た時の効果音ときたら、そんな幹事だよ。
で、広重もすげぇ。
北斎より後の時代の人だけど、北斎が長生きで現役時代が異常に長かったから、活躍してる時期はけっこうかぶってるんだけどね、これまた凄い。
絵の中で時間が流れてるの。
数々の発明を残してるんだけど、一番わかりやすい例だと、雨を線で描くっていう発明かな。
雨が線だよ?当たり前のようだけど、逆だろ?
絵がその瞬間を時間を止めて描くものだったら、雨は空中に浮かぶ粒でしかない。それが線!
1/5000秒のシャッタースピードの逆、露光時間を長くしてる!
なんなの?北斎という天才の仕事を全否定して、新しいワザを繰り出す。
色彩といい、視覚効果といい、もう語り尽くせないほどの発明をしちゃってるわけ。
来る日も来る日も描いて描いて描いて描いて、それこそ花が咲く瞬間から虫、天候に至るまで、ただただ描く。
なんのために?芸術のために?いや違う、芸術とは、もっと個人主義的でワガママなものだ。
自らの心の内から溢れ出るものであり、自己表現であり、俺が一番と叫ぶものだ。
だって、浮世絵は絵師と彫師と摺師と、言うなら版元と共同作業なんだ!
絵師の下絵は、版木に貼り付けられ、その線をなぞり彫られてしまう。紙くずとなり、版木からでた木くずとともにこの世から消えてしまう!
そんな下賎な商業印刷が、芸術としても芸術の分野で第一線の作品の遥か上のレベルなのはなぜか?
いや、商業印刷だからこそ、私の表現のための絵ではなく、絵のために自らを捧げるという境地に辿り着いたがため、そうなったんじゃないかと思う。
浮世絵師は、いや、彫師は、摺師は、版元は、売れるだけ摺った!売った!
即ち、それが世界に美しいものを広めること、ひいては美しいものであふれた世界になることを知っているから!
海を超え、時代を超え、人々を感動させている。
宗教だ!
もう一度浮世絵を見てみよう。
描かれているのは、喜びや楽しみだけではない。憂いや悲しみも描かれている。しかし、見た人が自分なんか死んだほうがいいと思わせるものはあろうか?
ない。
武士、すなわち役人も、飛脚や輿を担ぐ労働者も、老人も子供も、体を金で売る遊女でさえも描く、根底にあるのは人間賛歌!
人間だけではない!虫けらや一本の雑草に至るまで、生きとし生ける物への賛歌!
帰依しよう。
ドラ◯もんの映画といい、サザ◯さんのOPといい、なぜわざわざ3D化させるのか、以前から少しばかり(いや、かなり)イラっとしている。
2Dの美的センスに優れていることが世界に誇るべき日本の特徴だったように思うのは私だけだろうか…
無駄を省いたシンプルな線と色になったのに、なぜ逆行するんだ、、、、
これはもう江戸時代から(それ以前から?)日本人の中に組み込まれている美なんじゃないかと思う。
俵屋宗達とかすごい。美しい。
なんかもう、とても解せないのだ、この風潮。
3Dにするメリットって何なの?技術力をアピールしたいだけなの?
やたらリアルを求めているわりに、小・中学生の画力は下がる一方。
http://anond.hatelabo.jp/20141117014426
思ったよりもブックマークがついた。
しかし、ブコメをみる限り、ぜんぜん伝わってないことが哀しい。
生で見ればわかる。
博物館じゃなくて、刷りたてをみればだ!!
いや、説得力がないのはわかる。
入信してみればわかる、南無妙法蓮華経と繰り返してみればわかる、ってのと同じだもんな。
で、絵について昔から納得がいかなかったことがいくつかある。
ピカソって下手だろ。
正直なところ、どの辺の時代が一番上手いかっていったら、レンブラントとか、あのへんじゃね?
って思ってた。
どうして、昔のほうが優れてるんだよ?絵だって進化しなくちゃおかしいだろ?
って思ってた。
こんなの(レンブラント)とhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3#mediaviewer/File:Self-portrait_at_34_by_Rembrandt_(rectangular_detail).jpg
こんなの(ゴッホ)
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/h-inb1/h-pim/h-goh/h-goh2.jpg
こんなの(ピカソ)
http://livedoor.blogimg.jp/strange_emily/imgs/1/2/1222bd6f.jpg
で、どれが一番絵が上手いかっていったら、レンブラントだろ?
