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はてなキーワード: 権力関係とは

2017-09-11

https://anond.hatelabo.jp/20170909170205

権力関係を利用したことが規制根拠ではなく、類型的に判断能力が未成熟な年少者であることや、困惑させ又は困惑に乗じて性交させることが規制根拠なのでは。

2017-08-22

https://anond.hatelabo.jp/20170822205005

法律という概念がなかった江戸時代にも奉行所はあって治安を守っていたわけですが。

警察法律上必要から存在しているんじゃなくて、治安必要から存在しているんですよ。

警察国家法治国家の対語として用いられ、内容的に不確定な「警察権(ius politiae)」に基礎をおいた行政執行が、合目的性には従うものの格別法的な形式や法的原則に服していなかったことに特徴がある。国家統治するための高権と人民との間には事実的な権力関係存在し、司法行政名目上の区別にもかかわらず法学上の根拠をもたないため行政法行政法学ではなく、法学上の分野としては成立しえない「警察学」により統治される。19世紀の中葉にはドイツ社会政治理念憲法構造革命により警察行政法に、警察学は行政法学にとって換わられた[2]。警察権の行使については警察公共原則警察責任原則警察比例の原則警察消極の原則の4原則があるとされる[3]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E5%AF%9F#.E8.AD.A6.E5.AF.9F.E6.A8.A9

2017-01-25

何で低身長はすぐに鬱病高身長を見下し差別するんだろう…

もう外になんか出たくない…

鬱病高身長に向かって「デカい」って声かけするのは

黒人に向かって「黒い!」って声かけするのと同じって気づかないのか?

ヘイトスピーチだよ

身長を見かけたら変質者だと思うことにしてる

いちいちデカいとか声かけしてくる変態ものすごく怖いから消えて欲しい

高身長に向かってデカいって声かけするのはレイプと同じだよ

僕は低身長チビなんて言わないけど低身長は僕に向かってデカいとか声かけしてくる

この非対称な権力関係

チビ人間しか使わない言葉だがデカいは粗大ゴミにも使う言葉

言い返したとしても低身長には勝てない

身長170以下の連中はネオナチKKKに近い

もう低身長相手にビクビクして生きていくのは嫌だ

身長ってだけで高身長を怖がらせているって自覚して欲しい

レーニンスターリンフランコ将軍など独裁者はみんな低身長

田母神テキサス親父など極右も低身長

山口組の司忍や関東連合リーダーも低身長

アルバートフィッシュチャールズマンソンなどの海外殺人鬼も低身長

宮崎勤佐川一政高山政樹や加藤智大などの日本殺人鬼なども低身長

漫画とかでもフリーザなど冷酷な強者は低身長

絶対

170cm以下の低身長と180cm以上の高身長犯罪率を比較したら前者の方が多いと思う

高身長弱者

身長強者

って正しい認識を広める必要があると思う

2016-11-08

マンスプレイニングって、対女にかぎらないよね?

元ネタマンスプレイニング | 八王子市議会議員 佐藤あずさのホームページ

はてなでは青二才粘着君がいい例じゃん。

見せかけの善意、誠実さでカモフラージュして「わかってるオレ」が「わかってないオマエ」に教えてあげているという権力関係を盾に自分理想通りに相手コントロールしようとする現象なのであって、女だからかどうかはあまり関係無いと思う。

はてなでよくある地獄は、「わかってるオレ」が「わかってないオマエ」に教えてあげているというスタンスブロガーが「わかってるオレ」が「わかってないオマエ」に教えてあげているというスタンスブクマカと殴り合うパターン

2016-07-09

無知の知

自分無知であることを自覚することは、物事客観的に捉える上で非常に重要なことである

例えば、とある出来事に対して説明する時、文章説明する場合には焦点を1つに絞って説明する。

それが殺人事件であるならば、死因、動機犯行日時、被害者との関係共犯の有無、家族関係財産関係権力関係犯人性格、生い立ちなど。

挙げればキリがない。

すべてを詳細に説明するのは難しいので、説明を受ける側に入ってくるのはその特異性と、切り取った者の主観が入る。

説明を受けた者が得るのはそれが全てなのだ

にもかかわらず、それで知った気になってしま人間がいる。

あの事件はこうだったから、俺が考えるには○○が原因だ。など、誤差に誤差を重ねて事実との乖離が進む。

噂話の類も同様のブレが発生する。

人々は、まるである要因を独立したものとしてとらえ、要因と要因の相互作用無視しがちだ。

から特定の要因にのフォーカスされた説明というのは、その点でも大きな誤差を生んでしまう。

街の居酒屋でろくに勉強もしていない中年日本酒を片手に全てを判ったように政治や世の中を語っている。

彼らはこの切り取られ方による誤差を理解しているのだろうか。

自分が何を知らないのかを知っているのだろうか。

甚だ疑問である

2016-05-19

ズートピア』が描くグロテスクな"多様性"

 『ズートピア』はオーウェル小説動物農場』のディズニー流のアップデートである舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間ほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。

 しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定ディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会酷似した)社会形態のを、グロテスクものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。

 「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。

 『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり権力立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠権力側の良いように用いることそのもの社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代イデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要はいったいどういう形のものなのか。

 まず、そもそものズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前一種ミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想のものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力象徴として現れる警察だって最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきもの還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。

 オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品ハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザインマジョリティマイノリティ形成マクロでいうところの都市デザインミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見しかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャル性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか

 だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニー子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのフォーカスをあてようとするのは、作品もつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品からしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである

 これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除忘却に支えられたグロテスク世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動欺瞞http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学根本を辿れば、動物植物をあしらった、古代ローマ美術様式の一つであるグロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウント形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つのグロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女暴行を働いたキツネギデオンウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。

 「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日アメリカ象徴し、公的権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在アメリカをはじめとする先進諸国社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビア女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスターガゼルモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまりガゼルトランスジェンダーポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。

2015-11-28

くだらねえええええええ

知識も技能もいらない肉体労働一本勝負の糞底辺職でも

ちょっと動きが速いとか遅いとか手先が器用だとか不器用だとかで格差が生じ

それによって身分が分かれて権力関係が発生する

たから見れば大して違いの無い同じ穴の狢なんだが

人達は大真面目にその状況にハマッて権力闘争を繰り広げている

実に下らない

2015-11-09

サウスパーク腐女子回について

サウスパークS19E06、遅ればせながら見ましたが、やっぱ腐女子というか、百合厨もだが、カプ厨が持ってる気持ち悪さってあるよね。

とりあえず、ポリチカルコレクトネスを気にするあまり「俺ゲイに寛大だわアピールゲームが行われている昨今、ゲイは過剰にサポートされちゃう、というのが話の本筋だと思うのですが……

カートマンの妖精が再登場している、という点にも注目するべきだと思うんです。

妖精の初登場はS16E07ですが、このエピソードカートマンは

「あのカップリングってマジいいよね~~~完璧だわ」と腐女子あるいは百合さながらの発言をしております

この発言は、トークンとニコールという黒人カップルに向けられたもので、明確な差別主義発言ですよね。私も不快感を覚えましたし、カイルたちからドン引きされています

しかし、ここでのカートマンの気持ち悪さって、人種差別から来ているだけではない、とも思うんですよね。

自分関係性は棚にあげて」「他人関係性に対して妄想を展開して、くっつける」っていうのは、普遍的気持ち悪さを持っている。という議論結構されてますが、S19E06もこの筋の話として見れないこともないんじゃないかと。

「次分の関係性は棚にあげて」、におけるポイントは、自分ノーマルさは担保されているということです。すなわち白人カートマン)だから黒人トークン)やヒスパニックカップルを「消費」できるわけで、同様にガチガチ異性愛者だから同性愛も消費できるわけです。

ここでは白人有色人種、あるいは異性愛同性愛という権力関係担保されていない限り、すなわち自分が相手とは違う高位の地平にいるのだという差別意識がない限り、どんな快感も生まれない。

今回腐女子サウスパークの住人は、妖精と同じような役割を担う存在として描かれました。すなわち、本人たちがその気も無いのに「あのカップリング最高!」と言って、そして「ゲイなのが俺じゃなくてよかった~~(権力関係の発露!)」とこぼしながら強制的カップルをつくりあげるエートスは、人種差別主義者が「黒人同士くっつけばいいよね~~」と口走るエートスとそれほど変わりは無い。差別主義カートマンの行ったのあのきわめて不愉快な「カップリング活動」が、今回腐女子を通して再演されているのは興味深いことです。

次は「他人関係性に対して妄想を展開して、くっつける」というポイントですが、これは明確に父権権力行使に結びついた快感なんですよね。基本的自由恋愛って、「くっつけ!」っていう力に対する反逆行為だと思うんです。例えば親の決めた結婚相手とか、同じ階級結婚相手とか、あるいは同じ人種結婚相手、そういう存在とくっつけ!と強要してくる諸力に対して、断固たるNOを突き付け、「俺はあの子が好きなんだ!」を貫く。これが近代的な意味での自由恋愛だし、そういうのを描くからこそ広義の恋愛文学にはパワーというか新しさがある。これに対して、自分の思い通りの相手と「くっつけ」たがる存在というのは、もうこれはコテコテ父権なんですよね。カップリングワールドを作り上げる快感は、家長自分の血族を計画的婚姻させていく快楽と同根だと思う。普通教育を受けて育った人なら、やっぱりこういう父権的なものって気持ち悪いと思うんじゃないでしょうか。