ぜったいおかしい。
と。
油絵のなにが凄いって、塗れることだと思う。
塗った上に、さらに色を重ねられる。
もうね、物理的に上に重ねていくことができるから、どんな質感もだせるわけじゃん。
筆跡一つなくつるつるの面もつくれるし、壁のでこぼこなんて、本当にデコボコにできる。
畳に人形が立っている絵だったんだけど、バックの畳が、まるで本物のようでさ、つい目を近づけたら、本当に絵の具が畳のデコボコを作ってたの。
「うへー」
って思ったよ。
化粧みたいなものなんじゃないかな。
どんなに荒れた肌だって、丁寧にファンデーションを重ねれば、滑らかにできる。上に上に重ねて、ハイライトを入れて、陰影をつけて、立体感をだせる。
それが油絵。
で、浮世絵をみて気付いたんだけど、そのやりかたって限界があったんだ。
色を上に上に重ねる先には、明暗をつける先には、なにもなくなる。
もう少し説明すると、対象物を立体たらしめるためには、遠近法と明暗だろ?
明暗でいうと、奥のものは暗く、手前の物は明るく、そうすることで対象物が飛び出してくる、そういう寸法。
たとえば、白い服で白い壁に立った人を描く場合、どうやって人と壁を隔てればいい?
壁を実際より黒くかき、人の服をより白くかき、境界を作るっていう方法しかない。
どんどん先鋭化していくと、背景は黒に沈み、対象物以外はなくなってしまう。
比較対象を置かなければいけなく、比較対象は黒く沈んでいかなければならないが、黒に沈むと比較対象が消滅していく。
というか、そもそもモノそのものを正確に写すなら、写真のほうが優れてるしな。
ハッハーw
「塗り」の発達する余地がなかった中国画、日本がでは、その問題とは無縁だった。
線が絵になる。輪郭が形を作る。
輪郭を強調することは、恥じゃない。
写実性を求めて、輪郭を排して塗りの技法を発展させたからこそ、絵の発達は袋小路だったわけだ。
なんのことはない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%9B%E3%82%92%E5%90%B9%E3%81%8F%E5%B0%91%E5%B9%B4#mediaviewer/File:Manet,_Edouard_-_Young_Flautist,_or_The_Fifer,_1866_(2).jpg
こうなる。マネの笛を吹く少年。
なにもない部屋の中でも、空気のなかでも人物は浮かび上がる。
改めて考える。
本当に背景は暗くなければいけないのか?
明暗のグラデーションではなくて、反対色で境界面つくったらどうなるのだろう?例えば、大地は緑に、空は赤くと言った具合に。
色の境界面で区別して、遠近法だけでレイヤーを重ねたらどうなるのか?
こうなる。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige160/
になるだろゼッタイ。
油絵と違って重ねることができないからさ、1トーンのグラデーションと、色を近くに並べることでしか中間色の表現ができなかったからなんだと思うんだけど。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai049/hokusai049_main.jpg
富士山の山肌が、近くで見れば明らかに点描のようなんだけど、明暗をつけていないのに立体的であるような、山であるのに躍動感さえ醸しだす不思議な感じ。
人間の視覚の仕組み上、例えば赤と緑みたいな反対色をちょとだけ隙間をあけて並べると、赤のフチに緑のラインがみえてきて、緑のフチに赤のラインが見えて、赤と緑の間の空間に赤でも緑でもない、灰色のような色が浮かんでくる。
筆のタッチは荒くても、強い色を同士を近くに並べる。そうして出来上がるのが
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/h-inb1/h-pim/h-goh/h-goh2.jpg
そう、ゴッホに戻る。
明るい光のなかで活き活きとし、明るい光のなかで人物の影は消え去る。
これはマネ。
浮世絵のような明るい色彩。
影もない。
明るさといえば、雪あかりの表現について語りたいんだが、今日はまとまらなそうなので割愛。
輪郭線、点描、1トーングラデーション、効果線、etc....現代の漫画の表現にすごくすごく似てると思う。
そう。
恐竜と鳥、くらいに近いことは間違いない。
縦長の絵で鯉が泳いでいたら、鯉の進行方向は下から上、という感じで。
絵の上下にかかる雲などは、今ではもうお約束として生きていないものもある。
しかし、多くは生きている。
たとえば、一枚絵でスピード感がある移動を描くとき、こういう配置をする。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai037/
真っ直ぐ進行させず、弧を描くように進行させる。
http://stat.ameba.jp/user_images/20110923/02/good-luck-heiwa/36/f4/j/o0296021811501145041.jpg
浮世絵の時代に発明されたお約束、動きのお約束であったり、デフォルメのお約束だったり、効果線のお約束であったり、それらが今の漫画の基礎になってる。
と、僕は感じた。
というかそもそも、浮世絵って漫画の一コマみたいなのばかりだ。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kunimasa005/
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi027/
ここまで書いてこういうのもなんだが、生で見ないとよさがわからん。
騙されたと思って、是非、是非!
みてるとですね、もうね、鑑賞する側の好奇心を、ドキドキを満たすためだけに制作されてる感じがするのですよ。
当時、ずいぶん安かったんだと聞きます。
今でも、手作業で大変とはいえ、けっこう安い。
だから、なんとか、もっと人気が出て、手作業とはいえもう少し大量生産するようになれば、単価も安くなるじゃないですか。
世の中に浮世絵が溢れることは、すなわち人類の幸福だと思うのです。
書ききれないので今日はここまで
ちなみに、LIFE誌が選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で唯一日本人で名前が出たのは葛飾北斎だそうです。
徳川家康も坂本龍馬も松下幸之助もAKBも吉田茂もおさえて、葛飾北斎です。
つまり、生で見れば誰でもわかるんです。
凄さが。
音楽に感動したことはない。
「音楽のチカラでパレスチナ問題を解決してみろ」と言い返してしまう。
絵も理解できない。
絵の解説を読んで、作品の背景に感動させられるだけで、絵からなにか伝わったかというと、ふーんっていう感じだ。
あれは凄い。
本当に凄い。
なにか伝わってくるとかそういうのじゃない。視覚イメージからね、殴りかかってくる。
きっかけはというと、摺りたてをみたわけだ。
浮世絵というのは、基本水彩で、そもそも水彩の鮮やかさというのはブラウン管や液晶では今ひとつ再現できないというのと、そもそも日焼けに弱い染料なので、当時の色と全然違うわけ。
で、とにかく凄いんだけど、一ヶ月くらいなにが凄いのか、自分でも整理できなかった。
ようやく整理できたので、とにかく語りたい。
と、思ってたよ。僕も。
すごいの。ニンテンドー3DSの裸眼立体視は浮世絵から開発したんじゃね?ってくらいに。
ていうかね、もう物理的に立体的なの。
いろんな工夫があるんだけど、わかりやすいところから説明すると、そもそも紙が凹凸で立体的なわけ。
たとえば、このトンボの羽、スジスジがボコボコ盛り上がってたりするの。画面じゃぜんぜんわかんないけど。
http://item.rakuten.co.jp/adachi-hanga/hokusai120-f/
これも画面じゃぜんぜんわかんないんだけど、指で首筋を撫でた跡がさ、紙の凹凸で表現しちゃってるわけ。
http://item.rakuten.co.jp/adachi-hanga/utamaro067/
もう艶かしくて艶かしくて。
生でみないとわからないんだけど、ニンテンドー3DSのアレに近い印象がある。
平面的な絵がレイヤーされていて、レイヤー間に明確な前後関係があるような感じ。
露骨なので言うとこんなやつ
http://item.rakuten.co.jp/adachi-hanga/hiroshige160-f/
それから、こういうの
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige182/
子供の頃、校庭のフェンスの金網越しに風景をみてたら、とつぜん立体視になってビックリしたこととかってないかな?
あれだよあの感じ。
格子をみて、その向こうをみて、それを繰り返すと、うわぁぁぁ!ってなる。
それから、この構図をわざと切ってるところ。
さっきの梅の絵のほうは、左側に立て札がちょっとだけ入っているけどほとんどフレームアウトしてて、遊女の部屋の絵は襖ちらっと見えてる。
このフレームアウトが、絵じゃなくて、まるでどこかから自分が覗きこんでるような錯覚に陥らせるんだな。
この感覚は漫画に親しんでる日本人特有のものなのかもしれない。
漫画だと、こういう演出は暗黙のうちに物陰から覗きこんでるというお約束だろ?