結論カップリング厨ってたまたま同性カップルを扱ってるから、昨今の寛容ムーブメントにがっつり乗れてる感ありますけど、その根底にある思想はきわめて保守的復古的なものなのではないか。すなわちカプ厨の根底には、差別主義父権主義があり、とてもじゃないがリベラルプログレッシブポリチカルコレクトネス民を名乗れないのではないか、と思う。思った。

2015-06-16

(三) そこでまず、学説を通覧するに、

(1) 正田彬著官公労法二〇頁によれば、「官公庁建物を作つたり、官公庁

器物を買入れたりする時は、やはり官公庁は一応対等な立場商人と取引する。と

ころが官公庁労働者を買入れる時だけは任命とか任用とかいつて一方的行為

あつて、売り手は承諾するだけ-それも承諾しなかつたら失業から事実上強制

ということになる-というような考え方がそもそもおかしいのではないだろうか。

やはり官公庁労働関係労使関係契約関係だという原則すなわち労働力の売買

取引だという原則にしたがつて考えられることが必要であろう。」というのであ

り、

(2) 労働法一一号一六七頁林氏論稿「公労法上の団結権団体交渉権について」

によれば、「郵政林野等の五現業政府機関でも同様であつて、経済的活動を行

うにとどまりその事業性格公共的なものとは認められないからその労働関係

ついてもたかだか強化された私法関係のものと解される。」というのであり、

(3) 松岡三郎・大野正雄・内藤功共著条解公労法・地公労法(三八八頁~三九

〇頁)によれば「公労法は争議権制限をしているが、労組法・労調法と同じく労

使対等の原則、私的自治の原則によつて貫らぬかれているのであつて、その間これ

公法権力関係とみる何らの規定もない」とされている。

 右論稿部分は、公共企業体従業員労働関係が私法関係であることを強調する

諭調となつており、その公労法の対等原則、私的自治を根拠とする理論を貫らぬけ

ば、公労法の適用をうける現業公務員もまた公共企業体従業員と同じ結論に達す

る筋合である

 また、地方公営企業労働関係適用下の地方公務員に関する昭和四〇年一二月二

日東地方裁判所判決めぐり労働法律旬報社が実施した各学者に対するアンケ

ートは、回答者一一名中一〇名までが右公務員労働関係は私法関係と解すべきで

ある旨回答しており(疎甲第一四号証)、明治大学教授松岡三郎氏も同旨の見解

ある(疎甲第一五号証)。

 なお地方公務員法で「免職」と規定している(同法第二八条、第二九条等)に対

地方公営企業労働関係法で争議行為違反に対して「解雇」と規定している(同法

一二条)点を指摘している学者があるが、このことは国家公務員場合も全く同

現象がみられるのであつて、一般の国家公務員場合は「免職」と規定している

国家公務員法第七五条、第七八条、第八二条等)に対し、公労法適用下の国家

務員が争議行為をした場合については同法第一八条で「解雇」と規定している(国

公務員法第一八条)のである

(四) 次に我が国裁判例をみるに、次に挙げるものはいずれも、労使対等原理

私的自治の原理に立つて立論している。

(1) 国鉄職員に関するものとして、東京地方裁判所昭和三八年一一月二九日判

決(判例時報三六四号一四頁)

(2) 専売職員に関するものとして、広島地方裁判所昭和三八年五月七曰判決

(別冊労働法律旬報四九〇号一四頁)

(3) 公立学校教諭退職処分無効を前提とする公法上の給与支払請求を本案

とする仮処分を認めたものとして、松山地方裁判所昭和三四年一一月二〇日判決

判例タイムズ九九号一〇〇頁)

(4) 国鉄職員に関するものとして、

(イ) 東京地方裁判所昭和二四年八月八日判決

労働関係民事々件裁判例集七号八六頁)

(ロ) 東京地方裁判所昭和二四年一〇月一〇日決定

労働関係民事々件裁判例集七号一〇九頁)

(ハ) 福岡地方裁判所昭和二五年三月一七日決定

労働関係民事々件裁判例集七号一二二頁)

(ニ) 東京地方裁判所昭和二五年二月二五日判決

労働関係民事々件裁判例集七号一六〇頁)

(ホ) 大阪地方裁判所昭和二五年五月一一日判決

労働関係民事々件裁判例集七号一四一頁)大阪高等裁判所同年八月一二判決

労働関係民事判例集一巻五号九三二頁)

(ヘ) 大阪地方裁判所昭和二六年一〇月一〇日判決

労働関係民事判例集二巻四号五一八頁)大阪高等裁判所昭和二八年一月一三曰判

決(労働関係民事判例集四巻一号四〇頁)