不思議なことに、日頃浮世絵に親しんでいないせいか、生でみるまでこういうお約束がつたわってこなかったんだが、随所に漫画的な表現が伝わってくる。
”力みなぎる感じ"やら、”物陰から覗いている感じ”
浮世絵に影はないっていわれるけど、あるのもあるし、ないのもある。
浮世絵で影を使うのは、影があるから影を描いているんじゃなくて、影の効果が必要だから影が描かれる。
たとえばこんな感じ
http://item.rakuten.co.jp/adachi-hanga/kuniyoshi004/
明るい月夜を表すために、現実ではありえないほどくっきりと影がかかれてる。
http://item.rakuten.co.jp/adachi-hanga/hiroshige308/
同じく月に照らされた人影。月は高く登っているのに、影はのびている。
エヴァンゲリオンで飛行機から発進したエヴァが地上についた時に、砂埃が進行方向ではなくて、後方にのびていたシーンがある。
あれと一緒。
物理的には間違っていてもイメージとしては正しい。それが浮世絵の表現。
写実的に書くなら、写真のように陰影の表現で塊を描くのが正しいけど、あえて輪郭線を使う。
イメージの中では、人物と風景の間には境界があるから、輪郭線があるのがイメージとしては正しい。
逆に、意識の外のものについては、明らかに見えるはずであっても輪郭を描かずにシルエットだけにする。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige024/
絵というのは自分が感じたことだけで語るべきな気がするので
「当時の人は」という視点は間違ってるのかもしれない。
でも、考えてみる。
当時は当然テレビなんかなかった。
たとえば構図上から街並みを俯瞰するような構図というのは、見たことがなかったはずなのだ。
で、なんでこんな構図がおもいつくのさ。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai029/
http://hiroshige100.blog91.fc2.com/blog-entry-47.html
ただ道が曲がりくねってるだけでこんなにもストーリー性がでてくるのかと。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige027/
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai040/
浮世絵以前の絵って、西洋も東洋もこんなに構図が豊かじゃなかった。
現代の写真、漫画、映画の構図の元ネタが、だいたいがこの時代なんじゃないかっておもえるほど。
これについては、繰り返しになっちゃうけど、ほんと日本人派手好きすぎ。
http://item.rakuten.co.jp/adachi-hanga/hiroshige160/
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai049/
これ、もはやルノワールじゃね?
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai_sakurafuji/
その点、浮世絵は超安い。
1万3000円とかで買える。
ただ、難点は、アクリル板越しでさえぜんぜん凄さが伝わらない。
生で、そのまま見ないと。
紫外線ですぐ色褪せるけど。
もう一回買えばいいのだ!
はてなブックマーク - 『江戸しぐさの正体』重版に寄せて—— 一枚の写真から感じる日本の義務教育の「危うさ」 | 最前線 - フィクション・コミック・Webエンターテイメント
些細な問題なんだけど、はてなーがまるっきりスルーしてしまうのもどうかと思った。
試し読みhttp://ji-sedai.jp/book/publication/works/edo_02.pdf
ここのP42、「傘かしげ」に関する批判の根拠として、色々気になる箇所がある。
まず、名所江戸百景を例に挙げ「雨の中、蓑傘を着た人に混ざって(略)しばしば傘をすぼめるようにして持っている。」
このあたりで引っかかったので、ちゃんと調べて見る必要があると思ってまあググった。
なんで引っかかったというと、広重の名所江戸百景のすぼめた傘の話に【大はしあたけの夕立】がまず思い出され、
いやそれは雨や風の激しさを表現する情景描写の手法というのが一般的な認識じゃないかとモヤモヤしたからだ。
その後すぐに検証しなかったのはホッテントリを消費するブックマーカーの性である。
さてそういう訳で、和傘に関する認識が、確認のためにぐぐってみればみるほど、ちょっとおかしいなと感じてしまう。
「そして、和傘はスプリングが入った洋傘に比べ、すぼめたまま手で固定するのが楽な構造になっているのだ」
雨のしみこんだ重い和傘(番傘)を、ずっとすぼめて手で支えるというのは重くないか?おまけに両手を常にふさいでしまう。
和傘は広げて固定して肩で支えるように使うもの、というのがしっくりくるんじゃないだろうか。
また日傘やにわか雨用途と思われる、蛇の目傘は二段階に固定できる構造で、やや綴じ気味にして差せる事も無視してないか。
思うに、洋傘=スプリングという認識から、和傘と洋傘の違いを、ジャンプ傘の発明と混同してるんじゃないかなあという疑いを持った。
もう一つ、すれ違いに関する記述も気になった。
和傘は雨で濡れる和紙であり、傘同士が触れ合うとお互いの骨で簡単に破れてしまう欠点も無視している。
いやこれ、批判対象として引用分中で「...とともに、ぶつかって傘を破らないようにする実利的な意味も含んでいた」とエクスキューズしているんだけども。
「さらに、江戸の路地で「傘かしげ」を行うには別の問題もある...」
ある種の復古文化に対して「古い」と批評するのがよく分からん。
「萌え」は新しい文化だと思われてるけど、望遠・輪郭強調や特徴を極端に描く傾向は浮世絵の時代から見られるし、用語自体が古典文学から拝借したもの。
あと、日本版メイドの前身である「ゴスロリ」の起源は萌えとは全く別で、V系のファンが文明開化期の西洋趣味を現代解釈しただけ。
ゴスロリの普及版が「メイド」だけどほとんど誤解の連鎖みたいなもん。
そのV系の起源の一つが日本の歌舞伎を真似したアメリカのバンドだったりする訳で、大きい流れの中では何が革新でオリジナルかというのは指摘し辛い。
情報が分散しすぎていて、初心者というか日教組や朝日新聞などに洗脳された人でも分かりやすく説明するサイトが必要かと思います。
ゲームの攻略ページみたいに分かりやすくして、一番最初にスイス政府の「民間防衛」を掲載。
・自衛隊の土地の近くに中国人が土地を買ったことなどの防衛情報
・大学の奨学金が日本人より中韓の留学生が優遇・公務員試験での試験免除であったりの日本人差別など
・Lineというアプリが韓国企業のアプリであり、国家情報院が傍受しているという現状
・官邸の前で反原発デモや反集団的自衛権デモが起きているが、なぜか看板が中国語や朝鮮語が書いてあったり、なぜか暴力団員が混じっていたり、なぜかNHKなど報道機関は報じなかったり
・【移民問題】出入国管理制度の問題http://hosyusokuhou.jp/archives/38564701.html
■次に
・日本が中国に滅ぼされて「日本っていう良い国があったね」と言われればいい、などと嘯くやくみつるなどの白痴コメンテーター
・福沢諭吉が脱亜論で朝鮮人はキチガイだと言っていた過去の人物の言葉、反韓の武田鉄矢、えなりかずき、安住アナ
・従軍慰安婦などという嘘の情報で、アメリカの日系人がいじめられているなどの情報
・九割文字を読めなかった国民を、ほとんど文字を読めるようにし、水道作り、学校つくり、寿命を二倍に増やし、近代化してたのに、日本は韓国を破壊略奪したと言われる現実との矛盾、ロシア人でさえ知っていることが本人が知らない
・神社の仏像などが盗まれ、中国や韓国のオークションで売られているという文化破壊されている現状
・大阪市には、201名の外国籍職員(韓国187名、朝鮮10名、中国3名、英国1名)が在籍しているなどの内部からの腐敗
・大阪の公立学校には1300人の在日教師がいることによる極左教育、反日教育
・公務員改正法を強行採決し、事務次官の国籍不問にした民主党。日本を壊す民主党
・在日特権、例えば三重県では在日朝鮮人は住民税半額など様々な特権があること
これだけ挙げてみたが正直キリがない。
以下、蛇足
少子化問題、捕鯨や神社など文化を守ること、世代間格差、などなどたくさんある。
個人的に
・武道や剣術が外国人に継承されている問題(悪くはないが、日本で全く継承されないのは、柔道や浮世絵などの例からまずい)
・大人向けの文化の無さ
・アメリカのようにゲーム(テレビゲーム、チェス、将棋)などを学問として体系化し、進化させる
など!!
ああ、それも書こうと思ってたのよ。オナニーの件も。そこも(例外)にちゃんと含んでて、それでもなお満たされてないんだという。
でもなんでこれを、含まれてて当然のものを説明しなきゃならないんだという気持ちでいっぱいだ。
単純に言って、過去の時代のある段階で性的に満たされてしまっていたのであれば、それ以上性産業を発展させる必要はないってこと。
オナニーの材料が想像→浮世絵とか(これも普及率低いから考慮に入れる必要はないが)→写真によるエロ(これも普及率低いから)→大量生産と流通革命による安価(ここから普及開始)→エロ動画初期→エロ動画高画質化
というよう流れは、想像オナニーで人間がまったくそれ以上を必要としないなら、必要のない流れであったはずなんだよね。
例えば昔、「ブルーフィルム」というのがあって、それの存在を知ったサラリーマンがひたすら悶々とするという話が藤子不二雄Aのむかーしのマンガにあってだな、実はそれはある世代以上の人にはそれなりの共感性があるんだが、この感覚を後の世代に伝えるのはおそらく難しい。むしろ逆にその「ブルーフィルム」あったという事実が、「みんなブルーフィルムを日常的に愛用していた」というような誤解に持っていかれる可能性すらある。昔のことを伝えるのは難しいな。