 ことに、前記アンケート対象となつた東京地方裁判所昭和四〇年一二日二七日

判決は、「地方公営企業の職員の勤務関係は私法的規律に服する契約関係とみるの

が相当であり、本件解雇行政処分であるとすることはできない。」と判示してい

るのであつて、地方公営企業体労慟関係適用下の地方公務員と公労法適用下の国

公務員とは、地方公務員法国家公務員法関係において、理論上および実定法

体系上全く相照応するものであり、右東京地方裁判所判決論理は、そのまゝ本件

にあてはまるものである

(五) 立法経過の概観

(1) 昭和二二年の国家公務員法制定により、従前官吏の勤務について認められ

ていた無定量の勤務の観念否定され、公務員の勤務関係契約関係とみるのが適

当とされるようになつた。

 そして公務員にも団体交渉権、協約締結権が認められ、当時現業公務員特別職

とされていた。

 ところが昭和二三年の法改正により一般職に移され団体協約の締結が禁止される

に至り、一方国鉄、専売事業公職から除外し公共企業体労働関係法の適用をうけ

ることとなつた。

 その後昭和二七年八月一日公共企業体労働関係法として改正施行され、いわゆ

る五現業もまた、この法律適用をうけることとなり、再び団体交渉権、協約締結

権を取得した。

 右法改正労働関係調整法等の一部を改正する法律案)の提案理由中で政府

公務員のうちでも郵政その他の現業公務員につきましてはその業務の性格実態

が一般行政事務とは著るしく相違し、むしろ国鉄等の公共企業体に近い点もありま

すので云々」と説明しているのである

 昭和二九年には五現業公務員につき給与に関する国家公務員法規定適用除外

を認めた「国の経営する企業に勤務する職員の給与等に関する特例法(昭和二九年

法律一四一号)」の制定により国家公務員法第一八条、第二八条、第二九条ないし

第三二条、第六二条ないし第七〇条、第七五条二項、第一〇六条一般職の職員の

給与に関する法律国家公務員職階制に関する法律昭和二五年法律一八〇号)

規定は除外されるに至つている。

(2) 右の立法経過からも明らかなように、五現業公務員は全くぬえ的な立場

立たされており、ここから幾多の混乱が生じている。

 その顕著な例は公労法第一七条違反による同法第一八条解雇問題である

 公労法第一八条解雇は同法第一七条違反理由として労働契約を解除するいわ

ば通常の解雇であり懲戒解雇ではないといわれる。

 ところが国家公務員法第八二条による懲戒処分としての解雇もまたなし得るとし

て五現業庁は公労法第一七条違反国家公務員法における懲戒処分をもつて対処

ようとする。

 従つて、この点についてはあたかも公労法第一八条国家公務員法第八二条が選

択的に適用し得るような不合理な結果を生じている。このような混乱はいわゆるI

LOのドライヤー報告の表現を借りれば日本においては「政府としての政府」と

使用者としての政府」とを区別しないところから生ずるものであり国際的批判

受けざるを得ない。

(六) ひるがえつて公労法における五現業職員と使用者との関係規律する実定

法が特別権力関係的なものであるかどうかを検討してみるに、

(イ) 公労法第八条労働協約締結権の規定は、明らかに労使対等当事者自治の

原則に立つている。

(ロ) 不当労働行為救済等について、労働組合法上の労働委員会対応する公共

企業体労働委員会が設置され、人事院提訴することができない。

(ハ) 右公共企業体労働委員会がした処分について行政不服審査法による不服

申立が許されない。(公労法第二五条の七)

(ニ) とりわけ本件にとつて重要なことは五現業公務員に対する処分であつて労

組合法第七条各号に該当するものは、行政不服審査法による不服申立が許されな

いことである。(公労法第四〇条第四項)

 右条項の解釈はいろいろ考えられるけれども、少なくとも不当労働行為に該当す

処分に関する限り、当事者対等私的自治の原則に立つ公労法により処理すること

規定したものであることは疑問の余地がない。

(ホ) その他給与に関しても前記国の経営する企業に勤務する職員の給与等に関

する特例法により、一般職公務員に関する諸法規規定排除されている。

(ホ) 昭和四二年四月一日付をもつて、組合福島分会青年婦人事務局長であつ

福島営林署経営課勤務の農林技官hを福島営林署二本松担当事務所に配置換

白河営林署分会関係

(イ) 昭和三七年四月一日付をもつて、組合白河分会青年婦人部長であつた白河

営林署事業課販売係勤務の農林技官iを白河営林署牧本担当事務所に配置換

(ロ) 昭和三九年四月一日付をもつそ、組合白河分会青年婦人部長であつた白河

営林署経営経営係勤務の農林技官jを長野営林局上田営林署に配置換

(ハ) 昭和四〇年四月一日付をもつて組合白河分会青年婦人書記長であつた白

河営林署経営課造林係勤務農林技官kを沼田営林署追貝担当事務所に配置換

(2) 本件配置換の手続が異常である

 職員の配置換は毎年職員調書に転勤希望の有無を記載させるとともに、組合と債

務者間に具体的な配置換に際しては、●らためて本人の事情希望を確かめる取決

めがなされているのに本件配置換に際しては、債務者債権者らに事情聴くこと

も、意思確認することもせず全く一方的に配置換をした。

(3) 配置換が組合学習運動を壊滅する手段として使われていることを債務者

自ら認めているのであつて、このことは、昭和四〇年中に開催された第一一回定例

営林署長会議において、「組合学習運動地本指導下に最近活発になつてい

る。-中略-日常のP・Rと共に人事移動等により防止しているが撲滅できない状

態にある。よろしく局の指導を御願したい。」との討議議題が提出されていること

からみても明らかである

三、(保全必要

(一) 債務者は本件配置換に関する団体交渉において、債権者らが昭和四二年四

月一日までに赴任しなければ懲戒処分もありうる旨言明している。

(二) 債権者らが役員をしている組合青年婦人部の大会昭和四二年五月に開催

され、新役員が選任されることとなつているが、前記のとおり債務者組合青年

人部役員に対し集中的に配置換をしてその組織破壊企図している時点におい

て、右大会特に重要な意義を有するのである債権者らは右大会の準備、運営

不可欠の存在であるし、右大会において債権者ら以外の組合員が新役員に選任され

場合には、債権者らは事務引継の必要がある。

(三) 仮りに債権者らが本案判決があるまで暫定的に本件配置換命令に従うとし

ても、前記のとおり債権者らは本件配置換に際し、あらかじめ、事情を聴かれたわ

けでなく全く希望しない任地へ転勤することとなるから、赴任期間一〇日をもつて

しては家庭生活を整理する余裕がない。

 しかも、本件配置換命令発令後四月六日までの団体交渉において、債務者組合

に対し、債権者らの希望があれば組合青年婦人大会において新役員が改選される

まで、赴任を延期してもよいと言明していたにもかかわらず、その後の団体交渉に

おいて突然態度を飜し、四月一〇日までに赴任しなければ懲戒処分もありうる旨言

明するに至つた。

 そのため、債権者らの赴任準備期間は実質的に四月八日、九日の僅か二日間を残

すのみとなり、四月一〇日までの赴任は事実上不可能となつた。

(四) 債権者らは債務者から懲戒処分をうけることを防ぐため、止むなく単身身

廻品を持つてそれぞれ任地に赴いたけれどもこれはあくま懲戒処分を避けるため

暫定的もので、家庭生活の整理、組合活動の整理も全くせず、旅支度に類する

程度の準備で赴任しているので、この状態を長く続けることは不可能であり、現在

帰郷して懲戒処分をうけるか、家庭生活破壊し、組合活動自由放棄するか二

択一を迫られている。

 以上の次第で、債権者らは本案判決に至るまでの間懲戒処分を防止し、家庭生活

破壊組合活動自由剥奪等の状態を防ぐ緊急の必要がある。

第三、債務者の主張に対する反論

(一) 債務者は本件配置換は行政処分であるから、本件仮処分申請は不適法であ

ると主張するが、債権者らと債務者との勤務関係公法関係でなく、私法関係であ

つて本件は民事訴訟法上の仮処分対象となる法律関係である。すなわち、 債権

者ら林野庁職員については、公共企業体労働関係法(以下公労法という。)が適

用され(同法第二・三条)、国家公務員法規定の一部は適用されない。(公労法

第四〇条)

 公共企業体等の職員の労働組合は、団体交渉権労働協約締結権があり(公労法

八条労働協約は個々の労働契約の内容を変更する効力を有する(労働組合法

六条ものであるから、右職員と任用権者間の労働関係は、対等当事者間の合意

の支配する私的自治の分野であり、一般公務員のように、その身分が国法上の分限

によつて定められているものとは性質を異にするばかりでなく、公共企業体等の実

態をみても、その企業体は、私人が同種の経済活動を行つているのと本質的に同一

のものであり、債権者らが所属する労働組合林野庁には公労法第八条第四号に関

する協定は現に存しないけれども、これは債務者側において協約締結を不当に拒否

しているためであり、転勤については昭和三五年ころまでは、組合地方本部対応

営林局との間の形態において存し、昇職、転職については、「任官に関する覚

書」、「賃金及び雇用配転その他の労働条件に関する仲裁申請事案の処理に関する

メモ」、「事業縮少並びに事業所閉鎖に伴う職員の解雇及び配置換等の事前通知に

関する協約」等が存し、私企業となんら異なるところはない。

 したがつて、公共企業体等とその職員の関係は、権力服従という公法上の関係

はなく、私法によつて規律される分野にあるものというべきである

(二) そもそも公法分野と私法分野の区別については、学説多岐に分かれ、必ず

しも明確ではないが、少なくとも関係主体が国その他の公法人であるか否かがその

区別メルクマールとなるものではなくこれら公法人もまた私法分野における主体

として行為することがあり得るのである

 そこで人の使用されている関係が私法関係である公法関係であるかは、使用者

私人である国家ないし公共団体等の公法人であるかによつて決せられるべきも

のではなく、その関係慣習法上ないし実定法上いかに規律されているかによつて

決せられるべきものである

 もつとも歴史的には国家本来の統治権の作用、すなわち権力作用を営む場合

その任に当る個人の人権犠牲にしても権力作用の秩序を維持する必要があるとの

理由から上下服従の特別権力関係を内容とする慣習法実定法が生れて来たけれ

ども、国家本来の統治権の作用を離れ、事業活動を営む場合にまでなおその従業

員を法律上特別権力関係に立たせることは決してその本質的必然にもとづくもの

はない。(東京地方裁判所昭和二四年八月八日判決労働関係民事々件裁判例集七号

八六頁参照)

2015-05-25

http://shibacow.hatenablog.com/entry/2015/05/24/202444

http://anond.hatelabo.jp/20150523131716

大元増田とあわさってどこから突っ込んでいいのか分からないくらいひどいこと言ってるなと思います

まず大元増田を見てみたいです。

もうね、最強だよな。富も政治権力もある集団弱者自称して最底辺の人々への支援拒否する。

女性の富や政治権力の増大」は日本全体の拡大というより、男性から女性への移転という形で

なりたっている。これはつまり旧来の強者であり、弱者への責任を負わされていた層が縮小している

ということを意味している。この現状では、弱者の側からフェミ叩きが出てくるのは必然だろう。

富と政治権力を握中に収めた強者女性フェミという構図からして謎です。

フェミが「男性強者女性弱者」と規定するから、いつまでたっても、女性は救われる側で、

それゆえに責任から逃れ続けることが可能になる。真の弱者からすれば、まさにこれは脅威だ。

すごくせまくフェミニズム限定しても、そもそも「男性による女性の支配構造」を問題として告発してきたという大前提がまずあって。

このフェミニズムの最大の発見/功績を否定するというならまずそこからしっかり立論して頂きたいのだけれど。修辞的な話ではなく。

きわめて極一部の女性を例に挙げて、「オンナはもはや富と権力を手に入れた、だから世の中は男女平等だ」といかい認識でいるならそれは間違ってます

女性は富を手にしていません。

男女間賃金格差というのは常に存在し続けてきたけど無視されてきました。日本場合それはとくに女性非正規雇用という形で現れてきています

いまだなお非正規雇用問題の中心は女性であり、労働市場から排除され続けています。M字型カーブ必然とか、パート問題矮小化しないでくださいね

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000002k8ag-att/2r9852000002k8f7.pdf

http://www.stat.go.jp/data/roudou/pdf/point16.pdf

女性権力を手にしていません。

権力」という多義的言葉をこれだという形に当てはめるのはちょっと抵抗があります。富も権力の源泉だったりしますしね、でもとりあえず政治権力とみなしそのもっとも中心的なアクター議員に限ってみても、

確認するまでも泣く議員の男女人数比は女性のほうが少ないですね。

http://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/s60_shiryou/giinsuu_danjo.htm

いやそれでも一部の「強者女性」がいて、そいつらには「弱者男性」を救う(少なくとも道義的な)義務があるとか言うんでしょう。

強者女性」「弱者男性」とかっこをつけてみました。どちらも内実が曖昧で誰のことを指してるのか分かりませんね。

フェミニスト強者女性なんでしょうか。確かに戦う意志言葉を持っているという点では「強い」ですね。

でも彼女ら、あえて彼女「ら」と集団として想定するならばですが、一体そのうちどれだけが富を手にしているんですか。

白人中産階級女性フェミニストへの有色人種フェミニスト労働者階級フェミニストから批判というのはフェミニズム内部での「健全」な批判であって

フェミニスト」がふんぞり返っているという像の証左ではないですよ。

あるいはそのうちどれだけが権力」を手にしているというのですか。先ほど議席数を例に出してみました。

最新の数字だと女性議員数は五分の一以下です。これは権力を手にしてる状態なんですか。しかもこの女性議員なかにフェミニストがどれだけいるんですか。

男性による女性の支配構造」の話をしました。強者フェミニストであってもこの構造被害からは逃れられません。

さて、ブログの方に移ってみましょう

議論を先取りしてしまうと、フェミニズムには、「自分強者になった後」の理論が弱い。そして弱者男性フェミニズムに向けて、何らかのケア要求するのは、将に「それがかって彼女たちがやったから」だ。

強者」になるってどういう状態ですか。「何らかのケア要求するのは、将に『それがかって彼女たちがやったから』だ」ってどういうことですか。

まり女性地位が向上し、逆に非正規雇用や長期の不況のより正社員になれず身分不安定な男性が多くなった。

この変化がフェミニズムででは見過ごされ、男性女性一枚岩であるというところで認識が止まっている。

先ほども書いたとおり、非正規雇用とは数的にも歴史的にも女性問題でした。これを男性非正規雇用が、たかだかこの15年で増えたということを殊更に問題視するかのような言説が

女性の置かれてきた位置、状況への配慮のなさ傲慢さが反発を生んでるんじゃないんですか?

「男」が「男」というだけで得られていた特権的地位から転げ落ち、「弱者」になって、それを「女」に向かって救えと要求する構図がまさしく非難/批判対象なのですよ。

多くの場合において女性経済的弱者であり、(政治権力弱者であり、ジェンダー関係における弱者なのにもかかわらず。

その根本認識を欠いて「お前らは最早強者だ」というのはすごく控えめに言って、間違ってます

ここまで書いて力尽きたので本丸の「男性による女性の(象徴的)支配構造」やジェンダー関係の非対称さ、その権力関係についてはそのうち書きたいと思います

id:mizu2014 : 第一波フェミニズムからカウントすれば100年近い歴史と蓄積のある運動ですが、これって長続きしてる部類には入らないんですか?

2015-01-15

Midas、ダサピンクを語る

ダサピンク現象」は、男女の問題ではなく文化的差異問題である - ココロ社

http://kokorosha.hatenablog.com/entry/2015/01/13/214552

について書かれたid:Midas氏の一連のブコメ面白かったのでまとめておく。


ダサピンク問題について増田が思ったことは、

例えばMidas氏のコメントにはこれまで色んな人(学者とか暇な頭良さげな人とか)が

すでに議論したことに触れたことがあるのだなという「背景」を感じる。

それで、なるほどなあ、と思う(賛成の部分も首をかしげる部分もあります)。

男女問題ジェンダー問題に限らず、みんなが疑問に思うことは、みんなこれまで結構考えているのだ。

自分のアタマで考えよーもいいけど、まずはそういうものに触れてみてはどうかな、ということだった。

ダサピンク問題に関しては、あまりにも「何周目だよこれ」という記事コメントが多かったので。

引用元

http://b.hatena.ne.jp/entry/239048296/comment/Midas

http://b.hatena.ne.jp/entry/239140285/comment/Midas

http://b.hatena.ne.jp/entry/239219334/comment/Midas

http://b.hatena.ne.jp/entry/239222743/comment/Midas

http://b.hatena.ne.jp/entry/239223009/comment/Midas

http://b.hatena.ne.jp/entry/239223181/comment/Midas

http://b.hatena.ne.jp/entry/239223541/comment/Midas

http://b.hatena.ne.jp/entry/239223932/comment/Midas

http://b.hatena.ne.jp/entry/239226929/comment/Midas

http://b.hatena.ne.jp/entry/239227815/comment/Midas


増田が一部改行を加えております

 見にくいという方はご意見下さい。

2014-11-22

サイバーメガネの今回の日記が本気で気持ち悪い。

男女の非対称な権力関係がどーのとかのツイートを「私の思いを代弁」とか都合のいい事言っておきながら

オフパコ出来なかった癖に「認知」とか男女の非対称な性的嫌がらせだろ。

離婚から離婚までの日記おかしかったけど、奥さんの病気も事も同じノリで書いたんだって確信したわ。

もうヲチする価値もない人間のクズなんだから誰も相手にしなきゃいいのに。

めめさんも引退するんだし、薬何十錠飲んだとか言うかまってちゃん下衆メンヘラネット引退しろ

2014-09-20

[]キリスト紀元

参考人(鷹司信輔君) 私は神社本庁の鷹司として参りましたので、神社神道のものの考えといたしましてこの点を申上げたいと思います

 この問題につきましては、是非日本の伝統を保有して行きたいと考えております。併し私共は決してキリスト紀元排斥するものではございません。キリスト紀元の便利なところもございますので、現在のように元号式の年代表示法と、キリスト紀元法とを適宜に併用して行くのがよいと考えております日本元号は千三百何年の長い伝伝統を持つておりますのでありまして、それは国民象徴と仰ぐ陛下の御名によりまして常に公布せられました。これは決して天皇主権などというような権力関係のものとは思われません。朝廷から兵馬の権も政治権力も全く消え失せた時代にありましても、日本人元号だけは朝廷公布せられましたところに従つております。官公文書はもとより私人の往復文書、日記等何にでも元号を用いておりました。神社人も仏教徒も又キリスト教徒もこれを用いて怪しまなかつたのでございます国民のあらゆる党派、教派の人々が如何なる対立関係に立つた場合でも、多くは元号だけは同一のものを用いておりました。このあたりに国民統合象徴というような意義も感ぜられるのでございます英国におきましては、公文書エドワード七世第何年とかジヨージ六世三年とかいうように、君主の在位年限を以て年代を表示する方法が用いられておるようでございます法学書や歴史文献におきましても、そのような年代表示法がキリスト紀元と併用されて用いられておる例が決して少くありません。その一般的な普及程度においては、大小の差こそあれ、これは日本の現行の一世一元の制本質的には同様のものであろうと思われるのであります英国では外交的文書や條約文書等は勿論キリスト紀元一本で君主年号を用いないのでありますが、日本におきましても同様でよいと思います外交文書には現在でも公式キリスト紀元が用いられておりますキリスト紀元採用せねばならんからといつて必ずしも日本式元号を廃止せねばならんとは考えられないのでございます

 我々神道人といたしましては、キリスト紀元による年代表示の方法外交文書で用いられようと、学校教科書や年表で用いられようと決してこれに反対するものではありません。我々の間におきましても年表的な場所では大いに利用しておるのでございますが、あらゆる場合キリスト紀元一本に統一されて強制されるということは到底承服しがたいのでございますキリスト紀元一本になるという法案は、必ずしも政教分離憲法に反するものではないという理論は、理論としては成立ち得ると思います政教分離米国におきましてもキリスト紀元を用いております。又キリスト教に対してはむしろ反抗的でさえあつたナチスドイツでもキリスト紀元を用いておりましたし、又反宗教無神論者指導下にあるソ連邦においてさえもキリスト紀元を用いられておるのであります元号とか紀元というものは、少くとも近代国家においては政治的主権というような問題には直接的な関係を持つものではないと申せます。併しながら我が日本国民感情を考えますと、決してドイツソ連と同様には行かないと思うのでありますドイツソ連では、過去におきまして長いキリスト教文化伝統がありましたので、国民キリスト紀元を用いても、それがキリスト教という一宗教特殊関係を持つておるということを全く感じない程までになつておるのでございます。非キリスト教的な宗教教派が別段に存在しないからでありましよう。ところが我が日本におきましては、国民圧倒的多数神道仏教に属しておりますキリスト教徒全日本人口のうちの僅々百分の一に過ぎんのでございます。ここで今後は一切キリスト紀元を用いる。少くとも公式文書ではキリスト紀元以外のものを用いてはならんということになると、神道人や仏教徒は何んだか、国家特にキリスト教を支持しておるように感ずるでありましよう。これは法理論的に申すのではございません。感情問題と申すべきでございましようが、政教分離憲法の円滑なる連用という点から考えますと、このような感情問題も極めて愼重を要することと存じます

 今日では国家公式文書に用いられるのと同様の元号が、神道人、仏教徒キリスト教徒のいずれによりましても用いられておりますが、国家キリスト紀元一本で行くことになりますと、神道仏教では自然国家と別の年代表示法を持つことになりましよう。神社の祝祠などにキリスト紀元を用いたり、仏教寺院の墓碑銘にキリスト紀元を用いることは、我々宗教人として想像し得ないことでございます。現にこの問題新聞紙上に報道せられますと、全国の神社人や氏子、崇敬者から随分と熱心な反対意見を申し送つて参つております過去東京新聞社の世論調査でも、現在のままの元号を存置するがいいという意見が、キリスト紀元一本の意見よりも二倍以上も多いということを報道しております。これはキリスト教文化伝統が浅く、神道仏教徒の多い日本世論としては当然のことであろうと存じます元号キリスト紀元の便利、不便利の問題や法理上の問題議論は多いここと存じますが、私は全国の神社神道人を代表する宗教人立場といたしまして、神道人も仏教徒キリスト教徒も、如何なる敵宗派に属する人も極めて自然に受入れることのできる元号を存続させて頂きたいと切に希望するものでございます日本人のあらゆる政派、教宗派の人々がひとしく国民統合象徴として仰いで来た皇室と縁りの深い元号が将来も尚用いられて行くことを我々は希望するものであります。右のような考えを持つております

第007回国会 文部委員会 第8号

昭和二十五年三月二日(木曜日

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/0804/00703020804008c.html

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